スターチス
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
「………ん」
重たい瞼を開けて身体を起こせば、身体はだるいしひどい頭痛がした。酷く頭がぼーっとしていて、今現在が朝なのか夜なのかすらも分からない。
霞む目を擦り、周囲を見渡す。カーテンから日光が零れているということは、朝…もしくは昼、ということだろう。だけど、そのカーテンは見覚えのある赤いものではなく、シンプルで遮光性十分な黒いものだ。
と、いうか。
「………?」
グルリと自分のいる周囲を見渡した。ベッドとチェストなどの最低限の家具に、生活感のない清潔なその空間は誰がどう見ても素敵な寝室だと言うだろう。
ただし、ここは私の家ではない。家賃重視の私のワンルームの部屋にこんな立派な寝室はない。じゃあ彼氏の家かと言えば、そうでもない。彼の部屋は軽くゴミや衣類が散乱していてもっと汚い。地元の友人の部屋でもなければ、大学の先輩の部屋でもない。というかそもそもこんな部屋には全く見覚えはない。
ここは、いったいどこだ?何故私はこんな場所にいる?昨日は一体何をしていた…?昨日…そう、昨日は、会社の先輩たちと飲みにいった。来ないと思っていたリヴァイも来たので動揺して思い切り酒を飲みまくったらどんどんと飲まされて、それで…それから…ど、どうなったんだっけ?同期の男や先輩たちと喋っていたのは覚えている…。記憶の隅でリヴァイと少しだけ喋ったような気もする。
だけどそのあと、どうしてもあの居酒屋を出た記憶も、どうやって家に帰ったのかという記憶も、どうしてこんな場所にいるのかという記憶もない。記憶はないけれど、こういう流れはよくドラマや漫画なんかである…所謂“ヤッてしまった”というやつ、だろうか。お酒はよく飲みに行くし、記憶がプッツンしたことも正直あるけれど、こんな事態は初めてのことだ。
いやでも、相手は一体誰?昨日同期の男が結構ベタベタと絡んできたのは覚えている。綺麗な部屋だがホテルではなさそうだし、彼の部屋、だろうか?…せめてそう思いたいオリヴィアの頭に浮かんでいたのは、しかし別の男だった。この、異様なまでに生活感の無い清潔すぎる部屋。同期の男はデスク周りも結構汚いし、こんな綺麗な部屋に住んでいるイメージはない。
そしてこんなきれいすぎる部屋に住んでいそうな人物に、オリヴィアは一人だけ心当たりがあった。二日酔いだけではない頭痛がオリヴィアを襲ってきたころ、ガチャリとドアが開く音がした。
「…起きたか」
そう言いながら寝室に入ってきたのは、まさしく今しがた心の中に浮かんでいた人物だった。
「へい…ちょう」
酷く掠れた声を絞りだせば、リヴァイはその眉間にしわを寄せた。スタスタとベッドの脇まで来ると、ひでえ声だな、と言いながらミネラルウォーターのペットボトルを差し出してきた。オリヴィアは差し出されたそれを思い切り無視して頭を抱えると、小さくうなり声を上げながら髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「うあー…さいっあく、ありえない…」
全く記憶がないけれど、おそらく私は彼と一夜を過ごしてしまったのだろう。つまりそれは身体を重ねたということだ。…本当に、全く記憶がないけれど。最悪だ、大失態だ。今までだって飲みすぎて記憶がなくなる、なんてことは何度かあったけど、ここまでやらかしてしまったことは初めてだ。なぜ、よりによって、今、彼となんだ。
あの日あんなことをしてきたような男だ、きっとこちらがべろんべろんに酔っていたところで躊躇するどころかこれ幸いにと襲ってきたに違いない。なんてひどい男だろう。
うーうーとうなっていれば、オリヴィアのいるベッドにリヴァイが腰掛けてスプリングがギシっと鳴った。それに過敏に反応したオリヴィアはシーツを思い切り引っ張って身体を隠し、あからさまに彼から距離をとった。目を合わせないようにそっぽを向いていれば、はぁ、というため息が聞こえてきた。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
「…一応、俺の名誉の為に言っておくが、手は出してねぇからな」
「………ええっ!?」
リヴァイの言葉に数秒遅れて反応を示したオリヴィアは、目をまん丸に見開いて俯いていた頭をぱっと持ちあげた。ばっちりと目のあったリヴァイは呆れたような表情でこちらを見ていた。
「…なんだその反応は。俺が酔って潰れてる女に手を出すような下衆だとでも思ってんのか」
「いや、その、まぁ…はい」
「本当に生意気な口を聞くようになりやがった。………人の気も知らねぇで…」
リヴァイに問われた言葉があまりに自分が思っていた通りのことだったので、思わず頷けば、今度はリヴァイが頭を抱えて悪態をついた。
