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「理解ある彼女ってどう思う?」
談話室に設置されたテーブルで頬杖をつきながらフェイスが訊ねた。手には自動販売機で買ったココアが握られており、視線は茶色の水面へと注がれている。そんな様子から何やら感じ取ったビリーはゴーグルを光らせ、思わせぶりに唸った。情報通の彼は皆まで言わずとも誰を指しているのか理解したらしい。
「そうだネ……DJにとってはありがたい存在じゃナイ?」
「ま、そうかもね」
これまで素行の悪かったフェイスは言うまでもなく女性関係も混沌としていた。そんな中でも異性の友人として付き合いが続き、自分の素行を見直し始めてしばらく経った頃にあるきっかけで恋人となったのがエイダだ。彼女と恋人同士になって数ヶ月ほど経つが、ラベリングが更新されただけで友達だった頃とほとんど変わらない。
現状、公表は控えると二人で決めた事もあり表立った付き合いはこれまでと変わらない。当然だが、プライベートもささやかなものだ。
「さすがエイダパイセン。まさに理解ある彼女ってカンジ」
「でもさ、理解ありすぎて遠慮を感じるというか……こっちを求めないようにしてるのかな?自覚ないっぽいけど」
母親から置き去りにされ、孤児院で育ったエイダ。周囲に協調し、いい子にしている事で順応してきた子どもの頃からの性分をそう簡単に変えられるわけがない。分かってはいるものの、求められないのに物足りなさを感じているのが正直なところで。
「配慮なんだろうけど……なんか、信頼されていない気がしてやだ」
「DJがめんどくさい彼女みたいな事言う日がくるなんてネー」
「俺だって思ってなかったよ、まったく……」
そんな何気ない会話をした数日後、ビリーはさっそく手に入れた情報を然るべき相手へと伝える。勿論、相応の対価と引き換えにだ。
エリオスタワー下層にあるカフェで話を聞いたエイダは突然頭部を殴られたような衝撃をどうにか堪えていた。
「……って言ってたケド、エイダパイセンは心当たりある?」
「ある、かも……」
普段血色の良い顔はうっすらと青ざめていた。ビリーのもたらした情報はまさに青天の霹靂だったのだ。付き合い初めてからというもののエイダは何気ない日常に幸せと充実を感じていた。しかし、穏やかな日々は華やかな女性遍歴を持つフェイスには退屈な思いをさせていたのかもしれない。ショックでまとまりきらない思考の中必死で考えを巡らせる。もしや停滞期のマンネリというものに直面しているのか?思い返せば学生時代に付き合っていた元彼からもつまらないと言われた事があった。
冷静を取り戻そうとカップを手に取ると水面が波立っている。動揺を隠すように柄を握り直すと彼女は声を絞り出した。
「つまり、破局の危機……?」
「うーん、多分そこまで深刻じゃないと思うヨ。ただ、したい事や気持ちを言ってもらえなくて手応えがないっていうか。今後きっかけになるかもしれないケド」
あくまで中立からの言葉にそっか、と項垂れるしかなかった。
「言われてみれば……私、自己完結しちゃってたかも……」
「あらら」
「自分から好きとかあまり言ってなかった気がする」
「オイラから見てもそんなに変化ないなーと思ってたけど、二人きりでもそうだったの?」
「そういうのはフェイスから言ってくれる事が多くて、今思えば好意に甘えきってたかもしれない」
「ははぁ、DJの積極性に救われてたカンジ?」
対面のビリーは茶化す事もなく、殊勝な態度で相槌を打っている。寄り添いすぎず、あくまで中立の立場として聞き手に徹する態度にエイダの不安はじわじわと増していく。おそらく彼の脳内ではプライベート情報を一言一句逃さず書き留められているが、痛いところを突かれた上、想像していなかった問題に直面した事で頭がいっぱいのエイダは気づく由もない。
「好意を受け入れてもらった時点で満足しきっていたところはある。今の日常が続いたらそれだけで幸せっていうか。公にできないし、伝えなくても分かってくれているだろうって。でもそんなの言い訳だね」
もともとエイダは恋人らしいイベントをあまり重視していなかった。もちろんあったら嬉しいけれど、一緒に過ごすだけでもある程度満たされてしまう。あまり欲のない女性だ。彼女はそれでも幸せだと感じていたけれど相手も同じように考えていてくれるとは限らない。
気付けなかった点を第三者から指摘されたエイダの中にはある種の危機感が生まれていた。
「でもDJもめんどくさいところあるし?ある意味バランスが取れてるんじゃナイ?」
「でも好意に甘えきっているのはなんとかしたい。このままじゃいけないよ」
こちらからもアクションを起こせるようにならなくては。
決意で拳を固めるエイダの様子を見てビリーがニッと笑みを浮かべた。子どもがイタズラを思いついた時のような、楽しげな様子で彼は進言した。
「じゃあ参考になりそうな人達にアドバイスもらってみたら?」
◇
善は急げ、思い立ったが吉日と日本のことわざを口にしながら連れてこられたのはグリーンイーストのラウンジだった。ビリーは部屋の主かのようにどっかりとソファーに身を沈めていたアッシュの横に片膝をつき、ジャジャーン!という効果音を口にして手をひらひらと動かした。
「まずは一人目!良くも悪くも自分に正直、我らがアッシュパイセン!」
「なんだテメェら。出ていけ。捻り潰すぞ」
「まあまあ、アッシュパイセン落ち着いて」
「非番のところ悪いけど、今日はアッシュに用があって来たんだ」
「ウエストに行った腰抜けが今更何しにきた?」
