潜伏編
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夜はひどく気分が滅入る。冬の夜ともなれば寒さがより身に滲みて心に暗い影を落とした。
劣悪な環境に身を置いているのならば尚更だ。繁華街の一角にある雑居ビルでニールは目を覚ました。セーフハウスとして使い始めて日が浅いこの物件は未だ住み心地がいいとは言い難い。前の拠点から持ち出せた物資は限られており、ベッドと言えるものも粗末なものだ。
そして、見張りのローテーション通りに眠るのが決まりだった。コンクリートの壁に背を預けた体勢で毛布にくるまって眠るので寝心地は最悪に近い。
元々一般家庭育ちで環境が変わってから徐々に溜まっていた疲れやストレスがニールの精神を日に日に疲弊していくのも無理からぬ事だった。
暗く、埃っぽい室内はかつて家族と過ごした温かな夜には程遠い。けれど家族との思い出が色濃く残る実家に戻るという選択肢はないに等しかった。がらんと静まり返った家で夜を過ごすのは孤独を強く実感してしまい、逆に気が休まらない。家族との思い出が詰まった家だからこそ、喪失に追い詰められていくのが怖かった。
家族を失った時に感じた血の気が失せていく感覚と、体の内側から焼かれるような激情は今もじりじりと燻り続けている。
――いつか業火となって自分自身を焼き尽くすのだろう。その前に虚無感に蝕まれて精神をやられてしまう方が先かもしれない。
部屋の隅で何かが動いた気配がして、ニールは身を強ばらせた。気配は足音を殺してこちらに近寄ってくる。誰なのか考えるまでもない。憂鬱を覆い隠し、いつも彼女と接する時の自分を装った。
――大丈夫。本心を隠して他人と接するのは得意な方だ。
そう言い聞かせて顔を上げると、やはり予想した通りの小柄なシルエットが見下ろしていた。
月明かりを受けてほんの少しだけ表情が見える。肩からすっぽりと毛布を被った少女の表情はいつも通り涼やかで、数日前まで脂汗を滲ませて苦しんでいたとは思えない。
看護して以来すっかり懐いた様子のシエルだが、ニールは未だ壁を介して接しているような心境だった。ただし当初のようにシエル側に壁があるわけではなく、ニール側の問題だった。人当たりよく接し、死線を共にした相棒にも未だ自分の抱えている闇を明かす気にはなれずにいた。
「どうした?傷、まだ痛むか?」
ニールの呼びかけに対して少女は何かを案じるような顔つきで首を横に振る。
「痛いのはニールの方では?」
「えーっと……あれか、おっさんに投げられた時の打ち身か?それとも腕ねじり上げられた時?どっちにせよそんなひどくなってねえよ」
ぐるぐると腕を回しておどけてみせるが、淡い色の瞳は真意を探るかのようにニールを観察する。あまりにも真っ直ぐな視線を受け止めながらもニールは居心地の悪さを感じていた。
「二人して起きてたら意味ないだろ?交代時間に寝坊したらおっさんにどやされるし寝ようぜ」
会話を切り上げようとしたニールの言葉にひとつ頷いたかと思えば隣に腰を下ろす。もぞもぞと首元まで毛布を被り直す気配に少女が人の機微を汲み取れないきらいがある事を思い出した。
「いや、そうじゃなくて自分の寝床でな」
「ここがいい」
そう言いきられては断りづらい。どうしたものかと目を伏せた時、ニールの頭にシエルの手が添えられた。
「お返ししようと思って」
「なんのだよ」
「熱を出した時そばにいてくれたから、お返し」
「あんなのどうって事ないだろ?」
しかし、一度乗せられた手は退く気配がない。ゆるやかなくせ毛をぎこちない手つきで撫でていく。意図は分からないもののそれで気が済むのならと目を閉じた。
