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両親も学校の先生たちも、わたしのことを優等生だと扱う。確かに大人たちの評価通りだと自分でも思う。素直で真面目で勤勉で、大人が望むことを実行する聞き分けの良い存在、それがわたし・久尾津シオン。
しかしわたしも人間であり、大人からの期待に何も感じないわけじゃない。求められた成果を出すこと、品行方正であること。それらにわたし自身が納得しているから、反発しないだけなのだ。そのことを大人たちはわかっていない。そう強く感じる出来事があった。
目の前に置かれた一枚の紙。「進路希望」と書かれたその用紙には三箇所の記述欄が設けられ、そこに進学したい学校の名前や、就職のことを記入できる。はずだった。
「どうだ久尾津。先日ご両親とも話したが、お前の成績ならこの辺りの学部が相応しいと思う。
ここなら学歴としても申し分ないし、久尾津の将来も見据えた上でも十分箔がつく。お前がここに合格すれば、きっと理想的な規範として後輩にも示すことができるぞ」
そう言って進路指導の先生は快活に笑った。用紙には難関大学の有名学部名が綺麗な字で書かれており、そこにわたしの意思は何一つ介在していなかった。
ぐらり、と視界が揺れ、続いて吐き気に襲われた。流石にこれは抵抗しても許されるはず。
気づけば用紙を掴み、立ち上がっていた。
頭がぐらぐらする、どうすればよかったんだろう。もっと早くから反抗の意思を示すべきだったのか。思考はまとまらず、目頭に熱が集まっていくのを感じた。あ、まずい。泣きそう。
とにかく一人になりたい、誰にも見られたくない。気づかれたくない。
その一心でわたしは人気のない校舎裏へ向かい、そこでしゃがみこんだ。ここならきっと大丈夫、そう思った瞬間堰き止めていた感情が涙となって溢れ出た。
その時に出会ったのが五條だった。大太刀高校に通っていればその名を知らない生徒はいない。廊下ですれ違えば誰もが端へ寄り、彼に道を譲る……それくらい有名な不良だ。
だけど校舎裏でわたしに声をかけた彼は学内の問題児じゃなくて、不器用な一人の男の子だった。
元々、周囲ほど五條を怖いとは思っていなかった。だけどこの日、印象がさらに変わった。この人こんな優しい声で話せるんだと、素直に驚いた。
この日以降、校舎裏はわたしと五條の秘密の場所になった。特に何かをするわけじゃないけど、並んで腰を下ろして取り止めのない話をしたり。迷い込んだ野良猫を眺めたり。静かで穏やかな時間を共有するだけで満足だった。
五條から漂うタバコの残り香だけは気になったので、それを打ち消せるような香水を探していつも身に付けた。彼は見た目に反して妙に気遣いが細かい。土の上に座るのは嫌だろうと、折り畳んだブルーシートを渡してくれたり。風下に腰を下ろすこともあった。
だけどこちらへ必要以上に踏み込んでくることはなかった。結局、あの日の涙についても彼から言及されることはなかったくらいだ。その距離感が居心地よくあり、そしてもどかしくもあった。
本当にこのままでいいんだろうか。漠然とした不安には気づかないふりをしたまま、進級まであと少しという日に決壊することになる。
その日の五條は随分と機嫌がよく、いつもよりタバコの匂いも強く感じた。うっすらと汗をかき、自信に満ちた笑みを浮かべているので、わたしは「ケンカ(彼らにとっては決闘らしいが、違いがよくわからない)をしたんだろう」と思った。
「なあ久尾津、喉乾かねーか?
さっきコーヒー買ったら当たりが出てもう一本貰えたんだよ。どっちも微糖だけど構わねえか?」
そう言って彼はにこやかに缶コーヒーを差し出す。いつもなら同じように微笑んで受け取るのに、今日は顔が強張ってしまう。
今から自分が口にする言葉は、しんと静まり返った水面に大きな岩を投げ入れるに等しいものだろう。目を閉じ、ごくんと言葉を飲み込めば、昨日までと同じ穏やかな日々を過ごすことができる。
相撲部主将・小関の犠牲の上で。
「五條。
わたし、今の五條の顔。好きじゃない」
「……は?」
わたしの言葉の意味を理解できないと言うように、五條はぽかんと口を開ける。言葉が足りていないことくらい、自分でもわかっていた。だけどそんなの関係なかった。
「今までみたく、わたしと校舎裏で話してる時の方が、いい顔してるよ」
「なに言ってるんだよ……今こうして話してんだろ、校舎裏で」
「……」
「何か言えよ、久尾津……」
答えの出ない謎々を与えられて、苛立つような視線を五條は向ける。苛立ちだけじゃない。不安や動揺も滲んでいるように見えた。
五條に、こういう暴力的な面があるのは事実だと思う。だけどそれだけじゃないことを、わたしはこの校舎裏で感じることができた。
真面目で細やかで、真摯に何かと向き合うことのできる一面があると思う。
「おい、久尾津!」
声を張る五條を一瞥して、わたしは背を向ける。この校舎裏は、もうわたし達の場所ではなくなってしまった。
