BK短編集
「ほう…割といい部屋じゃないか」
初めて訪れた、ケビンが借りているイギリスの部屋。
そのドアの内側を見た率直な感想がそれだった。
「つい今しがたボロアパートだのなんだの、ケチつけたくせに…よく言うぜ」
内鍵のロックをしつつ、背後でケビンがぼやく。
彼には失礼だったが確かにそう言いはした。
「外観が古かったものだからつい、な」
「つい、じゃねぇよ。あんたの…ブロッケン邸の古さと一緒にするな」
笑いながら振り向けば、
「そこのジュニアの代になってから傷みが進んでるだろう」と、軽く睨まれ。
確かに全くと言っていいほど、内も外もリフォームどころか手入れもしていないのだから、その通り、返す言葉はひとつもない。
ケビンのこの部屋は内装を繰り返しているのだろう、床も壁も新築のような綺麗さだ。
「さっさと奥に入れよ、狭いんだから。とりあえずブロはソファで寛いでいてくれ。すぐに飲物を用意する」
背を押され二人で部屋の奥に入り、そのままキッチンへ向かったケビンに取り残された俺は、なんとなく窓辺に立った。
ベランダに面したそのリビングは、カーテンを開ければ日当たり良好の南向きで、道を挟んだ正面は一つ低い建物だから視界も良い。
ここにあのケビンマスクが住んでいても、どの角度ですら中を覗くというのは不可能で、なるほどここを選んだ理由もわかる気がした。
間取りは単身用そのもので、天井は高めだが特に超人用という造りではないらしい。
小さな玄関を上がれば右にシューズボックス、左にトイレとバスルーム。
短い廊下の突き当たりのドアを開けるとこのリビング兼ダイニング。
椅子が2脚あるカウンターテーブルの向こうは簡易キッチン、こちら側は2人掛けのソファともうひとつソファがあり、ローテーブルを挟んでテレビと棚、無駄なものは殆どない。
閉ざされているドアの向こうは寝室だろう。
そういえば、こういった場所に住まう独り者の「男の部屋」というのは見たことも来たこともなかった。
迷った末に幅のある方のソファに座り、カウンター向こうのケビンを見れば、何やら戸棚を開けたり閉めたりと忙しく動いている。
飲物くらいでそんな無駄な動きをしなくとも…と不思議に思った時、
「悪い、肝心のフィルターをきらしていた。すぐ買ってくるから待っていてくれるか?」
途中で買いものした時、気付かなかったらしい。
ケビンは二人でここに来る道すがら、『オレ一人なら紅茶があればいいんだが』と言いつつ、俺の為にコーヒーを淹れるのだと、わざわざ新しい豆を数種類選び店で挽かせ、自己流の…俺が好きそうなブレンドをした。
「俺が行くか?おまえ、あまり街を歩きたくないだろう?」
こいつが有名人である以前に、父親に知られたくない部屋なのだと聞いた手前、客といえど気を使わずにいられない。
立ち上がり掛けた俺に、ケビンは「いいから少し留守を頼む」と言い、コートも羽織らずに出ていった。
往復20分もかからないだろうが…恋人とはいえ初めて訪れたその部屋に一人きり、というのはどうにも落ち着かない。
テレビをつけたが番組自体よくわからず、唯一の映画も観たことがあるような…確か子供の悪戯が大人を翻弄するコメディだったか…と、そこでふと思い出した。
