潜伏編
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テーブルに広げられた簡素なパッケージと缶詰を前にニールは憮然としていた。 目の前に広げられた食糧をここまで胸躍らない食事が存在するとは。
試しに平べったいパンらしきものを口に入れてみる。
「…………味がしねぇ」
碧眼で手元を睥睨するも、味は変わらなかった。
口内の水分を奪っていくパサパサのパンと申し訳程度に添えられた調味料。スパムの缶詰。クラッカーとカロリーバー。手早く空腹を満たす事だけ考えたラインナップだ。固形燃料で温めるメニューもあるが、手間がかかるという億劫がったロレンスの一言で未使用のまま貯め込まれている。パンのクオリティからはあまり期待できないが、即胃に詰め込めるものがなくなったら手をつけられるのだろう。
何度も口に出しかけては引っ込めてきた言葉がついに口をついて出た。
「なあ、朝食くらいまともなの食えよ」
「まともな、は抽象的すぎます。具体的にお願いします」
「食えるだけマシだと思え。それにパシリ代を渡しているだろう?それでまともなものを食ったらどうだ」
一言口にすれば両者から人情味のない返しが来る。この手のやり取りも慣れてきて、思った通りの返答に自分も彼らへの理解が進んできたなと嘆息する。それがいい事なのかは分からないが。
「ロレンスに同意します。ニール、私達の食事に付き合う必要はないのに何故レーションを食べているんですか?」
「まあ、付き合いっつーか……一人だけ別のもの食うのも気が引ける」
「食べたくないものを付き合いで食べる。何故そんな事を?その行動にどんな意味があるんですか?」
詰め寄られて返答に窮したニールの内心を見透かすようにロレンスの切れ長の目が細められる。
「可能な限りケチりたいんだろう。今のアイルランドは軒並み物価が上がっている。元から食品は割高だったが、ここ数年は特に顕著だ」
「理解しました。あなたなりの節約術でしたか」
節約術と表現された途端に懐の小さい男だと言われているような気がして歯噛みするが、今の生活において節制は必要不可欠だ。スーパーの食材も値上がりしていて外食は論外。となると、ある物なら不味いレーションだろうと胃に詰め込みたい。味わう事を諦め、黙々と胃に詰め込むニールにシエルがぽそりと言う。
「私にとって食事はこういうものです。理解してもらえましたか?」
「ああ。味わいもへったくれもないのがよーく分かったぜ」
苦々しく呟いた言葉にこくこくと頷く。どうやら相互理解が進んだと受け取ったらしい。「慣れてしまえば手段でしかなくなります」と言う薄紫の目は澄んでいた。
彼らと共に行動するようになってから三ヶ月が経とうとしている。仕事でのコンビネーションは少しずつ手応えを感じるようになってきた頃合だが、両者の歩み寄りはまだまだ前途多難だ。
◇
「あんな食生活、慣れる前に精神が荒んじまう、っつーの!」
生活雑貨の並んだ棚を睨みつけ、朝の一幕に文句を言いながらもメモに書かれた品物をカゴに放り込んでいく。前に来た時よりやや値上がりしているのに世知辛さを感じながら精算を終えたニールは外へ出た。以前よりも冷たくなってきた空気は秋の訪れを感じさせた。
買い忘れがないかメモを再度確認し、上着のポケットへとしまった。ロレンスとシエルが人目を忍ぶ生活を送る上で日用品の調達は主にニールの役目となっている。いわばライフラインの一部と言っていい。だからこそ人使いの荒さに辟易し、少しは感謝してほしいと思うところもあるが、こういった使いっ走りでも小遣い程度の金銭が与えられる。ひとつひとつは大した額ではないが、弟のため報酬をなるべく蓄えておきたい身で生活に充てられる金銭は貴重だった。
