ペルソナ3
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初めてのチーム戦で巨大シャドウを倒し電車も停めて、命の危機も脱して気が抜けかけた有里達が駅前で待っていた桐条美鶴の元へ戻ると、美鶴は少し周囲を警戒しながらも三人の無事を喜んだ。影時間はまだ終わっていないが、巨大なシャドウを倒したせいか通常のシャドウがいる様子も無い。
「影時間終わったら何か食べて帰りませんか?」
「……ああ」
目の前の三人に気が向いていない桐条は、伊織順平の言葉にも適当に返すだけだ。
「どうかしましたか?」
「……どうも人の気配がするんだ」
桐条の言葉に反応するように四人からそう遠くない建物の窓が突然割れた。シャドウの襲撃かと身構える有里達の視線の先で、割れたばかりの窓から何かが飛び出してくる。
「っうお⁉」
「キャッ!」
小さい悲鳴は岳羽ゆかりからだ。
飛び出してきた何かの一部は黒いシャドウで、それを下敷きにしながら人が落下してくる。
パーカーのフードを被って落下してきた人物は、シャドウを足の下に踏み付けながら怪我をすることも無く着地した。膝を曲げて衝撃を殺していた姿勢から立ち上がるその人物が、有里達に気付いてフードの下から視線を向ける。
顔は分からないがその服装や雰囲気からして有里達と同年代だろう。
「……言っとくが、正当防衛だからなぁ」
大きいが少し低めで耳触りの良い声。
それが踏ん付けているシャドウに関することだと一拍置いてから気が付いて、有里は思わずゆかり達と顔を見合わせる。代表として桐条がその人物へ話しかけた。
「君は誰だ」
「高校生」
やはり同年代らしい彼はフードを深く被り直しながら靴の下のシャドウを踏み躙って消滅させる。この影時間にああして動いていられるということは適正のある者なのだろうが、それにしてはこの光景に驚くこともシャドウに怯えてもいない。
落ち着き過ぎていて逆に怖いくらいだ。
「驚かないのか?」
「何にぃ」
「この状況にだ」
「驚いた後だぁ。もう慣れたぁ」
低い声だからおそらく男なのだろうと当たりをつける。影時間に適正があってもペルソナ使いでなければシャドウに襲われてしまう筈なのだが、彼は踏み潰すことで一応シャドウを消滅させた。ということは彼もまたペルソナ使いの素養があるのかもしれない。
同じことを美鶴も考えたのか、彼女がその青年へ一緒に来るように言おうとしたところで、有里はシャドウの気配を感じた。
シャドウが彼の背後から彼に襲い掛かる。彼も振り返りながら回し蹴りをシャドウへ当てていたが、数が多い上にタイミングがずれて避けられない。
「オルフェウス!」
咄嗟に召喚したオルフェウスが彼を守るようにシャドウを叩きのめす。それを見た彼が驚いたように眼を見開きながらこちらを振り返った。
フードの下から覗くそれは珍しい紫色。たった一瞬だけ見えたそれを有里はとても“綺麗”だと思った。
あんな綺麗なものがこの世界にはあったのか、と。
オルフェウスが役目を終えて消える。彼の周囲にシャドウは一匹も居なくなり、驚いたようにそれまでを目撃した彼はしかし、苦痛に顔をしかめ糸が切れたかのように気を失って倒れた。
***
竪琴を持った機械人形の様なものが自分に襲い掛かってきた黒い物体を叩きのめした姿を最後に激しい頭痛に襲われ、アマネの現実での意識は終わっていた。
今目の前にあるのは一面青で染められた部屋。窓の向こうの光景は下へ下へと移動している。
部屋には青い扉と青い服を着た女性。それに青い椅子へ座る鼻の高い老人。覚えのない光景ながらにこれは夢なのだろうとすぐ結論付けたのは、いい加減こういう状況に慣れたからだ。
「これはこれは。珍しい方が来られましたな。どうぞお座りください」
老人に言われテーブルを挟んで向かいにあった椅子へ座る。どうにも落ち着かない気分がした。
「ここはベルベットルーム。貴方もどうやらお客様のようですな」
「っていうかどういう状況だか分かってねぇんだけど」
「後々理解なされていくでしょう。私から貴方へ話せることはどうやら少ない」
「どうしてぇ」
「貴方は私のお客様であると同時に、私のお客様足り得ないようですので」
老人の言葉の意味が分からず、アマネはこめかみへ手を伸ばす。『×××』の知識を得る時のもので、いつの間にか癖になっていた。正確には知識を得る時に覚える頭痛を堪える為のものだ。
なのだけれど、今は何故かいつまで待っても頭痛がしない。更に言えば普段なら意識せずともこめかみに手を伸ばすだけで引き出されていた情報も、この時はいくら待っても訪れなかった。
今まで一度もなかった知識を得ることが出来なくなっている事実に動揺していると、目の前の老人がテーブルへ鍵を置いた。
「これをどうぞ。それでも貴方はお客様ですので。次はご自分の意志でこちらへいらしてください。もっとも、貴方にこの場所が必要かどうかは分かりませんが」
受け取って良いものか鍵を見下ろしながら考えていると老人は続ける。
「それと伝言がございます。『見つけて』とのことです」
「……一つ、いいかぁ?」
「どうぞ」
老人はそれが礼儀であるかのようにまっすぐアマネを見つめる。
「それは誰からの伝言だぁ?」
