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何気なくすれ違った時、シエルからふわりと淡い香りが過ぎって、ニールは「ん?」と声を漏らした。彼らの住む住居は外国人労働者向けの物件で、二人用でも少々こじんまりとした印象の部屋だった。最低限の必需品のみで構成された無機質な部屋には生活の彩りなんてものはなかった。しかしその時は陽だまりを彷彿させる、人をほっとさせるような香りがしたのだ。どこからの香りだろうと軽く視線を彷徨わせ、その香りの元がシエルだと気付いた時、ニールは意外に思いつい目で追ってしまった。
「いい匂いすんなぁ」
ぽつりと呟く。
いわゆる裏稼業に従事していた二人は香るようなものをつける習慣がなく、特に体臭も薄いシエルから硝煙以外の香りがするのは珍しい。何気ない言葉にシエルは一瞬動きを止め、ちらりとニールへ視線を向ける。心当たりがあるものの、後ろめたさもある。そんな仕草だ。向き直りはするものの、口を開こうとして躊躇う仕草は親に隠し事をしている子どものようだった。
「そう固くならず言ってみろよ」
「……この間、買い出しに出たらワゴンの販売員に声をかけられて、断りきれなかった」
「ああ……」
潜伏していた頃は顔を隠し、ユニセックスな雰囲気で固めていた故に声をかけられなかった。しかし、同棲するようになって以降ニールの要望で女性らしい服装をすることも増えたからだろう。憂いもある綺麗な顔立ちは推定される年齢より大人びて見える。販売員のターゲットにされるのも道理というものだ。
そしてこれまで販売員から声をかけられる事もなく、悪意ある声掛けは無視を徹底していたシエルが悪意のない声掛けへの対応慣れしていなかったのも無理はない。
「無香料がいいと言ったら気付いたら両方買わされていた」
「いくら位だった?」
聞けばハンドクリームとしては一般的な価格だった。アイルランドは一年中乾燥している土地でハンドケアは欠かせない。手先を大事にしたいニールとしては在庫が増えたと思えば許容範囲だ。しかし、とニールは苦笑を浮かべる。
「はは……販売員の餌食になっちまったか。それにしても意外だな、お前バッサリ断りそうなのに」
「ん……肌がすべすべになるしいい香りで恋人に褒められると言われて……」
「それで買っちまった、と」
不承不承頷くシエルにニールはにやけそうになる口許を手で覆い隠した。つまりニールの反応を期待して買ってしまったというわけだ。可愛すぎるだろう。
「仕事の時には無香料と使い分けるから」
「いいよ、そんくらい。そうかぁ、お前もケア用品とか買ったりするんだな」
言い募るシエルを鷹揚に制してニールは感慨深さに浸っていた。出会った頃の無機質さを思うと随分変わったものだ。そこにニールからの影響も含まれると思うと、より一層愛おしさが増すというもの。
相変わらず口元が緩むのを抑えきれずにいたニールをよそに、ベッドへ腰かけたシエルが小首を傾げた。
「今日はもう仕事も家事もない?」
「おお、あとは寝るだけだが」
そう言うと、シエルはポケットから女性的なデザインのチューブを取り出した。
「ニールにも塗ってあげる」
「ん?」
「狙撃手なら手のケアは大事。それに甘すぎず、男性でも使いやすい香りだって言ってたから共用しよう」
それは構わないが、塗ってあげる?
