潜伏編
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集中が高まりきると世界から切り離されるような感覚が訪れる。スポーツ競技で言うところのゾーンに近い。呼吸音すら遠くなっていき、自分とライフル、そしてターゲットだけが残される。静まり返った世界で、レティクルが重なる一瞬に引き金を絞る。それだけで遠方にいたターゲットの命はあっさりと散った。
スコープの先でターゲットの身体が揺らいだのを確認し、ニールは狙撃の姿勢を解く。
「見事なヘッドショットです」
ライフルを片付けるニールの斜め後ろから冷淡な声がかけられた。サブマシンガンを提げた少女だ。こちらもニールの狙撃を見届けるなり、手早く撤収に取り掛かっている。
「この距離で当てるなら狙撃は問題ありませんね」
「だからそう言ったろ?」
「接近戦は素人同然の動きだったのでどうしたものかと思いましたが」
「……しょうがないだろ。友達や兄弟とも取っ組み合いの喧嘩なんて滅多にしなかったんだから」
会話を打ち切るようにケースを閉め、彼らは狙撃ポイントを後にした。
◇
ダブリンの中心地や北部では昼間から出歩く非行少年の姿が数多く見られる。今使っている撤収ルートも非行グループの少年少女達が溜まり場として占拠していた。テロの影響を受けて学校に通えなくなり、かといって働き口もない青少年達の溜まり場となっているからだ。行政も支援の動きこそあるものの、実際に行われるのは早くても数年先の見通しになる。そんな先の見通せない不安と無気力感から彼らは居場所を求めて集まってくる。
ティーンの集まる土地なら子どもだけで出歩いていても不審がられず、彼らのやんちゃさを知る大人達も不必要な干渉を避ける。多くの非行少年を目眩しとして利用できるこの地区は撤収ルートとして適していた。暇つぶしの相手を探しているのだろう、気怠そうにしながらも絡みついてくる視線が鬱陶しい。
ニールのお目付役はそんな彼らに視線すら向けず早足で突き進む。離れないよう足を動かしながら小声でぼやいた。
「なあ、パシリが欲しかったんならここにいる連中に金握らせれば手っ取り早かったんじゃないか?」
「彼らのような相手と信用を築くのは難しい」
「俺もそう変わらないと思うけど」
「あなたは取引に足ると判断したのでしょう。少なくとも目的を持って行動している以上、無軌道な彼らとは違う」
「さいですか」
ニールは通りで獲物を物色する同年代から大人びた口ぶりで話していた同行者へと目を向ける。
体のラインを隠すユニセックスな服装でまとめた同行者は少年に見えるが、実のところは少女だという。ほっそりとした体格で大人しそうに見えるが、荒事慣れしていてニールをねじ伏せるだけの身体能力もある。人は見かけによらないとはこの少女を指すのだろう。
視線を前方に向けたまま少女が問いかけてきた。
「先程の腕ならば堅実に依頼をこなせば生きていくのに支障なかったはず。何故あの依頼を受けたのですか?」
「それじゃ足りないって焦ってたんだよ。……そのせいで今後足がかりにしたかったところを失っちまったけどな」
ニールを雇った新興勢力のギャング達はロレンスの背後にいた旧派閥との抗争の末、壊滅に追い込まれてしまった。
金、経験、信用。現在のニールにはそのどれもが足りなかった。信用第一の世界でやっていくならコツコツ積み上げる時期と分かっていながらも、伸び悩みと焦燥を感じていた時に格上の依頼に手を伸ばしてしまったのは今思えば判断ミスとしか言いようがない。
その一方で失態は転機に繋がった。ターゲットだったロレンスはアイルランドの裏社会方面に顔が広いようで、腕が確かと分かれば仕事を回したり仲介屋の斡旋をしてもいいと言っている。
仲介料として何割か差し引かれる契約なのは不満だが、無い無い尽くしでようやく単発の仕事を掴む繰り返しを余儀なくされていたこれまでよりはマシなはずだ。
それにしても、とニールは思う。男と少女の素性は謎に包まれている。後暗い人間なのは間違いないが、年半ばにも満たないだろう少女を使って非合法な稼業を手伝わせている。推測される年齢から親子という線もありうるが、接し方を見ていると親子の距離感とは到底思えない。