「『誰』でもありませんが、貴方宛の伝言であることは間違いないでしょう」
手を伸ばして鍵を握り締めると老人はニ、と目を細めた。鍵を受け取ってもらえたことが嬉しいかのようなその表情筋の動き。
それを見てアマネは嗚呼、コイツも完璧な人ではないのだと漠然と悟る。そもそもこんな夢なのか現実なのかよく分からない場所にいる時点で普通ではないのか。
老人の脇に立っている女性に目を向けるとニコリと微笑まれた。
「またのお越しを、お待ちしております」
見覚えのない天井が見えて起き上がると、アマネが寝かされていた寝台の脇で誰かが眠っていた。起こすべきかを悩んでいると部屋のドアが開かれる。
「眼を覚ましたのか」
「……ここは」
「私たちの住んでいる学生寮だ」
紅い髪をしたお嬢様然とした女性は確かあの時話をした人だ。大型バイクを押していた姿を覚えている。
「君はあの後いきなり倒れてしまったのでな、急遽ここへ運ばせてもらった。名前を教えてくれるか?」
「斑鳩 周」
「私は桐条美鶴。月光館学園の三年だ」
「俺は一年です。……月曜から」
「転校生か?」
「家の事情で入学が遅れただけです」
「ではこの街には最近来たばかりか?」
「単刀直入に言わせてもらえるなら、あの変な空間に入ったのはアレが初めてですよ」
「ふむ」
それが聞きたかったのだろうと予測を付けて発言すれば、どうやら当たっていたようで美鶴はアマネの返答を聞くとそのまま考え込み始めてしまった。どうしたものかと思いながら、アマネはそろそろ足に乗りかかって眠っている者を起こす為に手を伸ばす。
色素の薄い髪に、服の上からでも分かる引き締まった身体はボクシングのようなスポーツをやっているのだろう。揺さ振られて小さく唸りながら顔を上げたその青年は、アマネが起きていることに気付くと寝台へ手を突いて勢い良く身を乗り出してきた。
「眼が覚めたのか。気分はどうだ?」
「悪くはありません」
「オレは真田明彦だ」
差し出された手をよく分からないまま握る。どうも『昔』の幼馴染に似ている気がして落ち着かない。その様子を真田はどう思ったのか、立ち上がって椅子を美鶴へ譲ると水を持ってくると言って部屋を出て行った。
「私たちはアレをシャドウと呼んでいるんだ」
「いきなりですね」
「君は物分りが良さそうなのでね」
前置きも無く唐突に本題へ入った桐条の話を聞く。
あの不気味な世界は影時間ということ。黒い物体はシャドウといい、アレに襲われると最近流行して世間を騒がせている無気力症になってしまうのだという。美鶴達にはそのシャドウを倒せる能力があり、シャドウの被害から人々を守る為に頑張っているらしい。
シャドウを倒せる能力は適正のある者とない者がいて、無い者は影時間の中ではあの棺の姿になって影時間を認識出来ないそうだ。
自分の場合はどうなのだろうなとアマネが考えていると、美鶴はアマネにとって意外なことを口にした。
「それでどうやら君にもそのシャドウを倒せる能力、ペルソナ能力の適正があるようだ」
「勘違いじゃないですか?」
「影時間にあれだけ動けるんだ。勘違いの訳がないだろう」
自分の場合はありうると思いながらも、その理由を話すつもりも無かったのでアマネは黙って続きを促す。
「そこで、だ。君にも私たちに協力してもらいたい」
***
学校へ行く前に引越しかという思いをため息一つで落ち着かせて、アマネは新しい自分の住処となった学生寮の一室でダンボールを潰した。
美鶴の勧誘を受け入れたアマネに、美鶴はその日の内に現在住んでいるアパートから巌戸台分寮への引っ越しを指示して来たのである。何でも影時間やシャドウについては一般人には秘匿されており、影時間への適性持ち並びにペルソナ能力適正者は美鶴の一族が経営している桐条財閥が保護や管理を行っているらしい。
つまり、影時間に適性があるという時点でアマネがこの分寮へ入ることは決定事項だったのだろう。そう考えると、結局数日だけのアパート暮らしだったので荷解きがちゃんと終わっていなかったことだけが幸いである。というよりそもそもの荷物自体少なかったが。
一応荷物の整理に一段落着いたので休憩しようと、まとめたダンボールを持って階下に運ぼうと前屈みになった時、アマネが首から掛けていた鍵がダラリと垂れ下がった。あのベルベットルームで老人から貰った鍵である。
紐を付けて首から提げていたのはなんとなくだが、眼に入ったその鍵を摘まんで目の前に持ってきたアマネは、もう一度複雑な思いを静める為にため息を吐いた。
斑鳩 周には『何度も転生を繰り返した』という事実がある。
転生した先は同じではなく様々な常識、法則、展開が横行する数多の世界であり、そして今はこの世界で生きているという話だ。生きてきた場所によっては戦いに巻き込まれ、時には結果的にそうなっただけではあるが世界を救いもしている。
そんな人生だったからどうせ今回も何かあるのだろうと物心着いた頃から考えていたが、中学を卒業するまで何も無かったせいで、今生は何もない様だと油断していた。
それが高校で始まったようである。
「……にしても、『見つけて』なぁ」
服の下に鍵をしまいながらまとめたダンボールを持って部屋を出た。二階が男子部屋で三階が女子部屋と別れているこの寮は、まだ数人しか寮生はいないらしい。
