潜伏編
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から風が色白の頬を叩く。じんと染みるような寒さにニールは身体を縮こまらせた。夏のアイルランドは過ごしやすい気候だが、冬の寒さだけはいただけない。底冷えするような寒さと変わりやすい気候は生粋のアイルランド人でも振り回されてしまう。上着や手袋でガードしていても覆えていない耳は寒さで赤くなっているだろう。並んで歩くシエルも同じように体を縮こまらせている。防寒具に顔を埋めて身を固くしている姿はフクロウのようでどこか愛嬌を感じさせた。
「そんなに寒いか?」
「気温の変動がほぼないところにいたので」
「ふーん?」
各地を転々としていたと聞いたが、断片的な情報からは具体的な足取りや生活が思い浮かばない。外国で生活していたにしても一般的な生活常識も欠けているのは違和感がある。宇宙コロニーにでもいたのだろうか。
ふと、シエルの視線が街並みへ注がれている事に気付いた。何の変哲もない街並みだろうにと思っていたが、いつの間にかツリーやリースのデコレーションが増えている。
街並みは緑と赤が中心となり、クリスマスをモチーフにした温かみのあるサンタやトナカイが飾られる。浮き足立った雰囲気を盛り上げるようにくるみ割り人形や天使、雪だるまも街を彩っていた。
殺伐とした仕事と使い走りに追われていて気づかなかったが、ダブリンの街はすっかりクリスマスに染まっていた。そして、ダブリン城へ続く道に吸い込まれるように続く人々を見て合点がいった。
「そっか。もうクリスマスマーケットの季節か」
「クリスマスマーケット……?」
「この時期、デイム・ストリートにある城でクリスマスを祝うマーケットが開催されてるんだよ」
「まずクリスマスが分からないのですが」
「そっちかー……。珍しいな、お前」
まさかクリスマスすら知らないとは思わなかった。簡単な説明をしてやると、分かったような分からないような表情で街の飾りをじっと見つめる。ニールにとってはお馴染みのツリーやリース、サンタやトナカイの飾り物などが彼女にとっては全て目新しいものに映っているのだろう。相変わらず表情は乏しいままだが、数ヶ月共に死線を潜ってきた付き合いの賜物か、最近では少しずつシエルの感情を推し量れるようになってきた。シエルはまだまだ知らない事が多く、知識も偏りがある。
そんな彼女を隣で見ているうちに、血なまぐささや戦闘術とは違う世界の知見を広めてやりたいという感情が湧いてきた。
「なあ、近くだし少し寄っていかないか?」
「必要なものがあるのですか?もしくは要件でも?」
「いや、単に寄り道」
「何故?」
「セーフハウスと仕事場の行き来だけじゃ心が荒むだろ?たまには息抜きしようぜ」
「息抜き……?」
ルーティーン通りの生活を苦に感じないタイプなのか、ピンときていないような反応が返ってくる。彼らの生活を見ている限り、一般的に言うような息抜きは存在しないのかもしれない。そんなものを実行しようと言われても面食らうのは当たり前だ。そう結論づけたニールは怪訝そうにダブリン城へ向かう人々を眺めていたシエルの手を取る。
「頭でっかちに考えても分かんねえぞ。ほらほら」
自分より少しほっそりとした手を引き、いくつかの道を通ればあっという間にダブリン城前だ。生木のツリーの並木を通って華やかに飾られた城内のゲートをシエルの手を引いたままくぐる。本格的に混むクリスマスより前の時期、それも平日だからか入場料は無料と、不安定な生活を送るニールとシエルにとってはありがたい。
もみの木やリースを模した飾りとオーナメントで装飾されたゲートを通ると、まず目に入ったのは煌びやかなメリーゴーランドだ。テーマパークに来たのかと疑うほど自然に設置されているメリーゴーランドにニールは苦笑し、シエルは首を傾げる。
「マーケットとついているのにこれを眺めるのがメインなんですか?」
「そんなわけないだろ。多分ちびっ子向けの遊具だな。メインはあっちだ」
ニールの指差す方向には木の小屋で作られた屋台が軒を連ねていた。