すかさず鋭い視線が向けられる。切れ長の目がくだらない要件だったら潰すと物語っていた。ルーキーの頃は散々慣れたと思っていた威圧感も久々に浴びると気圧されそうになる。しかし、アッシュと接するならば竦み上がるのは逆効果だ。真っ直ぐに見つめながら事情を話すと彼はフン、と鼻を鳴らして視線を背けた。
「ハッ!くだらねぇ。大体テメェの誰にでもヘラヘラするところはイーストにいた頃から全然直んなかったじゃねえか!」
「パイセンってばそんな言い方しなくても」
「きっかけは確かにくだらないと思う。それでも今回の件が思い直すきっかけになったのは本当だよ。だから、どうかお願いします」
深々と下げられた赤毛を見やり、アッシュは苛立ったように舌打ちをする。
「大体、自力で思い直したならともかく色恋絡みっつーのが気に入らねえ」
「はいっ。その通りだと思います」
「浮ついてんじゃねえぞ色ボケジンジャー!」
「はいっ!根性を叩き直してくださいっ!」
蚊帳の外となったビリーが「あーあ、体育会系のスイッチ入ってきた」と腕を組みながら事の次第を見守っていると背後から遠慮がちなドアの音が聞こえてきた。見れば、ラウンジの様子を伺うようにルーキー達の相部屋のドアが細く開いている。
「グレイ?いたなら出てきたらいいのに」
何やら小声でごにょごにょと呟きながらおずおずと顔を出した彼はアッシュとエイダのやり取りを縮こまりながら見守っている。どうやらそれ以上出てくるつもりのない彼の元に寄っていくと、消え入りそうな言葉が聞こえてきた。
「……に……のは……だな……」
「うん?」
「エイダさんがアッ……シュみたいになるのは、嫌だな……」
「大丈夫、大丈夫。さすがに無理だと思うヨ」
不安げな視線を向けてくるグレイにビリーは安心させるよう朗らかに答える。エイダの気質を考えれば多少荒療治を受けたところでアッシュのような精神に目覚めるとは思えない。
その時、ドンッ!と勢いよく床を踏みつける音と共にアッシュが立ち上がった。威圧感たっぷりに仁王立ちしたアッシュが下げられたままの後頭部を見下ろしている。
「ちょうどいい、最近のテメェは見るに堪えねえと思っていたところだ。俺様が腑抜けた根性を鍛え直してやる」
「よろしくお願いします!」
「ワォ、体育会系〜!」
ちゃちゃを入れるとすかさず獣のような鋭い眼差しがビリーへと向けられる。すぐ傍で「ひっ!」と悲鳴のような息が上がった。
「テメェもだクソガキ!こっちに来やがれ!」
「なんでボクちんまで〜!?」
◇
フェイスがジム前を通りかかると馴染み深い泣き言と容赦のない罵声が聞こえてきた。例のシゴキか、飽きずによくやるなと目をやると意外な事にエイダも混じっているではないか。
ビリーの方は見るからに息も絶え絶えだが、エイダは額に汗を浮かべながらもまだ食らいついている。伊達にAAヒーローとして活躍していないといったところか。
両者を前にアッシュが檄を飛ばし、ジム内は一層ヒリついた空気で満たされた。どこからどう見ても体育会系のノリでついていけそうにない。廊下まで伝わってきそうな熱気とプレッシャーにフェイスは端正な顔をしかめた。
「うわ、暑苦し……なにやってんだか……」
エイダがイーストに在籍していたルーキー時代、メンターでこそなかったもののアッシュとは師弟のような関係だったと聞いた事があった。どういう経緯だったかは忘れたが、意外な組み合わせで意表を突かれたから覚えている。
「……たまには古巣で鍛えられたくなった、とか?」
ここで何をしているかなんて問うのは要らぬ干渉だろう。下手をすれば巻き込まれかねない。見なかった事にしようと踵を返しながらも、自分の立ち入れない人間関係を前にして何か引っかかるようなものを感じた。
◇
二時間きっちりシゴキという名のトレーニングを受けたエイダは動けなくなったビリーの傍にドリンクを置き、途中からちらちらとこちらを窺っていたアキラとウィルへ事の次第を説明した。利用する時間帯が被ってしまい、さぞ居心地の悪い思いをさせただろうと詫びをかねて彼らにもドリンクを配る。
「へぇー、思った事を伝えられるようにか」
「そうそう。それでせっかくだから二人にも聞いていい?」
「おうよ!」
「でもアキラは余計な事まで言っちゃうので参考になるかどうか……」
「なんだよ、オレだってなぁ!」
「まあまあ。確かに軽率なところもあるかもだけど、私にとっては羨ましいよ」
自分から伝えるのを怠ってしまった結果相手に甘えていたエイダとしては率直に物事を口にできるアキラの性分が羨ましい。
「確かに思ったまま動いちまうからなぁ。未だにブラッドやオスカーにもしょっちゅう叱られるし」
「思ったままに……、難しいんだよね。色々考えちゃうのが良くないのかな」
「考えてもしょうがなくね?やっぱ熱いハートのままに突き進む!これしかないよな!」
「なるほど?ウィルはどう思う?」
「……そうですね、僕だったら少しずつでも相手に伝えられるよう工夫してみると思います」
「工夫かぁ……」
「身近で何気ない事……例えば何が食べたいか、何をしたいか伝える事から始めるのはどうでしょう?小さな事ですけど、成功体験を積むのは大事だと聞いた事があります」
「小さな事でも積み重ねていくのがキモなんだね」
「だよな!やっぱ日頃から思っている事を出していくしかないだろ!まずは声出しからだ!」
「……アキラ、声出しは関係あるのか?」
「応援団だって声出しの練習するだろ?だからいざって時も堂々としていられるんじゃねーかな」
呆れ顔のウィルをよそに、勢いよく立ち上がったアキラがエイダにも立ち上がるよう促す。
物は試しにと立ち上がったエイダに対し、アキラは胸を張って声を張り上げた。
