道楽お嬢様は冴えない探偵を落としたい
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一難去ってまた一難という言葉の通り、酒杯を巡る騒動から解放されたリーを待ち受けていたのは新たな厄介事だった。
行裕客桟にてロドスのオペレーターと別れたリーを呼び止めたのは客桟の従業員だ。
「連れの方が窓際の席でお待ちの方です」
「誰かと間違えちゃいませんかね?」
「黄の差し色が目立つ黒服に丸眼鏡、鱗獣に似た尾を持つ龍の男が店を出ようとしたら案内するようにと言われてまして」
従業員の台詞に既視感を覚えながらもはて、と首を捻る。リーの特徴を明確に捉えているが、客桟で待ち合わせをするような相手に心当たりはない。
そう告げようとした時、従業員がさらに言葉を重ねた。
「龍門からお越しになったヤオ・メイファンという方ですが」
疑念ともしやという感情が入り混じる。遠く離れた尚蜀にいるはずがないと思う反面、行動力が有り余っていてわざわざリーを呼びつけるような人物は彼女くらいしか思い当たらなかった。
件の女性は四人用の卓で窓からの風景を眺めつつゆったりと茶を楽しんでいた。白磁のようになめらかな肌に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。結われた髪を留める簪には赤みの強い玫瑰石 があしらわれている。
歳若かろうと質の良い衣服を着こなす姿と洗練された雰囲気から一目で貴人と分かる。行裕の風情を感じさせる内装も、華やかなメイファンの美貌を一層引き立たせる。
リーを伴って現れた従業員に慣れた様子でチップを渡し、続けて「この方の分も用意していただける?」と声をかける。
笑顔で引き返していく従業員を確認すると、彼女はリーに向かい側の席を勧めた。
「ご機嫌よう、リー先生。お仕事お疲れ様です」
「これはどうも。ところで、なぜこちらに?」
柔らかな声音でねぎらわれ、リーは曖昧な返答でお茶を濁す。
「溜まっていた仕事を終えて事務所を訪ねたら、しばらく尚蜀に逗留されているとかで。先生に会いたくてこちらに赴きました」
「わざわざこんなところまで?」
「ええ。随分お会いしていませんでしたし、約束したでしょう?」
口の中で約束、と唱えてみるも、あいにく心当たりはない。先生?と首を傾げる動きに合わせて耳飾りが揺れる。
「もう。仕事を片付けてきたら一緒に出かけてくださるって約束、お忘れになったの?」という焦れったそうな声音に促されてようやく思い至った。確かにメイファンを説き伏せるため協力してほしいと彼女の従者に頼まれ、餌をぶらさげた覚えはある。
リャンからの依頼が飛び込んできて以降、翻弄され続けていたのですっかり頭の片隅に追いやられていた。
口約束とはいえ、馴染みの顧客との約束を忘れたとなれば信用問題に関わる。かといって下手に出るのも危険だと直感が訴えている。出方を伺っていると、メイファンは大きなため息をついた。
「これでも多少なりとも聞き及んでいます。なんでも古い酒杯にまつわる事件で先生は危うく乗っ取られかけたとか。大変な目に遭われたのですね」
何故知っているのか?と野暮な事は言うまい。それより気になるのは案じるような態度の裏に潜むものだ。どうにも雲行きが怪しい。そして彼の推測通りと言うべきか、女性は携えている扇子で口元を隠したかと思うと悲しげに目を伏せた。
「……とはいえ、ひどいとは思いませんか?先生」
「――と、言われましてもねぇ……」
事情を知らぬ者が見れば軽薄な男の口約束に弄ばれた気の毒な女性のように見えるかもしれない。しかし、リーの思い描く人物像通りであれば彼女の口元はにんまりと弧を描いているはずだ。
「私がどんな思いで先生のお帰りを待ちわびていたのか。そしてようやく体が空いたからとお邪魔したのにお留守で、おまけにしばらくあちらで逗留するようだとワイフーさんから聞いた時の気持ち……お分かりになって?」
「ええ、まあ。おそらくは」
「待ちきれず尚蜀まで来てしまいました。まあ、先生もご多忙ですし多少のうっかりは仕方ないのですが……それよりも悲しい事があります。先生ならばお分かりですよね」
眼鏡越しの冷めた視線を知ってか知らずか、メイファンは肩をすぼめてしなを作る。同情を誘うにしてはわざとらしい所作が、悲しんでなどいないなによりの証明と言えよう。