平日夕方という時間帯もあってか、マーケットは盛況だった。サンタやトナカイといった定番のモチーフに木製のくるみ割り人形などの玩具。キャンドルやお香を楽しむ置物、スノードーム、紅茶缶と多岐に渡る。親子連れやカップルが楽しむ中でニールとシエルもまずは遠目からブースを見回っていく。ロウソクやライトで彩られた華やかな飾りやディスプレイは夜が深まるほど見応えが増すだろう。
飲食エリアも多くの客で溢れていた。定番のフィッシュアンドチップスからチーズ料理、肉料理にソーセージの盛り合わせ、ホットサンドにチュロス。目移りしてしまうほどの屋台が立ち並んでいた。デザートやおやつにチュロスなどの甘味もある。そしてどこの店からもシナモンやチョコレート、グリューワインに使われた果実などで甘い香りに満ちていた。寒さが染みるからこそホットチョコレートや酒気を飛ばしたグリューワインもそそられる。
袖を引っ張られる感触に振り返ると、手を取っていたシエルが圧倒されたかのように立ち尽くしていた。普段の雑多な喧騒に包まれる街頭よりもマーケットの雰囲気は和やかで煌めいている。きっと彼女はこれまで見たことがなかったのだろう光景に目を奪われていた。
とはいえ、時間とともに人が増していく入口付近でぼんやりとしているのも邪魔になる。「シエル!」と呼びかけて軽く腕を引っ張ってやると、はっとしたシエルが慌てて距離を詰めた。
「なっ、見応えあるだろ?」
戸惑いを浮かべながら頷くシエルに「ぼんやりしてはぐれるなよ」と手袋越しに力を込めてやると、応じるような手応えがあった。
「寒いしとりあえずなんか飲もうぜ。クリスマスマーケットといえばグリューワインだ。ホットチョコレートもいいけど、店ごとに個性があるのもいい」
「アルコールなのでは?」
「子ども用にノンアルコールのある屋台もあるんだよ」
「こういう場の価格相場は高いので避けるべきと聞いています」
「固いこと言うなって。前に食べたブレッドは美味しかっただろ?それにイベントは場の雰囲気も一緒に楽しむものなんだ」
飲食の屋台が集まっている中から目に付いた屋台でグリューワインを二杯買う。中肉中背の店員がちらりとシエルを見やる。着膨れした上、目深に帽子を被った状態だと言うのに彼は気前の良さそうな笑みを浮かべる。
「そっちのお嬢さんは観光かい?」
「いいえ。でもアイルランドの冬は初めてです」
「そうかそうか。風邪を引かないようにな」
「女だってよく分かったな」
「坊主くらいの年頃が男同士で手は繋がんだろう?」
店主はワハハと豪快な笑声をあげるなり、気前よく二人分のキャンディ包みを添えてきた。包み紙の通りならチョコレート・ボンボンだ。
「アルコール入ってるんじゃないか?」
「なーに、このくらいなら……と言いたいところだが、うちのはナッツペースト入りだ。安心しな」
チョコレート・ボンボンを頬張ったシエルは「濃厚な味わいですね」目を輝かせてと呟き、グリューワインを一口含む。が、熱かったのか慌ててカップから唇を離し、ふーふーと息を吹きかける。珍しく年相応な瞬間を見て思わず顔がほころんだ。
「気をつけろよー」と笑いながらコップを傾けたニールも熱さで舌をやけどしそうになり、二人で飲み頃になるまでカップで暖を取る一幕もあった。
「そろそろか?」と再びグリューワインを一口飲むと、甘みの強いノンアルコールワインの中に果実の酸味や甘み、シナモンの風味が感じられる。ぺろりと唇を舐めたニールを見てシエルも慎重にカップを傾け、啜るように口に含んだ。今まで気づかなかったが、どうやら猫舌のようだ。
「さっきのボンボン、このグリューワインと合わせると程よく甘さと苦さが絡み合っておいしいです。香ばしい香りもいい」
へぇ、と相槌を打って先程の店を見ると、併設されているお菓子屋も同じ経営者の店のようだ。飲み物をオーダーした客にサンプルとして配っているのか、飲み終えたカップルや親子連れがお菓子屋へと流れていく。
「なるほど、サンプルで配って買わせるのか。商売上手いな」