昔、若い頃に皆で集まり飯を食った席で、テリーマンが子供の頃の話題を出してきたことがあった。
『で、絶対にあるんだよ。お宝が』
お宝とは何かと聞いたのはラーメンマンだったか。それに対してテリーは
『何って、男のベッド下は定番だろう?ヤバイものとか恥ずかしいもの…パパやママにも友達にも見られなくない秘密のアレとか、つまりお宝さ』
そのアレの意味が通じたのは、確かキン肉マンとバッファローマンだった。
彼等は友達の家に行くと、こっそり(もしくは有無を言わせず押さえつけてでも)ベッド下を覗くという。
意味の解った者が次第に増え、一同は笑いの渦となったが…俺だけはポカンとしたままだった。
俺はガキの頃からベッド下を何かに使った記憶がなく、宝物は特に無く(徽章以外は)隠すべき品物も持たずまま育った。
数年後、ソルジャーが同じような話題を持ち出し、やはり意味が解らなかった俺はニンジャにこっそり聞いた。すると、
『お主は知らなくとも良い。清いままでいてくれ』
笑顔でそう返され余計に混乱しはしたが、ついに知らずまま年月が経ち、そのうちそんな話も忘れた。
いま、映画の子役がベッド下に入るのをみて再び深く思い出したが、今もまだ意味が解らないままでいる。
だからただ、
『男のベッドの下には秘密の宝がある』
『誰かが部屋に来る時は必ずそこにそれを隠す』
『それを暴くのは愉快なこと』
という項目が単純に呼び覚まされた。
そこに、いま自分が居るのは一人暮らしの若いケビンの部屋だという現実が加わり、余計に落ち着かない気分になった。
今ではだいぶ鳴りを潜めた強い『好奇心』が、若い頃のように再び頭をもたげてしまった、というやつだ。
ケビンのベッドの下を見てみたい、という気持ちと、こっそりそんなことはしたくないという気持ちが、頭の中で勝手に試合を始め…
そして1分もしないうちに圧勝したのは『見たい』だった。
良い退屈凌ぎにもなる。
よし!と立ち上がり、寝室であろう部屋のドアノブに手をかけたとき。
「ただいま!待たせてすまなかった!」
見事なまでのタイミングでケビンが帰ってきてしまい、その場は未遂となったものの……それが更に『好奇心』を駆り立ててしまう結果となった。
仮面の恋人と団欒するのはとても久しぶりで、ケビン自身も自分のテリトリーだという意識があるのか、いつものだらしなさは見せなかった。
てきぱきとよく動くし甘えたことも言わず、いつものようにベタついてもこない。
少しの違和感は覚えたものの、そもそも…いま俺がここにいる理由は『ついで』なのだ。
逢瀬として共に来たのではないし、恋人の、ケビンの、この部屋を別に訪れたかったわけでもない。
明日俺は、ケビンの一番嫌がる相手と久しぶりに会う約束があり、それをたまたま邸に来ていたケビンに話した。すると、
『それなら前日に一緒にイギリスへ行こう、ついでにオレの部屋に招待するから、滞在中は泊まればいいじゃないか』
とケビンが言い出した。
ホテルを予約すると言えば、自分も同室にしろと迫るに違いなく、同じことなら気楽な方がいいか…とケビンの申し出を受けた、それだけのこと。
仮面をつけたケビンとこうしていると、歳の離れた友人のようで別の意味では新鮮だったが…少し、そうほんの少し、何か物足りないと思うのは一体何故だろう?