だからこそただで食料にありつけている現状はありがたいのだが、元々一般家庭で育ったニールには今の食生活は過酷に思えてならない。
もう少しまともな食事がしたいよな、と改めて痛感しながら帰路へついていたニールは香ばしい香りに誘われてふと足を止めた。香りを辿った先にはレトロな店構えのベーカリーがあり、ガラスの向こうに見えるふっくらとしたパンと惣菜の数々が見える。店内から漂ってくる焼きたてのパンの匂いがニールの腹を鳴らした。
「う、うまそう……」
ごくり、と唾を飲む。
ロレンス達のところへ身を寄せるようになってからそれなりに経ったが、ここのところまともな食事食べていない。伝手で入手してきた払い下げ品のレーションや缶詰で食い繋いでいるのが現状である。ロレンスの言う通り節約など気にせず貰った額で食うのであればある程度のものを食べられるはずだ。しかし国内・世界共に情勢が不安定な以上、ライルに残せる金は多いに越したことはない。だが、妥協できるラインも限りがある。
「大体レーションだの缶詰だのは味気なさすぎるんだよ」
元々ニールも褒められた食生活を送っていたわけではない。しかし、クラッカーやカロリーバーを詰め込む味気なさと比べたら、見よう見まねの自炊の方がよほど食事らしかった。栄養面で事足りていようとこんな食生活を続けていたら体よりも先に精神が参ってしまう。至急改善すべき事案だ。
「固形燃料入りもあるんだから簡単な料理はできるかもしれないよな。キャンプ用の調理器具でもないか探してみるか」
セーフハウスのダンボールの中にそれらしきものを見たような覚えがある。使えるかは分からないが、試してみてダメそうなら店を当たってもいい。最悪、温めるタイプのレーションがラインナップに入るようになるだけでも御の字だ。
このままだと食の楽しみすら忘れてしまいそうだ。
今後の食について悶々と考えていると、ふとシエルに食の好みを尋ねた時のやり取りが頭に浮かんだ。備蓄されているレーションや固形保存食を日常的に食べているから食に関心を持たないのも自然な事かもしれない。少しは食へ関心を向けさせるのもいいだろう。名前の時のように待遇改善されればなおよし。そう思い立った彼は足早にセーフハウスへと戻るなり、銃の手入れを行っていたシエルを連れ出した。
「それでここに来たんですか?」
帽子のつば越しにベーカリーを見上げるシエルへニールはどこか誇らしげな表情を見せた。
対するシエルは胡乱げな眼差しだ。
「美味いものを食べるのがどういう事か教えてやるからな」
「一人で食べた方が金銭的負担も軽いでしょう。何故私を連れてくる必要があったのですか?」
「おっさんはともかく、シエルは育ち盛りなんだからちゃんとした物食べないとな」
「そうなんですか?」
「多分な。俺より少し下なら育ち盛りの範囲だ」
店内へ入るとシエルは迷い込んだリスのように視線をあちこちへとさ迷わせる。物珍しそうにきょろきょろと視線をやる姿は年相応で可愛らしい。
「色んな匂いが……」
「あんまり入った事ないのか?」
「基本的に外で待つ事が多いので」
「妙に荒事馴れしてるわりには世間知らずだな、お前」
ふとレジの方から視線を感じる。店員からは悪意や害意は感じられないものの、訝しんでいるような眼差しだ。原因はおそらくシエルだろつ。帽子かサングラスを必須レベルで掛けていて、酷い時は両方装備している。今日はどちらも着用している状態だった。店員へ聞こえないよう、こっそりと耳打ちした。
「潜伏してるからしょうがねえのは分かるけど、ちょっとくらい外してもいいんじゃないか?」
しかしシエルは譲らない。だが、店内でもサングラスを外さないのはさすがに浮く。そして店員の視線が刺さって仕方ない。日差しも強くない曇りの日にまでガッチリ防備しているのは却って不審に思われやすいだろう。女性の場合紫外線対策もあるだろうが、こんな年頃の、少年にも見える少女がガチガチに対策しているのもそれはそれで奇妙だ。後ろ暗いところがあると受け取られるか、犯罪の気配を感じ取られては堪らない。