「なあ、あのおっさん何者なんだ」
「あなたの今の雇い主。それ以上は知る必要のない事です」
「そればっかだな」
「事実ですから」
「そうかい」
何度目になるかも忘れるくらい繰り返したやり取りにため息をつく。もはやうんざりとした態度を隠すのも億劫になっていた。
ロレンスや少女と行動を共にするようになってから二週間が経った。そのうちほとんどは使いっ走りと体力作り、そして訓練で費やされたが、狙撃の腕を見たいというロレンスの一声でようやく仕事を任された。
「ったく、二週間がこんなに長く感じたのは初めてだ。毎日おっさんかお前に痛めつけられるこっちの身にもなれよ」
「受け身も取れないのだから当然では?」
「悪かったな」
「悪いと理解しているのなら改善を。改善されればより効率的に進みます」
「おっまえなぁ……言葉のキャッチボールって分かる?」
「今しているでしょう?」
「お前のはキャッチボールじゃなくてただ投げてるだけ」
嫌味も通じない。眉根を寄せて少女を見やるが、帽子を目深に被った横顔からは相変わらず感情が読めなかった。
十代前半であれだけの技量を持ち合わせ、非合法な稼業の片棒を担ぐだけあって非凡な生き方をしてきたのは聞かずとも分かる。出会った時のロレンスの言葉もそれを示唆していたのだろう。
この一週間で接する機会はそれなりにあったものの、少女は事務的なやり取り以外でほとんど口を開かない。高い戦闘技術を持つ以外の事は不明なままで名前すら知らない。何度か尋ねた事はあるが無視されるのでお手上げ状態だ。
人と打ち解けるのは得意な方と自負していた。しかしここまで取り付く島もない態度の人間と接するのは初めてで、正直手詰まりを感じていた。
このままではよくない。そう思い、ニールは改めて少女との会話を振り返る。見ている限り彼女は対人経験が少なく、事務的かつテンプレートなやり取りがほとんどだ。ならば、こちらから話題を提供すればいい。
「なあ、これからもお前がついて来るんだろ?」
「一人で任せられると判断するまではそうなります」
「なら、お互いの事を知った方がいいと思うんだ」
「必要ですか?」
「知らない奴に背中任せられるか?」
問い返すと目深に被った帽子のつばがこちらに向けられた。肝心の目線は分からないが、話を聞く気はあるようだと判断する。
「俺は任せたくないね。呼吸も合わないどころか意思疎通すらできない奴と連携できるかっての」
「分かりました。ではどうぞ」
「どうぞ、って」
「お互いを知るのでしょう?」
自分から提案しておきながら、あまりの切り替えの早さに戸惑いを見せてしまった。相手の事を考えず、投げられたから投げ返すような独特のコミュニケーションにはまだ慣れそうにない。
もう少し自然なやり取りだとありがたいが、今の少女にそこまで求める気はない。せっかく得た機会だから友好な関係を築くきっかけになればいい。
ニールは脳内で手持ちの話題を探ってみる。いずれ聞き出したい事もたくさんあるが、いきなりプライベートな部分に踏み込むと歩み寄りが無駄になる。そう考えてまずは定番の話題から始める事にした。
「そうだな……食事はレーションばっかりって飽きないか?」
「基本的にこれなので飽きるも何も」
「でもたまには好きな物食べたいなーってあるだろ。ちなみに俺はジャガイモな。で、何が好きなんだ?」
「空腹が満たせるのならどれも変わりません」
「じゃあ趣味は?俺は読書なんだけど」
「特になにも」
「……予想してたとはいえ殺伐としてんなぁ。何の楽しみもないのってつらくないか?」
「あなたが挙げたものは欠けていても身体活動に支障のないものだと思うのですが」
「…………本気で言ってんのか?」
――そんな人生嫌すぎる。顔をしかめたニールを薄紫の両目が見つめていた。動物園で観察される動物達はこんな思いをしているのかもしれない。
「ええと、じゃあ…………」
定番の話題『食の好み』と『趣味』を空振ってしまい、早速雲行きが怪しくなった。そう感じたニールの直感は当たっていたのだろう。
個人の嗜好に関する質問はことごとく空振り、出身地はお決まりの「知らない方がいい」という回答である意味予想通りだった。問題はその後だ。
