潜伏編
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「5日間連絡が途絶えたら死んだと思え」がエージェント ロレンスの教えだった。
死んだと看做した場合の行動もあらかじめ決められており、まずは何かあった際の合流ポイントへ向かい、本人の姿も手がかりもなかったらなるべく交通の発達した地域を避けて国外への脱出を目指す。
彼は二、三日に一度この文言を口にしてはその後の行動を諳んじさせるのが習慣となっていた。
彼自身顔も広かった分敵も多かったのか、シエル達のいた組織――ソレスタルビーイング以外から暗殺者を差し向けられる事もあったが故の行動だったのだろう。
ある晴れた日のことだ。窓を開けて軽く掃除をしていたところ、ロレンスがいつもの台詞を口にしたのだ。シエルもいつも通り諳んじようとした時、ロレンスはなぜか右手で制した。
そして彼にしては珍しく、険のない口調で尋ねてきた。
「お前、ニールの事をどう思っている?」
ニールというのは一年ほど前からセーフハウスに出入りするようになった少年の名前だ。元々はロレンスへの刺客だったが、ロレンスが仕事やコネクションと引き換えに現在潜伏を余儀なくされている自分の小間使いとして抱き込んだという経緯がある。
気まぐれに格闘技術を仕込みつつ、仲介料や指導料として安くない額を差し引いているロレンスにニールがあのクソオヤジと毒づいているのを度々目にしていたし、ロレンスは意見が衝突する度にガキが生意気だと舌打ちしていた。
そんな瑣末事を除き、シエル自身が彼をどう思っているかと聞かれたら……。
「最近背が伸びて筋肉量が増えてきたと思います」
同程度だった身長が一気に引き離されたので少し変な感覚を覚えていた。
しかしロレンスの望んだ答えではなかったのか、深い溜息とともにやれやれと首を左右に振り、めんどくせぇと呟いた後改めて顔を上げた。
「あいつと一緒にいたいか?」
「はい」
考えるまでもなく、自然と肯定していた。
負傷し、発熱で苦しんでいた時に付き添ってくれたのは彼だった。自分という存在に生き延びる手段を授けてくれたのがロレンスなら、人の温かさを教えてくれたのは間違いなくニールだ。その返答を想定していたのだろう、ひと息ついたロレンスがひとつの提案をした。
「お前にもうひとつの選択をやる。国外逃亡かニールと暮らすか、その時が来たら好きな方を選べ」
想定外の言葉に目を見張る。ロレンスは輝きの失われた目をシエルへと真っ直ぐに向けていた。彼は時折ブラックジョークを口にする事もあるが、方針に関わる事で冗談を交えるような男でない事はこれまでの旅でよく知っていた。
「前者を選べばアイルランドに来る前の日常が待っている。運が良ければそれなりに生き延びるだろう。後者を選べば一時の安息を手にするだろうが、ニールの人生を巻き込む事になるのを肝に銘じろ」
淡々とした言葉の中にあるものを感じ取ろうとして自然と背筋が伸びる。しかし、シエルは人の機微に疎いと度々周囲の人々から言われるほど言葉の裏にあるものを読み取れない。
「……何故、今になって選ばせようとするんですか」
「どの道を選ぼうといずれ死ぬのなら少しくらい人間らしい時間を送る選択があってもいいと思った。それだけだ」
返答は至極簡潔なもので、だからこそシエルを混乱させる。しかし、機微の分からない相手に今更言葉に裏を含ませるような人物でもない。シエルはロレンスから視線を逸らし、突然提示された選択肢の先にあるものをイメージする。アイルランドを訪れる以前の拠点を転々としながら硝煙の香り漂う生活と、現在のように依頼を受けながら定住し、穏やかな日々が続く生活。どちらも荒事とは切り離せない生活に違いないが、現在の彼女は後者に心惹かれるものがあった。
しかし、それは組織から逃げ続けるという旅の趣旨に反するようにも感じる。もっとも、ヴェーダの目がある限り、地球上のどこに居ようとシエルに逃げ場などないのだが……。ヴェーダや組織のエージェントからの干渉を受けづらい地域へ逃げ続けるのはもはや宿命に近かった。
