ペルソナ3
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
学校の帰り、ふと顔を上げた遠目に荒垣の姿を見つけてアマネは立ち止まった。
まだあまり親しい仲とは言えないが、昨日の事もあって声を掛けてみようかと思って眺めていれば、荒垣はアマネの視線にも気付かないまま路地裏へと入っていく。
不良の溜り場である路地裏は以前にも荒垣が居た場所だし、好きな場所なのだろうかと考えてアマネも後を追いかける。
まだ活動時間としては早いのか不良の姿は殆ど見当たらない。その代わりにこれから店を開けるのだろう水商売の女性達がちらほら窺えた。学校帰りのアマネの格好はやけに目立つ。
「荒垣さん」
「……テメェか」
追いついた荒垣は階段の所に立ったまま何かを見つめていて、声を掛けるまでアマネには気付いていなかったらしい。機嫌が悪かったのか声がいつにも増して低かった。
「何か用か」
「いえ、姿を見たので追いかけてみただけです」
「なら気は済んだろ。さっさと帰れ」
再び前を向いて何かを見つめる荒垣が何を見ているのかアマネには分からず、かと言ってそのまま素直に帰るのも癪だったので、アマネは荒垣の隣で階段へ腰を降ろす。
「……おい」
「帰りにスーパー寄りたいんで、荷物持ちお願いします」
「勝手な奴だな」
「貴方だって勝手でしょう。湊さんになんて言ったんですか」
「ああ? オレぁ別に『あの一年は何か悩みでもあんのか』って聞いただけだ」
「悩みがあるようには見えたんですか」
「そう思っただけだ」
「人には誰にも言えねぇ悩みがあることぐらい、アンタには分かるでしょう」
荒垣から強い視線を感じ、アマネはわざとらしく肩を竦めた。
「アンタが気付いたのはその類ですよ」
「そりゃ……悪かったな」
「おかげでこっちは恥ずかしい思いをしたんだぁ。罰が荷物持ちで済んでありがたいと思ってくださいね」
「……素が出てんぞ」
「出してんですよ」
同じ寮で暮らし始めた上に聡い様なので、それならば早々に素の口調を晒していたほうが楽だ。
年上という事もあって完全に敬語を外すつもりはないが、実のところアマネは敬語が好きではない。
ましてやアマネの口調は『弟』と同じもので、数少ない共通点である。
髪を伸ばしているのだって、お揃いが良いと言われたというのもあるが、アマネ自身が共通点を欲して伸ばし続けているものだ。
「思ってたより煩せぇ奴だな」
「褒め言葉として受け取っておきます。……荒垣さん、病院に行きましたか?」
アマネを追い払うことを諦めて並ぶように腰を降ろした荒垣から、微かに薬品臭がしてアマネは顔をしかめる。
薬品臭だけであったら薬局へ行っただけかと思えたが、病院で良く嗅ぐ、腐っていない死臭やふやけた肌の匂いもしていた。
「分かんのか」
「人より五感がいいんです」
「チドリだったか? あのオンナに会いにちょっとな」
「知り合いじゃねぇでしょう」
「いや、知り合い……の知り合いか」
「ジンですかロン毛半裸ですか」
「……なんで片方はそんな悪意のある呼び方なんだよ」
アマネがその二人を知っているという事への突っ込みは無く、同時に荒垣自身もその二人を知っているのだと暗に告げていることに荒垣は気付いているのか。
知っているのだろうなと思いながら、アマネはカバンの中から学校でクラスメイトに貰った飴を取り出した。
「以前会った時、自分の考えに酔って人の話を聞かねぇ奴に思えたんで。そういう奴は嫌いですね。胸糞悪くなる」
荒垣にも一つ渡して口に入れた飴を、舐めるのではなく噛み砕く。
「尋問の手伝いでもしたんですか?」
「しねぇよ。……薬を届けただけだ」
「だいたい高校生に尋問させるっていうのも変な話だと俺は思いますがねぇ。それに彼女みたいな人種には、桐条先輩や真田先輩みたいに目的のことだけを聞きだそうとする人じゃ無理でしょう」
いくらあの二人がペルソナ使いだとしても、それ以外は普通の高校生であってアマネの様な特殊な、異常な存在ではない。本来であれば尋問なんて真似も一生することが無かったはずの人種だ。
そもそも人の話を深く理解することも、彼女達は苦手な気がする。
「熱心なだけだろ。それ自体は悪いことじゃねぇ」
「偏った思考の押し付けは嫌いだと、言ったばかりです」
「……あいつ等は真面目なんだ」
荒垣はそう言って飴の包装をポケットへ押し込んだ。口の中へ飴を放り込み、ニット帽を深く被り直して目元を隠す。
アマネにはそれが、重い感情を押し隠す為のように思えた。
「荒垣さん俺が来た時機嫌悪かったですよね。なんでですか?」
「……アキと少し喧嘩しただけだ。つかお前には関係ねぇだろ」
「寮の生活の一部を担っている身としては、寮生の精神状態の把握も大事な役割だとそれらしい言い訳でもしてみましょうか?」
「首を突っ込んでもいいことなんかねぇぞ」
「以前湊さんと伊織先輩が仲が悪くなって、夕食を別々に取るなんて作る側にとっては面倒な事をしようとしたので伊織先輩を叱った覚えがあります。そりゃもうしっかりと叱らせて頂きました」
「ほお……それで順平の奴はどうしたんだ?」
「ちゃんと夕食の席に着くようになりましたよ。俺は年上でも遠慮なく叱りますから、お二人が喧嘩したとしても、迷惑が掛かれば怒りますのであしからず」
「そりゃ怖ぇな」
喉を鳴らすように笑った荒垣をもう平気だろうかと横目で盗み見てから、アマネは立ち上がる。荒垣の機嫌が悪いうちは動かないつもりだったが、機嫌の悪さもアマネとの会話で少しは回復したらしい。
アマネとしてはここで何をしていたのかも聞きたかったが、雰囲気的に聞ける流れでは無かった。
有里をけしかけた事に対する文句も一応言ったし、もういいかとアマネを見上げていた荒垣へ手を差し出す。
「買い物。今日は親子丼にしようと思うんですけど、せっかくなんで他にも安かったら買い込みます」
***
最近天田が夕食を食べるなりすぐに部屋へ篭ってしまう。以前であれば夕食の片付けを率先して手伝ってくれていたのに。
と考えたところで、アマネは自分の思考がいわゆる母親の様になっていることに気付いて思い切りへこんだ。
「前にもこんなことあった気がするぅ。俺はだから保護者……」
「何ブツクサ言ってんの?」
「……いえ。それ油モノなんでこっちに置いておいてください」
夕食の片付けに、今日は帰ってきてから機嫌のいい伊織が手伝ってくれている。
昨日までは入院しているゴスロリ少女ことチドリのことで他に手が回らない程だったというのに、いったい何があったのか尋ねたくなる豹変振りだ。
アマネに訊く気は無いが。
「やぶ蛇というかなんというか……。あ、伊織先輩。冷蔵庫から今日のデザート出してくれますか」
「今日何?」
「ロールケーキ」
機嫌よく冷蔵庫を開ける伊織を背後にアマネは着々と食器を洗い、手に付いた水滴をタオルで拭いながら振り返る。今日も天田は既に部屋へ戻ってしまったようだ。
原因は、多分荒垣なのだろう。
他の皆が比較的荒垣へ好意的な感想を挙げていたのに、天田だけは少し胡散臭げな態度をとっていたから。
やはり彼等には因縁があるのだろうか。そう思っても荒垣と天田以外の態度、特に真田と美鶴に関していうと、別に変なところが無い。だから尚更困る。
荒垣が以前に居た頃を知っているのはあの二人だし、それだけ荒垣のことを分かっているだろう筈なのもあの二人だ。
ロールケーキを伊織に頼み、アマネは自分の分と天田の分を持って階段を上がった。
部屋の前でノックすれば、少し遅れてドアが開かれる。
「どうしてアマネさんはノックを三回するんですか? お陰で誰だか分かりやすいですけど」
「癖で。デザートのロールケーキだけど、食べるかぁ?」
「……頂きます」
受け取ろうと伸ばされた手に皿の乗ったお盆を渡すのではなく、天田の頭へ手を伸ばす。
「アマネさん?」
「……やらなくちゃいけない事ってのは、そうやって部屋に篭ってねぇと忘れてしまいそうな事なのかぁ?」
天田が目を見開き、それから困ったように目を逸らした。
「……心配かけましたか?」
「食べてすぐ部屋に戻るから、少しだけ。誰かと一緒に居るのは揺らぎそうで辛いかぁ?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。でも……ごめんなさい」
「俺が勝手に心配しただけだから、気に病みすぎてる訳じゃねぇならいい」
今度こそロールケーキを渡し、それでも一人で食べるらしい天田にドアを閉める。
アマネ自身はラウンジへ戻るのも憚られて、二階の談話室にある椅子へ腰を降ろした。ロールケーキはそれなりの出来である。
***
夜、イブリスを召喚しその膝を枕にして寝転がりながら左手の指先に紫色の炎を灯していると、慣れた気配が部屋の中心へ現れた。
「綺麗だね。でも指が熱くはないの?」
「特別な炎だからなぁ。俺自身は熱くねぇよ」
手のひらへ握り締めるように消して身体を起こせば、お決まりのようにファルロスがベッドの端へと座る。
「久しぶり」
「……何か、あったのかぁ?」
「どうしてそう思うの?」
「泣きそうな顔してるぜぇ」
アマネが指摘すればファルロスは気付いていなかったのか、自分の顔を包むように両手で触れた。
ここへ来る前は有里と話をしていたのだろうから、有里に何か酷いことでも言われたのかと思ったが、あの有里がそんなことをする様にも思えない。
