おやすみ、グッドガール
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夕焼けは嫌いだった。広場で休日を過ごしていた家族連れがいそいそと家路を急ぐ中で、中年の女性と少女がベンチに取り残されている。伸びていく足元の影をじっと見つめる少女に、女性は気遣わしげな面持ちで声をかける。
「エイダ、そろそろ帰りましょう」
真一文字に結んでいた唇が微かに震えた。ゆっくりと呼吸する。気を抜けば溢れてしまいそうなものをしまい込み、赤毛の少女は視線を女性に向けた。
「わがまま言ってごめんなさい。帰ったら晩ごはん手伝うね」
「いい子ね」
女性は安堵した様子でベンチから立つ。少女がやって来てから一ヶ月。子供達とも打ち解けてきたように見えるし、週に一度の時間もそろそろ割り切れるようになってもいい頃合いだ。少女の手を取り、女性は公園を後にする。手を引かれる少女が肩越しに振り返る。胸中の名残惜しさを代弁するように、少女の影は遠ざかっていくベンチへと伸びていた。
◇
その日のエメラルドアベニューは朝から騒ぎが起きていた。慌ただしい通勤時間に乗じたひったくり犯が現れたのだ。被害者である初老の女性が大声を上げるも、人の波に乗って姿を眩まそうとする男はぐんぐん離れていく。路地裏へ消えようとした男のすぐ背後から「みーつけた」と若い女の声がした。ヒーロースーツに身を包み、紅茶色の髪をなびかせている。今期注目株の一人とされるルーキー、エイダ・ハーヴェイだ。
エイダとひったくり犯を取り囲むように市民達が輪を形成する。足を止めている多くのものは野次馬だ。集まっている誰もが、ヒーローが出てきた以上逃げ場はないと考える中、追い詰められているはずの男はへへ、と下卑た笑みを浮かべる。
「オレぁ知ってるんだぜ!お前、ヒーロー能力を扱いきれてねえんだってな!サブスタンス自体のポテンシャルと比べたらごく一部だけなんだろ!?」
まるで逃げ切れると確信しているような口ぶりで男は叫ぶ。男の言う通りだ。光の操作は汎用性が高い反面、使い手にも相応の知識と理解が求められる。テクノロジーとして応用されている光の汎用性に比べたら専門家でもないルーキーのエイダが扱える範囲はごく限られているだろう。
見物人達が見守る中、エイダは人のいい笑みを浮かべると男を称えるように拍手した。
「そうなんだよー、意外と扱い難しいの。よく知ってるね」
「インタビューで答えてたの覚えていてよかったぜ!今度からトーク内容は慎重に選ぶのをオススメするよ!」
ニィ、と歪な微笑を浮かべた男が「じゃあな!」と言い捨てて走り出す。
「でもルーキーだろうと私だってヒーローだから」
エイダも後を追いながらすう、と手を前方へと突き出す。
「みんな!男から離れて!」
観衆達が男から離れたのを確認し、手を振り下ろすと男の前方を塞ぐように光のポールが何本も降り注いだ。観衆達から感嘆のどよめきが生まれる。凝集によって形作られた光のポールは柵状に取り囲み、熱を帯びて男の行く手を阻んだのだ。しかし、光はその性質上媒体なしには実体として形成できない。形を維持できず、燐光とともにはらはらと、ゆっくり崩れる光のポールを見て男はそらみたことかとせせら笑う。男の足止めをできたのはわずか数十秒。しかし、時間稼ぎは充分だった。油断を突いて男の懐にエイダはその鳩尾に渾身の一撃を叩き込んだ。
取り落としたバッグを確保し、後ろ手に拘束すれば仕事は完了。軽犯罪者を捕まえるのならこれで充分だ。観衆の拍手を受けて手を振った。
「朝からお騒がせしました!みなさんも気をつけていってらっしゃい!」
早朝の捕縛劇を見届けた人だかりは一人、また一人とそれぞれの日常へと戻っていく。大事にならず済んでよかった。そう思いながら被害者の女性にこれから警官が来る事を告げ、諸々の手続きのため残ってもらう旨を伝えた。彼女と警官の到着を待っている間にも次々と声をかけられる。
「朝から捕り物とはねぇ。お疲れさま」
「サブスタンスじゃなかったしこのくらい朝飯前だよ」