少女は自分の誕生日、年齢、果ては名前すら答えなかった。否、答えられなかったと言うべきだろうか。嗜好を問われた時のはっきりとした回答と違い、濁すような返答と沈黙が少しずつ増えていく。考えるにしては短く、シラを切るにしては長い沈黙。少女の様子を見ていたニールはやがて隠しているのではなく本当に分からないのではないかという推測に至った。
「あー……ええと、おっさんからはなんて呼ばれてるんだよ」
「主に『おい』か『お前』です」
「じゃあ、前に名前聞いた時黙っていたのは」
「『おい』や『お前』が名前でない事はさすがに私でも理解しています。ない、と答えた方がよかったでしょうか」
嘘だろ、そんな事あるか?思わず頭を抱えてしまったニールを少女はフラットな眼差しで眺めている。相変わらず何を考えているのか分からない目だ。
出会ってからの二週間、ニールは少女の視線を苦手に感じていた。観察するような双眸に若干辟易していたのも確かだ。だが、自分を定義するためのパーソナルデータすら空白だらけの彼女は、もしかしたら自分が何を感じているのかすら分からないのかもしれない。
「なあ、お前それでいいのか?」
「いいもなにも、そういうものですから」
少女の語り口からは温度というものを感じられない。そういうものとして許容しているのか、それとも考える事や感じる事も放棄しているのかもはっきりしない。
「それでも自分の思った事は言わないと」
彼らにどれだけ後ろ暗い背景があろうと関わりのない事だ。だが、個人として扱われていないのを「そういうもの」として受け入れられるほど彼は擦れてはいなかった。いくらなんでもそれはダメだろう。ニールは少女の腕を掴んで帰路を急いだ。思い立った以上、行動を起こさずにはいられなかった。
◇
拠点は入り組んだ裏路地をいくつも入った先にある二階建ての雑居ビルだ。こじんまりとした建物でよく言えば歴史ある外観は立地の悪さもあって完全に埋もれてしまう。部屋部分は小さく仕切られていて、ロレンスと少女はそのうち一室をメインの居住スペースとして使っている。
日の差し込まない部屋は薄暗く、日中でも陰鬱な雰囲気が漂っていた。がらんとした室内には置き去りにされていたというテーブルと数脚の椅子、そして部屋の隅に寝具代わりの毛布類と食料の詰まった段ボール箱が置かれている。古びた椅子で居眠りをしているロレンスを見るなり、ニールは拳をテーブルへと叩きつけた。
年季の入ったテーブルは悲鳴のような音を立てて軋み、少女がテーブルの痛み具合を確認するように身を屈める。
「この子に呼び名をつけろ」
「なんだいきなり」
突然の要求に眉をひそめ、「要らんだろう」と面倒くさそうにあくびをする。そんな態度にますます苛立ちが募った。雇用関係になったとはいえど、男のやり方はニールとって受け入れがたいものがある。
「この子だって心のある人間なんだぞ。ちゃんと人らしく扱ってやれよ」
「随分分かったような口を利くな」
「あんたはガキでも分かる事を指摘されてるんだよ。恥ずかしくないのか?」
「義憤は結構だが、そいつはどう思っている?いらんと思っているのなら無理につける必要もないだろうに」
二人分の視線を受け、屈んでいた少女はおもむろに立ち上がると数拍の間を置いて口を開いた。
「呼び名があれば今後の面倒事が減ると考えます」
「……なんだと?」
意外だったのかロレンスの眉がわずかに上がる。興味深そうに少女を眺め、手で続きを促した。
「確かに些細な事です。面倒事を嫌うあなたならば避けるでしょう。しかしこの問題を看過した場合、後々更に面倒な事態を招くのでは?」
「ほう。例えば?」
「現状のままでは個別指示を出す際に混乱が生まれます」
「呼び分けならガキとお前で済む」
「あなたはそうかもしれませんが、私達には混乱の原因になります。『ガキ、お前は〜』という場合どうでしょうか」
「そのくらい少し考えれば分かるだろうが」
「はい、平時なら混乱も起きないでしょう。けれど切迫した状況ならばどうでしょうか?取り違えは充分起こりえます」
「…………」