そのうち二人が美鶴と真田。後はあの影時間の時に見た三人。一年生は今のところアマネ一人らしいから、全員が年上となり結構新鮮な状況だと思う。
裏口から出てダンボールをゴミ捨て場へ置いて戻ると、ラウンジに人が数人集まっていた。
「斑鳩、いい所に来た」
美鶴と、帽子を被った青年と首にチョーカーを付けた少女の二人。名前を知らないので軽く頭を下げるだけで三人が座っているソファへ近付けば、美鶴がテーブルの上に置いていたトランクを開ける。
「君の分の召喚器だ。さっそく用意が出来たので渡しておくよ」
そう言って渡されたのは銃口に詰め物のされた拳銃。一応本物と同じ重さをしているが詰め物をしていては撃てないだろうに。そう思うが必要なのは自分を撃つという動作であって行為ではないらしい。礼を言ってホルダーへ入れて腰に装着してみる。
「なんかさ、慣れてね?」
ごそごそと腰元を弄っているアマネを見ながら帽子を被ったほうが呟いた。顔を上げれば目が合ってぎこちなく笑われる。
「彼は伊織順平、こちらは岳羽ゆかりだ。君の先輩になる」
「宜しくお願いします」
「お、おう! よろしく」
「こちらこそ」
「もう一人いるんだが今は出かけていてな。帰ってきたら紹介しよう」
伊織も岳羽も、あの竪琴を持ったペルソナが出てきた時に聞こえた声ではなかった。だからその、最後の一人とやらがあのペルソナの持ち主なのだろう。
***
「中間試験一週間前なのにタルタロスっていうのは、ちょっと嫌だね」
「すみません」
「真面目なんだよゆかりッチは。こんなの勉強の間のちょっとした気分転換だろ。な?」
目の前でまるで月へ向かって立ち昇る塔を見上げるアマネを間に挟み、伊織と岳羽が話している。タルタロスと呼んでいるらしいその塔こそがシャドウの巣窟なのだそうだ。
試験一週間前だというのにここへ来たのは、新しい仲間であるアマネのペルソナの確認と少しでも影時間やシャドウ退治に慣れるようにという配慮らしい。それぞれ弓矢や大剣といった武器を抱えてタルタロスのエントランスへ入る。
ちなみにアマネの武器は今のところ駅前の飲食店で入手した包丁で、気絶したアマネを運ぶ際に持っていることに気付いてそのまま一緒に寮まで持ってきたらしい。個人的には正直捨てても良かったのだが。
エントランスでバイクを停め、美鶴が自身のペルソナを使って階上の様子を探っている。
いつもこんな感じなのだろうかと周囲を見回していると、エントランスの脇に青い扉があることに気付いた。
「君も見えてるの」
扉を見つめていると後ろから声を掛けられる。振り返れば寮生の最後に紹介された有里湊が立っていた。
青みかかった前髪で右目が隠れている、青い音楽プレーヤーをいつも首に掛けている人だ。初対面の挨拶以外に話をしたのはこれが始めてである。
「他の先輩には見えないんですか?」
「鍵を持った人しか見えないらしいよ」
そう言って見せられたのはアマネが持っているのと同じ形をした鍵だ。アマネも首から提げている鍵を取り出して見せると有里は鍵をしまう。
「もう少ししたら出発するから、今は行かないでね」
踵を返して二階への階段の前へ戻っていく有里は、口数が少ないことに加えてどうも感情の起伏の少ない不思議な人物だ。けれども特別課外活動部という名称らしいこの集まりのリーダーをやらされている。それなりに実力があるのか責任感があるのか。
「今日は斑鳩のペルソナの確認と戦闘の実演だ。有里たちがついているから緊張しなくていいが、危ないと思ったらすぐに逃げるように」
エントランスへ残ってサポートするらしい美鶴に見送られて階段を昇ると、壁や床に血のような染みの付いた廊下が続く。ここから階段を探しながら上を目指していくのが普段の行動らしい。
有里を先頭に進んでいけば、シャドウが見つかる。僅かに興奮する伊織とは逆に緊張した面持ちの岳羽が弓矢を番え、アマネの隣で有里が剣を構えた。
「ちょっとジュンペー! 今日は斑鳩君の練習なんだからね!」
「分かってるって! いけ斑鳩!」
ちらりと隣の有里を見てから、腰のホルダーから拳銃を引き抜く。
こめかみへ銃口を押し当て、一息に引き金を引いた。
***
「あー斑鳩はー、家の事情で入学が遅れてしまったがー――」
妙に語尾を伸ばす担任による紹介が終わって席に着く。初めての光景がどうしても転校した時の雰囲気と一緒なのは、一ヶ月分の空白のせいだ。
授業自体は今までの経験のこともあって簡単に追い付く。むしろ授業を受ける必要も無いくらいなのだが、今までの分のノートだけはそのうち誰かに見せてもらったほうが良いだろう。
もうすぐ中間試験らしく皆必死で、いきなり登場したクラスメイトより勉強に意識がむいているので、話し掛けるのはそれなりに余裕そうなヤツを選ぶしかないだろうが。
「なぁ斑鳩、お前って勉強できる?」
「さぁ? 高校になって勉強がどうなってるか分かんねぇからなぁ」
「一ヶ月なんて無いのと一緒だって! な、ちょっとここ分かるか?」
いきなり話しかけてきた隣の席の男子学生のノートを覗き込む。余裕そうどころか余裕の無さそうな彼は数学の公式を間違えて覚えていた。
「ここ間違ってるぜぇ」
「マジで? ぅわホントだ。サンキュな! ……お前眼の周り赤くね?」