その日から今後の選択について頭の片隅で考えるようになった。
後になって考えてみれば勘のいい人だったので選択肢を提示した頃から何かを感じ取っていたのかもしれない。
ロレンスはその一週間後に消息を絶った。
◇
音信不通となって四日目から退去の準備を始めた。元々必需品以外の荷物は最小限。そして不定期に拠点を移す習慣があったので生活の痕跡を隠すのにそう時間はかからない。手配していた偽造パスポートもギリギリで手に入った。中東へ渡るための資金もある。
一人きりで夜を過ごし、外が白み始めたのを見てまとめていた荷物を手に取る。すっかり馴染んだ雑居ビルの勝手口から外に出ると見知った顔が待っていた。緩くウェーブした髪を揺らしてニールが尋ねる。
「今日で五日目だと思ってな。行くんだろ?」
「うん」
合流ポイントに到着したものの、ロレンスの痕跡は見つからなかった。意図的なものか、それとも何らかのトラブルが起きたのか。どちらにせよ以降は彼が死んだと看做す条件が揃っている。
首を横に振るとニールも想定済みだったのだろう。そうか、と目を伏せた。出会った時差を感じなかった背丈は、今では頭一つ分以上の差ができていた。
「俺もおっさんから聞かれて考えてたんだ。これまでの日常が終わったらどうするか」
「どうするんですか?」
「暗殺稼業を続けるだろうな。ゆくゆくは仇討ちの方も考えちゃいるが、ライルが自立する目処が経つまでは金が必要だ」
「今のニールならやっていけると思います」
ニールはロレンスの元で約一年かけて下地を築いてきた。仲介された仕事や人脈の中から活かせるもの、信用できるものを掴み、自分のものにしている。ロレンスの方でも何やら根回しをしていた辺り、こういった状況に備えていたのかもしれない。
そういう意味で彼は面倒見のいい人物だった。
とはいえ、失った人物の事をいつまでも悔やんでいても仕方がない。偽造パスポートは手元にあり、渡航規制に関しても話がついている手筈だ。ふと以前提示された選択肢が脳裏をよぎった時、不意に腕を掴まれた。
「なあ、もし嫌じゃなければ一緒に暮らさないか?」
「…………」
「繁華街の外れに外国人労働者向けの住宅地区がある。1DK以上なんて大層なものじゃなくて少し広い程度のワンルームくらいだろうが、二人暮らしなら充分だろ」
「いつの間に?」
「これでも人間関係はマメな方だぜ?融通きかせてくれるツテくらいあるさ」
もちろん、お前さえ良ければの話だけどな。そう囁く声は優しくて抗いがたい魅力があった。
「暗殺稼業を続けるにせよ、家族の仇討ちをするにせよ、そばにいてほしい。これは完全に俺のエゴだ」
脳裏に一週間前告げられたロレンスの言葉が蘇る。手を取れば心惹かれた生活を、ニールといる日常の続きを手に入れられる。
けれど彼の人生を巻き込む事になる。いずれ破綻も訪れる───。
戦慄く唇を引き締め、唾を飲む。
「もし私が突然いなくなっても探さないで。連絡が途絶えたら死んだと思って忘れる事。この二つを守ってください」
「おっさんの真似か?」
「約束して」
茶化そうとしたニールに再度念を押す。
身の安全のためにも出自を彼に明かす事はないだろう。それでも、一時期関わったというだけで機密保持を理由に消される可能性もある。
本当にニールを思うのならば今しか引き返せない。そう分かっていながらもシエルは縋るような思いでニールを見つめていた。思いの込められた眼差しを受けて眼前の少年は頷く。
「分かった。だから俺と来いよ」
この選択はいくつものリスクと矛盾を孕んでいる。最善を望むなら深入りさせるべきではなく、中東行きの話を持ちかけられた時に即行動へと移すべきだった。迷いを振り切って中東へ向かうべきだった。そう自覚しながらもニールの手を取らずにはいられなかった。
あの皮肉屋なエージェントの事だ、きっとこうなるのを見抜いていただろう。ニールが教えてくれた温もりを今更手放すなど到底無理な話だったのだと。
