おやすみ、グッドガール
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寮で宛てがわれた自室。二人一部屋の空間でベッドに横たわりながらフェイスはビリーから送られてきた調査結果に目を通していた。ベッドヘッドにはビリー伝てで預かった封筒もあるが、そちらには手をつけていない。フェイスではない人物宛だからだ。
エイダ・ハーヴェイの経歴は概ね世間で公表されている通りだが、ビリーの調査報告書は一歩踏み込んだ内容となっていた。
孤児院に保護される日、彼女はイーストセクターで毎週土曜に開催される大きな公園を使ったイベントで母親から置き去りにされたそうだ。施設長のトーマス氏に保護された後も半年近く毎週土曜に開催されるイベントに通い、母親の迎えを待っていたという。そして、孤児院での振る舞いは非常に模範的だった。他の子ども達が遊んだりワガママで困らせた時も率先して彼らの面倒を見ていたとたあう。いつも笑顔を絶やさず、自ら手伝いを買って出て大人達に頼りにされるほどだった。
ここまで読んでふぅー、と重苦しい息を吐く。想像するだけで息が詰まりそうだ。しかし、報告書はまだ続く。
奨学生制度を利用してアカデミーに入った後もエイダはアルバイトをして少しでも養護施設の負担を減らそうとする苦学生だった。日中は講義と実践練習、夜はアルバイト。誰が見ても大変な思いをしていただろうに、それでもエイダは溌剌として周囲に苦労を感じさせなかった。だからこそ周囲からは勤勉な努力家として見られていたという。そしてトライアルを通過し、境遇や在学時代の素行面を評価され、12期ルーキーを使ったプロモーション『ニューミリオン・ドリーム』に抜擢された。
「一見素晴らしいのかもしれないけどさぁ……現状、そんな事口が裂けても言えないよね」と思わず零す。
「えーっと……独り言?悩みがあるなら聞こうか」
ふとスマートフォンから視線を上げると、物珍しそうにこちらを見ている同室者が視界の端に映る。
じっとりとした視線を向けられたウィルは気まずそうにしながらも人のいい笑みで誤魔化していた。
「……別に。なんでもないよ。」
「フェイス君が何かを熱心に読んでるなぁと思ってたらさっきの独り言が聞こえてきて。普段は気だるそうにしてるからなんだか意外で」
そう、と聞き流そうとしてふと思い立ち、ウィルに声をかける。
「ウィルはエイダ・ハーヴェイの事どう思う?」
突然問われたウィルは目を丸くしながらもすぐに笑顔で答えた。
「立派な人だと思うよ。公的支援を受けながらも学生時代からアルバイトを頑張って、今ではルーキーのプロジェクトに抜擢されたんだからすごいよ。市民からも親しまれていて、ひたむきな姿に励まされている人も多いし……今は大変そうだけど彼女なら立ち直れると信じてる」
「俺には自分の限界も分からず走り続けて、息を切らしながら必死にもがいているようにしか見えないね」
「フェイス君……」
「アハ。ひねくれてると思った?でも俺みたいなのにはなんとなく分かるんだよね。あ、折れそうになってるなって」
フェイスは期待を寄せられ、応えられなかった人間だからだろうか?エイダの経歴が眩しくも痛々しく映る。施設関係者も、アカデミーの教師も、そしてメンターや同期も、まさか彼女ががむしゃらに、ゴールも分からず延々と走り続けているとは露とも思わなかったのだろう。それとも気付く者がいてもいつかエイダから相談してくれるはずだと信じていたのか。
調査結果を送ってきた際添えられていたビリーからのメッセージが脳裏をよぎる。
――すごーく立派だけど可哀想だね。オレっちはお父さんとサーカスって居場所があったけど、この人にはきっと孤児院すら心の底から安心できる居場所じゃなかったんだ。じゃないとこんなにがむしゃらになれない。普通ならどこかでポッキリと心が折れちゃうよ。
多くの大人達に囲まれていながら誰も彼女に頑張り続けなくていいと諭さなかったのがエイダの不幸と言えるかもしれない。しかし、周囲だけの責任ではないはずだ。
勤勉な努力家は好意的に見られやすい。問題行動がなければ尚更だ。例え本人が無理をしていたとしても周囲は気づかなかったのだろう。
それだけエイダが無意識に、周囲から望まれる行動を優先していたのだとしたら。それは彼らだけの責任ではない。環境にも本人にも問題があり、そのまま生きてこれたというだけの話だ。誰も悪くない。しかし、重圧で潰れかけているヒーローの歪みを誰かが指摘してやらなければこのままエイダというヒーローは消えてしまうだろう。ベッドヘッドに置かれていた封筒へ視線をやり、ふう……と溜息をつきながらトークアプリのルーム画面を開いた。
◇
能力が光だと教えられた時、誰かにエイダらしいと声をかけられて笑顔で応じる反面、心のどこかで何故だろうと思っていた。
エイダは自身が光り輝くような存在だと思っていないし、に誰かの光になる要素があるとも思えなかった。母親から捨てられ、孤児院でもアカデミーでも、ヒーローになってからも大人達の手を煩わせないよう振る舞い続けるよう心がけていた自分が、どうして?と。
褒められ、頼られてもいつも不安で堪らなかった。失望され、もう一度居場所を失うのが怖かったからだ。だからトライアルを通過した時は嬉しいけれど本当にいいの?という気持ちもあり、第12期ルーキーの中でプロジェクトに選ばれた時は喜びより不安と焦燥感が大きかった。選ばれたもう一人こそヒーローに相応しい、自ら光り輝くような人物だったから尚更焦りが募る。
人々から認められるように頑張らなくては。誰かの光になれるように、市民にとってのヒーローになれるように頑張らないと。頑張れる。ずっと頑張ってきて、これからも頑張り続ければいいのだから――そう、思っていた。
だが、孤児院の件をきっかけに自分が駆け抜けてきた道のりを振り返り、ふと疑問が湧く。
――私はいつまで頑張り続ければいいの?と。
◇
トレーニングルームで二人の女性が組手を行っていた。一人はリリー・マックイーン。一人はエイダ・ハーヴェイ。現役時代の栄光に恥じないリリーの動きに対して、エイダは攻防ともにどこか精彩を欠いた状態で、攻めきれずになんとか耐えている様子だ。次第に押され始め、ガードで凌ぐのが精一杯となっていく。
