潜伏編
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その日、ニールは個人経営のディスカウントストアを訪ねていた。この店で買うものは決まっている。目的の商品を手に取り、レジへと持っていくと応対した店主が手のひら大のマッチ箱を添えてきた。見ようによってはキャンディなどが入った箱にも見える。
「オマケ。持っていきな」
「どうも」
ここの店主はディスカウントストアを営む一方で非合法な仕事を斡旋する仲介屋でもあった。符号としてロレンスからの連絡事項がある時はこうしてアナログな手段で寄越してくる。箱を開けると中には二つ折りの紙切れ一枚。開けば数字の羅列が綴られている。これは彼らと組んでから覚えさせられた暗号で、それぞれの数字にアルファベットが対応する。そこには拠点を移したとだけ書かれていた。
気まぐれで拠点を移すなど滅多にない。
すなわち緊急事態を暗示していた。
暗号文で指定されていた地区にあるセーフハウスへ向かうと、粗末な寝床に横たえられたシエルと臨戦態勢のまま座るロレンスがいた。
「大丈夫か!?」
「騒ぐな。ようやく眠ったところだ」
ニールが声を上げても華奢な体はぐったりとしたまま身動ぎもしない。色白の肌はさらに血の気を失い、もはや蒼白に近かった。時折呻き声の混じる呼吸はか細く苦しげで、一層ニールの不安を煽る。
「処置は施した。命に関わる事はない。こいつの抱えてた依頼は俺とお前で分担する事になる」
「それだけか」
「以上だ」
目の前の男はどこまでも冷静かつ簡潔だ。情を求めずビジネスライクな付き合いに徹するのがお互いに利益をもたらす。そう分かっていても感情が追いつかない。
数ヶ月バディとして組んだ相手が負傷して苦しんでいる。そんな光景を前にしてビジネスに徹する事ができるほどニールは擦れきってもいなければ冷酷でもなかった。
「連れがこんな目に遭ってるのに言う事はそれだけなのか?」
「復帰するまで療養に徹し、以降は事態の再発防止に取り組ませる」
「そうじゃないだろ!」
ニールの声は怒りで震えていた。いつものロレンスへの反発心だけではなく、苦しむ怪我人への無情な扱いに憤っていた。名前や食事の件でも不審に思っていたが、やはりろくな人間ではないのかもしれない。最近は見直しかけていたというのに、と裏切られたような思いで男を見上げる。
「それでも保護者だろ?責任を全うしろ」
「責任は果たしたつもりだが?治療を受けさせて安静にさせる。それでも足りないと?」
「最低限の責任は果たしてるかもな。でも、それは赤点ギリギリの対応だ」
ロレンスの理屈は正論だが冷えきっている。
確かにニール達が身を置く社会ではそのまま見捨てられてもおかしくはない。連れ帰り、処置を施しているだけ責任は果たしているという見方もできる。
実際、ニールには分からずとも彼らの間にも情のようなものがあるのかもしれないと感じた事もあった。それでも、家族の温かさを知るニールには冷え切った関係として映っていた。
以前から幾度も考えてきた事だが、この二人の関係はどこか歪んでいる。感情の起伏も乏しい少女がロレンスへの不平不満を漏らす場面は見た事はなく、内心であの男をどう思っているのかも分からない。
ニールが憂さ晴らしで陰口を叩こうと肯定も否定もせず、不必要な干渉をしない冷淡な関係性が腹立たしかった。
血気逸るままに彼は宣言した。
「あんたが何もしないんなら俺が面倒を見る」
「馬鹿を言え。こいつが動けない間、代わりの仕事をこなすのが先だ」
「なら両方やってやるよ。不甲斐ないおっさんの代わりにこの子を看病するし、仕事もこなしてみせる」
碧眼に覚悟を宿したニールがそう宣言するのを男は冷ややかな眼差しで見つめていた。温度を感じない視線の主が何を考えているかなど彼には到底推し量れない。
だからこそ、今できることをやるのみだと心に決め、彼は運んできた荷物を下ろして看病の準備に取り掛かった。
◇
M-021。それはかつて少女に割り振られていた識別番号だ。イオリア計画を牽引するイノベイターをモデルに造られた一連のデザインベビーシリーズは殉教に因んだコードとナンバーが与えられている。
