おやすみ、グッドガール
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イエローウエストの入り組んだ路地裏でエイダは途方に暮れていた。とあるナイトクラブを探していたはずなのだが、右を見ても左を見ても似たような細い路地へとつながっている。端末に入ってる地図アプリで目一杯拡大して睨み合ってみるものの、細々とした路地までは載っていない。土地勘がないからと大通りばかり利用していたのがこんな形で響く事になるとは。
「位置的にはこの辺なんだけどなぁ」
事の始まりは三時間前に遡る。仕事の合間もジャーナリストとファンへの対応に追われ、すっかりしおれていたエイダ。その様子を見かねた同期の一人が「気晴らしに行ってきな」とチケットを融通してくれたのだ。
「人気のDJが出るんだよ。クラブで暴れればスッキリするって」
そんな言葉に後押しされてやってきたものの、イエローウエストの路地は想像より入り組んでいた。さらにポップで華やかな大通りから一歩入るとがらりと雰囲気が変わる。小規模なバーやナイトクラブが軒を連ね、きらびやかな社交場といった雰囲気が満ちているのだ。路地には垢抜けた若者達がところどころで溜まり場を形成している。
リトルトーキョーも路地が多くて迷いやすいが意図的に整備されたあちらと違って、イエローウエストの路地は曲がりくねっていたり、行き止まりがあったりと規則性がない。道が続いているからと進んでみたら行き止まりなんて事も珍しくない。
仕方なく近くの店で尋ねてみたものの、「まあ店内で話しましょう」と言葉巧みに席へ案内されていつの間にかオーダーする流れになっていたり、「せっかくだしうちにしなよ」と強引な客引きに捕まったりと思うように進まない。若者達に尋ねようかとも思ったものの、世間を騒がせているルーキーの不用意なプライベートバレは不味い。地下へ進むような造りだと中を覗いて確かめるのも難しかった。ビルの裏手らしき辺りでしゃがみこみ、途方に暮れた様子で手元のチケットを見つめる。
「辿り着けるかなぁ」
その時、慌ただしい足音とともにアカデミーの制服を着た少年がビルの裏手に滑り込んできた。来た道を振り返り、額に滲んだ汗を拭いながらスマートフォンで時間を確認する。アカデミーの学生なら一般市民よりも尋ねやすいかも。そう感じたエイダは少年へと一歩近づいた。
◇
迷路のような路地をフェイスは迷いのない足取りで素早く抜けていく。甘い顔立ちに苛立ちと焦りを滲ませ、端末で時間を確認すると既に開場の時間を過ぎていた。
「ああもう、サイアク。時間ギリギリじゃん」
前日に機材の準備を終えていたのが不幸中の幸いか。それでもメインのDJが遅れるのは笑えないだろう。
「ほんとついてない……っ」
さっさと逃げようとしていたのに教師に捕まったのが運の尽き。重なったサボり分の補講を受けさせられたせいで寮に寄る時間もなかった。アカデミー制服のままブースに入るわけにもいかないのでスタッフ用の部屋を借りて着替えさせてもらうしかない。サボりたくなった時用に私服を忍ばせていた自分の用意周到さに感謝しておく。
メッセージアプリに常連達から待ちわびるメッセージが次々届くのを鬱陶しく思いながら足早にクラブへ向かっていると違和感に気付く。
日頃から人通りの絶えずクラブ周辺は若者で賑わっているのだが、今日はいつもとやや異なる層もいた。浮かないようカジュアルな服装をしているものの、正面入口を見渡せる位置で絶えず周囲を観察している。何かを待ち構えているかのようだ。
「フェイスくんまだかなぁ」
「そういえば今日いつもと雰囲気違くない?」
「近くでエイダ・ハーヴェイ見かけたらしいよ。それでゴシップ雑誌の記者が来てるって」
「意外〜!いい子ちゃん もイエローウエストで遊んだりするんだ」
「ヒーローだってハメ外したくなる時あるっしょ」
「なんかタイヘンそうだもんねー」