撫でられる感触に記憶が引きずられる。父や母が頭を撫でてくれた思い出で真っ先に浮かんだのはスポーツ射撃の大会で優勝した時の事だ。父は大きな手のひらで髪をぐしゃぐしゃにするくらい喜んでいて、母はこれまでの努力を労わるように優しく撫でてくれた。妹のエイミーも便乗してすごい、すごいと撫でてくれたのを覚えている。どれもニールにとって温かな手で大好きだった。
今になって思えば、ニールの生家は愛情深い家庭だったのだろう。どこにでもあるような一般家庭だが、時々喧嘩したりしつつも仲の良い家族だった。弟のライルは少し気難しいところもあるが、それでもかけがえのない兄弟で、それは向こうにとっても同じはずだ。
しかし、今はどうだ。両親と妹は二度と会えず、生き残った弟にも顔向けできない。
感傷的になっている事に気付いたニールは胸中の感傷を振り払うように撫でていた手を払った。
痛む傷を堪えるように内心を隠し、違和感を感じとれないよう笑顔で取り繕う。
先程まで心地よかった手の感触が不思議な事に今はただ不快でしかない。
「もう気が済んだだろ?俺も恥ずかしいし、さ」
しかし、一回り小さな手がニールの頭を追いかけてくる。
「やめてくれ……。やめろよ……っ」
声に湿っぽいものが滲む。ここで退いてくれればいいのにという思いも虚しく、ほっそりとした手はまた伸びてくる。
なんで懲りないんだ。空気読んでくれ。
そう思いながら必死に平静を保とうとしても次々溢れ出す感情は止められない。
何度目かの攻防でついに彼は【人当たりがよく、面倒見のいい長男】としての仮面をかなぐり捨てた。
父からの女性には優しくという教訓も頭から消えていた。
「っさっきから何したいんだよ、お前……っ!やめろって言ったの聞こえなかったか?いいから放っておけよっ!」
思いの丈をぶちまけたニールは収まりのつかない感情に肩で息を切らせている。友人達や弟妹との喧嘩でもここまで感情を剥き出しにした事はなかった。
ここにいるのは復讐のため牙を研ぐのとライルが生きるための金を稼ぐのに都合がいいからだ。素性も知らない少女の、意図も分からない行為に付き合うためではない。
血の昇った状態からふと我に返ると感情の乏しい目が大きく揺れていた。ゆらゆらと、不安定に揺れる淡い紫の瞳がじわりと潤み、何かの拍子で決壊する寸前の危うさがある。
いつもなら歳不相応に落ち着き払っている少女の呆然とした姿に罪悪感が湧き上がる。妹とそう変わらない年齢の相手に怒りをぶつけてしまった。
ショックを受けていたシエルはおもむろに目を伏せる。それがいっそう悲しげに見えて、傷つけてしまったのではないかとニールの罪悪感を煽った。
「ごめんなさい」
月明かりで薄ぼんやりとした室内の中、眼前の少女は歯痒そうに唇を結んでいる。思いを表現する事を殊更不得手とする少女は自分の中から言葉をかき集めるように視線を彷徨わせながら言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい。でも、苦しそうなのに放ってはおけなくて」
私が怪我をした時にあなたが付き添ってくれたのが嬉しかったから、見過ごせなかった。そう、震える声で言う。
「あなたの苦しみを和らげたいのにどうしたらいいか分からない。ニールがしてくれたようにはできなかった」
ああ、とニールはようやく合点がいった。先ほどの執拗な手は彼女にした行動をそのまま真似ていたのか、と。
同行者からもワケありと称されるほど浮世離れした少女が、経験を元に自分なりに元気づけようとしていたのだ。
ごめんなさい、と再度謝罪を口にする。
「俺も、悪かった。みっともねえところなんか出したくなかった」
「どうして?」
「情けないだろ?」
「そうなんですか……?」