他愛もない会話をしながらの夕飯が終り、テーブルの片付けを手伝うという俺の申し出をケビンは撥ね付け、すぐ席を立ち食器を重ね集めて洗いに行く。
これも珍しいことのひとつで、俺は疎外感というのは大袈裟でも、本当にただの異国の客人になっている気がしてならなかった。
なんとなくモヤモヤとしているうち、やがて水音が止まり、
「なぁ、食器は処分していいよな?あんたの家に沢山あるだろう?」
と皿を拭きながらケビンが訊ねてきた。
何の前置きもせず脈絡のない話題を振られ、一瞬戸惑ったが、
「好きにすればいい、おまえの持ち物だろうが」
どうにか話の源に思考を遡らせることが出来た。
「んー、なら全部捨てるか。安物だし勿体なくもないからな」
ケビンはそう言い、食器棚を開けて拭いた皿をしまい始めた。
今では滅多に寝泊まりしないというこの部屋は、数ヵ月後に退去することが決まっていた。
近頃はイギリスからドイツへ来る度、ケビンはここから少しずつ私物を俺の邸に運び込んでいる。
不要な家具類は貸し主が引き取るらしい。
そんな『もうじき退去する部屋』だから、今日のように必要な食材等を必要な分だけ買い、余計なものは増やさない、置かない、というのは当然だ。
いま食後に再び出されたコーヒーに関しても、先刻買ってきたフィルターと挽いた豆の残りはドイツへ持ち帰ってくれと言われた。
俺がこの部屋を訪れることは、きっともう二度とない。
「で、明日は何時に行くんだ?帰りは?」
観たかったらしいテレビ番組が終わった後、ケビンが徐(おもむろ)に俺に話しかけてきた。
俺はテレビは観ておらず、空港で買ったイギリスの雑誌をめくっていたが、タイミングよく最後のページを見終わった時だった。
「明日は昼飯を食って、その後すこしややこしい議論をすると思うが…夕方には解放してもらうつもりでいる」
「あのダディをそう簡単にあしらえるとは思えないけどな。しつこいのは知っているだろう?」
「心配ない。あいつを黙らせる位の理論は幾つかまとめてきた。伊達に付き合いが長いわけではないからな」
「さすがだな、その自信。まぁ夕飯はオレと絶対にここで食ってくれよな。明後日はドイツに帰っちまうんだろう?」
俺の本来の予定は1泊だけ世話になり、明日の用事が済み次第すぐ帰国するつもりだったが、
『せめて2泊3日!』
と連日ケビンに拝み倒され渋々承諾した。
用もない場所に無駄に長居するのは元より性に合わない。
今回は恋人の為だと自分に言い聞かせ、これでもかなり妥協したのだ。
「もう今日で10日連続でおまえと居た計算になる。明後日なら約半月じゃないか。そろそろ一人でゆっくりしてもいいだろう?」
ケビンに幾ら嫌な顔をされたとて、恋人と過ごしたいからという理由の『用』は俺の概念にはとうに無い。
一人でいられる時間は激減する一方で、あと数ヶ月すれば尚更それは……
「連絡は取れるようにしておいてくれよな。オレは来週ここから日本に行って…二、三日したらそっちに行く」
そう、ケビンは来週、日本で試合があると予てより言っていた。
それは俺にとって良い助け船である。
「試合前にしては最近トレーニングが甘いんじゃないか?そろそろ真面目にやっておけ」
「強い奴はいないようだから必要なさそうだが…もっとするべきか?」
「当たり前だ」
「なら、今から少し走りに行ってくるかな。2時間位で戻るが、あんたは先に寝ていてもいいぜ」
ケビンが試合モードになってくれて助かった。
昨夜は殆ど寝かせてもらえず、実際俺にはまだ疲れが残っている。
こいつの旺盛な性欲にあと何年付き合えるだろうか?と正直悩む近頃、俺も別の意味でトレーニングしなければと思う時があるのだが…
「そういえば、あんた向こうの部屋は見たっけか?」
トレーニングウェアのジャージに着替えつつ、ケビンが思い出したかのように言った。
これには少しドキリとしたが、
「いや、おまえとずっと居ただろう?買物で留守の間も俺はここにいた」
さも興味なさげに返したが、覗きですら未遂で本当に何も知らないのだから嘘はついていない。
「そうか、そこのドアは寝室のだ。入ると横に1つ狭い部屋があるんだが、今はもう空かずの間で何も置いていない。で、当然だがベッドは1つだからな」
「シングルか?」