指摘されてさりげなく目元を押さえる。まだ熱を持っているかのような感覚に昨日夜更かししてしまったのだと誤魔化して笑いながら、間違えている数式をもう一つ教えてやった。
彼に指摘された通り、アマネの眼は今赤く腫れている。昨日、正確には学校へ行く支度を始めるまで、アマネは泣いていたのだ。
昨日の影時間、アマネは初めてペルソナを召喚した。身体から何かがすり抜ける感覚と共に姿を見せたアマネのペルソナは、イブリスという名前らしい。
微妙に違うが自分らしいペルソナだと思う。黒い炎を纏う姿も一目で気に入った。
ただ、召喚すると同時に酷い喪失感に襲われたのだ。
自分が死んだ時や目の前で『鏡』と呼んだ彼が眠った時のような、身体のどこか大事な一部が失われたかのような感覚。不自由にしか歩けなくなってしまったかのように苦しい。
シャドウを一発で倒すとアマネのペルソナは消えた。消えた途端喪失感は無くなったのだけれど、残ってしまった引っ掛かりが気になってもう一度召喚させてもらったが、その時はもう喪失感も何もなかった。
どういうことだろうと足りない情報を求めてこめかみに手を当てる。
頭痛がしなかった。
いつもなら頭痛とともに浮かび上がる情報も浮かんでくることはなく、ただ何も考えられない思考とこめかみに当たる冷たい手の感覚が冴える。
失ったのはアレだったのかと冷静に理解しながら手を降ろして、何事も無かったかのように歩き出す。
それも耐えられたのはタルタロスを出て帰るまでで、寮に戻った途端挨拶もそこそこに自室へ飛び込み泣いた。
今まであれだけ当たり前だったものが一切使えなくなるということが、こんなにも悲しく寂しいことだとは知らなかったのだ。鬱陶しいと思ったこともあるあの頭痛が、今はこんなにも恋しいと思える。
それがペルソナの開放と関係しているということは、考えなくても分かった。
***
「凄くね? お前凄くね?」
数日後。貼り出された中間試験の結果を見て隣の席のクラスメイトこと佐藤がアマネの肩を掴んで揺さぶってくる。正直頭が揺れて辛いのだが、喜んでいるらしいので放置することにした。
あれから彼はアマネの教え方が分かりやすいからと一緒に試験勉強をするようになり、今回の中間試験では過去に無いほど好成績を取れたらしい。高校に入学して一発目の試験で好成績なら今後の自信も付いたことだろう。
ちなみにアマネはちゃっかり学年十位以内に入っているが、念の為わざといくつか問題を間違えて解答している。下手に好成績を叩き出して一ヶ月いなかったくせにと妬まれるのが嫌だったからだ。
掲示板には違う学年の成績表も張られている。同じ寮の知っている名前を探せば、二年の十位以内のところに有里の名前を見つけた。
「……頭良いんだなぁ」
「おー、斑鳩じゃん」
掲示板を見上げていたところに名前を呼ばれて振り向けば、伊織が少し肩を提げて歩いてくるところである。
「誰?」
「同じ寮の先輩」
「見たぜ。お前も頭良いんだな」
隣にいる佐藤は先輩ということで少し尻込みしていたが、伊織は気にした様子はない。
「知ってるか? 十位以内だと桐条先輩がご褒美くれるんだぜ」
「それじゃあ楽しみですね」
「いやオレッチは貰えねぇし。貰ったら何貰ったか教えてくれよ」
クラスメイトか少し離れた場所から呼ばれて伊織は行ってしまう。残されたアマネが伊織の名前を探そうとまた掲示板を見上げようとすると、横から佐藤に脇腹を突付かれた。
「んだぁ?」
「お前、桐条先輩とも同じ寮なのかよ!? しかもご褒美! 貰ったらオレにも教えて!」
何故か興奮している佐藤に呆れる。実は桐条に憧れているのかもしれない。確か彼女は生徒会長らしいから佐藤が知っているのもおかしくは無いだろう。
「桐条先輩が好きなのかぁ?」
「バッカ! そうじゃない。でもあの美貌にスタイル……是非ハイヒールで踏んでもらいたいな!」
変態だった。
「さようなら佐藤君。俺にマゾフィストのクラスメイトはいなかったんだぁ」
「ちょっ、待て斑鳩! 待て、待ってください斑鳩!」
放課後になって祝杯と称し、佐藤とはがくれで牛丼を食べた後。
寮に帰ってきて宛がわれた部屋へ戻ろうとしたところで有里と廊下で出会った。
「順位見ましたよ。頭良いんですね」
「学力は、つけてるから」
無表情で話す有里は、立ち止まってイヤホンを外した。そこまでしてもらって悪いが、会話はそれ以上続けられそうもない。どうしたものかと思いながら有里を見つめていると、有里は少し困ったように視線を逸らした。
「……君も、頑張ったんだよね」
「え、あ、はぁ」
「こういう時、なんて言えば良いのかな」
顔色もよく見ていなければ分からないほど変わらない姿に一瞬理解出来なかったが、有里は構わず悩んでいる。
彼はどういう訳かアマネを褒めたい様だった。同じ寮に住んでいるだけの他人だというのに中間試験の成績程度で褒めようとするのも、褒める為には何と言えばいいのか分からずにいるというのもおかしな話ではある。
ただ、気持ちは理解出来た。
「あ、と。昔、とりあえず笑って頭を撫でてやれば良いって言われたことがあり……⁉」
「こう?」
話の途中で伸ばされた手がアマネの頭に触れて、不器用に頭を撫でた。アマネのほうが有里より背が高い為有里は少し背伸びをしているが、頭を撫でるという行為に思わず硬直したアマネはしゃがむなり離れるなりという行動が出来ない。