「行くぜ!ボルテージマーックスッ!」
「ボ、ボルテージマーーックス!」
「もっと声張り上げろ!ボルテージ!マーーーッ」
「アキラ、ジムは大声を張り上げる場ではないぞ」
「ブラッド!?」
驚きの声につられて振り返るとトレーニングウェアに着替えたブラッドとオスカーが入ってきた。
「ジムの外にまで響いていた。周囲への配慮を忘れるな」
「すみません。元々は私の相談事に乗ってもらっていただけで、非があるのは私なんです」
「だとしても調子に乗ったのはアキラ自身だ。オスカー、悪いが席を外す。戻るまでルーキー達の指導を頼んだぞ」
ブラッドへジムの外へ出るよう促されてエイダも続く。姿勢の良い後ろ姿に自然と背筋が伸びてしまう。12期もメンターだったとはいえ所属セクターも異なっていたブラッドとは一対一で話す機会も少なかった。フェイスと交際するようになってからも距離感は変わらず、ジムを出るエイダの表情は無意識に緊張を帯びていた。
「それで、何故あのような事になった」
「プライベートな事で恐縮ですが……」
簡潔に伝えると「ふむ」と理知的な眼差しがエイダへと注がれる。弟と同じ色合いの目だというのに受ける印象は真逆で、見つめられるだけでも気が引き締まるようだ。
「アキラを真似たところで自分の思いを伝えられるようになるとは思えないが」
「それは……そうなんですが……」
「本来であれば個人の悩みに口を挟む必要はない。生い立ちや気質に深く根ざしたものであれば尚更だが、敢えて言うならば今の手段では根本的解決にはならないだろう」
「そうですね、ご迷惑をおかけしました。アキラとウィルも巻き込んで申し訳ないです」
「しかし、適任者を紹介する事はできる」
ブラッドの言葉に思わず目を丸くすると「どうした?」と尋ねられる。
「いえ、もうルーキーでもない身でお手数お掛けしてしまったのにと思いまして」
「ルーキー研修を終えた後でも先達の助言が必要になる事はあるだろう」
ブラッドから伝えられた名前に感謝を述べる。弟の恋人という事で彼なりに思うところがあったのだろうか。一瞬そう考えるが、エイダには彼の胸中は計り知れなかった。
◇
「エイダがアキラと叫んでた?」
「はい。アキラを見習いたいとかで『ボルテージマックス!』と」
「何やってんの?いや、ほんとに何やってんの……?」
形の整った眉を寄せてフェイスは唸った。恋人の事とはいえ今回ばかりは理解に苦しむ。何がどうしてそうなったのか、まったく検討がつかない。
「なんでもフェイスさんとの関係で悩んでいたそうで……話を聞いたブラッドさまがそれでは根本的解決にはならないと諭されたら帰っていったと」
兄の介入があったのはこそばゆい思いだが、そんな事を言っていられる場合ではない。状況はまったく見えないが、奇妙な自体に陥っているのは間違いなかった。
「ええ……でも別に揉めたりしてないし、そこでアキラが出てくる理由も分からないんだけど」
「あ……フェイス君」
「グレイ?」
考え込むフェイスの元に今度はグレイが声をかけてきた。買い物帰りなのか、手には彼が気に入っているというカップケーキの紙袋が握られている。丁度通りかかった様子の彼はどこか落ち着かなさそうに鳶色の目をさ迷わせた。何か思い悩み、言い淀んでいる時の仕草だ。
「エイダさんの事、その、大丈夫?思いつめてアッ……シュみたいになったらどうしようって、僕、心配で……」
突拍子もない質問にフェイスはまたしても首を傾げる。アッシュのようになるとはどういう意味なのか。要領を得ず疑問も尽きないが、少なくともオスカーよりは事情を知っていそうだ。「ちょっと詳しく聞かせてくれる?」とグレイの背中へと手を回して詳細を促した。
◇
ジムを離れてもなお迷いの晴れなかったエイダは悩んだ末にイエローウエストのルーキー研修チームのリビングへと足を向けた。
明るく賑やかな場なので少しでも気が晴れれば思ったのに加えて、先程ブラッドからディノに相談してはどうかと助言を受けたからだ。当初は打ち明けるか迷っていたものの、馴染みの面々を前にして気が緩んだエイダは悩みを打ち明ける事にした。
「それでオレに相談を、ってブラッドが言ったんだ」
「ごめんなさい。こんな事を人に聞いて回るのもみっともないのは承知の上で、それでも自分ではどうしようもなくて」
だらけた姿勢でソファーの一角を占領していたキースが前髪を邪魔くさそうにかき上げる。
「なーんかお前ら二人してめんどくせえな」
「キース!せっかく後輩が頼ってくれたのにそんな事言うのはよくないぞ」
「いやめんどくせえだろ。本人達が話し合う以外に解決するわけねえし、その後も上手くいかなかったらそん時はそん時だ」
「キースの肩持つつもりはねーけど、クソDJに遠慮してたら伝わるものも伝わんないぜ」
「うう……、本当にその通りで。自分でもなんでそうなっちゃうのか」
ぐうの音も出ない指摘を受け、不甲斐なさで頭を抱えてしまいたくなる。皆から言われるほど単純明快な事なのにどうしてできないのか。何が原因でこんな状態に陥ってしまったのか。
顔を曇らせたままのエイダとキース、ジュニアを交互に見たディノは「まあまあ。ここはオレに任せてくれないか?」と告げ、エイダへと向き直った。
「うーん。少なくともフェイスの気持ちに応えるのは大丈夫なんだよな?」
「そうみたい。相手がどうしてほしいのかは汲み取れるんだけど」
明るいブルーの目に見つめられ、何故か語尾が尻すぼみになっていく。気さくに接してくれるディノは緊張するような相手ではない。けれど、真っ直ぐな目に見つめられると内面まで見透かされてしまうのではないかと思う時があるのだ。