「けれど、商売精神のおかげでお得においしい物を味わえました」
「そこは感謝だな」
次は食事をといくつかのブースを巡り、ホットチーズサンドとミンスパイを手に入れた。飲食スペースで早速齧りつくとアニメやコミックのようにチーズが伸び、慌てるニールと助けるでもなく興味深そうに見つめるシエルの組み合わせは周囲にいた人々の笑いを誘った。
そのせいか分からないが二人は周囲からよく話しかけられた。友達同士と思って話しかけてくる人が多い中で、時折シエルが少女だと見破って「デートなの?」「かわいいー」とからかってくる年上の少女達もいた。彼らは思い思いにマーケットの出展で何を買ったか語ったり、夜景スポットのオススメを教えてはにこやかに去っていく。
「ここに来る人はよく話しかけてきますね」
「アイルランド人は気のいい人も多いからな。俺らが普段関わってる奴らが例外というか」
二人でミンスパイを齧りながらマーケットを見渡す。
クリスマスマーケットに集う大部分は後暗いところのない一般人だ。不安定な情勢でもある程度の余裕がある者がほとんどで、汚れ仕事が板についた裏社会の人間達とそうそう交わる事はないだろう。この平穏な光景はかつてのニールにとって非常に馴染み深いものであり、今は遠くなってしまった情景のひとつだ。
ミンスパイに混ぜられたドライフルーツの甘酸っぱさにニール自身の切なさが噛み合って心に沁みる。ミンスパイはこの時期に母がよく作っていた菓子のひとつだ。
ライルも一緒に来たのはもう随分と前になってしまったが、クリスマスマーケットの時期に家族で遊びに行くのは幼い頃の楽しみのひとつで、シュトーレンやクリスマスおなじみの菓子を味わいながら当日を指折り数えて待ち望んでいた。
「ニール?」
「なんでもない。雑貨エリアも回ろうぜ」
雑貨エリアも飲食エリアと同じく木の小屋が連なり、まるで小さな商店街のようだった。クリスマスに関わる品々が並んでいるのを見たシエルは当然のように浮かんだであろう疑問を何気なく口にする。
「価格も高めで時期が過ぎれば季節外れになるというのに買う人もいるんですね」
「この手のはその価値だけじゃなくて思い出を買うようなもんだからな。それにここで売ってるのは大抵ハンドメイド品だから製品より手間がかかるし」
飲食ブースの時もそうだったが、シエルはこの場で言うのは野暮だろうという事も口に出してしまう。少しどうかと思う一方でシエルらしい。
二人の前を楽しげな親子連れが通り過ぎ、ニールはつい家族でマーケットに繰り出した時の事を思い出してしまう。エイミーだったら真っ先に駆け出してディスプレイされているぬいぐるみやスノードーム、ガラス細工に夢中になっているし、ニールは妹を見失わないよう走って追いかけて、父と母は「うちの子達は元気いっぱいだ」なんて微笑み合いながらゆっくりと追いついてくる。そしてエイミーがあれもこれもと言い出すのを宥めるか、自分の分を譲ってエイミーの欲しいものを買ってもらう。そんな、もう二度と見る事は叶わない思い出の中の家族を想起して鼻の奥がツンとなる。
いけないと自分を戒めて周囲を見回すと、シエルは木工工芸品を扱う屋台でディスプレイされた工芸品を熱心に眺めていた。緻密な細工で回るメリーゴーランドのオブジェや御子生誕をモチーフにしたドールハウス。小型のものでは天使や動物ををあしらったオーナメントなどが棚や壁面にズラリと並ぶ。それらをじっくりと観察する彼女に店主が小話を添えているところのようだ。
彼もシエルのような少女が高価な工芸品を買うだけの金銭を持っているとは思わないだろう。不用意に触ったり壊さないかの監視も兼ねて話をしていたのだろうが、シエル自身は思いのほか店主の話を楽しんでいたらしい。
「ここに並んでいるものは全て職人の手作りだそうです」
「だろうなぁ。うへぇ、こんな凝ったのを手作りとか流石に器用だな」
「こんな風に何かを作り出せる手を持つ人もいるんですね」
感慨深そうに工芸品を眺めていくシエル。全て手作業でありながら丁寧に作られたそれらは、クラフト品にさほど興味のないニールでも目を奪われてしまう。
