ペルソナ3
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「ようこそベルベットルームへ」
夜になって有里に教えられた路地へ向かい、そこで見つけた扉を開けると青い部屋に出迎えられる。
青一面の部屋。鼻の長い老人、放課後駅前で見た青い服の女性。
「とうとうご自分の足で参られましたな」
「うん」
「責めている訳ではございません。自己紹介がまだでした。私はイゴール。こちらはエリザベスと申します」
「俺も名乗ったほうがいいかぁ?」
「いえ、貴方様のお名前は既に存じております」
老人ことイゴールはそう言って微笑んだ。正直あくどい笑みに見えないことも無いのだけれど、彼が今そんな笑い方をする必要は無いのだから、あれは愛想笑い的なものだと思う。
「あ、コレ。物を食べられるか知らないけどお土産」
持って来ていた紙袋をイゴールへ差し出した。中には今日作ったゼリーが入っている。
「こちらは……」
「ゼリー。口に合うかどうかは分かんねぇけど」
「ゼリー。動植物より抽出した澄明な汁を凝固させたもの。熱を加えることで液体状になるという不可思議な性質を持っているとのことですが、試してみても宜しいでしょうか」
「……それは既に飲食物として味付け加工しているから、今度試す用のゼラチンを持ってくる」
「分かりました。ではこれは食用なのですね」
少し常識のずれた様子のエリザベスに、昼間の楽しげな様子は間違った情報を覚えているからかと理解する。少し色が付いているのに透明な様子が気に入ったのか、視線が手に持ったゼリーから離れない。
「それでご用件は」
「あ、いや、その、渡しに来た、だけっていうか、本当に扉があるのかとか入れるのかっていう確認……」
「左様ですか。構いませんとも。土産まで用意していただきありがたい限りでございます」
怒ってはいないらしかった。そんなくだらない理由で来たと言ったら鍵を没収されるかと少し考えていたのだが、悪く考えすぎていたようだ。
「でも聞きたいことはある。ここへの扉はタルタロスにもあったし、昼間エリザベスさんが外を歩いているのを見たから考えたんだが、アンタ等も当然シャドウは知ってんだろぉ?」
「ええ、存じております」
「シャドウは……『何』だぁ?」
イゴールがアマネを見る。
満月の後判明した、大型のシャドウが現れるのは満月の時、シャドウは人を落とそうとするという二つの情報。それはつまり満月と人を認識できるということでもある。認識できるほどの知能。それに基づく本能。
「……いずれ、理解なさることでしょうが、今聞かれてしまいますか?」
エリザベスが不穏な笑みを浮かべていた。金色の眼が妖しく煌めいているのは、暗闇の中の猫が獲物を狙っているかの様だ。
人ならざる人型の知恵や感情を持った存在。だがシャドウとは違う彼女も、今のアマネには分からない。
「……ごめん。無かったことにしてくれぇ」
「了解いたしました」
***
いくつかの文化部で部員募集がされた。無気力症で学校に来なくなったり都合で辞めたりした部員の代役を募集しているのだろう。移動教室の途中で廊下に張ってあった張り紙を目にした。
「部員募集だって。お前入部とかしないの?」
「しねぇ」
「入ればいいのに。どうよ美術部とか」
「……俺の唯一の苦手分野がカラオケと絵画だぁ」
「一つじゃないし」
余談だが、アマネの画力は弟と親友をもってして思わず目を覆ってしまうほど酷い。歌もだ。楽器演奏であれば、下手なアマチュアよりは上手いと太鼓判を押されたこともあるが、芸術方面に関する才能は今後も開花しないだろう。
ともかく文化部に入るというのはそういう理由でありえない。管楽部と写真部の二つは入れそうな気もするが、無謀な挑戦だ。
「中学のときは何かやってたのか?」
「何をするにも金が掛かるからなぁ」
両親の遺産と後見人である親戚一家の厚意で育ててもらっていた身で無駄遣いは出来ない。本当であれば高校入学後はバイトをしようと思っていたのだが、それもあの寮に入ったことで難しくなった。
それにアマネが部活に入ったりバイトをしたりで帰りが遅くなったら、誰が夕食を用意するというのだ。今でさえ週に数回はまだ出来合いや店屋物である。
アマネが来る前はどんな状況だったのか想像するだけで怖い。先輩達の健康が。絶対偏っている気がして本気で怖い。
というわけで不健康にさせない為にも、出来合いだけの日々はアマネがいる限り遠慮させてもらう。
最近は作られたばかりの料理の美味しさに気付いたらしい先輩達が、アマネが作る日を暗に楽しみにしているのが地味に嬉しかった。
しかし楽しみにされている分夕食を作る時間と余裕は必要で、バイトをする時間は無い。
遺産にも安易に手を出せないので結局、今の小遣い稼ぎは内緒でやっている株である。
寮に帰って夕食の仕度をしていると、先輩達が帰ってきた。
そういえば彼らの中には部活をやっている者がいる。真田と岳羽などはその部活で培ったスキルをタルタロスでの戦闘に活かしているくらいだ。
夕食時に部活について聞いてみれば、伊織と美鶴以外は入っているらしい。
「私は生憎生徒会の仕事が忙しいのでな」
「オレは、別にいっかなって。何? なんか入るの?」
「そういえば文化部が部員募集だっけ?」
「はい。写真部と管楽部と美術部ですけど、有里君が今日美術部に入りました」
山岸の言葉で視線が有里へ向けられる。鯖の味噌煮を器用に解していた有里が気付いて顔を上げた。
「今日美術部に入ったんですよね」
「うん。それが?」
「斑鳩君が部活どうしようかって悩んでるらしいの」
ちょっと待て、悩んではいない。
いつの間にかアマネが部活に入ろうか悩んでいるという話になっている。否定しようかと口を開きかけたところで、有里がアマネを見た。
「入るの? 美術部」
「無理です。美術部だけは絶対に無理です」
「どうしてだ?」
「……猫を描いて鰐だと思われる屈辱が分かりますか」
無言になる真田にお代わりのご飯を盛ってやる。
どうして猫が鰐に見えるんだと八つ当たりしたこともあるが、何度も続けば流石に自分がおかしいのだと気付いた。地図を描くのでさえ苦労しているのだ。美術部になんて入れば精神的に辛い。
「き、弓道部入る?」
「部員募集して無ぇでしょう」
岳羽の優しさが痛かった。
***
「斑鳩」
学校から帰ろうとしていると有里に呼び止められた。アマネはスーパーが安売りの日か佐藤に誘われた時以外すぐに寮へ帰ってしまうので、こうして放課後有里と遭遇することは珍しい。
というのも有里は部活や寄り道で寮に帰ってくるのはいつも最後である。何をそんなに寄り道しているのかといつも思うが、人付き合いがあるのだろう。
「今日は遊ばずに帰るんですか?」
「ベルベットルームに行くんだ。斑鳩は呼ばれてない?」
「呼ばれて? そんなことは無ぇですけど」
むしろ呼ばれているらしい有里のほうが驚きだ。イヤホンを外して首に掛けた有里が首を傾げる。
「一緒に行こうか」
「え、先輩だけが呼ばれたんじゃねぇんですか。だとしたら俺が行ったら迷惑でしょう」
「一緒に帰ろう?」
「ベルベットルームへ行くんじゃねぇんですか」
「……難しいね」
意思の疎通が、だろうか。
困りがちに眉を寄せる有里が何を言いたいのかは考えるまでも無く分かるのだけれど、それを簡単に言ってしまうと有里には意味が無いように思った。
なんというのだろうか、子供へ対する情操と会話能力の向上的な感覚。有里は少し無関心で感情の起伏が少ないだけだと思うのだが。
「何が言いてぇんです?」
「一緒に帰ってみたい?」
「……じゃあベルベットルームに寄って、それが終わったら一緒に帰りましょう」
「分かった」
そう言えば少しだけ微笑んだ有里と一緒に歩き出す。
モノレールに乗ってポロニアンモールのゲーセン前で一旦別れ、暫くして戻ってきた有里と寮への帰途へ付いた。
ベルベットルームでは、どうもタルタロスヘ先日の山岸達の様に、人が落ちたらしいという報告を受けたそうだ。次の満月までに助けなければ無気力症になってしまうらしい。それについては影時間にならないとタルタロスへ行けない為何も言えなかった。
「イゴールが、ゼリー美味しかったって」
「食えんのかぁ……。何ですか」
「オレ食べてない」
「寮の分は作りませんでしたからね」
「食べたい」
前から思っていたが、この人結構食には貪欲である。夕食時も人一倍食べるし、時々買い食いしてきた気配もあるあたり、実は結構な大食いなのだろう。
その割には痩せていると思うのだが、アマネも人のことは言えない。転生する度の毎度のことではあるのだが、女性陣に知られたらそれこそ恨まれる程度に体重が増えない身体なのだ。
「食べたいって、材料無いですよ」
「じゃあ買って帰ろう」
「んな簡単に……」
「たくさん作って。斑鳩の料理美味しい」
そう言って笑う有里は本当に、食に対してだけ貪欲だと思った。
***
アマネが朝食と自分の分の弁当を作っていると、珍しく山岸がやってきた。
「おはようございます」
「おはよう斑鳩君」
「朝食ならまだですよ」
そわそわとテーブルの上に置いていた弁当箱と朝食のオカズを見やる山岸にそう言うと、山岸は慌てた様子で顔を上げる。
「ち、違うのっ、そんなご飯の催促じゃ」
「冗談ですよ。でも味見はしてもらえますか?」
顔を赤くしながらも差し出した味見皿を受け取った山岸は、弁当に入れる予定だった卵焼きを口にしてはにかむ。どうやら口にあったのだろう。その間に今日の朝食で一緒に出す予定だったカフェオレを山岸の前に置いて、作りかけだった弁当のおかずのキンピラの確認をする。