考えるように顎に指をかけて見つめていたディノはエイダの目を見つめたまま口を開いた。
「これはあくまでオレが感じた事だけど、もしかして……心のどこかで怖いと思ってるんじゃないか?」
「それ、は」
「一方的な気持ちの押しつけになったら、フェイスから鬱陶しがられたら。エイダの中にそんな恐れがあるんじゃないかなって思った」
パチン。埋まらなかったパズルのピースが埋まったような気がした。
「そうかもしれない」
「他人を思いやるのはいい事だけど、合わせてもらってばかりだと無理させてるかもしれないとか、エイダの気持ちが見えなくてフェイスも不安になるかもしれないな」
だとすればエイダは現状に満足し、自己主張を避けてきたせいでフェイスの気持ちを汲み取りきれていなかった事になる。つい俯いてしまった彼女にディノはそっと肩に手を置く。
「オレ自身の事になるけどルーキーズキャンプの頃……いや、その前もかな。事情こそ違うけど似たような思いをした。皆に拒絶されたらどうしようって思うと怖くて尻込みしちゃってたんだ」
「…………」
「それでも本音を言ってくれる親友がいて、皆の理解もあってこうしてここにいられるけど、それまでに怖くても自分の思いを伝えなきゃいけない場面がいくつもあった。その経験からのアドバイスだけど、勇気を出して思っている事を打ち明けてみたらどうだろう?」
ルーキーズキャンプの話はフェイスから聞いていた。周囲と打ち解けられるよう心を砕いて、イクリプスに因縁のあるレンや当時鬱屈が増していたフェイスとも紆余曲折を経て打ち解けた、と。その時はディノのコミュニケーション能力と人柄に感嘆したものだが、彼も尻込みしてしまうほどの恐怖と戦って乗り越えていたのだ。
「落ち着いて話し合ってみなよ。フェイスならきっと向き合ってくれる」
柔らかな声に寄り添われ、自然と頷いていた。その時、ドアの開閉音と共に見知った相手が入ってきた。眉目秀麗な顔立ちには疲れが浮かんでいて彼らしくない。会いたかった。まだ会いたくなかった。そんな相反する感情が綯い交ぜになっているのを感じながら視線を合わせた。
「……いた」
「フェイス」
「あちこちに顔を出してたっぽいからてっきりノースにも行ってると思ったのに。あーもう、とんだ無駄足させられたよ」
疲労をほぐすように肩を回しているフェイスに「ごめん」と言いかけた時、遮るように軽く肩を叩かれる。隣に座るディノから目配せを受け、エイダは意を決してソファーを立った。
「フェイス、話したい事があるんだ」
「うん。そうだろうと思った」
場所をフェイスの自室に移し、二人で並ぶようにベッドへ腰かける。フェイスはあくまでラフな姿勢をとり、エイダの話を待っているようだった。彼の気遣いに感謝しながらもエイダは今日一日の出来事を打ち明けた。途中、「だからジムに……」や「いや、だからって何でそうなるの」と相槌を打ちながらもフェイスは話を聞き終えた。
「フェイスを信じてないわけじゃないの。ただ、押しつけになってしまったらとか、鬱陶しく思われて関係が壊れてしまうかもと思うと怖くて」
「うん」
「これまであんまり上手くいかなかったのもあって、自分から求めるのがすごく下手なんだと思う。その事で気を揉ませたらごめん」
「そっか。でも、今回直そうとしたんだよね?」
「まあ、迷走して色んな人に迷惑かけたんだけど」
「それは本当にそう。反省して」
「はい……」
今回の件はまさに迷走としか言いようがない。小さくなるエイダを横目に見ながらフェイスは襟ぐりを広げ、扇ぐような仕草をする。行き先を辿っていたかのような口ぶりだったが、どこまで行っていたのだろうか。些細な疑問をよそに、彼は小首を傾げる。
「で、まだ直す気はあるんだよね?」
「んー、うん。正直まだ時間かかりそうだけど」
「じゃあ練習しないと。小さな成功体験を積むのがいいんでしょ?」
とは言うものの、何を言えばいいのか。ともすれば逆戻りしてしまいそうになる思考を抑え、少しの間を置いてからエイダはささやかなお願いを口にした。
「……じゃあ、その、ハグしてもいい?」
「アハ、どーぞ」
広げられた腕に飛び込むと外見よりしっかりとした体に受け止められた。背中に回された腕が落ち着かせるようにゆったりとしたリズムでさすっている。首筋に顔を埋めるとフェイスの纏う甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもより少し高い体温と甘い香りが、火を灯した蝋燭のようにゆっくりと胸中の不安を溶かしていく。
「落ち着く……」
「エイダはちょっと汗臭いかも」
「えっ?あ!ごめん。そこまで気が回ってなくて」
すぅっと血の気が引いていく。トレーニング後からどうすれば改善できるかばかり考えていたせいでケアを怠ってしまった。慌てて体を離そうとするものの、しっかりと抱き込まれて抜け出せない。
「いいよ。俺との関係をどうにかしようと頭がいっぱいだったと思えば可愛げがあるし」
気遣いだとしてもそう言ってもらえて少しばかり救われる。思えば、フェイスは出会った時から気遣い上手なところがあった。確かに気まぐれで扱いの難しいところもあるが、それでも根は思慮深くて人に寄り添える心の持ち主だ。
「……フェイスって理解ある恋人だね」
「そう?自分ではかなり身勝手な方だと思うけど。……そう感じるとしたら、エイダが好きだからだろうね」
「ごめん。ありがとう」
「そう思うならちゃんと口に出してよね?」
「頑張る。フェイス大好き」
一瞬背を撫でる手が止まり、「……まったく」と呟く声が聞こえた。その声は苦笑を滲ませながらもどこか温かみのある声色だった。