オーナメント類を陳列している棚の中からシエルがひとつを手に取る。リースにクリスマスを運んでくる鳥と言われているロビンがあしらわれたオーナメントだ。木工ながらふっくらと丸みを帯びたロビンは今にも歌い出しそうなほどに生き生きとしていて、ニールの目から見ても可愛らしい。薄紫色の眼差しが注がれているのを見るに、心奪われているのは確かなのだろう。
「記念になんか買ってく?立派なのは無理だけどオーナメントくらいなら買えそうだぜ」
「足のつくものには手を出すなと言われています」
「いや、一点物でもない限りマーケットの出店で買ったもので足がつくのはないだろ」
「それに私達の環境ではずっと手元で大事に置いておけません。緻密な細工であれば破損してしまうか紛失してしまうでしょう。それではなんだか……」
そう言って言葉を切り、沈黙してしまった。シエルの感性が普通の少女並みだったとしたらおそらく「悲しい」や「寂しい」と続いたのかもしれない。だが、彼女はその先に続けるべき表現を知らなかった。ただ、木製のオーナメントをそっと棚に戻すシエルのまなじりは心なしかいつもより下がっており、どこか穏やかなものに見える。
「あなたも、もっと大切にしてくれる人に買われた方がいいでしょう」
そうオーナメントへ語りかけるシエルはどこか寂しげで、優しい声音をしていた。
◇
とっぷりと日が落ち、イルミネーションは一層輝きを増していた。城内のライトアップがマーケットを明るく照らし、球状のLEDライトが華を添える。ゲート近くのメリーゴーランドはライトアップでより一層非日常感を演出して子供達やカップルを夢中にさせていた。フードコートに集まる人々も、クラフト品を買い求める人も、この空間にいる人々は誰もが笑顔だった。
そんな中で少し離れたところから会場を見渡す少年少女が二人。ニールとシエルは先ほどの店とは異なるグリューワインで暖を取りながら平和な空間を見つめる。視線だけをシエルに向けると、きらきらと輝く電飾を見つめる薄紫色の瞳が心なしか輝きを内包して見えた。端正ながら無愛想な顔立ちも寒さとグリューワインの温かさでほんのり色づいて年頃の少女らしい愛らしさを備えている。
どきりとして視線を人々へと巡らせると、そこには顔をほころばせたくなるような光景が広がっている。装飾の華やかさだけではない。この場にはあらゆる人の穏やかなひと時が集っているのだ。このマーケットでは全てがきらめきと温かさに満ちていて、誰もがホリデーを心から楽しんでいる。
「別の世界みたい」
「そうだな」
ぽつりと呟くシエルに肯定する。十代半ばで裏社会に足を踏み入れている二人にとって、ダブリン城のマーケットは文字通り別世界だった。場違いと言ってもいいのかもしれない。シエルにとっては馴染みがない光景。ニールにとってはかつて失った傷が疼く光景。それでもニールは世界に温かみもあるのだと知ってほしかった。
雰囲気に呑まれていたシエルの手を取る。ここにいると主張するように握ると、応えるようにシエルも握り返してきた。
「ニール」
「どうした?」
「ありがとう」
「礼を言うのは俺の方かもな」
ここのように暖かな世界は最早無縁のものと思い込もうとしていた。それでも今日、こうしてかつて感じたものと似た温かさを味わっている。家族といたかけがえのない時間は二度と戻ってこないが、今はシエルという相棒と過ごすこの瞬間が温かい。
「時間が経つのはあっという間ですね。城内も無料で回れるそうですが、そろそろ戻らないと」
「だな。今回は夕方からだったけど日中からいたらほぼ巡れそうな感じだし、来年は早めに来てじっくり回るか」
「来年?」
「……あ、いや」
ロレンスとシエルがいつまでこの国に潜伏し続けるのかは分からない。彼らはニールのいない時に今後を見据えた打ち合わせを何度も重ねているようで、国外への脱出ルートも想定しているようだ。いずれアイルランドから去る可能性も高い。それはニールも分かっている事だ。だというのに、今から来年の話をしてもという後悔がよぎったが、それをシエルの穏やかな声音が打ち消した。
