道楽お嬢様は冴えない探偵を落としたい
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炎国には思いを寄せる男性に香包と呼ばれる匂い袋をあげる風習がある。古くから伝えられた香包だが、現在では恋愛的な意味だけでなく長寿や幸福を願って贈られ、土産物としても馴染み深い。巷では華やかな紋様の入った旗袍の生地などを使ってお手頃価格で売られている物も多い。しかし現在のメイファンは古式ゆかしい意味合いで香包作りに挑もうとしていた。
易学の書と道具、タブレット。そして顧客情報のファイルが整頓されている自室で刺繍針と糸を手に取るのは何時ぶりだろうか?そもそも刺繍道具を探すのにも記憶にないほどだったのであちこちを探し回り、貴重な時間を無駄にしてしまった。
試し縫い用のはぎれに玫瑰の刺繍案を描き、遥か昔の記憶を引っ張り出しながら黙々と刺していく。時折縫い目が思うようにいかず、刺し直しながら心の乱れは運針に表れると講師から口酸っぱく言い含められていた言葉が脳裏を過ぎる。
ようやくひとひらの花弁を刺し終えてそっと指でなぞるときめ細かな糸の感触が心地よい。
艶のある刺繍糸でできた花弁は立体的に浮き出て見える。
「案外できるものね」
刺繍は幼少期から令嬢の嗜み、教養の一種として覚えさせられていた。とはいえ、易学の方が性に合っていたメイファンにとって刺繍の時間というものは義務に近く、集中力を養うための修練に近いものだったがそんな経緯で身につけたものでも役に立つ時があるらしい。
ある程度刺してこれならば人にあげても恥ずかしくないと感じたメイファンは事前に買っておいた布を取り出す。艶のある淡い色のサテン地は滑らかな手触りで、これに刺していくのかと思うと柄にもなく緊張が走る。
いつの間にか溜まってしまっていた唾を飲み込み、メイファンは刺繍案を描き始めた。
◇
それから仕事の隙間時間やプライベートに少しずつ進めた作業は着々と形になっていき、艶やかな生地にふっくらとした玫瑰の花が咲き誇る頃には三週間が経っていた。
試しではぎれに刺した頃より上達しているのが己でも分かる。思うようにいかなかった箇所もあるが、どうにかリカバリーできた。房飾りをつけ、中に乾燥させた玫瑰の花を入れれば完成だ。
「受け取っていただけたらいいのだけれど」
メイファンにしては珍しく弱気な言葉がこぼれる。
彼女は貿易業を営む家系の娘として子どもの頃から質の良いものに触れて生きてきた。教育もそのうちのひとつ。ゆえに、滅多にしない針仕事も教養としてそつなくできたが、それと作品の善し悪しはまた異なるのではないか?
加えてリーはメイファンよりも更に目利きのできる男だ。自分よりも遥かに知恵深く審美眼のある人相手に手製の香包を贈り物として渡すのは女としての度胸が試される場面と言っていい。
「憂いてばかりではいられないわ」
香包を贈答用の小箱に入れてリボンをかける。少しでも見栄えがするようにと輪の部分を幾重にも重ねてリボンを作る。形を整えて一息つくと、迷いを振り切るようにベッドへと潜り込んだ。
◇
リー探偵事務所へ辿り着くまでの道中、やはりメイファンは常の落ち着きを取り戻せずにいた。
昨晩きちんとラッピングした小箱の中に香包は入っているか。持ち運び用の紙袋を何度も触れて確かめながら龍門の街が車窓越しに流れていくのを見つめ、手元の紙袋に視線を落とす。
――喜んでもらえるだろうか?
――否、喜ばれずともいい。受け取ってもらえるだろうか?
――やはり消え物が無難だったのではないか?
