スカリーくんと監督生のなんでもない一日【完結】
監督生さん、素敵な貴方のお名前は?
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【スカリーくんと監督生が冬の森へお使いに行くだけ】
薄暗い鏡の間には、ただ冷え冷えとした静けさが広がっていた。高い天井から垂れ下がるシャンデリアは、淡い光を放ちながらもその輝きを抑え込み、空間全体に重苦しい影を落としている。床に敷かれた絨毯は柔らかで足音を吸い込むようだが、その感触すらどこか冷たい。ユウは立ち止まり、目の前に浮かぶ魔法の鏡をじっと見上げた。鏡の黒い表面は闇そのものを宿しているかのように静まり返っており、その中から何かがこちらを見返しているような錯覚すら覚える。
「ふぅ…」とユウは深く息を吸い込み、吐き出した。その吐息が室内の冷気に溶け込み、目には見えない霞となって消える。
学園長からの依頼は「花を摘んでくる簡単なお使い。お駄賃付き!」。簡単そうな響きだが、実際には魔法の森「エンチャンテッド・フォレスト」に咲く希少な花が目的地だった。名を聞いただけで一筋縄ではいかないと薄々気づいていた。一方で、ユウの脳裏には学園長の軽やかな笑みが浮かぶ。「簡単なお使いですから」――
「花を摘んで帰ってくるだけでお小遣いまで貰えるんだから、いいじゃん!」
エースが明るい声で笑い飛ばす。
「そうだな。さっと行って、さっと帰ろう。」デュースも軽く頷いた。その顔には少しの緊張が見て取れたが、彼なりにやる気を奮い立たせているようだった。
しかし、その瞬間、グリムが突然後ろへ飛び退いた。「ふなぁ~!やっぱりイヤなんだゾ!オレ様は危ないところになんか行かないンだゾ!」青い炎の尾が激しく揺れるのが、彼の本気の拒否を物語っている。
「グリム!」ユウが慌てて声をかけたが、グリムは耳をピンと立てたまま廊下の奥へ駆け出してしまう。「待ちなさい!」ユウが呼び止める暇もなく、エースとデュースが「任せとけって!」とばかりに追いかけて行ってしまった。
「まあ、何とかなるか…」深いため息をつき、鏡の間に一人残されたユウが呟いたその時、静寂を破る足音が響く。スカリー・J・グレイブスが息を切らしながらやってきた。「素敵な貴方、これを忘れてはいけませんよ。」彼が手渡したのは、学園長から託された地図だった。
「ありがとう、スカリーくん。でも、どうしてここに?」
「我輩が貴方のお役に立てるなら、理由などいりません。」スカリーの笑みには優雅さが宿っていたが、ふと彼が見せた僅かな眉間の皺が気になる。「グリムさんたちは?」
「うーん、逃げちゃったみたい。エースとデュースが追いかけてるけど。」
ユウが説明する間もなく、魔法の鏡が突然眩い光を放った。その光は鏡の間全体を包み込み、冷たい風が巻き起こる。「え、ちょっと待って!?」ユウの声が響く中、スカリーも状況を悟ったのか、彼の表情が一瞬険しくなる。
次の瞬間、二人は凍てつくような冬の森の入り口に立っていた。頭上には雲ひとつない青空が広がり、低く差し込む昼の陽光が霜で覆われた木々を淡い金色に染め上げていた。枝先に積もった薄い氷は光を受けてきらめき、風が吹くたびに小さな音を立てながら雪の結晶がはらりと落ちていく。
空気は冷たく張り詰めており、肺に吸い込むたびにその凍えるような冷気が深く染み込む。白い息が二人の口元から溶けるように立ち上り、ゆっくりと透明な空へ消えていった。周囲には雪を覆った地面が広がり、ユウのブーツがかすかな雪のきしむ音を立てていた。その足元からは、かすかな湿った木と土の匂いが漂ってくる。
「ここは……?」ユウが呟く。周囲を見渡しても、見覚えのある景色はどこにもない。
「どうやらエンチャンテッド・フォレストにたどり着いてしまったようですね。」スカリーの声が低く響く。彼は慎重に周囲を見回しながら、地面に転がる地図を拾い上げ視線を落とした。
「エースたちは?グリムは?」
「この様子では……鏡が暴走した可能性があります。我輩たちだけがここに引き寄せられたのかもしれません。」スカリーの言葉に、ユウは一瞬息を呑む。
「スカリーくん、大丈夫?寒くない?」ユウがふと声をかけた。自分が厚手のコートにマフラー、手袋まで装備しているのに対し、彼は相変わらずいつもの制服姿だ。その薄い装いがどうしても気になるらしい。陽射しはあるとはいえ、冷たい風が頬を切るように吹き抜けていく。
スカリーはその声に軽く振り向き、微笑みを浮かべた。「我輩は魔法である程度防寒ができますので、大丈夫ですよ。」彼の言葉には感謝の色がにじみ、声はいつもの穏やかな調子を保っていた。「それにしても、こうして我輩を気遣ってくださるとは…やはり貴方はお優しい。」
「なんだかスカリーくんといると面白いことがよく起こるよね。」ユウの顔には緊張感の代わりに柔らかな笑みが浮かんでいた。
スカリーは瞬きをして、少し驚いたようにユウを見つめた。「……面白い、ですか?」
「うん、ほら、この間の騒ぎとかさ。いつも予想外のことばっかりだけど、こうやって一緒にいれば何とかなるって思えるんだ。」ユウは肩をすくめながら地図を受け取った。その指先が少し震えていたが、声には自信がこもっていた。
「さあ、地図もあるし、花を見つけてさくっと帰ろう!時間がかかると、学園長に嫌味を言われそうだしね。」ユウがさらりと言い放つその一言に、スカリーは目を細めて小さく息をついた。
「素敵な貴方には、いつも感服させられます。」スカリーは静かに言ったが、その声には尊敬の念が隠しきれなかった。「どんな状況でも芯を失わないその姿勢、見習いたいものです。」
「芯を失わない、って大げさだよ。」ユウが笑いながら言うと、スカリーは答えず、微笑みを浮かべたままユウを促すように手を差し出した。「参りましょう。我輩が貴方を導きます。」
二人は冬の日差しが差し込む森の小道を歩き始めた。柔らかな光が木々の間から細長い筋となって降り注ぎ、白く凍った地面をきらめかせている。踏みしめる雪は乾いた音を立て、凍りついた葉がカリカリと軽快に鳴った。空気は冷たく澄んでおり、息をするたびに微かな冷気が鼻腔を刺すようだった。
ユウは手にした地図を時折確認しながら慎重に足を進め、隣を歩くスカリーは周囲を警戒するように目を走らせていた。太陽が低く照らす昼下がり、木々の影が細長く地面に落ちている。それはどこか静かで神秘的な風景だった。
小道を覆う雪の白さに反射する光がユウの目を少し眩ませたが、その分スカリーの橙色の瞳が温かく輝いて見えた。それは単なるお使いのはずだったが、この特別な冬の景色の中では、どこか冒険の始まりを予感させるような不思議な高揚感が二人を包んでいた。
*
森の奥深く、冷たい風が肌を刺すように吹き抜ける中、二人は慎重に足を進めていた。突如、足元から地鳴りのような音が響き、黒紫の蔓が勢いよく地面を割って現れた。その蔓は不気味に揺れながら、まるで生き物のようにユウとスカリーを狙いすましているかのようだった。
ユウは瞬時に手荷物と地図を脇に抱え、安全な場所へと移動させる。その動作は素早く、冷静だった。「これって…魔法植物だよね?」と静かに問いかける声には、ほんのわずかな緊張が混じっていた。
スカリーはユウの隣に立ち、背筋を伸ばしながら蔓をじっと観察する。「はい、“シャドウスネア”という魔法植物です。この植物は動きが速く、絡め取った獲物を締め上げる習性があります。気をつけてください。」その声は冷静さを保ちながらも、どこか鋭さを帯びていた。
蔓が一瞬の隙を突いてユウの足元を狙ってくる。風を切る音が鋭く響き、冷たい空気を震わせた。ユウはその攻撃を素早くかわし、近くに落ちていた枯れ枝を拾い上げると、敵との距離を取るために使い始めた。「これで少しでも動きを止められたら!」
ユウが蔓を叩くたび、枝が乾いた音を立て、その音が森全体にこだました。蔓は一瞬ひるんだように動きを鈍らせるが、再び勢いを増して反撃に転じてくる。ユウの顔に緊張の色が浮かびながらも、ユウの手元はしっかりと安定しており、その動きに迷いは見られなかった。