「取り違えは現場でのチームワークにも支障をきたします。一瞬の遅れが命取りになる事を思えばこちらの方が重要。以上の事から統一された呼び名が必要と判断しました。加えて彼の事も名前で呼ぶよう進言します」
感情のこもらない声音で述べ終えた少女が「思った事は言えと言ったでしょう」とニールへ目を向ける。
「……余計な事を吹き込んでくれたな」
「この子自身の意見だ」
「意見を求められたので可能性を述べただけです」
「でもそう思ったんだろ?それでいいんだよ」
「そうですか」
ニールの言葉が響いたのかは分からない。だが、言われるがまま従うだけだった少女に変化が起きたのは間違いなかった。まだ知らない事の方が遥かに多い関係性だが、これからの改善に期待が持てそうだ。
「シエル」
ぼそりと呟かれた言葉が意味するところを察するまでほんの少しの時間を要した。
「これで満足か。俺は仮眠に戻る」
「分かりました。ありがとう、ロレンス」
もう少し言い方というものがあるだろうに。文句をつけようとしたニールを遮って少女――シエルが会話を終えてしまった。切り上げられてしまったニールは胸中にもやもやとしたものを感じながら問いかけた。
「いいのか?」
「呼び名がない問題は解消しました」
「そりゃそうだけどさ……」
「結果的に要望は通りました。充分です」
そう言われてしまえばこれ以上踏み込めない。
彼らの関係は一般家庭で育ったニールには理解しがたいものがあった。「名前は子どもに贈る最初の贈り物だから」と、自分達や妹が生まれる時に寸前まで頭を悩ませたと愛おしげに語っていた両親と比べて、迫られたから仕方なくつけたロレンスの態度には釈然としないものを感じてしまう。
「それより咄嗟に自分と認識できるかの方が今後に関わります」
「そんなの日常的に呼んでいれば慣れてくるだろ」
「お願いします」
「お願いしますって」
「あなたが言ったんですよ」
「分かったよ。分かったから間髪入れず畳み掛けるのやめろ。お前ただでさえ取っ付きづらいんだから」
「名前、呼ばないんですか」
そこが引っかかるのか。突っ込みたくなる気持ちを抑えて「……せめてワンクッション入れてくれよ、シエル」と伝えるとようやく頷いた。悪気はなさそうだが、やはり相手への思慮が欠けているように見える。なんだかなと思いつつも少しずつ歩み寄れる可能性が見えてきただけ良しとしよう。
「努力します」
「……がんばろうぜ、お互いに」
スコープの先でターゲットの身体が揺らいだのを確認し、ニールは狙撃の姿勢を解く。
「見事なヘッドショットです」
ライフルを片付けるニールの斜め後ろから冷淡な声がかけられた。サブマシンガンを提げた少女だ。こちらもニールの狙撃を見届けるなり、手早く撤収に取り掛かっている。
「この距離で当てるなら狙撃は問題ありませんね」
「だからそう言ったろ?」
「接近戦は素人同然の動きだったのでどうしたものかと思いましたが」
「……しょうがないだろ。友達や兄弟とも取っ組み合いの喧嘩なんて滅多にしなかったんだから」
会話を打ち切るようにケースを閉め、彼らは狙撃ポイントを後にした。
◇
ダブリンの中心地や北部では昼間から出歩く非行少年の姿が数多く見られる。今使っている撤収ルートも非行グループの少年少女達が溜まり場として占拠していた。テロの影響を受けて学校に通えなくなり、かといって働き口もない青少年達の溜まり場となっているからだ。行政も支援の動きこそあるものの、実際に行われるのは早くても数年先の見通しになる。そんな先の見通せない不安と無気力感から彼らは居場所を求めて集まってくる。
ティーンの集まる土地なら子どもだけで出歩いていても不審がられず、彼らのやんちゃさを知る大人達も不必要な干渉を避ける。多くの非行少年を目眩しとして利用できるこの地区は撤収ルートとして適していた。暇つぶしの相手を探しているのだろう、気怠そうにしながらも絡みついてくる視線が鬱陶しい。
ニールのお目付役はそんな彼らに視線すら向けず早足で突き進む。離れないよう足を動かしながら小声でぼやいた。
「なあ、パシリが欲しかったんならここにいる連中に金握らせれば手っ取り早かったんじゃないか?」
「彼らのような相手と信用を築くのは難しい」
「俺もそう変わらないと思うけど」