なんの偶然か、話題になってるのは日中ビリーから持ちかけられた世間話の中心人物だ。円になって噂話に興じている女性客達に背を向け、迂回して裏手口へ回る。手間はかかるが、正面口から入って囲まれるよりは面倒がなくていい。汗を拭いながら液晶画面を見るとギリギリ間に合う。ゲストに少し時間を稼いでもらって――と脳内でこれからの予定調整を行う。
その時、背後から「あのー、」と声がかかった。大抵続くのは「フェイス君ですか?」「今って付き合ってる子いる?」「連絡先交換して!」だ。
「あのさあ、見て分からない?俺今暇じゃないから」
「えっと、あの、道を聞くのもダメかな……?」と遠慮がちな声が続く。その声には少し聞き覚えがある。帽子とマスクで隠しているが帽子から覗く紅茶色の髪と蜂蜜色の目も記憶にあった。
エイダ・ハーヴェイ。
ええ……そんな事ある?と不意打ちで毒気を抜かれ、胸中でぼやく。そんなフェイスに気付く事もなく、エイダはチケットのある部分を示していた。フェイスがこれから出演するイベント名とナイトクラブの店名が印刷されている。
「人から譲ってもらったチケットで、場所が分からなくて……」
「一応ここだけど、裏口なんだよね」
「あっ、入口って反対側?なーんだ。ありがとう!」
「待って。今行かない方がいいと思うけど」
不思議そうなエイダにエリチャンのタイムライン画面を見せる。一枚目は端末を片手に通りすぎようとしているエイダが写っていた。背景になっている路地のビラから大まかな位置が特定可能だ。二枚目はクラブに来た女性客が友人と記念撮影している投稿画像。若者達に紛れて写り込んでいるカメラマンを指し示す。
「市民の投稿から嗅ぎつけたやつが待ち構えてる」
「あちゃー……やっちゃったな。気をつけてたつもりなんだけど不慣れな土地はダメだね」
気晴らししたくなるのも分かるがタイミングが悪すぎる。良くも悪くも話題のルーキーがクラブで遊んでいたなんてゴシップ屋には堪らないだろう。おあつらえ向きの話題持ちとくればいくらでも尾ひれがつく。
「チケット無駄になるけど、とりあえずクラブ楽しむんなら収束してから出直して。楽しみに来てる子達の迷惑にもなるし」
「そうだね、お騒がせしてごめんなさい。わざわざ教えてくれてありがとう」
あっけらかんとした様子で場を離れようとする彼女がひどく窮屈そうに見えた。今朝ポータルサイトで見た時と同じだ。仕事でも活躍していて人望もある、怠惰の裏で燻っているフェイスにとってあまり関わり合いになりたくない人物。それなのに何故こう見えてしまうのか。
こちらに背を向け、端末内の地図アプリと睨み合っている背中を見やる。
関われば面倒な事になるのは目に見えている。それでも型に押し込められているような印象がアカデミーでの自分と重なって、見て見ぬふりをする方が後々思い返して嫌な思いをするような気がした。
「イベント見に来たんでしょ」
「残念だけどまた機会はあるよ」
「今回のチケット、結構倍率高かったんだよ。次はもっと倍率上がるかも」
「そうなの?じゃあ譲ってくれた子にお詫びも用意しなきゃ」
「お詫びもいいけど、ここで帰るのは譲ってくれた子にも悪いんじゃない?」
先ほどまでとは打って変わって引き留めるような言い回しをするフェイスに首を傾げ、それでもへにゃりと表情を崩したエイダは言う。
「んー……でもほら、楽しみに来た子達に迷惑かけるわけにはいかないよ」
――いい子ちゃんめ。
その一言が無性に腹立たしい。周りを気遣って、したい事よりどうするべきかで考える。何故そう思ったかもはっきりしないが、その時のフェイスは憤っていた。
聞き分けよく帰ろうとしたこのいい子ちゃんのルーキーが知らない世界を浴びせてやりたい。いい子のままでは見られない世界もあるのだと、自分のパフォーマンスを通して叩きつけてやりたくなった。
「ここにいて。オーナーに話つけるから」
「えっ、でも……」