実に不機嫌な様を見れば、もしかして本当に本当に何もなかったのだろうか。その後、彼がぽつりと小さな声で言った言葉はよく聞こえなかった。
「ほ、本当に、何もなかったんですか?」
「…なんだ、何かあったほうがよかったか」
「いや、それはないですけど」
今一度彼の言葉を確認して尋ねれば、彼はどこか楽しそうな表情でからかうような言葉を言ってきたので、オリヴィアはそれをきっぱりと否定した。
「チッ………とりあえずベッドから出ろ。そこにいられると抱きたくなる」
「………」
「………」
オリヴィアの言葉に大きく舌を打った後放たれたリヴァイの言葉を耳にしたオリヴィアは無言のまま驚くべき速さでベッドから出て立ち上がった。その際、確かに昨日のままの衣服に乱れがないこと、二日酔いの頭痛以外に特に身体に違和感を感じなかったことに、小さく安堵の息を吐いた。
自分から出ろと言ったくせに、オリヴィアの動きを見て酷く面白くなさそうな表情を浮かべたリヴァイに誘導されてまるでモデルルームのような寝室を出ると、これまたモデルルームのような綺麗なリビングに通された。新しい人生になって、変わる部分も変わらない部分もそれぞれにある。ただし、彼の潔癖症な性分は生まれ変わっても変わらなかったらしい。埃の一つもなさそうなそのリビングを見てオリヴィアはそう思った。
「…リヴァイ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。あまり長居しても迷惑かと思いますので、これで失礼しま…」
「は?ふざけんな、座れ」
「………」
ぺこりと頭を下げながら告げた言葉に、リヴァイは怒ったような低い声を出して顎をしゃくった。不機嫌そうなその声を聞いてオリヴィアは仕方なく、彼の指したソファに腰を下ろした。
気まずいしさっさと帰りたいと思ったのだが、彼の言葉に素直に従った。入社式の日のことは絶対的に彼の方が悪かったと思うけど、それと今とは別問題。今、というか昨日明らかに彼に迷惑をかけたのはオリヴィアの方だ。そう思うと彼の言葉に反抗するのは、さすがに少し気が引けた。
大きなテレビが目の前にある、家の安っぽいものとは質の違うソファに座り落ち着かない様子で手を弄って待つこと数分、目の前のローテーブルにコトリ、と香ばしい香りを放つコーヒーが置かれた。それを持ってきた本人であるリヴァイは、オリヴィアと少しだけ離れた位置でソファに腰を下ろし、きちんとカップの持ち手を手にしてブラックのそれを飲んでいた。
「あ、りがとう、ございます」
差し出されたそれにお礼を言い、胸に広がるもやもやとした違和感を消し去るようにオリヴィアはコーヒーと一緒に目の前に置かれたスティックシュガーとフレッシュをその中に投下してくるくると混ぜた。その動作をリヴァイはじっと見続けていた。オリヴィアはその視線を感じながらも目線を合わせることができず、何の話題も思い浮かばずにただただコーヒーを飲むしかできない。そんな沈黙を破ったのは以外にもリヴァイの方だった。
「ずっとこの辺りに住んでんのか」
「え…あ、そう、ですね。今は会社から30分くらいのところに住んでますし、実家は隣の市です」
「あ?なんだ、一人暮らしでもしてんのか?」
「はい、就職を機になので本当に最近ですけど」
「おい、ちゃんとしたセキュリティあることだろうな。今は昔よりは治安はいいが、それにしたって変な奴はゴロゴロいるんだぞ」
「いやいや、大丈夫ですって。筋肉は落ちてますけど戦い方は覚えてますから、大抵の人は余裕で撃退できますよ。現代人は戦い方なんて知らないひょろひょろですし」
「…いや、そんな身体じゃいくら戦い方を覚えていようが抑えつけられたら終わりだ。しっかり警戒しておけ。何かあれば俺に言えよ」
「…んー、まあ、ありがとうございますと言っておきます」
なんというか…居た堪れない時間だ。彼と何を話せばいいのか分からないし、緊張が抜けないでいたそんな時、リヴァイがコーヒーカップに手を伸ばしてそれを掴んだ。その仕種につい、声が漏れた。
「あ」
「…あ?」
彼はカップの持ち手ではなくてカップ自体を上から掴むような独特な持ち方をしていた。それは、間違いなく遠い昔、自由の翼を背負っていた頃の彼と同じ仕種だった。
「そのカップの持ち方、今もしてるんですか」
「あー…直したんだが、家だとたまにこうなっちまう」
「え、直したんですか?」
「いや、昔は気にしてなかったんだがさすがに社会人になったらな。取引先でこんな茶の飲み方したら大目玉だろ」
彼の言ったその言葉に、オリヴィアは目を大きく見開いた。だって、彼の今の言葉は自分の知っている彼とはあまりにかけ離れたようなものだったから。
彼が…エルヴィン団長はもちろんのこと、他兵団のピクシス指令、更にはあのザックレー総統にまでため口で、粗暴な態度を示していて、マナーのマの字も知らないような、あの彼が、人の目を気にして仕種を改めるだなんて!
