特別問診(JD)
終業の知らせが鳴り響く夕暮れ。
私は作業室で図面と向き合っていた。
可動部にどのタイプの部品を使うか考えれば今日の仕事は終わりだ。
世間では「あえて中途半端なところで終わらせる」という考え方もあるようだが、私の性分には合わない。
どうせならキリの良いところまで進めて帰りたかった。
部品のサンプルと図面を交互に見比べていると控えめなノックの音が聞こえてきた。
誰が来たのか知らないが、もう時間も遅いし、どうせ大した用件などないだろう。
私は適当に「はい」と相槌を打った。
「失礼」
ドアの開く音と共に聞こえる、落ち着き払った声。
穏やかな、けれど涼しい風が吹き込むような、凛とした空気。
「……ジェイド?」
振り向いた先にはジェイド・カーティスが立っていた。彼の手には数枚の書類と筆記用具が握られている。
ジェイドは愛想笑い一つせず書類に目を落とした。
「ピオニー陛下の意向で研究員の健康状態を調べることになりました。今から読み上げる項目に『はい』か『いいえ』で答えてください」
「健康状態ねぇ。分かりました」
ピオニーが一人でこんなまともな案を出すはずがない。恐らく誰かの助言があってのことだろう。
出来の悪い上司を持つと部下は大変だ。私は腕組みして質問を待った。
「では。――貧血気味だ」
「いいえ」
「食欲がない」
「いいえ」
「腰痛持ちだ」
「はい」
「睡眠不足である」
「いいえ」
「首や肩が凝っている」
「はい」
「同じ姿勢で長時間作業をしていると頭痛がする」
「はい」
ジェイドは丸を付けながらいくつか質問していく。
これで何が分かるのか私には理解できないが、きっと形式的なものなのだろう。問題があれば精密検査に移るに違いない。
「ふむ」
書類に視線を落としたままのジェイドが呟く。
その表情は真剣そのもので。――ジェイドにそんな顔をされると、見惚れるべきか緊張感を持つべきか、迷ってしまう。
「腰痛、肩周辺の凝り、頭痛。いくつか気になる点がありますね。ですが原因も分かりましたよ」
「もう分かったのですか? 流石ジェイド! 軍医の知識は今も活用されているのですね!」
安堵した私は作業台にもたれかかった。
これだけの問診で原因を探り当てるのだからジェイドは本当に優れた軍医だ。――正確に言えば監察医だが、医学の勉強をした事実は変わらないし、まぁいいだろう。
「貴方を苦しめているその原因。それは……」
ジェイドは勿体ぶって間を取り、私を見据えた。
「猫背です」
「……は?」
猫背というと、姿勢の?
予想外の答えに思わず呆然とした。猫背は姿勢の一つで病気でも何でもないのに、それが原因になるのだろうか。
「聞こえませんでしたか。猫背です」
「き、聞こえていますよ。……確かに、私は少々猫背気味ですが……」
「……貴方、一度自分の姿勢を見た方が良いですよ。歩いている姿をね」
ジェイドが呆れたようにため息を吐く。
――私はそんなに猫背だろうか。後ろで手を組んで歩くスタイルだから余計猫背に見えるのかもしれない。
「悪い姿勢というものは自分では気付きにくいものです。これを機に姿勢を改善してください」
「はぁ……」
改善といっても何をすれば良いのだろうか。士官学校を卒業してからずっと、机に向かって作業していたのだ。悪い姿勢が急に正されるとは思えない。
「たかが姿勢と思っていますか?」
ジェイドは近くの作業台に書類を置き、腕を組んだ。その姿勢は正面から見ても美しい。
「猫背は先程の項目のような諸症状を引き起こします。
作業の度に肩が凝っていたのでは効率も下がるでしょう。――今は?」
「まぁ……仕事終わりですし、凝っていますよ」
私はどこか後ろめたいものを感じながら肩を回した。
筋肉から首にかけての筋肉が強張っているが、毎日のことだ。マッサージすれば多少良くなるので気にする程でもない。
「どれ」
「……えっ?」
ジェイドが私の方に歩み寄る。
私は勢いよく後退りしたが、机にぶつかって逃げられなかった。
これまでの経験上、ジェイドに近寄られるとろくなことがない。今日も同じパターンだろうか。
ジェイドは警戒する私を捕え、向きを変えさせると――何故か、私の肩を揉み始めた。
「ジェ……ジェイド……?」
「ふむ。相当凝っていますね」
向けた視線の先にジェイドの手が映る。
その手が私の肩を揉んでいるという事実を受け入れるまで少し時間がかかった。
ジェイドは何を考えているのだろう。分からない。
けれど、大人しくマッサージを受けているうちに、そんな疑問も消し飛んでしまった。
「私、ジェイドに肩を揉んでもらえるのなら、猫背のままでも……ぎゃっ!」
漏れた本音を払うかのように、思い切り背中を叩かれた。
「何馬鹿なことを言っているんです。改善する気がないのならピオニーに肩を揉ませますよ」
国王が罪人の肩を揉むなど本来ならばあり得ないが、あの男なら喜んでやりそうだ。
それだけは絶対に避けたい。あの男に肩を揉まれるくらいなら一生肩凝りでいる方がマシだ。
「さて、私は先に戻ります。貴方も遅くならないうちに戻るように」
「分かりました。……あ。他の研究員、今なら残っていると思いますよ。呼びましょうか?」
「いえ、結構です」
ジェイドは私に背を向け部屋を出ようとした。
「問診、急がないのですか?」
そんなジェイドに半歩近寄り、尋ねる。
就業時間内でないことを気にしているのだろうか。しかし今を逃せば二度手間になってしまう。
「問診? 誰がそんなことを言いました?」
「……はっ?」
肩を竦めたジェイドは持っていた書類をこちらに向けた。
無造作な『丸』が上質な紙の上を滑っている。――それ以外は何も書いていなかった。
「私は貴方の姿勢があまりにも見苦しかったので忠告したまでですよ。では」
ジェイドは愛想笑いを浮かべ、部屋を後にした。
ぱたんという小さな音が静けさを帯びた研究室に響く。
「……やっぱり……」
――私、猫背で良かったです。
そんな言葉が唇から零れ落ちそうになった。
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