潜伏編
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春から初夏へと移りゆくアイルランドは心做しか天候に恵まれる日が続いていた。例年であれば不安定な気候に振り回されるところであるが、今日のように晴れ間が覗く時もある。こんな日は洗濯物を太陽の下に出したくもなるが、潜伏生活を送っているとなかなかそのような機会には恵まれない。
やれやれと肩を竦めて掃除をしていると、窓際にシエルの姿があった。窓の外を覗いているらしく、上半身はカーテンの裏に隠れていた。風の気配は感じられないので窓自体は閉めたままなのだろう。
近寄ってカーテンを捲ってみると、顔を半分だけ出すような体勢で室内飼いの猫のようにじっと窓の外を眺めていた。面白いものでもあるのかと同じように姿勢を低くしてみるが、雑居ビルの下を足早に行き交う人やたまに野良と思われる猫や犬が通り掛かるくらいだ。
ちら、と向けられた視線と共に一言。
「ロレンスには言わないでください」
「なんで?」
「怒られます」
理由の幼さが想像以上に微笑ましく、ニールは彼女の頭を軽く撫でる。細く柔らかな髪が手の動きに合わせて滑らかな感触を与える。コミュニケーションにあれだけ苦慮していたのが嘘かのように今では自然とボディタッチもできる程に打ち解けていた。
「人の目につくと早めに拠点を変えなきゃいけなくなって手間がかかると」
「……ああ、拠点変えたばかりだもんな」
シエル負傷の件から新たにした拠点はテナントが入らず数年放置されたような寒々しさのある雑居ビルの一角だ。レトロ調の廃墟だった以前よりは少し近代化したと言えるかもしれない。カーテンがつくだけでも潜伏しやすくなるもんだと思いながら、ふと以前からあった疑問を改めて口にした。
「なあ、あのおっさん何者なんだ?」
「私の保護者」
「そうじゃなくて肩書きとか、元々何をやってたとか」
「エージェント。元々何をしてたのかは知りません」
「知らない方がいい事もあります」と重ねて言うシエルの横顔に久々の壁を感じて、自然とニールも口を噤んだ。
知らない方がいい事もある。それは彼らと行動を共にするようになってから頻繁に聞くようになった言葉だ。
何の目的でアイルランドに来たか。何故地域に根ざした古参のギャングファミリーと顔が利くのか。潜伏生活を続ける理由。出身。これまでの経緯。何故外に出る時顔を隠しているのか。ニールに明かされるのはごく僅かで、ほんの僅かな情報だけでは全体像がまるで掴めない。まるで広大なパズルを前にしているかのようだった。
それでも以前より明かしてくれる事も増えた。自分の感じた事や考えた事がメインだが、それでも何気なく思った事を口にしてくれる関係性に温かさを感じている。
不意に薄紫の視線がニールの横顔に注がれていた事に気付く。視線が合うとぎこちなく逸らされてしまうが、何事も無かったかのように気にしない振りをしているといつの間にかまた視線が注がれている。
「どうした?」と笑いかけると、一瞬言葉に詰まったかのような間を置いて「話しておかなければならない事があります」と告げられた。
「最近、ロレンスから次に行く国の打診を受けるようになりました」
「そう、か。いつくらいだ?次に行くところは決まったのか?」
「時期は折を見てとしか……国内の情勢が未だ混乱しているので手続きが通り次第。行政が安定する前に発ちたいそうです。次は……中東辺りはどうか、と」
「中東なんて内紛の真っ只中だろ?なんでそんな場所に?そもそも今は渡航規制かかってて……」
思わず声が大きくなったニールの唇にシエルの指先が宛てがわれる。ひんやりとした指から温度が奪われていくようだ。冬の湖面のように静かで冷えきっている横顔がどこか寂しげに映った。
「そんな場所だからこそ私達のような者の隠れ蓑になる――それが彼の考えです。私も同意しています」