シエルがくるまっている毛布ごと抱きしめる。正確には縋りつく、の方が正しいのかもしれない。身動ぎする毛布に顔を埋める。
「怖い夢を見たんだ」
掠れた声で言うと、身を起こしたシエルの白い顔が覗き込んでいた。月明かりの中で見るオーキッド色の瞳はどこか物憂げに見えて、思わず一瞬見惚れる。一方のシエルは肩からずり落ちた毛布を引っ張ってニールを包み込んだ。
あの日以来、人恋しくなっては同じ部屋で眠るシエルの体温を求めて潜り込むようになった。
最初は手を繋いで眠るだけ。時折互いに背を向け、背中に体温を感じる程度だった。けれど、それだけでは物足りなくなってきた。背中越しの体温をもっと感じたくて体を反転させる。そして向き合う形で細身の体を抱きしめた。少し驚いたように強ばっていた体から少しずつ力が抜け、躊躇いながらも背中に腕が回される。それでいいという気持ちを込めて頬にキスをする。またわずかに強ばる体から人との接触に不慣れな様子が見て取れて可愛らしかった。
「今のはハグとチークキスっていう親愛表現の一種だ。手を繋いだりするのと同じ」
「そうなんですね」
「でも、だからっておっさんにはやるなよ。もっと親密な……そう、俺とお前くらいの関係じゃないと」
「私とニールは親密なんですか?」
「当たり前だろ?俺達はバディで、特別だ」
首を傾げながらもそういうものなのかと受け入れる少女を改めて抱きしめるとそっと背中に手を回す気配がある。
その日以降、ニールはかけがえのない温かさを手に入れた。
依頼を終えた報告ののち、ロレンスから個別に声をかけられる機会があった。シエルの療養中単独で引き受けていたのをきっかけにニールは実質独り立ちを果たした。必要があればバディとして活動するが、狙撃手としての技量を必要とされる場面の多くは引き金ひとつで終えられる事が多かった。
その分空いた時間にスキンシップを重ねる事が増え、夜も寄り添う形で眠る機会は増えていたのだが、そんな中唐突に呼びつけられた。
ニールが感じた不穏な空気は彼の想定通りだった。
「お前らが夜な夜な何やってようと俺には関係無い。でもこれだけは言わせろ。」
腕を組み、真正面から見据える眼光は鋭い。
「今のお前ははっきり言って異常だ。あんなガキに縋るくらいなら医者を頼れ」
「なっ……!」
「いい加減察しがついているだろうが、縋られているやつもまともな育ち方をしていない。情緒も未発達でお前の抱えるものを受け止め切れない未熟者だ。このままだとお前もろとも歪むぞ」
「……少なくともアンタよりはまともだと思うけどな」
「これだから自覚のないガキは」
言うなり大きくため息をついたかと思えば、今度は何かを投げつけられた。手のひらに収まるサイズのそれは見慣れないパッケージだが、すぐに何かは察する事ができた。
こんなものを寄越した事と理由にカッと熱くなる。
「おい!これ……っ」
「お前らがどうなろうと勝手だが避妊くらいはしておけ」
「はぁ!?」
言ってやりたい事は数あれど、投げつけられたものの正体を受け止めきれていないニールの心境はどれも言葉にならず口をパクパクとさせるしかない。
「あんた、何考えてんだ」
「こちらの台詞だが?あの貧相な体に欲情するとも思えんが念の為だ。お前くらいの年齢は抑えもきかんだろう」
もっとも、その様子では要らん心配かもしれんが。
鼻で笑う中年の男に顔を赤らめながらも投げつけられたパッケージを握りしめた。
その夜、もはや恒例となったハグを手を広げて待つシエルに対して気まずさが勝ったニールはあえて頭を撫でるだけで隣に蹲った。ポケットの中で握りしめたパッケージの感触がニールの頭を冷やしていく。
「今日はさ、肩寄せあって眠るくらいにしようぜ」
ロレンスの言葉通り、彼はシエルに縋ろうとしていた。前よりも親密になったからと言って、スキンシップの先にあるかもしれないものまで考えられずにいた。