そう説得すると彼女は渋々といった風にサングラスを取る。帽子は目深に被ったままだ。
「帽子は譲れないか?」
「目元を隠すのが大事なので」
「目元?ああ、眩しいとか?」
光は瞳の色が薄いほど眩しく感じるらしい。緑目のニールも陽射しの強い日や雪などで反射光の強い日はサングラスが手放せないほどだ。シエルの虹彩はオーキッドのような薄紫なので、もしそうなのだとしたらやむを得ない。
ともあれ、ニールはトングをカチカチと鳴らしながら店内を一望する。
「じゃあ一通り見て買うもの決めるか。パンひとつずつを分け合う感じで、焼きたて優先。惣菜系は値が張るから今回はなし」
「そこまでして買う意味があるとは思えません」
「俺にはあるの」
QOLを上げるためだから切実だ。店内を回遊した末にニールはレーズン入りのトリークルブレッド選ぶ。シエルにも選ばせようとしたものの、興味がないのかニールに選ばせようとして揉める一幕がありつつもクルミ入りのソーダブレッドをトレーに載せた。どちらもアイルランドで一般的に親しまれているパンだ。
レジ前でのシエルは顔をあげようとはしなかった。「どうした?」と尋ねるニールに肯定も否定もせず、視線だけでレジのやや斜め上を見つめている。そこには壁と防犯カメラがあるだけだった。
店外へ出るなり、紙袋から自分の分を取り出したシエルは「硬めですね」と弾力を確かめるようにクルミ入りのソーダブレッドを揉む。淡々とちぎったパンを口に含んだ途端、落ち着き払っていたシエルの表情が未知の体験への高揚で塗り替えられた。薄紫色の目が感極まったように光を湛えている。
「なっ、美味いだろ」
こくこくとしきりに頷く。また一口含み、じっくり味わうように噛む。
バターミルクの風味があるとはいえ、クルミを練りこんだだけのシンプルなブレッドでここまで感動していたら手の込んだパンを食べたらどうなるのだろう。反応を見て惣菜パンもひとつくらい買っても良かったかもしれないとほんの少しだけ後悔が湧いた。試しに半分ほどの大きさでちぎったトリークルブレッドを渡すと、こちらにも目を輝かせた。「甘い」と呟くので「レーズンと糖蜜入ってるからな」と答えると、名残惜しそうに残りをちびちびと食べる。味気ない食事ばかりだった舌にはどうやらかなりの衝撃を与えたようだった。
「俺もそっち食べたい」とねだれば、好きにちぎれと言わんばかりにブレッドが差し出される。遠慮なく半分ほどちぎり、放り込むとトリークルよりも優しい味わいが口に広がった。
「トリークルの濃厚な甘みも捨て難いけど素朴な味もいいんだよなぁ」
「あなたが不満を漏らしていた理由が分かりました」
「な?これにベーコンとサラダとフライがつくのが普通の朝食。昼食や夕食はもっとバリエーションがある、非常時ならまだしも、日常的にレーション生活は堪えるんだぜ?」
「私はレーション生活が普通なのでこちらの方が異質なのですが……こんな食生活は贅沢なのでは?」
「たまの贅沢でもいいからまともな食事がしたいんだよ俺は!」
大きく腕を振ってまで強弁するニールをトリークルブレッドを食べながら眺めていたシエルは最後の一口を食べ終えて「あなたの主張は理解しました」と言った。
「じゃあおっさんの説得に協力してくれるか?」
トリークルブレッドを食べ終え、再びソーダブレッドをちぎりながら「ニールの交渉次第かと」と述べる。
「コストパフォーマンスを考えればどう考えてもレーションに軍配が上がります。なので、折衷案を提案します」
◇
セーフハウスで待ち構えていたロレンスは荷物を置いて出ていった二人が戻るなり、あからさまに顔をしかめた。入り口へ置き去りにしていった荷物が消えているという事は一人で整理したのかと眼前の男の意外な一面にニールはほんの少しだけ彼を見直していた。