撫でられていると認識した途端異常に恥ずかしくなったが、有里は構わず撫で続け、微かに微笑む。
「……うん。頑張ったね」
「影時間終わったら何か食べて帰りませんか?」
「……ああ」
目の前の三人に気が向いていない桐条は、伊織順平の言葉にも適当に返すだけだ。
「どうかしましたか?」
「……どうも人の気配がするんだ」
桐条の言葉に反応するように四人からそう遠くない建物の窓が突然割れた。シャドウの襲撃かと身構える有里達の視線の先で、割れたばかりの窓から何かが飛び出してくる。
「っうお⁉」
「キャッ!」
小さい悲鳴は岳羽ゆかりからだ。
飛び出してきた何かの一部は黒いシャドウで、それを下敷きにしながら人が落下してくる。
パーカーのフードを被って落下してきた人物は、シャドウを足の下に踏み付けながら怪我をすることも無く着地した。膝を曲げて衝撃を殺していた姿勢から立ち上がるその人物が、有里達に気付いてフードの下から視線を向ける。
顔は分からないがその服装や雰囲気からして有里達と同年代だろう。
「……言っとくが、正当防衛だからなぁ」
大きいが少し低めで耳触りの良い声。
それが踏ん付けているシャドウに関することだと一拍置いてから気が付いて、有里は思わずゆかり達と顔を見合わせる。代表として桐条がその人物へ話しかけた。
「君は誰だ」
「高校生」
やはり同年代らしい彼はフードを深く被り直しながら靴の下のシャドウを踏み躙って消滅させる。この影時間にああして動いていられるということは適正のある者なのだろうが、それにしてはこの光景に驚くこともシャドウに怯えてもいない。
落ち着き過ぎていて逆に怖いくらいだ。
「驚かないのか?」
「何にぃ」
「この状況にだ」
「驚いた後だぁ。もう慣れたぁ」
低い声だからおそらく男なのだろうと当たりをつける。影時間に適正があってもペルソナ使いでなければシャドウに襲われてしまう筈なのだが、彼は踏み潰すことで一応シャドウを消滅させた。ということは彼もまたペルソナ使いの素養があるのかもしれない。
同じことを美鶴も考えたのか、彼女がその青年へ一緒に来るように言おうとしたところで、有里はシャドウの気配を感じた。
シャドウが彼の背後から彼に襲い掛かる。彼も振り返りながら回し蹴りをシャドウへ当てていたが、数が多い上にタイミングがずれて避けられない。
「オルフェウス!」
咄嗟に召喚したオルフェウスが彼を守るようにシャドウを叩きのめす。それを見た彼が驚いたように眼を見開きながらこちらを振り返った。
フードの下から覗くそれは珍しい紫色。たった一瞬だけ見えたそれを有里はとても“綺麗”だと思った。
あんな綺麗なものがこの世界にはあったのか、と。
オルフェウスが役目を終えて消える。彼の周囲にシャドウは一匹も居なくなり、驚いたようにそれまでを目撃した彼はしかし、苦痛に顔をしかめ糸が切れたかのように気を失って倒れた。
***
竪琴を持った機械人形の様なものが自分に襲い掛かってきた黒い物体を叩きのめした姿を最後に激しい頭痛に襲われ、アマネの現実での意識は終わっていた。
今目の前にあるのは一面青で染められた部屋。窓の向こうの光景は下へ下へと移動している。
部屋には青い扉と青い服を着た女性。それに青い椅子へ座る鼻の高い老人。覚えのない光景ながらにこれは夢なのだろうとすぐ結論付けたのは、いい加減こういう状況に慣れたからだ。
「これはこれは。珍しい方が来られましたな。どうぞお座りください」
老人に言われテーブルを挟んで向かいにあった椅子へ座る。どうにも落ち着かない気分がした。
「ここはベルベットルーム。貴方もどうやらお客様のようですな」
「っていうかどういう状況だか分かってねぇんだけど」
「後々理解なされていくでしょう。私から貴方へ話せることはどうやら少ない」
「どうしてぇ」
「貴方は私のお客様であると同時に、私のお客様足り得ないようですので」
老人の言葉の意味が分からず、アマネはこめかみへ手を伸ばす。『×××』の知識を得る時のもので、いつの間にか癖になっていた。正確には知識を得る時に覚える頭痛を堪える為のものだ。
なのだけれど、今は何故かいつまで待っても頭痛がしない。更に言えば普段なら意識せずともこめかみに手を伸ばすだけで引き出されていた情報も、この時はいくら待っても訪れなかった。
今まで一度もなかった知識を得ることが出来なくなっている事実に動揺していると、目の前の老人がテーブルへ鍵を置いた。
「これをどうぞ。それでも貴方はお客様ですので。次はご自分の意志でこちらへいらしてください。もっとも、貴方にこの場所が必要かどうかは分かりませんが」
受け取って良いものか鍵を見下ろしながら考えていると老人は続ける。
「それと伝言がございます。『見つけて』とのことです」
「……一つ、いいかぁ?」
「どうぞ」
老人はそれが礼儀であるかのようにまっすぐアマネを見つめる。
「それは誰からの伝言だぁ?」
「『誰』でもありませんが、貴方宛の伝言であることは間違いないでしょう」
手を伸ばして鍵を握り締めると老人はニ、と目を細めた。鍵を受け取ってもらえたことが嬉しいかのようなその表情筋の動き。