最初は本当に人肌が恋しくて、相棒とも言える存在に安心感を求めただけだった。そこにやましい感情はない。だが、スキンシップが増えてくるにつれてシエルを異性と認識するようになったのも事実だ。
「今日は添い寝だけでいいんですか?」
「まあな。今まではその、特別だろうと距離感がバグっていたというか。添い寝も大概なんだけど慣れちまって……でも、嫌な事はしない。ごめんな」
親愛の形には違いないが、相手の理解が及んでいないのをいい事に距離感を誤ってしまった。
今更ながらに罪悪感を感じながら頭を下げると彼女は不可解なものを見るような目でこちらを見つめ返してきた。
当然だろう、彼女の中で一連のスキンシップは親愛の証と学んでいるのだから。
「なぜ謝るんですか?」
「俺の中でシエルの存在って前より大切なものになっててさ、だから感情に任せて行動してしまったんだけど無責任だったなと反省してる。これからはもっと大事にしたいと思ったから、やりすぎなスキンシップは考え直す事にしたんだ」
「……よく分からない……、同意があればハグをしてもいいという事?」
「そりゃ、いやでも俺達男と女だし」
「男と女だとダメなんですか?」
「…………俺もよく分かんなくなってきた」
頭を抱えたくなってきた時、ふわりと温もりに包まれた。なんで、と思わず漏れた言葉に「今のニールには必要そうに見えたから」と言いながら頭を撫でる。
「っ……、今日は肩寄せあって寝るだけ、のはずだったのにな」
「私は構いません。ニールからのものなら受け入れてもいいと思えますから」
かつてと違い言葉自体に温かみを伴っているが、シエルはやはりどこか危うい。情緒面では純粋故にニール次第では如何様にも転んでしまいそうなのだ。自分がしっかりとラインを引かねばと思いながらも、与えられる温もりに抗いきれずにいる自分がどこか情けなく感じてしまうのであった。
劣悪な環境に身を置いているのならば尚更だ。繁華街の一角にある雑居ビルでニールは目を覚ました。セーフハウスとして使い始めて日が浅いこの物件は未だ住み心地がいいとは言い難い。前の拠点から持ち出せた物資は限られており、ベッドと言えるものも粗末なものだ。
そして、見張りのローテーション通りに眠るのが決まりだった。コンクリートの壁に背を預けた体勢で毛布にくるまって眠るので寝心地は最悪に近い。
元々一般家庭育ちで環境が変わってから徐々に溜まっていた疲れやストレスがニールの精神を日に日に疲弊していくのも無理からぬ事だった。
暗く、埃っぽい室内はかつて家族と過ごした温かな夜には程遠い。けれど家族との思い出が色濃く残る実家に戻るという選択肢はないに等しかった。がらんと静まり返った家で夜を過ごすのは孤独を強く実感してしまい、逆に気が休まらない。家族との思い出が詰まった家だからこそ、喪失に追い詰められていくのが怖かった。
家族を失った時に感じた血の気が失せていく感覚と、体の内側から焼かれるような激情は今もじりじりと燻り続けている。
――いつか業火となって自分自身を焼き尽くすのだろう。その前に虚無感に蝕まれて精神をやられてしまう方が先かもしれない。
部屋の隅で何かが動いた気配がして、ニールは身を強ばらせた。気配は足音を殺してこちらに近寄ってくる。誰なのか考えるまでもない。憂鬱を覆い隠し、いつも彼女と接する時の自分を装った。
――大丈夫。本心を隠して他人と接するのは得意な方だ。
そう言い聞かせて顔を上げると、やはり予想した通りの小柄なシルエットが見下ろしていた。
月明かりを受けてほんの少しだけ表情が見える。肩からすっぽりと毛布を被った少女の表情はいつも通り涼やかで、数日前まで脂汗を滲ませて苦しんでいたとは思えない。