人とイノベイドのどちらをマイスターに採用するかヴェーダが判じかねていた時期に動き出したプロジェクトだった。イノベイターを模したイノベイドを参考にデザインベビーを造る。
捻れ、歪んだ思想から生まれたイノベイドとイオリア計画のため命を散らす者たち。初めは崇高な計画のため生み出された彼らだったが、その様相は少しずつ変質していった。
ガンダムに見合うより高水準な部品を造り出す方向へと。崇高な理念とは次第にかけ離れていき、利権争いに転用できる駒として調整されるようになった。ヴェーダによる統制でより制御された素体を造る。出資者達の歪んだ願望を映すように実験は不穏さを帯びていったのだった。
中でも高水準なパイロット適正と脳量子波のコントロールに長けた素体としてM-021は数々の実験をこなしていた。
ヴェーダによってダウンロードされた知識と行動理念を基に彼らは訓練をこなし、研磨されていく。その最中に壊れてしまう個体もあったが、研究者達はその度に彼らを淡々と処分していた。狂った世界がM-021の日常だった。
気がつくとM-021は試験機のコクピットに座っていた。一通り周囲に視線を巡らせるが違和感はない。研究施設にいた頃の記憶が夢として再現されているのだろう。
「やあ、初めまして」
聞き覚えのない柔らかな声音が脳に直接響く。ここの研究員も、指導役のエージェントさえ一度も脳量子波による意識接触をしてきた事はないというのに。そう思うとくすくすと脳をくすぐるようなさざめきが伝わってきた。
「彼らに脳量子波は使えないからね」
あなたは使えるのに?
脳裏に浮かんだ些細な思考も彼は逃さず掬い取る。
「僕は特別だからさ。君も僕に造られたから使えるんだよ」
表現から察するに彼も研究員なのだろうか。
「いいや、僕は君達の創造主だ。僕は君達を崇高な計画のために造ったというのに人間達は私欲を出し始めた。嘆かわしい事だよ」
柔らかな声音は人間への失望と落胆、そして侮蔑に満ちていた。しかし、それらの感情は一瞬で消え去った。
「でも、それも今日で終わりだ。必要なデータは全て吸い上げた。お疲れ様、君達に最後の役目をあげよう。本研究の終了措置だ」
柔らかな声の指示と共にヴェーダからデータファイルを受信する。研究施設内の見取り図と詳細なプランが表示された。
「ヴェーダから送られたプロセス通りに行えば問題ないよ。君の能力ならできるだろう?」
「終了措置を終えたらどうなるのですか?」
「面白い事を聞くね」
相手の顔も見えないのに何故か笑みを浮かべているようなイメージが思い浮かぶ。
「でも僕が言ってしまうと面白くないな。君自身の目で確かめてみるといい」
さあ、と声に促されてガンダムを起動する。スクリーンに映し出された、制御室からこちらをモニターする研究員達へとレティクルを合わせる。そうして、兵器による凄惨な蹂躙が始まった。
◇
ひやりとした感触を感じてシエルは瞼を震わせる。
うっすらと薄紫の双眸を開くとぼやけた灰色があった。覚えのない天井だ。視線がゆっくりと彷徨い、やがてニールに焦点が合う。
「悪い。水気切ったつもりだったんだけど足りなかったか?」
覗き込む彼に返答しようにも言葉にならず、出てくるのは重いため息ばかりだ。
「無理して喋らなくていい。腹減ってないか?こんな場所じゃ点滴も打てないから栄養補給できそうなもの買ってあるんだ。食べたくなったら言ってくれよ」
シエルはいつものように彼をじっと見つめる。この少年と行動を共にするようになって以降、理屈に沿わない行動ばかりを取る彼を理解するため観察するようになった。
ニールの観察はもはやシエルの癖のようなものになっていた。
何故ニールは自分に構うのだろう。シエルが請け負っていた分の依頼もロレンスやニールにもしわ寄せがいって疲れが溜まっているはずなのに、邪険にする様子もない。現状足でまといな自分がここまで至れり尽くせりな対応をされる理由が分からなかった。
構わなくていい。そう伝えたくて手を払おうとしたら「動くと傷に障るぞ」と手を体の横に戻されてしまう。
「ニール」
「どうした?」
「何故こんな事を?」