それを見てアマネは嗚呼、コイツも完璧な人ではないのだと漠然と悟る。そもそもこんな夢なのか現実なのかよく分からない場所にいる時点で普通ではないのか。
老人の脇に立っている女性に目を向けるとニコリと微笑まれた。
「またのお越しを、お待ちしております」
見覚えのない天井が見えて起き上がると、アマネが寝かされていた寝台の脇で誰かが眠っていた。起こすべきかを悩んでいると部屋のドアが開かれる。
「眼を覚ましたのか」
「……ここは」
「私たちの住んでいる学生寮だ」
紅い髪をしたお嬢様然とした女性は確かあの時話をした人だ。大型バイクを押していた姿を覚えている。
「君はあの後いきなり倒れてしまったのでな、急遽ここへ運ばせてもらった。名前を教えてくれるか?」
「斑鳩 周」
「私は桐条美鶴。月光館学園の三年だ」
「俺は一年です。……月曜から」
「転校生か?」
「家の事情で入学が遅れただけです」
「ではこの街には最近来たばかりか?」
「単刀直入に言わせてもらえるなら、あの変な空間に入ったのはアレが初めてですよ」
「ふむ」
それが聞きたかったのだろうと予測を付けて発言すれば、どうやら当たっていたようで美鶴はアマネの返答を聞くとそのまま考え込み始めてしまった。どうしたものかと思いながら、アマネはそろそろ足に乗りかかって眠っている者を起こす為に手を伸ばす。
色素の薄い髪に、服の上からでも分かる引き締まった身体はボクシングのようなスポーツをやっているのだろう。揺さ振られて小さく唸りながら顔を上げたその青年は、アマネが起きていることに気付くと寝台へ手を突いて勢い良く身を乗り出してきた。
「眼が覚めたのか。気分はどうだ?」
「悪くはありません」
「オレは真田明彦だ」
差し出された手をよく分からないまま握る。どうも『昔』の幼馴染に似ている気がして落ち着かない。その様子を真田はどう思ったのか、立ち上がって椅子を美鶴へ譲ると水を持ってくると言って部屋を出て行った。
「私たちはアレをシャドウと呼んでいるんだ」
「いきなりですね」
「君は物分りが良さそうなのでね」
前置きも無く唐突に本題へ入った桐条の話を聞く。
あの不気味な世界は影時間ということ。黒い物体はシャドウといい、アレに襲われると最近流行して世間を騒がせている無気力症になってしまうのだという。美鶴達にはそのシャドウを倒せる能力があり、シャドウの被害から人々を守る為に頑張っているらしい。
シャドウを倒せる能力は適正のある者とない者がいて、無い者は影時間の中ではあの棺の姿になって影時間を認識出来ないそうだ。
自分の場合はどうなのだろうなとアマネが考えていると、美鶴はアマネにとって意外なことを口にした。
「それでどうやら君にもそのシャドウを倒せる能力、ペルソナ能力の適正があるようだ」
「勘違いじゃないですか?」
「影時間にあれだけ動けるんだ。勘違いの訳がないだろう」
自分の場合はありうると思いながらも、その理由を話すつもりも無かったのでアマネは黙って続きを促す。
「そこで、だ。君にも私たちに協力してもらいたい」
***
学校へ行く前に引越しかという思いをため息一つで落ち着かせて、アマネは新しい自分の住処となった学生寮の一室でダンボールを潰した。
美鶴の勧誘を受け入れたアマネに、美鶴はその日の内に現在住んでいるアパートから巌戸台分寮への引っ越しを指示して来たのである。何でも影時間やシャドウについては一般人には秘匿されており、影時間への適性持ち並びにペルソナ能力適正者は美鶴の一族が経営している桐条財閥が保護や管理を行っているらしい。
つまり、影時間に適性があるという時点でアマネがこの分寮へ入ることは決定事項だったのだろう。そう考えると、結局数日だけのアパート暮らしだったので荷解きがちゃんと終わっていなかったことだけが幸いである。というよりそもそもの荷物自体少なかったが。
一応荷物の整理に一段落着いたので休憩しようと、まとめたダンボールを持って階下に運ぼうと前屈みになった時、アマネが首から掛けていた鍵がダラリと垂れ下がった。あのベルベットルームで老人から貰った鍵である。
紐を付けて首から提げていたのはなんとなくだが、眼に入ったその鍵を摘まんで目の前に持ってきたアマネは、もう一度複雑な思いを静める為にため息を吐いた。
斑鳩 周には『何度も転生を繰り返した』という事実がある。
転生した先は同じではなく様々な常識、法則、展開が横行する数多の世界であり、そして今はこの世界で生きているという話だ。生きてきた場所によっては戦いに巻き込まれ、時には結果的にそうなっただけではあるが世界を救いもしている。
そんな人生だったからどうせ今回も何かあるのだろうと物心着いた頃から考えていたが、中学を卒業するまで何も無かったせいで、今生は何もない様だと油断していた。
それが高校で始まったようである。
「……にしても、『見つけて』なぁ」
服の下に鍵をしまいながらまとめたダンボールを持って部屋を出た。二階が男子部屋で三階が女子部屋と別れているこの寮は、まだ数人しか寮生はいないらしい。
そのうち二人が美鶴と真田。後はあの影時間の時に見た三人。一年生は今のところアマネ一人らしいから、全員が年上となり結構新鮮な状況だと思う。
裏口から出てダンボールをゴミ捨て場へ置いて戻ると、ラウンジに人が数人集まっていた。
