潜伏編
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湿ったような臭いが鼻につき、ニールは眉をひそめた。寂れた雑居ビルが今日の仕事現場だ。当初は活気があっただろうフロアもテナントが撤退して久しい。打ちっぱなしのコンクリートに囲まれた空間は寒々しく映った。辛気臭くてかなわないが、ターゲットを狙うのに絶好のポジションだから仕方ない。
やれやれとため息をつき、あらかじめ決めておいたポイントで準備を始める。
かつて、スポーツ競技としてライフル銃を抱えていた頃は少しの緊張感と高揚感があった。日々の練習に裏付けられた自信もあったが、もっと単純に射撃をスポーツとして好んでいたからだろう。結果を出す度に両親から将来は選手としてやっていけるんじゃないかと冗談と期待の入り交じった口ぶりで語られるのも誇らしかった。
それが今では復讐心と使命感を支えにし、潰されそうなほどの重圧を凌いでいるなんて過去の自分は想像もしなかっただろう。
慣れた手つきでスナイパーライフルのセットアップを終えると肺いっぱいに酸素を取り込み、全ての息を吐き出す。スコープ越しに標準の微調整をするグリーンの両眼は闇を見据えるように昏かった。
ニールが暗殺稼業に手を染めたのは簡潔に述べるなら生活のため、そして復讐のためだ。
ディランディ家は典型的な核家族で、頼れる親戚がいなかった。保護者のいない未成年の兄弟二人がこの先不自由のない生活を送るには遺産の額が足りず、働こうにもスキルを持たない子供では職も賃金も限られてしまう。あるいは、そう言い訳する事で両親や妹から自慢と言われた狙撃の腕を血に染めても仕方ないと納得させようとしていたのかもしれない。
しかし駆り立てられるように始めた暗殺業も順調と言いがたかった。信用と実績が物を言う世界に身を置いて初めて単発の仕事では稼ぐのに限界があると思い知らされたのだ。両親の遺産も限られており、二人分の学費を工面する余裕はなかった。
そう判断して学校を辞めたものの芳しくないのに変わりはない。裏社会でのコネもなく信用を得るだけの実績も足りない子どもを相手にする物好きなどいなかった。
ならばハイリスクな依頼だろうと無謀を承知で掴むしかない。焦燥感に駆られるまま受けた依頼はギャングからのものだった。
ダブリンの裏社会を支配している主だったギャングの勢力は古くから根付く旧派閥ファミリーと、そこから内部分裂後急速に勢力を伸ばしつつある新興ファミリーだ。旧派閥に付け入る隙はなかったので脇の甘そうな新興勢力からの依頼を受けた。あちらの世界に深入りする気はないが、暗殺業で生活するのであれば繋がりは持っておきたい相手である。
狙撃ポイントで待機していると長身の男が現れた。
今回のターゲットで最近界隈を荒らしているという黒髪の男だった。ヨーロッパ系との事だがどことなく無国籍感を漂わせているのが印象深い。
子どもらしき同行者がいるという情報だったが周辺を警戒しても見当たらなかった。こちらに関しては先方から特に指定されておらず、ニールも同年代の命を奪うのはなるべく避けたかったのでいないのなら好都合だ。
改めてスコープを覗けば400m先のターゲットがテラス席でブレイクタイムを過ごしている。ギャング側の情報提供と数日の裏取りで分かった事だが、男は特定の時間帯にあのテラス席で過ごす習慣がある。
射線の通りやすい位置で茶を楽しむ男の行動は狙ってくれと言わんばかりの無防備さだった。狙撃距離としてはやや近いが遮蔽物に遮られず、なおかつあちらから視認しづらい条件が整ったビルはここしかない。
――これから殺されるのにいい気なもんだな。
息を止め、標準を定める。ゆっくりと引き金を絞ろうとした時、背後からの音で身を固くした。何者かがいる!
振り返れば体勢を低くした音の主が力強く床を踏み込んだところで、ニールの心臓が急激に冷えた。前傾姿勢で突っ込んできた体躯が一気に距離を詰める。
――速い!