談話室に設置されたテーブルで頬杖をつきながらフェイスが訊ねた。手には自動販売機で買ったココアが握られており、視線は茶色の水面へと注がれている。そんな様子から何やら感じ取ったビリーはゴーグルを光らせ、思わせぶりに唸った。情報通の彼は皆まで言わずとも誰を指しているのか理解したらしい。
「そうだネ……DJにとってはありがたい存在じゃナイ?」
「ま、そうかもね」
これまで素行の悪かったフェイスは言うまでもなく女性関係も混沌としていた。そんな中でも異性の友人として付き合いが続き、自分の素行を見直し始めてしばらく経った頃にあるきっかけで恋人となったのがエイダだ。彼女と恋人同士になって数ヶ月ほど経つが、ラベリングが更新されただけで友達だった頃とほとんど変わらない。
現状、公表は控えると二人で決めた事もあり表立った付き合いはこれまでと変わらない。当然だが、プライベートもささやかなものだ。
「さすがエイダパイセン。まさに理解ある彼女ってカンジ」
「でもさ、理解ありすぎて遠慮を感じるというか……こっちを求めないようにしてるのかな?自覚ないっぽいけど」
母親から置き去りにされ、孤児院で育ったエイダ。周囲に協調し、いい子にしている事で順応してきた子どもの頃からの性分をそう簡単に変えられるわけがない。分かってはいるものの、求められないのに物足りなさを感じているのが正直なところで。
「配慮なんだろうけど……なんか、信頼されていない気がしてやだ」
「DJがめんどくさい彼女みたいな事言う日がくるなんてネー」
「俺だって思ってなかったよ、まったく……」
そんな何気ない会話をした数日後、ビリーはさっそく手に入れた情報を然るべき相手へと伝える。勿論、相応の対価と引き換えにだ。
エリオスタワー下層にあるカフェで話を聞いたエイダは突然頭部を殴られたような衝撃をどうにか堪えていた。
「……って言ってたケド、エイダパイセンは心当たりある?」
「ある、かも……」
普段血色の良い顔はうっすらと青ざめていた。ビリーのもたらした情報はまさに青天の霹靂だったのだ。付き合い初めてからというもののエイダは何気ない日常に幸せと充実を感じていた。しかし、穏やかな日々は華やかな女性遍歴を持つフェイスには退屈な思いをさせていたのかもしれない。ショックでまとまりきらない思考の中必死で考えを巡らせる。もしや停滞期のマンネリというものに直面しているのか?思い返せば学生時代に付き合っていた元彼からもつまらないと言われた事があった。
冷静を取り戻そうとカップを手に取ると水面が波立っている。動揺を隠すように柄を握り直すと彼女は声を絞り出した。
「つまり、破局の危機……?」
「うーん、多分そこまで深刻じゃないと思うヨ。ただ、したい事や気持ちを言ってもらえなくて手応えがないっていうか。今後きっかけになるかもしれないケド」
あくまで中立からの言葉にそっか、と項垂れるしかなかった。
「言われてみれば……私、自己完結しちゃってたかも……」
「あらら」
「自分から好きとかあまり言ってなかった気がする」
「オイラから見てもそんなに変化ないなーと思ってたけど、二人きりでもそうだったの?」
「そういうのはフェイスから言ってくれる事が多くて、今思えば好意に甘えきってたかもしれない」
「ははぁ、DJの積極性に救われてたカンジ?」
対面のビリーは茶化す事もなく、殊勝な態度で相槌を打っている。寄り添いすぎず、あくまで中立の立場として聞き手に徹する態度にエイダの不安はじわじわと増していく。おそらく彼の脳内ではプライベート情報を一言一句逃さず書き留められているが、痛いところを突かれた上、想像していなかった問題に直面した事で頭がいっぱいのエイダは気づく由もない。
「好意を受け入れてもらった時点で満足しきっていたところはある。今の日常が続いたらそれだけで幸せっていうか。公にできないし、伝えなくても分かってくれているだろうって。でもそんなの言い訳だね」
もともとエイダは恋人らしいイベントをあまり重視していなかった。もちろんあったら嬉しいけれど、一緒に過ごすだけでもある程度満たされてしまう。あまり欲のない女性だ。彼女はそれでも幸せだと感じていたけれど相手も同じように考えていてくれるとは限らない。
気付けなかった点を第三者から指摘されたエイダの中にはある種の危機感が生まれていた。
「でもDJもめんどくさいところあるし?ある意味バランスが取れてるんじゃナイ?」
「でも好意に甘えきっているのはなんとかしたい。このままじゃいけないよ」
こちらからもアクションを起こせるようにならなくては。
決意で拳を固めるエイダの様子を見てビリーがニッと笑みを浮かべた。子どもがイタズラを思いついた時のような、楽しげな様子で彼は進言した。
「じゃあ参考になりそうな人達にアドバイスもらってみたら?」
◇
善は急げ、思い立ったが吉日と日本のことわざを口にしながら連れてこられたのはグリーンイーストのラウンジだった。ビリーは部屋の主かのようにどっかりとソファーに身を沈めていたアッシュの横に片膝をつき、ジャジャーン!という効果音を口にして手をひらひらと動かした。
「まずは一人目!良くも悪くも自分に正直、我らがアッシュパイセン!」
「なんだテメェら。出ていけ。捻り潰すぞ」
「まあまあ、アッシュパイセン落ち着いて」
「非番のところ悪いけど、今日はアッシュに用があって来たんだ」
「ウエストに行った腰抜けが今更何しにきた?」