「だからテロで情勢が不安定なアイルランドに来たのか」
「ニールにとっては不快だったかもしれません」
「……まさか。お前達には恩がある。少なくない仲介料差っ引かれていたとはいえ苦手だった近接戦の対処法も鍛えられて、最近じゃ顧客から直接依頼を受けられるようになってきたしさ」
贅沢とはかけ離れた節制だらけの生活だが、個人の狙撃手としてなんとかやっていけるだけの人脈を作り上げる事ができた。訓練を受けたおかげで接近戦にも対応できるようになり、仕事をこなした分だけ裏社会の依頼に名前を挙げてもらえる機会が増える。決して安定した生活とは言い難いが、以前のニールだったらここまでの日常を送れてはいなかっただろう。
「だからさ、どんな理由であれお前には感謝してるんだよ。可能ならずっとバディとしてやっていきたいくらいには。おっさんもまあ、憎まれ口を叩くが言う事と実力は確かだしな」
ある意味充実した日々に満足しているのが伝わったのだろうか、じっと見つめる薄紫の瞳が瞬いた。
そして、何かを考えるように黙っていたシエルが唐突に言葉を紡ぐ。
「私達はまだ旅の途中なんです」
「……旅?」
「旅に終わりはありません。何処に行こうと【目】がある限り、終わりのない夜だろうと彷徨い続けるしかない。争いの中に身を潜めながら息を殺して生きていく、それが私の運命です」
「目?終わりのない夜ってなんだ?死と隣り合わせな状況じゃなきゃ生きられないって……」
問い返すと失敗したとでも言うように視線が下へと落とされる。シエルの過去にまつわる物事には謎がついて回ると理解しているつもりだったが、彼女らしくない詩的な言い回しに戸惑いを隠せずにいると「ごめんなさい」と告げられ、おもむろに窓へと視線を戻した。
「この国の人達は痛みを抱えながらも復興へと向かっています。少しずつ平和に近付いているんです。そうなれば常に混迷の中で身を隠すしかない私の居場所ではなくなる」
「お前だって日々の生活に充実を感じているんじゃないか?それに、復興が進んできたとはいえまだこの国の情勢は不安定だ。治安も決していいとは言えない。俺のような何処にも行き場のない若者だって多い。ここにはおっさんの顔が利く奴らだっている。そんな、わざわざ中東に行かなくたって……」
「それでも、いつかこの国を離れなくてはならないんです。そう遠くないうちに」
「俺は嫌だ」
「ニール……」
はっきりとした拒否にシエルは無表情のまま視線を下げようとする。しかし、逃げは許さない。シエルの頬を掴んで無理やりにでも視線を合わせた。
「俺達バディだろ?最近はそれぞれ単独で仕事するようになったとはいえ、それでもお前はいいパートナーだと思っている。最初は変わったヤツだと思ったけど、それでも上手くやってきたし……とにかく、俺にとってお前は得がたい存在なんだよ」
「大丈夫です。今のあなたなら一人でもやっていく実力と伝手があるでしょう」
シエルはニールの言葉を噛み締めるように目を伏せながら言った。無表情の奥に複雑な感情が滲んでいるよつな気がして、彼はそれらを汲み取ろうと観察力を総動員して見つめる。先程まで口にしていた言葉達は本人の考えではあるだろうが、おそらく心からの言葉ではない。本人すら持て余しているであろうものを楽にしてやりたくて声をかけてやりたいと思うが、踏み込みきれない。
ニールはシエルの事を知っているようで知らないのだ。脛に傷を持つ出自である事はこれまでの付き合いで察することができたとしても、当てもなく彷徨い続けなくてはならない少女の事情はひと欠片も窺い知れないのだ。
「それでも一緒にいたい……っつったら我儘か?」
しかし、思いの丈を告げた後だと言うのに薄紫の瞳は伏せられ、感情の一切を窺うことはできない。白い手がニールの両手に重ねられ、そっと拘束を外していく。
決まった事は変えられないとでも言うかのように首を振る様子には諦観めいたものが浮かんでいるような気がした。