「散漫になっているぞ!気を引き締めろ!」
「はいっ!」
「返事ばかり威勢が良くてどうする!結果を出せ!」
「はいっ!」
懸命に応じるものの攻めに転じる機会がない。否、気が散漫になってチャンスを逃しているのだ。眼前の組み手に集中したくとも脳裏を占める悩みで気が散ってしまう。そんな状況はベテランヒーローにあっさりと看破され、一瞬のうちにエイダの視界はぐるりと回転。気がつけば天井をバックに見下ろしているリリーがいた。
「これ以上は無駄だ。話にならん」
呆然としていたエイダは弾かれたように身を起こし、息が整うのも待たずに深く頭を下げる。不甲斐なさを押し込めて声を張った。
「ご指導ありがとうございます!そして、先程は大変失礼しました!今後このような事がないよう努めます!」
「集中力を欠く理由も理解できるが、公私混同は感心しない。業務中のミスが増えたという報告を受けているぞ」
「本当にご迷惑をおかけしています」
頭を下げたまま動かないエイダをしばらく見つめていたリリーがやれやれと声を漏らした。
「やはり孤児院の件か」
どうやらリリーの耳にも入っていたらしい。不甲斐なさで頭を上げられない。
「AA昇格試験も近付いている。気落ちしている場合ではないぞ」
「本当にご迷惑をおかけしています。沈静化の目処はついているそうなので私も気を引き締めていくつもりです」
ワイドショーも動きの見られない孤児院騒動に飽き始め、話題は芸能スキャンダルへと移り変わっている。ネット上でバッシングしていたSNSアカウントの関心も次の炎上案件へと移り、このまま収束していくのだろう。良くも悪くも世間とはそういうものだ。当事者を置き去りにして移り変わっていく。
――胸中に渦巻く忸怩たる思いも消し去ってくれればいいのに。
ふぅ、と一息ついたリリーは「そういえば」と前置きして話題を変えた。
「アカデミー生の特別課題を手伝ったそうじゃないか。大事な時期が近いのだし、断れば良かったものを……」
「自分で受けた話でしたから。それに、ヒーローとしての自分に迷いがあるのも自覚できてよかったと思ってます」
「そのようだな。……他人に手を差し伸べられるように自分へも労りを向けられたらよかったのだが」
眉を寄せ、困った子供を前にするような表情のリリーに対してエイダは言葉が出てこなかった。何を言うべきか分からず、下手に話をしたところで迷惑になるだろう。だから「……不甲斐ないです」とだけ答えた。
「…………教官、その……お話しづらい内容なんですが」
「まあ待て。そう早まるんじゃない」
片手で制したリリーは嘆息する。汗で張り付いた髪をかき上げる仕草も様になっていて、現役を退いてなお人々から慕われるヒーローに相応しい堂々とした様子が眩しかった。
「まったく、直属のメンターがいつまで経っても自分達に相談してくれないと気を揉んでいたが筋金入りだな」
「本当にすみません」
「こちらとしてはそこまで思い詰める前に打ち明けてほしいものだが」
「分かるものなんですか?」
「私が何年ルーキーの指導を務めていると思っている?思い詰めたルーキーの行きつく選択などそう多くはない」
リリーのもっともな回答にエイダはそっと視線を外す。彼女はこれまでもこうして志半ばで去ろうとするルーキーを見てきたのだろう。
「技術教官としては誰一人欠ける事なくルーキー研修を終えてもらいたいものだが、それでも辞める者は出てしまう。歯痒い話だ」
「…………」
「それに今回はルーキーに背負わせずとも良い重荷を背負わせてしまった。我々の責任でもある」
「いいえ。司令部や皆さんの期待に応えられず申し訳ありません」
「孤児院の件に話は戻るが、前々から水面下で進んでいたそうだな」
「はい。ただ、私の知名度が上がって以降は下手に手を出すとファンからバッシングされると様子を見ていたそうで、落ち着いた頃合いを探していたそうです」
土地を売りに出すという話はエイダが世話になっていた頃から何度も挙がっていた。恵まれた立地と住人の年齢層を考えれば孤児院よりもファミリー層向けのレジャー施設の方が好ましかったのだろう。
それでも地域貢献を通して住民に愛されつつ細々とやってこられたのは幸福だったのかもしれない。
土地の権利者の世間を騒がせたくないという打算とヒーローとしてこれからと言う時に巻き込むわけにはいかないという施設長の思いやりを前に、当事者でもないルーキーという立場で大それた事ができるはずもなく。
「ジェイが自分の名を使えばいいとも言ったそうだが」
「ありがたいけれどこれ以上大事にするつもりはないんです。ようやく人々の興味が離れたのに今更注目を集める事なんてできません。今回関わった人達を悪者にするつもりもないし、ルーキーの私事にスーパーヒーローの威を借りるなんて自分を許せそうにない」
「賢明だな。――だが、それで心折れてしまったというのも個人的には寂しいものだ」
「本当にすみません。ただ、孤児院の件もきっかけに過ぎないんです。元々あった迷いが今回表に出てしまったと言いますか……ですが、これは単なる私事です」
眉を下げて謝罪する。こういった場合に周囲を頼れる性格だったのなら、負担を抱えすぎる前に収束したのかもしれない。だが、周囲に迷惑をかけるのに抵抗を感じたエイダは自分が矢面に立って収束させる方法しか浮かばなかった。その結果、消耗し切ってヒーローを辞める事になってしまうのだから立ち回り下手が過ぎるというもの。エイダも自嘲するしかない。
これがフィクションなら周囲を巻き込む大騒動に発展しながらもハッピーエンドを迎えるのがセオリーだが、そうはならないのが現実だ。既に話はまとまっていて、職員や子供達もそれぞれ新しい生活を送っている。世間の関心も日々のニュースに流れていく。だから、あとはエイダ自身が割り切るしかなかった。
他人からヒーローという花形職を捨てるなんて馬鹿げていると言われようと関係ない。最大のモチベーションが消えてしまったのだから。
「……まあ、結論を急ぐ事もない。今のように疲弊している時こそ重大な決断は避けるべきだ。有給が残っていたはずだな。その間に気持ちの整理をつけてくるといい」
