BK短編集




ブロッケンジュニアの邸まで行くには、途中、幾つかの坂を上り下りする。
どれもそれほど急な坂ではなく、息を切らす者はかなりな年配の人間以外は殆ど見かけない。
それは短いもの、やや長いもの、緩やかなカーブを作っていたり真っ直ぐだったりもする。

秋がもうじき終わる、風が少し冷たいある日。
いつものようにベルリンを訪れ、街のショーウィンドゥを冷やかしながら郊外へ向かう。
土産はもう配達されているだろうから、手ぶらでの訪問も失礼にはならないだろう?
なんて。世界1いや宇宙1、好きな相手の家へ行く男としては、いささかツメが甘いだろうか?
たまには気取って薔薇の花束でも…と思った時には既にそんな店もなく、両側には住宅と緑しかない、幾つか目の坂を下っていた。


あと15分足らずでブロッケンジュニアの邸の門前に着く。
一番なだらかな坂に差し掛かる手前の角には、よく吠えるでかい犬がいるのだが、今日は昼寝でもしているのか、姿も見えず静かだ。

もうじき冬を迎える季節だというのを、俺はいつの間にか忘れていた。

何故なら、いま黙々と歩く俺の背と目前にある坂道に、午後の陽射しがまるで春のように暖かく柔らかく降り注いでいるからだ。
歩いているうち、最初に感じた風の冷たさは全く気にならなくなっている。

清々しい気分、というものを久しぶりに堪能しながら上り坂。
あと二つ上れば目的地。
早く会いたい、という心とは裏腹に…何故だろうか?俺の歩く速度は決して速いとは言えない。
よく考えてみたら、こうして街からずっと歩いてきたのは初めてだと気付いた。
今まではタクシーだったりバイクだったり、もしくは前半か後半を走ってきた。勿論ぶっ通しでランニングをしながら来たこともある。
帰りは大抵ブロッケンジュニアがタクシーを呼ぶ為、こうしてこの道に何かを感じながら…というのは殆ど無かった。
が、これはこれでなかなか新鮮で、意外と悪くない。
多分、俺は今、かつてない位にリラックスしているのではないか?
いつもは急く気持ちすら麻痺するほどに。
何よりも、もう俺達は大丈夫、安心していいのだ、という思いも無くはない…それは俺だけなのかも知れないが、そろそろ少し位は愛されていると自負させてもらいたい。


一軒当たりの敷地面積が広くなり、中に建つ豪邸と言える部類の家と家の間隔もかなり空き、既に擦れ違う人間もいない。
そんな風景の中心にある最後の坂は、少し(通ってきた中では一番)長い。
この坂は何度か歩いたことがある。
走ってきた時、クールダウンと共に彼に会える胸の高鳴りをも落ち着かせるには丁度良い距離なのだ。

この坂の中間には、ぽっこりと地面ごと盛り上がったような傾斜部分が少しある。
ブロッケンジュニアの話では、昔、地割れをした部分で、隙間の埋め方が悪かったところへ何だかの災害で度々陥没し、繰り返し舗装した為だとか。
今の土木技術があればどうにかなるだろうが、所詮は郊外で住人の少ない地区ということで放置されているらしい。
以前走ってきた時に一度躓きかけたそこは、ブロッケンジュニアも…暗い過去を笑い話で聞かせてくれた中で、酔っ払って何度も躓いては八つ当たりをし蹴った場所だと言った。
改めて想像したら失礼だが笑いが込み上げた。
しかし、彼の過去の姿を知るそのコンクリートの盛り上がりもこの坂も、今は太陽の光を燦々と受け、穏やかで暖かな一つの景色と化している。

光が当たるか当たらないかで景色が違うように、もし心もそうであるとしたら。
ブロッケンジュニアの心の奥、まだ晴れていない闇があるならば…俺はこの身を焼き尽くしてでも、永遠の光をそこに照射し続けたい。
そして二度と凍りつかないように、彼にとって一番快適な温度をもたらしたい。

ああ、いま。
無性に『この明るみと温もりを、彼と共に享受したい』と思った。
この陽の当たる坂道を二人きりで歩きたい。
そう、こんな麗らかな午後なら最高だ。
手を取り合い、笑みを交わし合い、子供みたいにふざけてみたり歌を歌いながらなんかもいい。
凄くいい。

そう思い至った時、俺の足はブロッケン邸の門近くに到着していた。

一台の小型トラックが反対方向へ行くのが見え、門の内側ではブロッケンジュニアが箱を二つ抱えて立っている。

「ケビン、どうした?今日は遅いじゃないか。いつも朝っぱらから押し掛ける奴が…迷惑がられてばかりで、さすがのおまえも気が引けたか?」

先に俺に気付いていたんだろうブロッケンジュニアは、そんなからかうような口調でも、いつになく優しげな笑顔で迎えてくれた。

「まぁ、な。ゆっくり歩いてきたら午後になっちまった、ってのが正しいんだがな」

愛しい人の、その笑顔に見惚れながらも、俺はわざと素っ気ない言葉で返してしまう。
マスクの内はもう完全に、だらしないほど弛んでいるというのに。
ブロッケンジュニアは笑みを崩さないまま「そうか」と頷いた。
いつもより機嫌が良さそうだ。