看護して以来すっかり懐いた様子のシエルだが、ニールは未だ壁を介して接しているような心境だった。ただし当初のようにシエル側に壁があるわけではなく、ニール側の問題だった。人当たりよく接し、死線を共にした相棒にも未だ自分の抱えている闇を明かす気にはなれずにいた。
「どうした?傷、まだ痛むか?」
ニールの呼びかけに対して少女は何かを案じるような顔つきで首を横に振る。
「痛いのはニールの方では?」
「えーっと……あれか、おっさんに投げられた時の打ち身か?それとも腕ねじり上げられた時?どっちにせよそんなひどくなってねえよ」
ぐるぐると腕を回しておどけてみせるが、淡い色の瞳は真意を探るかのようにニールを観察する。あまりにも真っ直ぐな視線を受け止めながらもニールは居心地の悪さを感じていた。
「二人して起きてたら意味ないだろ?交代時間に寝坊したらおっさんにどやされるし寝ようぜ」
会話を切り上げようとしたニールの言葉にひとつ頷いたかと思えば隣に腰を下ろす。もぞもぞと首元まで毛布を被り直す気配に少女が人の機微を汲み取れないきらいがある事を思い出した。
「いや、そうじゃなくて自分の寝床でな」
「ここがいい」
そう言いきられては断りづらい。どうしたものかと目を伏せた時、ニールの頭にシエルの手が添えられた。
「お返ししようと思って」
「なんのだよ」
「熱を出した時そばにいてくれたから、お返し」
「あんなのどうって事ないだろ?」
しかし、一度乗せられた手は退く気配がない。ゆるやかなくせ毛をぎこちない手つきで撫でていく。意図は分からないもののそれで気が済むのならと目を閉じた。
撫でられる感触に記憶が引きずられる。父や母が頭を撫でてくれた思い出で真っ先に浮かんだのはスポーツ射撃の大会で優勝した時の事だ。父は大きな手のひらで髪をぐしゃぐしゃにするくらい喜んでいて、母はこれまでの努力を労わるように優しく撫でてくれた。妹のエイミーも便乗してすごい、すごいと撫でてくれたのを覚えている。どれもニールにとって温かな手で大好きだった。
今になって思えば、ニールの生家は愛情深い家庭だったのだろう。どこにでもあるような一般家庭だが、時々喧嘩したりしつつも仲の良い家族だった。弟のライルは少し気難しいところもあるが、それでもかけがえのない兄弟で、それは向こうにとっても同じはずだ。
しかし、今はどうだ。両親と妹は二度と会えず、生き残った弟にも顔向けできない。
感傷的になっている事に気付いたニールは胸中の感傷を振り払うように撫でていた手を払った。
痛む傷を堪えるように内心を隠し、違和感を感じとれないよう笑顔で取り繕う。
先程まで心地よかった手の感触が不思議な事に今はただ不快でしかない。
「もう気が済んだだろ?俺も恥ずかしいし、さ」
しかし、一回り小さな手がニールの頭を追いかけてくる。
「やめてくれ……。やめろよ……っ」
声に湿っぽいものが滲む。ここで退いてくれればいいのにという思いも虚しく、ほっそりとした手はまた伸びてくる。
なんで懲りないんだ。空気読んでくれ。
そう思いながら必死に平静を保とうとしても次々溢れ出す感情は止められない。
何度目かの攻防でついに彼は【人当たりがよく、面倒見のいい長男】としての仮面をかなぐり捨てた。
父からの女性には優しくという教訓も頭から消えていた。
「っさっきから何したいんだよ、お前……っ!やめろって言ったの聞こえなかったか?いいから放っておけよっ!」
思いの丈をぶちまけたニールは収まりのつかない感情に肩で息を切らせている。友人達や弟妹との喧嘩でもここまで感情を剥き出しにした事はなかった。
ここにいるのは復讐のため牙を研ぐのとライルが生きるための金を稼ぐのに都合がいいからだ。素性も知らない少女の、意図も分からない行為に付き合うためではない。