踵を返したリリーの背に向けて、エイダは深く頭を下げた。休暇を宛てがわれてしまえば従うしかない。思い出の詰まった場所が取り壊される光景を直視できる自信もなかったエイダは借りていたアパートに戻ってこれからに思いを馳せた。まずは身辺整理と職探しか。司令と広報部にも話を通さなくてはならない。やる事は山積みだが、どうにも気力が沸かず手付かずのままぼんやりとしてしまう日が続いていた時、メッセージアプリに珍しい人物からの通知が入った。
◇
待ち合わせに指定されたのはグリーンイーストのとある公園だった。休日は家族連れで賑わう公園も、夕方ともなれば人はまばらになっていく。初めて訪れたフェイスでも何故か郷愁に駆り立てられそうな光景を眺めていると、夕陽に照らされて赤みの増した長髪の女性が片手を上げた。
何週間かぶりに会うエイダ・ハーヴェイだ。
「レポート、どうだった?」
「おかげさまで。とりあえず卒業はできそうな感じ」
「そっか。よかったね」
風になびく髪を押さえながらエイダは微笑む。揉めながらもレポートに取り組んでいた時は腹立たしいと思った覚えのある人の良さそうな顔立ちも、ある程度打ち解けた今は好意的に見られるようになった。
――光のようにキラキラと輝くルーキーにも陰があると知ったからというのもあるだろう。
「アンタの方は?」
「うん?」
「孤児院の取り壊しって今日からでしょ」
「うん、そう。さすがに見に行く気にはなれなかったけど」
「最近有給取ってるらしいじゃん。何してたの?」
「なんにも。これからを考えるとやらなきゃいけない事はたくさんあるのに、なんにも手につかないんだ」
「もうすぐAA昇格試験だよね?」
「んー、まあ。そっちは一応やっていたよ」
「どうすんの?」
「……どうしようね、ほんと」
他人事のように言って空笑いを浮かべる。ちらりと見えた翳りは迷子になって途方に暮れた子どものようだった。その様子にフェイスは眉を寄せて目を細める。夕日が眩しかったからではない。投げやりな態度を見ていられないと感じたからだ。
二人並んで夕日に染まる公園を眺めていると、エイダがおもむろに切り出した。
「実はさ、ヒーロー辞めようかと思って」
「孤児院の件で?辞めるような事では無いと思うけど」
「まあ、それも原因のひとつだけど……元から色々あってね」
正面へ向けていた頭がフェイスの方へと向けられる。八の字に寄せられた眉。目尻の下がった表情。笑っているのにともすれば泣き出しそうな雰囲気があった。
「ね、ニューミリオン・ドリームってあるでしょ」
一般的にはニューミリオンでチャンスを掴み、成功した人間を指す言葉だ。そして、広義では二人の第12期生ルーキーを意味している。一人は直接エリオスへ入所した日系女性ヒーロー。もう一人が奨学金制度を利用してアカデミーを卒業し、ヒーローになったエイダ。
「あれって市民の不安を払拭するため発足されたものって事になってるけど、本当はもっと政治的な思惑で担ぎ上げられたの」
「……へぇ」
「入所日に司令部へ呼び出されて行ったら広報のお偉いさんと第12期の司令が待ち構えていてさ。私の経歴がニューミリオン・ドリームとして適任だから一連の広報活動に参加するよう命じられたの」
「それって社会的に恵まれない出自だから選んだって言ってるようなものだよね?」
フェイスの指摘にもエイダは眉を下げ、寂しげな笑顔を浮かべるだけだ。そうやって彼女がこれまでもあらゆる物事を呑み下してきたのは簡単に想像がついてしまった。
「境遇で選ばれたのは正直思うところもあったけど、見掛け倒しにならないよう走り続けた。選出されたからにはって必死だったよ。でも、段々独り歩きし始めた『エイダ・ハーヴェイのイメージ』がしんどくなってきた。可笑しいでしょ?自分なのにそんな気がしないの」
多くの殉職者を出したロスト・ゼロ事件。その悼ましい傷を覆い隠すため発足された広報戦略は成功を収めていた。だからこそルーキーのリタイアでプロモーションのイメージに傷をつけるわけにはいかなかった第12期司令と広報部は「降りさせてほしい」という相談をすげなく断った。せめて13期生が入所するまでは続けてもらわないと困る、と。
次のルーキーが入所すれば市民の注目はそちらへ移る。そう諭され、残りの期間を全うしようと過ごしていた矢先に運悪く起きたのが開発事業再開騒動だった。広報の責任者もまさか市民からの支持が裏目に出るとは思っていなかっただろう。
ひとしきり話し終えたエイダは息をつく。少しずつ夕焼けに沈んでいく街並みはまるで陰鬱とした内心を反映しているかのようだった。
「アンタの事窮屈そうだなと思っていたけど、実際かなり窮屈な思いしてるんだね」
「そうかもね」
「自覚ないの?」
「あんまり考えないようにしてたから」
「そうやってごまかし続けてたわけだ。それ、思考停止って言うんだよ」
エイダが「うっ」と呻いてわざとらしく胸を抑える。冗談めかしたさ仕草の後に彼女は長いため息をつき、「そうでもしないとやってられなかったんだよ」と視線をほんの少し下へと向ける。眼下に広がるニューミリオンの街並みを見つめる目はどこか昏い。
そんな彼女を見て、フェイスの意思が固まった。エイダからは見えない角度で必要なさそうならそのまま捨てていたはずの預かり物を手探りで確認する。
「便利屋自称してる同級生がいるんだけど、今回の件について色々調べてもらったんだ」
「へぇ……」
勝手にプライベートを探られたというのに気を悪くした風もない。ただ、意外そうに目を丸くしただけだ。
広告塔として使われるのが当たり前になっているエイダにとってはあれこれと探られるのもいつもの事なのかもしれない。そんな彼女にフェイスは封筒を差し出した。シンプルで飾り気のない白い封筒がオレンジ色に染まっている。
「施設長はアンタへの負担を案じて孤児院の売却を進めたんだって。これ、知り合いなら渡してくれってさ」
ビリー伝てで預かった封筒を差し出すも、エイダはなかなか受け取ろうとしない。不可思議そうな表情のまま封筒を見つめていた。
「ねえ、受け取ってくれないと腕が疲れるんだけど?」
「あ、ごめんね」
しけしげと手元の封筒を眺めたエイダはどこか納得いかなそうな様子でフェイスに視線を向ける。