狙撃手は接近を許してしまった時点で命取りになる。腰に隠し持っていた護身手段のハンドガンを抜き、動揺を抑えながらジグザグを描くように駆けてくる襲撃者へ向けた。
一発目はフェイントの動きに惑わされて外した。二発目は腕を掠ったものの襲撃者の動きは止まらない。三発目の狙いが定まる前に至近距離へ滑り込まれてしまった。
詰みだと直感してもニールに足掻かない選択はない。ここで諦めたらなにもかも終わる。グリップで殴りつけようとしたが受け止められ、右手をあっさりと捻り上げられる。ハンドガンがこぼれ落ちると容赦なくコンクリートの床へと叩きつけられた。
一連の出来事からなんの気負いも感じられず、流れるような動作に何が起きているのか理解が追いつかない。もはや襲撃者の独壇場だった。
うつ伏せに転がされ、後ろ手に拘束される。背中にかかる重みで子どもが乗り上げているのだろうと分かった。ならば抵抗の手立てがあるのではないかともがいてみるも、腕を太ももで固定され、背中に乗られてはどうしようもなかった。
悪態をつく間もなく口に布を突っ込み、後頭部に硬い物が押し付けられる。ゴリゴリとした感触と特徴的な形状に体が強張った。ニールから取り上げたハンドガンだ。
「抵抗は考えないように」
声変わりしていない少年のような声が淡々と警告する。ヒヤリとした悪寒はコンクリートの上に転がされているからだけではないだろう。
「確保しました。先日見かけた少年です。……はい、素人の動きだったので使う必要がないと判断しました」
電話の相手が到着するまでの間、ニールは床に転がされていた。両親指を結束バンドできつく固定され、背中には相変わらず銃口の感触がある。視線だけで襲撃者の様子を窺うが、帽子を目深に被っているので顔は見えない。
分かるのは帽子からはみ出した髪が青みがかった銀かグレーだという事くらいだ。身長はニールとほぼ同等か。体格を隠すような服装だが首元や手首はほっそりとした印象で、一方的にねじ伏せられたとは到底信じられなかった。荒事慣れしていながらも態度は妙に丁寧でちぐはぐな印象を受ける。
その時、ブーツのような重い足音と共に長身の男が現れた。三十代半ばほどだろうか。口角は下がり気味で気難しそうな印象を受ける。張り込みしていた時の様子では何の変哲もない一般人に見えたが、間近にすると隙のない男だと分かった。
「いたか。まさか本当にガキだったとはな」
「報告した通りですが?」
「ここの治安を考えれば不思議ではないが……まったく世も末だ」
「さて、」と仕切り直すように身を乗り出した。同時に背後の銃口に押され、ニールは膝立ちの姿勢となる。
「残念だったな。お前の尾行に気づいてからこちらも一計按じさせてもらった。この位置からだと遮る物がなくて狙いやすかっただろう?」
「わざとルーティンを作ってたってわけか」
くっくっ。低い笑い声がニールの気を逆撫でする。まんまと嵌められてしまった悔しさに歯噛みするものの相手が上手だった事実は変わらない。
「お前の雇い主は死んだ。一家も壊滅している。意味するところは分かるな?」
「…………」
「何故殺しなんぞに手を染めた?小遣い稼ぎか?それともギャングの奴らに借金でも背負わされたか?」
答える義理はないと言ってやりたいところだが、今更意地を張ろうと得るものは何もない。ニールは渋々身の上を語った。半年前のテロで家族を失った事。遺産では自分と難を逃れた弟の学費を賄いきれないと分かり、学校を辞めた事。暗殺業は身入りがよく、見合うだけの技能を持ち合わせていた事。
「……フッ」
そこまで話した時、男が肩を震わせた。笑っていると分かり、裏社会の大人達から相手にされなかった苦い記憶が蘇る。
「ガキがガキを養うため殺しか。笑えんな」
「子どもにこんな事させてるアンタが言えた義理かよ」
「そいつはいい。他に生き方なんぞないからな」
嫌味を込めた反論を一笑に付し、男は身を引いた。
「今からでも遅くはない。足を洗って双子の弟とやらにも学校辞めさせて、一緒にまともな仕事を探せ。まあ、テロの傷も癒えずどこも余裕のないご時世だ。その歳じゃ大した賃金は望めんだろうが、ささやかでも遥かに真っ当な人生を送れる。復讐心なんぞ捨てろ」