戸惑うエイダを置いてフェイスは裏口からクラブへ入る。ヒーローだって少しくらい嫌な事を忘れて楽しんでも罰は当たらないはずだ。
◇
イベント終了後、スタッフルームで人心地着いているとドアの隙間から紅茶色の頭がひょっこりと顔を出した。猫のようにするりと入ってきたエイダは備え付けのパイプ椅子に腰を下ろした。
丁度フェイスと対角になる位置取りだ。知り合ったばかりの距離感としては妥当だろう。
「道教わった?」
「大丈夫。ごめんね、色々融通利かせてもらって」
「俺はここの馴染みだから。チケットも持ってたし、オーナーとスタッフもアンタのサインもらって喜んでたからいいんじゃない?」
客が捌けるなり、色紙やらマジックペンを持ち寄ってサインをねだりに行ったスタッフ達を思い出す。プライベートだろうとお構いなしに次から次へと際限なく差し出される数々。それらに嫌な顔ひとつせず応じていた彼女はルーキーと言えどやはりヒーローだ。それをどう受けとったのか、エイダは目尻を緩めて微笑む。
「……うん、そういう事にしておく」
「で、初めてのクラブはどうだった?」
フェイスの問いかけに蜂蜜色の瞳が無数の光の粒を含んだようにきらきらと輝いた。
「すごかった!臨場感があって、華やかで、演出も曲音楽とタイミング合っててすごくテンション上がっちゃった。本当にキラキラした別世界って感じで、周りもみんな自由に楽しんでて……」
興奮しきった口ぶりでまくし立てる様子ははしゃいだ子どものようでなんだか可笑しい。だからなのか、正直な言葉の数々がフェイスの中で妙に響いていた。
「ぷっ、もうちょっとなんかあるでしょ」
「実はこういうところに慣れてなくて……」
「ブースから見てたけど初めて来ましたーって雰囲気丸出しだったもんね」
目を白黒させ、周囲の客に合わせて自分もノろうとぎこちなさの残る動きをしていたエイダを思い出してほくそ笑む。1曲目が終わる頃には慣れたようだが、いかにもからかうと照れくさそうに眉を下げていたたまれなさそうに指を絡ませる。何気ない表情からも人の好さが伝わってきた。
「でも楽しかったよ。ライブや野外フェスともちょっと違う一体感があった」
「そう?」
それでも楽しめたのなら面倒事に関わってしまったフェイスの苦労も多少は報われるというものだ。
「お客さんの一人として混ざれる空間なのもよかったな」
「音楽楽しみに来たり、憂さ晴らしに来たり、みんなそれぞれだからそんなものだよ。嫌な事ぜーんぶ忘れて楽しめる遊び場。今日は俺目当ての女の子多かったから話題のルーキーも埋もれてたけど」
「おかげで気楽に楽しめたよ。ありがとうね」
想像していたよりも幼い笑顔に、フェイスの中にあったいい子ちゃんのイメージがぶれる。ヒーローとしての、見ているこちらの息が詰まりそうな笑顔ではない。
――ああ、なんだ。ニューミリオン・ドリームを掴んだなんて大層な文言を添えたところでただの女の子じゃないか。
「……なんだ、いい笑顔できるじゃん」
「えっ?」
「メディアでたまに見るアンタの笑顔、なんか無理してる感あってイマイチだったけど今のは良かった」
「……そっか。それならよかった」
サイドの髪を耳にかけて面映ゆそうにはにかむ。人の良さそうな性格と飾らない表情の数々。エイダを推す市民の気持ちがほんの少しだけ理解できたような気がした。
通路からオーナーの野太い声が上がる。スタッフに見回らせて雑誌記者が引き上げた確認を終えたらしい。まったく過保護だと思う反面、そうしたくなるような何かがあるのを分からなくもない自分がいる事にフェイスは驚きを覚えていた。
「ほら、オーナー呼んでるし行ったら?」
「そうだね。……すみません、ちょっとだけ待ってください!」
通路に向かって声を上げた後、通路側へ移動しつつエイダが再び顔を覗かせた。
「改めて、今日はありがとう」
「感謝するような事でもないでしょ。今日は話通したけど、また会ったとしても同じような対応期待しないで」