もう以前みたいに、この場所へ来ることはできない。
そして何日か過ぎ、学年が上がった頃。大太刀高校に入学した一人の小さな力士の存在をわたしは知ることになる。
しかしわたしも人間であり、大人からの期待に何も感じないわけじゃない。求められた成果を出すこと、品行方正であること。それらにわたし自身が納得しているから、反発しないだけなのだ。そのことを大人たちはわかっていない。そう強く感じる出来事があった。
目の前に置かれた一枚の紙。「進路希望」と書かれたその用紙には三箇所の記述欄が設けられ、そこに進学したい学校の名前や、就職のことを記入できる。はずだった。
「どうだ久尾津。先日ご両親とも話したが、お前の成績ならこの辺りの学部が相応しいと思う。
ここなら学歴としても申し分ないし、久尾津の将来も見据えた上でも十分箔がつく。お前がここに合格すれば、きっと理想的な規範として後輩にも示すことができるぞ」
そう言って進路指導の先生は快活に笑った。用紙には難関大学の有名学部名が綺麗な字で書かれており、そこにわたしの意思は何一つ介在していなかった。
ぐらり、と視界が揺れ、続いて吐き気に襲われた。流石にこれは抵抗しても許されるはず。
気づけば用紙を掴み、立ち上がっていた。
頭がぐらぐらする、どうすればよかったんだろう。もっと早くから反抗の意思を示すべきだったのか。思考はまとまらず、目頭に熱が集まっていくのを感じた。あ、まずい。泣きそう。
とにかく一人になりたい、誰にも見られたくない。気づかれたくない。
その一心でわたしは人気のない校舎裏へ向かい、そこでしゃがみこんだ。ここならきっと大丈夫、そう思った瞬間堰き止めていた感情が涙となって溢れ出た。
その時に出会ったのが五條だった。大太刀高校に通っていればその名を知らない生徒はいない。廊下ですれ違えば誰もが端へ寄り、彼に道を譲る……それくらい有名な不良だ。
だけど校舎裏でわたしに声をかけた彼は学内の問題児じゃなくて、不器用な一人の男の子だった。
元々、周囲ほど五條を怖いとは思っていなかった。だけどこの日、印象がさらに変わった。この人こんな優しい声で話せるんだと、素直に驚いた。
この日以降、校舎裏はわたしと五條の秘密の場所になった。特に何かをするわけじゃないけど、並んで腰を下ろして取り止めのない話をしたり。迷い込んだ野良猫を眺めたり。静かで穏やかな時間を共有するだけで満足だった。
五條から漂うタバコの残り香だけは気になったので、それを打ち消せるような香水を探していつも身に付けた。彼は見た目に反して妙に気遣いが細かい。土の上に座るのは嫌だろうと、折り畳んだブルーシートを渡してくれたり。風下に腰を下ろすこともあった。
だけどこちらへ必要以上に踏み込んでくることはなかった。結局、あの日の涙についても彼から言及されることはなかったくらいだ。その距離感が居心地よくあり、そしてもどかしくもあった。
本当にこのままでいいんだろうか。漠然とした不安には気づかないふりをしたまま、進級まであと少しという日に決壊することになる。
その日の五條は随分と機嫌がよく、いつもよりタバコの匂いも強く感じた。うっすらと汗をかき、自信に満ちた笑みを浮かべているので、わたしは「ケンカ(彼らにとっては決闘らしいが、違いがよくわからない)をしたんだろう」と思った。
「なあ久尾津、喉乾かねーか?
さっきコーヒー買ったら当たりが出てもう一本貰えたんだよ。どっちも微糖だけど構わねえか?」
そう言って彼はにこやかに缶コーヒーを差し出す。いつもなら同じように微笑んで受け取るのに、今日は顔が強張ってしまう。
今から自分が口にする言葉は、しんと静まり返った水面に大きな岩を投げ入れるに等しいものだろう。目を閉じ、ごくんと言葉を飲み込めば、昨日までと同じ穏やかな日々を過ごすことができる。
相撲部主将・小関の犠牲の上で。
「五條。
わたし、今の五條の顔。好きじゃない」
「……は?」
わたしの言葉の意味を理解できないと言うように、五條はぽかんと口を開ける。言葉が足りていないことくらい、自分でもわかっていた。だけどそんなの関係なかった。
「今までみたく、わたしと校舎裏で話してる時の方が、いい顔してるよ」
「なに言ってるんだよ……今こうして話してんだろ、校舎裏で」
「……」
「何か言えよ、久尾津……」
答えの出ない謎々を与えられて、苛立つような視線を五條は向ける。苛立ちだけじゃない。不安や動揺も滲んでいるように見えた。
五條に、こういう暴力的な面があるのは事実だと思う。だけどそれだけじゃないことを、わたしはこの校舎裏で感じることができた。
真面目で細やかで、真摯に何かと向き合うことのできる一面があると思う。
「おい、久尾津!」
声を張る五條を一瞥して、わたしは背を向ける。この校舎裏は、もうわたし達の場所ではなくなってしまった。
もう以前みたいに、この場所へ来ることはできない。
そして何日か過ぎ、学年が上がった頃。大太刀高校に入学した一人の小さな力士の存在をわたしは知ることになる。