血の昇った状態からふと我に返ると感情の乏しい目が大きく揺れていた。ゆらゆらと、不安定に揺れる淡い紫の瞳がじわりと潤み、何かの拍子で決壊する寸前の危うさがある。
いつもなら歳不相応に落ち着き払っている少女の呆然とした姿に罪悪感が湧き上がる。妹とそう変わらない年齢の相手に怒りをぶつけてしまった。
ショックを受けていたシエルはおもむろに目を伏せる。それがいっそう悲しげに見えて、傷つけてしまったのではないかとニールの罪悪感を煽った。
「ごめんなさい」
月明かりで薄ぼんやりとした室内の中、眼前の少女は歯痒そうに唇を結んでいる。思いを表現する事を殊更不得手とする少女は自分の中から言葉をかき集めるように視線を彷徨わせながら言葉を紡ぐ。
「ごめんなさい。でも、苦しそうなのに放ってはおけなくて」
私が怪我をした時にあなたが付き添ってくれたのが嬉しかったから、見過ごせなかった。そう、震える声で言う。
「あなたの苦しみを和らげたいのにどうしたらいいか分からない。ニールがしてくれたようにはできなかった」
ああ、とニールはようやく合点がいった。先ほどの執拗な手は彼女にした行動をそのまま真似ていたのか、と。
同行者からもワケありと称されるほど浮世離れした少女が、経験を元に自分なりに元気づけようとしていたのだ。
ごめんなさい、と再度謝罪を口にする。
「俺も、悪かった。みっともねえところなんか出したくなかった」
「どうして?」
「情けないだろ?」
「そうなんですか……?」
シエルがくるまっている毛布ごと抱きしめる。正確には縋りつく、の方が正しいのかもしれない。身動ぎする毛布に顔を埋める。
「怖い夢を見たんだ」
掠れた声で言うと、身を起こしたシエルの白い顔が覗き込んでいた。月明かりの中で見るオーキッド色の瞳はどこか物憂げに見えて、思わず一瞬見惚れる。一方のシエルは肩からずり落ちた毛布を引っ張ってニールを包み込んだ。
あの日以来、人恋しくなっては同じ部屋で眠るシエルの体温を求めて潜り込むようになった。
最初は手を繋いで眠るだけ。時折互いに背を向け、背中に体温を感じる程度だった。けれど、それだけでは物足りなくなってきた。背中越しの体温をもっと感じたくて体を反転させる。そして向き合う形で細身の体を抱きしめた。少し驚いたように強ばっていた体から少しずつ力が抜け、躊躇いながらも背中に腕が回される。それでいいという気持ちを込めて頬にキスをする。またわずかに強ばる体から人との接触に不慣れな様子が見て取れて可愛らしかった。
「今のはハグとチークキスっていう親愛表現の一種だ。手を繋いだりするのと同じ」
「そうなんですね」
「でも、だからっておっさんにはやるなよ。もっと親密な……そう、俺とお前くらいの関係じゃないと」
「私とニールは親密なんですか?」
「当たり前だろ?俺達はバディで、特別だ」
首を傾げながらもそういうものなのかと受け入れる少女を改めて抱きしめるとそっと背中に手を回す気配がある。
その日以降、ニールはかけがえのない温かさを手に入れた。
依頼を終えた報告ののち、ロレンスから個別に声をかけられる機会があった。シエルの療養中単独で引き受けていたのをきっかけにニールは実質独り立ちを果たした。必要があればバディとして活動するが、狙撃手としての技量を必要とされる場面の多くは引き金ひとつで終えられる事が多かった。
その分空いた時間にスキンシップを重ねる事が増え、夜も寄り添う形で眠る機会は増えていたのだが、そんな中唐突に呼びつけられた。
ニールが感じた不穏な空気は彼の想定通りだった。
「お前らが夜な夜な何やってようと俺には関係無い。でもこれだけは言わせろ。」