「怪我や病気で伏せっていると心も弱るんだ。そんな時に誰かいてくれた方が気も紛れるだろ」
「それより自分の疲労回復を優先してください」
「水臭い事言うなよ。最近は一人も多いけど、俺達は相棒だろ?」
励ますように頭を撫でてくる手のひらが温かかった。
自由に身を動かせないので手を伸ばす事もできないが、与えられた熱に張り詰めていた心の糸が緩んでいくのを感じながら瞼がゆっくりと落ちていく。とろとろと眠気に侵食されていく感覚に身を委ねた。
◇
数日後、何度も繰り返し見る夢から目を覚ますと辺りは暗かった。
看護の途中で寝落ちてしまったのか薄いマットレスに身を預けるようにして寝息を立てている。自分にかけられていた毛布をニールにかけてゆっくりと立ち上がる。鎮痛剤が切れかけているのか、動くと体に響くような痛みを感じたものの、我慢出来ないほどではない。
銃撃を受けてわずか数日で動けるようになる回復力は異様なものだったが、ここにそれを指摘できる人間はいなかった。
マットレスから這い出た少女が暗闇の中で微動だにせず椅子に腰かけている男に声をかける。
「ロレンス」
少女は男の名を呼ぶ。男は研究施設で少女の教官を務めていた。MSに搭載する部品としてだけではなく、工作員として仕上げる欲を見せた権力者達から調教師として雇われていた。
「回復してきたか」
「まだ好調とは言いがたいですが、おかげさまで。ご迷惑をおかけしています」
「構わん。半分はそのガキに押し付けている」
顎でニールを指すとロレンスは懐をまさぐり、目的のものがない事に舌打ちした。習慣だった煙草は潜伏生活が始まってから禁煙を余儀なくされてしまっていた。露悪的な態度を通している男だが、まだ未熟なニールの手に負える範囲を選別しているだろう。それ以上の練度を求められるものは彼が片付けているはずだ。
「感謝します」
「だったら早く復帰するんだな」
立ち上がれるまでに回復したシエルを一通り眺めた男は忌々しげに眉をひそめた。
「ナノマシンを流し込めば短期間での治癒が可能とは便利な肉体だ。倫理も人道もあったもんじゃない。お偉方が利権争いの道具にしようとしたのも道理か」
「ありがとうございます」
「皮肉だ。そのくらい理解しろ」
「勉強になります」
「あいつに感化されて少しは学んだかと思ったが、まだまだだな」
その言葉に導かれるようにして彼女はマットレスに投げ出されていたニールの手を取る。この温もりが病床のシエルを元気づけてくれていた。高熱にうなされて意識が朧げな時でもニールの存在を感じる度、シエルの胸には温かな火が灯るような不思議な感覚があった。
「ロレンス、質問をしても?」
手で促したロレンスへと言葉を重ねる。
「彼はなぜここまでしてくれたのでしょうか」
教導者の返答は「さてな」とつれない。
「普通の家庭で育ったこいつにとって弱った奴は見捨てられなかったのかもしれんし、お前に死んだ妹とやらを重ねたのかもしれん」
どちらにせよ答えはニールにしか分からない。彼も正直に打ち明けはしないだろう。互いに利益があるからこその繋がりでしかないのだから。そう理解したうえで、シエルはニールの献身に感じ入っていた。
「ロレンス、率直な意見を聞かせてください」
男は言葉でなく手振りで続きを促す。
「私は彼の献身に応えたい。この人が私にくれた分の恩を返したい。これは互恵関係を逸脱した感情でしょうか」
「その通りだ。そんなものは生きる上でなんの足しにもならん。捨ててしまえ」
何処までも現実的な保護者の返答は実にシビアなものだった。慣れ親しんだ冷たさに戻ってきたのだと感慨を感じながら、シエルは傍らで眠るニールの横顔を見つめ続けている。
「それでも、私はこの人の優しさに報いたい」
「……報いたい、か。お前がそんな事を言い出したと知ったら研究所の奴らは泡を食ったような狂乱ぶりだっただろうな」
光景を思い浮かべたのか、滅多に上がらない口角を上げて皮肉げに笑う。そんな彼の感情は未熟な感受性では分析しきれなかった。
立案者も権力者達もMSのパーツに人間らしい機微を求めなかった。スポンサーからの要望に仕事として従ったロレンスに、人として欠けたまま成長したシエル。彼らの基準では今回生じた感情というものを理解するのは難しかった。