「嫌だ」
「なんだと?」
「俺は家族の仇を討ちたい。俺から家族を奪ったテロが憎い。そのために力が要る。弟がまともな人生を歩むための金もだ。これ以外に選択はない」
「尚更やめておけ」
「道徳の話なら間に合ってるよ」
「違う。死体が増えるだけだ」
死んだ魚のような目にニールが映り込んでいた。その色濃さに直感する。ああ、この男も暗い淵に立っている人間だ。
「ガキがこっちの世界に足を踏み入れようと生き残れやしない。仇討ちなんぞ生きている人間のエゴでしかない。無駄だ」
容赦なく突きつけられた現実に息を飲む。ニールの中にあった大義名分は無慈悲な大人の手で完膚なきまでに壊されていく音がした。足元が崩れていくような錯覚にめまいがする。いくら狙撃の腕があろうと世界は変えられない。結局のところ、数多くいる悲劇に巻き込まれた子どもの一人でしかないのだ。虚勢は正論で剥がされ、奥底へと封じ込めていた無力感に囚われてしまいそうだ。
ぐらりと傾いた状態を背後にいる襲撃者が支える。その力強さで精神的に打ちのめされたニールの意識がわずかに浮上した。唇を噛み、痛みで襲い来る虚脱感を堪えた。
それでも、今更引き返せやしない。
「俺が生きていけるかなんてどうだっていい。家族の仇討ちがエゴ?そんなの分かってるさ。それでもあの日を過去にするなんてできないんだ。弟がこんな事せず生きていけるだけの蓄えだって要る。それだけだ。無駄かどうかはあんたが決める事じゃない」
ぶち撒けたのは破れかぶれな感情論だった。正面の男と背後の襲撃者、双方の視線が一身に注がれる中でニールは身を固くして彼らの反応を待つ。用済みと始末されるか、更なる追い打ちでもかけられるのか。
いくら待っても想像していたような追い打ちはなかった。恐る恐る様子を窺うと正面の男は腰に手を当ててニールをじっくりと眺めている。
「思考力と判断力に歪みこそあるが、嘘をついている様子はない。精神力は、現状だと判断材料に欠けるな。半年ほど前まで学校に通って狙撃を請け負えていたなら基礎的な学力と運動能力は相応に備えているか」
「……なんだよ」
「歳は?」
「…………15だけど」
無遠慮な視線に思わずたじろぐ。まるで品定めされているようで居心地が悪い。数分の沈黙ののちに男は勿体ぶるような口ぶりで告げた。
「結果だけ見ればお前の雇い主は死んだ。情けをかけてやる義理もないが、俺達は事情あって潜伏生活を余儀なくされている。そして丁度使い勝手のいいパシリが欲しかったところだ」
ピクリとも動かないのではないかと思うほど変化のなかった口角が吊り上がる。言わんとするところを察し、ニールは声を上げた。
「待てよ!まだやるなんて一言も言ってない!」
「代わりに仕事を斡旋してやろう。そうだな、見込みがあるならもう少しマトモな仲介屋を紹介してやってもいい。ついでに接近戦のいろはも叩き込んでやる」
どうだ?と鷹揚に手を広げた男を注意深く観察する。信用できるかは別として、願ってもない好条件だ。依頼主が死んで白紙になったとはいえ、信頼と収入を稼がなくてはこの先どん詰まりになるのが火を見るよりも明らかである。
「…………」
頭の中で天秤がゆらゆらと揺れていた。依頼を完遂できなかった上、殺し損ねた気に食わない男へ頭を下げるのは業腹だ。狙撃の腕に自信を持っていたニールとしては接近戦を学ぶのは逃げのように感じる部分もある。
それでもライルの将来と仇討ちどちらにもメリットがあるならプライドなど安いものだ。
「……ニール・ディランディ」
錆びついたロボットのようにぎこちない動きで頭を下げる。ゆっくりと、背中に押し付けられていた銃口の感触が遠ざかっていく。
「ロレンスだ。精々役立ってくれ」
「…………アンタに頭を下げたくはないけど従う。金と仇討ちのためだ。ただ、接近戦の指南はいらないよ」
「狙撃手のプライドか?至近距離まで接近された挙句、女に制圧される時点で狙撃手の護身としては下の下だ」
明らかな侮蔑に顔をしかめたが、それより男のセリフで気になる箇所があった。