「あなたは取引に足ると判断したのでしょう。少なくとも目的を持って行動している以上、無軌道な彼らとは違う」
「さいですか」
ニールは通りで獲物を物色する同年代から大人びた口ぶりで話していた同行者へと目を向ける。
体のラインを隠すユニセックスな服装でまとめた同行者は少年に見えるが、実のところは少女だという。ほっそりとした体格で大人しそうに見えるが、荒事慣れしていてニールをねじ伏せるだけの身体能力もある。人は見かけによらないとはこの少女を指すのだろう。
視線を前方に向けたまま少女が問いかけてきた。
「先程の腕ならば堅実に依頼をこなせば生きていくのに支障なかったはず。何故あの依頼を受けたのですか?」
「それじゃ足りないって焦ってたんだよ。……そのせいで今後足がかりにしたかったところを失っちまったけどな」
ニールを雇った新興勢力のギャング達はロレンスの背後にいた旧派閥との抗争の末、壊滅に追い込まれてしまった。
金、経験、信用。現在のニールにはそのどれもが足りなかった。信用第一の世界でやっていくならコツコツ積み上げる時期と分かっていながらも、伸び悩みと焦燥を感じていた時に格上の依頼に手を伸ばしてしまったのは今思えば判断ミスとしか言いようがない。
その一方で失態は転機に繋がった。ターゲットだったロレンスはアイルランドの裏社会方面に顔が広いようで、腕が確かと分かれば仕事を回したり仲介屋の斡旋をしてもいいと言っている。
仲介料として何割か差し引かれる契約なのは不満だが、無い無い尽くしでようやく単発の仕事を掴む繰り返しを余儀なくされていたこれまでよりはマシなはずだ。
それにしても、とニールは思う。男と少女の素性は謎に包まれている。後暗い人間なのは間違いないが、年半ばにも満たないだろう少女を使って非合法な稼業を手伝わせている。推測される年齢から親子という線もありうるが、接し方を見ていると親子の距離感とは到底思えない。
「なあ、あのおっさん何者なんだ」
「あなたの今の雇い主。それ以上は知る必要のない事です」
「そればっかだな」
「事実ですから」
「そうかい」
何度目になるかも忘れるくらい繰り返したやり取りにため息をつく。もはやうんざりとした態度を隠すのも億劫になっていた。
ロレンスや少女と行動を共にするようになってから二週間が経った。そのうちほとんどは使いっ走りと体力作り、そして訓練で費やされたが、狙撃の腕を見たいというロレンスの一声でようやく仕事を任された。
「ったく、二週間がこんなに長く感じたのは初めてだ。毎日おっさんかお前に痛めつけられるこっちの身にもなれよ」
「受け身も取れないのだから当然では?」
「悪かったな」
「悪いと理解しているのなら改善を。改善されればより効率的に進みます」
「おっまえなぁ……言葉のキャッチボールって分かる?」
「今しているでしょう?」
「お前のはキャッチボールじゃなくてただ投げてるだけ」
嫌味も通じない。眉根を寄せて少女を見やるが、帽子を目深に被った横顔からは相変わらず感情が読めなかった。
十代前半であれだけの技量を持ち合わせ、非合法な稼業の片棒を担ぐだけあって非凡な生き方をしてきたのは聞かずとも分かる。出会った時のロレンスの言葉もそれを示唆していたのだろう。
この一週間で接する機会はそれなりにあったものの、少女は事務的なやり取り以外でほとんど口を開かない。高い戦闘技術を持つ以外の事は不明なままで名前すら知らない。何度か尋ねた事はあるが無視されるのでお手上げ状態だ。
人と打ち解けるのは得意な方と自負していた。しかしここまで取り付く島もない態度の人間と接するのは初めてで、正直手詰まりを感じていた。
このままではよくない。そう思い、ニールは改めて少女との会話を振り返る。見ている限り彼女は対人経験が少なく、事務的かつテンプレートなやり取りがほとんどだ。ならば、こちらから話題を提供すればいい。
「なあ、これからもお前がついて来るんだろ?」
「一人で任せられると判断するまではそうなります」
「なら、お互いの事を知った方がいいと思うんだ」
「必要ですか?」
「知らない奴に背中任せられるか?」
問い返すと目深に被った帽子のつばがこちらに向けられた。肝心の目線は分からないが、話を聞く気はあるようだと判断する。