「斑鳩君は、料理上手だね。私なんか下手で……」
「俺が作るからいいじゃねぇですか」
「寮のご飯だけでしょう?」
「頼まれれば弁当も作ります。量を作ったほうが経済的だし、誰かに食べてもらうほうが上達も早いですから」
「……そう、なの?」
カフェオレのカップを両手で包むように抱えながら山岸が首をかしげた。少なくともアマネはそう思うという主観的意見なのだが、生憎他を知らない。
返事の代わりに頷いて弁当箱にオカズを詰めて、余った分を空になっていた味見皿へ乗せてまた山岸へ差し出せば、山岸は笑いながら受け取った。
「なんだか太っちゃいそう」
「山岸先輩はもう少し食べたほうが健康になると思いますよ」
「痩せてるってこと?」
「はい」
「斑鳩君みたいな子に言われると嬉しいね」
「そうですか?」
「うん」
年下だからか。
時計を見るとまだ朝食を並べるには早い時間だった。ロードワークと称して走りこみに行っている真田もまだ帰ってきていない。
「弁当ですけど、なんなら今から作ってみますか?」
「え? だ、大丈夫?」
唐突な提案に驚く山岸に、棚から使われていない弁当箱を取り出して洗いながら答える。今までの寮生が使っていたのか何なのか、そう汚れていないしダサいデザインでもないので、山岸が持っていても大丈夫だろう。
「時間もありますし分からない所は教えますから、とりあえず三品ほど作ってみましょう。残りは俺が作ったヤツを詰めれば最初は十分ですから。どうですか?」
「失敗、しない?」
「誰かに食べてもらって感想を聞けばいいじゃないですか。酷いくらいに失敗したら俺が食べます。女性の手作りを捨てるなんて勿体ない」
「……じゃあ、やってみようかな」
恐る恐るといった風に立ち上がって近付いてくる山岸に身に着けていたエプロンを渡した。アマネの物で少しサイズが大きい気もするが、制服が汚れるよりはマシだろう。
「じゃあまず、卵焼きから作ってみましょうか」
***
幾月理事長が来た。何か報告があるらしいというので作戦室に集まると有里以外は既に集まっていて、アマネの直後に有里も来た。
「や、どうもどうも。調べ物に答えが出そうなんで、いち早く伝えようと思ってね。例の『満月に出るシャドウ』の件だよ。ちょっと面倒なんだが、良く聞いて欲しいんだ」
壁に寄り掛かって話し始めた幾月理事長の話を聞く。ソファは全て埋まっていたし、そもそもアマネは一年だ。先輩を差し置いて座れない。
「実は、シャドウはその性質によって『12のカテゴリ』に分けられる。この事はだいぶ前から分かっててね。生物学の『何科』や『何目』みたいなもんだ。で、これまで出現したシャドウをこれに分類してみると、実に興味深い!これまでのシャドウ四体は、現れた順に、カテゴリのⅠからⅣだと分かったんだよ! 見た目はたいそう特別だったが、連中にもこの分類は当てはまるらしい」
「それって、なんか凄いことなんスか?」
伊織が尋ねる。これまでのシャドウのうち、アマネが遭遇したのは二体だ。
先日の大型シャドウ。確かに仮面に数字が書き込まれていたような気もする。それで言うなら確かに分類とかもあるのだろう。
「そうか……つまり、『大きなシャドウは、全部で12体』いて、『残りが、あと8体』ってことですね?」
「さすが、山岸君! 飲み込みが早いんだから」
「へぇ、そうなんスか? 実際、シャドウって何がしたいんスかね」
「……いい質問だね。実は『目的』がよく分かっていないんだよ。連中は獲物を殺さずに『精神を食らう』。『捕食』には違いないが、生き物のようにただ繁殖するのが目的なら遠回りすぎる。シャドウは『総体』としては何を目指す存在なのか。その辺は研究中なんだ」
「……面白いですね。ただ、シャドウが何であっても、残りも全部倒すだけのことです」
「そうだな。連中の目的が何であれ、全て倒すしか、今は対処のしようが無い」
「あと、8体か、相当だな、それ……」
「データでは、来るたびに強くなってます。こちらも力をつけないと」
「なんとかするさ。時間は充分ある。」
話はそれだけらしく、結局先日のような大型シャドウがあと八体はいるということ、くらいしか必要そうな情報は無い。何を目的としいている存在なのか、そもそもアレは生き物なのか。
こめかみに手を当てたところで、当然頭痛も答えも浮かばない。
「……タルタロスか。何で、あんなものがあるんだろ……」
作戦室から出て行くとき、岳羽がそう呟く。聞こえたらしい美鶴が僅かに顔を逸らしていたことに気付いた。
***
復讐依頼サイトなるものがネットで流行っているらしい。佐藤が日誌を書きながらそんなことを言い出した。
「復讐したい相手がいるのかぁ?」
「なんでだよ」
「そういう話題を出すからにはそういうことだろぉ」
「あー、まぁ、いないとは言い切れないけどさ、オレみたいな奴の言う『復讐したい相手』って、どう考えたって一時的なムカつきでの相手だろ? それで依頼して死んだとして、多分オレは後悔すると思う。依頼した後に死んだら尚更。依頼とは関係無かったとしてもオレが望んだから死んだみたいでイヤだ」
依頼する側の心理とはそういうものなのかと少し感心する。
アマネは依頼『される』側だった人間だ。最初のうちは本当に金の為にだけに遂行していたから、依頼『する』側のことなんて考えていなかった。
その後も色々あって、そういえば『する側』について考えたことは無い。
まぁ、佐藤の意見も現代社会の若者の意見の一つであって総意ではないが。
「お前は?」
佐藤は何も考えずに聞いてきたのだろう。
「俺は……誰かに頼むぐらいなら自分で殺す」
「グロい。っていうかお前憎い奴いるの?」
「あんまりいねぇなぁ」
「そういう奴だよお前は」
日誌を閉じた佐藤が立ち上がる。日誌を職員室へ持っていったらそのまま学校を出てたこ焼きを食べに行く予定だ。
鞄を肩に掛けたところで教室の戸が開いてクラスメイトが入ってくる。
「ったく、マジ信じられねぇ」
「どうした?」
「おー佐藤、聞いてくれよ。英語の追加教材費集めただろ。アレ無くなったってよ」
「教材費……って金じゃん」
「そうだよ。伏見が集めたのを持ってったらしいけど先生知らないって言って色々言われるしよ。伏見は渡したって言うけど信じられないよな」
つまり彼は伏見という生徒が着服したんじゃないかと疑っているようだ。確かに教材費を集めた記憶もある。
「伏見って?」
「……お前クラスメイトの名前くらい覚えろよ。眼鏡のさ、大人しめの伏見サン」
呆れた様子の佐藤の説明を聞いてなんとなく思い出す。同じ教室で授業を受けているとしても用が無いので話したことも無い女子だったと思うが、そんな教材費を着服するような人だとは思えなかった。
そもそも最後に教材費を持っていたという理由だけでは、疑うにしても弱い。
「最後に持ってたってだけで疑ってんのかぁ?」
「だってさ、アイツ父親いないらしいじゃん? 貧乏なんだろ?」
当たり前だとでも言うかのようなクラスメイトの口調に、言葉を失った。
「……はぁ?」
「だからいきなり大金手にしてつい魔が差したとか」
コイツは本気でそんなことを言っているのかと、信じられない気持ちでクラスメイトを見る。隣で佐藤も変な顔をしていた。
「……あのさ」
「俺は両親がいなくてある意味その伏見さんより貧乏だぜぇ。お前のそれは偏見っていうんだぁ」
佐藤の言葉を遮るように言って、知らなかったらしいクラスメイトが驚くのを横目に教室を出る。嗚呼、一時のムカつきとはこういうことかと理解した。
***
「……ぁ」
ガチャン、と落としてしまった皿が割れた。乗っていた料理も駄目になってしまったことにため息を吐くと、音が聞こえたらしい伊織がキッチンへやってくる。
「どうした? って、大丈夫か?」
「すみません。夕飯のおかず減りました」
「そうじゃなくて! 怪我は?」
「してねぇです。片付けますから破片踏んだら危ねぇし、出ていてもらえますか?」
「あー、じゃあ箒とか持ってくるから、デカイ破片だけ集めとけよ。手切るなよ」
「はい」
キッチンを出て行く伊織を見送って割れた皿の傍にしゃがんだ。ぐしゃぐしゃになってしまった料理に苛々する。
放課後の出来事があってから、予定通り佐藤とたこ焼きを食べに行ったが、怒りは治まっていない。むしろ佐藤と別れてから色々考えてしまったせいで、苛々がミスにまで繋がっている。良くないとは分かっているが、どうしようもない。
アマネは当事者ではないけれど、立場が違えばあのクラスメイトは深く考えずにアマネを疑ったりしたのだろう。
現在疑われている伏見には母親がいるらしいが、アマネには両親が居ないから尚更。
無論こういう考え方は『昔』にだって経験している。あの頃は今以上に追い詰められた者が多かったし、金や親の価値を分かっていて軽々しく扱わなかったからおかしいとは思わなかったが。
だがこの『現代』では違うのだろうと思う。彼等は軽々しくそういうことを言うのだ。
親が居ないとなんだというのだ。好きで居ないわけではないしそんなことで人格まで疑われるのかと勝手に考えているだけなのだけれども、どうにも釈然としなかった。
破片を集めるのが面倒になって、誰も居ないからと左手を翳して集中する。
以前に生きた『世界』で唐突に腕輪が無くとも使えるようになった、死ぬ気の炎で分解してしまおうと思ったのだ。
左手首から燃え上がり手のひらに集まる赤い炎。それを破片へと向けた途端、炎はガス切れ寸前のように上手く燃えなくなる。
まるで『×××』が使えなくなったときの様だ、と思うと同時に手を近付け過ぎていたのか指先が切れた。
「っつ……」