男の指示に応じて襲撃者が帽子を脱ぐと、つばの影で隠れていた顔があらわになった。幼いながらも均整のとれた目鼻立ち。長い睫毛に縁取られた瞳は滅多に見かけない薄紫色で、年齢に見合わない憂いを帯びている。
帽子で押さえつけられていた前髪を整えるような仕草をすると、額を斜めに走る生々しい傷が見えた。少年にしては頼りなげな体格に見えたが、少女だとすればおかしくはない。
「女……?」
「はい」
呆然としたニールの言葉を少女が肯定する。少女としては随分落ち着いた声音だが、アンニュイな雰囲気には不思議と合っていた。
やれやれとため息をつき、あらかじめ決めておいたポイントで準備を始める。
かつて、スポーツ競技としてライフル銃を抱えていた頃は少しの緊張感と高揚感があった。日々の練習に裏付けられた自信もあったが、もっと単純に射撃をスポーツとして好んでいたからだろう。結果を出す度に両親から将来は選手としてやっていけるんじゃないかと冗談と期待の入り交じった口ぶりで語られるのも誇らしかった。
それが今では復讐心と使命感を支えにし、潰されそうなほどの重圧を凌いでいるなんて過去の自分は想像もしなかっただろう。
慣れた手つきでスナイパーライフルのセットアップを終えると肺いっぱいに酸素を取り込み、全ての息を吐き出す。スコープ越しに標準の微調整をするグリーンの両眼は闇を見据えるように昏かった。
ニールが暗殺稼業に手を染めたのは簡潔に述べるなら生活のため、そして復讐のためだ。
ディランディ家は典型的な核家族で、頼れる親戚がいなかった。保護者のいない未成年の兄弟二人がこの先不自由のない生活を送るには遺産の額が足りず、働こうにもスキルを持たない子供では職も賃金も限られてしまう。あるいは、そう言い訳する事で両親や妹から自慢と言われた狙撃の腕を血に染めても仕方ないと納得させようとしていたのかもしれない。
しかし駆り立てられるように始めた暗殺業も順調と言いがたかった。信用と実績が物を言う世界に身を置いて初めて単発の仕事では稼ぐのに限界があると思い知らされたのだ。両親の遺産も限られており、二人分の学費を工面する余裕はなかった。
そう判断して学校を辞めたものの芳しくないのに変わりはない。裏社会でのコネもなく信用を得るだけの実績も足りない子どもを相手にする物好きなどいなかった。
ならばハイリスクな依頼だろうと無謀を承知で掴むしかない。焦燥感に駆られるまま受けた依頼はギャングからのものだった。
ダブリンの裏社会を支配している主だったギャングの勢力は古くから根付く旧派閥ファミリーと、そこから内部分裂後急速に勢力を伸ばしつつある新興ファミリーだ。旧派閥に付け入る隙はなかったので脇の甘そうな新興勢力からの依頼を受けた。あちらの世界に深入りする気はないが、暗殺業で生活するのであれば繋がりは持っておきたい相手である。
狙撃ポイントで待機していると長身の男が現れた。
今回のターゲットで最近界隈を荒らしているという黒髪の男だった。ヨーロッパ系との事だがどことなく無国籍感を漂わせているのが印象深い。
子どもらしき同行者がいるという情報だったが周辺を警戒しても見当たらなかった。こちらに関しては先方から特に指定されておらず、ニールも同年代の命を奪うのはなるべく避けたかったのでいないのなら好都合だ。
改めてスコープを覗けば400m先のターゲットがテラス席でブレイクタイムを過ごしている。ギャング側の情報提供と数日の裏取りで分かった事だが、男は特定の時間帯にあのテラス席で過ごす習慣がある。
射線の通りやすい位置で茶を楽しむ男の行動は狙ってくれと言わんばかりの無防備さだった。狙撃距離としてはやや近いが遮蔽物に遮られず、なおかつあちらから視認しづらい条件が整ったビルはここしかない。
――これから殺されるのにいい気なもんだな。
息を止め、標準を定める。ゆっくりと引き金を絞ろうとした時、背後からの音で身を固くした。何者かがいる!
振り返れば体勢を低くした音の主が力強く床を踏み込んだところで、ニールの心臓が急激に冷えた。前傾姿勢で突っ込んできた体躯が一気に距離を詰める。
――速い!