と言っても一介の学生と期待のルーキーだ。活動する範囲も違えば趣味も異なる。会おうとしなければ次に会う機会があるかも怪しい。これでエイダ・ハーヴェイとの奇妙な縁もなくなる。そう思うとイベント後に静まり返ったフロアに立つ時に似た名残惜しさがあった。
感傷を断つように視線をエイダからスマートフォンの画面へと移す。タイムラインには今日のイベントの感想が多数書き込まれていた。
「じゃあね、フェイス」
「ん、気をつけて帰りなよ」
ちらりと視線を上げるとエイダのどこか寂しそうな横顔がドアの向こうに消えるところだった。彼女も名残惜しかったのかもしれないな、とまで考えて自分らしくない思考を打ち切った。
「位置的にはこの辺なんだけどなぁ」
事の始まりは三時間前に遡る。仕事の合間もジャーナリストとファンへの対応に追われ、すっかりしおれていたエイダ。その様子を見かねた同期の一人が「気晴らしに行ってきな」とチケットを融通してくれたのだ。
「人気のDJが出るんだよ。クラブで暴れればスッキリするって」
そんな言葉に後押しされてやってきたものの、イエローウエストの路地は想像より入り組んでいた。さらにポップで華やかな大通りから一歩入るとがらりと雰囲気が変わる。小規模なバーやナイトクラブが軒を連ね、きらびやかな社交場といった雰囲気が満ちているのだ。路地には垢抜けた若者達がところどころで溜まり場を形成している。
リトルトーキョーも路地が多くて迷いやすいが意図的に整備されたあちらと違って、イエローウエストの路地は曲がりくねっていたり、行き止まりがあったりと規則性がない。道が続いているからと進んでみたら行き止まりなんて事も珍しくない。
仕方なく近くの店で尋ねてみたものの、「まあ店内で話しましょう」と言葉巧みに席へ案内されていつの間にかオーダーする流れになっていたり、「せっかくだしうちにしなよ」と強引な客引きに捕まったりと思うように進まない。若者達に尋ねようかとも思ったものの、世間を騒がせているルーキーの不用意なプライベートバレは不味い。地下へ進むような造りだと中を覗いて確かめるのも難しかった。ビルの裏手らしき辺りでしゃがみこみ、途方に暮れた様子で手元のチケットを見つめる。
「辿り着けるかなぁ」
その時、慌ただしい足音とともにアカデミーの制服を着た少年がビルの裏手に滑り込んできた。来た道を振り返り、額に滲んだ汗を拭いながらスマートフォンで時間を確認する。アカデミーの学生なら一般市民よりも尋ねやすいかも。そう感じたエイダは少年へと一歩近づいた。
◇
迷路のような路地をフェイスは迷いのない足取りで素早く抜けていく。甘い顔立ちに苛立ちと焦りを滲ませ、端末で時間を確認すると既に開場の時間を過ぎていた。
「ああもう、サイアク。時間ギリギリじゃん」
前日に機材の準備を終えていたのが不幸中の幸いか。それでもメインのDJが遅れるのは笑えないだろう。
「ほんとついてない……っ」
さっさと逃げようとしていたのに教師に捕まったのが運の尽き。重なったサボり分の補講を受けさせられたせいで寮に寄る時間もなかった。アカデミー制服のままブースに入るわけにもいかないのでスタッフ用の部屋を借りて着替えさせてもらうしかない。サボりたくなった時用に私服を忍ばせていた自分の用意周到さに感謝しておく。
メッセージアプリに常連達から待ちわびるメッセージが次々届くのを鬱陶しく思いながら足早にクラブへ向かっていると違和感に気付く。
日頃から人通りの絶えずクラブ周辺は若者で賑わっているのだが、今日はいつもとやや異なる層もいた。浮かないようカジュアルな服装をしているものの、正面入口を見渡せる位置で絶えず周囲を観察している。何かを待ち構えているかのようだ。
「フェイスくんまだかなぁ」
「そういえば今日いつもと雰囲気違くない?」
「近くでエイダ・ハーヴェイ見かけたらしいよ。それでゴシップ雑誌の記者が来てるって」
「意外〜!