反射で引っ込めて握った手を開くと炎は消えており、代わりに赤い血が指先から細く流れている。
その手のひらを見つめたまま、今度は黄色い炎を灯そうとするも、燃え上がる炎はマッチを燃やした時程度の小さなもので、それ以上はどう頑張ってみても大きくならない。
「あー……」
『×××』と同じか、なんて考えてぼんやりしていると、伊織が箒とちりとりを持って戻ってきた。
「うっわ、血が出てるじゃん斑鳩!」
「……痛い」
大げさに巻かれた包帯が白い。
当たり前だが傷が思っていたより大きかった故の結果である。血が流れる程の傷だったのだが、治療の最中何度も痛くないのかと聞いてくる伊織と岳羽の対応のほうが疲れた。
一品減ってしまった夕食は、真田が帰ってこなかった為その分を全員で分ける。片付けも岳羽と山岸が率先して手伝ってくれたので、そう苦労はしなかった。
ホットミルクに蜂蜜を溶かし入れる。カップに移してラウンジへ向かい、アマネは誰もいないソファへ腰を降ろした。
時間はもう遅いので、先輩達もいない。くたびれたソファへ全体重を預けるように寄り掛かる。治療したおかげで痛くは無いが少し熱をもった左手。
死ぬ気の炎まで使えなくなっているとは思わなかった。『彼ら』はアマネが忘れなければずっと傍にいてくれる筈で、炎はその証拠だと思っていたのだけれど、そうではないのかもしれない。
もしくはアマネが忘れてしまっているということだけれど、それだけはないと言える。
では何故だろうと思った時、浮かんだのは自身のペルソナだった。
あれを初めて召喚した時の喪失感。それがずっと気になっていた。もしかしたらアマネのそういう大切なものが、半分イブリスに持っていかれてしまったのだとしたら。
ペルソナはもう一人の自分だ。
何で構成されているのかなんて分からないけれど、きっと自分の一部で作られている。
自分の一部とは感情や心に秘めた想い、覚悟のような大切なものだ。けれどもアマネは感情を失ってなどいない。心に秘めた想いと覚悟に関してはなんとも言えないが、アマネの場合その二つが起因している死ぬ気の炎が出ないので、つまりそういうことではないのだろうか。
イブリスは黒い炎をまとった姿をしている。アマネから死ぬ気の炎をとったことによる結果のその姿であるなら、なんとなく納得が出来た。
それなら、さびしいけれどさみしくはない。
若干冷めてしまったホットミルクを飲む。早く影時間にならないかと時計を確認していると寮の玄関が開いた。
「おかえりなさい」
「何してるの」
出掛けていた有里が近付いてきたので、持っていたカップの中身を見せる。僅かに香る蜂蜜の匂い。苛々と不安を落ち着かせる為の飲み物だ。
「まだ残ってる?」
「温めなおしましょうか?」
「うん」
持っていたカップの中身を飲み干して立ち上がりキッチンへ向かうと、ラウンジで待っていると思った有里が何故か付いてくる。邪魔にはならないのでいいかと放置し、ガス台に置きっぱなしだった鍋を火に掛けて、鍋の中で揺れる白い水面を見つめた。
風呂に入らなければならないことを忘れていた。それから左手に巻かれた包帯を視界に入れながらホットミルクをかき混ぜる。
「手、大丈夫?」
「え? ああ、はい。大丈夫です」
なんともないことを示すために振ってみるといきなり掴まれた。一瞬驚いたが、有里は気にした様子もなく手に巻かれた包帯を観察している。
ホットミルクが温まったので火を消した。カップに移したいのだけれど流石に手を掴まれた状態ではやり辛い。
まじまじと包帯を、正確には手を観察しているように見える有里はコテンと首を傾げると手を離してアマネを見る。有里は成人するまでにまだ伸びるであろうアマネより既に小さいので、少し見上げられるかたちになっていた。
「どうかしましたか?」
「何かあったの?」
するどい。
「……何もないですよ」
「でも落ち込んでる」
「手を怪我して料理一品駄目になりましたからね」
「違う。……何かあったの?」
少し幼児のように短い単語だけで話をするのはこの人の癖なのだろうかと思う。コミュニケーション不足による会話能力の劣化。
寮でアマネが機嫌を悪くしていることに気付いたのはこの人だけで、観察力はあるらしい。
だが、だからといって今日の出来事を言うのは少し憚られた。
有里も、しっかりと聞いたことはないがアマネと同じく両親を失っているらしい。
「……先輩が気にすることじゃねぇです。少し嫌な考え方を聞いて勝手に機嫌悪くしてるだけですから」
「嫌な考え方」
「ああいう一方的な思い込みや誤解を周囲に強制する奴、嫌いなんです。何も知らねぇくせに」
「それじゃない理由は?」
「……何言ってるんですか」
「違う原因、あるでしょ」
思わず振り返って見た有里の目は夜のような青い色をしていた。
いつもながらの無表情だが、少し怒っているようにも見えなくはない。
「先輩のほうこそ、何かあったんですか?」
「何もないけど?」
「うそですね」
「うそだけど、それはどうでもいい」
どうでもよくは無いだろう。カップに注いだホットミルクを渡し、キッチンの椅子をずらして向かい合うように座った。
両手で包むようにカップを持ち、表面に息を吹きかける有里に熱くしすぎたかとアマネは自分の分に口を付ける。やはり熱いホットミルクに飲むのを諦めてカップをテーブルへ置いた。
「もうすぐ影時間ですね」
「うん」
「風呂入らねぇと……包帯取らねぇとなぁ」
「取る」
「何をですか」
「包帯取らせて。とりたい」
「構いませんけど、まとめながら取ってください。風呂出たらまた巻きますから」
「それもやりたい」
まだ取らなくても良いのにアマネの手を掴んで包帯を解き始めてしまった有里に、何がしたいのかよく分からない。
「何がしてぇですか?」
「落ち込んでるみたいだから、気になった」
「それだけ?」
「どうすればいいのかが分からない」
この人はそういう人だ。
こちらから案や説明をすれば理解はするのだからまだいい。分からなければ素直に口にしてしまうが、きっと悪意も無いのだ。
「……では、話を聞いてください」
「うん」
包帯を取りながら有里が頷く。
「今日、学校で集めた教材費が紛失したらしいんです。最後にそれを見たのはクラスの女子で、彼女は母子家庭なんだそうです」
「うん」
「証拠も根拠も無ぇのに、母子家庭というだけで貧乏だと決め付けられ泥棒扱いをするのはおかしいでしょう。その理由が通るなら両親がいねぇ俺はもっと貧乏になります。俺はそんな激しい思い込みだけの差別が許せねぇ」
それだけと言ってしまえばそれだけ。
本当に小さなことで苛々しているなぁと言葉にして思ったが、向かいの有里はどう思ったのか綺麗に解いて巻き終えた包帯をテーブルへ置いた。
「斑鳩は怒ってるの?」
「誰に向けてですか」
「そのクラスメイトに」
「いいえ。俺が怒るのはお門違いですから」
「そう」
冷めかけてしまったホットミルク。もう湯気も出ないし熱いとも思わないそれを両手で抱える。人肌に優しい温かさにまで冷めたそれを半分ほど一気に飲み干した。
「それで、落ち込んでいる理由は?」
「は……」
まっすぐにアマネを見る視線は揺らがない。
何のことだと一瞬考えて、そういえば最初からこの人は落ち込んでいる理由を聞いてきていたのだったと思い出した。
苛々していることだけに気付いていると思っていたからか、思い違いをしていたらしい。
落ち込んでいる理由と言ったら一つしかないのだけれど、それを言う気にはなれなかった。
何故ならそれは普通ではないことだ。誰が手から炎が出せなくなりましたと聞いて納得するか。
「……それだけですよ。大丈夫です」
有里が無表情のまま首を傾げる。言わないことを選んだのは言っても分かってもらえないだろうなという予測と、これはアマネがどうにかするべきことだと思ったからだ。アマネにしか分からないのだから、アマネが一人で解決すればいい。
飲み干して空になったホットミルクのカップを二つ、流しで洗ってキッチンを出る。有里はずっとアマネを見ていたが、言葉が見つからないのか何も言いはしなかった。感情表現が苦手らしい有里に対して少し申し訳なく思ったが、こればかりは言えない。
「……でも聞いていただいてありがとうございました。明日、その女子の話を聞いてみようと思います」
「うん」
「さ、風呂行かねぇと影時間が来ますよ」
***
明日聞いてみると言いはしたが、結局実際行動へ移したのは数日後。
それまでアマネは水面下で教材費が無くなったことが広まっていくのを、傍観姿勢で黙っていた。
もしかしたら誰かの勘違いとか、何処からか出てきたとか、そういう新しい情報を待っていたというのもある。だがいくら待ってもそんな話は出てこなかったし、最後に教材費を持っていたらしい伏見という女生徒が盗んだという噂だけが急速に広まっていった。
「お前が盗んだんじゃねぇの?」
「違、そんな……」
とうとう教室で最初から犯人だと決め付ける口調で詰め寄るクラスメイトに、ため息が出る。
一人の女生徒を責める視線と雰囲気に立ち上がると、隣の席に座っていた佐藤が面倒そうに手を振った。
裏ではこそこそと言いながらも傍観の姿勢だった教室の皆の視線を集めるように机の間を歩いて、眼鏡の彼女の前に立つ。
「な、なんだよ斑鳩」
「まぁ聞けぇ。教材費が無くなった。伏見さんは先生に渡したと言ってて先生は受け取ってねぇと言ってる。ということはどちらかが嘘を吐いてることになるのは分かるだろぉ?」
矛盾した発言はどちらかが嘘。それは大抵当たり前だ。
いきなりアマネが出てきたことで戸惑うクラスメイトは、それでも言い返してくる。
「だから伏見が嘘……」
「どうして?」
「どうしてって……」