否、ある意味悲しんでいるのだろうが、大衆が想像するような痴情のもつれとは大きく異なる。
心痛を堪えるようにたっぷりと間を置いてからパンッと扇子を閉じる。そして目尻を吊り上げ、問い詰めるように扇子の先端をリーへと向けた。
「いわく付きの酒杯を巡って司歳台、礼部、粛清院が入り乱れる大騒動!代理人とやらがリー先生の裡に潜み、囲碁に見立てて謀!……そんなの……面白いに決まっています!もう、何故私に黙って行かれたのかしら?」
――そら、面倒な事を言い出したぞ。
しっとりとした雰囲気から一転して声を張り上げた女性にリーは胸中でぼやいた。
ろくな事を言い出さないと思っていたが、あまりにも想像通りの展開でやれやれと息をついた。そして大仰に肩を竦めてみせる。
「これは申し訳ない。旧い友といえど知府からの急な依頼ともなれば、内密に進めねばならんのですよ。そもそも酒杯自体手に入れた時点では怪談つきの骨董品ってだけで」
「その時点で連絡をくださらないと。物に魂が宿るなんて珍事、是非その目で確かめたいものでしょう?」
「仕事はどうするんです?多忙なお嬢様を呼びつけるわけにはいきませんよ」
「そんなの抜け出してきます。後で埋め合わせすればどうとでもなるもの」
「……とんだ道楽お嬢様だ」
「常日頃、昼行灯を決め込んでいる方に言われたくありません」
開いた扇子でリーの暴言を防いだメイファンはつんと顔を背ける。子どものような反応とは裏腹に、所作は優雅でそつがない。いじけたような物言いとそっぽを向くのさえなければ淑女として申し分なかっただろうにと、残念なものを目の当たりにしたような感情が湧いてしまった。
メイファンはかつてリーが依頼で関わった名家ヤオ家の令嬢だ。彼女は易の才覚と探究心で家業に利益をもたらしてきたが、堅実さとはかけ離れた気質故に当主の器ではないと早々に後継者争いから外された背景を持つ。龍門ではある意味有名な人物だった。そんな令嬢が何故リー探偵事務所に度々やってくるのかと言えば、好奇心を満たす出会いと所長のリー目当てである。
この物見高い令嬢は興味をそそられる物事をどこからか聞きつけては文字通り飛んでくる。仕事の合間にリー探偵事務所へ訪れては依頼の仲介をしたり、顔の広さを活用して多少の融通を利かせるのは序の口。助手などと称して依頼に同行するのも珍しくない。
加えて彼女はリーの聡明さをいたく気に入り、何かにつけて言い寄るようになったのだ。最初こそ冗談めかしたものだったが、口説き文句が熱を帯びていくまでそう時間はかからなかった。
言うなればリー探偵事務所の関係者になりつつあるお得意様の一人。最近ではアから「いずれ事務所を牛耳る気だ」と揶揄され、本人も「将を射んと欲すれば、と言うものね」なんてころころと笑うものだからますます始末が悪い。
「尚蜀といえば風光明媚で有名な地。この荘麗で風情のある光景を思う存分堪能されたのでしょう。佳景と名高い三山十七峰も楽しまれたのかしら?」
「だから仕事ですって」
「あら?若い女性とご一緒していたとお聞きしましたけれど」
「嬢ちゃんと呼べるくらいの娘っ子ですよ」
「年齢なんて些細なこと。リー先生ったら少し目を離すと人をたらし込んでいるから心配になってしまいます」
「たらし込むなんて人聞きの悪い」
つきまとう令嬢こそ眼前にいるものの、意図的に篭絡した覚えはなかった。ドゥ・ヤオイェの件も同様に、一時的な協力を申し出ただけに過ぎない。
良家の子女が独身の中年男性――それも、龍門のグレーゾーンにも関わる事務所の所長につきまとうなど醜聞となりそうなものだが、奇行として周囲を黙らせてしまえる程度に有能なので尚更たちが悪かった。彼女の身内ですら「奇矯な面があるのだから男性の好みが変わっていてもおかしくはない、むしろ自然なのでは?」といった調子だ。
フットワークの軽い令嬢の事だから尚蜀での一件も官僚達の思惑で複雑化してきた頃合に絡んでくるのではないかと一時案じたほどである。しかし、さすがに炎国の広大さには敵わなかったと見える。
「ああ、私がクランタだったら今回の一件を見物できたかしら?いえ、無謀ね。千里を一瞬で駆けるアーツの持ち主だったら是が非でも駆けつけたのに。そもそも情報の速さが致命的かしら。こうして全てが終わってからがやっとですもの。情報網を広げようにも炎国の広大さが憎らしいわ」