「気持ちを受け取りたいけれど、所詮私は流れ者です。その時の覚悟はしておいて下さい」
コンクリートに囲まれた空間で自虐めいた一言がいやに響いた。
やれやれと肩を竦めて掃除をしていると、窓際にシエルの姿があった。窓の外を覗いているらしく、上半身はカーテンの裏に隠れていた。風の気配は感じられないので窓自体は閉めたままなのだろう。
近寄ってカーテンを捲ってみると、顔を半分だけ出すような体勢で室内飼いの猫のようにじっと窓の外を眺めていた。面白いものでもあるのかと同じように姿勢を低くしてみるが、雑居ビルの下を足早に行き交う人やたまに野良と思われる猫や犬が通り掛かるくらいだ。
ちら、と向けられた視線と共に一言。
「ロレンスには言わないでください」
「なんで?」
「怒られます」
理由の幼さが想像以上に微笑ましく、ニールは彼女の頭を軽く撫でる。細く柔らかな髪が手の動きに合わせて滑らかな感触を与える。コミュニケーションにあれだけ苦慮していたのが嘘かのように今では自然とボディタッチもできる程に打ち解けていた。
「人の目につくと早めに拠点を変えなきゃいけなくなって手間がかかると」
「……ああ、拠点変えたばかりだもんな」
シエル負傷の件から新たにした拠点はテナントが入らず数年放置されたような寒々しさのある雑居ビルの一角だ。レトロ調の廃墟だった以前よりは少し近代化したと言えるかもしれない。カーテンがつくだけでも潜伏しやすくなるもんだと思いながら、ふと以前からあった疑問を改めて口にした。
「なあ、あのおっさん何者なんだ?」
「私の保護者」
「そうじゃなくて肩書きとか、元々何をやってたとか」
「エージェント。元々何をしてたのかは知りません」
「知らない方がいい事もあります」と重ねて言うシエルの横顔に久々の壁を感じて、自然とニールも口を噤んだ。
知らない方がいい事もある。それは彼らと行動を共にするようになってから頻繁に聞くようになった言葉だ。
何の目的でアイルランドに来たか。何故地域に根ざした古参のギャングファミリーと顔が利くのか。潜伏生活を続ける理由。出身。これまでの経緯。何故外に出る時顔を隠しているのか。ニールに明かされるのはごく僅かで、ほんの僅かな情報だけでは全体像がまるで掴めない。まるで広大なパズルを前にしているかのようだった。
それでも以前より明かしてくれる事も増えた。自分の感じた事や考えた事がメインだが、それでも何気なく思った事を口にしてくれる関係性に温かさを感じている。
不意に薄紫の視線がニールの横顔に注がれていた事に気付く。視線が合うとぎこちなく逸らされてしまうが、何事も無かったかのように気にしない振りをしているといつの間にかまた視線が注がれている。
「どうした?」と笑いかけると、一瞬言葉に詰まったかのような間を置いて「話しておかなければならない事があります」と告げられた。
「最近、ロレンスから次に行く国の打診を受けるようになりました」
「そう、か。いつくらいだ?次に行くところは決まったのか?」
「時期は折を見てとしか……国内の情勢が未だ混乱しているので手続きが通り次第。行政が安定する前に発ちたいそうです。次は……中東辺りはどうか、と」
「中東なんて内紛の真っ只中だろ?なんでそんな場所に?そもそも今は渡航規制かかってて……」
思わず声が大きくなったニールの唇にシエルの指先が宛てがわれる。ひんやりとした指から温度が奪われていくようだ。冬の湖面のように静かで冷えきっている横顔がどこか寂しげに映った。
「そんな場所だからこそ私達のような者の隠れ蓑になる――それが彼の考えです。私も同意しています」
「だからテロで情勢が不安定なアイルランドに来たのか」
「ニールにとっては不快だったかもしれません」