「手を出して」と待ち構えているシエルに促されるまま手を出すと、ニールの手の甲にクリームを絞り出して塗り込んでいく。軽いテクスチャのクリームが手に伸ばされる。保湿力が高いのか、伸びのいいクリームを擦り込む度にしっとりとした感触と彼女の体温がじんわりと馴染んでいった。シエルは手のひらだけでなく指も1本ずつ、水かきの部分まで丁寧に塗り込んでいく。表情は相変わらず読めないものの、視線を手元に落としている彼女はニールの骨張った手の触り心地を楽しんでいるようにも見えた。
「なあ、そんなに丁寧にやらなくてもいいぞ?」
「どうして?きちんと塗り込んだ方が効果的と言われたのに」
「どうして、って……」
シエルにとってはたかがハンドマッサージなのだろうが、思春期真っ只中のニールはじりじりと劣情を刺激されてつらい。普段は手袋で覆われている手は今無防備で、軽いテクスチャとはいえ水分のあるクリームを介して素肌同士が触れ合っている。ハンドクリームという潤滑剤の役割を果たすものを丁寧に塗りこまれるというシチュエーションにニールは良からぬ想像を掻き立てられてしまうのだ。販売員の手法を見て覚えたのか分からないが、指を扱くような手つきで塗るのだから堪らない。
「それ、販売員から覚えたのか?」
「そう」
「そいつ、もしかして男?」
「女だった。ハンドマッサージはこうするって聞いたけど、違った?」
もし男ならセクハラ目的なんじゃないかと疑うほど丁寧な塗り込みようだったが、女性ならばいいか、とニールは矛を収める。が、新たな問題が浮上してきた。かすかに粘着質な音を立てて、指を絡めて丹念に塗り込む仕草は思春期の青年には刺激が強かったのだ。じわり、じわりと下半身に熱が集まっていくのを感じてよくない!と我に返る。下半身の変化に気付かれないかひやひやとしながら熱心に塗り込むシエルを見つめるしかない。
「なぁ、もういいんじゃないか?」
「やり方間違っている?」
「間違っちゃいないんだが、俺が耐えられそうにない」
「力強すぎた?」
言いながらぬるついた手に指を絡められ、ニールの体がわずかに跳ねた。あまつさえ扱く動作に性的興奮を抑えられなかったなんて男のニールにしか分からないだろう。
「いやー、間違っちゃいないんだが……」
「できた」
そう言うなりニールの手に顔を寄せ、甲に口付けた。
キスを愛情表現と覚えたシエルは己の行動がさらに劣情を煽る事になるとは思いもしないだろう。
その行動が決定打となり、ニールがこっそりとベッドを抜け出してトイレで抜く羽目になった。
◇
その後もシエルはハンドクリームを使ってマッサージをしたがった。使わないともったいないのと、こうした触れ合いが恋人同士には大切と本で読んだからという主張だ。間違ってはいない。シエルも良かれと思って言っていると分かっていたが、いかんせんニールに疚しい感情があるだけに堪えきれそうになかった。
ある夜、いつものように洗い物を終えたシエルがニールへと振り返った。
「クリーム塗った後トイレに行く事が多いけど大丈夫?」
「ん?ああ、気にすんなよ」
あくまで何事もないかのように装っておく。お前のせいで勃っちまうから抜いてくれと言えたらどんなに楽だろうか。けれど恋愛にも疎かったシエルにまともな性知識が備わっているとは考えづらく、そんな彼女の無知に付け込んで性行為を迫るような真似は避けたいと考えたニールはこっそりと処理する日々を送っていたのだった。
「そう。また塗り直した方がいいかと思って。今日はトイレ済ませてからにしよう」
「あー、と……その事なんだが、今後は自分で塗るから気にしないでくれ」
「何故?」
「見てやり方も覚えたし、いちいち手間かけちまうのも悪いしな」
シエルがハンドケアの時間を楽しんでいるのは分かっていたが、このままでは平常心を保てる保証がなかった。一方、ニールの言い分を聞いたシエルは思案していたようで、わずかな沈黙ののちに「分かった」と口にした。
そして何を思ったのか、向かい合う形から腰を浮かせてニールの傍に近付いていく。脚の間に座って背を預け、自分の手の上にニールの手を重ねる。振り向いた薄紫の瞳が甘えるように彼を見つめた。