「嘘を吐く必要がどこにある?」
「だから盗んだから……」
「まだ本当に盗んだと決まったわけじゃねぇのに嘘って決め付ける意味が分からねぇんだよ。探したか? 伏見サンは職員室で渡したって言ってんだから、それを見ていた誰かは確実にいる。違うのかぁ?」
無論生徒が職員室を粗探しすることは出来ない。伏見が真実盗んでいた場合も、既に証拠隠滅はしているだろうし探すというのは不可能に近いだろう。
だが目撃者となると話は別だ。
「伏見サンが教材費を持って職員室へ入っていない、という証拠を持ってこないと、少なくともお前が伏見サンをそうやって侮蔑する権利はねぇよ」
「んなのっ」
「とにかく出来る範囲で調べて探すことは出来る。伏見サンが嘘を吐いている、ということを否定出来ねぇと同時に先生が嘘を吐いていないとも否定出来ねぇ」
「先生が嘘吐いてる訳……」
「教師だって聖人君子じゃねぇだろぉ」
後ろを振り返って眼鏡の伏見を見る。彼女はアマネがいきなり振り返ったことで少し怯えたようだが、それでも視線はちゃんと向けられた。
「証拠も何も無ぇ状態で、偏見だけで人を疑うのは嫌いだぁ。だから俺はアンタも先生も疑う。伏見サン、職員室へ渡しに行ったとき、他に誰か居たりしなかったかぁ?」
「……い、いました」
「じゃあその先生に話を聞いてみることから始めるべきだなぁ」
話は終わりだと自分の席へ戻る。先ほどまで伏見に向けられていた偏見交じりの疑いの視線が、少しとはいえ違うものになっていることに気付きながら椅子へ腰を降ろせば、先程まで伏見を詰っていたクラスメイトが恨めしげにアマネを見ていた。
「職員室行くの?」
「放課後行く。とりあえず先生にも話を聞かなけりゃ伝聞でしか情報がねぇし、正しいことも分からねぇよ」
「オレも行っていい?」
「Si」
改めて放課後、職員室へ向かう途中で伏見と何故か有里を呼ぶ校内放送が聞こえた。場所が生徒会室なので関係ないのだろうが少し気になる。
「伏見さん生徒会役員だもんな」
「へぇ」
「そこは知っとけよ。桐条先輩と同じ寮だろ? 話とかしねぇの?」
「しねぇ」
意外と騒がしい職員室へ入り、目的の人物である英語教師を探す。先に見つけたらしい佐藤に肩を叩かれて振り向けば、違うクラスだろう女子生徒と何か話している英語教師の姿が見えた。腕にノートを抱えて教師に頭を下げた女子生徒が、アマネ達の横をすり抜け職員室を出て行く。
「先生」
「ん? ああ、斑鳩と佐藤か。どうした?」
座りなおした教師が椅子ごと振り返るのに愛想笑いを返した。
「先日の教材費紛失の件なんですが、噂で伏見さんが盗んだとばかり広まっていて真実が分からないもので、先生の話もお聞きしたく……」
「ああ、それか。それなんだが、実はな……」
言い辛そうに口を濁す教師の証言を待っている間、横で他の教師の机の上の私物らしい置物を弄り始めた佐藤の頭をしばく。
噂通りなら彼は正直に受け取っていないと言えば良い。それをしないということは、真実は噂通りではなく何かあるということだ。
「どうか正直に言っていただけませんか? 俺は伏見さんのような真面目な生徒が謂れの無い噂で誹謗中傷を受けて、場合によっては今後まともな高校生活を送れなくなるのが心配なだけなんです。彼女は女性ですしまだ一年生ですから、こんな一学期も終わらない時期に台無しになる必要もないでしょう?」
我ながら胡散臭い詭弁だと思う。だが一応成績優秀者というアマネの立場が、この偽善的な言動も正論にしてくれた。
「その、実はだな……」
言いよどんでいた教師が観念したかのように口を開きかけたところで、職員室の入り口の戸が勢い良く開いた。
「先生っ!」
入ってきたのは件の人物である伏見で、結わえていない髪を振り乱しつつ飛び込んできてはアマネの目の前にいた英語教師を見つけ、噛み付くように近付いてくる。
アマネと佐藤を押し退け、詰め寄る姿は必死だ。
「私、あの時の事は、ハッキリ覚えています! 先生、カミソリ負けしたとかでアゴの下にバンソウコウを貼ってました! 集金袋を先生に手渡ししたんですよ? それでも私に落ち度があるっておっしゃいます?」
再び開いた職員室の入り口から美鶴と有里が飛び込んできた。佐藤が美鶴を見て少し興奮していたが無視する。二人もアマネがいることに驚いたようだったが、それよりも伏見を落ち着かせるほうを優先させていた。
「伏見、落ち着け!」
「きちんと説明してください! でないと……」
「す、すまん! 全部……私のせいなんだ」
教師の言葉に興奮していた伏見が拍子抜けしたように落ち着きを取り戻した。
「あの日な……先生、遅くまで仕事してて終電逃しちまってな。手持ちが無かったから、その、タクシー代にって教材費をだな……」
「えっ? えー⁉」
「うっそマジ⁉」
驚く伏見と佐藤に、申し訳無さそうに教師は頭を掻く。
「後で返しとけば、って思って忘れちまって……若年性健忘症かな? ハハ」
誤魔化すように力なく笑うも、それは結局のところ守るべき生徒に罪を押し付け放置していたということだ。しかも使ったのは生徒から集めた教材費。ある意味立派な横領罪だ。
笑い事ではないと怒る伏見の意見も尤もである。
「皆には私から説明する。お金もちゃんと返しておくから。だから伏見、この通り!」
「そんなことだろうとは思っていたが……。貴様、それでも教師か!」
「金を返せば良いという問題ではありません。そもそも教材費を使い込んだ時点で横領ですね。ましてやすぐに言えば良いものの、生徒に冤罪を押し付け今まで放置していたということにもなる。すでに教師失格でしょう」
美鶴とアマネの言葉が堪えたのか、それとも美鶴に知られたというのが痛かったのか、そんなぁと小さく呟いて肩を落とす英語教師を睨みつけた。
警察に連絡をと動こうとする美鶴を伏見がもういいと宥め、この場に居たくないとばかりに有里と一緒に職員室を出て行く。その姿を見送ってアマネも佐藤と一緒に帰ろうとすると美鶴に呼び止められた。
「そういえば斑鳩、君はどうしてここに?」
「伏見サンとは同じクラスでして、彼女の無罪証明の証拠探しに」
「そうか。斑鳩も伏見と同じc組だったか」
「証拠も無いのに中傷が広がるのが嫌だっただけです」
「では、クラスのほうは君に頼んでもいいか?」
「分かりました」
軽く頭を下げて職員室を出る。荷物を置きっぱなしにしていた教室へ戻るため階段を昇っていると佐藤に声を掛けられた。
「どうすんの?」
「とりあえず教室に残ってる奴等にお前も説明してくれぇ。信じなくても多分桐条先輩があの教師失格にそれなりの処罰を言い渡せば事実だって認識するしかねぇし、職員室にいた他のクラスの奴とかが噂を流すだろぉ」
「噂には噂ってこと?」
「よく見てろよ。手のひら返しは早ぇぞぉ」
伏見に面と向かって詰っていたクラスメイトは、謝るかについて佐藤と賭けをする。アマネは謝らないほうに、佐藤は謝るほうに。そのくらいのおふざけは許してもらおう。名誉毀損で変な噂を逆に流すことも出来ることを考えれば、軽すぎる罰だ。
伏見の噂は次の日にもなると早々に反転し、彼女が冤罪だったこととあの英語教師が最低の人物だったという悪口に取って代わっていた。
教室の隅でその噂話を耳にする度に少しだけ佐藤と笑って、何も無かった振りをする。もう済んだことだと興味が無くなっていた。
詰っていたクラスメイトは、結局謝りはしなかったが周囲の女子から冤罪で貶した人物として居心地が悪いらしい。近くで言っているのを聞いたときだけ一応フォローするようにしているが、そのうちこの噂が静まれば忘れるだろう。
学校には既に新しい噂が広まっているのだから。
***
「怪事件っていっても、彼女いない同盟のオレらには関係ないし?」
「いつそんな同盟を作ったぁ?」
「嫌だなぁ斑鳩クン、彼女どころか女の気配すらしないオレ達は自動入会に決まってんだろ」
「俺彼女いないって言ったかぁ?」
「……裏切り者っ」
泣き真似をする佐藤はウザイが、正直彼女がいないのは正しい。というよりアマネの場合恋人という概念が少し分からないので彼女は出来ないと思う。昔から優先事項は『弟』『親友』に『鏡』だ。
そういえばこの『世界』では『鏡』はいるのだろうかと少し思った。
「まぁ、冗談はさておき、男女揃って倒れてるとかマジ怖いな」
最近流れている噂は、簡単に言えば男女の二人組が倒れているというものだ。無気力症だというのでおそらくシャドウが関係しているのだろうことは明白だが、今のところどうして男女ペアなのか、という理由について手がかりは無い。
満月も近いので寮の雰囲気も少し荒れている。
気にはなるが、今回は噂について調べろともなんとも言われていないので行動はしないことにしていた。男のアマネ一人だけでは調べにくい部分もありそうだし、その辺はありがたい。
また映画を観るのだという佐藤に付き合って駅前の映画館へ向かおうと教室を出ると、筆箱を持った伏見に呼び止められた。
「何?」
「あの、その、生徒会長と有里先輩に聞きました。……私の、無実の証明を晴らすために動いてくれたって」
「でも結局自分で証明したじゃん伏見さん」
「でも、その前にも、庇ってくれて、……お礼を、と思って」
顔を伏せ、恥ずかしいのか申し訳ないとでも思っているのか視線を合わせようとはしない伏見が、黙って頭を下げる。
「ありがとう、ございました」
「……どういたしまして?」
「なんで疑問系?」
「結局俺何もしてねぇよ」
「そこはさぁ斑鳩、『礼を言うより笑おうぜ』とか言って……」
「お前がモテない理由が分かった気がする」
「なんでだよ」
「語彙とか雰囲気とか空気とか読めねぇだろぉ」