「ヒーローだってハメ外したくなる時あるっしょ」
「なんかタイヘンそうだもんねー」
なんの偶然か、話題になってるのは日中ビリーから持ちかけられた世間話の中心人物だ。円になって噂話に興じている女性客達に背を向け、迂回して裏手口へ回る。手間はかかるが、正面口から入って囲まれるよりは面倒がなくていい。汗を拭いながら液晶画面を見るとギリギリ間に合う。ゲストに少し時間を稼いでもらって――と脳内でこれからの予定調整を行う。
その時、背後から「あのー、」と声がかかった。大抵続くのは「フェイス君ですか?」「今って付き合ってる子いる?」「連絡先交換して!」だ。
「あのさあ、見て分からない?俺今暇じゃないから」
「えっと、あの、道を聞くのもダメかな……?」と遠慮がちな声が続く。その声には少し聞き覚えがある。帽子とマスクで隠しているが帽子から覗く紅茶色の髪と蜂蜜色の目も記憶にあった。
エイダ・ハーヴェイ。
ええ……そんな事ある?と不意打ちで毒気を抜かれ、胸中でぼやく。そんなフェイスに気付く事もなく、エイダはチケットのある部分を示していた。フェイスがこれから出演するイベント名とナイトクラブの店名が印刷されている。
「人から譲ってもらったチケットで、場所が分からなくて……」
「一応ここだけど、裏口なんだよね」
「あっ、入口って反対側?なーんだ。ありがとう!」
「待って。今行かない方がいいと思うけど」
不思議そうなエイダにエリチャンのタイムライン画面を見せる。一枚目は端末を片手に通りすぎようとしているエイダが写っていた。背景になっている路地のビラから大まかな位置が特定可能だ。二枚目はクラブに来た女性客が友人と記念撮影している投稿画像。若者達に紛れて写り込んでいるカメラマンを指し示す。
「市民の投稿から嗅ぎつけたやつが待ち構えてる」
「あちゃー……やっちゃったな。気をつけてたつもりなんだけど不慣れな土地はダメだね」
気晴らししたくなるのも分かるがタイミングが悪すぎる。良くも悪くも話題のルーキーがクラブで遊んでいたなんてゴシップ屋には堪らないだろう。おあつらえ向きの話題持ちとくればいくらでも尾ひれがつく。
「チケット無駄になるけど、とりあえずクラブ楽しむんなら収束してから出直して。楽しみに来てる子達の迷惑にもなるし」
「そうだね、お騒がせしてごめんなさい。わざわざ教えてくれてありがとう」
あっけらかんとした様子で場を離れようとする彼女がひどく窮屈そうに見えた。今朝ポータルサイトで見た時と同じだ。仕事でも活躍していて人望もある、怠惰の裏で燻っているフェイスにとってあまり関わり合いになりたくない人物。それなのに何故こう見えてしまうのか。
こちらに背を向け、端末内の地図アプリと睨み合っている背中を見やる。
関われば面倒な事になるのは目に見えている。それでも型に押し込められているような印象がアカデミーでの自分と重なって、見て見ぬふりをする方が後々思い返して嫌な思いをするような気がした。
「イベント見に来たんでしょ」
「残念だけどまた機会はあるよ」
「今回のチケット、結構倍率高かったんだよ。次はもっと倍率上がるかも」
「そうなの?じゃあ譲ってくれた子にお詫びも用意しなきゃ」
「お詫びもいいけど、ここで帰るのは譲ってくれた子にも悪いんじゃない?」
先ほどまでとは打って変わって引き留めるような言い回しをするフェイスに首を傾げ、それでもへにゃりと表情を崩したエイダは言う。
「んー……でもほら、楽しみに来た子達に迷惑かけるわけにはいかないよ」
――いい子ちゃんめ。
その一言が無性に腹立たしい。周りを気遣って、したい事よりどうするべきかで考える。何故そう思ったかもはっきりしないが、その時のフェイスは憤っていた。
聞き分けよく帰ろうとしたこのいい子ちゃんのルーキーが知らない世界を浴びせてやりたい。いい子のままでは見られない世界もあるのだと、自分のパフォーマンスを通して叩きつけてやりたくなった。
「ここにいて。オーナーに話つけるから」
「えっ、でも……」
戸惑うエイダを置いてフェイスは裏口からクラブへ入る。ヒーローだって少しくらい嫌な事を忘れて楽しんでも罰は当たらないはずだ。
◇
イベント終了後、スタッフルームで人心地着いているとドアの隙間から紅茶色の頭がひょっこりと顔を出した。猫のようにするりと入ってきたエイダは備え付けのパイプ椅子に腰を下ろした。