一方で、スカリーは加勢しようとするも、ユウの姿に目を奪われていた。ユウが魔法を持たず、武器らしいものもない状況で、ただ手近な枝を使い果敢に立ち向かうその姿は、スカリーにとって眩しいほどだった。ユウの行動には、冷静さと勇気が溢れており、その姿に感嘆を禁じ得なかった。
スカリーの胸の奥がじんわりと熱くなる。「素敵な貴方…その落ち着きと勇気は、我輩にとって何よりも眩しい。」その言葉は静かに口から漏れ、彼の目には崇敬の念すら浮かんでいた。
ユウはスカリーの声を聞いて、わずかに目線を彼に向ける。状況は厳しいのに、スカリーの言葉がどこかユウを安心させる力を持っていた。「ありがとう。でも、今は褒めてる場合じゃないでしょ!」と冗談めかしながらも、その目は真剣だった。
スカリーはふっと微笑み、杖を握り直す。「では、我輩も全力で貴方をサポートさせていただきます。あの蔓、二人で退けましょう。」その言葉に決意を込め、スカリーは魔法の光を放ち始めた。
二人の連携は次第に噛み合い始める。ユウが蔓を叩き、動きを鈍らせるたびに、スカリーが魔法でそれを切り払う。蔓は最後の力を振り絞るように暴れたが、二人の協力の前に次第に勢いを失い、やがて地面に沈むように静まり返った。
「やった…!」ユウは安堵の息をつき、肩を軽く揺らしてスカリーの方を振り返った。彼もまた、ユウに微笑み返しながらマジカルペンを収める。「お見事です、ユウさん。我輩も貴方の勇敢さに触発されました。」
冷たい風が再び二人の頬を撫で、静まり返った森に雪の舞う音だけが響いていた。困難を乗り越えたばかりの二人の間には、確かな信頼と温かな空気が流れていた。
*
二人は再び歩き始めた。周囲の雪は深まり、辺りはさらに静寂に包まれていく。遠くから微かに風が木々を揺らす音が聞こえ、その冷たさが頬に触れるたび、ユウは地図を見直して進む方向を確認する。
ユウは雪の中を歩きながら、足元に絡みつく小さな蔓をふりほどいて一言漏らした。
「これのどこが”簡単な”お使いなんだろうね。攻撃してくる植物、多すぎない?」
スカリーは足を止めることなく、優雅な足取りで冷たい雪を踏みしめながら答えた。その白い髪は冷たい風にそっと揺れ、彼の姿をさらに際立たせていた。
「一人前の魔法士を目指す生徒でしたら、この程度の困難には動じず対処できるのが当然、といったところなのでしょうね。」
彼の声は冷静で柔らかく、ほんの少し呆れを含んだ調子が感じられる。「実際に遭遇する敵は、どれも1年の教科書に載っている程度のものばかりでした。」
その言葉に、ユウは思わず肩をすくめた。微かに眉を寄せながらも、不満というよりは少し戸惑いの混じった表情を浮かべる。
「教科書に載ってるって言っても、実際目の前に出てくると…なんか想像以上だったかな。」
ユウは足元の蔓に軽く蹴りを入れながら、バランスを取りつつぼやくように続けた。
スカリーはユウの様子をじっと見つめ、考え込むような素振りを見せた後、少し口元に微笑を浮かべた。「確かに、机上の知識だけでは対応しきれないこともありますね。しかし、素敵な貴方はどのような状況でも、きっと冷静さを失わず堂々と立ち向かうことでしょう。」
その言葉には、ユウに向けられた深い信頼が込められていた。
ユウはその言葉に少し照れたような笑みを浮かべ、肩の力を抜いた。「そっか、そう言われるとちょっと元気出たかも。これくらいで慌ててたら、”魔法士です”なんて名乗れないよね。まあ、魔法使えないんだけど!」
冗談めかしたユウの声には照れ隠しの響きがあったが、その目には決意の輝きが灯っていた。
スカリーはその様子に軽く頷き、柔らかく微笑んだ。冷たい冬の空気に、二人の短いやり取りが温かな灯火のように溶け込んでいく。
「素敵な貴方は、きっと多くの困難を乗り越えてきたのでしょうね。」スカリーは穏やかに言った。その表情には、ユウへの深い尊敬の念がにじみ出ていた。
「雪原までもう少しだね。これだけ寒いと、"氷雪の薔薇"もきっと綺麗に咲いてるんだろうな。」
ユウは地図を折りたたみ、白く凍りついた息を吐きながらスカリーに微笑みかけた。その表情には、疲れの中にも一筋の期待が垣間見えた。
スカリーは一瞬、ユウの顔をじっと見つめ、ふと微笑みながら頷いた。「ええ。これまでの困難を乗り越えた貴方と共に、その美しさを目にすることができるとは、我輩も光栄です。」
彼の声には誠実さと温かさが滲んでおり、彼自身もこの旅路が特別なものとなっていることを噛みしめているようだった。
*
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「氷雪の薔薇」は、エンチャンテッド・フォレストの雪原に咲く特別な魔法の花で、冬の間だけ開花する。この花は非常に貴重で、一般の人々には取得が難しいが、魔法士養成学校ではよく試験や課題として生徒たちに課せられることが多い。特に、学年の終わりに行われる実技試験や、魔法の力を証明するための重要な課題として、花を摘みに行くことがよくある。
その花びらは氷でできており、触れると冷たさが手に伝わり、空気中の湿気を凍らせるほどの冷気を放つ。非常に短い期間でしか咲かないため、その時期にあわせて訪れる必要があり、さらにその場所まで辿り着くのは簡単ではない。自然の障害や、魔法植物の存在などが待ち受けており、ただの人間には簡単に摘み取ることはできない。
「氷雪の薔薇」を取りに行くことは、魔法士としての実力を試す意味でもあり、また生徒同士が協力し合ったり、各自の魔法の使い方を実践で学んだりする貴重な経験にもなる。
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ユウは、手に持った地図を眺めながら、ふと口を開いた。「学園長が頼んできたのは、ただの“お使い”ってわけじゃない気がするんだよね。あのインク爆発事件のこともあるし…」
その言葉と共に、ユウの脳裏にグリムの慌てふためく顔がよみがえった。その瞬間、口元に自然と笑みが浮かぶ。あの事件――魔法のインク瓶が爆発し、学園長室がインクまみれの大惨事となった一件は、いまだ鮮烈な記憶として残っている。
床は黒いインクに覆われ、壁も家具も文字通り真っ黒。学園長のいつも余裕を漂わせた表情が、その時ばかりはさすがに引きつっていた。
「うーん、やっぱり学園長からの『お使い』は、その罰も兼ねてるってことか…」
ユウは地図を軽く振りながら話を締め、視線をスカリーに向けた。
スカリーはその言葉に、唇の端を少し持ち上げる。「お使いという形で課された罰だと考えれば、妙に納得がいく気もしますね。あのインク事件の後でしたら、学園長の心中もなかなか複雑でしょうから。」
スカリーの声はどこか柔らかく、少し笑みを含んでいた。その仕草にユウもつられて肩の力を抜く。学園長が「責任を取らせる」という名目で、このお使いを仕掛けてきたことはほぼ間違いない。それでも、グリムがあの時必死で言い逃れをしようとしていた姿を思い出すと、どこか憎めない気持ちが湧いてくる。普段は威張っているグリムの弱気な一面が垣間見える瞬間だった。
ユウは歩きながら、小さく笑う。「それにしても、グリムのあの逃げっぷり。なりふり構わず逃げていったのには、正直びっくりしたよ。」
スカリーも思い出したように笑みを浮かべる。「全力疾走で階段を駆け上がる姿、なかなか印象的でしたね。ですが、あの時も素敵な貴方は落ち着いて対処されていました。」
その言葉にユウは苦笑しながら、軽く手を振る。「まあ、慣れっこだからね。でも、今日はそのグリムもいないし、二人だけで頑張らないと。」
ユウは深く息を吸い込み、冷たい冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。頭上では木々が風に揺れて、雪が小さな羽根のように舞い降りる。スカリーはそんなユウの横顔を一瞬だけ見つめ、微かに頷くと、彼女のペースに合わせて足を進めた。
二人の足音が雪の上できしむ音を立てる。その音が、広大な森の静けさの中で心地よく響いていた。
*
森の木々が途切れ、ようやく視界が開けると、二人の目の前に純白の雪原が現れた。どこまでも続く白銀の景色が、何か不思議な魅力を放っている。ユウは手に持っている地図に目を落とし、目的地までの距離を確認する。その場所は、雪原の中心部に近いはずだ。