「一刀両断⁉」
佐藤のツッコミを聞いて顔を上げた伏見がかすかに笑った。
夜になって有里に教えられた路地へ向かい、そこで見つけた扉を開けると青い部屋に出迎えられる。
青一面の部屋。鼻の長い老人、放課後駅前で見た青い服の女性。
「とうとうご自分の足で参られましたな」
「うん」
「責めている訳ではございません。自己紹介がまだでした。私はイゴール。こちらはエリザベスと申します」
「俺も名乗ったほうがいいかぁ?」
「いえ、貴方様のお名前は既に存じております」
老人ことイゴールはそう言って微笑んだ。正直あくどい笑みに見えないことも無いのだけれど、彼が今そんな笑い方をする必要は無いのだから、あれは愛想笑い的なものだと思う。
「あ、コレ。物を食べられるか知らないけどお土産」
持って来ていた紙袋をイゴールへ差し出した。中には今日作ったゼリーが入っている。
「こちらは……」
「ゼリー。口に合うかどうかは分かんねぇけど」
「ゼリー。動植物より抽出した澄明な汁を凝固させたもの。熱を加えることで液体状になるという不可思議な性質を持っているとのことですが、試してみても宜しいでしょうか」
「……それは既に飲食物として味付け加工しているから、今度試す用のゼラチンを持ってくる」
「分かりました。ではこれは食用なのですね」
少し常識のずれた様子のエリザベスに、昼間の楽しげな様子は間違った情報を覚えているからかと理解する。少し色が付いているのに透明な様子が気に入ったのか、視線が手に持ったゼリーから離れない。
「それでご用件は」
「あ、いや、その、渡しに来た、だけっていうか、本当に扉があるのかとか入れるのかっていう確認……」
「左様ですか。構いませんとも。土産まで用意していただきありがたい限りでございます」
怒ってはいないらしかった。そんなくだらない理由で来たと言ったら鍵を没収されるかと少し考えていたのだが、悪く考えすぎていたようだ。
「でも聞きたいことはある。ここへの扉はタルタロスにもあったし、昼間エリザベスさんが外を歩いているのを見たから考えたんだが、アンタ等も当然シャドウは知ってんだろぉ?」
「ええ、存じております」
「シャドウは……『何』だぁ?」
イゴールがアマネを見る。
満月の後判明した、大型のシャドウが現れるのは満月の時、シャドウは人を落とそうとするという二つの情報。それはつまり満月と人を認識できるということでもある。認識できるほどの知能。それに基づく本能。
「……いずれ、理解なさることでしょうが、今聞かれてしまいますか?」
エリザベスが不穏な笑みを浮かべていた。金色の眼が妖しく煌めいているのは、暗闇の中の猫が獲物を狙っているかの様だ。
人ならざる人型の知恵や感情を持った存在。だがシャドウとは違う彼女も、今のアマネには分からない。
「……ごめん。無かったことにしてくれぇ」
「了解いたしました」
***
いくつかの文化部で部員募集がされた。無気力症で学校に来なくなったり都合で辞めたりした部員の代役を募集しているのだろう。移動教室の途中で廊下に張ってあった張り紙を目にした。
「部員募集だって。お前入部とかしないの?」
「しねぇ」
「入ればいいのに。どうよ美術部とか」
「……俺の唯一の苦手分野がカラオケと絵画だぁ」
「一つじゃないし」
余談だが、アマネの画力は弟と親友をもってして思わず目を覆ってしまうほど酷い。歌もだ。楽器演奏であれば、下手なアマチュアよりは上手いと太鼓判を押されたこともあるが、芸術方面に関する才能は今後も開花しないだろう。
ともかく文化部に入るというのはそういう理由でありえない。管楽部と写真部の二つは入れそうな気もするが、無謀な挑戦だ。
「中学のときは何かやってたのか?」
「何をするにも金が掛かるからなぁ」
両親の遺産と後見人である親戚一家の厚意で育ててもらっていた身で無駄遣いは出来ない。本当であれば高校入学後はバイトをしようと思っていたのだが、それもあの寮に入ったことで難しくなった。
それにアマネが部活に入ったりバイトをしたりで帰りが遅くなったら、誰が夕食を用意するというのだ。今でさえ週に数回はまだ出来合いや店屋物である。
アマネが来る前はどんな状況だったのか想像するだけで怖い。先輩達の健康が。絶対偏っている気がして本気で怖い。
というわけで不健康にさせない為にも、出来合いだけの日々はアマネがいる限り遠慮させてもらう。
最近は作られたばかりの料理の美味しさに気付いたらしい先輩達が、アマネが作る日を暗に楽しみにしているのが地味に嬉しかった。
しかし楽しみにされている分夕食を作る時間と余裕は必要で、バイトをする時間は無い。
遺産にも安易に手を出せないので結局、今の小遣い稼ぎは内緒でやっている株である。
寮に帰って夕食の仕度をしていると、先輩達が帰ってきた。
そういえば彼らの中には部活をやっている者がいる。真田と岳羽などはその部活で培ったスキルをタルタロスでの戦闘に活かしているくらいだ。
夕食時に部活について聞いてみれば、伊織と美鶴以外は入っているらしい。
「私は生憎生徒会の仕事が忙しいのでな」
「オレは、別にいっかなって。何? なんか入るの?」
「そういえば文化部が部員募集だっけ?」
「はい。写真部と管楽部と美術部ですけど、有里君が今日美術部に入りました」
山岸の言葉で視線が有里へ向けられる。鯖の味噌煮を器用に解していた有里が気付いて顔を上げた。
「今日美術部に入ったんですよね」
「うん。それが?」
「斑鳩君が部活どうしようかって悩んでるらしいの」
ちょっと待て、悩んではいない。
いつの間にかアマネが部活に入ろうか悩んでいるという話になっている。否定しようかと口を開きかけたところで、有里がアマネを見た。
「入るの? 美術部」
「無理です。美術部だけは絶対に無理です」
「どうしてだ?」
「……猫を描いて鰐だと思われる屈辱が分かりますか」
無言になる真田にお代わりのご飯を盛ってやる。
どうして猫が鰐に見えるんだと八つ当たりしたこともあるが、何度も続けば流石に自分がおかしいのだと気付いた。地図を描くのでさえ苦労しているのだ。美術部になんて入れば精神的に辛い。
「き、弓道部入る?」
「部員募集して無ぇでしょう」
岳羽の優しさが痛かった。
***
「斑鳩」
学校から帰ろうとしていると有里に呼び止められた。アマネはスーパーが安売りの日か佐藤に誘われた時以外すぐに寮へ帰ってしまうので、こうして放課後有里と遭遇することは珍しい。
というのも有里は部活や寄り道で寮に帰ってくるのはいつも最後である。何をそんなに寄り道しているのかといつも思うが、人付き合いがあるのだろう。
「今日は遊ばずに帰るんですか?」
「ベルベットルームに行くんだ。斑鳩は呼ばれてない?」
「呼ばれて? そんなことは無ぇですけど」
むしろ呼ばれているらしい有里のほうが驚きだ。イヤホンを外して首に掛けた有里が首を傾げる。
「一緒に行こうか」
「え、先輩だけが呼ばれたんじゃねぇんですか。だとしたら俺が行ったら迷惑でしょう」
「一緒に帰ろう?」
「ベルベットルームへ行くんじゃねぇんですか」
「……難しいね」
意思の疎通が、だろうか。
困りがちに眉を寄せる有里が何を言いたいのかは考えるまでも無く分かるのだけれど、それを簡単に言ってしまうと有里には意味が無いように思った。
なんというのだろうか、子供へ対する情操と会話能力の向上的な感覚。有里は少し無関心で感情の起伏が少ないだけだと思うのだが。
「何が言いてぇんです?」
「一緒に帰ってみたい?」
「……じゃあベルベットルームに寄って、それが終わったら一緒に帰りましょう」
「分かった」
そう言えば少しだけ微笑んだ有里と一緒に歩き出す。
モノレールに乗ってポロニアンモールのゲーセン前で一旦別れ、暫くして戻ってきた有里と寮への帰途へ付いた。
ベルベットルームでは、どうもタルタロスヘ先日の山岸達の様に、人が落ちたらしいという報告を受けたそうだ。次の満月までに助けなければ無気力症になってしまうらしい。それについては影時間にならないとタルタロスへ行けない為何も言えなかった。
「イゴールが、ゼリー美味しかったって」
「食えんのかぁ……。何ですか」
「オレ食べてない」
「寮の分は作りませんでしたからね」
「食べたい」
前から思っていたが、この人結構食には貪欲である。夕食時も人一倍食べるし、時々買い食いしてきた気配もあるあたり、実は結構な大食いなのだろう。
その割には痩せていると思うのだが、アマネも人のことは言えない。転生する度の毎度のことではあるのだが、女性陣に知られたらそれこそ恨まれる程度に体重が増えない身体なのだ。
「食べたいって、材料無いですよ」
「じゃあ買って帰ろう」
「んな簡単に……」
「たくさん作って。斑鳩の料理美味しい」
そう言って笑う有里は本当に、食に対してだけ貪欲だと思った。
***
アマネが朝食と自分の分の弁当を作っていると、珍しく山岸がやってきた。
「おはようございます」
「おはよう斑鳩君」
「朝食ならまだですよ」
そわそわとテーブルの上に置いていた弁当箱と朝食のオカズを見やる山岸にそう言うと、山岸は慌てた様子で顔を上げる。
「ち、違うのっ、そんなご飯の催促じゃ」
「冗談ですよ。でも味見はしてもらえますか?」
顔を赤くしながらも差し出した味見皿を受け取った山岸は、弁当に入れる予定だった卵焼きを口にしてはにかむ。どうやら口にあったのだろう。その間に今日の朝食で一緒に出す予定だったカフェオレを山岸の前に置いて、作りかけだった弁当のおかずのキンピラの確認をする。
「斑鳩君は、料理上手だね。私なんか下手で……」
「俺が作るからいいじゃねぇですか」