「どうしてそんな事を?フェイスはめんどくさいの嫌なんでしょ」
「課題のお礼とお節介。このままだとアンタ、本当にヒーロー辞めそうだったし」
「……まあ、何のためにやってたか分からなくなっちゃったからね」
視線をフェイスから空へと向ける。夕焼けに染まる空を眺めながらエイダは「夕焼けって嫌い」と呟いた。
「母親に捨てられた日も綺麗な夕焼けだった。いっつも置いていかれる側なんだ。みんな私には何も言わず置いていくの」
愚痴を言いながらから笑いを浮かべる横顔は夕焼けに染まって陰鬱そうに見える。明るく、ニューミリオンの人々を元気づけるエイダ・ハーヴェイがこんなにも鬱屈した感情に蓋をしていたなんて誰も想像していなかったのだろう。市民だけでなく、第12期の司令や彼女を推した上層部ですらも。
「自分じゃ気付いてないみたいだから言っておく。アンタは嫌ならはっきり言うべきだったんだよ。他人の事情汲み取ってばっかりいないでさ。お偉いさんと司令にも。『良かれと思って』内密に話を進めた施設長や職員達にも。勝手に決めるなってさ」
「…………」
「いい子ちゃんしてないで暴れてやればよかったのに」
「…………それは、社会人としてダメじゃない?」
「ダメだけど。他人の事情に振り回されて潰れる寸前になるよりマシじゃない?」
エイダを担ぎ上げた司令部はロスト・ゼロ事件をカバーする広報戦略で一人のヒーローが辞職を考えるほど追い込まれていたなんて考えもしないだろう。
「アンタに期待をかけていた孤児院の人達はさ、多分一足先に夢から覚めたんだよ。市民達からの支持がどのくらい影響力を持つのか分かっちゃいなかった。これ以上重荷を背負わせまいと気遣って内密で事を進めたってところ。多分、施設長なりの親心……かな?でもアンタは裏切られたように感じたんじゃない?」
「…………うん」
「それを今からでも伝えればいいんだよ。そんで、もうちょっと怒ったり、自分勝手になっていいんじゃない?って事。あとは……いい子ちゃんのエイダ・ハーヴェイはウザいなと思ってたけどアンタ自体は悪くない」
「――え?」
「これを機にいい子ちゃん卒業しなよ。性分なんてそう簡単に変わらないだろうけど、一足飛びでヒーローやめるよかマシだと思うよ」
そこまで言いきってフェイスが深く息を吐いた。
「あーあ、らしくない事しちゃった。」
「なんで面倒な女の愚痴に付き合ってくれたの?」
「好奇心と打算。知り合いが情報かき集めては売りさばいてるんだよね。巷で期待のルーキーなんて持て囃されてるヒーローのプライベートな悩みなんておあつらえ向きでしょ」
「……そっか。ま、聞いてもらった分はしょうがないか」
「でもやめた。思っていたよりも込み入ってて面倒な事になりそうだし、風避けになってもらった分のお礼って事で」
「いいの?」
「俺も俺なりにトライアルとか頑張ってみるからさ、アンタもヒーロー辞めないでよ。アンタみたいな先輩いてくれたら助かりそうだし」
「なんか今になって先輩扱いされるの擽ったいよ。友達としてでいいから、お互い頑張ろう」
「そうそう、でもあくまで気楽にね」
フェイスがつけ加えた言葉に蜂蜜色の目が丸く見開かれる。そんな発想がなかったとでも言いたげな、ぽかんとした顔にフェイスは吹き出しながらも握手を求めた。
一言に背を押されたのか、エイダも「――うん。気楽に頑張ろう」と彼の手を握った。そこには陰鬱な色はなく、夕焼けに照らされてどこか晴れやかな笑顔があった。
◇
フェイスと別れてタワーの自室へ戻ろうとしていた時、エレベーターのボタンを押し、ふとポケットに手を入れると何かの角が指先に触れた。
なんだろうと取り出して先程受け取った封筒の存在を思い出す。
差出人は養護施設の施設長だったトーマスからで、その場で読むには心の準備ができていなかったからとポケットに突っ込んでいたのだ。恐る恐る開くと、記憶よりも少し震えのある字が並んでいる。
――うちの施設を支えるのが目的になっていたのは知っている。我々はアカデミー入学が決まった時から君に期待とプレッシャーをかけてしまっていたのかもしれない。だから、君から目的を奪った一人でもある私が君を引き留める権利はないだろう。それでも、できる事ならヒーローを続けてほしい。子どもの頃語っていた夢のように、どんな人にも可能性があると証明し続けてほしい。
目を通し終えたエイダは水滴の落ちたレターパッドを見つめていた。目から溢れ落ちる水滴を拭い、便箋を畳みながら深いため息をつく。
「まったく、勝手な事言ってくれちゃってさ」
拗ねたような独り言を呟く。そこには壁にぶつかり、悩み続けた社会人の姿があった。ヒーローになるという夢はエイダ自身が始めた事で、施設長や職員達が責任を感じる事ではない。勝手に話を進められていた事への不満はあれど、孤児院を閉める決断をした彼らを責めるつもりなどなかった。市民への対応に骨を折ったのも自分に関わるから引き受けただけの事で。自分が何とかしなくてはという一身に突き動かされてきただけだというのに。
あるのは間に合わなかった自分の間の悪さと不甲斐なさくらいのものだ。それなのにエイダの不調に勝手に責任を感じて、その上で希望を押しつけてくる。
なんて勝手な人達なんだろう。頭ではそう思いながらも正直なところ、エイダに咎める気はなかった。これも市民からの、善意による願いなのだから。
スマートフォンを取り出して見慣れた番号をタップする。何を言おう?何から話そう?そんな事を考えているうちに繋がる音がした。
「もしもし、トーマスおじさん?エイダだよ。久しぶり」
電話口の声は記憶より張りを失っているように聞こえた。トーマスも歳を重ねているのだ。きっと彼なりに考えた末の決断だったのだろう。そんな事ないよとフォローしようとして間が空く。何かを考えるように数秒置いてから再び声を発した。
「ええ?そりゃあ怒ってるよ。知らないうちに決まってて、ファンへの対応はこっち任せなんだもん。先方がいるにしても事前に知らせて欲しかったよ」
はっきりと口にしてみるのは勇気が必要だった。丸くなってきた背中が益々小さくなっているのを想像すると物悲しくて、こんな事を言わず察して受け入れるのが在るべき形かもしれない。それでも、グッドガールで居続けるのはやめると決めた言わなければならない。