これが社交の場で出会う相手ならこれ程までに緊張していなかっただろう。幼い頃から仕込まれた教育通り礼儀としての一言を添えながら優雅な所作で手渡せばいいのだから。しかし、乙女心が絡むとそう上手くいかないのではないかと不安が首をもたげる。その時に限ってミスをしてしまうだとか……そもそも香包自体が気に入られないのではないか?と想像を巡らせてしまうのだ。
探偵事務所の扉を開けるまで緊張は収まらなかった。しかし、ドアノブを握ると自然と動悸が静まっていくのが分かった。その場に立たされればこれまでの経験がメイファンの足を支えてくれる。
「皆さん、ごきげんよう――あら?」
「ようこそお嬢様。あいにくガキどもは出払っているところでしてね」
「そうでしたの。それは……良いタイミングだったかもしれませんわね」
L字に配置された接待用のソファーにゆるりと腰掛けていたリーに微笑みを向け、慣れた足取りでソファーへと足を運ぶ。
「今日は先生に差し上げたいものがあってこちらに赴いたのですよ」
「おれに?」
紙袋から取り出した小箱をリーへと差し出すと、「ほう?」と小首を傾げながらも黄色の手袋が小箱を受け取った。
小箱から出てきた香包を見たリーは意外そうに軽く目を見張ってメイファンと香包を交互に見つめる。おもむろに厚手の手袋を取り去ったかと思えば手触りを確かめ、絵柄が生地に織られたものではなく刺繍である事を確かめている。
「これはまた……手刺繍ですかい?ここまでの代物となるとさぞ時間がかかったでしょうに……」
「先生に差し上げる物ですもの。楽しい時間になりましたわ」
「玫瑰なのはバレンタインで?」
リーがわざわざ訊ねてきたのは炎国においてバレンタインに贈る花といえば薔薇だから、と言うのもあるだろう。しかしバラ科とはいえ薔薇と玫瑰はまた少し異なるものだ。彼もそれを知った上で聞いているのだとしたら少し意地が悪い。
「それもありますけれど、私に縁のある花なので先生の傍に置いていただきたくて……お恥ずかしいけれど中身も玫瑰ですの」
メイファンの一言に香包を弄っていたリーの指が動きを止め、慈しむように片手で包んだ。人々から胡散臭いと評されやすい顔にはどこか意地の悪い笑み。
「ははあ……いやいや、お嬢様も独占欲が強いですねぇ」
「それは今更でしょう?」
リーに助けられた初対面からメイファンは彼に夢中で、その分自分を意識して欲しいと願うのも無理ない事だろう。年長者のリーに意識してもらいたい一心であの手この手で気を引こうと必死な内心を押し隠しているのだから。
「貴女の事だ、きっと袋だけでなく中身にもこだわりがあるのでしょう?」
「ええ、でも全てをつまびらかにしてしまうのもはしたないわ」
「大胆なのか、奥ゆかしいのか……分からない人ですね」
「そう言っていただけるだけの魅力を感じてくださればいいのだけれど」
「こんな冴えない中年相手にもったいねえ逸品ですよ。なにより、お嬢様自身の心が込められてるときちゃあ、文句の付け所なんてないでしょう」
「では、受け取ってくださる?」
「もちろん。ありがたく受け取りますとも」
そう言い、リーは貴人から贈り物を賜った時のように香包を掲げ、懐に仕舞う仕草をしてみせる。芝居がかった仕草もリーが行うとどこか様になっていて、いぶし銀な風格を纏う役者のようにも見えてくるのだから不思議だ。
「……先生ったら悪い人ね。他所で誰かをたらしこんでいないか心配になるわ」
「こんなオジサンを相手にしたがる若い娘はそうそういないでしょうに」
「あら?いるでしょう、ここに」
至極真面目な表情で言うときょとんとした表情の後に吹き出した。なにがそんなに可笑しかったのか分からないメイファンはまあ、と持参した扇子で口許を隠しながらもその裏でひっそりと唇に笑みを浮かべる。笑いをこらえきれなかった様子で肩を震わせていたリーが涙の滲んできた目元を拭いながら咳払いをひとつした。