「寮のご飯だけでしょう?」
「頼まれれば弁当も作ります。量を作ったほうが経済的だし、誰かに食べてもらうほうが上達も早いですから」
「……そう、なの?」
カフェオレのカップを両手で包むように抱えながら山岸が首をかしげた。少なくともアマネはそう思うという主観的意見なのだが、生憎他を知らない。
返事の代わりに頷いて弁当箱にオカズを詰めて、余った分を空になっていた味見皿へ乗せてまた山岸へ差し出せば、山岸は笑いながら受け取った。
「なんだか太っちゃいそう」
「山岸先輩はもう少し食べたほうが健康になると思いますよ」
「痩せてるってこと?」
「はい」
「斑鳩君みたいな子に言われると嬉しいね」
「そうですか?」
「うん」
年下だからか。
時計を見るとまだ朝食を並べるには早い時間だった。ロードワークと称して走りこみに行っている真田もまだ帰ってきていない。
「弁当ですけど、なんなら今から作ってみますか?」
「え? だ、大丈夫?」
唐突な提案に驚く山岸に、棚から使われていない弁当箱を取り出して洗いながら答える。今までの寮生が使っていたのか何なのか、そう汚れていないしダサいデザインでもないので、山岸が持っていても大丈夫だろう。
「時間もありますし分からない所は教えますから、とりあえず三品ほど作ってみましょう。残りは俺が作ったヤツを詰めれば最初は十分ですから。どうですか?」
「失敗、しない?」
「誰かに食べてもらって感想を聞けばいいじゃないですか。酷いくらいに失敗したら俺が食べます。女性の手作りを捨てるなんて勿体ない」
「……じゃあ、やってみようかな」
恐る恐るといった風に立ち上がって近付いてくる山岸に身に着けていたエプロンを渡した。アマネの物で少しサイズが大きい気もするが、制服が汚れるよりはマシだろう。
「じゃあまず、卵焼きから作ってみましょうか」
***
幾月理事長が来た。何か報告があるらしいというので作戦室に集まると有里以外は既に集まっていて、アマネの直後に有里も来た。
「や、どうもどうも。調べ物に答えが出そうなんで、いち早く伝えようと思ってね。例の『満月に出るシャドウ』の件だよ。ちょっと面倒なんだが、良く聞いて欲しいんだ」
壁に寄り掛かって話し始めた幾月理事長の話を聞く。ソファは全て埋まっていたし、そもそもアマネは一年だ。先輩を差し置いて座れない。
「実は、シャドウはその性質によって『12のカテゴリ』に分けられる。この事はだいぶ前から分かっててね。生物学の『何科』や『何目』みたいなもんだ。で、これまで出現したシャドウをこれに分類してみると、実に興味深い!これまでのシャドウ四体は、現れた順に、カテゴリのⅠからⅣだと分かったんだよ! 見た目はたいそう特別だったが、連中にもこの分類は当てはまるらしい」
「それって、なんか凄いことなんスか?」
伊織が尋ねる。これまでのシャドウのうち、アマネが遭遇したのは二体だ。
先日の大型シャドウ。確かに仮面に数字が書き込まれていたような気もする。それで言うなら確かに分類とかもあるのだろう。
「そうか……つまり、『大きなシャドウは、全部で12体』いて、『残りが、あと8体』ってことですね?」
「さすが、山岸君! 飲み込みが早いんだから」
「へぇ、そうなんスか? 実際、シャドウって何がしたいんスかね」
「……いい質問だね。実は『目的』がよく分かっていないんだよ。連中は獲物を殺さずに『精神を食らう』。『捕食』には違いないが、生き物のようにただ繁殖するのが目的なら遠回りすぎる。シャドウは『総体』としては何を目指す存在なのか。その辺は研究中なんだ」
「……面白いですね。ただ、シャドウが何であっても、残りも全部倒すだけのことです」
「そうだな。連中の目的が何であれ、全て倒すしか、今は対処のしようが無い」
「あと、8体か、相当だな、それ……」
「データでは、来るたびに強くなってます。こちらも力をつけないと」
「なんとかするさ。時間は充分ある。」
話はそれだけらしく、結局先日のような大型シャドウがあと八体はいるということ、くらいしか必要そうな情報は無い。何を目的としいている存在なのか、そもそもアレは生き物なのか。
こめかみに手を当てたところで、当然頭痛も答えも浮かばない。
「……タルタロスか。何で、あんなものがあるんだろ……」
作戦室から出て行くとき、岳羽がそう呟く。聞こえたらしい美鶴が僅かに顔を逸らしていたことに気付いた。
***
復讐依頼サイトなるものがネットで流行っているらしい。佐藤が日誌を書きながらそんなことを言い出した。
「復讐したい相手がいるのかぁ?」
「なんでだよ」
「そういう話題を出すからにはそういうことだろぉ」
「あー、まぁ、いないとは言い切れないけどさ、オレみたいな奴の言う『復讐したい相手』って、どう考えたって一時的なムカつきでの相手だろ? それで依頼して死んだとして、多分オレは後悔すると思う。依頼した後に死んだら尚更。依頼とは関係無かったとしてもオレが望んだから死んだみたいでイヤだ」
依頼する側の心理とはそういうものなのかと少し感心する。
アマネは依頼『される』側だった人間だ。最初のうちは本当に金の為にだけに遂行していたから、依頼『する』側のことなんて考えていなかった。
その後も色々あって、そういえば『する側』について考えたことは無い。
まぁ、佐藤の意見も現代社会の若者の意見の一つであって総意ではないが。
「お前は?」
佐藤は何も考えずに聞いてきたのだろう。
「俺は……誰かに頼むぐらいなら自分で殺す」
「グロい。っていうかお前憎い奴いるの?」
「あんまりいねぇなぁ」
「そういう奴だよお前は」
日誌を閉じた佐藤が立ち上がる。日誌を職員室へ持っていったらそのまま学校を出てたこ焼きを食べに行く予定だ。
鞄を肩に掛けたところで教室の戸が開いてクラスメイトが入ってくる。
「ったく、マジ信じられねぇ」
「どうした?」
「おー佐藤、聞いてくれよ。英語の追加教材費集めただろ。アレ無くなったってよ」
「教材費……って金じゃん」
「そうだよ。伏見が集めたのを持ってったらしいけど先生知らないって言って色々言われるしよ。伏見は渡したって言うけど信じられないよな」
つまり彼は伏見という生徒が着服したんじゃないかと疑っているようだ。確かに教材費を集めた記憶もある。
「伏見って?」
「……お前クラスメイトの名前くらい覚えろよ。眼鏡のさ、大人しめの伏見サン」
呆れた様子の佐藤の説明を聞いてなんとなく思い出す。同じ教室で授業を受けているとしても用が無いので話したことも無い女子だったと思うが、そんな教材費を着服するような人だとは思えなかった。
そもそも最後に教材費を持っていたという理由だけでは、疑うにしても弱い。
「最後に持ってたってだけで疑ってんのかぁ?」
「だってさ、アイツ父親いないらしいじゃん? 貧乏なんだろ?」
当たり前だとでも言うかのようなクラスメイトの口調に、言葉を失った。
「……はぁ?」
「だからいきなり大金手にしてつい魔が差したとか」
コイツは本気でそんなことを言っているのかと、信じられない気持ちでクラスメイトを見る。隣で佐藤も変な顔をしていた。
「……あのさ」
「俺は両親がいなくてある意味その伏見さんより貧乏だぜぇ。お前のそれは偏見っていうんだぁ」
佐藤の言葉を遮るように言って、知らなかったらしいクラスメイトが驚くのを横目に教室を出る。嗚呼、一時のムカつきとはこういうことかと理解した。
***
「……ぁ」
ガチャン、と落としてしまった皿が割れた。乗っていた料理も駄目になってしまったことにため息を吐くと、音が聞こえたらしい伊織がキッチンへやってくる。
「どうした? って、大丈夫か?」
「すみません。夕飯のおかず減りました」
「そうじゃなくて! 怪我は?」
「してねぇです。片付けますから破片踏んだら危ねぇし、出ていてもらえますか?」
「あー、じゃあ箒とか持ってくるから、デカイ破片だけ集めとけよ。手切るなよ」
「はい」
キッチンを出て行く伊織を見送って割れた皿の傍にしゃがんだ。ぐしゃぐしゃになってしまった料理に苛々する。
放課後の出来事があってから、予定通り佐藤とたこ焼きを食べに行ったが、怒りは治まっていない。むしろ佐藤と別れてから色々考えてしまったせいで、苛々がミスにまで繋がっている。良くないとは分かっているが、どうしようもない。
アマネは当事者ではないけれど、立場が違えばあのクラスメイトは深く考えずにアマネを疑ったりしたのだろう。
現在疑われている伏見には母親がいるらしいが、アマネには両親が居ないから尚更。
無論こういう考え方は『昔』にだって経験している。あの頃は今以上に追い詰められた者が多かったし、金や親の価値を分かっていて軽々しく扱わなかったからおかしいとは思わなかったが。
だがこの『現代』では違うのだろうと思う。彼等は軽々しくそういうことを言うのだ。
親が居ないとなんだというのだ。好きで居ないわけではないしそんなことで人格まで疑われるのかと勝手に考えているだけなのだけれども、どうにも釈然としなかった。
破片を集めるのが面倒になって、誰も居ないからと左手を翳して集中する。
以前に生きた『世界』で唐突に腕輪が無くとも使えるようになった、死ぬ気の炎で分解してしまおうと思ったのだ。
左手首から燃え上がり手のひらに集まる赤い炎。それを破片へと向けた途端、炎はガス切れ寸前のように上手く燃えなくなる。
まるで『×××』が使えなくなったときの様だ、と思うと同時に手を近付け過ぎていたのか指先が切れた。
「っつ……」
反射で引っ込めて握った手を開くと炎は消えており、代わりに赤い血が指先から細く流れている。