「おいニール、買い出ししたら片付けまでしていけ。あとその紙袋は何だ」
「ベーカリーで買ったブレッドですが」
残りは帰って食べるからと大事そうに抱えてきた紙袋を見せたシエルに大仰なため息をつき、次にニールへ「お前は余計な事ばかり覚えさせる天才か」と嫌味を言う。
「食は人生に欠かせないだろ。食事の質は健康だけじゃなく気力や集中力にも左右する。俺達の仕事じゃ一瞬が命取りだろ」
「私も余計な事とは思いません。レーションはあくまでカロリーの確保と保存性を優先した一方で娯楽性に欠けているのは事実です」
「お前も簡単に餌付けされるな。まったく、人としての経験の浅さが仇になるとはな」
ふう、と息を吐き、「まあ、戦闘用レーションばかりでは飽きも来るし精神がもたないか」とぼやくのが聞こえた。ニールは改善の兆しを見逃さず、手強い大人への交渉を開始した。
「なあおっさん、今朝は文句を言った俺が悪かったよ。賃金出してもらって、その上タダ食いさせてもらってるのにあの言い草はガキの駄々捏ねだ」
「なんだ突然。今度はゴマスリか?」
「違う、俺が言いたいのはお互い譲歩しないかって事。まず温めるレーションから取り入れて、たまにでいいから安価かつ簡単な食事をしないか?ここには前にいた奴らの置いていったガラクタも多いから中には使えるものがあるかもしれない。調理具は足りなかったらディスカウントストアでも見繕える」
「さてはそれが狙いだったな。俺は作らんぞ」
「俺が作るしシエルにも教える。交代でやればいいだろ」
「気の長い話だな。潜伏中の俺達がそんなに長居すると思ってるのかお前は……」
「でも、あんたらに全くメリットのない話でもない」
呆れの目を向けられてもなおも食い下がるニールを死んだ魚のような目が見下ろす。じっくりとニールを観察し、観念するように「モチベーションを維持させるのも仕事のうちという事か」と降参のジェスチャーをさせた事で交渉は成功したのだった。
試しに平べったいパンらしきものを口に入れてみる。
「…………味がしねぇ」
碧眼で手元を睥睨するも、味は変わらなかった。
口内の水分を奪っていくパサパサのパンと申し訳程度に添えられた調味料。スパムの缶詰。クラッカーとカロリーバー。手早く空腹を満たす事だけ考えたラインナップだ。固形燃料で温めるメニューもあるが、手間がかかるという億劫がったロレンスの一言で未使用のまま貯め込まれている。パンのクオリティからはあまり期待できないが、即胃に詰め込めるものがなくなったら手をつけられるのだろう。
何度も口に出しかけては引っ込めてきた言葉がついに口をついて出た。
「なあ、朝食くらいまともなの食えよ」
「まともな、は抽象的すぎます。具体的にお願いします」
「食えるだけマシだと思え。それにパシリ代を渡しているだろう?それでまともなものを食ったらどうだ」
一言口にすれば両者から人情味のない返しが来る。この手のやり取りも慣れてきて、思った通りの返答に自分も彼らへの理解が進んできたなと嘆息する。それがいい事なのかは分からないが。
「ロレンスに同意します。ニール、私達の食事に付き合う必要はないのに何故レーションを食べているんですか?」
「まあ、付き合いっつーか……一人だけ別のもの食うのも気が引ける」
「食べたくないものを付き合いで食べる。何故そんな事を?その行動にどんな意味があるんですか?」
詰め寄られて返答に窮したニールの内心を見透かすようにロレンスの切れ長の目が細められる。
「可能な限りケチりたいんだろう。今のアイルランドは軒並み物価が上がっている。元から食品は割高だったが、ここ数年は特に顕著だ」
「理解しました。あなたなりの節約術でしたか」