「だからさ、今度は相談くらいしてよね」
口に出してみるとほんの少しだけ肩の荷が降りた気がした。
エイダ・ハーヴェイの経歴は概ね世間で公表されている通りだが、ビリーの調査報告書は一歩踏み込んだ内容となっていた。
孤児院に保護される日、彼女はイーストセクターで毎週土曜に開催される大きな公園を使ったイベントで母親から置き去りにされたそうだ。施設長のトーマス氏に保護された後も半年近く毎週土曜に開催されるイベントに通い、母親の迎えを待っていたという。そして、孤児院での振る舞いは非常に模範的だった。他の子ども達が遊んだりワガママで困らせた時も率先して彼らの面倒を見ていたとたあう。いつも笑顔を絶やさず、自ら手伝いを買って出て大人達に頼りにされるほどだった。
ここまで読んでふぅー、と重苦しい息を吐く。想像するだけで息が詰まりそうだ。しかし、報告書はまだ続く。
奨学生制度を利用してアカデミーに入った後もエイダはアルバイトをして少しでも養護施設の負担を減らそうとする苦学生だった。日中は講義と実践練習、夜はアルバイト。誰が見ても大変な思いをしていただろうに、それでもエイダは溌剌として周囲に苦労を感じさせなかった。だからこそ周囲からは勤勉な努力家として見られていたという。そしてトライアルを通過し、境遇や在学時代の素行面を評価され、12期ルーキーを使ったプロモーション『ニューミリオン・ドリーム』に抜擢された。
「一見素晴らしいのかもしれないけどさぁ……現状、そんな事口が裂けても言えないよね」と思わず零す。
「えーっと……独り言?悩みがあるなら聞こうか」
ふとスマートフォンから視線を上げると、物珍しそうにこちらを見ている同室者が視界の端に映る。
じっとりとした視線を向けられたウィルは気まずそうにしながらも人のいい笑みで誤魔化していた。
「……別に。なんでもないよ。」
「フェイス君が何かを熱心に読んでるなぁと思ってたらさっきの独り言が聞こえてきて。普段は気だるそうにしてるからなんだか意外で」
そう、と聞き流そうとしてふと思い立ち、ウィルに声をかける。
「ウィルはエイダ・ハーヴェイの事どう思う?」
突然問われたウィルは目を丸くしながらもすぐに笑顔で答えた。
「立派な人だと思うよ。公的支援を受けながらも学生時代からアルバイトを頑張って、今ではルーキーのプロジェクトに抜擢されたんだからすごいよ。市民からも親しまれていて、ひたむきな姿に励まされている人も多いし……今は大変そうだけど彼女なら立ち直れると信じてる」
「俺には自分の限界も分からず走り続けて、息を切らしながら必死にもがいているようにしか見えないね」
「フェイス君……」
「アハ。ひねくれてると思った?でも俺みたいなのにはなんとなく分かるんだよね。あ、折れそうになってるなって」
フェイスは期待を寄せられ、応えられなかった人間だからだろうか?エイダの経歴が眩しくも痛々しく映る。施設関係者も、アカデミーの教師も、そしてメンターや同期も、まさか彼女ががむしゃらに、ゴールも分からず延々と走り続けているとは露とも思わなかったのだろう。それとも気付く者がいてもいつかエイダから相談してくれるはずだと信じていたのか。
調査結果を送ってきた際添えられていたビリーからのメッセージが脳裏をよぎる。
――すごーく立派だけど可哀想だね。オレっちはお父さんとサーカスって居場所があったけど、この人にはきっと孤児院すら心の底から安心できる居場所じゃなかったんだ。じゃないとこんなにがむしゃらになれない。普通ならどこかでポッキリと心が折れちゃうよ。
多くの大人達に囲まれていながら誰も彼女に頑張り続けなくていいと諭さなかったのがエイダの不幸と言えるかもしれない。しかし、周囲だけの責任ではないはずだ。
勤勉な努力家は好意的に見られやすい。問題行動がなければ尚更だ。例え本人が無理をしていたとしても周囲は気づかなかったのだろう。
それだけエイダが無意識に、周囲から望まれる行動を優先していたのだとしたら。それは彼らだけの責任ではない。環境にも本人にも問題があり、そのまま生きてこれたというだけの話だ。誰も悪くない。しかし、重圧で潰れかけているヒーローの歪みを誰かが指摘してやらなければこのままエイダというヒーローは消えてしまうだろう。ベッドヘッドに置かれていた封筒へ視線をやり、ふう……と溜息をつきながらトークアプリのルーム画面を開いた。
◇
能力が光だと教えられた時、誰かにエイダらしいと声をかけられて笑顔で応じる反面、心のどこかで何故だろうと思っていた。
エイダは自身が光り輝くような存在だと思っていないし、に誰かの光になる要素があるとも思えなかった。母親から捨てられ、孤児院でもアカデミーでも、ヒーローになってからも大人達の手を煩わせないよう振る舞い続けるよう心がけていた自分が、どうして?と。
褒められ、頼られてもいつも不安で堪らなかった。失望され、もう一度居場所を失うのが怖かったからだ。だからトライアルを通過した時は嬉しいけれど本当にいいの?という気持ちもあり、第12期ルーキーの中でプロジェクトに選ばれた時は喜びより不安と焦燥感が大きかった。選ばれたもう一人こそヒーローに相応しい、自ら光り輝くような人物だったから尚更焦りが募る。
人々から認められるように頑張らなくては。誰かの光になれるように、市民にとってのヒーローになれるように頑張らないと。頑張れる。ずっと頑張ってきて、これからも頑張り続ければいいのだから――そう、思っていた。
だが、孤児院の件をきっかけに自分が駆け抜けてきた道のりを振り返り、ふと疑問が湧く。
――私はいつまで頑張り続ければいいの?と。
◇
トレーニングルームで二人の女性が組手を行っていた。一人はリリー・マックイーン。一人はエイダ・ハーヴェイ。現役時代の栄光に恥じないリリーの動きに対して、エイダは攻防ともにどこか精彩を欠いた状態で、攻めきれずになんとか耐えている様子だ。次第に押され始め、ガードで凌ぐのが精一杯となっていく。
「散漫になっているぞ!気を引き締めろ!」
「はいっ!」
「返事ばかり威勢が良くてどうする!結果を出せ!」
「はいっ!」