「……俺は、スキンシップ以外に有効な慰め方を知らねぇんだけど」
ベッドの上を移動してファルロスの背後に回り、背中から抱きしめてやる。相変わらず体温の感じられない身体が抱きしめた直後は緊張で強張るが、すぐに力が抜かれるのが分かった。
「君は、暖かいね」
「お前は体温が無ぇ」
ファルロスの顔の前で、アマネは左手に藍色の炎を灯す。それに伸ばされるファルロスの手を見つめながら、アマネは召喚したままだったイブリスを戻した。
「嫌なことでもあったかぁ?」
「……君は何があっても僕と友達でいてくれる?」
「お前が友達でいたいなら、まぁ、構わねぇよ」
「何があっても、色々なことが変わってしまっても?」
「何があっても何が変わっても、俺が変わってしまう訳じゃねぇだろうし。そうだなぁ、俺が消えねぇうちは友達でいてやるよ」
「……そう。嬉しいよ」
ファルロスはそう言ってアマネの左手に灯された炎へ触れようとしたので、アマネは黙って炎を消す。僅かに残念そうな顔で振り返ったファルロスは、それでも微笑んでいた。
「最近、あの『塔』のことばかり考えてる。僕はあの塔に……ううん。やっぱりいいや。僕らはずっと友達なんだよね。それでいいや」
アマネの手をやんわりとどけたファルロスが立ち上がりアマネを振り返る。
「今日はもう帰るよ。君にずっと友達だって言ってもらえて嬉しかったよ」
「そっか。喜んでもらえたなら重畳だぁ」
「またね。おやすみ」
余韻も無く消えたファルロスの居た辺りから視線を逸らし、アマネは枕元へ置いたままだった召喚器をホルダーへ戻した。それから少し勢いをつけて枕へ頭を押し付け目を閉じる。
未だ正体の分からない少年。話の流れでした宣言の本当の意味を彼は分かっているのだろうか。
アマネにとっての『死』は、他の人とは違うのだと。
***
文化祭まで一週間を切った。
「文化祭に彼女を作って~とか、そういう感じがいいです斑鳩さん!」
「よし佐藤。そんなお前にはこの破けて使えなくなった切れ端で折ったやっこさんをやるよ」
「おおー、ってやっこさん男だし! しかも結局ゴミだし!」
「本当に男だと思ってんのかぁ? 正式名称は『ヤツコ』さんだったらどうすんだぁ」
「……つまりこれは女性⁉」
「まぁ嘘だけど」
「嘘かよっ!」
「そこの二人、駄弁ってないで手を動かしてよ!」
佐藤でふざけていたらクラスメイトの女子に怒られ、仕方なくアマネは黙って紙製の花を作る作業へ戻る。
アマネのクラスは教室で射的を行うらしい。
各自家からいらない小物などを集めて景品に、ということだが生憎アマネには不必要な物が無かったので、寮の皆に尋ねて真田の使用済み手袋と美鶴の読み終えた小説などを出してみたらクラスメイト達がざわついていた。流石超高校級ボクサーと生徒会長である。
今は射的台を飾る花を作っていた。正直花の飾りなんていらないとは思うのだが、こういう時は積極的な女子に逆らってはいけないというものだ。
「でもさぁ、当日大型台風来るかもって話しだし、客とか来なそうじゃね?」
「あー、別に知り合いとか来るわけじゃねぇからなぁ」
「あーそっか。ごめん」
佐藤が謝ったのはアマネの家の事情をある程度知っているからだ。
実のところアマネが気にしていないので佐藤も大して気にしないことにしているらしいが、こういう時は必ず言葉だけでも佐藤は謝る。
作り終えた花の数を数えて、頼まれた分を作り終えたことを確認してから当日組み立てる台の傍へ置く。前日にでもならないと射的台のような本格的な準備は出来ない。
次の仕事を探そうと歩きながら見た窓の外は、台風が来る前触れというわけでもないだろうに、曇り空だった。風はまだそう強くはない。
「雨降るかな。今日傘持ってきてねぇや」
同じ様に窓の外の空を見上げた佐藤が呟く。
アマネも鞄の中に折り畳み傘が入ってはいるが、流石に二本も入ってはいない。
「風邪引くなよぉ」
「え、なに。オレ濡れて風邪引くこと決定事項なの?」
「見舞いにプリン作ってやるよ」
「……今ほど斑鳩が女だったらなぁって思ったことは無い。もういいよお前で。女装して見舞いに来てよ」
真顔で言われて、アマネは自分で振った冗談だと分かっていながらもとりあえず佐藤の頭を叩く。
痛がる佐藤を無視して、ダンボールを運んでいた女子のほうへ手伝いを名乗り出ることにした。
***
週末の台風に対し、寮の台風対策が不安であるとアイギスに言われて、とりあえず雨漏りのしそうな所だけ確認しておこうと一緒に寮を見て回る。
アイギスが気になっていたのは屋上への扉の端と、四階のトイレの窓。それから二階の廊下の端の窓らしい。
屋上の扉の端は軽く詰め物をすれば平気そうだった。トイレは女子トイレのほうだったので後で美鶴に報告しておくことにして、問題は二階の廊下の端。
「……あー、台が無いと見えねぇなこりゃ」
今までの雨が原因で既に窓枠の上部には染みが浮かび上がっていて、流石にアマネでも届かない場所である。談話室の椅子を持ってきて台代わりにして昇ってみるも、あと少しが足りない。
振り返ってアイギスを見下ろすと、いつの間にかアイギスの足元にはコロマルも居た。それぞれアマネを見上げている。
「アイギスさん。真田先輩か荒垣さんを連れてきてくれますか? あの二人の方が俺より背が高いので見えると思うんです」
「了解であります」
踵を返してアイギスが一階のラウンジへと向かったのは、雨漏りの確認へ動き出す前に真田と荒垣の二人がラウンジに居たのを見ていたからだろう。その後を追いかけるようにコロマルも行ってしまった。
もう一度今度は爪先立ちをして、アマネは雨漏りの染みが出来ている箇所へ顔を近づける。手を伸ばせば触れることは出来るが、触るだけでは具合が分からない。とりあえず木枠が腐り始めている感じがする。
「――斑鳩?」
「ぅわ、荒垣さん、っ⁉」
後ろで自室から出てきたのだろう荒垣に声を掛けられ、振り返ろうとしたところでアマネはバランスを崩した。
倒れるように台代わりの椅子から落ちそうになり、咄嗟に椅子を蹴って宙返りしながら着地しようと考えて、荒垣が何処にいるのか分からないということに気付いて踏み切ろうとしていた足から力を抜く。
目の前でバランスを崩して落ちそうな人がいたら、慌ててドアから出てきているかもしれなかったからだ。そうなるとアマネが宙返りで落下の危機からは脱しても、着地地点でぶつかるかもしれない。
巻き込むくらいなら自分が怪我をしても落ちたほうがいいとアマネは思ったのだ。
受身を取るつもりで伸ばしていた手が一度何かにぶつかり、全身が床よりも柔らかいものに抱きとめられる。そのまま一緒に尻餅をついたと同時に椅子が音を立てて倒れた。
「……っ、おい、大丈夫か?」
すぐ後ろからの声に振り返れば、アマネを抱き止めた荒垣が見下ろしている。
「大丈夫です。すみません巻き込んで」
急いで立ち上がって椅子を直し、腰をはたきながら立ち上がった荒垣へ頭を下げた。内心ではやはり宙返りしなくて良かったと思いながら。
音に気付いてか有里が部屋から顔を出すと同時に、階段をアイギスと真田が昇ってきたのが見えた。
「今の音は何だ?」
真田が少し慌てている様子から、音が結構響いたのかもしれない。
「すみません。ちょっと椅子から落ちてしまいました」
全員に謝るようにアマネはもう一度頭を下げる。
「こんなところで何してたんだ?」
「オレはアイギスに斑鳩が呼んでいると言われてきたんだが」
「雨漏りの確認をしてたんです。俺じゃ届かなかったのでアイギスさんに真田先輩か荒垣先輩を呼んでもらいに行ってもらって」
そう言いながらアマネが窓枠の傍の染みを指差せば、全員が揃って窓枠を見上げた。その隙に示すのに挙げたのとは逆の手をさり気無く背中へ隠す。
先ほど何処かへぶつけたらしく、腕が少し痛い。
だが今それを確認しようとすれば変に心配させる気がして、アマネは背後へ隠した腕を誰にも悟られないように壁際へ移動する。
「シンジ」
「おう」
真田より背の高い荒垣が椅子へ乗って窓枠の上部を覗き込む。
アマネとそれぞれ数センチしか違わない筈だが、その数センチの差が大きい。成人すればおそらくアマネも荒垣と同じくらいなのだが、高校生の今はまだ足りなかった。
それでも一応百七十はあるのだが。
「木が少し腐ってんな。削って固めりゃ台風は耐えられんだろ」
「じゃあ明日帰ったらやります」
「見えないのにどうやってやるつもりだ?」
「椅子より高い台を持ってくればいい話ですから」
椅子から降りた荒垣に礼を言って椅子を片付けようと手を伸ばすと、その手を横から掴まれた。
「湊さん?」
「反対の腕、もしかして痛いの?」
場の雰囲気がよく見てらっしゃる、とふざけることが出来ない空気に変わる。
「アマネさん。負傷したのでありますか?」
「いや、その、別に」
「見せて」
有里の拒否を許さない強い声に、真田と荒垣も目つきが険しくなった。
これはちょっと誤魔化しきれないなと諦めて、アマネは背中に隠すようにしていた右腕を前に出す。
「うわっ」
それを見て真っ先にアマネ自身が驚いた。
「これは、痛くない訳が無いな」
真田の言うとおり、右腕の正確には手首の辺りが赤く腫れ上がっている。
見た途端ハッキリと感じるようになった熱と痛みに、これは時間を置くと青黒く変色するタイプだとアマネが冷静に観察していると、有里が腕を引っ張った。無論手首は掴んでいない。
「冷やさないと。救急箱何処だっけ」