「今のお嬢様も充分地獄耳ですよ」
うわ言のように思索を口にしているメイファンを薄ら寒い思いをしながら耳を傾けるリー。
さすがに冗談だと笑いたくなるが、今ですら人脈を駆使して聞きつけてくるのに今以上となったらいよいよ収拾がつかなくなりそうだ。
「そもそもおれは旧友に利用されただけでねぇ。酒杯の持ち主の謀なんざ見当もつかないし、お偉いさん方のいざこざに関しちゃ蚊帳の外ですよ」
「それでも立派な当事者の一人よ。そうやって面白そうな事を独り占めして、ひどい人」
ああ言えばこう言う。右と言えば左。山と言えば川。慣れ親しんだ応酬は子供の口喧嘩じみているが険悪さはなく、いっそ小気味良さすら感じさせる。
続けようと思えば延々と続けられそうだが、このまま続けていても一向に話が進まない。リーは大人として折れる選択をした。
「確かにお嬢様の人柄を知っていながらお誘いしなかったのはおれの落ち度ですかねぇ」
「そうでしょうとも」
「ですんで、拗ねるのもその辺にしていただいて」
「そうね。リー先生をなじって少しは気が晴れた事だし」
するすると扇子を閉じながら無邪気な笑顔で言うメイファン。敬語から普段の幾分か砕けた口調に戻ったところを見るに、リーをやり込めて機嫌が上向きになったのは確かなようだ。リーにしてみればとんだ気晴らしだが、彼女との付き合いでこのような場面に出くわすのは今に始まった事でもない。
「それで本題なんですけれど、その前に。先生?何かお忘れになっていない?」
扇骨に両手を添え、上目遣いでリーを見つめる。期待する眼差しに「ああ、そういう事ですかい」と手で応じ、円錐形のボトルを取り出した。売店で偶然見かけて購入した正午茶である。
「正午茶?」
「尚蜀じゃ売店の一角を占めるほど人気ですよ」
リーはどうぞと促すが、令嬢は不満そうな色を隠すことなく首を傾げた。
「これが自分に好意を寄せる若い女性へ贈るものかしら?」
「物好きお嬢様には充分でしょう。消え物で好みに依らず、それなりに楽しめる。ああ、そうそう。他の味は飛ぶように売れるんですが、そのドクダミ味はいつも売れ残るいわく付きだとか」
そういうのがお好みでしょう?とうそぶいてみせれば、「確かに怖いもの見たさで試してみたくなりますね……」と興味深そうな様子でボトルを手に取った。
「ドクダミ味と言っても産地や製法で千差万別。飲みやすさを重視したものから本来の風味をそのまま生かすものまで多岐に渡るけれど、これはどのような塩梅なのか」
ボトルを傾けた直後、メイファンがピシリと音を立てて硬直する。瞬きの間の事だった。すかさず扇子で表情を隠したものの、奥にある目には涙の膜が張り、眉はしっかりとハの字に寄せられている。
「どうです?」
「……先生もご存知でしょうけど、花草茶は炎国の人々に広く親しまれています。ドクダミもその一種。効能は確かとはいえ、その独特な風味から好みが分かれやすくもある。山深い尚蜀だからこそ、健康に重きを置くのかもしれませんが、これは少々野生味が強すぎるかと。もし龍門に販路を伸ばすのなら配合を考えるか焙煎方法の見直しが必要でしょうね」
「さすがはメイファンお嬢様。お茶にも造詣が深いとは」
「からかうのはおやめになって」
涙が滲む目で請われては退くしかないだろう。
想像を上回った味わいにうち震えている様子は可愛らしいのに、厄介事に首を突っ込みたがる気質はいただけない。たまにはこうして灸を据える必要があるだろう。まったく、どうしてああもやんちゃが過ぎるのか。
リーは諌めるような口調で語りかける。
「ヤオ・メイファン。きな臭い案件や冴えない中年を追いかけてこんな遠方までくる元気があるのなら婿でも探したらどうです?お父上もさぞ気を揉んでいるだろうに」
「家業に貢献しているのだから娘の趣味に干渉する筋合いはないと思います。それに先生は素敵な殿方でしょう?この私がそう思うのだから間違いないわ」
「つまらない男ですよ。酒杯の持ち主にも退屈な人間と言われたくらいで」
「その方、随分長生きしていらっしゃるようだけど見る目はないのね」
人ならざる高位存在だろうとお構いなし。その容赦の無さにはリーも乾いた笑いが出てしまうほどだ。それにしても、あちこちでペテン師呼ばわりされる事も珍しくない男を前にしてこうも言いきれる自信はどこから湧いてくるのだろうか。