「やあエイダ、うちの店がようやく営業再開するんだ。よかったら来てくれよ」
「おめでとう!次の休みにメンター達と遊びに行かせてもらうね」
「あんた随分感じがいいな」
感心した様子のサラリーマンとの会話を聞き留めたらしい通行人が声をかける。
「おいおい、知らなかったなんてモグリか?どんな時も笑顔を絶やさないし、市民に寄り添ってくれるんだ」
「そんな事ないよ。ただのルーキーに過ぎないし、落ち込む事だってあるよ」
「この謙虚さを見てくれ。苦労して花形職に就いたのに鼻にかけたところもないんだ」
「へぇ、そりゃ大したもんだ。応援するよ」
「いや、そんな大層なものじゃないって。でもありがとうね」
片手を上げて去っていくサラリーマンに応じながら本当なんだけどなぁ、と胸中でぼやく。最近は妙に過大評価される事が多い。自分の知らないところでエイダ・ハーヴェイが独り歩きしているような気がする。
「いっそ私も自分の手柄は開き直った方がいいのかな」
「確かにね。周りを立てるのはいい事だけど謙虚も行き過ぎれば……っていうじゃない?」
「あはは……、ちょっと心がけてみようかな」
助けた女性にすら言われてしまうのなら何とかした方がいいかもしれない。
とりあえず同期のように振る舞う自分を思い浮かべてみるものの、スター性を持つ彼女の個性を表面だけ真似ても空回りするだけと即座に考えを打ち消した。
その汎用性の高さ故に知識と応用力を要求される能力でありながら、努力を重ねてヒーローとして活躍できる水準まで引き上げた意欲と順応力がエイダの強みだ。対人関係も相手に合わせて振る舞う傾向が強く、直属のメンターからも手がかからないと評される。一方で、自分の事で人の手を煩わせるような気がして悩みや相談を打ち明けるのも苦手でもあった。
管轄の警官にひったくり犯を引き渡したエイダは大きなため息をつく。
元々は第12期専任の司令と広報担当からニューミリオン・ドリームを叶えた一人としてクローズアップしたいと持ちかけられたのが始まりだった。
『ロスト・ゼロ』がもたらした傷を癒しきれていない市民も数多く、人々はヒーローに心の拠り所を求めている。殊更ルーキーには未来への希望を求めている。そんな彼らに夢を叶えるため努力し続けた若者の姿を通して人々を鼓舞したい。そんな要望を受けて本来の自分からほんの少し底上げしたのがヒーローとしてのエイダだ。
幸か不幸か、エイダは他者から求められたものを読み取るのに長けていた。協調性も高く、人に尽くす精神はある意味ヒーローに向いていたと言えるだろう。
みんな喜んでくれるし、広報からも評判がいいから、とファンサービスを頑張っているうちに市民達の中に作られた『ルーキーのエイダ・ハーヴェイ像』に息苦しさを感じるようになっていた。
「あーもうダメダメ!悩んだってしょうがない!」
自分を鼓舞する声音はあくまで明るい。市民の求めるエイダ・ハーヴェイならそうするからだ。市民からの期待に応え続けるのがヒーローというものだろう。エイダ自身がそんな自分にどこか違和感を覚えているなんて、誰にも打ち明けようがなかったとしても。
「自分で始めた事なんだから通さなきゃ、ね」
その時、スマホからメッセージアプリの軽快な通知音が鳴った。思わず頬が緩む。
多忙な時間の合間に親しい職員とやり取りする時間と月一で近況報告する時間がただのエイダに戻れる貴重な時間だった。
「朝からメッセージくれるなんて珍しい。ふふっ、子ども達のイタズラかな」
孤児院の子ども達は多忙な職員の目を盗み、職員のスマホから隠し撮りや変顔、今日のおやつの画像を送ってくる事がある。見つかる度に叱られているはずだが懲りない彼らのイタズラはエイダの密かな楽しみとなっていた。
仕事中だから控えねばと思う反面、どうしても気になる。通知だけ見ようと画面をタップした時、滑り込むように別の通知が入ってきた。表示された差出人を見て表情が翳る。それはニューミリオンでも有数の不動産会社からのメールだった
◇