「ラウンジの棚の……ってか椅子片付けねぇと」
「馬鹿野郎! 冷やすのが先だろ!」
「椅子はオレが運んでおくから、有里、連れて行け」
荒垣に怒られ真田に諭されアイギスにジッと見つめられ有里に引っ張られ、その場に留まって治療を拒否する理由も無くアマネは大人しく有里に付いて行く。
ラウンジにはまだ美鶴や岳羽がいて、駆け足で降りてきた有里とアマネを見て不思議そうにしていたが、ソファへ座らせられたアマネの手首を見ると驚いて声を掛けてくる。
「うわ痛そ……何があったの?」
「椅子から落下の際、ぶつけたと推測しました」
「椅子から落ちた……さっきの音はそれか。岳羽、冷蔵庫から氷を持ってきてくれ」
美鶴の指示で岳羽がキッチンへ向かい、入れ替わりに有里が救急箱を持って戻ってきた。
湿布を張るだの先に冷やすだの、実際に怪我をしているアマネを置いて周囲が騒いでしまっている。コロマルが近付いてきてアマネの手に顔を近付けた。
「コロマル、触っちゃ駄目!」
「んな慌てなくても大丈夫ですよ。骨が折れてるわけでもないんですから」
「それでも痛いだろ」
「氷持って来たよ!」
気が動転しているのかビニール袋に氷だけを入れてきた岳羽に僅かに苦笑する。彼女も部活で怪我をすれば患部を冷やすことがあるだろうに。
それとも最近は冷却スプレーが主流か。まぁ部活でならその方が手軽かもしれない。
差し出された氷の袋を一応受け取ろうと手を伸ばすも、ラウンジに降りてきたらしい荒垣が岳羽の後ろからそれを奪い取る。
「氷だけじゃなく水も入れなけりゃ駄目だろうが」
「え、あ、そっか」
「ったく」
袋を持ってキッチンへ向かう荒垣を、既に包帯を構えて巻くスタンバイをしている有里が見ていた。その横では同じ様にアイギスが湿布を用意している。
「美鶴、雨漏りのことだが明日二階のとこだけシンジが応急処置をするそうだ。あとで業者の手配を頼む」
「荒垣さんがするんですか。俺が……」
「お前はその手で出来ると思ってるのか」
同じく降りてきた真田の言葉に黙ると、美鶴が少し怒ったようにアマネを見た。
「斑鳩。いつも色々寮のことをやってくれるのはとても助かるが、君一人で全てをやる必要は無いんだ」
「分かってるつもりですが」
「分かってたらそんな怪我しねぇだろ」
戻ってきた荒垣がソファの後ろへ回ってアマネの腕を掴み、水の入って柔らかさを得た氷入りビニール袋をタオルで包んだ、簡易氷嚢を患部へとゆっくり押し当てる。
熱が奪われる感覚と予想以上の冷たさで指先が僅かに痙攣した。
「寮のことも皆でやればいいだろう? 何も全てやるなと入っていない。ただ君はもう少し私達を頼るべきだ」
そんなに自分は一人で全部をやろうとしていただろうかと、アマネは内心で首を傾げる。
アマネにとって家事やある程度の労働は全て雑用であり、それを片付けるのがいつの頃からか自分の趣味になっていただけだ。
裏方の仕事が、アマネの役割だろう。
人がやろうとしないこと、意識しないことをアマネがやれば他の人は他のことが出来るのだから、自分にやることが無いのならアマネが動いたほうが早い。
「全部やってるつもりは無ぇです。ただ俺は雑用をこなすのがいつの間にか趣味になってて……痛っ!」
「その雑用ってのが全部なんだろこの馬鹿」
押し付けられた氷嚢が痛い。
すぐにまた元の様にやんわりと冷やされるが、見上げた先の荒垣は逆にアマネを睨んでいた。
「週の殆どの飯作ってこの広い寮を一人で掃除して、その上勉強したりシャドウ退治もやってんじゃねぇか。しかもタルタロスでの戦い方も一人で突っ走るようなやり方だしな」
「いや勉強はあんまり……すみません黙ります」
実のところ勉強はさほどしていないし、タルタロスでの戦い方も長年一人だった癖が抜けていないだけだと思ったが、アマネは口答えするのを止めて黙る。
良く見ているなと荒垣に対して思ったが、美鶴や真田、有里も同意している辺り彼等も気付いてはいたのだろう。
人の動きに、取分けアマネの動きに気付ける様になったというのは、彼等が戦闘慣れしてきたということでもあるから喜ばしい事なのだが、今の状況では嬉しくない。
「斑鳩君って、人に頼むってことあんまりしないよね」
「出来ない事があっても、手を貸して欲しいと言うのが苦手なんじゃないのか?」
岳羽と真田の言葉に肩が震える。
「そうなのか、斑鳩」
「……いいてぇええええっ! 押すんじゃねぇ!」
否定しようとしたら思い切り患部を押さえられて思わず叫んだ。
咄嗟に岳羽と美鶴が耳を塞ぎ、有里と真田は顔をしかめている。普段から大声のアマネが叫べばそれも当然だろう。
敬語も忘れて後ろの荒垣に掴まれている腕を振り払って自由を取り返す。が、その拍子にソファへぶつけて今度こそ悶絶した。
「煩せぇ」
「……っ、だろうなぁ畜生思い切り押しやがってぇ」
痛みで薄っすら涙目である。氷嚢を奪い取って自分で患部に押し当てた。
コロマルが不思議そうに鳴くのが、こんな状況だというのに和む。
「その様子じゃ当分飯も掃除も出来ねぇな。いい機会だ。寮の全員で暫く掃除だけでも分担しとけ」
そう言ってラウンジを後にする荒垣にやられたと思った。美鶴は名案だとばかりにさっそく掃除の分担を考えているし、真田も納得して頷いている。
舌打ちして岳羽に氷嚢を渡し、やりたがるアイギスから湿布を奪って貼り、有里から包帯を奪おうとして失敗し、無言の圧力を受けて包帯を巻かれてから立ち上がった。
包帯の巻き方は有里が慣れていないせいか歪である。だがまだ風呂へ入っていないので入浴後に自分で巻き直せばいい。
荒垣に文句を言おうと岳羽から一応氷嚢を受け取って手にしたまま階段を昇ると、後ろから一人分の足音が聞こえ振り返った。
「湊さん」
「怒ってる?」
数段後ろから有里に尋ねられて、アマネはどう答えたものか悩む。
怒ってはいるが、それは有里達にではない。
荒垣が美鶴達に放り投げることで美鶴達に気付かせ、同時に暗にアマネの行動を批判した事に苛つき、そしてそれ以上に、否定出来なかった自分が腹立たしかった。
彼は自分がきっかけで無意識にアマネの悩みの一因に触れたことに気付いているだろうか。
人に頼めない。手を貸してと言えない。それは本当のことだ。
「……湊さんは、どう思いますか。俺のこと」
有里は、顎に手を当てて考えてからアマネを見上げる。
「オレは、時々凄く頑張ってると思う」
「そう、ですか」
「どうしてそんなに頑張ってるの?」
「……頑張ってるつもりは無いです。それに頑張るって、後で褒められることが前提でしょう? だったら俺は尚更頑張ってるっていうより、好きなことをしてるだけだし」
「褒められたいの?」
褒められたい、だなんて考えたことも無かった。
数段を昇ってきた有里に手を引かれ二階へと上がる。氷嚢の中で氷がぶつかり合って音を立てていた。
そうして有里がアマネの頭を撫でる。
「……やると思いましたよ」
「アマネはえらいね」
有里の手をやんわりと退けて見た有里は微笑んでいて、アマネは溜息と共に脱力した。
褒められたくて食事を作っていたわけでも掃除をしていた訳でも、誰にも手を借りずに戦っていた訳でもない。ただアマネがそうしたかっただけだ。
本当に、全部やっているつもりも無かった。
「何やってんだ?」
振り返れば荒垣が立っていて、向かい合っているアマネと有里を不思議そうに見ている。
言う文句をアマネが考えている間に、有里がアマネを引っ張って荒垣の前に立たせた。
「ちょっ、湊さん?」
「アマネを褒めてください荒垣さん」
「はぁ? どうしてそうなったんだ?」
「褒めてください」
訳が分からないだろうに荒垣は、有里の勢いに負けたかの様にアマネを見下ろす。
アマネとしても荒垣同様『はぁ?』と言いたい気分だったが、有里の行動の理由を考えることを優先した。でなければアマネも訳が分からなかったからだ。
つまり有里は、アマネが仕事を分担させるより褒めてほしいと思っていたとでも考えたのだろうか。思い切り間違えている。
伸ばされた荒垣の手がアマネの頭を撫でた。
「よく分からねぇが、お前はよくやってるよ」
全く、どうして荒垣まで頭を撫でるのだろう。
***
「うわ痛い! 見てるだけで痛い!」
「包帯が大袈裟なだけだぁ。そんなに痛みはねぇよ」
「駄目、オレそういうの駄目。婆ちゃんに『人の痛みを想像できる子になりなさい』って言われて以来、人の怪我見ると自分の身体までむず痒くなる」
「想像しすぎだろぉ」
学校へ行けば案の定手首の包帯に過剰な反応が返ってくる。寮を出る前にも、昨日の騒ぎを知らなかった伊織や山岸、天田に驚かれ心配された。
両利きだし、そうでなくとも元から左利きに近い状態なので、箸を持つとか文字を書くことに支障は無い。
さすがに両手を使うような作業は少し響いた為、今日の朝食と弁当が作れなかった。
フライパンが持てなかった上、岳羽と真田に無理をするなと怒られたのである。
「文化祭の準備を手伝う分には支障無ぇし、大丈夫だろぉ」
「んー、でも重いものは持たないほうが良くね? 一応皆に言っとこ」
「んな事しなくていい」
数歩前に進んでいた佐藤が振り返った。その顔が予想以上に不思議そうで、アマネまで不思議に思う。
「なんで?」
「いや、別に痛てぇの我慢すればいい話だろぉ?」
朝も怒られながらそう思っていた。佐藤は過剰だが痛いのはアマネだし、それより労力が減るほうが困るものではないのか。