「それにね、先生。生きている限り人は悩みと無縁でいられません。この大地は生きるもの全てに厳しく、困難に満ちています。比較的インフラの行き届いた龍門も例外ではありません。天災、貧困、鉱石病 といった困難に晒されて日々を生きるのに精一杯という方もいらっしゃるでしょう。そう考えると父は恵まれているのでは?後継者争いも兄弟が継ぐ事で決着して家業も滞りなし。この期に及んで私の事を思い煩うなど贅沢が過ぎます。まったく、悩むのでしたらご自身の健康とか色々あるでしょうに」
「その弁舌を他で活かせませんかねぇ」
言ってから既に活かしていたのだと思い直し、深くため息をついた。リーは周囲のやる気を削ぐ男ともっぱらの評判な男だが、このバイタリティー溢れる令嬢に限っては例外なようだ。
そんなリーをよそに唇へ手を宛てていたメイファンが良案でも浮かんだのか、花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――ああ。それでも父を案じてくださるというのなら、先生が貰ってくだされば解決しますね?」
「……はぁ」
一見、冗談めかした可愛らしいアプローチのように思える。しかし、リーとメイファンは年齢も離れていれば身分の差も歴然。恋愛婚が増えた昨今の龍門だろうと良家の子女は相応の釣り合いを求められる事も珍しくない。年上の男性を追いかけ回しているだけでも外聞が悪いだろうに。
それらを理解した上で駆け引きを楽しんでいるような様子さえある。
「どこの駄獣の骨とも知れぬ中年に大事な娘を嫁がせる御当主はいないでしょうねぇ」
「あら、我が強すぎて持て余した娘ならあっさり手放すかもしれませんよ?それに龍門のあらゆる事情に通じていながらバランスを保つ手腕をお持ちのようですし、厄介払いの相手には適任ではなくて?」
「そいつはちーと買い被りすぎでは?」
「まあ、慎ましいこと。ならば私が先生をいただく、という手もあります」
「言葉遊びですかい?」
「先生が私を欲してくださるのならばどちらでも良いのです」
「それと、勘違いしていらっしゃるようなので訂正しますね?」と、向かい側からリーの隣にある茶椅子へと移る。内緒話でもするかのように身を寄せると、かぐわしい花の香りが鼻腔をくすぐった。
「確かに先生の力量は評価していますけど、それ以上に先生自身を欲しているんですよ」
耳元に注がれた声は魅惑的で、リーの脳を甘く痺れさせる。極上の酒を呷ったような、甘美な酩酊感さえあった。仮に、彼が若者であれば官能的な求めに応じていたかもしれない。
しかし悲しいかな、彼は酸いも甘いも嚙み分けた大人の男だ。情も深く、求められたからといって迂闊に手を出すほど短慮でもない。下手を打てば華に傷がつくと理解しているからこそ、手に入れようとするのなら慎重に事を進める必要があると熟知していた。
窘めるように鬱金色の目を眇めると、さすがの令嬢も観念したように寄せていた身を離した。
「本当に一筋縄ではいかない方ね」
瞳には未だ挑戦的な輝きを宿していたものの、それ以上追い縋ろうとはしない。彼女は我の強い女性だが、引き際というものをよく弁えていた。
「話が逸れてしまいましたので戻します。せっかくいただいたけれど、ご存知の通り私はお茶一本で満足するほど安い女ではありません。ですので、リー先生には埋め合わせをしていただこうかと」
「同行したいって言うんでしょう?まったく、ただの人探しなんですがね」
「そう仰らず。きっと先生のお役に立ちましてよ」
優雅に目を細めて微笑む。色香漂う仕草に、リーはうっかりざわめいてしまった己の心を戒める。
好奇心のままに動くわがまま令嬢な一方で、不思議と人を惹きつける輝きを見せるのだから堪らない。どこか憎めない愛嬌はこれまでの社交で身につけた駆け引きの一種か、それとも生来のものなのか。人の心を見るのに長けたリーでも判じきれない時がある。
そんなリーの心境など知る由もないメイファンは扇子の先ですう、とリーの顎を掬うと囁くように尋ねた。
「ねえ、先生。エスコートしていただける?」
「お嬢様のお望みとあらば」
「本当に?ふふっ、嬉しい!尚蜀まで来た甲斐があったわ!」