死んだと看做した場合の行動もあらかじめ決められており、まずは何かあった際の合流ポイントへ向かい、本人の姿も手がかりもなかったらなるべく交通の発達した地域を避けて国外への脱出を目指す。
彼は二、三日に一度この文言を口にしてはその後の行動を諳んじさせるのが習慣となっていた。
彼自身顔も広かった分敵も多かったのか、シエル達のいた組織――ソレスタルビーイング以外から暗殺者を差し向けられる事もあったが故の行動だったのだろう。
ある晴れた日のことだ。窓を開けて軽く掃除をしていたところ、ロレンスがいつもの台詞を口にしたのだ。シエルもいつも通り諳んじようとした時、ロレンスはなぜか右手で制した。
そして彼にしては珍しく、険のない口調で尋ねてきた。
「お前、ニールの事をどう思っている?」
ニールというのは一年ほど前からセーフハウスに出入りするようになった少年の名前だ。元々はロレンスへの刺客だったが、ロレンスが仕事やコネクションと引き換えに現在潜伏を余儀なくされている自分の小間使いとして抱き込んだという経緯がある。
気まぐれに格闘技術を仕込みつつ、仲介料や指導料として安くない額を差し引いているロレンスにニールがあのクソオヤジと毒づいているのを度々目にしていたし、ロレンスは意見が衝突する度にガキが生意気だと舌打ちしていた。
そんな瑣末事を除き、シエル自身が彼をどう思っているかと聞かれたら……。
「最近背が伸びて筋肉量が増えてきたと思います」
同程度だった身長が一気に引き離されたので少し変な感覚を覚えていた。
しかしロレンスの望んだ答えではなかったのか、深い溜息とともにやれやれと首を左右に振り、めんどくせぇと呟いた後改めて顔を上げた。
「あいつと一緒にいたいか?」
「はい」
考えるまでもなく、自然と肯定していた。
負傷し、発熱で苦しんでいた時に付き添ってくれたのは彼だった。自分という存在に生き延びる手段を授けてくれたのがロレンスなら、人の温かさを教えてくれたのは間違いなくニールだ。その返答を想定していたのだろう、ひと息ついたロレンスがひとつの提案をした。
「お前にもうひとつの選択をやる。国外逃亡かニールと暮らすか、その時が来たら好きな方を選べ」
想定外の言葉に目を見張る。ロレンスは輝きの失われた目をシエルへと真っ直ぐに向けていた。彼は時折ブラックジョークを口にする事もあるが、方針に関わる事で冗談を交えるような男でない事はこれまでの旅でよく知っていた。
「前者を選べばアイルランドに来る前の日常が待っている。運が良ければそれなりに生き延びるだろう。後者を選べば一時の安息を手にするだろうが、ニールの人生を巻き込む事になるのを肝に銘じろ」
淡々とした言葉の中にあるものを感じ取ろうとして自然と背筋が伸びる。しかし、シエルは人の機微に疎いと度々周囲の人々から言われるほど言葉の裏にあるものを読み取れない。
「……何故、今になって選ばせようとするんですか」
「どの道を選ぼうといずれ死ぬのなら少しくらい人間らしい時間を送る選択があってもいいと思った。それだけだ」
返答は至極簡潔なもので、だからこそシエルを混乱させる。しかし、機微の分からない相手に今更言葉に裏を含ませるような人物でもない。シエルはロレンスから視線を逸らし、突然提示された選択肢の先にあるものをイメージする。アイルランドを訪れる以前の拠点を転々としながら硝煙の香り漂う生活と、現在のように依頼を受けながら定住し、穏やかな日々が続く生活。どちらも荒事とは切り離せない生活に違いないが、現在の彼女は後者に心惹かれるものがあった。
しかし、それは組織から逃げ続けるという旅の趣旨に反するようにも感じる。もっとも、ヴェーダの目がある限り、地球上のどこに居ようとシエルに逃げ場などないのだが……。ヴェーダや組織のエージェントからの干渉を受けづらい地域へ逃げ続けるのはもはや宿命に近かった。
その日から今後の選択について頭の片隅で考えるようになった。