すかさず鋭い視線が向けられる。切れ長の目がくだらない要件だったら潰すと物語っていた。ルーキーの頃は散々慣れたと思っていた威圧感も久々に浴びると気圧されそうになる。しかし、アッシュと接するならば竦み上がるのは逆効果だ。真っ直ぐに見つめながら事情を話すと彼はフン、と鼻を鳴らして視線を背けた。
「ハッ!くだらねぇ。大体テメェの誰にでもヘラヘラするところはイーストにいた頃から全然直んなかったじゃねえか!」
「パイセンってばそんな言い方しなくても」
「きっかけは確かにくだらないと思う。それでも今回の件が思い直すきっかけになったのは本当だよ。だから、どうかお願いします」
深々と下げられた赤毛を見やり、アッシュは苛立ったように舌打ちをする。
「大体、自力で思い直したならともかく色恋絡みっつーのが気に入らねえ」
「はいっ。その通りだと思います」
「浮ついてんじゃねえぞ色ボケジンジャー!」
「はいっ!根性を叩き直してくださいっ!」
蚊帳の外となったビリーが「あーあ、体育会系のスイッチ入ってきた」と腕を組みながら事の次第を見守っていると背後から遠慮がちなドアの音が聞こえてきた。見れば、ラウンジの様子を伺うようにルーキー達の相部屋のドアが細く開いている。
「グレイ?いたなら出てきたらいいのに」
何やら小声でごにょごにょと呟きながらおずおずと顔を出した彼はアッシュとエイダのやり取りを縮こまりながら見守っている。どうやらそれ以上出てくるつもりのない彼の元に寄っていくと、消え入りそうな言葉が聞こえてきた。
「……に……のは……だな……」
「うん?」
「エイダさんがアッ……シュみたいになるのは、嫌だな……」
「大丈夫、大丈夫。さすがに無理だと思うヨ」
不安げな視線を向けてくるグレイにビリーは安心させるよう朗らかに答える。エイダの気質を考えれば多少荒療治を受けたところでアッシュのような精神に目覚めるとは思えない。
その時、ドンッ!と勢いよく床を踏みつける音と共にアッシュが立ち上がった。威圧感たっぷりに仁王立ちしたアッシュが下げられたままの後頭部を見下ろしている。
「ちょうどいい、最近のテメェは見るに堪えねえと思っていたところだ。俺様が腑抜けた根性を鍛え直してやる」
「よろしくお願いします!」
「ワォ、体育会系〜!」
ちゃちゃを入れるとすかさず獣のような鋭い眼差しがビリーへと向けられる。すぐ傍で「ひっ!」と悲鳴のような息が上がった。
「テメェもだクソガキ!こっちに来やがれ!」
「なんでボクちんまで〜!?」
◇
フェイスがジム前を通りかかると馴染み深い泣き言と容赦のない罵声が聞こえてきた。例のシゴキか、飽きずによくやるなと目をやると意外な事にエイダも混じっているではないか。
ビリーの方は見るからに息も絶え絶えだが、エイダは額に汗を浮かべながらもまだ食らいついている。伊達にAAヒーローとして活躍していないといったところか。
両者を前にアッシュが檄を飛ばし、ジム内は一層ヒリついた空気で満たされた。どこからどう見ても体育会系のノリでついていけそうにない。廊下まで伝わってきそうな熱気とプレッシャーにフェイスは端正な顔をしかめた。
「うわ、暑苦し……なにやってんだか……」
エイダがイーストに在籍していたルーキー時代、メンターでこそなかったもののアッシュとは師弟のような関係だったと聞いた事があった。どういう経緯だったかは忘れたが、意外な組み合わせで意表を突かれたから覚えている。
「……たまには古巣で鍛えられたくなった、とか?」
ここで何をしているかなんて問うのは要らぬ干渉だろう。下手をすれば巻き込まれかねない。見なかった事にしようと踵を返しながらも、自分の立ち入れない人間関係を前にして何か引っかかるようなものを感じた。
◇
二時間きっちりシゴキという名のトレーニングを受けたエイダは動けなくなったビリーの傍にドリンクを置き、途中からちらちらとこちらを窺っていたアキラとウィルへ事の次第を説明した。利用する時間帯が被ってしまい、さぞ居心地の悪い思いをさせただろうと詫びをかねて彼らにもドリンクを配る。
「へぇー、思った事を伝えられるようにか」
「そうそう。それでせっかくだから二人にも聞いていい?」
「おうよ!」
「でもアキラは余計な事まで言っちゃうので参考になるかどうか……」
「なんだよ、オレだってなぁ!」
「まあまあ。確かに軽率なところもあるかもだけど、私にとっては羨ましいよ」
自分から伝えるのを怠ってしまった結果相手に甘えていたエイダとしては率直に物事を口にできるアキラの性分が羨ましい。
「確かに思ったまま動いちまうからなぁ。未だにブラッドやオスカーにもしょっちゅう叱られるし」
「思ったままに……、難しいんだよね。色々考えちゃうのが良くないのかな」
「考えてもしょうがなくね?やっぱ熱いハートのままに突き進む!これしかないよな!」
「なるほど?ウィルはどう思う?」
「……そうですね、僕だったら少しずつでも相手に伝えられるよう工夫してみると思います」
「工夫かぁ……」
「身近で何気ない事……例えば何が食べたいか、何をしたいか伝える事から始めるのはどうでしょう?小さな事ですけど、成功体験を積むのは大事だと聞いた事があります」
「小さな事でも積み重ねていくのがキモなんだね」
「だよな!やっぱ日頃から思っている事を出していくしかないだろ!まずは声出しからだ!」
「……アキラ、声出しは関係あるのか?」
「応援団だって声出しの練習するだろ?だからいざって時も堂々としていられるんじゃねーかな」
呆れ顔のウィルをよそに、勢いよく立ち上がったアキラがエイダにも立ち上がるよう促す。
物は試しにと立ち上がったエイダに対し、アキラは胸を張って声を張り上げた。
「行くぜ!ボルテージマーックスッ!」