その言葉を待っていたと言わんばかりに表情が一層華やぎ、瞳がきらきらと輝く。先程の傲慢さを感じさせる仕草も、子どものように無邪気な笑顔の前では些細な事に思えてしまうほどで。困った道楽お嬢様に捕まってしまったものだと愚痴りたくなる反面、奔放さを可愛らしいと感じてしまう辺り、自覚しているよりも相当やられているのかもしれない。
――いや、まったく。どうしたもんかね。
帽子を深く被り直し、視界を遮りながらそうぼやくしかなかった。
行裕客桟にてロドスのオペレーターと別れたリーを呼び止めたのは客桟の従業員だ。
「連れの方が窓際の席でお待ちの方です」
「誰かと間違えちゃいませんかね?」
「黄の差し色が目立つ黒服に丸眼鏡、鱗獣に似た尾を持つ龍の男が店を出ようとしたら案内するようにと言われてまして」
従業員の台詞に既視感を覚えながらもはて、と首を捻る。リーの特徴を明確に捉えているが、客桟で待ち合わせをするような相手に心当たりはない。
そう告げようとした時、従業員がさらに言葉を重ねた。
「龍門からお越しになったヤオ・メイファンという方ですが」
疑念ともしやという感情が入り混じる。遠く離れた尚蜀にいるはずがないと思う反面、行動力が有り余っていてわざわざリーを呼びつけるような人物は彼女くらいしか思い当たらなかった。
件の女性は四人用の卓で窓からの風景を眺めつつゆったりと茶を楽しんでいた。白磁のようになめらかな肌に目鼻立ちのはっきりした顔立ち。結われた髪を留める簪には赤みの強い
歳若かろうと質の良い衣服を着こなす姿と洗練された雰囲気から一目で貴人と分かる。行裕の風情を感じさせる内装も、華やかなメイファンの美貌を一層引き立たせる。
リーを伴って現れた従業員に慣れた様子でチップを渡し、続けて「この方の分も用意していただける?」と声をかける。
笑顔で引き返していく従業員を確認すると、彼女はリーに向かい側の席を勧めた。
「ご機嫌よう、リー先生。お仕事お疲れ様です」
「これはどうも。ところで、なぜこちらに?」
柔らかな声音でねぎらわれ、リーは曖昧な返答でお茶を濁す。
「溜まっていた仕事を終えて事務所を訪ねたら、しばらく尚蜀に逗留されているとかで。先生に会いたくてこちらに赴きました」
「わざわざこんなところまで?」
「ええ。随分お会いしていませんでしたし、約束したでしょう?」
口の中で約束、と唱えてみるも、あいにく心当たりはない。先生?と首を傾げる動きに合わせて耳飾りが揺れる。
「もう。仕事を片付けてきたら一緒に出かけてくださるって約束、お忘れになったの?」という焦れったそうな声音に促されてようやく思い至った。確かにメイファンを説き伏せるため協力してほしいと彼女の従者に頼まれ、餌をぶらさげた覚えはある。
リャンからの依頼が飛び込んできて以降、翻弄され続けていたのですっかり頭の片隅に追いやられていた。
口約束とはいえ、馴染みの顧客との約束を忘れたとなれば信用問題に関わる。かといって下手に出るのも危険だと直感が訴えている。出方を伺っていると、メイファンは大きなため息をついた。
「これでも多少なりとも聞き及んでいます。なんでも古い酒杯にまつわる事件で先生は危うく乗っ取られかけたとか。大変な目に遭われたのですね」
何故知っているのか?と野暮な事は言うまい。それより気になるのは案じるような態度の裏に潜むものだ。どうにも雲行きが怪しい。そして彼の推測通りと言うべきか、女性は携えている扇子で口元を隠したかと思うと悲しげに目を伏せた。
「……とはいえ、ひどいとは思いませんか?先生」
「――と、言われましてもねぇ……」
事情を知らぬ者が見れば軽薄な男の口約束に弄ばれた気の毒な女性のように見えるかもしれない。しかし、リーの思い描く人物像通りであれば彼女の口元はにんまりと弧を描いているはずだ。
「私がどんな思いで先生のお帰りを待ちわびていたのか。そしてようやく体が空いたからとお邪魔したのにお留守で、おまけにしばらくあちらで逗留するようだとワイフーさんから聞いた時の気持ち……お分かりになって?」
「ええ、まあ。おそらくは」
「待ちきれず尚蜀まで来てしまいました。まあ、先生もご多忙ですし多少のうっかりは仕方ないのですが……それよりも悲しい事があります。先生ならばお分かりですよね」
眼鏡越しの冷めた視線を知ってか知らずか、メイファンは肩をすぼめてしなを作る。同情を誘うにしてはわざとらしい所作が、悲しんでなどいないなによりの証明と言えよう。