「……あのな、オレは斑鳩が怪我してるくせに痛いの我慢して動いてるほうが嫌。普通の人は大抵そう思うんじゃねぇの? お前だってオレが風邪引いたら見舞いに来てくれるんだろ」
「うん」
「見舞いってのは相手が心配だからやることだろ。同じだよ。オレもお前を心配してんの! 言わせんな恥ずかしい!」
叫んで走り出すほうが恥ずかしいだろと思いつつ走り去ってしまった佐藤を見送って、アマネは歩き出しながら考える。
アマネは人の痛みや悲しみが苦手だ。『弟』や『親友』が困っているのも嫌だし、そもそも一定以上親しくなった知り合いは皆泣かれると正直困る。
だから原因になりそうなものを排除したり矢面に立って庇ったりするのが常であった。そしてそれがアマネにとって普通だったのだ。
誰にだって感情があってアマネと同じ気持ちを持っていることも分かっている。けれどそれが自身へ向けられていることは無いと思っていた。
「……もしかして、今までも向けられてた?」
もしそうだとしたら。
立ち止まって考えに没頭する。そうである前提で色々思い出すと、なるほど確かにアマネの大切な知人達の言動に色々と思い当たることがあった。それの全てをアマネはスルーしていたという覚えも。
もしかして、自分にも思いは向けられるものなのだろうか。
だとしたら。
「あ、あの、大丈夫?」
「……伏見さん」
廊下に立ち尽くしているアマネを『心配』して声を掛けたらしい伏見を振り返る。
「その、気分でも、悪い?」
「……いや、大丈夫。ありがとう伏見サン」
***
寮へ帰るとまだ誰も帰ってきていなくて、学校へ行っていない荒垣とコロマルがラウンジで遊んでいた。
「……テメェか」
「わんっ」
荒垣に頭を撫でられていたコロマルが、近付いてきて目の前で尻尾を振る。手を伸ばしその頭を撫でようとして、視界に入った手首の包帯にアマネはソファへ腰を降ろしている荒垣を見た。
「雨漏りの修理」
「やっておいた」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、荒垣の視線がアマネへ向けられる。
「なんですか」
「いや、テメェでやるって騒ぐと思ってた」
「流石に済んでしまった事だし、ちょっと今はやっておいて貰って助かったというか」
「痛むのか?」
「いえ……荒垣さん。聞きたいんですけど、俺は何もしなくても何も出来なくてもここにいていいんですかねぇ?」
ソファへと向かって、開いていた一人掛けのソファへ腰を降ろした。荒垣の隣に雑誌が放り投げられている。おそらくコロマルを構いながら読んでいたのだろう。
「どういうことだ? ……まさかペルソナが」
「違ぇます。ペルソナとかそういうことじゃなく、なんて言うか、俺がペルソナを出せるだけのガキだったとしても、ここにいて良いと思いますか?」
「ペルソナが出せんなら構わねぇだろ」
「掃除も料理も、寮の皆への遠慮とか、敬語も、勉強も運動も何も出来なくても、俺に何かあったら心配されますか?」
「……何が言いてぇんだ」
「俺は……俺に、誰かの意識が向けられる事は、本当にあるん、でっ⁉」
頭を叩かれた。一応手加減はされていたようだが、普段鈍器を愛用する荒垣の力は強いので非常に痛い。
「馬鹿かお前は」
「っなんで馬鹿呼ばわりだぁ!」
「考えが極端なんだよ。何かしてねぇと心配してもらえないとか、出来ない奴はいらないとかそんな簡単な話じゃねぇだろ人ってのは」
「でも人と変わりすぎてると恐怖の対象だぁ。化け物が理解される訳が……」
「テメェが化け物だろうがなんだろうが、とりあえず一人はお前を心配してんじゃねぇか」
「……は? っ⁉」
後ろから伸びてきた腕が肩に置かれ、反射的に振り解いて反撃しようとしたアマネは、その抱き締めてきた人物が有里であることに気付いて慌てて手を止める。
いつの間に帰ってきたのか、有里は降りだしたらしい雨に濡れていて、制服もびしょ濡れだ。
「……また、何か悩んでる」
「いや、その」
「オレに相談してよ。相談に乗れるかは分からないけど、聞きたい」
有里はアマネの肩へ置いた手に力を込め、上からアマネの顔を覗き込む。その髪からも水滴が滴り落ちてアマネの服を濡らした。
青みがかった目。
「……っていうか、濡れたんなら早くタオルで拭いてください! 風邪引いたらどうすんですか!」
次の日も有里は雨に濡れて帰ってきた。というよりも帰ってくる途中で降られてしまったらしく、先に帰ってきていた伊織がラウンジのソファから声を掛ける。
「あー、ギリ、降られちまったみてーだな」
有里以外は雨にやられずに帰ってきていて、アマネも含めて全員がラウンジへ居た。
部屋へ居ても雨風の音が酷いのだ。一階のほうがまだ音が小さい。
濡れている有里が風邪を引かないようにと、誰かしら濡れて帰ってくるだろうと用意していたタオルを差し出せば、お礼を言って受け取り有里は身体を拭き始める。
これだけ濡れているなら風呂へ入った方がいい気がする、と思いながらアマネはもう一枚のタオルで有里の鞄から水気を叩き出す。
中までは濡れていないらしい。
「台風上陸したって、さっきニュースで言ってたよ。例年に無いくらい大型で、しかも、速度が遅いから居座りそうだって……」
「お陰で学祭、中止だもんなー。……まぁ、アレ結構メンドい事も多いし、それはそれで、いっけどさ。でも結局、台風が来んじゃ、外で遊びづらいよなぁ……で、オマエはこの連休どうすんの?」
「別に何も無い」
「はは、ホント、オマエって、ヒマが似合う奴だよなぁ」
それぞれの予定を聞きだす伊織に皆が答えるが、どれも台風のせいで狂ったり、未定という感じのものが多い。
確かにこの台風では買い物だって行きにくいだろう。窓を叩く雨は風に煽られて強弱が付いている。
「斑鳩はどうすんの?」
「俺はこの怪我ですし、溜まってる本でも読んで終わりですかねね」
「つまんねー奴だなー」
手首の包帯を示して言えば、そう言われてしまった。
「ところで伊織、君こそ、何故そんなに人の予定ばかり訊くんだ?」
「え、オレッスか? オレの予定聞きたいっスか?」
「チドリさんの所へ行くと見ました。精神的にはもう安定したという事ですが、解放するワケにはいかないであります」
「もうー、アイちゃんったらスルドイなぁー。いや、ぶっちゃけ、そうなんス。チドリン、オレに『来て欲しい』って言ってるんスよー。……やっべ、言っちゃった。ハズカシー! まぁ、嵐の中でもなんでも、とりあえず、行っといた方がいいかなぁ……なんて」
どうやら予定を聞くことにかこつけて、惚気たかっただけらしい。
アマネは呆れからくる溜息を吐いて、全員にお茶でも入れようとキッチンへ向かおうと有里へ鞄を返した。代わりに水分を吸ったタオルを回収し、洗濯機へ放り込むつもりで。
人数分のお茶を入れて戻ってくると天田が居なくなっていた。その代わり荒垣と真田が神妙そうな顔をしていて、アマネは首を傾げる。
休みの間の話から、そんな顔をする話へ話題が飛ぶことは、あまり無いだろうに。
「あれ」
「どうした」
「湊さんお風呂入りましたっけ?」
夜になって台風の影響による暴風雨に早めに風呂へ入った後、ラウンジで青痣の濃い手首へ包帯を巻きながら、アマネはふと気付いた。
アマネより先に入浴を済ませていた荒垣が窓から外の雨の様子を眺めていて、ラウンジには他に寮生はいない。
いや、階段を山岸とコロマルが降りてくる。多分これから一緒に風呂なのだろう。
「山岸先輩、湊さん見ました?」
「有里君? 見てないよ」
風呂場へと去っていく一人と一匹に、髪を乾かすのに使っていたタオルを首に掛けて考える。寝ているとしても有里は濡れて帰ってきたのだし、ちゃんと起こして風呂へ入らせた方がいい気がするのだ。窓の外を眺めていた荒垣がアマネの傍へ近付いてきて、包帯を巻くアマネの手元を見下ろす。
「アイツがどうかしたのか?」
「いえ、あの人雨に濡れて帰ってきたし、風呂に入ったかどうか気になって。部屋に戻るついでに声掛けてみます」
「律儀な奴だな」
「面倒見がいいって言ってください」
包帯を巻き終えて救急箱を片付けようとすると、荒垣の手が伸ばされ救急箱が棚へと仕舞われた。人のことを言えないんじゃないのかと思ったが、アマネはそれを口にせず礼を言いながら立ち上がる。
階段を昇る時も寮の外壁に風雨が激しくぶつかる音が聞こえていた。今日は少し寒そうだとも思いながら男子部屋である二階へ上がり、アマネは有里の部屋のドアをノックする。
「湊さん、斑鳩です」
返事は無い。
風と雨のせいで聞こえなかっただろうかともう一度ノックしても返事はなく、念の為とドアノブへ手を掛ける。
鍵は掛かっていなかった。
そっとドアを開ければ、少し湿気と熱気の篭ったような空気が廊下へと漏れ出す。湿気は濡れてしまった有里の制服や鞄のせいだろうと思いながらも、熱気の理由が分からなくて部屋へ入り込んだ。
明かりは点いているが、部屋を暖める役割の暖房器具は点いていない。
有里はベッドの上で布団にもぐりこんでいる。やはり予想通り寝てしまっているのだろう。
だが、少し呼吸の音が浅いことが気になって、アマネは起こさない様に近付いてその顔を覗き込んだ。
それから確信しつつも有里の額へと手を乗せる。風呂上りのそうそう冷たくも無いはずのアマネの手より、高い体温と汗ばんだ肌。
「……風邪、だなぁ」
「……ぅ」
声が聞こえているのかそれとも苦しくてか、有里が小さく呻く。起きる様子は無い。