「いや、超人サイズの特注セミダブルだが…」
「ベッドはおまえが使え。俺はここでソファを並べるから」
「客をソファで寝かせられるか!誘ったのは俺だぞ?それとも……狭いのは嫌か?」
言葉尻の含みにはすぐ気付いた。
「まさか一緒に寝るのか?」
「そのマサカ。抱き合えば大丈夫だ」
「と言われてもなぁ…」
「ダメか?」
「寝るだけなら…まぁいいか。もしオレが寝ていたら起こせ。その前にシャワー借りるぞ」
「どうぞ。タオルはバスルーム、着替えは寝室のクローゼットから適当に見繕ってくれ」
ケビンは俺が頷くのを見て、
じゃあ行ってくる、と颯爽と夜のロードワークへと出ていった。
随分あっさりしていると思っていたが、やはり共に寝るのか…と何故か安心した自分に気付き、少し驚いた。
抱き合って眠るかどうかは別として、二人でいて喧嘩でもしない限り、ベッドはいつも共にしている。
安心も何も…今ではもう当たり前のことだというのに。
俺はやはり、今日のケビンが少し物足りなかったのかも知れない。
認めたくはなかったがそうと気付いてしまった。
そういえばここに来て約7時間前後経つのに、一度も触れ合っていない…などとくだらないことまで脳裏を掠めたが、俺はそれらを無理矢理振り切り、シャワーを浴びねばということだけに思考を切り替えた。
しかし。
その方向にも問題が無いわけではない。
着替えを借りる……その為には寝室のクローゼットを漁らなければならない。
『好奇心』を忘れてはいない俺が、再び主の留守という好機に恵まれた。
そして先刻と違い、今これからは隣室つまり寝室に入る、立派な理由と許可を得た身だ。
俺はついにそのドアを開けた。
明かりをつけ、内部をぐるりと見渡せば中央にベッドがあり、壁際にクローゼットと棚が1つ、使っていないという部屋のドアが右に、正面には出窓がついていた。
確かにベッドは些か狭いが、部屋の面積を考えればこれが限界だと判る。
クローゼットから薄手のガウンを選び、室内履きのスリッパもついでに借りた。
クローゼットを閉めると、ふとその横の棚が目に入った。
上にフォトフレームが3つ立ててあった。
『好奇心』を後回しにすることは最早出来そうになく、まずはそれらを見てみた。
一番大きなものには母親と小さなケビンが写っている。
可愛い盛りであろうこんな幼い頃から仮面か、とケビンを少し気の毒に思ったが、ロビンの息子に産まれたからには仕方ない。
次のフレームの中は……少し驚いた。残りの1つには驚きはしなかったが、無意識のうちに目を背けていた。
ここからは勢いというより惰性に近い行動だった。
棚の中は数冊の本が並んでいるだけで、どれも格闘技関連のものらしいと背表紙から読み取れ、いちいち閲覧する気にはならなかった。
ガウンをベッドに置き一呼吸してから、長年の謎を解く為のメインとなるベッドの下を……
『お宝』
『秘密』
『隠す』
テリー達の楽しみであり、ニンジャには『知らなくて良い』と言われた何かがあるはずなのだ。
どうしてここまできてやめることが出来ようか?
床に膝を付けてベッドカバーをめくり、暗いその奥を覗いた。
そこには平たい箱が1つ。押し込めているというより、収納されているように見えた。
ケビンは俺と違い、適当に物を扱わない性質だから、片付けの一環と言われたらそれで終わりだが…ベッド下のモノであることに代わりない。
箱は鍵つきのようだが、蓋が壊れているらしく鍵はかけられていない。
古めかしいが造りの良さそうな箱だ。
他には…小さな埃の塊が幾つか見えるだけ、物品は何もない。
では、テリー逹の『お宝』はこの箱の中にあるのだろうか?
開けてみたい。
ケビンの『宝』
『隠していたいもの』
『親にも友にも見せたくないもの』
見てみたい。
俺に対して秘密などないとケビンは言った。
だが、信じていたのはクローゼットを閉めた時までで、今は違う。
ケビンの秘密を知りたい。
いや、知りたくない。
知らない方がいい。
俺はまた葛藤したが、棚上のフォトを思い出し覚悟を決めた。
秘密があるならば、こっそりでも知っておきたい。
ケビンと共に生きていくと決めた以上、俺は……
指先が震えた。
蓋の壊れた箱1つ開ける作業が、何故これほど重苦しいのだろう?