「俺は任せたくないね。呼吸も合わないどころか意思疎通すらできない奴と連携できるかっての」
「分かりました。ではどうぞ」
「どうぞ、って」
「お互いを知るのでしょう?」
自分から提案しておきながら、あまりの切り替えの早さに戸惑いを見せてしまった。相手の事を考えず、投げられたから投げ返すような独特のコミュニケーションにはまだ慣れそうにない。
もう少し自然なやり取りだとありがたいが、今の少女にそこまで求める気はない。せっかく得た機会だから友好な関係を築くきっかけになればいい。
ニールは脳内で手持ちの話題を探ってみる。いずれ聞き出したい事もたくさんあるが、いきなりプライベートな部分に踏み込むと歩み寄りが無駄になる。そう考えてまずは定番の話題から始める事にした。
「そうだな……食事はレーションばっかりって飽きないか?」
「基本的にこれなので飽きるも何も」
「でもたまには好きな物食べたいなーってあるだろ。ちなみに俺はジャガイモな。で、何が好きなんだ?」
「空腹が満たせるのならどれも変わりません」
「じゃあ趣味は?俺は読書なんだけど」
「特になにも」
「……予想してたとはいえ殺伐としてんなぁ。何の楽しみもないのってつらくないか?」
「あなたが挙げたものは欠けていても身体活動に支障のないものだと思うのですが」
「…………本気で言ってんのか?」
――そんな人生嫌すぎる。顔をしかめたニールを薄紫の両目が見つめていた。動物園で観察される動物達はこんな思いをしているのかもしれない。
「ええと、じゃあ…………」
定番の話題『食の好み』と『趣味』を空振ってしまい、早速雲行きが怪しくなった。そう感じたニールの直感は当たっていたのだろう。
個人の嗜好に関する質問はことごとく空振り、出身地はお決まりの「知らない方がいい」という回答である意味予想通りだった。問題はその後だ。
少女は自分の誕生日、年齢、果ては名前すら答えなかった。否、答えられなかったと言うべきだろうか。嗜好を問われた時のはっきりとした回答と違い、濁すような返答と沈黙が少しずつ増えていく。考えるにしては短く、シラを切るにしては長い沈黙。少女の様子を見ていたニールはやがて隠しているのではなく本当に分からないのではないかという推測に至った。
「あー……ええと、おっさんからはなんて呼ばれてるんだよ」
「主に『おい』か『お前』です」
「じゃあ、前に名前聞いた時黙っていたのは」
「『おい』や『お前』が名前でない事はさすがに私でも理解しています。ない、と答えた方がよかったでしょうか」
嘘だろ、そんな事あるか?思わず頭を抱えてしまったニールを少女はフラットな眼差しで眺めている。相変わらず何を考えているのか分からない目だ。
出会ってからの二週間、ニールは少女の視線を苦手に感じていた。観察するような双眸に若干辟易していたのも確かだ。だが、自分を定義するためのパーソナルデータすら空白だらけの彼女は、もしかしたら自分が何を感じているのかすら分からないのかもしれない。
「なあ、お前それでいいのか?」
「いいもなにも、そういうものですから」
少女の語り口からは温度というものを感じられない。そういうものとして許容しているのか、それとも考える事や感じる事も放棄しているのかもはっきりしない。
「それでも自分の思った事は言わないと」
彼らにどれだけ後ろ暗い背景があろうと関わりのない事だ。だが、個人として扱われていないのを「そういうもの」として受け入れられるほど彼は擦れてはいなかった。いくらなんでもそれはダメだろう。ニールは少女の腕を掴んで帰路を急いだ。思い立った以上、行動を起こさずにはいられなかった。
◇
拠点は入り組んだ裏路地をいくつも入った先にある二階建ての雑居ビルだ。こじんまりとした建物でよく言えば歴史ある外観は立地の悪さもあって完全に埋もれてしまう。部屋部分は小さく仕切られていて、ロレンスと少女はそのうち一室をメインの居住スペースとして使っている。
日の差し込まない部屋は薄暗く、日中でも陰鬱な雰囲気が漂っていた。がらんとした室内には置き去りにされていたというテーブルと数脚の椅子、そして部屋の隅に寝具代わりの毛布類と食料の詰まった段ボール箱が置かれている。古びた椅子で居眠りをしているロレンスを見るなり、ニールは拳をテーブルへと叩きつけた。
