薔薇と監視者(JD)
まだ日が昇って僅かな時間しか立っていない早朝。
私は書斎で新たな譜業について思案していた。
サフィールはまだ眠っている。
今日も私が屋敷を出る頃まで起きないだろう。
それでも何とも思わない。それがサフィールなのだから。
だが、調べ物を続けていると不意にノックの音が聞こえた。
「ジェイド……あの……」
「…………」
相手の反応を見るために私は返事をせずに黙っていた。
珍しいことではあるが、どうせ相手はサフィールだ。
結局、昨日はサフィールを抱かなかった。
サフィールを屋敷に連れて帰り、紅茶を入れてやり、慰める。それだけだった。
優しい言葉をかけてやった訳でもない。ただ「自分に出来ること、私の役に立てることを冷静に考えるように」と言っただけだ。
サフィールは何度か泣いたが、最終的には大人しく眠った。
こうやって私を訪ねたということは――どんな形であれ、自分なりの答えが出たのだろう。
しばらくはノックの音だけが続いたが、やがて扉が開く音が聞こえてきた。
「あの……ジェイド」
サフィールは部屋に入らずそのままの位置で名前を呼んだ。
部屋に入る許可が下りるのを待っているのだろう。
意地悪をしたくなった私は動かずに寝たふりをした。
「……ジェイド?」
動かない私を不思議に思ったのか、サフィールは私の傍に駆け寄ってきた。
だが、呼吸していることに安堵したらしい。椅子の背もたれに手をつく気配がした。
「ジェイド……ごめんなさい……」
寝たふりだと気づいているのかどうかは分からない。
しかし、サフィールは私を後ろから抱き締めた。
「ジェイドが私を置いてくれている、なんて知りませんでした。嫌々監視しているのだとばかり……。ただ、私はそれでも良いと思っていました」
抱きしめる力が強くなる。
サフィールの体温を感じながら、私は熟睡しているふりをしていた。
「別にどんな形でも良かったんです。ジェイドの役に立てるのなら。ジェイドの傍にいられるのなら」
耳元で囁かれる重たい想い。
だが、不思議と苦痛ではなかった。鬱陶しいとも思わなかった。
「ジェイド、拾ってくれて本当にありがとうございます。私、頑張りますから。必ず何かジェイドの役に立ちますから……」
――私を見捨てないでください。
どこか遠くからそんな声が聞こえた気がした。
「……まさか、貴方に抱きしめられる日が来るとは」
「え?」
上を向き、腕を引き寄せ、素直な言葉を紡ぐ唇に口づける。
逆さに映るサフィールは――少しだけ、泣いていた。
「役に立ちたいのなら、今夜は私が帰るのを待っていなさい」
唇を離し、本格的に姿勢を変えてサフィールと向き合う。
急いで離れようとするその手を掴んだ。
「ジェイド、起きていたんですか?! ど、どこから……!」
サフィールは途端に赤くなりながら何か口ごもった。
どこから聞いていたんですか。そう言いたいのだろう。
「奉仕だけでは不十分ですから、頑張って役に立ってくださいね」
「で、でも、それって……!」
まだ上手く話せない様子のサフィールがおかしな動きで身を捩った。
話の内容を想像してしまったのか沸騰しかけている。
いい歳をして子供のような動作をするなんて一体何を考えているのだろう。
そんな姿を鬱陶しいと思うことはある。だが、見ていて飽きないのも事実だ。
こんな馬鹿な男を手放したくなくなったのも――残念ながら、事実だった。
私は開いたままの本を閉じ、サフィールの傍を通りすぎた。
「――私の役に立てるのでしょう? もちろん、貴方が嫌でなければで結構です」
嫌でなければ、という部分を強調しながら言葉を紡ぐ。
扉の前で振り向いた私はサフィールに微笑みかけた。
――本当は「何もしなくても良い」という言葉を考えていた。
唐突に謎の行動を取られても困る。泣きやませるのも面倒だし、無理やり抱いて何かあったら私が怒られるだろう。
だから、サフィールが「役に立てそうにない」と謝ったのなら、そう答えるつもりだった。
だが、サフィールが諦めないというのなら、もう少しだけ待ってやっても良い。
この男ならきっと立ち直ることが出来る。
言葉にはしてやらないが、そんな気がしていた。
「……はい!」
嬉し涙を零したサフィールが追いかけてくる。
直前で扉を閉めると予想通りぶつかったらしく、文句を言う声が聞こえてきた。
「な、何するんですか! 私の美しい額が腫れたら……!」
板を隔てていてもサフィールの甲高い声は響いてくる。
扉の向こうの男は自分の容姿のことを気にしていた。昨日のことに関しては立ち直ったらしい。
あまりの切り替えの早さに、私はただ呆れるしかなかった。
「ジェイド?! ……ジェイド?」
「何です。うるさいですよ」
少し大人しくなったサフィールに仕方なく返事を返す。
扉を開けてこちらに来れば良いはずなのに、何故か入って来ない。
私は身だしなみを整えながらサフィールの言葉を待った。
「……薔薇、飾っても良いですか?」
向こうから聞こえてくる不安そうな声。
頑張ると決めたくせに変なところは自信がないらしい。
まずは迷惑でないかどうか訊いてから、というところだろう。
「勝手にしてください。どうせ今も育てているのでしょう?」
誰のために、とは言わずに、私はどうでも良さそうな声で扉に話しかけた。
尋ねると同時に勢いよく扉が開く。
そこには額を赤くしながらも満面の笑みを浮かべたサフィールがいた。
「ありがとうございます! 今、素晴らしいものを摘んできますから!」
「あぁ、待ちなさい」
意気込むサフィールを呼び止め、視線を合わせさせる。
紫色の瞳は僅かに恥じらいながらもまっすぐ私を見つめていた。
そう、サフィールはこうでなければ。
満足した私はサフィールを引き寄せた。
「薔薇に虫がつかないようにしておいた方が良いですね」
「いっ!」
首筋に噛みついて痕を残し、唇にもキスを落とした。
ボタンを留めていなければ見える位置に痕が残る。
自分が何をされたか理解したサフィールは私から飛び退いて距離を取った。
「ななっ、ジェイド!?」
「大切な薔薇なら気を配りなさい。喰われてしまいますから」
サフィールは首を傾げたが、言葉の真意には気づけなかったらしい。
慌てながらボタンを留めて部屋を飛び出した。
「そう、気を配るべきなのですよ」
遠ざかっていくサフィールの足音を聞きながら目を細める。
私はどこか寂しい花瓶を寝室に戻した。
たとえ鬱陶しいと思っているものでも、喰われるところは黙って見ていられない。
少なくとも今の私はそうだった。
そして、それは薔薇でも人でも同じことが言える。
本当に喰わせたくないと思うのなら原因を取り除かなければいけない。
「薔薇が喰われないよう、私が監視してあげますよ」
何も飾られていない花瓶を眺め、小さく笑う。
私は何物にも穢されることなく咲いた薔薇を想い浮かべながら部屋を出た。
今日はどんな薔薇を楽しむことが出来るのだろう。
無垢な薔薇はどうやって役に立つつもりなのだろう。
再びこの部屋に帰ってきた時のことを想像し、私は一足先に屋敷を離れた。
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