「もう少しだね。」ユウはそう呟きながら、足元の雪に埋もれた足を引きずりつつ歩みを進めた。すぐ隣にはスカリーが歩いている。彼の姿が雪原にひときわ映える、黒いナイトレイブンカレッジの制服が白い雪と対比をなして美しい。冷たい空気にもかかわらず、彼の背筋はまっすぐで、まるでどこかの時代からそのまま歩いて来たような気品を感じさせる。
「我輩も感じます、もうすぐそこです。」スカリーが言った。その声には微かな期待と静かな興奮が滲んでいた。
その瞬間、遠くに小さな光が見えた。ユウが目を凝らすと、そこには見事な氷雪の薔薇が一面に咲いているのが見えた。まるで宝石のように、氷の花びらが透き通るように輝いている。
ユウは息を呑んだ。あまりの美しさに、心の奥底から感動が込み上げてきた。「これが、氷雪の薔薇……」その美しさに思わず呟いた。
スカリーもその光景に目を奪われていた。一瞬、その表情に深い感嘆の色が浮かぶ。「まるで夢の世界のようですね。これがすべて氷でできた花だなんて、とても信じられません。」
二人はしばし言葉を交わすことなく、ただその薔薇に見入っていた。凍てついた空気が肌に触れるたび、その美しさが一層鮮明に心に刻まれるようだった。氷の花が湛える透明な輝きは、陽の光を受けてきらきらと反射し、その静謐な美しさが周囲を支配しているように感じられる。凛とした冷気が花を包み込み、薔薇を中心に広がる静寂には、まるで触れることすらためらわせるような神秘的な緊張感が漂っていた。
ユウはふと我に返り、スカリーの方を見た。「でも、どうやって持ち帰ろう? 手で触ったらダメって聞いてたけど……」鞄からガラスドームを取り出し、その透明なガラス越しにじっと花を見つめた。
スカリーは一瞬考え込んだ後、そっと微笑みながら手を差し出した。「どうか我輩にお任せください。この魔法のガラスドームに、花を無傷で収めてみせます。素敵な貴方が手間取らないよう、少しお手伝いをさせていただきますね。」
ユウはその言葉に安心し、スカリーの指示に従い準備を始めた。冷たい空気が肌を刺す中、二人は息を潜めるようにして作業を進める。ユウがドームをしっかりと支え、スカリーは丁寧な動作で魔法を使い、氷雪の薔薇を慎重にドームの中に収めていく。その動作には、どこか神聖な儀式のような雰囲気が漂い、ユウは息を飲むほどの緊張感を覚えた。
「完璧です。」スカリーがドームをそっと持ち上げながら、静かに微笑んだ。「貴方の落ち着いた手際のおかげで、これほど美しく収められましたよ。」
ユウはその言葉に思わず笑みを浮かべ、肩の力を抜いて軽く息をついた。「ありがとう、スカリーくん。おかげでうまくいったね。」
氷雪の薔薇は、ガラス越しにその透明な輝きを放ち、雪の光を反射して小さな虹のようなきらめきを生んでいた。その姿をしばらく眺めた後、二人は再び歩き出した。冷たく澄んだ空気が鼻腔を満たし、足元では雪がきしむ音が穏やかに響く。静かな雪原を進む二人の間には、言葉にはならない満足感と達成感が漂い、共に刻んだこの瞬間が特別な思い出として心に刻まれていくようだった。
「実は、氷雪の薔薇には古い言い伝えがあるのです。」スカリーが語り始めるその声は、どこかしっとりとしていて、雪の静けさに溶け込むようだった。
「言い伝え?」ユウは興味深くスカリーを見た。
まるで心に秘めた壮大な物語が胸の奥で溢れ出し、誰かに伝えずにはいられないかのように、スカリーの言葉は一つ一つが重みを持って静かに、しかし確かに響き渡る。
「昔、とある国が災害に見舞われました。火山の爆発、洪水、大地震――次々に襲いかかる災難に、人々はすっかり希望を失っていたそうです。」口調は感情豊かで、まるでオペラの舞台で演技をしているかのように、言葉にドラマチックな抑揚があった。「そんな中、ひとりの魔法士と、魔法を使えぬ人間が出会い、共に力を合わせることを決意します。」
彼はふっと手を広げ、空気に何かを描くように動かした。「二人は困難を乗り越えながら、やがてこの氷雪の薔薇に辿り着いたのです。そして、この花の力が災いを退け、国に平穏を取り戻したと言われています。」
スカリーの瞳が少し遠くを見つめるように輝いた。「ですが、それだけではありません。魔法士と非魔法士が力を合わせて奇跡を成し遂げたその瞬間こそが、二人の間に特別な絆を生んだのです。この花は、それ以来、人と人を結びつける特別な力の象徴とされているのですよ。」その声には、一語一語にしっかりとした響きがあり、語りかけるような温かさが滲んでいた。
語り終えると、スカリーは穏やかな笑みを浮かべながらユウの顔を見た。その表情は、どこか誇らしげでありながらも控えめだった。ユウはその語りに圧倒され、思わず拍手を送った。その音は、森の静けさの中で小さくも確かに響き渡る。
「素晴らしい話だね。」ユウは微笑みながら言った。その声には、スカリーの情熱に共鳴した温かさが込められていた。
スカリーは少し照れたように微笑み返し、控えめに頭を下げた。「お聞きくださり、ありがとうございます。素敵な貴方にこの話をお届けできたこと、我輩にとっても特別な喜びです。」
スカリーはひとつ小さく息を吐き、柔らかな声で言葉を続けた。「この言い伝えも、今ではただの古い伝説として忘れ去られているようです。かつてはこの花に強大な力が宿ると信じられていましたが、今となってはその力も単なる魔法薬の素材として使われる程度で、伝説に語られるような影響力はないと考えられています。」
彼の声には、どこか寂しさが混じっていた。そのまま言葉を切り、スカリーはユウをじっと見つめた。その瞳はどこか遠くを見据えているようで、伝説に込められた運命や絆の重みを映し出しているようだった。
「それでも、この花が持つ力は決して侮れるものではないと、我輩はそう感じています。」スカリーの声は低く、確信を帯びていた。彼の言葉には、氷雪の薔薇に対する敬意だけではなく、何かそれ以上の深い感情が含まれているように聞こえた。
ユウは彼の言葉に引き込まれながら、小さく首を傾げる。「それって、どういう意味?」
スカリーは少しだけ歩み寄り、ユウに向かって微笑んだ。その笑顔は、どこか特別な絆を匂わせるもので、言葉では言い表せない温かさがあった。彼の瞳には、この瞬間を大切にしたいという思いが宿っている。
「運命は、時として思いがけない形で二人を結びつけるものです。」スカリーは静かに語った。その声は、雪を踏みしめる音とともに森の静けさの中に溶け込んでいく。冷たい空気が肌を刺すような感覚の中、彼の言葉だけが優しく温もりをもたらしていた。「そして、この花はその証。我輩と貴方の間にも、特別な絆があるように感じるのです。」
ユウはその言葉に驚いたように目を見開いた。スカリーの言葉が胸に響くと同時に、何かが弾けたような感覚が広がり、頬が熱くなるのを感じた。彼の真剣な眼差しと、そこに込められた思いを受け止めながら、ユウは少しだけ照れたように笑った。
「運命か……ちょっと壮大すぎるけど、そうだったら素敵だね。」ユウの声には、スカリーの思いに応えたいという温かさが込められていた。
スカリーはその言葉に柔らかな微笑みを浮かべ、静かに頷いた。「貴方のお言葉、我輩の心に深く刻み込まれました。」その声には、深い敬意と共にどこか熱を帯びた響きがあり、まるでその瞬間を永遠に留めたいと願うかのようだった。
彼の佇まいには、ただの少年にはない気高さがあった。雪が頬に触れるたびに、その冷たさが彼の存在を一層鮮明に際立たせる。スカリーの足取りは迷いなく、確かな一歩一歩を刻んでいく。その背中に宿る静かな決意と優雅さに、ユウは自然と視線を引き寄せられていた。
ユウの胸に、ふとした思いがよぎる。自分が今この場所でスカリーと共にいること――それはただの偶然ではなく、何か特別な意味があるのではないか。彼の言葉と歩みに引き込まれながら、そう感じずにはいられなかった。
静寂に包まれた雪原を、二人は肩を並べて進んでいく。凍てつく風が頬をかすめるたび、その冷たさが二人の距離を縮めるかのようだった。雪を踏みしめる音だけが響く中、二人の間に流れるのは静かな確信。それは、ただの言葉ではなく、心の奥底で共有される感情だった。スカリーの言葉がユウの胸の中に残り続けるように、ユウの思いもまた、スカリーの心に深く刻まれているのだろう。