エイダがメールを開いたのは薄曇りの昼下がりだった。朝届いた時点で開かなかったのはパトロール中だったからという建前で、本当は少しでも心の準備をする時間を稼ぎたかったからだ。
昼休憩で賑わうカフェテリアの喧騒からやや離れた位置でエイダはランチタイムを過ごしていた。壁際に面していて、なおかつ観葉植物で遮られるこの席は人目を避けて過ごしたい時にうってつけの場所だ。
普段は人当たりがいいと評判の表情も今は翳りが浮かんでいる。テーブルには軽食が載っているものの、ほとんど手をつけていなかった。
蜂蜜色の双眸は端末に届いた事務的な文面へ注がれている。読んでいるように見えるが、実際のところは心ここに在らずで半分以上読み流していた。
それは『権利所有者である施設長と不動産会社による協議の末、土地の売却が成立し、孤児院の取り壊しが正式に決定した』という内容だった。
続いて『話題性の高いルーキー エイダ・ハーヴェイが育った場所として注目を集めていたため保留としてきたが、これ以上の先延ばしは難しいと判断して再始動するので、想定されるだろうファンから噴出する批難を抑えてほしい』という旨が綴られている。
まだ受け止めきれない文面を閉じ、深呼吸をしながら目を閉じる。その横顔にはやりきれなさが滲んでいた。
「…………、結局間に合わなかったな」
緑に囲まれ、二棟の建物とささやかな遊具が寄り添うようにして建っている光景が瞼の奥に浮かぶ。エイダの育った孤児院だ。ニューミリオンの発展前からグリーンイーストの外れにあった孤児院は発展とともに少しずつ肩身が狭くなっていった。スポーツ観戦やアクティビティ充実のため移転や取り壊しの計画が泡のように浮かんでは消えを繰り返している有様だったが、細々と続いている状態ではあり、エイダがヒーローになって注目を浴びてからは反響を鑑みて無期限延期となっていたのだ。
孤児院を残したかったエイダと開発を進めたい事業主の駆け引きは見事な惨敗で幕を下ろした。決定打は権利所有者であり、施設長を務めるトーマスが高齢を理由に土地を手放したいと申し出た事。たったそれだけであっさり幕引きとなったのだ。
覚悟を決めたようにゆっくりと目を開き、引き結んでいた口元を緩める。そこには落胆と諦観、そして安堵の感情が入り交じっていた。
トーマスには後継者がおらず、年配の職員や成長した子ども達が入所して細々とやっていた。いつかはやってくる事が思っていたよりも早く訪れただけ。
「ま、世の中そんなもんだよ」
そう自分に言い聞かせる。花形職に就いたところでしょせんはただの社会人だ。巷ではニューミリオン・ドリームを叶えた一人なんて言われているものの、実際のエイダはヒーローとして飛び抜けた才覚があるわけではない。あくまでルーキー相応の活躍に留まっている。前年に起きた『ロスト・ゼロ』から立ち直ろうとする明るい話題作りの一環として、ルーキーの経歴で市民から好ましく映りそうな要素をピックアップされ、持ち上げられているだけにすぎない。
そんな扱いに思うところがあっても飲み込んできたのは、市民からの好印象が孤児院を残すのに利用できると感じたからだ。
だが、ルーキー期間に培えた経験や影響力もたかが知れている。エイダ自身浅はかだった。今回の件も当然の結果というもの。
でも、それでも。自分が手柄を挙げられる優秀なヒーローだったら。そんなもしもが知らぬうちに口から出ていたらしい。
「おい」という声に反応して顔を上げると、ワインレッドの髪を乱れなくまとめた制服姿の少年が立っていた。既に食事を終えたのか手ぶらで、やや釣り上がった目が咎めるような視線を送っている。
「何をブツブツ言っている。ランチタイムはもう終わるぞ」
「ほんとだ。教えてくれてありがとう」
「オマエのために教えてやったわけじゃない。締まりのないやつがいたら12期生の体面に関わるからな」
ひと房零れたワインレッドの髪を耳にかけてマリオンが言う。「相変わらずストイックだね」と笑いかけると「オマエもヘラヘラしていないで気を引き締めろ」と手厳しい言葉が返ってくる。