否、ある意味悲しんでいるのだろうが、大衆が想像するような痴情のもつれとは大きく異なる。
心痛を堪えるようにたっぷりと間を置いてからパンッと扇子を閉じる。そして目尻を吊り上げ、問い詰めるように扇子の先端をリーへと向けた。
「いわく付きの酒杯を巡って司歳台、礼部、粛清院が入り乱れる大騒動!代理人とやらがリー先生の裡に潜み、囲碁に見立てて謀!……そんなの……面白いに決まっています!もう、何故私に黙って行かれたのかしら?」
――そら、面倒な事を言い出したぞ。
しっとりとした雰囲気から一転して声を張り上げた女性にリーは胸中でぼやいた。
ろくな事を言い出さないと思っていたが、あまりにも想像通りの展開でやれやれと息をついた。そして大仰に肩を竦めてみせる。
「これは申し訳ない。旧い友といえど知府からの急な依頼ともなれば、内密に進めねばならんのですよ。そもそも酒杯自体手に入れた時点では怪談つきの骨董品ってだけで」
「その時点で連絡をくださらないと。物に魂が宿るなんて珍事、是非その目で確かめたいものでしょう?」
「仕事はどうするんです?多忙なお嬢様を呼びつけるわけにはいきませんよ」
「そんなの抜け出してきます。後で埋め合わせすればどうとでもなるもの」
「……とんだ道楽お嬢様だ」
「常日頃、昼行灯を決め込んでいる方に言われたくありません」
開いた扇子でリーの暴言を防いだメイファンはつんと顔を背ける。子どものような反応とは裏腹に、所作は優雅でそつがない。いじけたような物言いとそっぽを向くのさえなければ淑女として申し分なかっただろうにと、残念なものを目の当たりにしたような感情が湧いてしまった。
メイファンはかつてリーが依頼で関わった名家ヤオ家の令嬢だ。彼女は易の才覚と探究心で家業に利益をもたらしてきたが、堅実さとはかけ離れた気質故に当主の器ではないと早々に後継者争いから外された背景を持つ。龍門ではある意味有名な人物だった。そんな令嬢が何故リー探偵事務所に度々やってくるのかと言えば、好奇心を満たす出会いと所長のリー目当てである。
この物見高い令嬢は興味をそそられる物事をどこからか聞きつけては文字通り飛んでくる。仕事の合間にリー探偵事務所へ訪れては依頼の仲介をしたり、顔の広さを活用して多少の融通を利かせるのは序の口。助手などと称して依頼に同行するのも珍しくない。
加えて彼女はリーの聡明さをいたく気に入り、何かにつけて言い寄るようになったのだ。最初こそ冗談めかしたものだったが、口説き文句が熱を帯びていくまでそう時間はかからなかった。
言うなればリー探偵事務所の関係者になりつつあるお得意様の一人。最近ではアから「いずれ事務所を牛耳る気だ」と揶揄され、本人も「将を射んと欲すれば、と言うものね」なんてころころと笑うものだからますます始末が悪い。
「尚蜀といえば風光明媚で有名な地。この荘麗で風情のある光景を思う存分堪能されたのでしょう。佳景と名高い三山十七峰も楽しまれたのかしら?」
「だから仕事ですって」
「あら?若い女性とご一緒していたとお聞きしましたけれど」
「嬢ちゃんと呼べるくらいの娘っ子ですよ」
「年齢なんて些細なこと。リー先生ったら少し目を離すと人をたらし込んでいるから心配になってしまいます」
「たらし込むなんて人聞きの悪い」
つきまとう令嬢こそ眼前にいるものの、意図的に篭絡した覚えはなかった。ドゥ・ヤオイェの件も同様に、一時的な協力を申し出ただけに過ぎない。
良家の子女が独身の中年男性――それも、龍門のグレーゾーンにも関わる事務所の所長につきまとうなど醜聞となりそうなものだが、奇行として周囲を黙らせてしまえる程度に有能なので尚更たちが悪かった。彼女の身内ですら「奇矯な面があるのだから男性の好みが変わっていてもおかしくはない、むしろ自然なのでは?」といった調子だ。
フットワークの軽い令嬢の事だから尚蜀での一件も官僚達の思惑で複雑化してきた頃合に絡んでくるのではないかと一時案じたほどである。しかし、さすがに炎国の広大さには敵わなかったと見える。
「ああ、私がクランタだったら今回の一件を見物できたかしら?いえ、無謀ね。千里を一瞬で駆けるアーツの持ち主だったら是が非でも駆けつけたのに。そもそも情報の速さが致命的かしら。こうして全てが終わってからがやっとですもの。情報網を広げようにも炎国の広大さが憎らしいわ」