*
森の入り口にたどり着いたユウとスカリーの前に、学園長が待ち構えるように姿を現した。澄んだ夜空の下で、彼のシルエットが月明かりに浮かび上がる。「おや!グレイブス君までここにいるとは驚きましたよ。」学園長は目を丸くし、軽く笑いながら二人を見渡した。「ユウさんがいなくなったとグリム君たちに聞いたので、もしやと思って来てみましたが…これは意外な組み合わせですね!」
ユウは苦笑いを浮かべ、少し肩をすくめた。「まあ…ちょっとした冒険でした。」しかし、その言葉の裏には、学園長の登場が予期せぬものであったことへの戸惑いが滲んでいる。
学園長は二人を交互に見ながら、ほっとしたように肩を落とした。「とにかく、無事でよかった。それにしても随分と時間がかかりましたね!」その声にはわずかな責めるような調子が含まれていたが、表情はどこか安心感に満ちている。
「遅い、ですか…?」スカリーが驚いたように口を開いた。その声に、ユウも同調するように眉をひそめる。「そんなに時間が経ってたんですか?」
学園長は穏やかな笑みを浮かべて頷き、「ええ、随分待たされましたよ。地図を渡したでしょう?」と指摘した。その言葉に、ユウは慌てて懐から地図を取り出す。「確かに…でも、これ、道がややこしすぎませんか?」
ユウが地図を広げると、学園長は「あっ」と驚きの声を上げ、手を振りながら言い訳を始めた。「あー、その地図、少し古いバージョンのようですね…これはうっかり…」彼は苦笑いを浮かべながら、軽くごまかすように話を続けた。「でもまあ、結果的には無事に戻ってこれたのですから、良しとしましょう!」
学園長は話題を切り替えるように声の調子を上げ、「それより、グリム君たちには宿題をたっぷり出しておきましたから。今頃、きっと大忙しでしょうね!」と言い、いたずらっぽく目を細めた。
ユウはその言葉に小さく息をつきながらも、意を決して口を開く。「あの、学園長。実は…こちらに来てしまった時、闇の鏡が暴走したみたいだったんです。それで、気づいたらここにいて…」
その説明を受け、学園長は眉をわずかに上げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。「おやおや、それは奇妙な話ですね。ですが、闇の鏡を確認しましたが、特に異常はありませんでしたよ?心配無用です。」その言葉には、どこか冗談めいた軽さが含まれており、ユウの不安を取り除こうとする意図が見え隠れしている。
しかし、その言葉を聞いたユウとスカリーの表情はどこか釈然としない。二人の間には微妙な空気が流れ、特にスカリーはそのオレンジの瞳に疑問を浮かべながら学園長を見つめ続けた。
学園長はその視線に気づき、少しだけ真剣な表情を見せた。「まあ、あなたたちが無事に戻ってきたことが何より大事ですから。これからは、くれぐれも気をつけて行動してくださいね。」彼の声は穏やかだが、どこか含みを感じさせるものだった。
ユウとスカリーは互いに一瞬視線を交わした後、学園長の言葉に軽く頷くしかなかった。雪の降りしきる中で、彼らの足元の感触はじんわりと冷たさを増していく。
「さぁ、帰りますよ!」闇の鏡を抜けた瞬間、二人を包んだのは、いつもの鏡の間の静寂だった。薄暗い空間に立ち込める微かな冷気が、雪原での冒険の余韻を際立たせる。鏡の表面はまだゆらめいており、その奥で残像のように冬の森の景色が消えていくのが見えた。
スカリーは足元に溜まった雪が残るのではないかと軽く靴を振りつつ、「無事に戻ってこられましたね」と優しく言葉を漏らした。その声は控えめながらも、どこか達成感を帯びている。ユウは小さく頷きながら、凍えた手を自分の袖口で包み込むようにして暖を取る。鏡の間は外よりも暖かいはずなのに、長い冒険の疲れが全身に冷えを刻んでいるように感じた。
鞄から取り出した氷雪の薔薇は、ガラスドームの中で不自然なくらいに美しく輝いている。ユウは慎重に花を学園長に手渡し、わずかな冷たさが指先に残るのを感じながら、安堵のため息をついた。
学園長が花を受け取ると、その目が輝いた。「おお、これは素晴らしい!ありがとうございました、ユウさん、グレイブス君。」
学園長は二人にお駄賃を手渡し、満足げな顔で軽くうなずいた。「では、これでおしまいです。お疲れ様でした。」そう言うと、学園長はさっさと足早に自分の部屋へと向かっていった。
ユウは少し驚いたような表情を浮かべながらも、手にした袋を確認した後、スカリーを見やった。スカリーはその背中を見送った後、小さく息を吐いて呟く。「学園長、随分とお忙しいご様子ですね。」
*
夜の帳が下り、オンボロ寮への道中、二人の間には静かな空気が流れていた。冷たい風が時折肌を刺すように吹き抜けるが、その冷たさは心地よい余韻を伴っていた。雪がちらつく中、ユウがふと足を止める。寮の灯りが遠くに見え、暖かな光がその向こうに待っているようだった。
「ねえ、スカリーくん。」ユウが小さく笑いながら、ふと顔を上げた。その瞳には今日の冒険を思い出すような輝きがあった。「今日は、なんだか思いがけず冬のデートみたいだったね。」
スカリーは一瞬固まり、次の瞬間にはその顔が赤く染まっていく。「で、デートとおっしゃいますか…?」声に動揺が混じり、彼の立派な背筋も少しだけ縮こまったように見える。
ユウはスカリーの様子に思わず吹き出しそうになるが、ぐっとこらえる。「あ、冗談だよ。ただ、ほら、雪の中を二人で歩いたり、冒険したりって、ちょっとそれっぽい雰囲気だったなって思っただけ。」
「そ、それでも、そのような表現は我輩にはあまりにも…!」スカリーは言葉に詰まり、顔を逸らす。いつもの礼儀正しさや落ち着きが嘘のように消え去り、16歳の少年らしい姿が露わになる。
ユウはその様子に微笑み、少し前に歩み寄った。「ありがとう、スカリーくん。今日は本当に助けてもらったし、一緒にいて心強かった。」
スカリーはふと顔を上げ、ユウの視線を受け止める。その瞳には純粋な感謝が込められており、彼の胸の奥で何かが静かに揺れ動いた。
「その…ユウさん。」スカリーは少し言葉を探すように間を置き、深呼吸を一つした。「最近、皆さんの助言に従い、控えていたのですが…今こそ、改めて感謝の気持ちを表したく思います。どうか、キスを贈らせていただけませんか?」
ユウは目を丸くし、次に視線を泳がせた。「えっ、き、キスって…また手の甲に?」
スカリーは微かに笑みを浮かべ、優しい声で答える。「はい、それだけではなく…もし許されるなら、頬にも。あなた様にはそれほどの感謝をお伝えする理由があるのです。」
ユウはその言葉に一瞬言葉を失った。頬がじんわりと熱を帯び、冷たい夜の空気さえその熱を冷ますことができなかった。次の瞬間、スカリーがゆっくりと手を取る。その指先は寒さで少し冷えていたが、触れられた手の甲からは不思議と温もりが広がった。
「では…失礼します。」スカリーは慎重な仕草でユウの手に唇を触れさせる。その動きにはまるで儀式のような気品と敬意があった。そして、ユウの頬にそっと顔を寄せると、ほんの一瞬だけ唇が触れた。
「…っ!」ユウは思わず目を瞑り、顔全体が火照るのを感じる。スカリーもまた頬を赤らめ、少し視線を落としながら静かに一歩下がる。
「すみません、あまりにも無礼だったかもしれません。」スカリーは控えめに頭を下げたが、その声にはどこか達成感のようなものが滲んでいた。
「べ、別に無礼じゃないけど…!」ユウは顔を押さえながら答えた。その声には照れ隠しの感情が混じり、周囲の冷たい空気さえも熱を持ったように感じられた。
二人の間に一瞬だけ静寂が訪れる。降りしきる雪がかすかな音を立てて地面に積もり、冷えた空気の中でその音はより鮮明に響いていた。
「これで、今日の冒険は本当に終わりですね。」スカリーが柔らかく笑いながら言った。その声は穏やかで、彼自身の心が安らいでいることを伝えていた。
ユウも少し笑みを浮かべながら頷いた。「うん、でも忘れられない一日になったよ。ありがとう、スカリーくん。」