年季の入ったテーブルは悲鳴のような音を立てて軋み、少女がテーブルの痛み具合を確認するように身を屈める。
「この子に呼び名をつけろ」
「なんだいきなり」
突然の要求に眉をひそめ、「要らんだろう」と面倒くさそうにあくびをする。そんな態度にますます苛立ちが募った。雇用関係になったとはいえど、男のやり方はニールとって受け入れがたいものがある。
「この子だって心のある人間なんだぞ。ちゃんと人らしく扱ってやれよ」
「随分分かったような口を利くな」
「あんたはガキでも分かる事を指摘されてるんだよ。恥ずかしくないのか?」
「義憤は結構だが、そいつはどう思っている?いらんと思っているのなら無理につける必要もないだろうに」
二人分の視線を受け、屈んでいた少女はおもむろに立ち上がると数拍の間を置いて口を開いた。
「呼び名があれば今後の面倒事が減ると考えます」
「……なんだと?」
意外だったのかロレンスの眉がわずかに上がる。興味深そうに少女を眺め、手で続きを促した。
「確かに些細な事です。面倒事を嫌うあなたならば避けるでしょう。しかしこの問題を看過した場合、後々更に面倒な事態を招くのでは?」
「ほう。例えば?」
「現状のままでは個別指示を出す際に混乱が生まれます」
「呼び分けならガキとお前で済む」
「あなたはそうかもしれませんが、私達には混乱の原因になります。『ガキ、お前は〜』という場合どうでしょうか」
「そのくらい少し考えれば分かるだろうが」
「はい、平時なら混乱も起きないでしょう。けれど切迫した状況ならばどうでしょうか?取り違えは充分起こりえます」
「…………」
「取り違えは現場でのチームワークにも支障をきたします。一瞬の遅れが命取りになる事を思えばこちらの方が重要。以上の事から統一された呼び名が必要と判断しました。加えて彼の事も名前で呼ぶよう進言します」
感情のこもらない声音で述べ終えた少女が「思った事は言えと言ったでしょう」とニールへ目を向ける。
「……余計な事を吹き込んでくれたな」
「この子自身の意見だ」
「意見を求められたので可能性を述べただけです」
「でもそう思ったんだろ?それでいいんだよ」
「そうですか」
ニールの言葉が響いたのかは分からない。だが、言われるがまま従うだけだった少女に変化が起きたのは間違いなかった。まだ知らない事の方が遥かに多い関係性だが、これからの改善に期待が持てそうだ。
「シエル」
ぼそりと呟かれた言葉が意味するところを察するまでほんの少しの時間を要した。
「これで満足か。俺は仮眠に戻る」
「分かりました。ありがとう、ロレンス」
もう少し言い方というものがあるだろうに。文句をつけようとしたニールを遮って少女――シエルが会話を終えてしまった。切り上げられてしまったニールは胸中にもやもやとしたものを感じながら問いかけた。
「いいのか?」
「呼び名がない問題は解消しました」
「そりゃそうだけどさ……」
「結果的に要望は通りました。充分です」
そう言われてしまえばこれ以上踏み込めない。
彼らの関係は一般家庭で育ったニールには理解しがたいものがあった。「名前は子どもに贈る最初の贈り物だから」と、自分達や妹が生まれる時に寸前まで頭を悩ませたと愛おしげに語っていた両親と比べて、迫られたから仕方なくつけたロレンスの態度には釈然としないものを感じてしまう。
「それより咄嗟に自分と認識できるかの方が今後に関わります」
「そんなの日常的に呼んでいれば慣れてくるだろ」
「お願いします」
「お願いしますって」
「あなたが言ったんですよ」
「分かったよ。分かったから間髪入れず畳み掛けるのやめろ。お前ただでさえ取っ付きづらいんだから」
「名前、呼ばないんですか」
そこが引っかかるのか。突っ込みたくなる気持ちを抑えて「……せめてワンクッション入れてくれよ、シエル」と伝えるとようやく頷いた。悪気はなさそうだが、やはり相手への思慮が欠けているように見える。なんだかなと思いつつも少しずつ歩み寄れる可能性が見えてきただけ良しとしよう。
「努力します」
「……がんばろうぜ、お互いに」