――ああ、いつものマリオンだ。
最年少でヒーローとなった同期の少年は誰よりもストイックで、12期生だけでなくメンターにも厳しい。例外なのは保護者であるノヴァと彼の作ったロボット達くらいだ。多少当たりが強かろうとお釣りが来るくらいの成果を挙げ、最年少ルーキーの次は最短メジャーヒーロー入りを期待されるような人材だ。世の中には天才がいるとつくづく実感させられる。
ヒーローといえどルーキーの一人でしかないエイダが敵うわけもない。
そこまで考えて、先程までの悩みに思い当たる。これがエリオスの寵児と呼ばれるマリオンだったら少しは善戦できたのだろうか。メジャーヒーローならあるいは、というところまで考えて不毛な考えを破り捨てる。あらゆるタイミングが悪かったと言い聞かせる。そうしていれば少しは気も晴れるはずだ。なのに切り替えが上手くいかず、メールの内容が頭から離れない。
だからだろうか。普段込み入った話を振らないマリオンにもつい尋ねてしまった。
「マリオンは、さ。もし自分の家がなくなって、みんなバラバラになるしかない状況になったらどうする?」
「馬鹿げた妄想だな」
問われたマリオンは柳眉を逆立てた。紫色の目がひたりとエイダを見据える。それだけで年下とは思えない圧を感じ、自分とは違うのだと思い知らされる。
「まず前提からしてくだらない。ボクがいる限りエリオスタワーを失う事も、家族がバラバラになる事もありえない」
「もしもの話だよ。滅多にそんな事起きないだろうけど、もしものケースを想定しておくのは大事ってうちのメンターも言ってたから」
「……ボクに気圧される程度のルーキーからそんな話を振られるとはな」
今度はしっかりと紫の目を見据える。彼とはプライベートな話をするほどの距離感ではない。先ほどのようにくだらないと切り捨てられても当然だろう。それでも、迷う事なくヒーローの道を邁進するマリオンがどのように考えるのかを聞いてみたかった。退かないと見たのか、考えるように目を閉じる。
「……そんな事態を招く失態は犯さない。万が一そんな事になってもボクは家族を守り抜く」
そう言い切る言葉には強い意志が宿っていた。考えなしや楽観で言っているのではない。彼は心の底からそう誓っていて、実現できるだけの力があると自負している。ルーキー達は誰もが覚悟を決めているだろうが、マリオンの語る言葉にはより一層の重みがあった。
「ブレないね。さっすがマリオン」
「オマエはどうなんだ」
「私?」
水を向けられるとは思っていなかったエイダは目を丸くする。目尻のつり上がった両目にに射すくめられるとほんの少し居心地が悪い。
「ヒーローならそのくらいの気概は持っているだろう」
「そりゃあ……」
これまでならはっきり返せたはずの台詞も何故か詰まってしまう。近いうちに失うという現実がちらついては霧散していく。
視線を落としたまま言葉を探すように視線をあちこちへさ迷わせるエイダを観察していたマリオンが不意に視線を外す。それは彼の失望と無関心を暗示していた。
「オマエは家族すら守れないのか。無様だな」
たった一言。マリオンにしてみればいつもの苦言と何ら変わりのないストイック故の発言だが、それだけでエイダの何かが折れる音がした。
◇
気がつけば隣にいたはずの年下の同期はいなくなっていた。
「……やっば、休憩オーバーしてる」
手付かずだったサンドイッチは後で食べるしかない。
行かなきゃ、と重苦しさを振り切って立ち上がる。平坦なフロアに立っているはずが、平衡感覚を失ったかのようにぐらぐらと揺れている。サブスタンスかと思ったが、周囲に異変は無い。そうこうしている間にも揺れは収まらず、エイダは堪らず座り込んだ。
「ええ……なんだろ、これ。立ちくらみ?」
戸惑い混じりの呟きが漏れる。
それでも時間は待ってくれない。再び足に力を入れれば今度こそ立ち上がれた。先ほどのような立ちくらみもない。
「よし、気を取り直していかなきゃ」
それがエイダ・ハーヴェイのスランプ報道より数日前に起きた出来事だった。