狙撃手は接近を許してしまった時点で命取りになる。腰に隠し持っていた護身手段のハンドガンを抜き、動揺を抑えながらジグザグを描くように駆けてくる襲撃者へ向けた。
一発目はフェイントの動きに惑わされて外した。二発目は腕を掠ったものの襲撃者の動きは止まらない。三発目の狙いが定まる前に至近距離へ滑り込まれてしまった。
詰みだと直感してもニールに足掻かない選択はない。ここで諦めたらなにもかも終わる。グリップで殴りつけようとしたが受け止められ、右手をあっさりと捻り上げられる。ハンドガンがこぼれ落ちると容赦なくコンクリートの床へと叩きつけられた。
一連の出来事からなんの気負いも感じられず、流れるような動作に何が起きているのか理解が追いつかない。もはや襲撃者の独壇場だった。
うつ伏せに転がされ、後ろ手に拘束される。背中にかかる重みで子どもが乗り上げているのだろうと分かった。ならば抵抗の手立てがあるのではないかともがいてみるも、腕を太ももで固定され、背中に乗られてはどうしようもなかった。
悪態をつく間もなく口に布を突っ込み、後頭部に硬い物が押し付けられる。ゴリゴリとした感触と特徴的な形状に体が強張った。ニールから取り上げたハンドガンだ。
「抵抗は考えないように」
声変わりしていない少年のような声が淡々と警告する。ヒヤリとした悪寒はコンクリートの上に転がされているからだけではないだろう。
「確保しました。先日見かけた少年です。……はい、素人の動きだったので使う必要がないと判断しました」
電話の相手が到着するまでの間、ニールは床に転がされていた。両親指を結束バンドできつく固定され、背中には相変わらず銃口の感触がある。視線だけで襲撃者の様子を窺うが、帽子を目深に被っているので顔は見えない。
分かるのは帽子からはみ出した髪が青みがかった銀かグレーだという事くらいだ。身長はニールとほぼ同等か。体格を隠すような服装だが首元や手首はほっそりとした印象で、一方的にねじ伏せられたとは到底信じられなかった。荒事慣れしていながらも態度は妙に丁寧でちぐはぐな印象を受ける。
その時、ブーツのような重い足音と共に長身の男が現れた。三十代半ばほどだろうか。口角は下がり気味で気難しそうな印象を受ける。張り込みしていた時の様子では何の変哲もない一般人に見えたが、間近にすると隙のない男だと分かった。
「いたか。まさか本当にガキだったとはな」
「報告した通りですが?」
「ここの治安を考えれば不思議ではないが……まったく世も末だ」
「さて、」と仕切り直すように身を乗り出した。同時に背後の銃口に押され、ニールは膝立ちの姿勢となる。
「残念だったな。お前の尾行に気づいてからこちらも一計按じさせてもらった。この位置からだと遮る物がなくて狙いやすかっただろう?」
「わざとルーティンを作ってたってわけか」
くっくっ。低い笑い声がニールの気を逆撫でする。まんまと嵌められてしまった悔しさに歯噛みするものの相手が上手だった事実は変わらない。
「お前の雇い主は死んだ。一家も壊滅している。意味するところは分かるな?」
「…………」
「何故殺しなんぞに手を染めた?小遣い稼ぎか?それともギャングの奴らに借金でも背負わされたか?」
答える義理はないと言ってやりたいところだが、今更意地を張ろうと得るものは何もない。ニールは渋々身の上を語った。半年前のテロで家族を失った事。遺産では自分と難を逃れた弟の学費を賄いきれないと分かり、学校を辞めた事。暗殺業は身入りがよく、見合うだけの技能を持ち合わせていた事。
「……フッ」
そこまで話した時、男が肩を震わせた。笑っていると分かり、裏社会の大人達から相手にされなかった苦い記憶が蘇る。
「ガキがガキを養うため殺しか。笑えんな」
「子どもにこんな事させてるアンタが言えた義理かよ」
「そいつはいい。他に生き方なんぞないからな」
嫌味を込めた反論を一笑に付し、男は身を引いた。
「今からでも遅くはない。足を洗って双子の弟とやらにも学校辞めさせて、一緒にまともな仕事を探せ。まあ、テロの傷も癒えずどこも余裕のないご時世だ。その歳じゃ大した賃金は望めんだろうが、ささやかでも遥かに真っ当な人生を送れる。復讐心なんぞ捨てろ」
「嫌だ」
「なんだと?」
「俺は家族の仇を討ちたい。俺から家族を奪ったテロが憎い。そのために力が要る。弟がまともな人生を歩むための金もだ。これ以外に選択はない」
「尚更やめておけ」
「道徳の話なら間に合ってるよ」
「違う。死体が増えるだけだ」