丁度フェイスと対角になる位置取りだ。知り合ったばかりの距離感としては妥当だろう。
「道教わった?」
「大丈夫。ごめんね、色々融通利かせてもらって」
「俺はここの馴染みだから。チケットも持ってたし、オーナーとスタッフもアンタのサインもらって喜んでたからいいんじゃない?」
客が捌けるなり、色紙やらマジックペンを持ち寄ってサインをねだりに行ったスタッフ達を思い出す。プライベートだろうとお構いなしに次から次へと際限なく差し出される数々。それらに嫌な顔ひとつせず応じていた彼女はルーキーと言えどやはりヒーローだ。それをどう受けとったのか、エイダは目尻を緩めて微笑む。
「……うん、そういう事にしておく」
「で、初めてのクラブはどうだった?」
フェイスの問いかけに蜂蜜色の瞳が無数の光の粒を含んだようにきらきらと輝いた。
「すごかった!臨場感があって、華やかで、演出も曲音楽とタイミング合っててすごくテンション上がっちゃった。本当にキラキラした別世界って感じで、周りもみんな自由に楽しんでて……」
興奮しきった口ぶりでまくし立てる様子ははしゃいだ子どものようでなんだか可笑しい。だからなのか、正直な言葉の数々がフェイスの中で妙に響いていた。
「ぷっ、もうちょっとなんかあるでしょ」
「実はこういうところに慣れてなくて……」
「ブースから見てたけど初めて来ましたーって雰囲気丸出しだったもんね」
目を白黒させ、周囲の客に合わせて自分もノろうとぎこちなさの残る動きをしていたエイダを思い出してほくそ笑む。1曲目が終わる頃には慣れたようだが、いかにもからかうと照れくさそうに眉を下げていたたまれなさそうに指を絡ませる。何気ない表情からも人の好さが伝わってきた。
「でも楽しかったよ。ライブや野外フェスともちょっと違う一体感があった」
「そう?」
それでも楽しめたのなら面倒事に関わってしまったフェイスの苦労も多少は報われるというものだ。
「お客さんの一人として混ざれる空間なのもよかったな」
「音楽楽しみに来たり、憂さ晴らしに来たり、みんなそれぞれだからそんなものだよ。嫌な事ぜーんぶ忘れて楽しめる遊び場。今日は俺目当ての女の子多かったから話題のルーキーも埋もれてたけど」
「おかげで気楽に楽しめたよ。ありがとうね」
想像していたよりも幼い笑顔に、フェイスの中にあったいい子ちゃんのイメージがぶれる。ヒーローとしての、見ているこちらの息が詰まりそうな笑顔ではない。
――ああ、なんだ。ニューミリオン・ドリームを掴んだなんて大層な文言を添えたところでただの女の子じゃないか。
「……なんだ、いい笑顔できるじゃん」
「えっ?」
「メディアでたまに見るアンタの笑顔、なんか無理してる感あってイマイチだったけど今のは良かった」
「……そっか。それならよかった」
サイドの髪を耳にかけて面映ゆそうにはにかむ。人の良さそうな性格と飾らない表情の数々。エイダを推す市民の気持ちがほんの少しだけ理解できたような気がした。
通路からオーナーの野太い声が上がる。スタッフに見回らせて雑誌記者が引き上げた確認を終えたらしい。まったく過保護だと思う反面、そうしたくなるような何かがあるのを分からなくもない自分がいる事にフェイスは驚きを覚えていた。
「ほら、オーナー呼んでるし行ったら?」
「そうだね。……すみません、ちょっとだけ待ってください!」
通路に向かって声を上げた後、通路側へ移動しつつエイダが再び顔を覗かせた。
「改めて、今日はありがとう」
「感謝するような事でもないでしょ。今日は話通したけど、また会ったとしても同じような対応期待しないで」
と言っても一介の学生と期待のルーキーだ。活動する範囲も違えば趣味も異なる。会おうとしなければ次に会う機会があるかも怪しい。これでエイダ・ハーヴェイとの奇妙な縁もなくなる。そう思うとイベント後に静まり返ったフロアに立つ時に似た名残惜しさがあった。
感傷を断つように視線をエイダからスマートフォンの画面へと移す。タイムラインには今日のイベントの感想が多数書き込まれていた。
「じゃあね、フェイス」
「ん、気をつけて帰りなよ」
ちらりと視線を上げるとエイダのどこか寂しそうな横顔がドアの向こうに消えるところだった。彼女も名残惜しかったのかもしれないな、とまで考えて自分らしくない思考を打ち切った。