「ボ、ボルテージマーーックス!」
「もっと声張り上げろ!ボルテージ!マーーーッ」
「アキラ、ジムは大声を張り上げる場ではないぞ」
「ブラッド!?」
驚きの声につられて振り返るとトレーニングウェアに着替えたブラッドとオスカーが入ってきた。
「ジムの外にまで響いていた。周囲への配慮を忘れるな」
「すみません。元々は私の相談事に乗ってもらっていただけで、非があるのは私なんです」
「だとしても調子に乗ったのはアキラ自身だ。オスカー、悪いが席を外す。戻るまでルーキー達の指導を頼んだぞ」
ブラッドへジムの外へ出るよう促されてエイダも続く。姿勢の良い後ろ姿に自然と背筋が伸びてしまう。12期もメンターだったとはいえ所属セクターも異なっていたブラッドとは一対一で話す機会も少なかった。フェイスと交際するようになってからも距離感は変わらず、ジムを出るエイダの表情は無意識に緊張を帯びていた。
「それで、何故あのような事になった」
「プライベートな事で恐縮ですが……」
簡潔に伝えると「ふむ」と理知的な眼差しがエイダへと注がれる。弟と同じ色合いの目だというのに受ける印象は真逆で、見つめられるだけでも気が引き締まるようだ。
「アキラを真似たところで自分の思いを伝えられるようになるとは思えないが」
「それは……そうなんですが……」
「本来であれば個人の悩みに口を挟む必要はない。生い立ちや気質に深く根ざしたものであれば尚更だが、敢えて言うならば今の手段では根本的解決にはならないだろう」
「そうですね、ご迷惑をおかけしました。アキラとウィルも巻き込んで申し訳ないです」
「しかし、適任者を紹介する事はできる」
ブラッドの言葉に思わず目を丸くすると「どうした?」と尋ねられる。
「いえ、もうルーキーでもない身でお手数お掛けしてしまったのにと思いまして」
「ルーキー研修を終えた後でも先達の助言が必要になる事はあるだろう」
ブラッドから伝えられた名前に感謝を述べる。弟の恋人という事で彼なりに思うところがあったのだろうか。一瞬そう考えるが、エイダには彼の胸中は計り知れなかった。
◇
「エイダがアキラと叫んでた?」
「はい。アキラを見習いたいとかで『ボルテージマックス!』と」
「何やってんの?いや、ほんとに何やってんの……?」
形の整った眉を寄せてフェイスは唸った。恋人の事とはいえ今回ばかりは理解に苦しむ。何がどうしてそうなったのか、まったく検討がつかない。
「なんでもフェイスさんとの関係で悩んでいたそうで……話を聞いたブラッドさまがそれでは根本的解決にはならないと諭されたら帰っていったと」
兄の介入があったのはこそばゆい思いだが、そんな事を言っていられる場合ではない。状況はまったく見えないが、奇妙な自体に陥っているのは間違いなかった。
「ええ……でも別に揉めたりしてないし、そこでアキラが出てくる理由も分からないんだけど」
「あ……フェイス君」
「グレイ?」
考え込むフェイスの元に今度はグレイが声をかけてきた。買い物帰りなのか、手には彼が気に入っているというカップケーキの紙袋が握られている。丁度通りかかった様子の彼はどこか落ち着かなさそうに鳶色の目をさ迷わせた。何か思い悩み、言い淀んでいる時の仕草だ。
「エイダさんの事、その、大丈夫?思いつめてアッ……シュみたいになったらどうしようって、僕、心配で……」
突拍子もない質問にフェイスはまたしても首を傾げる。アッシュのようになるとはどういう意味なのか。要領を得ず疑問も尽きないが、少なくともオスカーよりは事情を知っていそうだ。「ちょっと詳しく聞かせてくれる?」とグレイの背中へと手を回して詳細を促した。
◇
ジムを離れてもなお迷いの晴れなかったエイダは悩んだ末にイエローウエストのルーキー研修チームのリビングへと足を向けた。
明るく賑やかな場なので少しでも気が晴れれば思ったのに加えて、先程ブラッドからディノに相談してはどうかと助言を受けたからだ。当初は打ち明けるか迷っていたものの、馴染みの面々を前にして気が緩んだエイダは悩みを打ち明ける事にした。
「それでオレに相談を、ってブラッドが言ったんだ」
「ごめんなさい。こんな事を人に聞いて回るのもみっともないのは承知の上で、それでも自分ではどうしようもなくて」
だらけた姿勢でソファーの一角を占領していたキースが前髪を邪魔くさそうにかき上げる。
「なーんかお前ら二人してめんどくせえな」
「キース!せっかく後輩が頼ってくれたのにそんな事言うのはよくないぞ」
「いやめんどくせえだろ。本人達が話し合う以外に解決するわけねえし、その後も上手くいかなかったらそん時はそん時だ」
「キースの肩持つつもりはねーけど、クソDJに遠慮してたら伝わるものも伝わんないぜ」
「うう……、本当にその通りで。自分でもなんでそうなっちゃうのか」
ぐうの音も出ない指摘を受け、不甲斐なさで頭を抱えてしまいたくなる。皆から言われるほど単純明快な事なのにどうしてできないのか。何が原因でこんな状態に陥ってしまったのか。
顔を曇らせたままのエイダとキース、ジュニアを交互に見たディノは「まあまあ。ここはオレに任せてくれないか?」と告げ、エイダへと向き直った。
「うーん。少なくともフェイスの気持ちに応えるのは大丈夫なんだよな?」
「そうみたい。相手がどうしてほしいのかは汲み取れるんだけど」
明るいブルーの目に見つめられ、何故か語尾が尻すぼみになっていく。気さくに接してくれるディノは緊張するような相手ではない。けれど、真っ直ぐな目に見つめられると内面まで見透かされてしまうのではないかと思う時があるのだ。
考えるように顎に指をかけて見つめていたディノはエイダの目を見つめたまま口を開いた。