その手のひらを見つめたまま、今度は黄色い炎を灯そうとするも、燃え上がる炎はマッチを燃やした時程度の小さなもので、それ以上はどう頑張ってみても大きくならない。
「あー……」
『×××』と同じか、なんて考えてぼんやりしていると、伊織が箒とちりとりを持って戻ってきた。
「うっわ、血が出てるじゃん斑鳩!」
「……痛い」
大げさに巻かれた包帯が白い。
当たり前だが傷が思っていたより大きかった故の結果である。血が流れる程の傷だったのだが、治療の最中何度も痛くないのかと聞いてくる伊織と岳羽の対応のほうが疲れた。
一品減ってしまった夕食は、真田が帰ってこなかった為その分を全員で分ける。片付けも岳羽と山岸が率先して手伝ってくれたので、そう苦労はしなかった。
ホットミルクに蜂蜜を溶かし入れる。カップに移してラウンジへ向かい、アマネは誰もいないソファへ腰を降ろした。
時間はもう遅いので、先輩達もいない。くたびれたソファへ全体重を預けるように寄り掛かる。治療したおかげで痛くは無いが少し熱をもった左手。
死ぬ気の炎まで使えなくなっているとは思わなかった。『彼ら』はアマネが忘れなければずっと傍にいてくれる筈で、炎はその証拠だと思っていたのだけれど、そうではないのかもしれない。
もしくはアマネが忘れてしまっているということだけれど、それだけはないと言える。
では何故だろうと思った時、浮かんだのは自身のペルソナだった。
あれを初めて召喚した時の喪失感。それがずっと気になっていた。もしかしたらアマネのそういう大切なものが、半分イブリスに持っていかれてしまったのだとしたら。
ペルソナはもう一人の自分だ。
何で構成されているのかなんて分からないけれど、きっと自分の一部で作られている。
自分の一部とは感情や心に秘めた想い、覚悟のような大切なものだ。けれどもアマネは感情を失ってなどいない。心に秘めた想いと覚悟に関してはなんとも言えないが、アマネの場合その二つが起因している死ぬ気の炎が出ないので、つまりそういうことではないのだろうか。
イブリスは黒い炎をまとった姿をしている。アマネから死ぬ気の炎をとったことによる結果のその姿であるなら、なんとなく納得が出来た。
それなら、さびしいけれどさみしくはない。
若干冷めてしまったホットミルクを飲む。早く影時間にならないかと時計を確認していると寮の玄関が開いた。
「おかえりなさい」
「何してるの」
出掛けていた有里が近付いてきたので、持っていたカップの中身を見せる。僅かに香る蜂蜜の匂い。苛々と不安を落ち着かせる為の飲み物だ。
「まだ残ってる?」
「温めなおしましょうか?」
「うん」
持っていたカップの中身を飲み干して立ち上がりキッチンへ向かうと、ラウンジで待っていると思った有里が何故か付いてくる。邪魔にはならないのでいいかと放置し、ガス台に置きっぱなしだった鍋を火に掛けて、鍋の中で揺れる白い水面を見つめた。
風呂に入らなければならないことを忘れていた。それから左手に巻かれた包帯を視界に入れながらホットミルクをかき混ぜる。
「手、大丈夫?」
「え? ああ、はい。大丈夫です」
なんともないことを示すために振ってみるといきなり掴まれた。一瞬驚いたが、有里は気にした様子もなく手に巻かれた包帯を観察している。
ホットミルクが温まったので火を消した。カップに移したいのだけれど流石に手を掴まれた状態ではやり辛い。
まじまじと包帯を、正確には手を観察しているように見える有里はコテンと首を傾げると手を離してアマネを見る。有里は成人するまでにまだ伸びるであろうアマネより既に小さいので、少し見上げられるかたちになっていた。
「どうかしましたか?」
「何かあったの?」
するどい。
「……何もないですよ」
「でも落ち込んでる」
「手を怪我して料理一品駄目になりましたからね」
「違う。……何かあったの?」
少し幼児のように短い単語だけで話をするのはこの人の癖なのだろうかと思う。コミュニケーション不足による会話能力の劣化。
寮でアマネが機嫌を悪くしていることに気付いたのはこの人だけで、観察力はあるらしい。
だが、だからといって今日の出来事を言うのは少し憚られた。
有里も、しっかりと聞いたことはないがアマネと同じく両親を失っているらしい。
「……先輩が気にすることじゃねぇです。少し嫌な考え方を聞いて勝手に機嫌悪くしてるだけですから」
「嫌な考え方」
「ああいう一方的な思い込みや誤解を周囲に強制する奴、嫌いなんです。何も知らねぇくせに」
「それじゃない理由は?」
「……何言ってるんですか」
「違う原因、あるでしょ」
思わず振り返って見た有里の目は夜のような青い色をしていた。
いつもながらの無表情だが、少し怒っているようにも見えなくはない。
「先輩のほうこそ、何かあったんですか?」
「何もないけど?」
「うそですね」
「うそだけど、それはどうでもいい」
どうでもよくは無いだろう。カップに注いだホットミルクを渡し、キッチンの椅子をずらして向かい合うように座った。
両手で包むようにカップを持ち、表面に息を吹きかける有里に熱くしすぎたかとアマネは自分の分に口を付ける。やはり熱いホットミルクに飲むのを諦めてカップをテーブルへ置いた。
「もうすぐ影時間ですね」
「うん」
「風呂入らねぇと……包帯取らねぇとなぁ」
「取る」
「何をですか」
「包帯取らせて。とりたい」
「構いませんけど、まとめながら取ってください。風呂出たらまた巻きますから」
「それもやりたい」
まだ取らなくても良いのにアマネの手を掴んで包帯を解き始めてしまった有里に、何がしたいのかよく分からない。
「何がしてぇですか?」
「落ち込んでるみたいだから、気になった」
「それだけ?」
「どうすればいいのかが分からない」
この人はそういう人だ。
こちらから案や説明をすれば理解はするのだからまだいい。分からなければ素直に口にしてしまうが、きっと悪意も無いのだ。
「……では、話を聞いてください」
「うん」
包帯を取りながら有里が頷く。
「今日、学校で集めた教材費が紛失したらしいんです。最後にそれを見たのはクラスの女子で、彼女は母子家庭なんだそうです」
「うん」
「証拠も根拠も無ぇのに、母子家庭というだけで貧乏だと決め付けられ泥棒扱いをするのはおかしいでしょう。その理由が通るなら両親がいねぇ俺はもっと貧乏になります。俺はそんな激しい思い込みだけの差別が許せねぇ」
それだけと言ってしまえばそれだけ。
本当に小さなことで苛々しているなぁと言葉にして思ったが、向かいの有里はどう思ったのか綺麗に解いて巻き終えた包帯をテーブルへ置いた。
「斑鳩は怒ってるの?」
「誰に向けてですか」
「そのクラスメイトに」
「いいえ。俺が怒るのはお門違いですから」
「そう」
冷めかけてしまったホットミルク。もう湯気も出ないし熱いとも思わないそれを両手で抱える。人肌に優しい温かさにまで冷めたそれを半分ほど一気に飲み干した。
「それで、落ち込んでいる理由は?」
「は……」
まっすぐにアマネを見る視線は揺らがない。
何のことだと一瞬考えて、そういえば最初からこの人は落ち込んでいる理由を聞いてきていたのだったと思い出した。
苛々していることだけに気付いていると思っていたからか、思い違いをしていたらしい。
落ち込んでいる理由と言ったら一つしかないのだけれど、それを言う気にはなれなかった。
何故ならそれは普通ではないことだ。誰が手から炎が出せなくなりましたと聞いて納得するか。
「……それだけですよ。大丈夫です」
有里が無表情のまま首を傾げる。言わないことを選んだのは言っても分かってもらえないだろうなという予測と、これはアマネがどうにかするべきことだと思ったからだ。アマネにしか分からないのだから、アマネが一人で解決すればいい。
飲み干して空になったホットミルクのカップを二つ、流しで洗ってキッチンを出る。有里はずっとアマネを見ていたが、言葉が見つからないのか何も言いはしなかった。感情表現が苦手らしい有里に対して少し申し訳なく思ったが、こればかりは言えない。
「……でも聞いていただいてありがとうございました。明日、その女子の話を聞いてみようと思います」
「うん」
「さ、風呂行かねぇと影時間が来ますよ」
***
明日聞いてみると言いはしたが、結局実際行動へ移したのは数日後。
それまでアマネは水面下で教材費が無くなったことが広まっていくのを、傍観姿勢で黙っていた。
もしかしたら誰かの勘違いとか、何処からか出てきたとか、そういう新しい情報を待っていたというのもある。だがいくら待ってもそんな話は出てこなかったし、最後に教材費を持っていたらしい伏見という女生徒が盗んだという噂だけが急速に広まっていった。
「お前が盗んだんじゃねぇの?」
「違、そんな……」
とうとう教室で最初から犯人だと決め付ける口調で詰め寄るクラスメイトに、ため息が出る。
一人の女生徒を責める視線と雰囲気に立ち上がると、隣の席に座っていた佐藤が面倒そうに手を振った。
裏ではこそこそと言いながらも傍観の姿勢だった教室の皆の視線を集めるように机の間を歩いて、眼鏡の彼女の前に立つ。
「な、なんだよ斑鳩」
「まぁ聞けぇ。教材費が無くなった。伏見さんは先生に渡したと言ってて先生は受け取ってねぇと言ってる。ということはどちらかが嘘を吐いてることになるのは分かるだろぉ?」
矛盾した発言はどちらかが嘘。それは大抵当たり前だ。
いきなりアマネが出てきたことで戸惑うクラスメイトは、それでも言い返してくる。
「だから伏見が嘘……」
「どうして?」
「どうしてって……」
「嘘を吐く必要がどこにある?」
「だから盗んだから……」