「だからすぐに乾かせって言ったのに……つか、着替えてもねぇのかぁ」
アマネは小さく溜息を吐いて、とりあえず氷枕を造る為にラウンジへ向かう事にした。
まだあまり親しい仲とは言えないが、昨日の事もあって声を掛けてみようかと思って眺めていれば、荒垣はアマネの視線にも気付かないまま路地裏へと入っていく。
不良の溜り場である路地裏は以前にも荒垣が居た場所だし、好きな場所なのだろうかと考えてアマネも後を追いかける。
まだ活動時間としては早いのか不良の姿は殆ど見当たらない。その代わりにこれから店を開けるのだろう水商売の女性達がちらほら窺えた。学校帰りのアマネの格好はやけに目立つ。
「荒垣さん」
「……テメェか」
追いついた荒垣は階段の所に立ったまま何かを見つめていて、声を掛けるまでアマネには気付いていなかったらしい。機嫌が悪かったのか声がいつにも増して低かった。
「何か用か」
「いえ、姿を見たので追いかけてみただけです」
「なら気は済んだろ。さっさと帰れ」
再び前を向いて何かを見つめる荒垣が何を見ているのかアマネには分からず、かと言ってそのまま素直に帰るのも癪だったので、アマネは荒垣の隣で階段へ腰を降ろす。
「……おい」
「帰りにスーパー寄りたいんで、荷物持ちお願いします」
「勝手な奴だな」
「貴方だって勝手でしょう。湊さんになんて言ったんですか」
「ああ? オレぁ別に『あの一年は何か悩みでもあんのか』って聞いただけだ」
「悩みがあるようには見えたんですか」
「そう思っただけだ」
「人には誰にも言えねぇ悩みがあることぐらい、アンタには分かるでしょう」
荒垣から強い視線を感じ、アマネはわざとらしく肩を竦めた。
「アンタが気付いたのはその類ですよ」
「そりゃ……悪かったな」
「おかげでこっちは恥ずかしい思いをしたんだぁ。罰が荷物持ちで済んでありがたいと思ってくださいね」
「……素が出てんぞ」
「出してんですよ」
同じ寮で暮らし始めた上に聡い様なので、それならば早々に素の口調を晒していたほうが楽だ。
年上という事もあって完全に敬語を外すつもりはないが、実のところアマネは敬語が好きではない。
ましてやアマネの口調は『弟』と同じもので、数少ない共通点である。
髪を伸ばしているのだって、お揃いが良いと言われたというのもあるが、アマネ自身が共通点を欲して伸ばし続けているものだ。
「思ってたより煩せぇ奴だな」
「褒め言葉として受け取っておきます。……荒垣さん、病院に行きましたか?」
アマネを追い払うことを諦めて並ぶように腰を降ろした荒垣から、微かに薬品臭がしてアマネは顔をしかめる。
薬品臭だけであったら薬局へ行っただけかと思えたが、病院で良く嗅ぐ、腐っていない死臭やふやけた肌の匂いもしていた。
「分かんのか」
「人より五感がいいんです」
「チドリだったか? あのオンナに会いにちょっとな」
「知り合いじゃねぇでしょう」
「いや、知り合い……の知り合いか」
「ジンですかロン毛半裸ですか」
「……なんで片方はそんな悪意のある呼び方なんだよ」
アマネがその二人を知っているという事への突っ込みは無く、同時に荒垣自身もその二人を知っているのだと暗に告げていることに荒垣は気付いているのか。
知っているのだろうなと思いながら、アマネはカバンの中から学校でクラスメイトに貰った飴を取り出した。
「以前会った時、自分の考えに酔って人の話を聞かねぇ奴に思えたんで。そういう奴は嫌いですね。胸糞悪くなる」
荒垣にも一つ渡して口に入れた飴を、舐めるのではなく噛み砕く。
「尋問の手伝いでもしたんですか?」
「しねぇよ。……薬を届けただけだ」
「だいたい高校生に尋問させるっていうのも変な話だと俺は思いますがねぇ。それに彼女みたいな人種には、桐条先輩や真田先輩みたいに目的のことだけを聞きだそうとする人じゃ無理でしょう」
いくらあの二人がペルソナ使いだとしても、それ以外は普通の高校生であってアマネの様な特殊な、異常な存在ではない。本来であれば尋問なんて真似も一生することが無かったはずの人種だ。
そもそも人の話を深く理解することも、彼女達は苦手な気がする。
「熱心なだけだろ。それ自体は悪いことじゃねぇ」
「偏った思考の押し付けは嫌いだと、言ったばかりです」
「……あいつ等は真面目なんだ」
荒垣はそう言って飴の包装をポケットへ押し込んだ。口の中へ飴を放り込み、ニット帽を深く被り直して目元を隠す。
アマネにはそれが、重い感情を押し隠す為のように思えた。
「荒垣さん俺が来た時機嫌悪かったですよね。なんでですか?」
「……アキと少し喧嘩しただけだ。つかお前には関係ねぇだろ」
「寮の生活の一部を担っている身としては、寮生の精神状態の把握も大事な役割だとそれらしい言い訳でもしてみましょうか?」
「首を突っ込んでもいいことなんかねぇぞ」
「以前湊さんと伊織先輩が仲が悪くなって、夕食を別々に取るなんて作る側にとっては面倒な事をしようとしたので伊織先輩を叱った覚えがあります。そりゃもうしっかりと叱らせて頂きました」
「ほお……それで順平の奴はどうしたんだ?」
「ちゃんと夕食の席に着くようになりましたよ。俺は年上でも遠慮なく叱りますから、お二人が喧嘩したとしても、迷惑が掛かれば怒りますのであしからず」
「そりゃ怖ぇな」
喉を鳴らすように笑った荒垣をもう平気だろうかと横目で盗み見てから、アマネは立ち上がる。荒垣の機嫌が悪いうちは動かないつもりだったが、機嫌の悪さもアマネとの会話で少しは回復したらしい。
アマネとしてはここで何をしていたのかも聞きたかったが、雰囲気的に聞ける流れでは無かった。
有里をけしかけた事に対する文句も一応言ったし、もういいかとアマネを見上げていた荒垣へ手を差し出す。
「買い物。今日は親子丼にしようと思うんですけど、せっかくなんで他にも安かったら買い込みます」
***
最近天田が夕食を食べるなりすぐに部屋へ篭ってしまう。以前であれば夕食の片付けを率先して手伝ってくれていたのに。
と考えたところで、アマネは自分の思考がいわゆる母親の様になっていることに気付いて思い切りへこんだ。
「前にもこんなことあった気がするぅ。俺はだから保護者……」
「何ブツクサ言ってんの?」
「……いえ。それ油モノなんでこっちに置いておいてください」
夕食の片付けに、今日は帰ってきてから機嫌のいい伊織が手伝ってくれている。
昨日までは入院しているゴスロリ少女ことチドリのことで他に手が回らない程だったというのに、いったい何があったのか尋ねたくなる豹変振りだ。
アマネに訊く気は無いが。
「やぶ蛇というかなんというか……。あ、伊織先輩。冷蔵庫から今日のデザート出してくれますか」
「今日何?」
「ロールケーキ」
機嫌よく冷蔵庫を開ける伊織を背後にアマネは着々と食器を洗い、手に付いた水滴をタオルで拭いながら振り返る。今日も天田は既に部屋へ戻ってしまったようだ。
原因は、多分荒垣なのだろう。
他の皆が比較的荒垣へ好意的な感想を挙げていたのに、天田だけは少し胡散臭げな態度をとっていたから。
やはり彼等には因縁があるのだろうか。そう思っても荒垣と天田以外の態度、特に真田と美鶴に関していうと、別に変なところが無い。だから尚更困る。
荒垣が以前に居た頃を知っているのはあの二人だし、それだけ荒垣のことを分かっているだろう筈なのもあの二人だ。
ロールケーキを伊織に頼み、アマネは自分の分と天田の分を持って階段を上がった。
部屋の前でノックすれば、少し遅れてドアが開かれる。
「どうしてアマネさんはノックを三回するんですか? お陰で誰だか分かりやすいですけど」
「癖で。デザートのロールケーキだけど、食べるかぁ?」
「……頂きます」
受け取ろうと伸ばされた手に皿の乗ったお盆を渡すのではなく、天田の頭へ手を伸ばす。
「アマネさん?」
「……やらなくちゃいけない事ってのは、そうやって部屋に篭ってねぇと忘れてしまいそうな事なのかぁ?」
天田が目を見開き、それから困ったように目を逸らした。
「……心配かけましたか?」
「食べてすぐ部屋に戻るから、少しだけ。誰かと一緒に居るのは揺らぎそうで辛いかぁ?」
「いえ、そういう訳じゃないんです。でも……ごめんなさい」
「俺が勝手に心配しただけだから、気に病みすぎてる訳じゃねぇならいい」
今度こそロールケーキを渡し、それでも一人で食べるらしい天田にドアを閉める。
アマネ自身はラウンジへ戻るのも憚られて、二階の談話室にある椅子へ腰を降ろした。ロールケーキはそれなりの出来である。
***
夜、イブリスを召喚しその膝を枕にして寝転がりながら左手の指先に紫色の炎を灯していると、慣れた気配が部屋の中心へ現れた。
「綺麗だね。でも指が熱くはないの?」
「特別な炎だからなぁ。俺自身は熱くねぇよ」
手のひらへ握り締めるように消して身体を起こせば、お決まりのようにファルロスがベッドの端へと座る。
「久しぶり」
「……何か、あったのかぁ?」
「どうしてそう思うの?」
「泣きそうな顔してるぜぇ」
アマネが指摘すればファルロスは気付いていなかったのか、自分の顔を包むように両手で触れた。
ここへ来る前は有里と話をしていたのだろうから、有里に何か酷いことでも言われたのかと思ったが、あの有里がそんなことをする様にも思えない。
「……俺は、スキンシップ以外に有効な慰め方を知らねぇんだけど」