胸の鼓動が早くなった。
緊張とは違う何かが俺を支配している。
愉しいとは全く思えず嫌な予感がしてならない。
不意に『パンドラの箱』の話を思い出した。
ドイツ映画や戯曲のルルではなく、古代ギリシアの方だ。
ゼウスがパンドラに持たせた、あらゆる災いの詰まった箱…地上に降りたパンドラが『好奇心』から開けてしまい、すべての災いが地上に飛び出したという。
俺は今『パンドラ』であり、この箱には笑えないものが…災いは大袈裟でも、それに近い何かが入っている…
そう直感した。
だが、ここまできて開けずにはいられない。
パンドラの話にはまだ続きがある。
開けてしまった災いの箱は、パンドラが急いで蓋をしたので希望というものだけが残ったという。
もし嫌な物を見てしまったなら直ぐに蓋をして、また暗いベッド下に戻せばいい。
そして見なかったことにすれば良い。
禍々しい勘がいくら騒いだとて、必ずしもそうであるとは限らないではないか。
案外、ただのガラクタの詰め合わせであったり、幼少時の思い出ある玩具類を捨てるに捨てられず、持っているのかも知れない。
早くしないとまたケビンが戻ってきてしまう。
俺は目を閉じ息を吸い込み、一気に蓋を取った。
中身は、壊れた装飾品を繋ぎあわせたものと、鍵つきのノートだった。
俺は反射的に直ぐ蓋を閉め、元通りの位置へ収納した。
そしてベッドカバーを垂らし、ガウンを掴み、バスルームへ向かう。
全て無意識のまま身体が勝手に動いていた。
熱めの湯を暫く頭から浴びた後、全身を泡で包んで洗い流し、充満しきった湯気の中から脱出し……借りたケビンの夜着に着替え、ふうと息をひとつついた。
冷蔵庫で程よく冷えていたペリエを片手にソファに落ち着くと、少しずつ思考が戻り、それはゆっくりと正常化した。
あれが何なのか俺はすぐに判った。誰に聞かずともとっくに知っている。
俺だけではなく、新旧超人連中も不特定多数の人間ですらも。
経緯を知る者なら、ケビンの大切なものだというのも判る。
宝物だと言われたら同意してやれなくはない。
だが何故ベッドの下なのだろうか?
『隠す』理由がわからない。
貴重な物で盗まれたくないならば箱は鍵を付けるだろう。金庫を使うのもいい。
なのに古い壊れた箱に詰め、目につかない場所に押し込んでおくとは…一体どう解釈すれば良いだろうか。
ノートは秘密のメモであるという曰く付きの物だが、鍵がかけられているのだから本棚の奥でも良いだろうし…原型はとても復元しきれずともあの装飾品ならば、フォトスタンドの横やリビングのどこかに飾っていても不思議はない。むしろその方がケビンらしく、自然だと思える。
何故隠す?ケビン…
何か疚しいのか?見られたくないのか?
あれは誇れこそすれ恥ずかしいものではないだろう?
テリー。
おまえ達は友の何を挙って見つけ、笑い、愉しんだのだ?
俺はこれを見て全く笑えない。愉快でもなく、驚きもしなかった。
ならばこいつをネタにして、ケビンを茶化したら面白みが判るだろうか?