後になって考えてみれば勘のいい人だったので選択肢を提示した頃から何かを感じ取っていたのかもしれない。
ロレンスはその一週間後に消息を絶った。
◇
音信不通となって四日目から退去の準備を始めた。元々必需品以外の荷物は最小限。そして不定期に拠点を移す習慣があったので生活の痕跡を隠すのにそう時間はかからない。手配していた偽造パスポートもギリギリで手に入った。中東へ渡るための資金もある。
一人きりで夜を過ごし、外が白み始めたのを見てまとめていた荷物を手に取る。すっかり馴染んだ雑居ビルの勝手口から外に出ると見知った顔が待っていた。緩くウェーブした髪を揺らしてニールが尋ねる。
「今日で五日目だと思ってな。行くんだろ?」
「うん」
合流ポイントに到着したものの、ロレンスの痕跡は見つからなかった。意図的なものか、それとも何らかのトラブルが起きたのか。どちらにせよ以降は彼が死んだと看做す条件が揃っている。
首を横に振るとニールも想定済みだったのだろう。そうか、と目を伏せた。出会った時差を感じなかった背丈は、今では頭一つ分以上の差ができていた。
「俺もおっさんから聞かれて考えてたんだ。これまでの日常が終わったらどうするか」
「どうするんですか?」
「暗殺稼業を続けるだろうな。ゆくゆくは仇討ちの方も考えちゃいるが、ライルが自立する目処が経つまでは金が必要だ」
「今のニールならやっていけると思います」
ニールはロレンスの元で約一年かけて下地を築いてきた。仲介された仕事や人脈の中から活かせるもの、信用できるものを掴み、自分のものにしている。ロレンスの方でも何やら根回しをしていた辺り、こういった状況に備えていたのかもしれない。
そういう意味で彼は面倒見のいい人物だった。
とはいえ、失った人物の事をいつまでも悔やんでいても仕方がない。偽造パスポートは手元にあり、渡航規制に関しても話がついている手筈だ。ふと以前提示された選択肢が脳裏をよぎった時、不意に腕を掴まれた。
「なあ、もし嫌じゃなければ一緒に暮らさないか?」
「…………」
「繁華街の外れに外国人労働者向けの住宅地区がある。1DK以上なんて大層なものじゃなくて少し広い程度のワンルームくらいだろうが、二人暮らしなら充分だろ」
「いつの間に?」
「これでも人間関係はマメな方だぜ?融通きかせてくれるツテくらいあるさ」
もちろん、お前さえ良ければの話だけどな。そう囁く声は優しくて抗いがたい魅力があった。
「暗殺稼業を続けるにせよ、家族の仇討ちをするにせよ、そばにいてほしい。これは完全に俺のエゴだ」
脳裏に一週間前告げられたロレンスの言葉が蘇る。手を取れば心惹かれた生活を、ニールといる日常の続きを手に入れられる。
けれど彼の人生を巻き込む事になる。いずれ破綻も訪れる───。
戦慄く唇を引き締め、唾を飲む。
「もし私が突然いなくなっても探さないで。連絡が途絶えたら死んだと思って忘れる事。この二つを守ってください」
「おっさんの真似か?」
「約束して」
茶化そうとしたニールに再度念を押す。
身の安全のためにも出自を彼に明かす事はないだろう。それでも、一時期関わったというだけで機密保持を理由に消される可能性もある。
本当にニールを思うのならば今しか引き返せない。そう分かっていながらもシエルは縋るような思いでニールを見つめていた。思いの込められた眼差しを受けて眼前の少年は頷く。
「分かった。だから俺と来いよ」
この選択はいくつものリスクと矛盾を孕んでいる。最善を望むなら深入りさせるべきではなく、中東行きの話を持ちかけられた時に即行動へと移すべきだった。迷いを振り切って中東へ向かうべきだった。そう自覚しながらもニールの手を取らずにはいられなかった。
あの皮肉屋なエージェントの事だ、きっとこうなるのを見抜いていただろう。ニールが教えてくれた温もりを今更手放すなど到底無理な話だったのだと。
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