「芳しくない、という事ですか」
「誰にも分からん。その気持ちが正しいかは自分で決めろ」
「オマケ。持っていきな」
「どうも」
ここの店主はディスカウントストアを営む一方で非合法な仕事を斡旋する仲介屋でもあった。符号としてロレンスからの連絡事項がある時はこうしてアナログな手段で寄越してくる。箱を開けると中には二つ折りの紙切れ一枚。開けば数字の羅列が綴られている。これは彼らと組んでから覚えさせられた暗号で、それぞれの数字にアルファベットが対応する。そこには拠点を移したとだけ書かれていた。
気まぐれで拠点を移すなど滅多にない。
すなわち緊急事態を暗示していた。
暗号文で指定されていた地区にあるセーフハウスへ向かうと、粗末な寝床に横たえられたシエルと臨戦態勢のまま座るロレンスがいた。
「大丈夫か!?」
「騒ぐな。ようやく眠ったところだ」
ニールが声を上げても華奢な体はぐったりとしたまま身動ぎもしない。色白の肌はさらに血の気を失い、もはや蒼白に近かった。時折呻き声の混じる呼吸はか細く苦しげで、一層ニールの不安を煽る。
「処置は施した。命に関わる事はない。こいつの抱えてた依頼は俺とお前で分担する事になる」
「それだけか」
「以上だ」
目の前の男はどこまでも冷静かつ簡潔だ。情を求めずビジネスライクな付き合いに徹するのがお互いに利益をもたらす。そう分かっていても感情が追いつかない。
数ヶ月バディとして組んだ相手が負傷して苦しんでいる。そんな光景を前にしてビジネスに徹する事ができるほどニールは擦れきってもいなければ冷酷でもなかった。
「連れがこんな目に遭ってるのに言う事はそれだけなのか?」
「復帰するまで療養に徹し、以降は事態の再発防止に取り組ませる」
「そうじゃないだろ!」
ニールの声は怒りで震えていた。いつものロレンスへの反発心だけではなく、苦しむ怪我人への無情な扱いに憤っていた。名前や食事の件でも不審に思っていたが、やはりろくな人間ではないのかもしれない。最近は見直しかけていたというのに、と裏切られたような思いで男を見上げる。
「それでも保護者だろ?責任を全うしろ」
「責任は果たしたつもりだが?治療を受けさせて安静にさせる。それでも足りないと?」
「最低限の責任は果たしてるかもな。でも、それは赤点ギリギリの対応だ」
ロレンスの理屈は正論だが冷えきっている。
確かにニール達が身を置く社会ではそのまま見捨てられてもおかしくはない。連れ帰り、処置を施しているだけ責任は果たしているという見方もできる。
実際、ニールには分からずとも彼らの間にも情のようなものがあるのかもしれないと感じた事もあった。それでも、家族の温かさを知るニールには冷え切った関係として映っていた。
以前から幾度も考えてきた事だが、この二人の関係はどこか歪んでいる。感情の起伏も乏しい少女がロレンスへの不平不満を漏らす場面は見た事はなく、内心であの男をどう思っているのかも分からない。
ニールが憂さ晴らしで陰口を叩こうと肯定も否定もせず、不必要な干渉をしない冷淡な関係性が腹立たしかった。
血気逸るままに彼は宣言した。
「あんたが何もしないんなら俺が面倒を見る」
「馬鹿を言え。こいつが動けない間、代わりの仕事をこなすのが先だ」
「なら両方やってやるよ。不甲斐ないおっさんの代わりにこの子を看病するし、仕事もこなしてみせる」
碧眼に覚悟を宿したニールがそう宣言するのを男は冷ややかな眼差しで見つめていた。温度を感じない視線の主が何を考えているかなど彼には到底推し量れない。
だからこそ、今できることをやるのみだと心に決め、彼は運んできた荷物を下ろして看病の準備に取り掛かった。
◇
M-021。それはかつて少女に割り振られていた識別番号だ。イオリア計画を牽引するイノベイターをモデルに造られた一連のデザインベビーシリーズは殉教に因んだコードとナンバーが与えられている。
人とイノベイドのどちらをマイスターに採用するかヴェーダが判じかねていた時期に動き出したプロジェクトだった。イノベイターを模したイノベイドを参考にデザインベビーを造る。