「これはあくまでオレが感じた事だけど、もしかして……心のどこかで怖いと思ってるんじゃないか?」
「それ、は」
「一方的な気持ちの押しつけになったら、フェイスから鬱陶しがられたら。エイダの中にそんな恐れがあるんじゃないかなって思った」
パチン。埋まらなかったパズルのピースが埋まったような気がした。
「そうかもしれない」
「他人を思いやるのはいい事だけど、合わせてもらってばかりだと無理させてるかもしれないとか、エイダの気持ちが見えなくてフェイスも不安になるかもしれないな」
だとすればエイダは現状に満足し、自己主張を避けてきたせいでフェイスの気持ちを汲み取りきれていなかった事になる。つい俯いてしまった彼女にディノはそっと肩に手を置く。
「オレ自身の事になるけどルーキーズキャンプの頃……いや、その前もかな。事情こそ違うけど似たような思いをした。皆に拒絶されたらどうしようって思うと怖くて尻込みしちゃってたんだ」
「…………」
「それでも本音を言ってくれる親友がいて、皆の理解もあってこうしてここにいられるけど、それまでに怖くても自分の思いを伝えなきゃいけない場面がいくつもあった。その経験からのアドバイスだけど、勇気を出して思っている事を打ち明けてみたらどうだろう?」
ルーキーズキャンプの話はフェイスから聞いていた。周囲と打ち解けられるよう心を砕いて、イクリプスに因縁のあるレンや当時鬱屈が増していたフェイスとも紆余曲折を経て打ち解けた、と。その時はディノのコミュニケーション能力と人柄に感嘆したものだが、彼も尻込みしてしまうほどの恐怖と戦って乗り越えていたのだ。
「落ち着いて話し合ってみなよ。フェイスならきっと向き合ってくれる」
柔らかな声に寄り添われ、自然と頷いていた。その時、ドアの開閉音と共に見知った相手が入ってきた。眉目秀麗な顔立ちには疲れが浮かんでいて彼らしくない。会いたかった。まだ会いたくなかった。そんな相反する感情が綯い交ぜになっているのを感じながら視線を合わせた。
「……いた」
「フェイス」
「あちこちに顔を出してたっぽいからてっきりノースにも行ってると思ったのに。あーもう、とんだ無駄足させられたよ」
疲労をほぐすように肩を回しているフェイスに「ごめん」と言いかけた時、遮るように軽く肩を叩かれる。隣に座るディノから目配せを受け、エイダは意を決してソファーを立った。
「フェイス、話したい事があるんだ」
「うん。そうだろうと思った」
場所をフェイスの自室に移し、二人で並ぶようにベッドへ腰かける。フェイスはあくまでラフな姿勢をとり、エイダの話を待っているようだった。彼の気遣いに感謝しながらもエイダは今日一日の出来事を打ち明けた。途中、「だからジムに……」や「いや、だからって何でそうなるの」と相槌を打ちながらもフェイスは話を聞き終えた。
「フェイスを信じてないわけじゃないの。ただ、押しつけになってしまったらとか、鬱陶しく思われて関係が壊れてしまうかもと思うと怖くて」
「うん」
「これまであんまり上手くいかなかったのもあって、自分から求めるのがすごく下手なんだと思う。その事で気を揉ませたらごめん」
「そっか。でも、今回直そうとしたんだよね?」
「まあ、迷走して色んな人に迷惑かけたんだけど」
「それは本当にそう。反省して」
「はい……」
今回の件はまさに迷走としか言いようがない。小さくなるエイダを横目に見ながらフェイスは襟ぐりを広げ、扇ぐような仕草をする。行き先を辿っていたかのような口ぶりだったが、どこまで行っていたのだろうか。些細な疑問をよそに、彼は小首を傾げる。
「で、まだ直す気はあるんだよね?」
「んー、うん。正直まだ時間かかりそうだけど」
「じゃあ練習しないと。小さな成功体験を積むのがいいんでしょ?」
とは言うものの、何を言えばいいのか。ともすれば逆戻りしてしまいそうになる思考を抑え、少しの間を置いてからエイダはささやかなお願いを口にした。
「……じゃあ、その、ハグしてもいい?」
「アハ、どーぞ」
広げられた腕に飛び込むと外見よりしっかりとした体に受け止められた。背中に回された腕が落ち着かせるようにゆったりとしたリズムでさすっている。首筋に顔を埋めるとフェイスの纏う甘い香りが鼻腔をくすぐる。いつもより少し高い体温と甘い香りが、火を灯した蝋燭のようにゆっくりと胸中の不安を溶かしていく。
「落ち着く……」
「エイダはちょっと汗臭いかも」
「えっ?あ!ごめん。そこまで気が回ってなくて」
すぅっと血の気が引いていく。トレーニング後からどうすれば改善できるかばかり考えていたせいでケアを怠ってしまった。慌てて体を離そうとするものの、しっかりと抱き込まれて抜け出せない。
「いいよ。俺との関係をどうにかしようと頭がいっぱいだったと思えば可愛げがあるし」
気遣いだとしてもそう言ってもらえて少しばかり救われる。思えば、フェイスは出会った時から気遣い上手なところがあった。確かに気まぐれで扱いの難しいところもあるが、それでも根は思慮深くて人に寄り添える心の持ち主だ。
「……フェイスって理解ある恋人だね」
「そう?自分ではかなり身勝手な方だと思うけど。……そう感じるとしたら、エイダが好きだからだろうね」
「ごめん。ありがとう」
「そう思うならちゃんと口に出してよね?」
「頑張る。フェイス大好き」
一瞬背を撫でる手が止まり、「……まったく」と呟く声が聞こえた。その声は苦笑を滲ませながらもどこか温かみのある声色だった。
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