そして、二人は再び足を動かし、静かに寮へと向かう道を歩き始めた。雪はさらに降り積もり、世界を白く染め上げる中、二人の足跡だけがその道に刻まれていくのだった。
薄暗い鏡の間には、ただ冷え冷えとした静けさが広がっていた。高い天井から垂れ下がるシャンデリアは、淡い光を放ちながらもその輝きを抑え込み、空間全体に重苦しい影を落としている。床に敷かれた絨毯は柔らかで足音を吸い込むようだが、その感触すらどこか冷たい。ユウは立ち止まり、目の前に浮かぶ魔法の鏡をじっと見上げた。鏡の黒い表面は闇そのものを宿しているかのように静まり返っており、その中から何かがこちらを見返しているような錯覚すら覚える。
「ふぅ…」とユウは深く息を吸い込み、吐き出した。その吐息が室内の冷気に溶け込み、目には見えない霞となって消える。
学園長からの依頼は「花を摘んでくる簡単なお使い。お駄賃付き!」。簡単そうな響きだが、実際には魔法の森「エンチャンテッド・フォレスト」に咲く希少な花が目的地だった。名を聞いただけで一筋縄ではいかないと薄々気づいていた。一方で、ユウの脳裏には学園長の軽やかな笑みが浮かぶ。「簡単なお使いですから」――
「花を摘んで帰ってくるだけでお小遣いまで貰えるんだから、いいじゃん!」
エースが明るい声で笑い飛ばす。
「そうだな。さっと行って、さっと帰ろう。」デュースも軽く頷いた。その顔には少しの緊張が見て取れたが、彼なりにやる気を奮い立たせているようだった。
しかし、その瞬間、グリムが突然後ろへ飛び退いた。「ふなぁ~!やっぱりイヤなんだゾ!オレ様は危ないところになんか行かないンだゾ!」青い炎の尾が激しく揺れるのが、彼の本気の拒否を物語っている。
「グリム!」ユウが慌てて声をかけたが、グリムは耳をピンと立てたまま廊下の奥へ駆け出してしまう。「待ちなさい!」ユウが呼び止める暇もなく、エースとデュースが「任せとけって!」とばかりに追いかけて行ってしまった。
「まあ、何とかなるか…」深いため息をつき、鏡の間に一人残されたユウが呟いたその時、静寂を破る足音が響く。スカリー・J・グレイブスが息を切らしながらやってきた。「素敵な貴方、これを忘れてはいけませんよ。」彼が手渡したのは、学園長から託された地図だった。
「ありがとう、スカリーくん。でも、どうしてここに?」
「我輩が貴方のお役に立てるなら、理由などいりません。」スカリーの笑みには優雅さが宿っていたが、ふと彼が見せた僅かな眉間の皺が気になる。「グリムさんたちは?」
「うーん、逃げちゃったみたい。エースとデュースが追いかけてるけど。」
ユウが説明する間もなく、魔法の鏡が突然眩い光を放った。その光は鏡の間全体を包み込み、冷たい風が巻き起こる。「え、ちょっと待って!?」ユウの声が響く中、スカリーも状況を悟ったのか、彼の表情が一瞬険しくなる。
次の瞬間、二人は凍てつくような冬の森の入り口に立っていた。頭上には雲ひとつない青空が広がり、低く差し込む昼の陽光が霜で覆われた木々を淡い金色に染め上げていた。枝先に積もった薄い氷は光を受けてきらめき、風が吹くたびに小さな音を立てながら雪の結晶がはらりと落ちていく。
空気は冷たく張り詰めており、肺に吸い込むたびにその凍えるような冷気が深く染み込む。白い息が二人の口元から溶けるように立ち上り、ゆっくりと透明な空へ消えていった。周囲には雪を覆った地面が広がり、ユウのブーツがかすかな雪のきしむ音を立てていた。その足元からは、かすかな湿った木と土の匂いが漂ってくる。
「ここは……?」ユウが呟く。周囲を見渡しても、見覚えのある景色はどこにもない。
「どうやらエンチャンテッド・フォレストにたどり着いてしまったようですね。」スカリーの声が低く響く。彼は慎重に周囲を見回しながら、地面に転がる地図を拾い上げ視線を落とした。
「エースたちは?グリムは?」
「この様子では……鏡が暴走した可能性があります。我輩たちだけがここに引き寄せられたのかもしれません。」スカリーの言葉に、ユウは一瞬息を呑む。
「スカリーくん、大丈夫?寒くない?」ユウがふと声をかけた。自分が厚手のコートにマフラー、手袋まで装備しているのに対し、彼は相変わらずいつもの制服姿だ。その薄い装いがどうしても気になるらしい。陽射しはあるとはいえ、冷たい風が頬を切るように吹き抜けていく。
スカリーはその声に軽く振り向き、微笑みを浮かべた。「我輩は魔法である程度防寒ができますので、大丈夫ですよ。」彼の言葉には感謝の色がにじみ、声はいつもの穏やかな調子を保っていた。「それにしても、こうして我輩を気遣ってくださるとは…やはり貴方はお優しい。」
「なんだかスカリーくんといると面白いことがよく起こるよね。」ユウの顔には緊張感の代わりに柔らかな笑みが浮かんでいた。
スカリーは瞬きをして、少し驚いたようにユウを見つめた。「……面白い、ですか?」
「うん、ほら、この間の騒ぎとかさ。いつも予想外のことばっかりだけど、こうやって一緒にいれば何とかなるって思えるんだ。」ユウは肩をすくめながら地図を受け取った。その指先が少し震えていたが、声には自信がこもっていた。
「さあ、地図もあるし、花を見つけてさくっと帰ろう!時間がかかると、学園長に嫌味を言われそうだしね。」ユウがさらりと言い放つその一言に、スカリーは目を細めて小さく息をついた。
「素敵な貴方には、いつも感服させられます。」スカリーは静かに言ったが、その声には尊敬の念が隠しきれなかった。「どんな状況でも芯を失わないその姿勢、見習いたいものです。」
「芯を失わない、って大げさだよ。」ユウが笑いながら言うと、スカリーは答えず、微笑みを浮かべたままユウを促すように手を差し出した。「参りましょう。我輩が貴方を導きます。」
二人は冬の日差しが差し込む森の小道を歩き始めた。柔らかな光が木々の間から細長い筋となって降り注ぎ、白く凍った地面をきらめかせている。踏みしめる雪は乾いた音を立て、凍りついた葉がカリカリと軽快に鳴った。空気は冷たく澄んでおり、息をするたびに微かな冷気が鼻腔を刺すようだった。
ユウは手にした地図を時折確認しながら慎重に足を進め、隣を歩くスカリーは周囲を警戒するように目を走らせていた。太陽が低く照らす昼下がり、木々の影が細長く地面に落ちている。それはどこか静かで神秘的な風景だった。
小道を覆う雪の白さに反射する光がユウの目を少し眩ませたが、その分スカリーの橙色の瞳が温かく輝いて見えた。それは単なるお使いのはずだったが、この特別な冬の景色の中では、どこか冒険の始まりを予感させるような不思議な高揚感が二人を包んでいた。
*
森の奥深く、冷たい風が肌を刺すように吹き抜ける中、二人は慎重に足を進めていた。突如、足元から地鳴りのような音が響き、黒紫の蔓が勢いよく地面を割って現れた。その蔓は不気味に揺れながら、まるで生き物のようにユウとスカリーを狙いすましているかのようだった。
ユウは瞬時に手荷物と地図を脇に抱え、安全な場所へと移動させる。その動作は素早く、冷静だった。「これって…魔法植物だよね?」と静かに問いかける声には、ほんのわずかな緊張が混じっていた。
スカリーはユウの隣に立ち、背筋を伸ばしながら蔓をじっと観察する。「はい、“シャドウスネア”という魔法植物です。この植物は動きが速く、絡め取った獲物を締め上げる習性があります。気をつけてください。」その声は冷静さを保ちながらも、どこか鋭さを帯びていた。
蔓が一瞬の隙を突いてユウの足元を狙ってくる。風を切る音が鋭く響き、冷たい空気を震わせた。ユウはその攻撃を素早くかわし、近くに落ちていた枯れ枝を拾い上げると、敵との距離を取るために使い始めた。「これで少しでも動きを止められたら!」
ユウが蔓を叩くたび、枝が乾いた音を立て、その音が森全体にこだました。蔓は一瞬ひるんだように動きを鈍らせるが、再び勢いを増して反撃に転じてくる。ユウの顔に緊張の色が浮かびながらも、ユウの手元はしっかりと安定しており、その動きに迷いは見られなかった。
一方で、スカリーは加勢しようとするも、ユウの姿に目を奪われていた。ユウが魔法を持たず、武器らしいものもない状況で、ただ手近な枝を使い果敢に立ち向かうその姿は、スカリーにとって眩しいほどだった。ユウの行動には、冷静さと勇気が溢れており、その姿に感嘆を禁じ得なかった。