「じゃあ、今度はニールが塗ってくれる?」
「…………おう、任せとけ」
しばし考えあぐねてからニールはそう答えた。彼女にそんなつもりは毛頭ないのだろうが、まるで忍耐力を試されているような気がする。そんな内心をよそにシエルの白い手がマッサージを求めるように軽く握られた。
これ以来スキンシップの心地良さを覚えたシエルからねだられてハンドマッサージをするのが新たな習慣となった。
最初はニールもどうなる事かと思ったが、マッサージする側に回ってみると自分より華奢な手に性差を感じる事はあれど、不思議と自分がされていた時よりも心穏やかに触れられた。むしろ下心より相手への労りや慈しみ、愛おしさの方が湧いてくるのだから不思議だ。
しきりにマッサージしたがっていたシエルの心境がようやく理解できた。
「なるほど、やる側ってのもなかなかいいもんだ」
「そうでしょう。だから私も」
「いや、しばらくは自分でやるよ」
「…………」
不服そうなシエルの無言に笑って「勘弁な」と苦笑しながら体温とクリームの混ざり合う心地よさを味わう。彼女には悪いが、もう少しの間はこのポジションを譲れそうにない。プライベートにだけほのかな香りに包まれる時間。それは日常の中ささやかな安らぎを与えるひと時となったのだった。
「いい匂いすんなぁ」
ぽつりと呟く。
いわゆる裏稼業に従事していた二人は香るようなものをつける習慣がなく、特に体臭も薄いシエルから硝煙以外の香りがするのは珍しい。何気ない言葉にシエルは一瞬動きを止め、ちらりとニールへ視線を向ける。心当たりがあるものの、後ろめたさもある。そんな仕草だ。向き直りはするものの、口を開こうとして躊躇う仕草は親に隠し事をしている子どものようだった。
「そう固くならず言ってみろよ」
「……この間、買い出しに出たらワゴンの販売員に声をかけられて、断りきれなかった」
「ああ……」
潜伏していた頃は顔を隠し、ユニセックスな雰囲気で固めていた故に声をかけられなかった。しかし、同棲するようになって以降ニールの要望で女性らしい服装をすることも増えたからだろう。憂いもある綺麗な顔立ちは推定される年齢より大人びて見える。販売員のターゲットにされるのも道理というものだ。
そしてこれまで販売員から声をかけられる事もなく、悪意ある声掛けは無視を徹底していたシエルが悪意のない声掛けへの対応慣れしていなかったのも無理はない。
「無香料がいいと言ったら気付いたら両方買わされていた」
「いくら位だった?」
聞けばハンドクリームとしては一般的な価格だった。アイルランドは一年中乾燥している土地でハンドケアは欠かせない。手先を大事にしたいニールとしては在庫が増えたと思えば許容範囲だ。しかし、とニールは苦笑を浮かべる。
「はは……販売員の餌食になっちまったか。それにしても意外だな、お前バッサリ断りそうなのに」
「ん……肌がすべすべになるしいい香りで恋人に褒められると言われて……」
「それで買っちまった、と」
不承不承頷くシエルにニールはにやけそうになる口許を手で覆い隠した。つまりニールの反応を期待して買ってしまったというわけだ。可愛すぎるだろう。
「仕事の時には無香料と使い分けるから」
「いいよ、そんくらい。そうかぁ、お前もケア用品とか買ったりするんだな」
言い募るシエルを鷹揚に制してニールは感慨深さに浸っていた。出会った頃の無機質さを思うと随分変わったものだ。そこにニールからの影響も含まれると思うと、より一層愛おしさが増すというもの。
相変わらず口元が緩むのを抑えきれずにいたニールをよそに、ベッドへ腰かけたシエルが小首を傾げた。
「今日はもう仕事も家事もない?」
「おお、あとは寝るだけだが」
そう言うと、シエルはポケットから女性的なデザインのチューブを取り出した。
「ニールにも塗ってあげる」
「ん?」
「狙撃手なら手のケアは大事。それに甘すぎず、男性でも使いやすい香りだって言ってたから共用しよう」
それは構わないが、塗ってあげる?