「斑鳩、いい所に来た」
美鶴と、帽子を被った青年と首にチョーカーを付けた少女の二人。名前を知らないので軽く頭を下げるだけで三人が座っているソファへ近付けば、美鶴がテーブルの上に置いていたトランクを開ける。
「君の分の召喚器だ。さっそく用意が出来たので渡しておくよ」
そう言って渡されたのは銃口に詰め物のされた拳銃。一応本物と同じ重さをしているが詰め物をしていては撃てないだろうに。そう思うが必要なのは自分を撃つという動作であって行為ではないらしい。礼を言ってホルダーへ入れて腰に装着してみる。
「なんかさ、慣れてね?」
ごそごそと腰元を弄っているアマネを見ながら帽子を被ったほうが呟いた。顔を上げれば目が合ってぎこちなく笑われる。
「彼は伊織順平、こちらは岳羽ゆかりだ。君の先輩になる」
「宜しくお願いします」
「お、おう! よろしく」
「こちらこそ」
「もう一人いるんだが今は出かけていてな。帰ってきたら紹介しよう」
伊織も岳羽も、あの竪琴を持ったペルソナが出てきた時に聞こえた声ではなかった。だからその、最後の一人とやらがあのペルソナの持ち主なのだろう。
***
「中間試験一週間前なのにタルタロスっていうのは、ちょっと嫌だね」
「すみません」
「真面目なんだよゆかりッチは。こんなの勉強の間のちょっとした気分転換だろ。な?」
目の前でまるで月へ向かって立ち昇る塔を見上げるアマネを間に挟み、伊織と岳羽が話している。タルタロスと呼んでいるらしいその塔こそがシャドウの巣窟なのだそうだ。
試験一週間前だというのにここへ来たのは、新しい仲間であるアマネのペルソナの確認と少しでも影時間やシャドウ退治に慣れるようにという配慮らしい。それぞれ弓矢や大剣といった武器を抱えてタルタロスのエントランスへ入る。
ちなみにアマネの武器は今のところ駅前の飲食店で入手した包丁で、気絶したアマネを運ぶ際に持っていることに気付いてそのまま一緒に寮まで持ってきたらしい。個人的には正直捨てても良かったのだが。
エントランスでバイクを停め、美鶴が自身のペルソナを使って階上の様子を探っている。
いつもこんな感じなのだろうかと周囲を見回していると、エントランスの脇に青い扉があることに気付いた。
「君も見えてるの」
扉を見つめていると後ろから声を掛けられる。振り返れば寮生の最後に紹介された有里湊が立っていた。
青みかかった前髪で右目が隠れている、青い音楽プレーヤーをいつも首に掛けている人だ。初対面の挨拶以外に話をしたのはこれが始めてである。
「他の先輩には見えないんですか?」
「鍵を持った人しか見えないらしいよ」
そう言って見せられたのはアマネが持っているのと同じ形をした鍵だ。アマネも首から提げている鍵を取り出して見せると有里は鍵をしまう。
「もう少ししたら出発するから、今は行かないでね」
踵を返して二階への階段の前へ戻っていく有里は、口数が少ないことに加えてどうも感情の起伏の少ない不思議な人物だ。けれども特別課外活動部という名称らしいこの集まりのリーダーをやらされている。それなりに実力があるのか責任感があるのか。
「今日は斑鳩のペルソナの確認と戦闘の実演だ。有里たちがついているから緊張しなくていいが、危ないと思ったらすぐに逃げるように」
エントランスへ残ってサポートするらしい美鶴に見送られて階段を昇ると、壁や床に血のような染みの付いた廊下が続く。ここから階段を探しながら上を目指していくのが普段の行動らしい。
有里を先頭に進んでいけば、シャドウが見つかる。僅かに興奮する伊織とは逆に緊張した面持ちの岳羽が弓矢を番え、アマネの隣で有里が剣を構えた。
「ちょっとジュンペー! 今日は斑鳩君の練習なんだからね!」
「分かってるって! いけ斑鳩!」
ちらりと隣の有里を見てから、腰のホルダーから拳銃を引き抜く。
こめかみへ銃口を押し当て、一息に引き金を引いた。
***
「あー斑鳩はー、家の事情で入学が遅れてしまったがー――」
妙に語尾を伸ばす担任による紹介が終わって席に着く。初めての光景がどうしても転校した時の雰囲気と一緒なのは、一ヶ月分の空白のせいだ。
授業自体は今までの経験のこともあって簡単に追い付く。むしろ授業を受ける必要も無いくらいなのだが、今までの分のノートだけはそのうち誰かに見せてもらったほうが良いだろう。
もうすぐ中間試験らしく皆必死で、いきなり登場したクラスメイトより勉強に意識がむいているので、話し掛けるのはそれなりに余裕そうなヤツを選ぶしかないだろうが。
「なぁ斑鳩、お前って勉強できる?」
「さぁ? 高校になって勉強がどうなってるか分かんねぇからなぁ」
「一ヶ月なんて無いのと一緒だって! な、ちょっとここ分かるか?」
いきなり話しかけてきた隣の席の男子学生のノートを覗き込む。余裕そうどころか余裕の無さそうな彼は数学の公式を間違えて覚えていた。
「ここ間違ってるぜぇ」
「マジで? ぅわホントだ。サンキュな! ……お前眼の周り赤くね?」
指摘されてさりげなく目元を押さえる。まだ熱を持っているかのような感覚に昨日夜更かししてしまったのだと誤魔化して笑いながら、間違えている数式をもう一つ教えてやった。