腕を組み、真正面から見据える眼光は鋭い。
「今のお前ははっきり言って異常だ。あんなガキに縋るくらいなら医者を頼れ」
「なっ……!」
「いい加減察しがついているだろうが、縋られているやつもまともな育ち方をしていない。情緒も未発達でお前の抱えるものを受け止め切れない未熟者だ。このままだとお前もろとも歪むぞ」
「……少なくともアンタよりはまともだと思うけどな」
「これだから自覚のないガキは」
言うなり大きくため息をついたかと思えば、今度は何かを投げつけられた。手のひらに収まるサイズのそれは見慣れないパッケージだが、すぐに何かは察する事ができた。
こんなものを寄越した事と理由にカッと熱くなる。
「おい!これ……っ」
「お前らがどうなろうと勝手だが避妊くらいはしておけ」
「はぁ!?」
言ってやりたい事は数あれど、投げつけられたものの正体を受け止めきれていないニールの心境はどれも言葉にならず口をパクパクとさせるしかない。
「あんた、何考えてんだ」
「こちらの台詞だが?あの貧相な体に欲情するとも思えんが念の為だ。お前くらいの年齢は抑えもきかんだろう」
もっとも、その様子では要らん心配かもしれんが。
鼻で笑う中年の男に顔を赤らめながらも投げつけられたパッケージを握りしめた。
その夜、もはや恒例となったハグを手を広げて待つシエルに対して気まずさが勝ったニールはあえて頭を撫でるだけで隣に蹲った。ポケットの中で握りしめたパッケージの感触がニールの頭を冷やしていく。
「今日はさ、肩寄せあって眠るくらいにしようぜ」
ロレンスの言葉通り、彼はシエルに縋ろうとしていた。前よりも親密になったからと言って、スキンシップの先にあるかもしれないものまで考えられずにいた。
最初は本当に人肌が恋しくて、相棒とも言える存在に安心感を求めただけだった。そこにやましい感情はない。だが、スキンシップが増えてくるにつれてシエルを異性と認識するようになったのも事実だ。
「今日は添い寝だけでいいんですか?」
「まあな。今まではその、特別だろうと距離感がバグっていたというか。添い寝も大概なんだけど慣れちまって……でも、嫌な事はしない。ごめんな」
親愛の形には違いないが、相手の理解が及んでいないのをいい事に距離感を誤ってしまった。
今更ながらに罪悪感を感じながら頭を下げると彼女は不可解なものを見るような目でこちらを見つめ返してきた。
当然だろう、彼女の中で一連のスキンシップは親愛の証と学んでいるのだから。
「なぜ謝るんですか?」
「俺の中でシエルの存在って前より大切なものになっててさ、だから感情に任せて行動してしまったんだけど無責任だったなと反省してる。これからはもっと大事にしたいと思ったから、やりすぎなスキンシップは考え直す事にしたんだ」
「……よく分からない……、同意があればハグをしてもいいという事?」
「そりゃ、いやでも俺達男と女だし」
「男と女だとダメなんですか?」
「…………俺もよく分かんなくなってきた」
頭を抱えたくなってきた時、ふわりと温もりに包まれた。なんで、と思わず漏れた言葉に「今のニールには必要そうに見えたから」と言いながら頭を撫でる。
「っ……、今日は肩寄せあって寝るだけ、のはずだったのにな」
「私は構いません。ニールからのものなら受け入れてもいいと思えますから」
かつてと違い言葉自体に温かみを伴っているが、シエルはやはりどこか危うい。情緒面では純粋故にニール次第では如何様にも転んでしまいそうなのだ。自分がしっかりとラインを引かねばと思いながらも、与えられる温もりに抗いきれずにいる自分がどこか情けなく感じてしまうのであった。
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