スカリーの胸の奥がじんわりと熱くなる。「素敵な貴方…その落ち着きと勇気は、我輩にとって何よりも眩しい。」その言葉は静かに口から漏れ、彼の目には崇敬の念すら浮かんでいた。
ユウはスカリーの声を聞いて、わずかに目線を彼に向ける。状況は厳しいのに、スカリーの言葉がどこかユウを安心させる力を持っていた。「ありがとう。でも、今は褒めてる場合じゃないでしょ!」と冗談めかしながらも、その目は真剣だった。
スカリーはふっと微笑み、杖を握り直す。「では、我輩も全力で貴方をサポートさせていただきます。あの蔓、二人で退けましょう。」その言葉に決意を込め、スカリーは魔法の光を放ち始めた。
二人の連携は次第に噛み合い始める。ユウが蔓を叩き、動きを鈍らせるたびに、スカリーが魔法でそれを切り払う。蔓は最後の力を振り絞るように暴れたが、二人の協力の前に次第に勢いを失い、やがて地面に沈むように静まり返った。
「やった…!」ユウは安堵の息をつき、肩を軽く揺らしてスカリーの方を振り返った。彼もまた、ユウに微笑み返しながらマジカルペンを収める。「お見事です、ユウさん。我輩も貴方の勇敢さに触発されました。」
冷たい風が再び二人の頬を撫で、静まり返った森に雪の舞う音だけが響いていた。困難を乗り越えたばかりの二人の間には、確かな信頼と温かな空気が流れていた。
*
二人は再び歩き始めた。周囲の雪は深まり、辺りはさらに静寂に包まれていく。遠くから微かに風が木々を揺らす音が聞こえ、その冷たさが頬に触れるたび、ユウは地図を見直して進む方向を確認する。
ユウは雪の中を歩きながら、足元に絡みつく小さな蔓をふりほどいて一言漏らした。
「これのどこが”簡単な”お使いなんだろうね。攻撃してくる植物、多すぎない?」
スカリーは足を止めることなく、優雅な足取りで冷たい雪を踏みしめながら答えた。その白い髪は冷たい風にそっと揺れ、彼の姿をさらに際立たせていた。
「一人前の魔法士を目指す生徒でしたら、この程度の困難には動じず対処できるのが当然、といったところなのでしょうね。」
彼の声は冷静で柔らかく、ほんの少し呆れを含んだ調子が感じられる。「実際に遭遇する敵は、どれも1年の教科書に載っている程度のものばかりでした。」
その言葉に、ユウは思わず肩をすくめた。微かに眉を寄せながらも、不満というよりは少し戸惑いの混じった表情を浮かべる。
「教科書に載ってるって言っても、実際目の前に出てくると…なんか想像以上だったかな。」
ユウは足元の蔓に軽く蹴りを入れながら、バランスを取りつつぼやくように続けた。
スカリーはユウの様子をじっと見つめ、考え込むような素振りを見せた後、少し口元に微笑を浮かべた。「確かに、机上の知識だけでは対応しきれないこともありますね。しかし、素敵な貴方はどのような状況でも、きっと冷静さを失わず堂々と立ち向かうことでしょう。」
その言葉には、ユウに向けられた深い信頼が込められていた。
ユウはその言葉に少し照れたような笑みを浮かべ、肩の力を抜いた。「そっか、そう言われるとちょっと元気出たかも。これくらいで慌ててたら、”魔法士です”なんて名乗れないよね。まあ、魔法使えないんだけど!」
冗談めかしたユウの声には照れ隠しの響きがあったが、その目には決意の輝きが灯っていた。
スカリーはその様子に軽く頷き、柔らかく微笑んだ。冷たい冬の空気に、二人の短いやり取りが温かな灯火のように溶け込んでいく。
「素敵な貴方は、きっと多くの困難を乗り越えてきたのでしょうね。」スカリーは穏やかに言った。その表情には、ユウへの深い尊敬の念がにじみ出ていた。
「雪原までもう少しだね。これだけ寒いと、"氷雪の薔薇"もきっと綺麗に咲いてるんだろうな。」
ユウは地図を折りたたみ、白く凍りついた息を吐きながらスカリーに微笑みかけた。その表情には、疲れの中にも一筋の期待が垣間見えた。
スカリーは一瞬、ユウの顔をじっと見つめ、ふと微笑みながら頷いた。「ええ。これまでの困難を乗り越えた貴方と共に、その美しさを目にすることができるとは、我輩も光栄です。」
彼の声には誠実さと温かさが滲んでおり、彼自身もこの旅路が特別なものとなっていることを噛みしめているようだった。
*
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「氷雪の薔薇」は、エンチャンテッド・フォレストの雪原に咲く特別な魔法の花で、冬の間だけ開花する。この花は非常に貴重で、一般の人々には取得が難しいが、魔法士養成学校ではよく試験や課題として生徒たちに課せられることが多い。特に、学年の終わりに行われる実技試験や、魔法の力を証明するための重要な課題として、花を摘みに行くことがよくある。
その花びらは氷でできており、触れると冷たさが手に伝わり、空気中の湿気を凍らせるほどの冷気を放つ。非常に短い期間でしか咲かないため、その時期にあわせて訪れる必要があり、さらにその場所まで辿り着くのは簡単ではない。自然の障害や、魔法植物の存在などが待ち受けており、ただの人間には簡単に摘み取ることはできない。
「氷雪の薔薇」を取りに行くことは、魔法士としての実力を試す意味でもあり、また生徒同士が協力し合ったり、各自の魔法の使い方を実践で学んだりする貴重な経験にもなる。
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ユウは、手に持った地図を眺めながら、ふと口を開いた。「学園長が頼んできたのは、ただの“お使い”ってわけじゃない気がするんだよね。あのインク爆発事件のこともあるし…」
その言葉と共に、ユウの脳裏にグリムの慌てふためく顔がよみがえった。その瞬間、口元に自然と笑みが浮かぶ。あの事件――魔法のインク瓶が爆発し、学園長室がインクまみれの大惨事となった一件は、いまだ鮮烈な記憶として残っている。
床は黒いインクに覆われ、壁も家具も文字通り真っ黒。学園長のいつも余裕を漂わせた表情が、その時ばかりはさすがに引きつっていた。
「うーん、やっぱり学園長からの『お使い』は、その罰も兼ねてるってことか…」
ユウは地図を軽く振りながら話を締め、視線をスカリーに向けた。
スカリーはその言葉に、唇の端を少し持ち上げる。「お使いという形で課された罰だと考えれば、妙に納得がいく気もしますね。あのインク事件の後でしたら、学園長の心中もなかなか複雑でしょうから。」
スカリーの声はどこか柔らかく、少し笑みを含んでいた。その仕草にユウもつられて肩の力を抜く。学園長が「責任を取らせる」という名目で、このお使いを仕掛けてきたことはほぼ間違いない。それでも、グリムがあの時必死で言い逃れをしようとしていた姿を思い出すと、どこか憎めない気持ちが湧いてくる。普段は威張っているグリムの弱気な一面が垣間見える瞬間だった。
ユウは歩きながら、小さく笑う。「それにしても、グリムのあの逃げっぷり。なりふり構わず逃げていったのには、正直びっくりしたよ。」
スカリーも思い出したように笑みを浮かべる。「全力疾走で階段を駆け上がる姿、なかなか印象的でしたね。ですが、あの時も素敵な貴方は落ち着いて対処されていました。」
その言葉にユウは苦笑しながら、軽く手を振る。「まあ、慣れっこだからね。でも、今日はそのグリムもいないし、二人だけで頑張らないと。」
ユウは深く息を吸い込み、冷たい冬の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。頭上では木々が風に揺れて、雪が小さな羽根のように舞い降りる。スカリーはそんなユウの横顔を一瞬だけ見つめ、微かに頷くと、彼女のペースに合わせて足を進めた。
二人の足音が雪の上できしむ音を立てる。その音が、広大な森の静けさの中で心地よく響いていた。
*
森の木々が途切れ、ようやく視界が開けると、二人の目の前に純白の雪原が現れた。どこまでも続く白銀の景色が、何か不思議な魅力を放っている。ユウは手に持っている地図に目を落とし、目的地までの距離を確認する。その場所は、雪原の中心部に近いはずだ。