「そうですね。来年はそうしましょう」
「シエル……」
「来年もニールと一緒にこの光景を見られたらいいと、そう思いました」
ライトアップに照らされる無機質な人形めいた横顔はいつもより柔らかで暖かなものに映った。
「そんなに寒いか?」
「気温の変動がほぼないところにいたので」
「ふーん?」
各地を転々としていたと聞いたが、断片的な情報からは具体的な足取りや生活が思い浮かばない。外国で生活していたにしても一般的な生活常識も欠けているのは違和感がある。宇宙コロニーにでもいたのだろうか。
ふと、シエルの視線が街並みへ注がれている事に気付いた。何の変哲もない街並みだろうにと思っていたが、いつの間にかツリーやリースのデコレーションが増えている。
街並みは緑と赤が中心となり、クリスマスをモチーフにした温かみのあるサンタやトナカイが飾られる。浮き足立った雰囲気を盛り上げるようにくるみ割り人形や天使、雪だるまも街を彩っていた。
殺伐とした仕事と使い走りに追われていて気づかなかったが、ダブリンの街はすっかりクリスマスに染まっていた。そして、ダブリン城へ続く道に吸い込まれるように続く人々を見て合点がいった。
「そっか。もうクリスマスマーケットの季節か」
「クリスマスマーケット……?」
「この時期、デイム・ストリートにある城でクリスマスを祝うマーケットが開催されてるんだよ」
「まずクリスマスが分からないのですが」
「そっちかー……。珍しいな、お前」
まさかクリスマスすら知らないとは思わなかった。簡単な説明をしてやると、分かったような分からないような表情で街の飾りをじっと見つめる。ニールにとってはお馴染みのツリーやリース、サンタやトナカイの飾り物などが彼女にとっては全て目新しいものに映っているのだろう。相変わらず表情は乏しいままだが、数ヶ月共に死線を潜ってきた付き合いの賜物か、最近では少しずつシエルの感情を推し量れるようになってきた。シエルはまだまだ知らない事が多く、知識も偏りがある。
そんな彼女を隣で見ているうちに、血なまぐささや戦闘術とは違う世界の知見を広めてやりたいという感情が湧いてきた。
「なあ、近くだし少し寄っていかないか?」
「必要なものがあるのですか?もしくは要件でも?」
「いや、単に寄り道」
「何故?」
「セーフハウスと仕事場の行き来だけじゃ心が荒むだろ?たまには息抜きしようぜ」
「息抜き……?」
ルーティーン通りの生活を苦に感じないタイプなのか、ピンときていないような反応が返ってくる。彼らの生活を見ている限り、一般的に言うような息抜きは存在しないのかもしれない。そんなものを実行しようと言われても面食らうのは当たり前だ。そう結論づけたニールは怪訝そうにダブリン城へ向かう人々を眺めていたシエルの手を取る。
「頭でっかちに考えても分かんねえぞ。ほらほら」
自分より少しほっそりとした手を引き、いくつかの道を通ればあっという間にダブリン城前だ。生木のツリーの並木を通って華やかに飾られた城内のゲートをシエルの手を引いたままくぐる。本格的に混むクリスマスより前の時期、それも平日だからか入場料は無料と、不安定な生活を送るニールとシエルにとってはありがたい。
もみの木やリースを模した飾りとオーナメントで装飾されたゲートを通ると、まず目に入ったのは煌びやかなメリーゴーランドだ。テーマパークに来たのかと疑うほど自然に設置されているメリーゴーランドにニールは苦笑し、シエルは首を傾げる。
「マーケットとついているのにこれを眺めるのがメインなんですか?」
「そんなわけないだろ。多分ちびっ子向けの遊具だな。メインはあっちだ」
ニールの指差す方向には木の小屋で作られた屋台が軒を連ねていた。
平日夕方という時間帯もあってか、マーケットは盛況だった。サンタやトナカイといった定番のモチーフに木製のくるみ割り人形などの玩具。キャンドルやお香を楽しむ置物、スノードーム、紅茶缶と多岐に渡る。親子連れやカップルが楽しむ中でニールとシエルもまずは遠目からブースを見回っていく。ロウソクやライトで彩られた華やかな飾りやディスプレイは夜が深まるほど見応えが増すだろう。