「今のお嬢様も充分地獄耳ですよ」
うわ言のように思索を口にしているメイファンを薄ら寒い思いをしながら耳を傾けるリー。
さすがに冗談だと笑いたくなるが、今ですら人脈を駆使して聞きつけてくるのに今以上となったらいよいよ収拾がつかなくなりそうだ。
「そもそもおれは旧友に利用されただけでねぇ。酒杯の持ち主の謀なんざ見当もつかないし、お偉いさん方のいざこざに関しちゃ蚊帳の外ですよ」
「それでも立派な当事者の一人よ。そうやって面白そうな事を独り占めして、ひどい人」
ああ言えばこう言う。右と言えば左。山と言えば川。慣れ親しんだ応酬は子供の口喧嘩じみているが険悪さはなく、いっそ小気味良さすら感じさせる。
続けようと思えば延々と続けられそうだが、このまま続けていても一向に話が進まない。リーは大人として折れる選択をした。
「確かにお嬢様の人柄を知っていながらお誘いしなかったのはおれの落ち度ですかねぇ」
「そうでしょうとも」
「ですんで、拗ねるのもその辺にしていただいて」
「そうね。リー先生をなじって少しは気が晴れた事だし」
するすると扇子を閉じながら無邪気な笑顔で言うメイファン。敬語から普段の幾分か砕けた口調に戻ったところを見るに、リーをやり込めて機嫌が上向きになったのは確かなようだ。リーにしてみればとんだ気晴らしだが、彼女との付き合いでこのような場面に出くわすのは今に始まった事でもない。
「それで本題なんですけれど、その前に。先生?何かお忘れになっていない?」
扇骨に両手を添え、上目遣いでリーを見つめる。期待する眼差しに「ああ、そういう事ですかい」と手で応じ、円錐形のボトルを取り出した。売店で偶然見かけて購入した正午茶である。
「正午茶?」
「尚蜀じゃ売店の一角を占めるほど人気ですよ」
リーはどうぞと促すが、令嬢は不満そうな色を隠すことなく首を傾げた。
「これが自分に好意を寄せる若い女性へ贈るものかしら?」
「物好きお嬢様には充分でしょう。消え物で好みに依らず、それなりに楽しめる。ああ、そうそう。他の味は飛ぶように売れるんですが、そのドクダミ味はいつも売れ残るいわく付きだとか」
そういうのがお好みでしょう?とうそぶいてみせれば、「確かに怖いもの見たさで試してみたくなりますね……」と興味深そうな様子でボトルを手に取った。
「ドクダミ味と言っても産地や製法で千差万別。飲みやすさを重視したものから本来の風味をそのまま生かすものまで多岐に渡るけれど、これはどのような塩梅なのか」
ボトルを傾けた直後、メイファンがピシリと音を立てて硬直する。瞬きの間の事だった。すかさず扇子で表情を隠したものの、奥にある目には涙の膜が張り、眉はしっかりとハの字に寄せられている。
「どうです?」
「……先生もご存知でしょうけど、花草茶は炎国の人々に広く親しまれています。ドクダミもその一種。効能は確かとはいえ、その独特な風味から好みが分かれやすくもある。山深い尚蜀だからこそ、健康に重きを置くのかもしれませんが、これは少々野生味が強すぎるかと。もし龍門に販路を伸ばすのなら配合を考えるか焙煎方法の見直しが必要でしょうね」
「さすがはメイファンお嬢様。お茶にも造詣が深いとは」
「からかうのはおやめになって」
涙が滲む目で請われては退くしかないだろう。
想像を上回った味わいにうち震えている様子は可愛らしいのに、厄介事に首を突っ込みたがる気質はいただけない。たまにはこうして灸を据える必要があるだろう。まったく、どうしてああもやんちゃが過ぎるのか。
リーは諌めるような口調で語りかける。
「ヤオ・メイファン。きな臭い案件や冴えない中年を追いかけてこんな遠方までくる元気があるのなら婿でも探したらどうです?お父上もさぞ気を揉んでいるだろうに」
「家業に貢献しているのだから娘の趣味に干渉する筋合いはないと思います。それに先生は素敵な殿方でしょう?この私がそう思うのだから間違いないわ」
「つまらない男ですよ。酒杯の持ち主にも退屈な人間と言われたくらいで」
「その方、随分長生きしていらっしゃるようだけど見る目はないのね」
人ならざる高位存在だろうとお構いなし。その容赦の無さにはリーも乾いた笑いが出てしまうほどだ。それにしても、あちこちでペテン師呼ばわりされる事も珍しくない男を前にしてこうも言いきれる自信はどこから湧いてくるのだろうか。