節約術と表現された途端に懐の小さい男だと言われているような気がして歯噛みするが、今の生活において節制は必要不可欠だ。スーパーの食材も値上がりしていて外食は論外。となると、ある物なら不味いレーションだろうと胃に詰め込みたい。味わう事を諦め、黙々と胃に詰め込むニールにシエルがぽそりと言う。
「私にとって食事はこういうものです。理解してもらえましたか?」
「ああ。味わいもへったくれもないのがよーく分かったぜ」
苦々しく呟いた言葉にこくこくと頷く。どうやら相互理解が進んだと受け取ったらしい。「慣れてしまえば手段でしかなくなります」と言う薄紫の目は澄んでいた。
彼らと共に行動するようになってから三ヶ月が経とうとしている。仕事でのコンビネーションは少しずつ手応えを感じるようになってきた頃合だが、両者の歩み寄りはまだまだ前途多難だ。
◇
「あんな食生活、慣れる前に精神が荒んじまう、っつーの!」
生活雑貨の並んだ棚を睨みつけ、朝の一幕に文句を言いながらもメモに書かれた品物をカゴに放り込んでいく。前に来た時よりやや値上がりしているのに世知辛さを感じながら精算を終えたニールは外へ出た。以前よりも冷たくなってきた空気は秋の訪れを感じさせた。
買い忘れがないかメモを再度確認し、上着のポケットへとしまった。ロレンスとシエルが人目を忍ぶ生活を送る上で日用品の調達は主にニールの役目となっている。いわばライフラインの一部と言っていい。だからこそ人使いの荒さに辟易し、少しは感謝してほしいと思うところもあるが、こういった使いっ走りでも小遣い程度の金銭が与えられる。ひとつひとつは大した額ではないが、弟のため報酬をなるべく蓄えておきたい身で生活に充てられる金銭は貴重だった。
だからこそただで食料にありつけている現状はありがたいのだが、元々一般家庭で育ったニールには今の食生活は過酷に思えてならない。
もう少しまともな食事がしたいよな、と改めて痛感しながら帰路へついていたニールは香ばしい香りに誘われてふと足を止めた。香りを辿った先にはレトロな店構えのベーカリーがあり、ガラスの向こうに見えるふっくらとしたパンと惣菜の数々が見える。店内から漂ってくる焼きたてのパンの匂いがニールの腹を鳴らした。
「う、うまそう……」
ごくり、と唾を飲む。
ロレンス達のところへ身を寄せるようになってからそれなりに経ったが、ここのところまともな食事食べていない。伝手で入手してきた払い下げ品のレーションや缶詰で食い繋いでいるのが現状である。ロレンスの言う通り節約など気にせず貰った額で食うのであればある程度のものを食べられるはずだ。しかし国内・世界共に情勢が不安定な以上、ライルに残せる金は多いに越したことはない。だが、妥協できるラインも限りがある。
「大体レーションだの缶詰だのは味気なさすぎるんだよ」
元々ニールも褒められた食生活を送っていたわけではない。しかし、クラッカーやカロリーバーを詰め込む味気なさと比べたら、見よう見まねの自炊の方がよほど食事らしかった。栄養面で事足りていようとこんな食生活を続けていたら体よりも先に精神が参ってしまう。至急改善すべき事案だ。
「固形燃料入りもあるんだから簡単な料理はできるかもしれないよな。キャンプ用の調理器具でもないか探してみるか」
セーフハウスのダンボールの中にそれらしきものを見たような覚えがある。使えるかは分からないが、試してみてダメそうなら店を当たってもいい。最悪、温めるタイプのレーションがラインナップに入るようになるだけでも御の字だ。
このままだと食の楽しみすら忘れてしまいそうだ。
今後の食について悶々と考えていると、ふとシエルに食の好みを尋ねた時のやり取りが頭に浮かんだ。備蓄されているレーションや固形保存食を日常的に食べているから食に関心を持たないのも自然な事かもしれない。少しは食へ関心を向けさせるのもいいだろう。名前の時のように待遇改善されればなおよし。そう思い立った彼は足早にセーフハウスへと戻るなり、銃の手入れを行っていたシエルを連れ出した。