懸命に応じるものの攻めに転じる機会がない。否、気が散漫になってチャンスを逃しているのだ。眼前の組み手に集中したくとも脳裏を占める悩みで気が散ってしまう。そんな状況はベテランヒーローにあっさりと看破され、一瞬のうちにエイダの視界はぐるりと回転。気がつけば天井をバックに見下ろしているリリーがいた。
「これ以上は無駄だ。話にならん」
呆然としていたエイダは弾かれたように身を起こし、息が整うのも待たずに深く頭を下げる。不甲斐なさを押し込めて声を張った。
「ご指導ありがとうございます!そして、先程は大変失礼しました!今後このような事がないよう努めます!」
「集中力を欠く理由も理解できるが、公私混同は感心しない。業務中のミスが増えたという報告を受けているぞ」
「本当にご迷惑をおかけしています」
頭を下げたまま動かないエイダをしばらく見つめていたリリーがやれやれと声を漏らした。
「やはり孤児院の件か」
どうやらリリーの耳にも入っていたらしい。不甲斐なさで頭を上げられない。
「AA昇格試験も近付いている。気落ちしている場合ではないぞ」
「本当にご迷惑をおかけしています。沈静化の目処はついているそうなので私も気を引き締めていくつもりです」
ワイドショーも動きの見られない孤児院騒動に飽き始め、話題は芸能スキャンダルへと移り変わっている。ネット上でバッシングしていたSNSアカウントの関心も次の炎上案件へと移り、このまま収束していくのだろう。良くも悪くも世間とはそういうものだ。当事者を置き去りにして移り変わっていく。
――胸中に渦巻く忸怩たる思いも消し去ってくれればいいのに。
ふぅ、と一息ついたリリーは「そういえば」と前置きして話題を変えた。
「アカデミー生の特別課題を手伝ったそうじゃないか。大事な時期が近いのだし、断れば良かったものを……」
「自分で受けた話でしたから。それに、ヒーローとしての自分に迷いがあるのも自覚できてよかったと思ってます」
「そのようだな。……他人に手を差し伸べられるように自分へも労りを向けられたらよかったのだが」
眉を寄せ、困った子供を前にするような表情のリリーに対してエイダは言葉が出てこなかった。何を言うべきか分からず、下手に話をしたところで迷惑になるだろう。だから「……不甲斐ないです」とだけ答えた。
「…………教官、その……お話しづらい内容なんですが」
「まあ待て。そう早まるんじゃない」
片手で制したリリーは嘆息する。汗で張り付いた髪をかき上げる仕草も様になっていて、現役を退いてなお人々から慕われるヒーローに相応しい堂々とした様子が眩しかった。
「まったく、直属のメンターがいつまで経っても自分達に相談してくれないと気を揉んでいたが筋金入りだな」
「本当にすみません」
「こちらとしてはそこまで思い詰める前に打ち明けてほしいものだが」
「分かるものなんですか?」
「私が何年ルーキーの指導を務めていると思っている?思い詰めたルーキーの行きつく選択などそう多くはない」
リリーのもっともな回答にエイダはそっと視線を外す。彼女はこれまでもこうして志半ばで去ろうとするルーキーを見てきたのだろう。
「技術教官としては誰一人欠ける事なくルーキー研修を終えてもらいたいものだが、それでも辞める者は出てしまう。歯痒い話だ」
「…………」
「それに今回はルーキーに背負わせずとも良い重荷を背負わせてしまった。我々の責任でもある」
「いいえ。司令部や皆さんの期待に応えられず申し訳ありません」
「孤児院の件に話は戻るが、前々から水面下で進んでいたそうだな」
「はい。ただ、私の知名度が上がって以降は下手に手を出すとファンからバッシングされると様子を見ていたそうで、落ち着いた頃合いを探していたそうです」
土地を売りに出すという話はエイダが世話になっていた頃から何度も挙がっていた。恵まれた立地と住人の年齢層を考えれば孤児院よりもファミリー層向けのレジャー施設の方が好ましかったのだろう。
それでも地域貢献を通して住民に愛されつつ細々とやってこられたのは幸福だったのかもしれない。
土地の権利者の世間を騒がせたくないという打算とヒーローとしてこれからと言う時に巻き込むわけにはいかないという施設長の思いやりを前に、当事者でもないルーキーという立場で大それた事ができるはずもなく。
「ジェイが自分の名を使えばいいとも言ったそうだが」
「ありがたいけれどこれ以上大事にするつもりはないんです。ようやく人々の興味が離れたのに今更注目を集める事なんてできません。今回関わった人達を悪者にするつもりもないし、ルーキーの私事にスーパーヒーローの威を借りるなんて自分を許せそうにない」
「賢明だな。――だが、それで心折れてしまったというのも個人的には寂しいものだ」
「本当にすみません。ただ、孤児院の件もきっかけに過ぎないんです。元々あった迷いが今回表に出てしまったと言いますか……ですが、これは単なる私事です」
眉を下げて謝罪する。こういった場合に周囲を頼れる性格だったのなら、負担を抱えすぎる前に収束したのかもしれない。だが、周囲に迷惑をかけるのに抵抗を感じたエイダは自分が矢面に立って収束させる方法しか浮かばなかった。その結果、消耗し切ってヒーローを辞める事になってしまうのだから立ち回り下手が過ぎるというもの。エイダも自嘲するしかない。
これがフィクションなら周囲を巻き込む大騒動に発展しながらもハッピーエンドを迎えるのがセオリーだが、そうはならないのが現実だ。既に話はまとまっていて、職員や子供達もそれぞれ新しい生活を送っている。世間の関心も日々のニュースに流れていく。だから、あとはエイダ自身が割り切るしかなかった。
他人からヒーローという花形職を捨てるなんて馬鹿げていると言われようと関係ない。最大のモチベーションが消えてしまったのだから。
「……まあ、結論を急ぐ事もない。今のように疲弊している時こそ重大な決断は避けるべきだ。有給が残っていたはずだな。その間に気持ちの整理をつけてくるといい」
踵を返したリリーの背に向けて、エイダは深く頭を下げた。休暇を宛てがわれてしまえば従うしかない。思い出の詰まった場所が取り壊される光景を直視できる自信もなかったエイダは借りていたアパートに戻ってこれからに思いを馳せた。まずは身辺整理と職探しか。司令と広報部にも話を通さなくてはならない。やる事は山積みだが、どうにも気力が沸かず手付かずのままぼんやりとしてしまう日が続いていた時、メッセージアプリに珍しい人物からの通知が入った。