「それにね、先生。生きている限り人は悩みと無縁でいられません。この大地は生きるもの全てに厳しく、困難に満ちています。比較的インフラの行き届いた龍門も例外ではありません。天災、貧困、
「その弁舌を他で活かせませんかねぇ」
言ってから既に活かしていたのだと思い直し、深くため息をついた。リーは周囲のやる気を削ぐ男ともっぱらの評判な男だが、このバイタリティー溢れる令嬢に限っては例外なようだ。
そんなリーをよそに唇へ手を宛てていたメイファンが良案でも浮かんだのか、花がほころぶような微笑みを浮かべる。
「――ああ。それでも父を案じてくださるというのなら、先生が貰ってくだされば解決しますね?」
「……はぁ」
一見、冗談めかした可愛らしいアプローチのように思える。しかし、リーとメイファンは年齢も離れていれば身分の差も歴然。恋愛婚が増えた昨今の龍門だろうと良家の子女は相応の釣り合いを求められる事も珍しくない。年上の男性を追いかけ回しているだけでも外聞が悪いだろうに。
それらを理解した上で駆け引きを楽しんでいるような様子さえある。
「どこの駄獣の骨とも知れぬ中年に大事な娘を嫁がせる御当主はいないでしょうねぇ」
「あら、我が強すぎて持て余した娘ならあっさり手放すかもしれませんよ?それに龍門のあらゆる事情に通じていながらバランスを保つ手腕をお持ちのようですし、厄介払いの相手には適任ではなくて?」
「そいつはちーと買い被りすぎでは?」
「まあ、慎ましいこと。ならば私が先生をいただく、という手もあります」
「言葉遊びですかい?」
「先生が私を欲してくださるのならばどちらでも良いのです」
「それと、勘違いしていらっしゃるようなので訂正しますね?」と、向かい側からリーの隣にある茶椅子へと移る。内緒話でもするかのように身を寄せると、かぐわしい花の香りが鼻腔をくすぐった。
「確かに先生の力量は評価していますけど、それ以上に先生自身を欲しているんですよ」
耳元に注がれた声は魅惑的で、リーの脳を甘く痺れさせる。極上の酒を呷ったような、甘美な酩酊感さえあった。仮に、彼が若者であれば官能的な求めに応じていたかもしれない。
しかし悲しいかな、彼は酸いも甘いも嚙み分けた大人の男だ。情も深く、求められたからといって迂闊に手を出すほど短慮でもない。下手を打てば華に傷がつくと理解しているからこそ、手に入れようとするのなら慎重に事を進める必要があると熟知していた。
窘めるように鬱金色の目を眇めると、さすがの令嬢も観念したように寄せていた身を離した。
「本当に一筋縄ではいかない方ね」
瞳には未だ挑戦的な輝きを宿していたものの、それ以上追い縋ろうとはしない。彼女は我の強い女性だが、引き際というものをよく弁えていた。
「話が逸れてしまいましたので戻します。せっかくいただいたけれど、ご存知の通り私はお茶一本で満足するほど安い女ではありません。ですので、リー先生には埋め合わせをしていただこうかと」
「同行したいって言うんでしょう?まったく、ただの人探しなんですがね」
「そう仰らず。きっと先生のお役に立ちましてよ」
優雅に目を細めて微笑む。色香漂う仕草に、リーはうっかりざわめいてしまった己の心を戒める。
好奇心のままに動くわがまま令嬢な一方で、不思議と人を惹きつける輝きを見せるのだから堪らない。どこか憎めない愛嬌はこれまでの社交で身につけた駆け引きの一種か、それとも生来のものなのか。人の心を見るのに長けたリーでも判じきれない時がある。
そんなリーの心境など知る由もないメイファンは扇子の先ですう、とリーの顎を掬うと囁くように尋ねた。
「ねえ、先生。エスコートしていただける?」
「お嬢様のお望みとあらば」
「本当に?ふふっ、嬉しい!尚蜀まで来た甲斐があったわ!」
その言葉を待っていたと言わんばかりに表情が一層華やぎ、瞳がきらきらと輝く。先程の傲慢さを感じさせる仕草も、子どものように無邪気な笑顔の前では些細な事に思えてしまうほどで。困った道楽お嬢様に捕まってしまったものだと愚痴りたくなる反面、奔放さを可愛らしいと感じてしまう辺り、自覚しているよりも相当やられているのかもしれない。
――いや、まったく。どうしたもんかね。
帽子を深く被り直し、視界を遮りながらそうぼやくしかなかった。