「ええ。だからこそ真摯に向き合ってるんですよ。なのでまあ、お返しは期待しといてください」
「あら。そんなつもりは無かったのだけれど楽しみが増えましたわね」
「これだけの物を貰っておいてお返しをしないわけにはいかないでしょう」
含みのある言葉から感じるのは紛れもない情で、柔らかな声に自然とメイファンの表情も自然と綻ぶのを感じた。
年の差があるリーに異性として見られるのにはまだ時間がかかるかもしれない。しかし、こうして贈り物を受け取ってもらえる親しい関係を積み重ねていくうちに関係が熟成されていくだろう。
易学の書と道具、タブレット。そして顧客情報のファイルが整頓されている自室で刺繍針と糸を手に取るのは何時ぶりだろうか?そもそも刺繍道具を探すのにも記憶にないほどだったのであちこちを探し回り、貴重な時間を無駄にしてしまった。
試し縫い用のはぎれに玫瑰の刺繍案を描き、遥か昔の記憶を引っ張り出しながら黙々と刺していく。時折縫い目が思うようにいかず、刺し直しながら心の乱れは運針に表れると講師から口酸っぱく言い含められていた言葉が脳裏を過ぎる。
ようやくひとひらの花弁を刺し終えてそっと指でなぞるときめ細かな糸の感触が心地よい。
艶のある刺繍糸でできた花弁は立体的に浮き出て見える。
「案外できるものね」
刺繍は幼少期から令嬢の嗜み、教養の一種として覚えさせられていた。とはいえ、易学の方が性に合っていたメイファンにとって刺繍の時間というものは義務に近く、集中力を養うための修練に近いものだったがそんな経緯で身につけたものでも役に立つ時があるらしい。
ある程度刺してこれならば人にあげても恥ずかしくないと感じたメイファンは事前に買っておいた布を取り出す。艶のある淡い色のサテン地は滑らかな手触りで、これに刺していくのかと思うと柄にもなく緊張が走る。
いつの間にか溜まってしまっていた唾を飲み込み、メイファンは刺繍案を描き始めた。
◇
それから仕事の隙間時間やプライベートに少しずつ進めた作業は着々と形になっていき、艶やかな生地にふっくらとした玫瑰の花が咲き誇る頃には三週間が経っていた。
試しではぎれに刺した頃より上達しているのが己でも分かる。思うようにいかなかった箇所もあるが、どうにかリカバリーできた。房飾りをつけ、中に乾燥させた玫瑰の花を入れれば完成だ。
「受け取っていただけたらいいのだけれど」
メイファンにしては珍しく弱気な言葉がこぼれる。
彼女は貿易業を営む家系の娘として子どもの頃から質の良いものに触れて生きてきた。教育もそのうちのひとつ。ゆえに、滅多にしない針仕事も教養としてそつなくできたが、それと作品の善し悪しはまた異なるのではないか?
加えてリーはメイファンよりも更に目利きのできる男だ。自分よりも遥かに知恵深く審美眼のある人相手に手製の香包を贈り物として渡すのは女としての度胸が試される場面と言っていい。
「憂いてばかりではいられないわ」
香包を贈答用の小箱に入れてリボンをかける。少しでも見栄えがするようにと輪の部分を幾重にも重ねてリボンを作る。形を整えて一息つくと、迷いを振り切るようにベッドへと潜り込んだ。
◇
リー探偵事務所へ辿り着くまでの道中、やはりメイファンは常の落ち着きを取り戻せずにいた。
昨晩きちんとラッピングした小箱の中に香包は入っているか。持ち運び用の紙袋を何度も触れて確かめながら龍門の街が車窓越しに流れていくのを見つめ、手元の紙袋に視線を落とす。
――喜んでもらえるだろうか?
――否、喜ばれずともいい。受け取ってもらえるだろうか?
――やはり消え物が無難だったのではないか?