◇
待ち合わせに指定されたのはグリーンイーストのとある公園だった。休日は家族連れで賑わう公園も、夕方ともなれば人はまばらになっていく。初めて訪れたフェイスでも何故か郷愁に駆り立てられそうな光景を眺めていると、夕陽に照らされて赤みの増した長髪の女性が片手を上げた。
何週間かぶりに会うエイダ・ハーヴェイだ。
「レポート、どうだった?」
「おかげさまで。とりあえず卒業はできそうな感じ」
「そっか。よかったね」
風になびく髪を押さえながらエイダは微笑む。揉めながらもレポートに取り組んでいた時は腹立たしいと思った覚えのある人の良さそうな顔立ちも、ある程度打ち解けた今は好意的に見られるようになった。
――光のようにキラキラと輝くルーキーにも陰があると知ったからというのもあるだろう。
「アンタの方は?」
「うん?」
「孤児院の取り壊しって今日からでしょ」
「うん、そう。さすがに見に行く気にはなれなかったけど」
「最近有給取ってるらしいじゃん。何してたの?」
「なんにも。これからを考えるとやらなきゃいけない事はたくさんあるのに、なんにも手につかないんだ」
「もうすぐAA昇格試験だよね?」
「んー、まあ。そっちは一応やっていたよ」
「どうすんの?」
「……どうしようね、ほんと」
他人事のように言って空笑いを浮かべる。ちらりと見えた翳りは迷子になって途方に暮れた子どものようだった。その様子にフェイスは眉を寄せて目を細める。夕日が眩しかったからではない。投げやりな態度を見ていられないと感じたからだ。
二人並んで夕日に染まる公園を眺めていると、エイダがおもむろに切り出した。
「実はさ、ヒーロー辞めようかと思って」
「孤児院の件で?辞めるような事では無いと思うけど」
「まあ、それも原因のひとつだけど……元から色々あってね」
正面へ向けていた頭がフェイスの方へと向けられる。八の字に寄せられた眉。目尻の下がった表情。笑っているのにともすれば泣き出しそうな雰囲気があった。
「ね、ニューミリオン・ドリームってあるでしょ」
一般的にはニューミリオンでチャンスを掴み、成功した人間を指す言葉だ。そして、広義では二人の第12期生ルーキーを意味している。一人は直接エリオスへ入所した日系女性ヒーロー。もう一人が奨学金制度を利用してアカデミーを卒業し、ヒーローになったエイダ。
「あれって市民の不安を払拭するため発足されたものって事になってるけど、本当はもっと政治的な思惑で担ぎ上げられたの」
「……へぇ」
「入所日に司令部へ呼び出されて行ったら広報のお偉いさんと第12期の司令が待ち構えていてさ。私の経歴がニューミリオン・ドリームとして適任だから一連の広報活動に参加するよう命じられたの」
「それって社会的に恵まれない出自だから選んだって言ってるようなものだよね?」
フェイスの指摘にもエイダは眉を下げ、寂しげな笑顔を浮かべるだけだ。そうやって彼女がこれまでもあらゆる物事を呑み下してきたのは簡単に想像がついてしまった。
「境遇で選ばれたのは正直思うところもあったけど、見掛け倒しにならないよう走り続けた。選出されたからにはって必死だったよ。でも、段々独り歩きし始めた『エイダ・ハーヴェイのイメージ』がしんどくなってきた。可笑しいでしょ?自分なのにそんな気がしないの」
多くの殉職者を出したロスト・ゼロ事件。その悼ましい傷を覆い隠すため発足された広報戦略は成功を収めていた。だからこそルーキーのリタイアでプロモーションのイメージに傷をつけるわけにはいかなかった第12期司令と広報部は「降りさせてほしい」という相談をすげなく断った。せめて13期生が入所するまでは続けてもらわないと困る、と。
次のルーキーが入所すれば市民の注目はそちらへ移る。そう諭され、残りの期間を全うしようと過ごしていた矢先に運悪く起きたのが開発事業再開騒動だった。広報の責任者もまさか市民からの支持が裏目に出るとは思っていなかっただろう。
ひとしきり話し終えたエイダは息をつく。少しずつ夕焼けに沈んでいく街並みはまるで陰鬱とした内心を反映しているかのようだった。
「アンタの事窮屈そうだなと思っていたけど、実際かなり窮屈な思いしてるんだね」
「そうかもね」
「自覚ないの?」
「あんまり考えないようにしてたから」
「そうやってごまかし続けてたわけだ。それ、思考停止って言うんだよ」
エイダが「うっ」と呻いてわざとらしく胸を抑える。冗談めかしたさ仕草の後に彼女は長いため息をつき、「そうでもしないとやってられなかったんだよ」と視線をほんの少し下へと向ける。眼下に広がるニューミリオンの街並みを見つめる目はどこか昏い。
そんな彼女を見て、フェイスの意思が固まった。エイダからは見えない角度で必要なさそうならそのまま捨てていたはずの預かり物を手探りで確認する。
「便利屋自称してる同級生がいるんだけど、今回の件について色々調べてもらったんだ」
「へぇ……」
勝手にプライベートを探られたというのに気を悪くした風もない。ただ、意外そうに目を丸くしただけだ。
広告塔として使われるのが当たり前になっているエイダにとってはあれこれと探られるのもいつもの事なのかもしれない。そんな彼女にフェイスは封筒を差し出した。シンプルで飾り気のない白い封筒がオレンジ色に染まっている。
「施設長はアンタへの負担を案じて孤児院の売却を進めたんだって。これ、知り合いなら渡してくれってさ」
ビリー伝てで預かった封筒を差し出すも、エイダはなかなか受け取ろうとしない。不可思議そうな表情のまま封筒を見つめていた。
「ねえ、受け取ってくれないと腕が疲れるんだけど?」
「あ、ごめんね」
しけしげと手元の封筒を眺めたエイダはどこか納得いかなそうな様子でフェイスに視線を向ける。
「どうしてそんな事を?フェイスはめんどくさいの嫌なんでしょ」
「課題のお礼とお節介。このままだとアンタ、本当にヒーロー辞めそうだったし」
「……まあ、何のためにやってたか分からなくなっちゃったからね」
視線をフェイスから空へと向ける。夕焼けに染まる空を眺めながらエイダは「夕焼けって嫌い」と呟いた。