「それでここに来たんですか?」
帽子のつば越しにベーカリーを見上げるシエルへニールはどこか誇らしげな表情を見せた。
対するシエルは胡乱げな眼差しだ。
「美味いものを食べるのがどういう事か教えてやるからな」
「一人で食べた方が金銭的負担も軽いでしょう。何故私を連れてくる必要があったのですか?」
「おっさんはともかく、シエルは育ち盛りなんだからちゃんとした物食べないとな」
「そうなんですか?」
「多分な。俺より少し下なら育ち盛りの範囲だ」
店内へ入るとシエルは迷い込んだリスのように視線をあちこちへとさ迷わせる。物珍しそうにきょろきょろと視線をやる姿は年相応で可愛らしい。
「色んな匂いが……」
「あんまり入った事ないのか?」
「基本的に外で待つ事が多いので」
「妙に荒事馴れしてるわりには世間知らずだな、お前」
ふとレジの方から視線を感じる。店員からは悪意や害意は感じられないものの、訝しんでいるような眼差しだ。原因はおそらくシエルだろつ。帽子かサングラスを必須レベルで掛けていて、酷い時は両方装備している。今日はどちらも着用している状態だった。店員へ聞こえないよう、こっそりと耳打ちした。
「潜伏してるからしょうがねえのは分かるけど、ちょっとくらい外してもいいんじゃないか?」
しかしシエルは譲らない。だが、店内でもサングラスを外さないのはさすがに浮く。そして店員の視線が刺さって仕方ない。日差しも強くない曇りの日にまでガッチリ防備しているのは却って不審に思われやすいだろう。女性の場合紫外線対策もあるだろうが、こんな年頃の、少年にも見える少女がガチガチに対策しているのもそれはそれで奇妙だ。後ろ暗いところがあると受け取られるか、犯罪の気配を感じ取られては堪らない。
そう説得すると彼女は渋々といった風にサングラスを取る。帽子は目深に被ったままだ。
「帽子は譲れないか?」
「目元を隠すのが大事なので」
「目元?ああ、眩しいとか?」
光は瞳の色が薄いほど眩しく感じるらしい。緑目のニールも陽射しの強い日や雪などで反射光の強い日はサングラスが手放せないほどだ。シエルの虹彩はオーキッドのような薄紫なので、もしそうなのだとしたらやむを得ない。
ともあれ、ニールはトングをカチカチと鳴らしながら店内を一望する。
「じゃあ一通り見て買うもの決めるか。パンひとつずつを分け合う感じで、焼きたて優先。惣菜系は値が張るから今回はなし」
「そこまでして買う意味があるとは思えません」
「俺にはあるの」
QOLを上げるためだから切実だ。店内を回遊した末にニールはレーズン入りのトリークルブレッド選ぶ。シエルにも選ばせようとしたものの、興味がないのかニールに選ばせようとして揉める一幕がありつつもクルミ入りのソーダブレッドをトレーに載せた。どちらもアイルランドで一般的に親しまれているパンだ。
レジ前でのシエルは顔をあげようとはしなかった。「どうした?」と尋ねるニールに肯定も否定もせず、視線だけでレジのやや斜め上を見つめている。そこには壁と防犯カメラがあるだけだった。
店外へ出るなり、紙袋から自分の分を取り出したシエルは「硬めですね」と弾力を確かめるようにクルミ入りのソーダブレッドを揉む。淡々とちぎったパンを口に含んだ途端、落ち着き払っていたシエルの表情が未知の体験への高揚で塗り替えられた。薄紫色の目が感極まったように光を湛えている。
「なっ、美味いだろ」
こくこくとしきりに頷く。また一口含み、じっくり味わうように噛む。