「……まさか。お前達には恩がある。少なくない仲介料差っ引かれていたとはいえ苦手だった近接戦の対処法も鍛えられて、最近じゃ顧客から直接依頼を受けられるようになってきたしさ」
贅沢とはかけ離れた節制だらけの生活だが、個人の狙撃手としてなんとかやっていけるだけの人脈を作り上げる事ができた。訓練を受けたおかげで接近戦にも対応できるようになり、仕事をこなした分だけ裏社会の依頼に名前を挙げてもらえる機会が増える。決して安定した生活とは言い難いが、以前のニールだったらここまでの日常を送れてはいなかっただろう。
「だからさ、どんな理由であれお前には感謝してるんだよ。可能ならずっとバディとしてやっていきたいくらいには。おっさんもまあ、憎まれ口を叩くが言う事と実力は確かだしな」
ある意味充実した日々に満足しているのが伝わったのだろうか、じっと見つめる薄紫の瞳が瞬いた。
そして、何かを考えるように黙っていたシエルが唐突に言葉を紡ぐ。
「私達はまだ旅の途中なんです」
「……旅?」
「旅に終わりはありません。何処に行こうと【目】がある限り、終わりのない夜だろうと彷徨い続けるしかない。争いの中に身を潜めながら息を殺して生きていく、それが私の運命です」
「目?終わりのない夜ってなんだ?死と隣り合わせな状況じゃなきゃ生きられないって……」
問い返すと失敗したとでも言うように視線が下へと落とされる。シエルの過去にまつわる物事には謎がついて回ると理解しているつもりだったが、彼女らしくない詩的な言い回しに戸惑いを隠せずにいると「ごめんなさい」と告げられ、おもむろに窓へと視線を戻した。
「この国の人達は痛みを抱えながらも復興へと向かっています。少しずつ平和に近付いているんです。そうなれば常に混迷の中で身を隠すしかない私の居場所ではなくなる」
「お前だって日々の生活に充実を感じているんじゃないか?それに、復興が進んできたとはいえまだこの国の情勢は不安定だ。治安も決していいとは言えない。俺のような何処にも行き場のない若者だって多い。ここにはおっさんの顔が利く奴らだっている。そんな、わざわざ中東に行かなくたって……」
「それでも、いつかこの国を離れなくてはならないんです。そう遠くないうちに」
「俺は嫌だ」
「ニール……」
はっきりとした拒否にシエルは無表情のまま視線を下げようとする。しかし、逃げは許さない。シエルの頬を掴んで無理やりにでも視線を合わせた。
「俺達バディだろ?最近はそれぞれ単独で仕事するようになったとはいえ、それでもお前はいいパートナーだと思っている。最初は変わったヤツだと思ったけど、それでも上手くやってきたし……とにかく、俺にとってお前は得がたい存在なんだよ」
「大丈夫です。今のあなたなら一人でもやっていく実力と伝手があるでしょう」
シエルはニールの言葉を噛み締めるように目を伏せながら言った。無表情の奥に複雑な感情が滲んでいるよつな気がして、彼はそれらを汲み取ろうと観察力を総動員して見つめる。先程まで口にしていた言葉達は本人の考えではあるだろうが、おそらく心からの言葉ではない。本人すら持て余しているであろうものを楽にしてやりたくて声をかけてやりたいと思うが、踏み込みきれない。
ニールはシエルの事を知っているようで知らないのだ。脛に傷を持つ出自である事はこれまでの付き合いで察することができたとしても、当てもなく彷徨い続けなくてはならない少女の事情はひと欠片も窺い知れないのだ。
「それでも一緒にいたい……っつったら我儘か?」
しかし、思いの丈を告げた後だと言うのに薄紫の瞳は伏せられ、感情の一切を窺うことはできない。白い手がニールの両手に重ねられ、そっと拘束を外していく。
決まった事は変えられないとでも言うかのように首を振る様子には諦観めいたものが浮かんでいるような気がした。
「気持ちを受け取りたいけれど、所詮私は流れ者です。その時の覚悟はしておいて下さい」
コンクリートに囲まれた空間で自虐めいた一言がいやに響いた。
