BK短編集
電話の音で目が覚めた。
すぐ近く…ベッドサイドのローチェストに青い携帯電話がある。
音はそこから。
そして誰何することもせず、電話の相手がケビンだとわかる。
お互いの番号からのみ、他と着信音やバイブのパターンが違うのだ。
『グーテン、アぁベンド?』
受話ボタンを押し耳につけるなり、明るい調子の、おかしなドイツ語の挨拶が聞こえた。
「…ハロー、ケビン」
わざと英語で返すとケビンは笑った。
『なんだよ、せっかくドイツ語を真面目に覚え始めたのに』
「勤勉だな。発音をもう少しなんとかしろ」
『ヤー、なんてな。わかってるよ。次に会うまでに完璧にするさ。それより、いま何していた?』
「二度寝していた。昨夜は少し遅かったんだ」
昨日ケビンが発った後、日暮れまで昼寝をしてしまった。
そのせいで夜になかなか寝付けず、日付が変わってからも数時間、書庫に篭っていたのだ。
ケビンが居てなかなか読書に集中出来なかった為か、久しぶりに時を忘れ活字漬けになっていた。
今は朝とは言えず昼とまでいかない微妙な午前中。
『そうか。すまない、起こしてしまったんだな』
「気にするな。おまえは…と、この時間ならばロードワークから帰ったあたりか?」
起き上がろうかと思ったが、昼まで寝るつもりでいる以上やめておく。
それでも肘をついて頭だけ浮かせ、携帯電話を持ち替えた。
『ああ、その通りだ。午後からジムへ行く。しかし時差1時間は良いな…気にせず話せる』
「そうだな」
1時間程度の時差なら、国際電話は殆ど相手方の時刻を気にしないで済む。
『本当は昨日のうちに声が聞きたかったが我慢した。ケビンマスクがタクシーの中で愛を囁いたら、大変な騒ぎになると思わないか?まあ別にオレは構わないがな』
陽気に笑うケビン、昨日の朝は、今にも泣き出しそうな顔をしていたというのに。
「俺が構う。やめてくれ」
冗談だ、とケビンは笑いながら言った。こいつの冗談は洒落にならない。
「ところでケビン、部屋はどうした?」
聞きたかったのは、クロエ…いや、ウォーズマンとケビンが過ごしていたアパート、今ケビンが電話をかけている部屋だ。
『予定通り明後日に引き払う。今夜は最終的な家具の取捨選択、明日は軽く掃除して明後日鍵を返す。特にたいした荷物もないから楽だ』
「そうか…」
ケビンは窓を開けたようで、車の走る音が聞こえた。
『まぁ面倒だからギリギリまで借りておくつもりだったがな、あんたがこの前…』
俺が何だというのか、言葉の尻はクラクションでかき消された。
「俺が何だと?もしや、まだあのことを気にしているのか?」
当てずっぽうもなにも、言葉のあやから他に思い付かない。
以前、ケビンの今の……イギリスの部屋、に泊まった時。
ややあってクロエとの関係を疑った俺は、ケビンと喧嘩をした。
クロエの正体はウォーズマンなのだから、ケビンとどうこうなるわけはないと知りつつも、つい口が過ぎてしまい……あの時のケビンの表情は、ずっと忘れられないでいる。
『あんたがあの喧嘩の後、早く引き払えと言ったろう?でもそれだけではないんだ、ここに居たくない理由が少しある』
「他に何が?」
『オレは…あんたとこうなる前、毎日ここで色々考えていた。悶々とな。どんなに辛かったか…判らないだろう?』
「ケビン…おまえ…」
『なんてな。じきシアワセの絶頂へ行けるオレには、もうどうでもいい過去だ。一人の時もそれを思えば寂しくはないから、な』
寂しい?
ケビンは今、寂しいのか。
まだたった一晩、離れただけだというのに。
いとけない子供のように寂しいという単語を口に出来るケビンが、俺は少し羨ましい。
俺は死んでも「寂しい」などと言えないだろう。
ケビンは素直になった。これが本来の性格なのだろうが…
「ケビン、その…早くしろと言いはしたが、あと1ヶ月ある、大丈夫か?すまないな…俺が早めたというのに結局待たせて…」
1ヶ月後からこの屋敷でケビンと暮らす。
予てより決めていたことだが、喧嘩の詫びのつもりで引越しを早めさせたが、屋敷の修繕はさすがに業者を頼まねばならない。
それがどんなに早く終わっても1ヶ月後なのだ。
人の多く出入りする屋敷にケビンを置くのは危なすぎる。
『ひと月なんて大したことはない。オレは10年以上片想いに耐えたんだからな』
「しかしその間、他国での大会出場にかこつけてホテル住まいを余儀なくしてしまった。ギリギリまでそこに居ろと言い直せば良かったかもな…すまない」
『うん?オレなら大丈夫だぞ。色ボケして腕も身体も鈍ると困るからな。それに…今度は毎日電話で話せるだろう?』
約束はしたものの、今まで俺が電話を嫌ったせいで、ケビンは珍しく遠慮がちに訊いてきた。
「いい悪いの話ではないだろう、ファイトマネーが全て通話料金で消えてしまうぞ?」
『俺は金があっても使い途ないからいいんだ』
こういう時のケビンはやけに……いや、あえて考えるまい。
「…おまえからは朝だけにしろ。夜は俺がかける。おまえのいる国の時間で21時はどうだ」
『しかし…時差が何時間になるか…転戦先次第で変わるぞ』
「構わん。おまえが起きた朝の時間でいい。夜は俺が計算する。嫌か?」
『嫌なわけないだろ、嬉しいさ……くそっ、今すぐ会いたくなった…』
「我慢しろ。じきに嫌でも毎日二人なんだぞ」
『嫌かとか嫌でもとか、さっきから何の心配だよ、オレはあんたを愛しているんだぜ?なあ、オレの試合とあんたの方の修繕が終わるまで、一緒にいないか。ホテルを転々とするが二人ならどこでもいいだろう?』
「…気が向いたら1日位な」
『1日なんか駄目だ、帰さないぞ!』
「ならば行かない。おまえは少し甘やかせば付け上がるから困る」
『仕方ないだろう、あんたはオレを愛していないのか?』
「そういう問題でもないと思うがな…とにかく気が向いたらどこへでも行ってやるよ、一泊だがな。さて、もういいな?また夜に…」
『待て!まだ切るな!』
「なんだ?俺はもう少し寝たいんだが」
『…愛している、と言ってくれないか』
「はあ?」
『いま聞きたいんだ』
「…愛しているよ、ケビン。じゃ切るぞ」
『相変わらず心がこもっていないが…まぁいいか。夜、待ってるからな』
「ああ。必ずかける。午後のトレーニングも気を抜くなよ。ではな」
『ああ……』
通話を終え、携帯電話を枕元に置いて再び毛布にに潜り込む。
そして、あれ以上話していたなら自分が耐えられなくなっただろう、と思わず自嘲した。
俺もおまえに会いたい、抱きしめたい。
いつか本音として告げることが出来るだろうか?
まだ気恥ずかしくて言えないことは山ほどある。
一人きりでも誰かを想い、自覚するほどの笑みが溢れるようになったのは他の誰でもないケビンのおかげだ。
昼までの短い眠りに落ちるまで、俺は夜の電話の話題を探していた。
もう寂しいと、二度と言わせないような台詞も。
………END………