捻れ、歪んだ思想から生まれたイノベイドとイオリア計画のため命を散らす者たち。初めは崇高な計画のため生み出された彼らだったが、その様相は少しずつ変質していった。
ガンダムに見合うより高水準な部品を造り出す方向へと。崇高な理念とは次第にかけ離れていき、利権争いに転用できる駒として調整されるようになった。ヴェーダによる統制でより制御された素体を造る。出資者達の歪んだ願望を映すように実験は不穏さを帯びていったのだった。
中でも高水準なパイロット適正と脳量子波のコントロールに長けた素体としてM-021は数々の実験をこなしていた。
ヴェーダによってダウンロードされた知識と行動理念を基に彼らは訓練をこなし、研磨されていく。その最中に壊れてしまう個体もあったが、研究者達はその度に彼らを淡々と処分していた。狂った世界がM-021の日常だった。
気がつくとM-021は試験機のコクピットに座っていた。一通り周囲に視線を巡らせるが違和感はない。研究施設にいた頃の記憶が夢として再現されているのだろう。
「やあ、初めまして」
聞き覚えのない柔らかな声音が脳に直接響く。ここの研究員も、指導役のエージェントさえ一度も脳量子波による意識接触をしてきた事はないというのに。そう思うとくすくすと脳をくすぐるようなさざめきが伝わってきた。
「彼らに脳量子波は使えないからね」
あなたは使えるのに?
脳裏に浮かんだ些細な思考も彼は逃さず掬い取る。
「僕は特別だからさ。君も僕に造られたから使えるんだよ」
表現から察するに彼も研究員なのだろうか。
「いいや、僕は君達の創造主だ。僕は君達を崇高な計画のために造ったというのに人間達は私欲を出し始めた。嘆かわしい事だよ」
柔らかな声音は人間への失望と落胆、そして侮蔑に満ちていた。しかし、それらの感情は一瞬で消え去った。
「でも、それも今日で終わりだ。必要なデータは全て吸い上げた。お疲れ様、君達に最後の役目をあげよう。本研究の終了措置だ」
柔らかな声の指示と共にヴェーダからデータファイルを受信する。研究施設内の見取り図と詳細なプランが表示された。
「ヴェーダから送られたプロセス通りに行えば問題ないよ。君の能力ならできるだろう?」
「終了措置を終えたらどうなるのですか?」
「面白い事を聞くね」
相手の顔も見えないのに何故か笑みを浮かべているようなイメージが思い浮かぶ。
「でも僕が言ってしまうと面白くないな。君自身の目で確かめてみるといい」
さあ、と声に促されてガンダムを起動する。スクリーンに映し出された、制御室からこちらをモニターする研究員達へとレティクルを合わせる。そうして、兵器による凄惨な蹂躙が始まった。
◇
ひやりとした感触を感じてシエルは瞼を震わせる。
うっすらと薄紫の双眸を開くとぼやけた灰色があった。覚えのない天井だ。視線がゆっくりと彷徨い、やがてニールに焦点が合う。
「悪い。水気切ったつもりだったんだけど足りなかったか?」
覗き込む彼に返答しようにも言葉にならず、出てくるのは重いため息ばかりだ。
「無理して喋らなくていい。腹減ってないか?こんな場所じゃ点滴も打てないから栄養補給できそうなもの買ってあるんだ。食べたくなったら言ってくれよ」
シエルはいつものように彼をじっと見つめる。この少年と行動を共にするようになって以降、理屈に沿わない行動ばかりを取る彼を理解するため観察するようになった。
ニールの観察はもはやシエルの癖のようなものになっていた。
何故ニールは自分に構うのだろう。シエルが請け負っていた分の依頼もロレンスやニールにもしわ寄せがいって疲れが溜まっているはずなのに、邪険にする様子もない。現状足でまといな自分がここまで至れり尽くせりな対応をされる理由が分からなかった。
構わなくていい。そう伝えたくて手を払おうとしたら「動くと傷に障るぞ」と手を体の横に戻されてしまう。
「ニール」
「どうした?」
「何故こんな事を?」
「怪我や病気で伏せっていると心も弱るんだ。そんな時に誰かいてくれた方が気も紛れるだろ」
「それより自分の疲労回復を優先してください」
「水臭い事言うなよ。最近は一人も多いけど、俺達は相棒だろ?」