ベッドの上を移動してファルロスの背後に回り、背中から抱きしめてやる。相変わらず体温の感じられない身体が抱きしめた直後は緊張で強張るが、すぐに力が抜かれるのが分かった。
「君は、暖かいね」
「お前は体温が無ぇ」
ファルロスの顔の前で、アマネは左手に藍色の炎を灯す。それに伸ばされるファルロスの手を見つめながら、アマネは召喚したままだったイブリスを戻した。
「嫌なことでもあったかぁ?」
「……君は何があっても僕と友達でいてくれる?」
「お前が友達でいたいなら、まぁ、構わねぇよ」
「何があっても、色々なことが変わってしまっても?」
「何があっても何が変わっても、俺が変わってしまう訳じゃねぇだろうし。そうだなぁ、俺が消えねぇうちは友達でいてやるよ」
「……そう。嬉しいよ」
ファルロスはそう言ってアマネの左手に灯された炎へ触れようとしたので、アマネは黙って炎を消す。僅かに残念そうな顔で振り返ったファルロスは、それでも微笑んでいた。
「最近、あの『塔』のことばかり考えてる。僕はあの塔に……ううん。やっぱりいいや。僕らはずっと友達なんだよね。それでいいや」
アマネの手をやんわりとどけたファルロスが立ち上がりアマネを振り返る。
「今日はもう帰るよ。君にずっと友達だって言ってもらえて嬉しかったよ」
「そっか。喜んでもらえたなら重畳だぁ」
「またね。おやすみ」
余韻も無く消えたファルロスの居た辺りから視線を逸らし、アマネは枕元へ置いたままだった召喚器をホルダーへ戻した。それから少し勢いをつけて枕へ頭を押し付け目を閉じる。
未だ正体の分からない少年。話の流れでした宣言の本当の意味を彼は分かっているのだろうか。
アマネにとっての『死』は、他の人とは違うのだと。
***
文化祭まで一週間を切った。
「文化祭に彼女を作って~とか、そういう感じがいいです斑鳩さん!」
「よし佐藤。そんなお前にはこの破けて使えなくなった切れ端で折ったやっこさんをやるよ」
「おおー、ってやっこさん男だし! しかも結局ゴミだし!」
「本当に男だと思ってんのかぁ? 正式名称は『ヤツコ』さんだったらどうすんだぁ」
「……つまりこれは女性⁉」
「まぁ嘘だけど」
「嘘かよっ!」
「そこの二人、駄弁ってないで手を動かしてよ!」
佐藤でふざけていたらクラスメイトの女子に怒られ、仕方なくアマネは黙って紙製の花を作る作業へ戻る。
アマネのクラスは教室で射的を行うらしい。
各自家からいらない小物などを集めて景品に、ということだが生憎アマネには不必要な物が無かったので、寮の皆に尋ねて真田の使用済み手袋と美鶴の読み終えた小説などを出してみたらクラスメイト達がざわついていた。流石超高校級ボクサーと生徒会長である。
今は射的台を飾る花を作っていた。正直花の飾りなんていらないとは思うのだが、こういう時は積極的な女子に逆らってはいけないというものだ。
「でもさぁ、当日大型台風来るかもって話しだし、客とか来なそうじゃね?」
「あー、別に知り合いとか来るわけじゃねぇからなぁ」
「あーそっか。ごめん」
佐藤が謝ったのはアマネの家の事情をある程度知っているからだ。
実のところアマネが気にしていないので佐藤も大して気にしないことにしているらしいが、こういう時は必ず言葉だけでも佐藤は謝る。
作り終えた花の数を数えて、頼まれた分を作り終えたことを確認してから当日組み立てる台の傍へ置く。前日にでもならないと射的台のような本格的な準備は出来ない。
次の仕事を探そうと歩きながら見た窓の外は、台風が来る前触れというわけでもないだろうに、曇り空だった。風はまだそう強くはない。
「雨降るかな。今日傘持ってきてねぇや」
同じ様に窓の外の空を見上げた佐藤が呟く。
アマネも鞄の中に折り畳み傘が入ってはいるが、流石に二本も入ってはいない。
「風邪引くなよぉ」
「え、なに。オレ濡れて風邪引くこと決定事項なの?」
「見舞いにプリン作ってやるよ」
「……今ほど斑鳩が女だったらなぁって思ったことは無い。もういいよお前で。女装して見舞いに来てよ」
真顔で言われて、アマネは自分で振った冗談だと分かっていながらもとりあえず佐藤の頭を叩く。
痛がる佐藤を無視して、ダンボールを運んでいた女子のほうへ手伝いを名乗り出ることにした。
***
週末の台風に対し、寮の台風対策が不安であるとアイギスに言われて、とりあえず雨漏りのしそうな所だけ確認しておこうと一緒に寮を見て回る。
アイギスが気になっていたのは屋上への扉の端と、四階のトイレの窓。それから二階の廊下の端の窓らしい。
屋上の扉の端は軽く詰め物をすれば平気そうだった。トイレは女子トイレのほうだったので後で美鶴に報告しておくことにして、問題は二階の廊下の端。
「……あー、台が無いと見えねぇなこりゃ」
今までの雨が原因で既に窓枠の上部には染みが浮かび上がっていて、流石にアマネでも届かない場所である。談話室の椅子を持ってきて台代わりにして昇ってみるも、あと少しが足りない。
振り返ってアイギスを見下ろすと、いつの間にかアイギスの足元にはコロマルも居た。それぞれアマネを見上げている。
「アイギスさん。真田先輩か荒垣さんを連れてきてくれますか? あの二人の方が俺より背が高いので見えると思うんです」
「了解であります」
踵を返してアイギスが一階のラウンジへと向かったのは、雨漏りの確認へ動き出す前に真田と荒垣の二人がラウンジに居たのを見ていたからだろう。その後を追いかけるようにコロマルも行ってしまった。
もう一度今度は爪先立ちをして、アマネは雨漏りの染みが出来ている箇所へ顔を近づける。手を伸ばせば触れることは出来るが、触るだけでは具合が分からない。とりあえず木枠が腐り始めている感じがする。
「――斑鳩?」
「ぅわ、荒垣さん、っ⁉」
後ろで自室から出てきたのだろう荒垣に声を掛けられ、振り返ろうとしたところでアマネはバランスを崩した。
倒れるように台代わりの椅子から落ちそうになり、咄嗟に椅子を蹴って宙返りしながら着地しようと考えて、荒垣が何処にいるのか分からないということに気付いて踏み切ろうとしていた足から力を抜く。
目の前でバランスを崩して落ちそうな人がいたら、慌ててドアから出てきているかもしれなかったからだ。そうなるとアマネが宙返りで落下の危機からは脱しても、着地地点でぶつかるかもしれない。
巻き込むくらいなら自分が怪我をしても落ちたほうがいいとアマネは思ったのだ。
受身を取るつもりで伸ばしていた手が一度何かにぶつかり、全身が床よりも柔らかいものに抱きとめられる。そのまま一緒に尻餅をついたと同時に椅子が音を立てて倒れた。
「……っ、おい、大丈夫か?」
すぐ後ろからの声に振り返れば、アマネを抱き止めた荒垣が見下ろしている。
「大丈夫です。すみません巻き込んで」
急いで立ち上がって椅子を直し、腰をはたきながら立ち上がった荒垣へ頭を下げた。内心ではやはり宙返りしなくて良かったと思いながら。
音に気付いてか有里が部屋から顔を出すと同時に、階段をアイギスと真田が昇ってきたのが見えた。
「今の音は何だ?」
真田が少し慌てている様子から、音が結構響いたのかもしれない。
「すみません。ちょっと椅子から落ちてしまいました」
全員に謝るようにアマネはもう一度頭を下げる。
「こんなところで何してたんだ?」
「オレはアイギスに斑鳩が呼んでいると言われてきたんだが」
「雨漏りの確認をしてたんです。俺じゃ届かなかったのでアイギスさんに真田先輩か荒垣先輩を呼んでもらいに行ってもらって」
そう言いながらアマネが窓枠の傍の染みを指差せば、全員が揃って窓枠を見上げた。その隙に示すのに挙げたのとは逆の手をさり気無く背中へ隠す。
先ほど何処かへぶつけたらしく、腕が少し痛い。
だが今それを確認しようとすれば変に心配させる気がして、アマネは背後へ隠した腕を誰にも悟られないように壁際へ移動する。
「シンジ」
「おう」
真田より背の高い荒垣が椅子へ乗って窓枠の上部を覗き込む。
アマネとそれぞれ数センチしか違わない筈だが、その数センチの差が大きい。成人すればおそらくアマネも荒垣と同じくらいなのだが、高校生の今はまだ足りなかった。
それでも一応百七十はあるのだが。
「木が少し腐ってんな。削って固めりゃ台風は耐えられんだろ」
「じゃあ明日帰ったらやります」
「見えないのにどうやってやるつもりだ?」
「椅子より高い台を持ってくればいい話ですから」
椅子から降りた荒垣に礼を言って椅子を片付けようと手を伸ばすと、その手を横から掴まれた。
「湊さん?」
「反対の腕、もしかして痛いの?」
場の雰囲気がよく見てらっしゃる、とふざけることが出来ない空気に変わる。
「アマネさん。負傷したのでありますか?」
「いや、その、別に」
「見せて」
有里の拒否を許さない強い声に、真田と荒垣も目つきが険しくなった。
これはちょっと誤魔化しきれないなと諦めて、アマネは背中に隠すようにしていた右腕を前に出す。
「うわっ」
それを見て真っ先にアマネ自身が驚いた。
「これは、痛くない訳が無いな」
真田の言うとおり、右腕の正確には手首の辺りが赤く腫れ上がっている。
見た途端ハッキリと感じるようになった熱と痛みに、これは時間を置くと青黒く変色するタイプだとアマネが冷静に観察していると、有里が腕を引っ張った。無論手首は掴んでいない。
「冷やさないと。救急箱何処だっけ」
「ラウンジの棚の……ってか椅子片付けねぇと」
「馬鹿野郎! 冷やすのが先だろ!」