いや、もしそんなことをしたなら……ケビンがどんな反応をしたとしても、俺にとってはただの自虐行為となる気がする。
ケビンの反応、か。
反芻した俺の思考はそこで一旦止まり、この長い自問自答によって、とある感情に煽られていることに気付いた。
消灯した寝室の壁1枚向こう側で、人の気配と小さな物音。
やがて水の音、少しの静寂のあとに何かを開閉する音が幾つか聞こえ、それはじきに寝室のドアに近付いた。
「ただいま、少し遅くなった」
「ブロ…?」
「なぁ、寝ちまったのか?」
頭まで毛布を被り寝たふりを決め込んだ俺に囁きかけるのは、帰宅したこの部屋の主。
数時間しか経っていないが、俺には丸一日経過したように思える長い時間だった。
「ブロ…なぁ?……、起きないか…やはり相当疲れていたんだな、ごめん…おやすみ、また明日な」
寂しげな呟きを残し気配は遠ざかり、やがて静かにドアが閉められた。
彼はリビングのソファで寝るのだろう。
俺は酷い奴だ。
自分で起こせと言ったくせに、返事はおろか身動きもしなかった。
ベッドの持ち主を無言で追い出し、唯一の寝床を占領したまま、彼を呼び戻す気などはさらさら無い。
やっと今日初めて触れ合う時間が持てると、俺は本当は…あの時は心から、ケビンの帰りを待っていた。
そして、きちんとトレーニングに出たことを改めて褒め、多少でも疲れているだろう身を労ってやりたいと考えていた。
性行為はさすがに勘弁してもらうとしても、軽いキスひとつ位はしてやりたい……いや、したいと思っていたのだ。
それほどにケビンを愛しているはずなのに、今はそんな気は全て消え失せ…今夜ここで抱き合って眠るのも苦痛だと感じ、結果こうして俺は卑怯な真似をして彼を拒んだ。
すまない、ケビン。
いくら心の中で詫びても気分は変わらず…
そして、一睡も出来ずまま夜が明けた。
ドアを開けると昨日の、あのブレンドの香りがリビングに漂っていた
「おはよう、ブロ。昨夜はよく眠れたか?」
俺が出てくるのを待っていたとばかりに、ケビンが笑顔を向けてきた。
何故か仮面ではなく素顔のままだった。
「ああ…。すまないな、おまえをこっちで寝かせてしまったようで…」
そう仕向けた自分がよく言えたものだ。
ケビンは、別に構わないさと笑顔を崩さずにテーブルに朝食を並べ始めた。
昼を待たず、すぐ出かけるつもりでこのドアを開けた俺だったが、ケビンの目の下にうっすらと隈らしきものが出来ているのを見、もしや彼も眠れなかったのだろうか?と気になった。
朝飯を食う気分ではなく腹も減ってはいない、などと言うのはさすがに気が引け、洗面だけ済ませてテーブルにつく。
間近正面からよく見れば、やはり隈だ。
青い瞳と白い肌の間でそれはやけに目立ち、それでも笑顔であれこれ話すケビンを見ていると……
「どうしたんだ?」
不意に目が合い俺は思わず息をのんだ。
「あ…、いや、今朝は仮面ではないのだなと」
咄嗟に今更な言葉を吐いた俺は、我ながらつくづく痛い奴だと思う。
「朝からオレが仮面だったら、今日のあんたは1日中似た顔を見ることになるだろう?あんな奴と混同されたら堪らないからな」
ああ、確かにそうだ。仮面も背格好も、時には動作までこいつはロビンに…実の父親だから当然なのだがよく似ている。
ケビンは母親似の目鼻立ちだから、素顔と素顔ならともかく、仮面と仮面ではいちいち交錯するのは間違いない。
「だからと朝から油断するな、うっかりでもそのまま外に出るなよ」
「別にコスチューム姿でなけりゃ、誰も気付かないと思うけどな。あ…そうだ、飯食ったらオレはジムに行く。仮面は忘れないし、あんたが戻る前には夕飯作って待っているからな」
「そうか、しっかりトレーニングしろよ」
ごちそうさま…と俺は席を立ち、ケビンには止められたが自分の分だけでもと空いた食器を片付けた。
そのままシャワーを浴びに行き、出てきた時には早くもケビンは出掛けていた。
『ダディには死ね馬鹿野郎と伝えてくれ』というメモを残して。
とりあえずケビンが先に行ったことで、俺は少し気楽になった。
あの笑顔と長く平然と向き合う自信はなかったし、もし何かをきっかけに口論となれば、お互いに長い1日が辛いだけだ。
何より、俺の異変に幸いケビンが気付いていなさそうで助かった。
朝を無事に(とりあえず、若しくは多分)やり過ごすことが出来たのは、やはり俺がこの歳になっていたからなんだろう。
昔の俺なら朝まであのままそこに居ない。
軍服の袖に腕を通しながら眺めた窓の向こうは、目眩がしそうなほどに晴れ渡っていた。
※後編へ続く