これが社交の場で出会う相手ならこれ程までに緊張していなかっただろう。幼い頃から仕込まれた教育通り礼儀としての一言を添えながら優雅な所作で手渡せばいいのだから。しかし、乙女心が絡むとそう上手くいかないのではないかと不安が首をもたげる。その時に限ってミスをしてしまうだとか……そもそも香包自体が気に入られないのではないか?と想像を巡らせてしまうのだ。
探偵事務所の扉を開けるまで緊張は収まらなかった。しかし、ドアノブを握ると自然と動悸が静まっていくのが分かった。その場に立たされればこれまでの経験がメイファンの足を支えてくれる。
「皆さん、ごきげんよう――あら?」
「ようこそお嬢様。あいにくガキどもは出払っているところでしてね」
「そうでしたの。それは……良いタイミングだったかもしれませんわね」
L字に配置された接待用のソファーにゆるりと腰掛けていたリーに微笑みを向け、慣れた足取りでソファーへと足を運ぶ。
「今日は先生に差し上げたいものがあってこちらに赴いたのですよ」
「おれに?」
紙袋から取り出した小箱をリーへと差し出すと、「ほう?」と小首を傾げながらも黄色の手袋が小箱を受け取った。
小箱から出てきた香包を見たリーは意外そうに軽く目を見張ってメイファンと香包を交互に見つめる。おもむろに厚手の手袋を取り去ったかと思えば手触りを確かめ、絵柄が生地に織られたものではなく刺繍である事を確かめている。
「これはまた……手刺繍ですかい?ここまでの代物となるとさぞ時間がかかったでしょうに……」
「先生に差し上げる物ですもの。楽しい時間になりましたわ」
「玫瑰なのはバレンタインで?」
リーがわざわざ訊ねてきたのは炎国においてバレンタインに贈る花といえば薔薇だから、と言うのもあるだろう。しかしバラ科とはいえ薔薇と玫瑰はまた少し異なるものだ。彼もそれを知った上で聞いているのだとしたら少し意地が悪い。
「それもありますけれど、私に縁のある花なので先生の傍に置いていただきたくて……お恥ずかしいけれど中身も玫瑰ですの」
メイファンの一言に香包を弄っていたリーの指が動きを止め、慈しむように片手で包んだ。人々から胡散臭いと評されやすい顔にはどこか意地の悪い笑み。
「ははあ……いやいや、お嬢様も独占欲が強いですねぇ」
「それは今更でしょう?」
リーに助けられた初対面からメイファンは彼に夢中で、その分自分を意識して欲しいと願うのも無理ない事だろう。年長者のリーに意識してもらいたい一心であの手この手で気を引こうと必死な内心を押し隠しているのだから。
「貴女の事だ、きっと袋だけでなく中身にもこだわりがあるのでしょう?」
「ええ、でも全てをつまびらかにしてしまうのもはしたないわ」
「大胆なのか、奥ゆかしいのか……分からない人ですね」
「そう言っていただけるだけの魅力を感じてくださればいいのだけれど」
「こんな冴えない中年相手にもったいねえ逸品ですよ。なにより、お嬢様自身の心が込められてるときちゃあ、文句の付け所なんてないでしょう」
「では、受け取ってくださる?」
「もちろん。ありがたく受け取りますとも」
そう言い、リーは貴人から贈り物を賜った時のように香包を掲げ、懐に仕舞う仕草をしてみせる。芝居がかった仕草もリーが行うとどこか様になっていて、いぶし銀な風格を纏う役者のようにも見えてくるのだから不思議だ。
「……先生ったら悪い人ね。他所で誰かをたらしこんでいないか心配になるわ」
「こんなオジサンを相手にしたがる若い娘はそうそういないでしょうに」
「あら?いるでしょう、ここに」
至極真面目な表情で言うときょとんとした表情の後に吹き出した。なにがそんなに可笑しかったのか分からないメイファンはまあ、と持参した扇子で口許を隠しながらもその裏でひっそりと唇に笑みを浮かべる。笑いをこらえきれなかった様子で肩を震わせていたリーが涙の滲んできた目元を拭いながら咳払いをひとつした。
「ええ。だからこそ真摯に向き合ってるんですよ。なのでまあ、お返しは期待しといてください」
「あら。そんなつもりは無かったのだけれど楽しみが増えましたわね」
「これだけの物を貰っておいてお返しをしないわけにはいかないでしょう」
含みのある言葉から感じるのは紛れもない情で、柔らかな声に自然とメイファンの表情も自然と綻ぶのを感じた。
年の差があるリーに異性として見られるのにはまだ時間がかかるかもしれない。しかし、こうして贈り物を受け取ってもらえる親しい関係を積み重ねていくうちに関係が熟成されていくだろう。
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