「椅子はオレが運んでおくから、有里、連れて行け」
荒垣に怒られ真田に諭されアイギスにジッと見つめられ有里に引っ張られ、その場に留まって治療を拒否する理由も無くアマネは大人しく有里に付いて行く。
ラウンジにはまだ美鶴や岳羽がいて、駆け足で降りてきた有里とアマネを見て不思議そうにしていたが、ソファへ座らせられたアマネの手首を見ると驚いて声を掛けてくる。
「うわ痛そ……何があったの?」
「椅子から落下の際、ぶつけたと推測しました」
「椅子から落ちた……さっきの音はそれか。岳羽、冷蔵庫から氷を持ってきてくれ」
美鶴の指示で岳羽がキッチンへ向かい、入れ替わりに有里が救急箱を持って戻ってきた。
湿布を張るだの先に冷やすだの、実際に怪我をしているアマネを置いて周囲が騒いでしまっている。コロマルが近付いてきてアマネの手に顔を近付けた。
「コロマル、触っちゃ駄目!」
「んな慌てなくても大丈夫ですよ。骨が折れてるわけでもないんですから」
「それでも痛いだろ」
「氷持って来たよ!」
気が動転しているのかビニール袋に氷だけを入れてきた岳羽に僅かに苦笑する。彼女も部活で怪我をすれば患部を冷やすことがあるだろうに。
それとも最近は冷却スプレーが主流か。まぁ部活でならその方が手軽かもしれない。
差し出された氷の袋を一応受け取ろうと手を伸ばすも、ラウンジに降りてきたらしい荒垣が岳羽の後ろからそれを奪い取る。
「氷だけじゃなく水も入れなけりゃ駄目だろうが」
「え、あ、そっか」
「ったく」
袋を持ってキッチンへ向かう荒垣を、既に包帯を構えて巻くスタンバイをしている有里が見ていた。その横では同じ様にアイギスが湿布を用意している。
「美鶴、雨漏りのことだが明日二階のとこだけシンジが応急処置をするそうだ。あとで業者の手配を頼む」
「荒垣さんがするんですか。俺が……」
「お前はその手で出来ると思ってるのか」
同じく降りてきた真田の言葉に黙ると、美鶴が少し怒ったようにアマネを見た。
「斑鳩。いつも色々寮のことをやってくれるのはとても助かるが、君一人で全てをやる必要は無いんだ」
「分かってるつもりですが」
「分かってたらそんな怪我しねぇだろ」
戻ってきた荒垣がソファの後ろへ回ってアマネの腕を掴み、水の入って柔らかさを得た氷入りビニール袋をタオルで包んだ、簡易氷嚢を患部へとゆっくり押し当てる。
熱が奪われる感覚と予想以上の冷たさで指先が僅かに痙攣した。
「寮のことも皆でやればいいだろう? 何も全てやるなと入っていない。ただ君はもう少し私達を頼るべきだ」
そんなに自分は一人で全部をやろうとしていただろうかと、アマネは内心で首を傾げる。
アマネにとって家事やある程度の労働は全て雑用であり、それを片付けるのがいつの頃からか自分の趣味になっていただけだ。
裏方の仕事が、アマネの役割だろう。
人がやろうとしないこと、意識しないことをアマネがやれば他の人は他のことが出来るのだから、自分にやることが無いのならアマネが動いたほうが早い。
「全部やってるつもりは無ぇです。ただ俺は雑用をこなすのがいつの間にか趣味になってて……痛っ!」
「その雑用ってのが全部なんだろこの馬鹿」
押し付けられた氷嚢が痛い。
すぐにまた元の様にやんわりと冷やされるが、見上げた先の荒垣は逆にアマネを睨んでいた。
「週の殆どの飯作ってこの広い寮を一人で掃除して、その上勉強したりシャドウ退治もやってんじゃねぇか。しかもタルタロスでの戦い方も一人で突っ走るようなやり方だしな」
「いや勉強はあんまり……すみません黙ります」
実のところ勉強はさほどしていないし、タルタロスでの戦い方も長年一人だった癖が抜けていないだけだと思ったが、アマネは口答えするのを止めて黙る。
良く見ているなと荒垣に対して思ったが、美鶴や真田、有里も同意している辺り彼等も気付いてはいたのだろう。
人の動きに、取分けアマネの動きに気付ける様になったというのは、彼等が戦闘慣れしてきたということでもあるから喜ばしい事なのだが、今の状況では嬉しくない。
「斑鳩君って、人に頼むってことあんまりしないよね」
「出来ない事があっても、手を貸して欲しいと言うのが苦手なんじゃないのか?」
岳羽と真田の言葉に肩が震える。
「そうなのか、斑鳩」
「……いいてぇええええっ! 押すんじゃねぇ!」
否定しようとしたら思い切り患部を押さえられて思わず叫んだ。
咄嗟に岳羽と美鶴が耳を塞ぎ、有里と真田は顔をしかめている。普段から大声のアマネが叫べばそれも当然だろう。
敬語も忘れて後ろの荒垣に掴まれている腕を振り払って自由を取り返す。が、その拍子にソファへぶつけて今度こそ悶絶した。
「煩せぇ」
「……っ、だろうなぁ畜生思い切り押しやがってぇ」
痛みで薄っすら涙目である。氷嚢を奪い取って自分で患部に押し当てた。
コロマルが不思議そうに鳴くのが、こんな状況だというのに和む。
「その様子じゃ当分飯も掃除も出来ねぇな。いい機会だ。寮の全員で暫く掃除だけでも分担しとけ」
そう言ってラウンジを後にする荒垣にやられたと思った。美鶴は名案だとばかりにさっそく掃除の分担を考えているし、真田も納得して頷いている。
舌打ちして岳羽に氷嚢を渡し、やりたがるアイギスから湿布を奪って貼り、有里から包帯を奪おうとして失敗し、無言の圧力を受けて包帯を巻かれてから立ち上がった。
包帯の巻き方は有里が慣れていないせいか歪である。だがまだ風呂へ入っていないので入浴後に自分で巻き直せばいい。
荒垣に文句を言おうと岳羽から一応氷嚢を受け取って手にしたまま階段を昇ると、後ろから一人分の足音が聞こえ振り返った。
「湊さん」
「怒ってる?」
数段後ろから有里に尋ねられて、アマネはどう答えたものか悩む。
怒ってはいるが、それは有里達にではない。
荒垣が美鶴達に放り投げることで美鶴達に気付かせ、同時に暗にアマネの行動を批判した事に苛つき、そしてそれ以上に、否定出来なかった自分が腹立たしかった。
彼は自分がきっかけで無意識にアマネの悩みの一因に触れたことに気付いているだろうか。
人に頼めない。手を貸してと言えない。それは本当のことだ。
「……湊さんは、どう思いますか。俺のこと」
有里は、顎に手を当てて考えてからアマネを見上げる。
「オレは、時々凄く頑張ってると思う」
「そう、ですか」
「どうしてそんなに頑張ってるの?」
「……頑張ってるつもりは無いです。それに頑張るって、後で褒められることが前提でしょう? だったら俺は尚更頑張ってるっていうより、好きなことをしてるだけだし」
「褒められたいの?」
褒められたい、だなんて考えたことも無かった。
数段を昇ってきた有里に手を引かれ二階へと上がる。氷嚢の中で氷がぶつかり合って音を立てていた。
そうして有里がアマネの頭を撫でる。
「……やると思いましたよ」
「アマネはえらいね」
有里の手をやんわりと退けて見た有里は微笑んでいて、アマネは溜息と共に脱力した。
褒められたくて食事を作っていたわけでも掃除をしていた訳でも、誰にも手を借りずに戦っていた訳でもない。ただアマネがそうしたかっただけだ。
本当に、全部やっているつもりも無かった。
「何やってんだ?」
振り返れば荒垣が立っていて、向かい合っているアマネと有里を不思議そうに見ている。
言う文句をアマネが考えている間に、有里がアマネを引っ張って荒垣の前に立たせた。
「ちょっ、湊さん?」
「アマネを褒めてください荒垣さん」
「はぁ? どうしてそうなったんだ?」
「褒めてください」
訳が分からないだろうに荒垣は、有里の勢いに負けたかの様にアマネを見下ろす。
アマネとしても荒垣同様『はぁ?』と言いたい気分だったが、有里の行動の理由を考えることを優先した。でなければアマネも訳が分からなかったからだ。
つまり有里は、アマネが仕事を分担させるより褒めてほしいと思っていたとでも考えたのだろうか。思い切り間違えている。
伸ばされた荒垣の手がアマネの頭を撫でた。
「よく分からねぇが、お前はよくやってるよ」
全く、どうして荒垣まで頭を撫でるのだろう。
***
「うわ痛い! 見てるだけで痛い!」
「包帯が大袈裟なだけだぁ。そんなに痛みはねぇよ」
「駄目、オレそういうの駄目。婆ちゃんに『人の痛みを想像できる子になりなさい』って言われて以来、人の怪我見ると自分の身体までむず痒くなる」
「想像しすぎだろぉ」
学校へ行けば案の定手首の包帯に過剰な反応が返ってくる。寮を出る前にも、昨日の騒ぎを知らなかった伊織や山岸、天田に驚かれ心配された。
両利きだし、そうでなくとも元から左利きに近い状態なので、箸を持つとか文字を書くことに支障は無い。
さすがに両手を使うような作業は少し響いた為、今日の朝食と弁当が作れなかった。
フライパンが持てなかった上、岳羽と真田に無理をするなと怒られたのである。
「文化祭の準備を手伝う分には支障無ぇし、大丈夫だろぉ」
「んー、でも重いものは持たないほうが良くね? 一応皆に言っとこ」
「んな事しなくていい」
数歩前に進んでいた佐藤が振り返った。その顔が予想以上に不思議そうで、アマネまで不思議に思う。
「なんで?」
「いや、別に痛てぇの我慢すればいい話だろぉ?」
朝も怒られながらそう思っていた。佐藤は過剰だが痛いのはアマネだし、それより労力が減るほうが困るものではないのか。
「……あのな、オレは斑鳩が怪我してるくせに痛いの我慢して動いてるほうが嫌。普通の人は大抵そう思うんじゃねぇの? お前だってオレが風邪引いたら見舞いに来てくれるんだろ」