彼に指摘された通り、アマネの眼は今赤く腫れている。昨日、正確には学校へ行く支度を始めるまで、アマネは泣いていたのだ。
昨日の影時間、アマネは初めてペルソナを召喚した。身体から何かがすり抜ける感覚と共に姿を見せたアマネのペルソナは、イブリスという名前らしい。
微妙に違うが自分らしいペルソナだと思う。黒い炎を纏う姿も一目で気に入った。
ただ、召喚すると同時に酷い喪失感に襲われたのだ。
自分が死んだ時や目の前で『鏡』と呼んだ彼が眠った時のような、身体のどこか大事な一部が失われたかのような感覚。不自由にしか歩けなくなってしまったかのように苦しい。
シャドウを一発で倒すとアマネのペルソナは消えた。消えた途端喪失感は無くなったのだけれど、残ってしまった引っ掛かりが気になってもう一度召喚させてもらったが、その時はもう喪失感も何もなかった。
どういうことだろうと足りない情報を求めてこめかみに手を当てる。
頭痛がしなかった。
いつもなら頭痛とともに浮かび上がる情報も浮かんでくることはなく、ただ何も考えられない思考とこめかみに当たる冷たい手の感覚が冴える。
失ったのはアレだったのかと冷静に理解しながら手を降ろして、何事も無かったかのように歩き出す。
それも耐えられたのはタルタロスを出て帰るまでで、寮に戻った途端挨拶もそこそこに自室へ飛び込み泣いた。
今まであれだけ当たり前だったものが一切使えなくなるということが、こんなにも悲しく寂しいことだとは知らなかったのだ。鬱陶しいと思ったこともあるあの頭痛が、今はこんなにも恋しいと思える。
それがペルソナの開放と関係しているということは、考えなくても分かった。
***
「凄くね? お前凄くね?」
数日後。貼り出された中間試験の結果を見て隣の席のクラスメイトこと佐藤がアマネの肩を掴んで揺さぶってくる。正直頭が揺れて辛いのだが、喜んでいるらしいので放置することにした。
あれから彼はアマネの教え方が分かりやすいからと一緒に試験勉強をするようになり、今回の中間試験では過去に無いほど好成績を取れたらしい。高校に入学して一発目の試験で好成績なら今後の自信も付いたことだろう。
ちなみにアマネはちゃっかり学年十位以内に入っているが、念の為わざといくつか問題を間違えて解答している。下手に好成績を叩き出して一ヶ月いなかったくせにと妬まれるのが嫌だったからだ。
掲示板には違う学年の成績表も張られている。同じ寮の知っている名前を探せば、二年の十位以内のところに有里の名前を見つけた。
「……頭良いんだなぁ」
「おー、斑鳩じゃん」
掲示板を見上げていたところに名前を呼ばれて振り向けば、伊織が少し肩を提げて歩いてくるところである。
「誰?」
「同じ寮の先輩」
「見たぜ。お前も頭良いんだな」
隣にいる佐藤は先輩ということで少し尻込みしていたが、伊織は気にした様子はない。
「知ってるか? 十位以内だと桐条先輩がご褒美くれるんだぜ」
「それじゃあ楽しみですね」
「いやオレッチは貰えねぇし。貰ったら何貰ったか教えてくれよ」
クラスメイトか少し離れた場所から呼ばれて伊織は行ってしまう。残されたアマネが伊織の名前を探そうとまた掲示板を見上げようとすると、横から佐藤に脇腹を突付かれた。
「んだぁ?」
「お前、桐条先輩とも同じ寮なのかよ!? しかもご褒美! 貰ったらオレにも教えて!」
何故か興奮している佐藤に呆れる。実は桐条に憧れているのかもしれない。確か彼女は生徒会長らしいから佐藤が知っているのもおかしくは無いだろう。
「桐条先輩が好きなのかぁ?」
「バッカ! そうじゃない。でもあの美貌にスタイル……是非ハイヒールで踏んでもらいたいな!」
変態だった。
「さようなら佐藤君。俺にマゾフィストのクラスメイトはいなかったんだぁ」
「ちょっ、待て斑鳩! 待て、待ってください斑鳩!」
放課後になって祝杯と称し、佐藤とはがくれで牛丼を食べた後。
寮に帰ってきて宛がわれた部屋へ戻ろうとしたところで有里と廊下で出会った。
「順位見ましたよ。頭良いんですね」
「学力は、つけてるから」
無表情で話す有里は、立ち止まってイヤホンを外した。そこまでしてもらって悪いが、会話はそれ以上続けられそうもない。どうしたものかと思いながら有里を見つめていると、有里は少し困ったように視線を逸らした。
「……君も、頑張ったんだよね」
「え、あ、はぁ」
「こういう時、なんて言えば良いのかな」
顔色もよく見ていなければ分からないほど変わらない姿に一瞬理解出来なかったが、有里は構わず悩んでいる。
彼はどういう訳かアマネを褒めたい様だった。同じ寮に住んでいるだけの他人だというのに中間試験の成績程度で褒めようとするのも、褒める為には何と言えばいいのか分からずにいるというのもおかしな話ではある。
ただ、気持ちは理解出来た。
「あ、と。昔、とりあえず笑って頭を撫でてやれば良いって言われたことがあり……⁉」
「こう?」
話の途中で伸ばされた手がアマネの頭に触れて、不器用に頭を撫でた。アマネのほうが有里より背が高い為有里は少し背伸びをしているが、頭を撫でるという行為に思わず硬直したアマネはしゃがむなり離れるなりという行動が出来ない。
撫でられていると認識した途端異常に恥ずかしくなったが、有里は構わず撫で続け、微かに微笑む。
「……うん。頑張ったね」