飲食エリアも多くの客で溢れていた。定番のフィッシュアンドチップスからチーズ料理、肉料理にソーセージの盛り合わせ、ホットサンドにチュロス。目移りしてしまうほどの屋台が立ち並んでいた。デザートやおやつにチュロスなどの甘味もある。そしてどこの店からもシナモンやチョコレート、グリューワインに使われた果実などで甘い香りに満ちていた。寒さが染みるからこそホットチョコレートや酒気を飛ばしたグリューワインもそそられる。
袖を引っ張られる感触に振り返ると、手を取っていたシエルが圧倒されたかのように立ち尽くしていた。普段の雑多な喧騒に包まれる街頭よりもマーケットの雰囲気は和やかで煌めいている。きっと彼女はこれまで見たことがなかったのだろう光景に目を奪われていた。
とはいえ、時間とともに人が増していく入口付近でぼんやりとしているのも邪魔になる。「シエル!」と呼びかけて軽く腕を引っ張ってやると、はっとしたシエルが慌てて距離を詰めた。
「なっ、見応えあるだろ?」
戸惑いを浮かべながら頷くシエルに「ぼんやりしてはぐれるなよ」と手袋越しに力を込めてやると、応じるような手応えがあった。
「寒いしとりあえずなんか飲もうぜ。クリスマスマーケットといえばグリューワインだ。ホットチョコレートもいいけど、店ごとに個性があるのもいい」
「アルコールなのでは?」
「子ども用にノンアルコールのある屋台もあるんだよ」
「こういう場の価格相場は高いので避けるべきと聞いています」
「固いこと言うなって。前に食べたブレッドは美味しかっただろ?それにイベントは場の雰囲気も一緒に楽しむものなんだ」
飲食の屋台が集まっている中から目に付いた屋台でグリューワインを二杯買う。中肉中背の店員がちらりとシエルを見やる。着膨れした上、目深に帽子を被った状態だと言うのに彼は気前の良さそうな笑みを浮かべる。
「そっちのお嬢さんは観光かい?」
「いいえ。でもアイルランドの冬は初めてです」
「そうかそうか。風邪を引かないようにな」
「女だってよく分かったな」
「坊主くらいの年頃が男同士で手は繋がんだろう?」
店主はワハハと豪快な笑声をあげるなり、気前よく二人分のキャンディ包みを添えてきた。包み紙の通りならチョコレート・ボンボンだ。
「アルコール入ってるんじゃないか?」
「なーに、このくらいなら……と言いたいところだが、うちのはナッツペースト入りだ。安心しな」
チョコレート・ボンボンを頬張ったシエルは「濃厚な味わいですね」目を輝かせてと呟き、グリューワインを一口含む。が、熱かったのか慌ててカップから唇を離し、ふーふーと息を吹きかける。珍しく年相応な瞬間を見て思わず顔がほころんだ。
「気をつけろよー」と笑いながらコップを傾けたニールも熱さで舌をやけどしそうになり、二人で飲み頃になるまでカップで暖を取る一幕もあった。
「そろそろか?」と再びグリューワインを一口飲むと、甘みの強いノンアルコールワインの中に果実の酸味や甘み、シナモンの風味が感じられる。ぺろりと唇を舐めたニールを見てシエルも慎重にカップを傾け、啜るように口に含んだ。今まで気づかなかったが、どうやら猫舌のようだ。
「さっきのボンボン、このグリューワインと合わせると程よく甘さと苦さが絡み合っておいしいです。香ばしい香りもいい」
へぇ、と相槌を打って先程の店を見ると、併設されているお菓子屋も同じ経営者の店のようだ。飲み物をオーダーした客にサンプルとして配っているのか、飲み終えたカップルや親子連れがお菓子屋へと流れていく。
「なるほど、サンプルで配って買わせるのか。商売上手いな」
「けれど、商売精神のおかげでお得においしい物を味わえました」
「そこは感謝だな」
次は食事をといくつかのブースを巡り、ホットチーズサンドとミンスパイを手に入れた。飲食スペースで早速齧りつくとアニメやコミックのようにチーズが伸び、慌てるニールと助けるでもなく興味深そうに見つめるシエルの組み合わせは周囲にいた人々の笑いを誘った。