マリオンにとっては何気ない一言。同期のエイダにとって日頃ならへらりと笑って受け流せたはずの言葉が尾を引く事になるとはこの時誰も思っていなかっただろう。
「エイダ、そろそろ帰りましょう」
真一文字に結んでいた唇が微かに震えた。ゆっくりと呼吸する。気を抜けば溢れてしまいそうなものをしまい込み、赤毛の少女は視線を女性に向けた。
「わがまま言ってごめんなさい。帰ったら晩ごはん手伝うね」
「いい子ね」
女性は安堵した様子でベンチから立つ。少女がやって来てから一ヶ月。子供達とも打ち解けてきたように見えるし、週に一度の時間もそろそろ割り切れるようになってもいい頃合いだ。少女の手を取り、女性は公園を後にする。手を引かれる少女が肩越しに振り返る。胸中の名残惜しさを代弁するように、少女の影は遠ざかっていくベンチへと伸びていた。
◇
その日のエメラルドアベニューは朝から騒ぎが起きていた。慌ただしい通勤時間に乗じたひったくり犯が現れたのだ。被害者である初老の女性が大声を上げるも、人の波に乗って姿を眩まそうとする男はぐんぐん離れていく。路地裏へ消えようとした男のすぐ背後から「みーつけた」と若い女の声がした。ヒーロースーツに身を包み、紅茶色の髪をなびかせている。今期注目株の一人とされるルーキー、エイダ・ハーヴェイだ。
エイダとひったくり犯を取り囲むように市民達が輪を形成する。足を止めている多くのものは野次馬だ。集まっている誰もが、ヒーローが出てきた以上逃げ場はないと考える中、追い詰められているはずの男はへへ、と下卑た笑みを浮かべる。
「オレぁ知ってるんだぜ!お前、ヒーロー能力を扱いきれてねえんだってな!サブスタンス自体のポテンシャルと比べたらごく一部だけなんだろ!?」
まるで逃げ切れると確信しているような口ぶりで男は叫ぶ。男の言う通りだ。光の操作は汎用性が高い反面、使い手にも相応の知識と理解が求められる。テクノロジーとして応用されている光の汎用性に比べたら専門家でもないルーキーのエイダが扱える範囲はごく限られているだろう。
見物人達が見守る中、エイダは人のいい笑みを浮かべると男を称えるように拍手した。
「そうなんだよー、意外と扱い難しいの。よく知ってるね」
「インタビューで答えてたの覚えていてよかったぜ!今度からトーク内容は慎重に選ぶのをオススメするよ!」
ニィ、と歪な微笑を浮かべた男が「じゃあな!」と言い捨てて走り出す。
「でもルーキーだろうと私だってヒーローだから」
エイダも後を追いながらすう、と手を前方へと突き出す。
「みんな!男から離れて!」
観衆達が男から離れたのを確認し、手を振り下ろすと男の前方を塞ぐように光のポールが何本も降り注いだ。観衆達から感嘆のどよめきが生まれる。凝集によって形作られた光のポールは柵状に取り囲み、熱を帯びて男の行く手を阻んだのだ。しかし、光はその性質上媒体なしには実体として形成できない。形を維持できず、燐光とともにはらはらと、ゆっくり崩れる光のポールを見て男はそらみたことかとせせら笑う。男の足止めをできたのはわずか数十秒。しかし、時間稼ぎは充分だった。油断を突いて男の懐にエイダはその鳩尾に渾身の一撃を叩き込んだ。
取り落としたバッグを確保し、後ろ手に拘束すれば仕事は完了。軽犯罪者を捕まえるのならこれで充分だ。観衆の拍手を受けて手を振った。
「朝からお騒がせしました!みなさんも気をつけていってらっしゃい!」
早朝の捕縛劇を見届けた人だかりは一人、また一人とそれぞれの日常へと戻っていく。大事にならず済んでよかった。そう思いながら被害者の女性にこれから警官が来る事を告げ、諸々の手続きのため残ってもらう旨を伝えた。彼女と警官の到着を待っている間にも次々と声をかけられる。
「朝から捕り物とはねぇ。お疲れさま」
「サブスタンスじゃなかったしこのくらい朝飯前だよ」
「やあエイダ、うちの店がようやく営業再開するんだ。よかったら来てくれよ」
「おめでとう!次の休みにメンター達と遊びに行かせてもらうね」