「手を出して」と待ち構えているシエルに促されるまま手を出すと、ニールの手の甲にクリームを絞り出して塗り込んでいく。軽いテクスチャのクリームが手に伸ばされる。保湿力が高いのか、伸びのいいクリームを擦り込む度にしっとりとした感触と彼女の体温がじんわりと馴染んでいった。シエルは手のひらだけでなく指も1本ずつ、水かきの部分まで丁寧に塗り込んでいく。表情は相変わらず読めないものの、視線を手元に落としている彼女はニールの骨張った手の触り心地を楽しんでいるようにも見えた。
「なあ、そんなに丁寧にやらなくてもいいぞ?」
「どうして?きちんと塗り込んだ方が効果的と言われたのに」
「どうして、って……」
シエルにとってはたかがハンドマッサージなのだろうが、思春期真っ只中のニールはじりじりと劣情を刺激されてつらい。普段は手袋で覆われている手は今無防備で、軽いテクスチャとはいえ水分のあるクリームを介して素肌同士が触れ合っている。ハンドクリームという潤滑剤の役割を果たすものを丁寧に塗りこまれるというシチュエーションにニールは良からぬ想像を掻き立てられてしまうのだ。販売員の手法を見て覚えたのか分からないが、指を扱くような手つきで塗るのだから堪らない。
「それ、販売員から覚えたのか?」
「そう」
「そいつ、もしかして男?」
「女だった。ハンドマッサージはこうするって聞いたけど、違った?」
もし男ならセクハラ目的なんじゃないかと疑うほど丁寧な塗り込みようだったが、女性ならばいいか、とニールは矛を収める。が、新たな問題が浮上してきた。かすかに粘着質な音を立てて、指を絡めて丹念に塗り込む仕草は思春期の青年には刺激が強かったのだ。じわり、じわりと下半身に熱が集まっていくのを感じてよくない!と我に返る。下半身の変化に気付かれないかひやひやとしながら熱心に塗り込むシエルを見つめるしかない。
「なぁ、もういいんじゃないか?」
「やり方間違っている?」
「間違っちゃいないんだが、俺が耐えられそうにない」
「力強すぎた?」
言いながらぬるついた手に指を絡められ、ニールの体がわずかに跳ねた。あまつさえ扱く動作に性的興奮を抑えられなかったなんて男のニールにしか分からないだろう。
「いやー、間違っちゃいないんだが……」
「できた」
そう言うなりニールの手に顔を寄せ、甲に口付けた。
キスを愛情表現と覚えたシエルは己の行動がさらに劣情を煽る事になるとは思いもしないだろう。
その行動が決定打となり、ニールがこっそりとベッドを抜け出してトイレで抜く羽目になった。
◇
その後もシエルはハンドクリームを使ってマッサージをしたがった。使わないともったいないのと、こうした触れ合いが恋人同士には大切と本で読んだからという主張だ。間違ってはいない。シエルも良かれと思って言っていると分かっていたが、いかんせんニールに疚しい感情があるだけに堪えきれそうになかった。
ある夜、いつものように洗い物を終えたシエルがニールへと振り返った。
「クリーム塗った後トイレに行く事が多いけど大丈夫?」
「ん?ああ、気にすんなよ」
あくまで何事もないかのように装っておく。お前のせいで勃っちまうから抜いてくれと言えたらどんなに楽だろうか。けれど恋愛にも疎かったシエルにまともな性知識が備わっているとは考えづらく、そんな彼女の無知に付け込んで性行為を迫るような真似は避けたいと考えたニールはこっそりと処理する日々を送っていたのだった。
「そう。また塗り直した方がいいかと思って。今日はトイレ済ませてからにしよう」
「あー、と……その事なんだが、今後は自分で塗るから気にしないでくれ」
「何故?」
「見てやり方も覚えたし、いちいち手間かけちまうのも悪いしな」
シエルがハンドケアの時間を楽しんでいるのは分かっていたが、このままでは平常心を保てる保証がなかった。一方、ニールの言い分を聞いたシエルは思案していたようで、わずかな沈黙ののちに「分かった」と口にした。
そして何を思ったのか、向かい合う形から腰を浮かせてニールの傍に近付いていく。脚の間に座って背を預け、自分の手の上にニールの手を重ねる。振り向いた薄紫の瞳が甘えるように彼を見つめた。
「じゃあ、今度はニールが塗ってくれる?」
「…………おう、任せとけ」
しばし考えあぐねてからニールはそう答えた。彼女にそんなつもりは毛頭ないのだろうが、まるで忍耐力を試されているような気がする。そんな内心をよそにシエルの白い手がマッサージを求めるように軽く握られた。
これ以来スキンシップの心地良さを覚えたシエルからねだられてハンドマッサージをするのが新たな習慣となった。
最初はニールもどうなる事かと思ったが、マッサージする側に回ってみると自分より華奢な手に性差を感じる事はあれど、不思議と自分がされていた時よりも心穏やかに触れられた。むしろ下心より相手への労りや慈しみ、愛おしさの方が湧いてくるのだから不思議だ。
しきりにマッサージしたがっていたシエルの心境がようやく理解できた。
「なるほど、やる側ってのもなかなかいいもんだ」
「そうでしょう。だから私も」
「いや、しばらくは自分でやるよ」
「…………」
不服そうなシエルの無言に笑って「勘弁な」と苦笑しながら体温とクリームの混ざり合う心地よさを味わう。彼女には悪いが、もう少しの間はこのポジションを譲れそうにない。プライベートにだけほのかな香りに包まれる時間。それは日常の中ささやかな安らぎを与えるひと時となったのだった。