「母親に捨てられた日も綺麗な夕焼けだった。いっつも置いていかれる側なんだ。みんな私には何も言わず置いていくの」
愚痴を言いながらから笑いを浮かべる横顔は夕焼けに染まって陰鬱そうに見える。明るく、ニューミリオンの人々を元気づけるエイダ・ハーヴェイがこんなにも鬱屈した感情に蓋をしていたなんて誰も想像していなかったのだろう。市民だけでなく、第12期の司令や彼女を推した上層部ですらも。
「自分じゃ気付いてないみたいだから言っておく。アンタは嫌ならはっきり言うべきだったんだよ。他人の事情汲み取ってばっかりいないでさ。お偉いさんと司令にも。『良かれと思って』内密に話を進めた施設長や職員達にも。勝手に決めるなってさ」
「…………」
「いい子ちゃんしてないで暴れてやればよかったのに」
「…………それは、社会人としてダメじゃない?」
「ダメだけど。他人の事情に振り回されて潰れる寸前になるよりマシじゃない?」
エイダを担ぎ上げた司令部はロスト・ゼロ事件をカバーする広報戦略で一人のヒーローが辞職を考えるほど追い込まれていたなんて考えもしないだろう。
「アンタに期待をかけていた孤児院の人達はさ、多分一足先に夢から覚めたんだよ。市民達からの支持がどのくらい影響力を持つのか分かっちゃいなかった。これ以上重荷を背負わせまいと気遣って内密で事を進めたってところ。多分、施設長なりの親心……かな?でもアンタは裏切られたように感じたんじゃない?」
「…………うん」
「それを今からでも伝えればいいんだよ。そんで、もうちょっと怒ったり、自分勝手になっていいんじゃない?って事。あとは……いい子ちゃんのエイダ・ハーヴェイはウザいなと思ってたけどアンタ自体は悪くない」
「――え?」
「これを機にいい子ちゃん卒業しなよ。性分なんてそう簡単に変わらないだろうけど、一足飛びでヒーローやめるよかマシだと思うよ」
そこまで言いきってフェイスが深く息を吐いた。
「あーあ、らしくない事しちゃった。」
「なんで面倒な女の愚痴に付き合ってくれたの?」
「好奇心と打算。知り合いが情報かき集めては売りさばいてるんだよね。巷で期待のルーキーなんて持て囃されてるヒーローのプライベートな悩みなんておあつらえ向きでしょ」
「……そっか。ま、聞いてもらった分はしょうがないか」
「でもやめた。思っていたよりも込み入ってて面倒な事になりそうだし、風避けになってもらった分のお礼って事で」
「いいの?」
「俺も俺なりにトライアルとか頑張ってみるからさ、アンタもヒーロー辞めないでよ。アンタみたいな先輩いてくれたら助かりそうだし」
「なんか今になって先輩扱いされるの擽ったいよ。友達としてでいいから、お互い頑張ろう」
「そうそう、でもあくまで気楽にね」
フェイスがつけ加えた言葉に蜂蜜色の目が丸く見開かれる。そんな発想がなかったとでも言いたげな、ぽかんとした顔にフェイスは吹き出しながらも握手を求めた。
一言に背を押されたのか、エイダも「――うん。気楽に頑張ろう」と彼の手を握った。そこには陰鬱な色はなく、夕焼けに照らされてどこか晴れやかな笑顔があった。
◇
フェイスと別れてタワーの自室へ戻ろうとしていた時、エレベーターのボタンを押し、ふとポケットに手を入れると何かの角が指先に触れた。
なんだろうと取り出して先程受け取った封筒の存在を思い出す。
差出人は養護施設の施設長だったトーマスからで、その場で読むには心の準備ができていなかったからとポケットに突っ込んでいたのだ。恐る恐る開くと、記憶よりも少し震えのある字が並んでいる。
――うちの施設を支えるのが目的になっていたのは知っている。我々はアカデミー入学が決まった時から君に期待とプレッシャーをかけてしまっていたのかもしれない。だから、君から目的を奪った一人でもある私が君を引き留める権利はないだろう。それでも、できる事ならヒーローを続けてほしい。子どもの頃語っていた夢のように、どんな人にも可能性があると証明し続けてほしい。
目を通し終えたエイダは水滴の落ちたレターパッドを見つめていた。目から溢れ落ちる水滴を拭い、便箋を畳みながら深いため息をつく。
「まったく、勝手な事言ってくれちゃってさ」
拗ねたような独り言を呟く。そこには壁にぶつかり、悩み続けた社会人の姿があった。ヒーローになるという夢はエイダ自身が始めた事で、施設長や職員達が責任を感じる事ではない。勝手に話を進められていた事への不満はあれど、孤児院を閉める決断をした彼らを責めるつもりなどなかった。市民への対応に骨を折ったのも自分に関わるから引き受けただけの事で。自分が何とかしなくてはという一身に突き動かされてきただけだというのに。
あるのは間に合わなかった自分の間の悪さと不甲斐なさくらいのものだ。それなのにエイダの不調に勝手に責任を感じて、その上で希望を押しつけてくる。
なんて勝手な人達なんだろう。頭ではそう思いながらも正直なところ、エイダに咎める気はなかった。これも市民からの、善意による願いなのだから。
スマートフォンを取り出して見慣れた番号をタップする。何を言おう?何から話そう?そんな事を考えているうちに繋がる音がした。
「もしもし、トーマスおじさん?エイダだよ。久しぶり」
電話口の声は記憶より張りを失っているように聞こえた。トーマスも歳を重ねているのだ。きっと彼なりに考えた末の決断だったのだろう。そんな事ないよとフォローしようとして間が空く。何かを考えるように数秒置いてから再び声を発した。
「ええ?そりゃあ怒ってるよ。知らないうちに決まってて、ファンへの対応はこっち任せなんだもん。先方がいるにしても事前に知らせて欲しかったよ」
はっきりと口にしてみるのは勇気が必要だった。丸くなってきた背中が益々小さくなっているのを想像すると物悲しくて、こんな事を言わず察して受け入れるのが在るべき形かもしれない。それでも、グッドガールで居続けるのはやめると決めた言わなければならない。
「だからさ、今度は相談くらいしてよね」
口に出してみるとほんの少しだけ肩の荷が降りた気がした。
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