「あんた随分感じがいいな」
感心した様子のサラリーマンとの会話を聞き留めたらしい通行人が声をかける。
「おいおい、知らなかったなんてモグリか?どんな時も笑顔を絶やさないし、市民に寄り添ってくれるんだ」
「そんな事ないよ。ただのルーキーに過ぎないし、落ち込む事だってあるよ」
「この謙虚さを見てくれ。苦労して花形職に就いたのに鼻にかけたところもないんだ」
「へぇ、そりゃ大したもんだ。応援するよ」
「いや、そんな大層なものじゃないって。でもありがとうね」
片手を上げて去っていくサラリーマンに応じながら本当なんだけどなぁ、と胸中でぼやく。最近は妙に過大評価される事が多い。自分の知らないところでエイダ・ハーヴェイが独り歩きしているような気がする。
「いっそ私も自分の手柄は開き直った方がいいのかな」
「確かにね。周りを立てるのはいい事だけど謙虚も行き過ぎれば……っていうじゃない?」
「あはは……、ちょっと心がけてみようかな」
助けた女性にすら言われてしまうのなら何とかした方がいいかもしれない。
とりあえず同期のように振る舞う自分を思い浮かべてみるものの、スター性を持つ彼女の個性を表面だけ真似ても空回りするだけと即座に考えを打ち消した。
その汎用性の高さ故に知識と応用力を要求される能力でありながら、努力を重ねてヒーローとして活躍できる水準まで引き上げた意欲と順応力がエイダの強みだ。対人関係も相手に合わせて振る舞う傾向が強く、直属のメンターからも手がかからないと評される。一方で、自分の事で人の手を煩わせるような気がして悩みや相談を打ち明けるのも苦手でもあった。
管轄の警官にひったくり犯を引き渡したエイダは大きなため息をつく。
元々は第12期専任の司令と広報担当からニューミリオン・ドリームを叶えた一人としてクローズアップしたいと持ちかけられたのが始まりだった。
『ロスト・ゼロ』がもたらした傷を癒しきれていない市民も数多く、人々はヒーローに心の拠り所を求めている。殊更ルーキーには未来への希望を求めている。そんな彼らに夢を叶えるため努力し続けた若者の姿を通して人々を鼓舞したい。そんな要望を受けて本来の自分からほんの少し底上げしたのがヒーローとしてのエイダだ。
幸か不幸か、エイダは他者から求められたものを読み取るのに長けていた。協調性も高く、人に尽くす精神はある意味ヒーローに向いていたと言えるだろう。
みんな喜んでくれるし、広報からも評判がいいから、とファンサービスを頑張っているうちに市民達の中に作られた『ルーキーのエイダ・ハーヴェイ像』に息苦しさを感じるようになっていた。
「あーもうダメダメ!悩んだってしょうがない!」
自分を鼓舞する声音はあくまで明るい。市民の求めるエイダ・ハーヴェイならそうするからだ。市民からの期待に応え続けるのがヒーローというものだろう。エイダ自身がそんな自分にどこか違和感を覚えているなんて、誰にも打ち明けようがなかったとしても。
「自分で始めた事なんだから通さなきゃ、ね」
その時、スマホからメッセージアプリの軽快な通知音が鳴った。思わず頬が緩む。
多忙な時間の合間に親しい職員とやり取りする時間と月一で近況報告する時間がただのエイダに戻れる貴重な時間だった。
「朝からメッセージくれるなんて珍しい。ふふっ、子ども達のイタズラかな」
孤児院の子ども達は多忙な職員の目を盗み、職員のスマホから隠し撮りや変顔、今日のおやつの画像を送ってくる事がある。見つかる度に叱られているはずだが懲りない彼らのイタズラはエイダの密かな楽しみとなっていた。
仕事中だから控えねばと思う反面、どうしても気になる。通知だけ見ようと画面をタップした時、滑り込むように別の通知が入ってきた。表示された差出人を見て表情が翳る。それはニューミリオンでも有数の不動産会社からのメールだった
◇
エイダがメールを開いたのは薄曇りの昼下がりだった。朝届いた時点で開かなかったのはパトロール中だったからという建前で、本当は少しでも心の準備をする時間を稼ぎたかったからだ。