励ますように頭を撫でてくる手のひらが温かかった。
自由に身を動かせないので手を伸ばす事もできないが、与えられた熱に張り詰めていた心の糸が緩んでいくのを感じながら瞼がゆっくりと落ちていく。とろとろと眠気に侵食されていく感覚に身を委ねた。
◇
数日後、何度も繰り返し見る夢から目を覚ますと辺りは暗かった。
看護の途中で寝落ちてしまったのか薄いマットレスに身を預けるようにして寝息を立てている。自分にかけられていた毛布をニールにかけてゆっくりと立ち上がる。鎮痛剤が切れかけているのか、動くと体に響くような痛みを感じたものの、我慢出来ないほどではない。
銃撃を受けてわずか数日で動けるようになる回復力は異様なものだったが、ここにそれを指摘できる人間はいなかった。
マットレスから這い出た少女が暗闇の中で微動だにせず椅子に腰かけている男に声をかける。
「ロレンス」
少女は男の名を呼ぶ。男は研究施設で少女の教官を務めていた。MSに搭載する部品としてだけではなく、工作員として仕上げる欲を見せた権力者達から調教師として雇われていた。
「回復してきたか」
「まだ好調とは言いがたいですが、おかげさまで。ご迷惑をおかけしています」
「構わん。半分はそのガキに押し付けている」
顎でニールを指すとロレンスは懐をまさぐり、目的のものがない事に舌打ちした。習慣だった煙草は潜伏生活が始まってから禁煙を余儀なくされてしまっていた。露悪的な態度を通している男だが、まだ未熟なニールの手に負える範囲を選別しているだろう。それ以上の練度を求められるものは彼が片付けているはずだ。
「感謝します」
「だったら早く復帰するんだな」
立ち上がれるまでに回復したシエルを一通り眺めた男は忌々しげに眉をひそめた。
「ナノマシンを流し込めば短期間での治癒が可能とは便利な肉体だ。倫理も人道もあったもんじゃない。お偉方が利権争いの道具にしようとしたのも道理か」
「ありがとうございます」
「皮肉だ。そのくらい理解しろ」
「勉強になります」
「あいつに感化されて少しは学んだかと思ったが、まだまだだな」
その言葉に導かれるようにして彼女はマットレスに投げ出されていたニールの手を取る。この温もりが病床のシエルを元気づけてくれていた。高熱にうなされて意識が朧げな時でもニールの存在を感じる度、シエルの胸には温かな火が灯るような不思議な感覚があった。
「ロレンス、質問をしても?」
手で促したロレンスへと言葉を重ねる。
「彼はなぜここまでしてくれたのでしょうか」
教導者の返答は「さてな」とつれない。
「普通の家庭で育ったこいつにとって弱った奴は見捨てられなかったのかもしれんし、お前に死んだ妹とやらを重ねたのかもしれん」
どちらにせよ答えはニールにしか分からない。彼も正直に打ち明けはしないだろう。互いに利益があるからこその繋がりでしかないのだから。そう理解したうえで、シエルはニールの献身に感じ入っていた。
「ロレンス、率直な意見を聞かせてください」
男は言葉でなく手振りで続きを促す。
「私は彼の献身に応えたい。この人が私にくれた分の恩を返したい。これは互恵関係を逸脱した感情でしょうか」
「その通りだ。そんなものは生きる上でなんの足しにもならん。捨ててしまえ」
何処までも現実的な保護者の返答は実にシビアなものだった。慣れ親しんだ冷たさに戻ってきたのだと感慨を感じながら、シエルは傍らで眠るニールの横顔を見つめ続けている。
「それでも、私はこの人の優しさに報いたい」
「……報いたい、か。お前がそんな事を言い出したと知ったら研究所の奴らは泡を食ったような狂乱ぶりだっただろうな」
光景を思い浮かべたのか、滅多に上がらない口角を上げて皮肉げに笑う。そんな彼の感情は未熟な感受性では分析しきれなかった。
立案者も権力者達もMSのパーツに人間らしい機微を求めなかった。スポンサーからの要望に仕事として従ったロレンスに、人として欠けたまま成長したシエル。彼らの基準では今回生じた感情というものを理解するのは難しかった。
「芳しくない、という事ですか」
「誰にも分からん。その気持ちが正しいかは自分で決めろ」