「まだ本当に盗んだと決まったわけじゃねぇのに嘘って決め付ける意味が分からねぇんだよ。探したか? 伏見サンは職員室で渡したって言ってんだから、それを見ていた誰かは確実にいる。違うのかぁ?」
無論生徒が職員室を粗探しすることは出来ない。伏見が真実盗んでいた場合も、既に証拠隠滅はしているだろうし探すというのは不可能に近いだろう。
だが目撃者となると話は別だ。
「伏見サンが教材費を持って職員室へ入っていない、という証拠を持ってこないと、少なくともお前が伏見サンをそうやって侮蔑する権利はねぇよ」
「んなのっ」
「とにかく出来る範囲で調べて探すことは出来る。伏見サンが嘘を吐いている、ということを否定出来ねぇと同時に先生が嘘を吐いていないとも否定出来ねぇ」
「先生が嘘吐いてる訳……」
「教師だって聖人君子じゃねぇだろぉ」
後ろを振り返って眼鏡の伏見を見る。彼女はアマネがいきなり振り返ったことで少し怯えたようだが、それでも視線はちゃんと向けられた。
「証拠も何も無ぇ状態で、偏見だけで人を疑うのは嫌いだぁ。だから俺はアンタも先生も疑う。伏見サン、職員室へ渡しに行ったとき、他に誰か居たりしなかったかぁ?」
「……い、いました」
「じゃあその先生に話を聞いてみることから始めるべきだなぁ」
話は終わりだと自分の席へ戻る。先ほどまで伏見に向けられていた偏見交じりの疑いの視線が、少しとはいえ違うものになっていることに気付きながら椅子へ腰を降ろせば、先程まで伏見を詰っていたクラスメイトが恨めしげにアマネを見ていた。
「職員室行くの?」
「放課後行く。とりあえず先生にも話を聞かなけりゃ伝聞でしか情報がねぇし、正しいことも分からねぇよ」
「オレも行っていい?」
「Si」
改めて放課後、職員室へ向かう途中で伏見と何故か有里を呼ぶ校内放送が聞こえた。場所が生徒会室なので関係ないのだろうが少し気になる。
「伏見さん生徒会役員だもんな」
「へぇ」
「そこは知っとけよ。桐条先輩と同じ寮だろ? 話とかしねぇの?」
「しねぇ」
意外と騒がしい職員室へ入り、目的の人物である英語教師を探す。先に見つけたらしい佐藤に肩を叩かれて振り向けば、違うクラスだろう女子生徒と何か話している英語教師の姿が見えた。腕にノートを抱えて教師に頭を下げた女子生徒が、アマネ達の横をすり抜け職員室を出て行く。
「先生」
「ん? ああ、斑鳩と佐藤か。どうした?」
座りなおした教師が椅子ごと振り返るのに愛想笑いを返した。
「先日の教材費紛失の件なんですが、噂で伏見さんが盗んだとばかり広まっていて真実が分からないもので、先生の話もお聞きしたく……」
「ああ、それか。それなんだが、実はな……」
言い辛そうに口を濁す教師の証言を待っている間、横で他の教師の机の上の私物らしい置物を弄り始めた佐藤の頭をしばく。
噂通りなら彼は正直に受け取っていないと言えば良い。それをしないということは、真実は噂通りではなく何かあるということだ。
「どうか正直に言っていただけませんか? 俺は伏見さんのような真面目な生徒が謂れの無い噂で誹謗中傷を受けて、場合によっては今後まともな高校生活を送れなくなるのが心配なだけなんです。彼女は女性ですしまだ一年生ですから、こんな一学期も終わらない時期に台無しになる必要もないでしょう?」
我ながら胡散臭い詭弁だと思う。だが一応成績優秀者というアマネの立場が、この偽善的な言動も正論にしてくれた。
「その、実はだな……」
言いよどんでいた教師が観念したかのように口を開きかけたところで、職員室の入り口の戸が勢い良く開いた。
「先生っ!」
入ってきたのは件の人物である伏見で、結わえていない髪を振り乱しつつ飛び込んできてはアマネの目の前にいた英語教師を見つけ、噛み付くように近付いてくる。
アマネと佐藤を押し退け、詰め寄る姿は必死だ。
「私、あの時の事は、ハッキリ覚えています! 先生、カミソリ負けしたとかでアゴの下にバンソウコウを貼ってました! 集金袋を先生に手渡ししたんですよ? それでも私に落ち度があるっておっしゃいます?」
再び開いた職員室の入り口から美鶴と有里が飛び込んできた。佐藤が美鶴を見て少し興奮していたが無視する。二人もアマネがいることに驚いたようだったが、それよりも伏見を落ち着かせるほうを優先させていた。
「伏見、落ち着け!」
「きちんと説明してください! でないと……」
「す、すまん! 全部……私のせいなんだ」
教師の言葉に興奮していた伏見が拍子抜けしたように落ち着きを取り戻した。
「あの日な……先生、遅くまで仕事してて終電逃しちまってな。手持ちが無かったから、その、タクシー代にって教材費をだな……」
「えっ? えー⁉」
「うっそマジ⁉」
驚く伏見と佐藤に、申し訳無さそうに教師は頭を掻く。
「後で返しとけば、って思って忘れちまって……若年性健忘症かな? ハハ」
誤魔化すように力なく笑うも、それは結局のところ守るべき生徒に罪を押し付け放置していたということだ。しかも使ったのは生徒から集めた教材費。ある意味立派な横領罪だ。
笑い事ではないと怒る伏見の意見も尤もである。
「皆には私から説明する。お金もちゃんと返しておくから。だから伏見、この通り!」
「そんなことだろうとは思っていたが……。貴様、それでも教師か!」
「金を返せば良いという問題ではありません。そもそも教材費を使い込んだ時点で横領ですね。ましてやすぐに言えば良いものの、生徒に冤罪を押し付け今まで放置していたということにもなる。すでに教師失格でしょう」
美鶴とアマネの言葉が堪えたのか、それとも美鶴に知られたというのが痛かったのか、そんなぁと小さく呟いて肩を落とす英語教師を睨みつけた。
警察に連絡をと動こうとする美鶴を伏見がもういいと宥め、この場に居たくないとばかりに有里と一緒に職員室を出て行く。その姿を見送ってアマネも佐藤と一緒に帰ろうとすると美鶴に呼び止められた。
「そういえば斑鳩、君はどうしてここに?」
「伏見サンとは同じクラスでして、彼女の無罪証明の証拠探しに」
「そうか。斑鳩も伏見と同じc組だったか」
「証拠も無いのに中傷が広がるのが嫌だっただけです」
「では、クラスのほうは君に頼んでもいいか?」
「分かりました」
軽く頭を下げて職員室を出る。荷物を置きっぱなしにしていた教室へ戻るため階段を昇っていると佐藤に声を掛けられた。
「どうすんの?」
「とりあえず教室に残ってる奴等にお前も説明してくれぇ。信じなくても多分桐条先輩があの教師失格にそれなりの処罰を言い渡せば事実だって認識するしかねぇし、職員室にいた他のクラスの奴とかが噂を流すだろぉ」
「噂には噂ってこと?」
「よく見てろよ。手のひら返しは早ぇぞぉ」
伏見に面と向かって詰っていたクラスメイトは、謝るかについて佐藤と賭けをする。アマネは謝らないほうに、佐藤は謝るほうに。そのくらいのおふざけは許してもらおう。名誉毀損で変な噂を逆に流すことも出来ることを考えれば、軽すぎる罰だ。
伏見の噂は次の日にもなると早々に反転し、彼女が冤罪だったこととあの英語教師が最低の人物だったという悪口に取って代わっていた。
教室の隅でその噂話を耳にする度に少しだけ佐藤と笑って、何も無かった振りをする。もう済んだことだと興味が無くなっていた。
詰っていたクラスメイトは、結局謝りはしなかったが周囲の女子から冤罪で貶した人物として居心地が悪いらしい。近くで言っているのを聞いたときだけ一応フォローするようにしているが、そのうちこの噂が静まれば忘れるだろう。
学校には既に新しい噂が広まっているのだから。
***
「怪事件っていっても、彼女いない同盟のオレらには関係ないし?」
「いつそんな同盟を作ったぁ?」
「嫌だなぁ斑鳩クン、彼女どころか女の気配すらしないオレ達は自動入会に決まってんだろ」
「俺彼女いないって言ったかぁ?」
「……裏切り者っ」
泣き真似をする佐藤はウザイが、正直彼女がいないのは正しい。というよりアマネの場合恋人という概念が少し分からないので彼女は出来ないと思う。昔から優先事項は『弟』『親友』に『鏡』だ。
そういえばこの『世界』では『鏡』はいるのだろうかと少し思った。
「まぁ、冗談はさておき、男女揃って倒れてるとかマジ怖いな」
最近流れている噂は、簡単に言えば男女の二人組が倒れているというものだ。無気力症だというのでおそらくシャドウが関係しているのだろうことは明白だが、今のところどうして男女ペアなのか、という理由について手がかりは無い。
満月も近いので寮の雰囲気も少し荒れている。
気にはなるが、今回は噂について調べろともなんとも言われていないので行動はしないことにしていた。男のアマネ一人だけでは調べにくい部分もありそうだし、その辺はありがたい。
また映画を観るのだという佐藤に付き合って駅前の映画館へ向かおうと教室を出ると、筆箱を持った伏見に呼び止められた。
「何?」
「あの、その、生徒会長と有里先輩に聞きました。……私の、無実の証明を晴らすために動いてくれたって」
「でも結局自分で証明したじゃん伏見さん」
「でも、その前にも、庇ってくれて、……お礼を、と思って」
顔を伏せ、恥ずかしいのか申し訳ないとでも思っているのか視線を合わせようとはしない伏見が、黙って頭を下げる。
「ありがとう、ございました」
「……どういたしまして?」
「なんで疑問系?」
「結局俺何もしてねぇよ」
「そこはさぁ斑鳩、『礼を言うより笑おうぜ』とか言って……」
「お前がモテない理由が分かった気がする」
「なんでだよ」
「語彙とか雰囲気とか空気とか読めねぇだろぉ」
「一刀両断⁉」
佐藤のツッコミを聞いて顔を上げた伏見がかすかに笑った。