昼休憩で賑わうカフェテリアの喧騒からやや離れた位置でエイダはランチタイムを過ごしていた。壁際に面していて、なおかつ観葉植物で遮られるこの席は人目を避けて過ごしたい時にうってつけの場所だ。
普段は人当たりがいいと評判の表情も今は翳りが浮かんでいる。テーブルには軽食が載っているものの、ほとんど手をつけていなかった。
蜂蜜色の双眸は端末に届いた事務的な文面へ注がれている。読んでいるように見えるが、実際のところは心ここに在らずで半分以上読み流していた。
それは『権利所有者である施設長と不動産会社による協議の末、土地の売却が成立し、孤児院の取り壊しが正式に決定した』という内容だった。
続いて『話題性の高いルーキー エイダ・ハーヴェイが育った場所として注目を集めていたため保留としてきたが、これ以上の先延ばしは難しいと判断して再始動するので、想定されるだろうファンから噴出する批難を抑えてほしい』という旨が綴られている。
まだ受け止めきれない文面を閉じ、深呼吸をしながら目を閉じる。その横顔にはやりきれなさが滲んでいた。
「…………、結局間に合わなかったな」
緑に囲まれ、二棟の建物とささやかな遊具が寄り添うようにして建っている光景が瞼の奥に浮かぶ。エイダの育った孤児院だ。ニューミリオンの発展前からグリーンイーストの外れにあった孤児院は発展とともに少しずつ肩身が狭くなっていった。スポーツ観戦やアクティビティ充実のため移転や取り壊しの計画が泡のように浮かんでは消えを繰り返している有様だったが、細々と続いている状態ではあり、エイダがヒーローになって注目を浴びてからは反響を鑑みて無期限延期となっていたのだ。
孤児院を残したかったエイダと開発を進めたい事業主の駆け引きは見事な惨敗で幕を下ろした。決定打は権利所有者であり、施設長を務めるトーマスが高齢を理由に土地を手放したいと申し出た事。たったそれだけであっさり幕引きとなったのだ。
覚悟を決めたようにゆっくりと目を開き、引き結んでいた口元を緩める。そこには落胆と諦観、そして安堵の感情が入り交じっていた。
トーマスには後継者がおらず、年配の職員や成長した子ども達が入所して細々とやっていた。いつかはやってくる事が思っていたよりも早く訪れただけ。
「ま、世の中そんなもんだよ」
そう自分に言い聞かせる。花形職に就いたところでしょせんはただの社会人だ。巷ではニューミリオン・ドリームを叶えた一人なんて言われているものの、実際のエイダはヒーローとして飛び抜けた才覚があるわけではない。あくまでルーキー相応の活躍に留まっている。前年に起きた『ロスト・ゼロ』から立ち直ろうとする明るい話題作りの一環として、ルーキーの経歴で市民から好ましく映りそうな要素をピックアップされ、持ち上げられているだけにすぎない。
そんな扱いに思うところがあっても飲み込んできたのは、市民からの好印象が孤児院を残すのに利用できると感じたからだ。
だが、ルーキー期間に培えた経験や影響力もたかが知れている。エイダ自身浅はかだった。今回の件も当然の結果というもの。
でも、それでも。自分が手柄を挙げられる優秀なヒーローだったら。そんなもしもが知らぬうちに口から出ていたらしい。
「おい」という声に反応して顔を上げると、ワインレッドの髪を乱れなくまとめた制服姿の少年が立っていた。既に食事を終えたのか手ぶらで、やや釣り上がった目が咎めるような視線を送っている。
「何をブツブツ言っている。ランチタイムはもう終わるぞ」
「ほんとだ。教えてくれてありがとう」
「オマエのために教えてやったわけじゃない。締まりのないやつがいたら12期生の体面に関わるからな」
ひと房零れたワインレッドの髪を耳にかけてマリオンが言う。「相変わらずストイックだね」と笑いかけると「オマエもヘラヘラしていないで気を引き締めろ」と手厳しい言葉が返ってくる。
――ああ、いつものマリオンだ。