「うん」
「見舞いってのは相手が心配だからやることだろ。同じだよ。オレもお前を心配してんの! 言わせんな恥ずかしい!」
叫んで走り出すほうが恥ずかしいだろと思いつつ走り去ってしまった佐藤を見送って、アマネは歩き出しながら考える。
アマネは人の痛みや悲しみが苦手だ。『弟』や『親友』が困っているのも嫌だし、そもそも一定以上親しくなった知り合いは皆泣かれると正直困る。
だから原因になりそうなものを排除したり矢面に立って庇ったりするのが常であった。そしてそれがアマネにとって普通だったのだ。
誰にだって感情があってアマネと同じ気持ちを持っていることも分かっている。けれどそれが自身へ向けられていることは無いと思っていた。
「……もしかして、今までも向けられてた?」
もしそうだとしたら。
立ち止まって考えに没頭する。そうである前提で色々思い出すと、なるほど確かにアマネの大切な知人達の言動に色々と思い当たることがあった。それの全てをアマネはスルーしていたという覚えも。
もしかして、自分にも思いは向けられるものなのだろうか。
だとしたら。
「あ、あの、大丈夫?」
「……伏見さん」
廊下に立ち尽くしているアマネを『心配』して声を掛けたらしい伏見を振り返る。
「その、気分でも、悪い?」
「……いや、大丈夫。ありがとう伏見サン」
***
寮へ帰るとまだ誰も帰ってきていなくて、学校へ行っていない荒垣とコロマルがラウンジで遊んでいた。
「……テメェか」
「わんっ」
荒垣に頭を撫でられていたコロマルが、近付いてきて目の前で尻尾を振る。手を伸ばしその頭を撫でようとして、視界に入った手首の包帯にアマネはソファへ腰を降ろしている荒垣を見た。
「雨漏りの修理」
「やっておいた」
「ありがとうございます」
素直に礼を言うと、荒垣の視線がアマネへ向けられる。
「なんですか」
「いや、テメェでやるって騒ぐと思ってた」
「流石に済んでしまった事だし、ちょっと今はやっておいて貰って助かったというか」
「痛むのか?」
「いえ……荒垣さん。聞きたいんですけど、俺は何もしなくても何も出来なくてもここにいていいんですかねぇ?」
ソファへと向かって、開いていた一人掛けのソファへ腰を降ろした。荒垣の隣に雑誌が放り投げられている。おそらくコロマルを構いながら読んでいたのだろう。
「どういうことだ? ……まさかペルソナが」
「違ぇます。ペルソナとかそういうことじゃなく、なんて言うか、俺がペルソナを出せるだけのガキだったとしても、ここにいて良いと思いますか?」
「ペルソナが出せんなら構わねぇだろ」
「掃除も料理も、寮の皆への遠慮とか、敬語も、勉強も運動も何も出来なくても、俺に何かあったら心配されますか?」
「……何が言いてぇんだ」
「俺は……俺に、誰かの意識が向けられる事は、本当にあるん、でっ⁉」
頭を叩かれた。一応手加減はされていたようだが、普段鈍器を愛用する荒垣の力は強いので非常に痛い。
「馬鹿かお前は」
「っなんで馬鹿呼ばわりだぁ!」
「考えが極端なんだよ。何かしてねぇと心配してもらえないとか、出来ない奴はいらないとかそんな簡単な話じゃねぇだろ人ってのは」
「でも人と変わりすぎてると恐怖の対象だぁ。化け物が理解される訳が……」
「テメェが化け物だろうがなんだろうが、とりあえず一人はお前を心配してんじゃねぇか」
「……は? っ⁉」
後ろから伸びてきた腕が肩に置かれ、反射的に振り解いて反撃しようとしたアマネは、その抱き締めてきた人物が有里であることに気付いて慌てて手を止める。
いつの間に帰ってきたのか、有里は降りだしたらしい雨に濡れていて、制服もびしょ濡れだ。
「……また、何か悩んでる」
「いや、その」
「オレに相談してよ。相談に乗れるかは分からないけど、聞きたい」
有里はアマネの肩へ置いた手に力を込め、上からアマネの顔を覗き込む。その髪からも水滴が滴り落ちてアマネの服を濡らした。
青みがかった目。
「……っていうか、濡れたんなら早くタオルで拭いてください! 風邪引いたらどうすんですか!」
次の日も有里は雨に濡れて帰ってきた。というよりも帰ってくる途中で降られてしまったらしく、先に帰ってきていた伊織がラウンジのソファから声を掛ける。
「あー、ギリ、降られちまったみてーだな」
有里以外は雨にやられずに帰ってきていて、アマネも含めて全員がラウンジへ居た。
部屋へ居ても雨風の音が酷いのだ。一階のほうがまだ音が小さい。
濡れている有里が風邪を引かないようにと、誰かしら濡れて帰ってくるだろうと用意していたタオルを差し出せば、お礼を言って受け取り有里は身体を拭き始める。
これだけ濡れているなら風呂へ入った方がいい気がする、と思いながらアマネはもう一枚のタオルで有里の鞄から水気を叩き出す。
中までは濡れていないらしい。
「台風上陸したって、さっきニュースで言ってたよ。例年に無いくらい大型で、しかも、速度が遅いから居座りそうだって……」
「お陰で学祭、中止だもんなー。……まぁ、アレ結構メンドい事も多いし、それはそれで、いっけどさ。でも結局、台風が来んじゃ、外で遊びづらいよなぁ……で、オマエはこの連休どうすんの?」
「別に何も無い」
「はは、ホント、オマエって、ヒマが似合う奴だよなぁ」
それぞれの予定を聞きだす伊織に皆が答えるが、どれも台風のせいで狂ったり、未定という感じのものが多い。
確かにこの台風では買い物だって行きにくいだろう。窓を叩く雨は風に煽られて強弱が付いている。
「斑鳩はどうすんの?」
「俺はこの怪我ですし、溜まってる本でも読んで終わりですかねね」
「つまんねー奴だなー」
手首の包帯を示して言えば、そう言われてしまった。
「ところで伊織、君こそ、何故そんなに人の予定ばかり訊くんだ?」
「え、オレッスか? オレの予定聞きたいっスか?」
「チドリさんの所へ行くと見ました。精神的にはもう安定したという事ですが、解放するワケにはいかないであります」
「もうー、アイちゃんったらスルドイなぁー。いや、ぶっちゃけ、そうなんス。チドリン、オレに『来て欲しい』って言ってるんスよー。……やっべ、言っちゃった。ハズカシー! まぁ、嵐の中でもなんでも、とりあえず、行っといた方がいいかなぁ……なんて」
どうやら予定を聞くことにかこつけて、惚気たかっただけらしい。
アマネは呆れからくる溜息を吐いて、全員にお茶でも入れようとキッチンへ向かおうと有里へ鞄を返した。代わりに水分を吸ったタオルを回収し、洗濯機へ放り込むつもりで。
人数分のお茶を入れて戻ってくると天田が居なくなっていた。その代わり荒垣と真田が神妙そうな顔をしていて、アマネは首を傾げる。
休みの間の話から、そんな顔をする話へ話題が飛ぶことは、あまり無いだろうに。
「あれ」
「どうした」
「湊さんお風呂入りましたっけ?」
夜になって台風の影響による暴風雨に早めに風呂へ入った後、ラウンジで青痣の濃い手首へ包帯を巻きながら、アマネはふと気付いた。
アマネより先に入浴を済ませていた荒垣が窓から外の雨の様子を眺めていて、ラウンジには他に寮生はいない。
いや、階段を山岸とコロマルが降りてくる。多分これから一緒に風呂なのだろう。
「山岸先輩、湊さん見ました?」
「有里君? 見てないよ」
風呂場へと去っていく一人と一匹に、髪を乾かすのに使っていたタオルを首に掛けて考える。寝ているとしても有里は濡れて帰ってきたのだし、ちゃんと起こして風呂へ入らせた方がいい気がするのだ。窓の外を眺めていた荒垣がアマネの傍へ近付いてきて、包帯を巻くアマネの手元を見下ろす。
「アイツがどうかしたのか?」
「いえ、あの人雨に濡れて帰ってきたし、風呂に入ったかどうか気になって。部屋に戻るついでに声掛けてみます」
「律儀な奴だな」
「面倒見がいいって言ってください」
包帯を巻き終えて救急箱を片付けようとすると、荒垣の手が伸ばされ救急箱が棚へと仕舞われた。人のことを言えないんじゃないのかと思ったが、アマネはそれを口にせず礼を言いながら立ち上がる。
階段を昇る時も寮の外壁に風雨が激しくぶつかる音が聞こえていた。今日は少し寒そうだとも思いながら男子部屋である二階へ上がり、アマネは有里の部屋のドアをノックする。
「湊さん、斑鳩です」
返事は無い。
風と雨のせいで聞こえなかっただろうかともう一度ノックしても返事はなく、念の為とドアノブへ手を掛ける。
鍵は掛かっていなかった。
そっとドアを開ければ、少し湿気と熱気の篭ったような空気が廊下へと漏れ出す。湿気は濡れてしまった有里の制服や鞄のせいだろうと思いながらも、熱気の理由が分からなくて部屋へ入り込んだ。
明かりは点いているが、部屋を暖める役割の暖房器具は点いていない。
有里はベッドの上で布団にもぐりこんでいる。やはり予想通り寝てしまっているのだろう。
だが、少し呼吸の音が浅いことが気になって、アマネは起こさない様に近付いてその顔を覗き込んだ。
それから確信しつつも有里の額へと手を乗せる。風呂上りのそうそう冷たくも無いはずのアマネの手より、高い体温と汗ばんだ肌。
「……風邪、だなぁ」
「……ぅ」
声が聞こえているのかそれとも苦しくてか、有里が小さく呻く。起きる様子は無い。
「だからすぐに乾かせって言ったのに……つか、着替えてもねぇのかぁ」
アマネは小さく溜息を吐いて、とりあえず氷枕を造る為にラウンジへ向かう事にした。