この、白の開襟シャツと濃茶のコットンパンツは、彼にとてもよく似合っている。軍服などよりずっといい。
だがしかし。
その品の良い大人カジュアルに一言だけ言わせてもらいたい。

シャツのボタンは、せめてもう2つ止めてくれ!

心の中で叫んでみる。
俺が困るんだ。
既にもう……何かが反応しかけていて。ここが外でなければどうしただろうか。

「ケビン、今これを受け取ったんだが…おまえ、一体何を送ったんだ?」

少し淫らな妄想に走りかけた時、ブロッケンジュニアの問いかけが俺の理性を呼び戻した。
ああ、と彼の抱えた箱を見る。
今届いたということは、さっき見たトラックが運んできたのか。良いタイミングで着いてくれたものだ。

「それは土産だ。たまには美味い魚を食いたい、って言ってただろう?」

「魚?ああ…だから冷凍便なのか。品名に食品としか書いてないから、一体何かと…」

俺を見るブロッケンジュニアの目が細められた。
一瞬ドキリとしたものの、背中に陽射しを感じて…俺が逆光の位置にいたからだと判り、慌てて都合の良い勘違いを振り払う。
何をいま期待したんだ俺は。
片やブロッケンジュニアは俺の様子など全く眼中になく「こんなでかい箱が冷凍庫に入るかどうか」などとぶつぶつ呟いている。

「それは常温で解凍するんだそうだ。箱ごとキッチンに一晩置けば、今日は暖かいし…多分どうにかなるさ」

「どうにか、って、おまえがさばいて料理するんだよな?当然」
と、彼が箱の横を叩く。
勿論、と頷けば、彼は今度はさも嬉しそうに笑った。

「ありがとう、ケビン」

「喜んでくれたか?」

「ああ、とても嬉しいよ」

この笑顔が俺は好きで好きで。
会えない間は見たくて見たくてたまらなかった。
嫌々ながらもセイウチ野郎に美味い魚について尋ねたのも、この一瞬で報われた。奴にはいつか礼を言おう。


「俺が運ぶから寄越せ」

門前で二人してつっ立っているのもそろそろどうかと思い、俺はブロッケンジュニアの腕から箱を奪った。

「ケビン」

「うん?」

「今日は、もう来ないと……思っていた。その代わりにこれが来たんだなと。土産も嬉しいが、おまえに会えたことの方が……俺は嬉しい」

いま、この人が照れたように見えたのは陽射しのせいだろうか?

「何言ってんだよ!二週前に約束しただろ。会えて当たり前だ」

今の言葉で踊り出したい程に舞い上がったが、あえて突っ張ってしまうあたり、我ながら損な性格だと思う。
この箱がなければ、言葉でなど返さず、ただただ強く抱き締めていただろうに。

「お、オレ先に行くからな」

ドキマギしたまま一足先に玄関からキッチンへ向かい、適当に2つを置いてリビングへ行った。
だがブロッケンジュニアの姿はどこにもない。

そういえば俺の後から廊下を歩く靴音も、キッチンに来た気配すらもしなかった。
試しに玄関まで戻れば案の定ドアは空いたままで、この邸の主はまだ外にいるのだと知れる。

しかしなんということもなく、すぐに見つけた。

彼は……門柱に背凭れて空を見上げる格好で、柔らかな日溜まりに包まれていた。
それはまるで静止したひとつの風景であるかのように、眩しくて美しくて。

やはり、この人は。光射す場所にいるのが相応しい

そう思わずにいられなかった。


声をかけようか迷ったが、とりあえずやめておくことにする。

黄昏時が訪れるにはまだ時間がある。少しの間位なら上着は必要ないだろう。
でも、シャツのボタンは止めて欲しい。色気を見せつけるなら俺だけにしてもらいたい…なんて、邪な妄想は一先ず終い。

陽は少し西に傾いたが、彼のいる場所は本当に気持ち良さそうに見える。



今度、また晴れた日に。こんな穏やかな午後があったら、彼を散歩に連れだそう。
そして陽の当たるあの坂道を、二人でのんびり歩くんだ。
手を繋いだら怒られるだろうか?
歌を唄うならどんな曲がいいだろう?
例の場所で二人で躓いて、転がって、思いきり笑うのもいい。



ああ、でも。
その前に、俺は魚介類と一戦交えなけりゃならないけど、な。




END

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