バターミルクの風味があるとはいえ、クルミを練りこんだだけのシンプルなブレッドでここまで感動していたら手の込んだパンを食べたらどうなるのだろう。反応を見て惣菜パンもひとつくらい買っても良かったかもしれないとほんの少しだけ後悔が湧いた。試しに半分ほどの大きさでちぎったトリークルブレッドを渡すと、こちらにも目を輝かせた。「甘い」と呟くので「レーズンと糖蜜入ってるからな」と答えると、名残惜しそうに残りをちびちびと食べる。味気ない食事ばかりだった舌にはどうやらかなりの衝撃を与えたようだった。
「俺もそっち食べたい」とねだれば、好きにちぎれと言わんばかりにブレッドが差し出される。遠慮なく半分ほどちぎり、放り込むとトリークルよりも優しい味わいが口に広がった。
「トリークルの濃厚な甘みも捨て難いけど素朴な味もいいんだよなぁ」
「あなたが不満を漏らしていた理由が分かりました」
「な?これにベーコンとサラダとフライがつくのが普通の朝食。昼食や夕食はもっとバリエーションがある、非常時ならまだしも、日常的にレーション生活は堪えるんだぜ?」
「私はレーション生活が普通なのでこちらの方が異質なのですが……こんな食生活は贅沢なのでは?」
「たまの贅沢でもいいからまともな食事がしたいんだよ俺は!」
大きく腕を振ってまで強弁するニールをトリークルブレッドを食べながら眺めていたシエルは最後の一口を食べ終えて「あなたの主張は理解しました」と言った。
「じゃあおっさんの説得に協力してくれるか?」
トリークルブレッドを食べ終え、再びソーダブレッドをちぎりながら「ニールの交渉次第かと」と述べる。
「コストパフォーマンスを考えればどう考えてもレーションに軍配が上がります。なので、折衷案を提案します」
◇
セーフハウスで待ち構えていたロレンスは荷物を置いて出ていった二人が戻るなり、あからさまに顔をしかめた。入り口へ置き去りにしていった荷物が消えているという事は一人で整理したのかと眼前の男の意外な一面にニールはほんの少しだけ彼を見直していた。
「おいニール、買い出ししたら片付けまでしていけ。あとその紙袋は何だ」
「ベーカリーで買ったブレッドですが」
残りは帰って食べるからと大事そうに抱えてきた紙袋を見せたシエルに大仰なため息をつき、次にニールへ「お前は余計な事ばかり覚えさせる天才か」と嫌味を言う。
「食は人生に欠かせないだろ。食事の質は健康だけじゃなく気力や集中力にも左右する。俺達の仕事じゃ一瞬が命取りだろ」
「私も余計な事とは思いません。レーションはあくまでカロリーの確保と保存性を優先した一方で娯楽性に欠けているのは事実です」
「お前も簡単に餌付けされるな。まったく、人としての経験の浅さが仇になるとはな」
ふう、と息を吐き、「まあ、戦闘用レーションばかりでは飽きも来るし精神がもたないか」とぼやくのが聞こえた。ニールは改善の兆しを見逃さず、手強い大人への交渉を開始した。
「なあおっさん、今朝は文句を言った俺が悪かったよ。賃金出してもらって、その上タダ食いさせてもらってるのにあの言い草はガキの駄々捏ねだ」
「なんだ突然。今度はゴマスリか?」
「違う、俺が言いたいのはお互い譲歩しないかって事。まず温めるレーションから取り入れて、たまにでいいから安価かつ簡単な食事をしないか?ここには前にいた奴らの置いていったガラクタも多いから中には使えるものがあるかもしれない。調理具は足りなかったらディスカウントストアでも見繕える」
「さてはそれが狙いだったな。俺は作らんぞ」
「俺が作るしシエルにも教える。交代でやればいいだろ」
「気の長い話だな。潜伏中の俺達がそんなに長居すると思ってるのかお前は……」
「でも、あんたらに全くメリットのない話でもない」
呆れの目を向けられてもなおも食い下がるニールを死んだ魚のような目が見下ろす。じっくりとニールを観察し、観念するように「モチベーションを維持させるのも仕事のうちという事か」と降参のジェスチャーをさせた事で交渉は成功したのだった。