そのせいか分からないが二人は周囲からよく話しかけられた。友達同士と思って話しかけてくる人が多い中で、時折シエルが少女だと見破って「デートなの?」「かわいいー」とからかってくる年上の少女達もいた。彼らは思い思いにマーケットの出展で何を買ったか語ったり、夜景スポットのオススメを教えてはにこやかに去っていく。
「ここに来る人はよく話しかけてきますね」
「アイルランド人は気のいい人も多いからな。俺らが普段関わってる奴らが例外というか」
二人でミンスパイを齧りながらマーケットを見渡す。
クリスマスマーケットに集う大部分は後暗いところのない一般人だ。不安定な情勢でもある程度の余裕がある者がほとんどで、汚れ仕事が板についた裏社会の人間達とそうそう交わる事はないだろう。この平穏な光景はかつてのニールにとって非常に馴染み深いものであり、今は遠くなってしまった情景のひとつだ。
ミンスパイに混ぜられたドライフルーツの甘酸っぱさにニール自身の切なさが噛み合って心に沁みる。ミンスパイはこの時期に母がよく作っていた菓子のひとつだ。
ライルも一緒に来たのはもう随分と前になってしまったが、クリスマスマーケットの時期に家族で遊びに行くのは幼い頃の楽しみのひとつで、シュトーレンやクリスマスおなじみの菓子を味わいながら当日を指折り数えて待ち望んでいた。
「ニール?」
「なんでもない。雑貨エリアも回ろうぜ」
雑貨エリアも飲食エリアと同じく木の小屋が連なり、まるで小さな商店街のようだった。クリスマスに関わる品々が並んでいるのを見たシエルは当然のように浮かんだであろう疑問を何気なく口にする。
「価格も高めで時期が過ぎれば季節外れになるというのに買う人もいるんですね」
「この手のはその価値だけじゃなくて思い出を買うようなもんだからな。それにここで売ってるのは大抵ハンドメイド品だから製品より手間がかかるし」
飲食ブースの時もそうだったが、シエルはこの場で言うのは野暮だろうという事も口に出してしまう。少しどうかと思う一方でシエルらしい。
二人の前を楽しげな親子連れが通り過ぎ、ニールはつい家族でマーケットに繰り出した時の事を思い出してしまう。エイミーだったら真っ先に駆け出してディスプレイされているぬいぐるみやスノードーム、ガラス細工に夢中になっているし、ニールは妹を見失わないよう走って追いかけて、父と母は「うちの子達は元気いっぱいだ」なんて微笑み合いながらゆっくりと追いついてくる。そしてエイミーがあれもこれもと言い出すのを宥めるか、自分の分を譲ってエイミーの欲しいものを買ってもらう。そんな、もう二度と見る事は叶わない思い出の中の家族を想起して鼻の奥がツンとなる。
いけないと自分を戒めて周囲を見回すと、シエルは木工工芸品を扱う屋台でディスプレイされた工芸品を熱心に眺めていた。緻密な細工で回るメリーゴーランドのオブジェや御子生誕をモチーフにしたドールハウス。小型のものでは天使や動物ををあしらったオーナメントなどが棚や壁面にズラリと並ぶ。それらをじっくりと観察する彼女に店主が小話を添えているところのようだ。
彼もシエルのような少女が高価な工芸品を買うだけの金銭を持っているとは思わないだろう。不用意に触ったり壊さないかの監視も兼ねて話をしていたのだろうが、シエル自身は思いのほか店主の話を楽しんでいたらしい。
「ここに並んでいるものは全て職人の手作りだそうです」
「だろうなぁ。うへぇ、こんな凝ったのを手作りとか流石に器用だな」
「こんな風に何かを作り出せる手を持つ人もいるんですね」
感慨深そうに工芸品を眺めていくシエル。全て手作業でありながら丁寧に作られたそれらは、クラフト品にさほど興味のないニールでも目を奪われてしまう。
オーナメント類を陳列している棚の中からシエルがひとつを手に取る。リースにクリスマスを運んでくる鳥と言われているロビンがあしらわれたオーナメントだ。木工ながらふっくらと丸みを帯びたロビンは今にも歌い出しそうなほどに生き生きとしていて、ニールの目から見ても可愛らしい。薄紫色の眼差しが注がれているのを見るに、心奪われているのは確かなのだろう。