「もう少しだね。」ユウはそう呟きながら、足元の雪に埋もれた足を引きずりつつ歩みを進めた。すぐ隣にはスカリーが歩いている。彼の姿が雪原にひときわ映える、黒いナイトレイブンカレッジの制服が白い雪と対比をなして美しい。冷たい空気にもかかわらず、彼の背筋はまっすぐで、まるでどこかの時代からそのまま歩いて来たような気品を感じさせる。
「我輩も感じます、もうすぐそこです。」スカリーが言った。その声には微かな期待と静かな興奮が滲んでいた。
その瞬間、遠くに小さな光が見えた。ユウが目を凝らすと、そこには見事な氷雪の薔薇が一面に咲いているのが見えた。まるで宝石のように、氷の花びらが透き通るように輝いている。
ユウは息を呑んだ。あまりの美しさに、心の奥底から感動が込み上げてきた。「これが、氷雪の薔薇……」その美しさに思わず呟いた。
スカリーもその光景に目を奪われていた。一瞬、その表情に深い感嘆の色が浮かぶ。「まるで夢の世界のようですね。これがすべて氷でできた花だなんて、とても信じられません。」
二人はしばし言葉を交わすことなく、ただその薔薇に見入っていた。凍てついた空気が肌に触れるたび、その美しさが一層鮮明に心に刻まれるようだった。氷の花が湛える透明な輝きは、陽の光を受けてきらきらと反射し、その静謐な美しさが周囲を支配しているように感じられる。凛とした冷気が花を包み込み、薔薇を中心に広がる静寂には、まるで触れることすらためらわせるような神秘的な緊張感が漂っていた。
ユウはふと我に返り、スカリーの方を見た。「でも、どうやって持ち帰ろう? 手で触ったらダメって聞いてたけど……」鞄からガラスドームを取り出し、その透明なガラス越しにじっと花を見つめた。
スカリーは一瞬考え込んだ後、そっと微笑みながら手を差し出した。「どうか我輩にお任せください。この魔法のガラスドームに、花を無傷で収めてみせます。素敵な貴方が手間取らないよう、少しお手伝いをさせていただきますね。」
ユウはその言葉に安心し、スカリーの指示に従い準備を始めた。冷たい空気が肌を刺す中、二人は息を潜めるようにして作業を進める。ユウがドームをしっかりと支え、スカリーは丁寧な動作で魔法を使い、氷雪の薔薇を慎重にドームの中に収めていく。その動作には、どこか神聖な儀式のような雰囲気が漂い、ユウは息を飲むほどの緊張感を覚えた。
「完璧です。」スカリーがドームをそっと持ち上げながら、静かに微笑んだ。「貴方の落ち着いた手際のおかげで、これほど美しく収められましたよ。」
ユウはその言葉に思わず笑みを浮かべ、肩の力を抜いて軽く息をついた。「ありがとう、スカリーくん。おかげでうまくいったね。」
氷雪の薔薇は、ガラス越しにその透明な輝きを放ち、雪の光を反射して小さな虹のようなきらめきを生んでいた。その姿をしばらく眺めた後、二人は再び歩き出した。冷たく澄んだ空気が鼻腔を満たし、足元では雪がきしむ音が穏やかに響く。静かな雪原を進む二人の間には、言葉にはならない満足感と達成感が漂い、共に刻んだこの瞬間が特別な思い出として心に刻まれていくようだった。
「実は、氷雪の薔薇には古い言い伝えがあるのです。」スカリーが語り始めるその声は、どこかしっとりとしていて、雪の静けさに溶け込むようだった。
「言い伝え?」ユウは興味深くスカリーを見た。
まるで心に秘めた壮大な物語が胸の奥で溢れ出し、誰かに伝えずにはいられないかのように、スカリーの言葉は一つ一つが重みを持って静かに、しかし確かに響き渡る。
「昔、とある国が災害に見舞われました。火山の爆発、洪水、大地震――次々に襲いかかる災難に、人々はすっかり希望を失っていたそうです。」口調は感情豊かで、まるでオペラの舞台で演技をしているかのように、言葉にドラマチックな抑揚があった。「そんな中、ひとりの魔法士と、魔法を使えぬ人間が出会い、共に力を合わせることを決意します。」
彼はふっと手を広げ、空気に何かを描くように動かした。「二人は困難を乗り越えながら、やがてこの氷雪の薔薇に辿り着いたのです。そして、この花の力が災いを退け、国に平穏を取り戻したと言われています。」
スカリーの瞳が少し遠くを見つめるように輝いた。「ですが、それだけではありません。魔法士と非魔法士が力を合わせて奇跡を成し遂げたその瞬間こそが、二人の間に特別な絆を生んだのです。この花は、それ以来、人と人を結びつける特別な力の象徴とされているのですよ。」その声には、一語一語にしっかりとした響きがあり、語りかけるような温かさが滲んでいた。
語り終えると、スカリーは穏やかな笑みを浮かべながらユウの顔を見た。その表情は、どこか誇らしげでありながらも控えめだった。ユウはその語りに圧倒され、思わず拍手を送った。その音は、森の静けさの中で小さくも確かに響き渡る。
「素晴らしい話だね。」ユウは微笑みながら言った。その声には、スカリーの情熱に共鳴した温かさが込められていた。
スカリーは少し照れたように微笑み返し、控えめに頭を下げた。「お聞きくださり、ありがとうございます。素敵な貴方にこの話をお届けできたこと、我輩にとっても特別な喜びです。」
スカリーはひとつ小さく息を吐き、柔らかな声で言葉を続けた。「この言い伝えも、今ではただの古い伝説として忘れ去られているようです。かつてはこの花に強大な力が宿ると信じられていましたが、今となってはその力も単なる魔法薬の素材として使われる程度で、伝説に語られるような影響力はないと考えられています。」
彼の声には、どこか寂しさが混じっていた。そのまま言葉を切り、スカリーはユウをじっと見つめた。その瞳はどこか遠くを見据えているようで、伝説に込められた運命や絆の重みを映し出しているようだった。
「それでも、この花が持つ力は決して侮れるものではないと、我輩はそう感じています。」スカリーの声は低く、確信を帯びていた。彼の言葉には、氷雪の薔薇に対する敬意だけではなく、何かそれ以上の深い感情が含まれているように聞こえた。
ユウは彼の言葉に引き込まれながら、小さく首を傾げる。「それって、どういう意味?」
スカリーは少しだけ歩み寄り、ユウに向かって微笑んだ。その笑顔は、どこか特別な絆を匂わせるもので、言葉では言い表せない温かさがあった。彼の瞳には、この瞬間を大切にしたいという思いが宿っている。
「運命は、時として思いがけない形で二人を結びつけるものです。」スカリーは静かに語った。その声は、雪を踏みしめる音とともに森の静けさの中に溶け込んでいく。冷たい空気が肌を刺すような感覚の中、彼の言葉だけが優しく温もりをもたらしていた。「そして、この花はその証。我輩と貴方の間にも、特別な絆があるように感じるのです。」
ユウはその言葉に驚いたように目を見開いた。スカリーの言葉が胸に響くと同時に、何かが弾けたような感覚が広がり、頬が熱くなるのを感じた。彼の真剣な眼差しと、そこに込められた思いを受け止めながら、ユウは少しだけ照れたように笑った。
「運命か……ちょっと壮大すぎるけど、そうだったら素敵だね。」ユウの声には、スカリーの思いに応えたいという温かさが込められていた。
スカリーはその言葉に柔らかな微笑みを浮かべ、静かに頷いた。「貴方のお言葉、我輩の心に深く刻み込まれました。」その声には、深い敬意と共にどこか熱を帯びた響きがあり、まるでその瞬間を永遠に留めたいと願うかのようだった。
彼の佇まいには、ただの少年にはない気高さがあった。雪が頬に触れるたびに、その冷たさが彼の存在を一層鮮明に際立たせる。スカリーの足取りは迷いなく、確かな一歩一歩を刻んでいく。その背中に宿る静かな決意と優雅さに、ユウは自然と視線を引き寄せられていた。
ユウの胸に、ふとした思いがよぎる。自分が今この場所でスカリーと共にいること――それはただの偶然ではなく、何か特別な意味があるのではないか。彼の言葉と歩みに引き込まれながら、そう感じずにはいられなかった。
静寂に包まれた雪原を、二人は肩を並べて進んでいく。凍てつく風が頬をかすめるたび、その冷たさが二人の距離を縮めるかのようだった。雪を踏みしめる音だけが響く中、二人の間に流れるのは静かな確信。それは、ただの言葉ではなく、心の奥底で共有される感情だった。スカリーの言葉がユウの胸の中に残り続けるように、ユウの思いもまた、スカリーの心に深く刻まれているのだろう。