死んだ魚のような目にニールが映り込んでいた。その色濃さに直感する。ああ、この男も暗い淵に立っている人間だ。
「ガキがこっちの世界に足を踏み入れようと生き残れやしない。仇討ちなんぞ生きている人間のエゴでしかない。無駄だ」
容赦なく突きつけられた現実に息を飲む。ニールの中にあった大義名分は無慈悲な大人の手で完膚なきまでに壊されていく音がした。足元が崩れていくような錯覚にめまいがする。いくら狙撃の腕があろうと世界は変えられない。結局のところ、数多くいる悲劇に巻き込まれた子どもの一人でしかないのだ。虚勢は正論で剥がされ、奥底へと封じ込めていた無力感に囚われてしまいそうだ。
ぐらりと傾いた状態を背後にいる襲撃者が支える。その力強さで精神的に打ちのめされたニールの意識がわずかに浮上した。唇を噛み、痛みで襲い来る虚脱感を堪えた。
それでも、今更引き返せやしない。
「俺が生きていけるかなんてどうだっていい。家族の仇討ちがエゴ?そんなの分かってるさ。それでもあの日を過去にするなんてできないんだ。弟がこんな事せず生きていけるだけの蓄えだって要る。それだけだ。無駄かどうかはあんたが決める事じゃない」
ぶち撒けたのは破れかぶれな感情論だった。正面の男と背後の襲撃者、双方の視線が一身に注がれる中でニールは身を固くして彼らの反応を待つ。用済みと始末されるか、更なる追い打ちでもかけられるのか。
いくら待っても想像していたような追い打ちはなかった。恐る恐る様子を窺うと正面の男は腰に手を当ててニールをじっくりと眺めている。
「思考力と判断力に歪みこそあるが、嘘をついている様子はない。精神力は、現状だと判断材料に欠けるな。半年ほど前まで学校に通って狙撃を請け負えていたなら基礎的な学力と運動能力は相応に備えているか」
「……なんだよ」
「歳は?」
「…………15だけど」
無遠慮な視線に思わずたじろぐ。まるで品定めされているようで居心地が悪い。数分の沈黙ののちに男は勿体ぶるような口ぶりで告げた。
「結果だけ見ればお前の雇い主は死んだ。情けをかけてやる義理もないが、俺達は事情あって潜伏生活を余儀なくされている。そして丁度使い勝手のいいパシリが欲しかったところだ」
ピクリとも動かないのではないかと思うほど変化のなかった口角が吊り上がる。言わんとするところを察し、ニールは声を上げた。
「待てよ!まだやるなんて一言も言ってない!」
「代わりに仕事を斡旋してやろう。そうだな、見込みがあるならもう少しマトモな仲介屋を紹介してやってもいい。ついでに接近戦のいろはも叩き込んでやる」
どうだ?と鷹揚に手を広げた男を注意深く観察する。信用できるかは別として、願ってもない好条件だ。依頼主が死んで白紙になったとはいえ、信頼と収入を稼がなくてはこの先どん詰まりになるのが火を見るよりも明らかである。
「…………」
頭の中で天秤がゆらゆらと揺れていた。依頼を完遂できなかった上、殺し損ねた気に食わない男へ頭を下げるのは業腹だ。狙撃の腕に自信を持っていたニールとしては接近戦を学ぶのは逃げのように感じる部分もある。
それでもライルの将来と仇討ちどちらにもメリットがあるならプライドなど安いものだ。
「……ニール・ディランディ」
錆びついたロボットのようにぎこちない動きで頭を下げる。ゆっくりと、背中に押し付けられていた銃口の感触が遠ざかっていく。
「ロレンスだ。精々役立ってくれ」
「…………アンタに頭を下げたくはないけど従う。金と仇討ちのためだ。ただ、接近戦の指南はいらないよ」
「狙撃手のプライドか?至近距離まで接近された挙句、女に制圧される時点で狙撃手の護身としては下の下だ」
明らかな侮蔑に顔をしかめたが、それより男のセリフで気になる箇所があった。
男の指示に応じて襲撃者が帽子を脱ぐと、つばの影で隠れていた顔があらわになった。幼いながらも均整のとれた目鼻立ち。長い睫毛に縁取られた瞳は滅多に見かけない薄紫色で、年齢に見合わない憂いを帯びている。
帽子で押さえつけられていた前髪を整えるような仕草をすると、額を斜めに走る生々しい傷が見えた。少年にしては頼りなげな体格に見えたが、少女だとすればおかしくはない。
「女……?」
「はい」
呆然としたニールの言葉を少女が肯定する。少女としては随分落ち着いた声音だが、アンニュイな雰囲気には不思議と合っていた。
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