「記念になんか買ってく?立派なのは無理だけどオーナメントくらいなら買えそうだぜ」
「足のつくものには手を出すなと言われています」
「いや、一点物でもない限りマーケットの出店で買ったもので足がつくのはないだろ」
「それに私達の環境ではずっと手元で大事に置いておけません。緻密な細工であれば破損してしまうか紛失してしまうでしょう。それではなんだか……」
そう言って言葉を切り、沈黙してしまった。シエルの感性が普通の少女並みだったとしたらおそらく「悲しい」や「寂しい」と続いたのかもしれない。だが、彼女はその先に続けるべき表現を知らなかった。ただ、木製のオーナメントをそっと棚に戻すシエルのまなじりは心なしかいつもより下がっており、どこか穏やかなものに見える。
「あなたも、もっと大切にしてくれる人に買われた方がいいでしょう」
そうオーナメントへ語りかけるシエルはどこか寂しげで、優しい声音をしていた。
◇
とっぷりと日が落ち、イルミネーションは一層輝きを増していた。城内のライトアップがマーケットを明るく照らし、球状のLEDライトが華を添える。ゲート近くのメリーゴーランドはライトアップでより一層非日常感を演出して子供達やカップルを夢中にさせていた。フードコートに集まる人々も、クラフト品を買い求める人も、この空間にいる人々は誰もが笑顔だった。
そんな中で少し離れたところから会場を見渡す少年少女が二人。ニールとシエルは先ほどの店とは異なるグリューワインで暖を取りながら平和な空間を見つめる。視線だけをシエルに向けると、きらきらと輝く電飾を見つめる薄紫色の瞳が心なしか輝きを内包して見えた。端正ながら無愛想な顔立ちも寒さとグリューワインの温かさでほんのり色づいて年頃の少女らしい愛らしさを備えている。
どきりとして視線を人々へと巡らせると、そこには顔をほころばせたくなるような光景が広がっている。装飾の華やかさだけではない。この場にはあらゆる人の穏やかなひと時が集っているのだ。このマーケットでは全てがきらめきと温かさに満ちていて、誰もがホリデーを心から楽しんでいる。
「別の世界みたい」
「そうだな」
ぽつりと呟くシエルに肯定する。十代半ばで裏社会に足を踏み入れている二人にとって、ダブリン城のマーケットは文字通り別世界だった。場違いと言ってもいいのかもしれない。シエルにとっては馴染みがない光景。ニールにとってはかつて失った傷が疼く光景。それでもニールは世界に温かみもあるのだと知ってほしかった。
雰囲気に呑まれていたシエルの手を取る。ここにいると主張するように握ると、応えるようにシエルも握り返してきた。
「ニール」
「どうした?」
「ありがとう」
「礼を言うのは俺の方かもな」
ここのように暖かな世界は最早無縁のものと思い込もうとしていた。それでも今日、こうしてかつて感じたものと似た温かさを味わっている。家族といたかけがえのない時間は二度と戻ってこないが、今はシエルという相棒と過ごすこの瞬間が温かい。
「時間が経つのはあっという間ですね。城内も無料で回れるそうですが、そろそろ戻らないと」
「だな。今回は夕方からだったけど日中からいたらほぼ巡れそうな感じだし、来年は早めに来てじっくり回るか」
「来年?」
「……あ、いや」
ロレンスとシエルがいつまでこの国に潜伏し続けるのかは分からない。彼らはニールのいない時に今後を見据えた打ち合わせを何度も重ねているようで、国外への脱出ルートも想定しているようだ。いずれアイルランドから去る可能性も高い。それはニールも分かっている事だ。だというのに、今から来年の話をしてもという後悔がよぎったが、それをシエルの穏やかな声音が打ち消した。
「そうですね。来年はそうしましょう」
「シエル……」
「来年もニールと一緒にこの光景を見られたらいいと、そう思いました」
ライトアップに照らされる無機質な人形めいた横顔はいつもより柔らかで暖かなものに映った。
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