*
森の入り口にたどり着いたユウとスカリーの前に、学園長が待ち構えるように姿を現した。澄んだ夜空の下で、彼のシルエットが月明かりに浮かび上がる。「おや!グレイブス君までここにいるとは驚きましたよ。」学園長は目を丸くし、軽く笑いながら二人を見渡した。「ユウさんがいなくなったとグリム君たちに聞いたので、もしやと思って来てみましたが…これは意外な組み合わせですね!」
ユウは苦笑いを浮かべ、少し肩をすくめた。「まあ…ちょっとした冒険でした。」しかし、その言葉の裏には、学園長の登場が予期せぬものであったことへの戸惑いが滲んでいる。
学園長は二人を交互に見ながら、ほっとしたように肩を落とした。「とにかく、無事でよかった。それにしても随分と時間がかかりましたね!」その声にはわずかな責めるような調子が含まれていたが、表情はどこか安心感に満ちている。
「遅い、ですか…?」スカリーが驚いたように口を開いた。その声に、ユウも同調するように眉をひそめる。「そんなに時間が経ってたんですか?」
学園長は穏やかな笑みを浮かべて頷き、「ええ、随分待たされましたよ。地図を渡したでしょう?」と指摘した。その言葉に、ユウは慌てて懐から地図を取り出す。「確かに…でも、これ、道がややこしすぎませんか?」
ユウが地図を広げると、学園長は「あっ」と驚きの声を上げ、手を振りながら言い訳を始めた。「あー、その地図、少し古いバージョンのようですね…これはうっかり…」彼は苦笑いを浮かべながら、軽くごまかすように話を続けた。「でもまあ、結果的には無事に戻ってこれたのですから、良しとしましょう!」
学園長は話題を切り替えるように声の調子を上げ、「それより、グリム君たちには宿題をたっぷり出しておきましたから。今頃、きっと大忙しでしょうね!」と言い、いたずらっぽく目を細めた。
ユウはその言葉に小さく息をつきながらも、意を決して口を開く。「あの、学園長。実は…こちらに来てしまった時、闇の鏡が暴走したみたいだったんです。それで、気づいたらここにいて…」
その説明を受け、学園長は眉をわずかに上げたが、すぐに柔らかな笑みを浮かべた。「おやおや、それは奇妙な話ですね。ですが、闇の鏡を確認しましたが、特に異常はありませんでしたよ?心配無用です。」その言葉には、どこか冗談めいた軽さが含まれており、ユウの不安を取り除こうとする意図が見え隠れしている。
しかし、その言葉を聞いたユウとスカリーの表情はどこか釈然としない。二人の間には微妙な空気が流れ、特にスカリーはそのオレンジの瞳に疑問を浮かべながら学園長を見つめ続けた。
学園長はその視線に気づき、少しだけ真剣な表情を見せた。「まあ、あなたたちが無事に戻ってきたことが何より大事ですから。これからは、くれぐれも気をつけて行動してくださいね。」彼の声は穏やかだが、どこか含みを感じさせるものだった。
ユウとスカリーは互いに一瞬視線を交わした後、学園長の言葉に軽く頷くしかなかった。雪の降りしきる中で、彼らの足元の感触はじんわりと冷たさを増していく。
「さぁ、帰りますよ!」闇の鏡を抜けた瞬間、二人を包んだのは、いつもの鏡の間の静寂だった。薄暗い空間に立ち込める微かな冷気が、雪原での冒険の余韻を際立たせる。鏡の表面はまだゆらめいており、その奥で残像のように冬の森の景色が消えていくのが見えた。
スカリーは足元に溜まった雪が残るのではないかと軽く靴を振りつつ、「無事に戻ってこられましたね」と優しく言葉を漏らした。その声は控えめながらも、どこか達成感を帯びている。ユウは小さく頷きながら、凍えた手を自分の袖口で包み込むようにして暖を取る。鏡の間は外よりも暖かいはずなのに、長い冒険の疲れが全身に冷えを刻んでいるように感じた。
鞄から取り出した氷雪の薔薇は、ガラスドームの中で不自然なくらいに美しく輝いている。ユウは慎重に花を学園長に手渡し、わずかな冷たさが指先に残るのを感じながら、安堵のため息をついた。
学園長が花を受け取ると、その目が輝いた。「おお、これは素晴らしい!ありがとうございました、ユウさん、グレイブス君。」
学園長は二人にお駄賃を手渡し、満足げな顔で軽くうなずいた。「では、これでおしまいです。お疲れ様でした。」そう言うと、学園長はさっさと足早に自分の部屋へと向かっていった。
ユウは少し驚いたような表情を浮かべながらも、手にした袋を確認した後、スカリーを見やった。スカリーはその背中を見送った後、小さく息を吐いて呟く。「学園長、随分とお忙しいご様子ですね。」
*
夜の帳が下り、オンボロ寮への道中、二人の間には静かな空気が流れていた。冷たい風が時折肌を刺すように吹き抜けるが、その冷たさは心地よい余韻を伴っていた。雪がちらつく中、ユウがふと足を止める。寮の灯りが遠くに見え、暖かな光がその向こうに待っているようだった。
「ねえ、スカリーくん。」ユウが小さく笑いながら、ふと顔を上げた。その瞳には今日の冒険を思い出すような輝きがあった。「今日は、なんだか思いがけず冬のデートみたいだったね。」
スカリーは一瞬固まり、次の瞬間にはその顔が赤く染まっていく。「で、デートとおっしゃいますか…?」声に動揺が混じり、彼の立派な背筋も少しだけ縮こまったように見える。
ユウはスカリーの様子に思わず吹き出しそうになるが、ぐっとこらえる。「あ、冗談だよ。ただ、ほら、雪の中を二人で歩いたり、冒険したりって、ちょっとそれっぽい雰囲気だったなって思っただけ。」
「そ、それでも、そのような表現は我輩にはあまりにも…!」スカリーは言葉に詰まり、顔を逸らす。いつもの礼儀正しさや落ち着きが嘘のように消え去り、16歳の少年らしい姿が露わになる。
ユウはその様子に微笑み、少し前に歩み寄った。「ありがとう、スカリーくん。今日は本当に助けてもらったし、一緒にいて心強かった。」
スカリーはふと顔を上げ、ユウの視線を受け止める。その瞳には純粋な感謝が込められており、彼の胸の奥で何かが静かに揺れ動いた。
「その…ユウさん。」スカリーは少し言葉を探すように間を置き、深呼吸を一つした。「最近、皆さんの助言に従い、控えていたのですが…今こそ、改めて感謝の気持ちを表したく思います。どうか、キスを贈らせていただけませんか?」
ユウは目を丸くし、次に視線を泳がせた。「えっ、き、キスって…また手の甲に?」
スカリーは微かに笑みを浮かべ、優しい声で答える。「はい、それだけではなく…もし許されるなら、頬にも。あなた様にはそれほどの感謝をお伝えする理由があるのです。」
ユウはその言葉に一瞬言葉を失った。頬がじんわりと熱を帯び、冷たい夜の空気さえその熱を冷ますことができなかった。次の瞬間、スカリーがゆっくりと手を取る。その指先は寒さで少し冷えていたが、触れられた手の甲からは不思議と温もりが広がった。
「では…失礼します。」スカリーは慎重な仕草でユウの手に唇を触れさせる。その動きにはまるで儀式のような気品と敬意があった。そして、ユウの頬にそっと顔を寄せると、ほんの一瞬だけ唇が触れた。
「…っ!」ユウは思わず目を瞑り、顔全体が火照るのを感じる。スカリーもまた頬を赤らめ、少し視線を落としながら静かに一歩下がる。
「すみません、あまりにも無礼だったかもしれません。」スカリーは控えめに頭を下げたが、その声にはどこか達成感のようなものが滲んでいた。
「べ、別に無礼じゃないけど…!」ユウは顔を押さえながら答えた。その声には照れ隠しの感情が混じり、周囲の冷たい空気さえも熱を持ったように感じられた。
二人の間に一瞬だけ静寂が訪れる。降りしきる雪がかすかな音を立てて地面に積もり、冷えた空気の中でその音はより鮮明に響いていた。
「これで、今日の冒険は本当に終わりですね。」スカリーが柔らかく笑いながら言った。その声は穏やかで、彼自身の心が安らいでいることを伝えていた。
ユウも少し笑みを浮かべながら頷いた。「うん、でも忘れられない一日になったよ。ありがとう、スカリーくん。」
そして、二人は再び足を動かし、静かに寮へと向かう道を歩き始めた。雪はさらに降り積もり、世界を白く染め上げる中、二人の足跡だけがその道に刻まれていくのだった。