最年少でヒーローとなった同期の少年は誰よりもストイックで、12期生だけでなくメンターにも厳しい。例外なのは保護者であるノヴァと彼の作ったロボット達くらいだ。多少当たりが強かろうとお釣りが来るくらいの成果を挙げ、最年少ルーキーの次は最短メジャーヒーロー入りを期待されるような人材だ。世の中には天才がいるとつくづく実感させられる。
ヒーローといえどルーキーの一人でしかないエイダが敵うわけもない。
そこまで考えて、先程までの悩みに思い当たる。これがエリオスの寵児と呼ばれるマリオンだったら少しは善戦できたのだろうか。メジャーヒーローならあるいは、というところまで考えて不毛な考えを破り捨てる。あらゆるタイミングが悪かったと言い聞かせる。そうしていれば少しは気も晴れるはずだ。なのに切り替えが上手くいかず、メールの内容が頭から離れない。
だからだろうか。普段込み入った話を振らないマリオンにもつい尋ねてしまった。
「マリオンは、さ。もし自分の家がなくなって、みんなバラバラになるしかない状況になったらどうする?」
「馬鹿げた妄想だな」
問われたマリオンは柳眉を逆立てた。紫色の目がひたりとエイダを見据える。それだけで年下とは思えない圧を感じ、自分とは違うのだと思い知らされる。
「まず前提からしてくだらない。ボクがいる限りエリオスタワーを失う事も、家族がバラバラになる事もありえない」
「もしもの話だよ。滅多にそんな事起きないだろうけど、もしものケースを想定しておくのは大事ってうちのメンターも言ってたから」
「……ボクに気圧される程度のルーキーからそんな話を振られるとはな」
今度はしっかりと紫の目を見据える。彼とはプライベートな話をするほどの距離感ではない。先ほどのようにくだらないと切り捨てられても当然だろう。それでも、迷う事なくヒーローの道を邁進するマリオンがどのように考えるのかを聞いてみたかった。退かないと見たのか、考えるように目を閉じる。
「……そんな事態を招く失態は犯さない。万が一そんな事になってもボクは家族を守り抜く」
そう言い切る言葉には強い意志が宿っていた。考えなしや楽観で言っているのではない。彼は心の底からそう誓っていて、実現できるだけの力があると自負している。ルーキー達は誰もが覚悟を決めているだろうが、マリオンの語る言葉にはより一層の重みがあった。
「ブレないね。さっすがマリオン」
「オマエはどうなんだ」
「私?」
水を向けられるとは思っていなかったエイダは目を丸くする。目尻のつり上がった両目にに射すくめられるとほんの少し居心地が悪い。
「ヒーローならそのくらいの気概は持っているだろう」
「そりゃあ……」
これまでならはっきり返せたはずの台詞も何故か詰まってしまう。近いうちに失うという現実がちらついては霧散していく。
視線を落としたまま言葉を探すように視線をあちこちへさ迷わせるエイダを観察していたマリオンが不意に視線を外す。それは彼の失望と無関心を暗示していた。
「オマエは家族すら守れないのか。無様だな」
たった一言。マリオンにしてみればいつもの苦言と何ら変わりのないストイック故の発言だが、それだけでエイダの何かが折れる音がした。
◇
気がつけば隣にいたはずの年下の同期はいなくなっていた。
「……やっば、休憩オーバーしてる」
手付かずだったサンドイッチは後で食べるしかない。
行かなきゃ、と重苦しさを振り切って立ち上がる。平坦なフロアに立っているはずが、平衡感覚を失ったかのようにぐらぐらと揺れている。サブスタンスかと思ったが、周囲に異変は無い。そうこうしている間にも揺れは収まらず、エイダは堪らず座り込んだ。
「ええ……なんだろ、これ。立ちくらみ?」
戸惑い混じりの呟きが漏れる。
それでも時間は待ってくれない。再び足に力を入れれば今度こそ立ち上がれた。先ほどのような立ちくらみもない。
「よし、気を取り直していかなきゃ」
それがエイダ・ハーヴェイのスランプ報道より数日前に起きた出来事だった。
マリオンにとっては何気ない一言。同期のエイダにとって日頃ならへらりと笑って受け流せたはずの言葉が尾を引く事になるとはこの時誰も思っていなかっただろう。