曦澄SSまとめ
笑顔
柔らかい表情、常日頃から絶やさぬ微笑み。穏やかで優しそうだと周りから評される、自身のそれ。
「沢蕪君、あなたはいつも微笑んでいますね」
じっと此方を見つめる薄紫色。
「それは、本当に笑っているのですか?」
唐突に投げ掛けられた言葉に対し、相応しい返答が思い浮かばなかった。雲夢江氏の公子、名は何と言っただろうか。
どうしてそんな事を聞くんだい。それはどういう意味かな、私の顔がおかしいのかな。いくらでも言葉はあるはずだ、それなのに。思い浮かぶどれもが、間違っているように思えた。理由は分からない。だが、考えても答えは出ない。考えれば考える程、深みに嵌っていく。自己でも気付いていない一つの深淵に触れるようであり、酷く恐怖すら覚える。
一体この少年は。何を思いその問いを、此方へと寄越したのだろうか。射抜くような薄紫、それに捉えられたまま何も言葉を発する事が出来ない。
永遠とも思えた一瞬の静寂が解かれたのは、目の前の薄紫色が不意に吹き出したからであった。年相応に思える表情、しかしすぐにはっとしたように自分自身の口元を抑え、此方へ謝罪を述べる。
なんて失礼な事を、お許し下さい。沢蕪君らしからぬ表情でしたので、先程の言葉も他意はありません。申し訳御座いません。
慌てるその姿へ、大丈夫だよと、普段通り、いつも通りに優しく。柔らかく、穏やかだよ評される表情を作りながら、返す。
仄かに姿を見せた何か、について、考えることもなく。
「晩吟」
愛しい名前を呼ぶ、柔らかい頬に優しく口付けを落としながら。くすぐったそうに口付けを受けた恋人は、綺麗な薄紫でじっと此方を見つめ。そして、緩く笑っている。
「どうしたの?」
「いや、あなたがこんな緩みきった顔で笑うなんて」
白い手で、此方の頬を撫でながら。
「私は、どんな顔をしているかな」
「……さあな」
「教えてくれないの?」
「俺だけ知っていればいい」
そう言って幸せそうに微笑む恋人、同様にこの表情は他のものが知らない表情であろう。ふと、かつての記憶が蘇る。
――本当に笑っているのですか。
あの唐突な問い掛けに、言葉が出てこなかったかつての自分自身。懐かしさを覚え、腕の中の恋人をじっと見つめる。きっと、彼はそのようなやり取りなど、覚えていないだろう。
「藍渙?」
名前を呼ばれる。薄紫色の瞳で見つめ、何も言わなくなった此方を不思議そうな表情で。とても可愛らしく、愛おしく。自然と頬が緩んでしまう。
「……晩吟のお陰かな」
「何の話だ?」
「何でもないよ」
さらり、髪を透くように撫でる。
かつての自分自身へ、密やかに思いを馳せながら。