いや、というかよく考えれば、取引先ではきっと敬語を使っているんだろう。彼が敬語を使っているところなんて全く想像がつかない、けれどうちの会社で課長という地位に就いているのだから当然敬語を使わない訳がない。昔とは、時代が違うのだから。
そんなことを考え出せばなんだかとてもおかしくなってきて、ついつい噴き出してしまった。そんな突然笑い出したオリヴィアにリヴァイは当然、なんだ、と不機嫌そうな声をあげた。
「だ、だって、リヴァイ兵長が…あのリヴァイ兵長がっ!ふ、あははっ」
最終的にはお腹を抱えて笑うオリヴィアにリヴァイは更に不機嫌そうにするが、それでもそれを止めることはできなかった。
一通り笑い終えた時には、オリヴィアにあった緊張感ももやもやとした違和感もすっかりどこかへ飛んで行ってしまった。その後は驚くほどに自然と会話がポンポンと続いていった。
今までの人生こと、今と時代の衝撃的な科学の発展、逆に昔の方が良かった点、未だにやってしまう昔の習慣。次から次へと話は出てきた。
「リヴァイ課長は、よく喋るようになったんですね。昔はあんなに無口だったのに」
「は?何言ってやがる、俺はあの時代だって結構喋ってた。特に変わりない」
「嘘ばっかり…」
「それよりお前だ、オリヴィア。お前こそ昔は全然喋らなかったろうが」
「んー、まあ、それは確かにそうかもしれないですけど…。でも昔だって他の人とはそこそこ喋ってましたよ」
「なんだよ、俺の前でだけ喋れなかったってのか?」
「そりゃあ、尊敬する上司で大好きな人でしたから緊張しますよ」
「まるで今は違うみてえな言い方じゃねぇか」
「ふふっ」
「おい、否定しろ」
「いやあ、私リヴァイ課長と違って嘘つくのって苦手なんです」
「てめぇ…」
ギロリと昔のような鋭い眼光で睨んできたリヴァイに、怒らないでくださいよう、と笑って誤魔化せば、リヴァイはつられたように呆れたような笑い顔に変化させた。
きっと恋人だった昔だってこんなにスムーズな会話はしたことがないだろう。今彼に言った通り、私は彼の前ではずっと緊張しっぱなしだったし、彼も今よりずっと無口だったからだと思う。
彼への恋心が消えたからと言ってその彼に対する尊敬が消えてしまったわけではない。今でも彼のことを尊敬する気持ちは消すことができない。それでも、これだけフレンドリーな接し方ができるようになったのは、今の私の性格なのか、この間の彼の失態のおかげなのか分からない。だけど、不思議と穏やかな気持ちだった。
昔の私が今のこの光景を見れば歓喜するのかそれとも羞恥するのかどっちだろう、と思ったところで、ふと今も昔も変わらずに友人な彼らのことを思い出した。
「あ、そうだ!!今度ミカサ達と会いませんか?ミカサとエレンとアルミンもまた生まれ変わって?っていうのかな…まぁとにかく3人ともいて、みんな記憶もあります!なんかエレンだけは少し曖昧なかんじみたいだけど、リヴァイ兵長のことは話してたことあります!きっとみんなすっごく喜びますよ!!」
「そうか、あいつら…エレンも……。
ああ、そうだな今度飯でも行こう」
彼らの名前を口に出せば、リヴァイは驚いたように目を大きく開いた後にふっと穏やかな表情を見せた。
エレンは言わずもがな、ミカサとアルミンもリヴァイ班だったということもあるくらいなので、自分よりもよっぽど過去のリヴァイと接する時間は長かったと思う。きっとリヴァイにとっても特別な部下だろうし、彼らもリヴァイのことを尊敬していたのを知っている。ミカサは裁判の時のエレンのこともあり最初は毛嫌いしていたけれど、次第にそれも薄れていっていた、と、思う…多分。
彼はあまり表情に変化が見られない。だけどそれは“他の人と比べたら”という話だ。“昔の彼と比べたら”今の彼はとても表情豊かになった。今だって、彼らの名前を呼んでこんなに穏やかな表情が見られるだなんて思いもしなかった。
彼の表情を見てつられて穏やかな気持ちになりながら、オリヴィアは3人に予定を聞いておきます、と言った。
それからしばらく話をし、コーヒーを飲み干しさらにおかわりで淹れてもらった紅茶を飲みほした頃にようやくオリヴィアは彼のマンションを出た。
「ついたぞ」
ほんの数分歩いたところで、彼がそう言った。最初駅まで送ると言ってくれた彼にいいですと断ろうと思ったのだが、よく考えれば一体ここがどこなのか分からなかったので、その言葉に甘えておくことにしたのだった。実際に駅まで来てみれば彼の立派なマンションは最寄駅と目の鼻の先だったのでそんなことはことは本当に必要がなかったのだけれど。
しかし、オリヴィアは驚きのあまりそれに返事を返すことができなかった。着いた駅の名は自宅の最寄り駅の隣の駅名だったから。こんなご近所さんだったなんて全く予想していなかったことだ。この偶然は、とりあえず目の前の彼には言わないでおこう。言えば…少し面倒なことになるような気がするから。そんなことを決心していれば、手の中に何かを半ば無理矢理握らされた。握らされたそれは、紙幣だった。
「…え、なんですか、これ」
「切符代だ」
「は?…いやいやいや、いいですよ、こんなの!」
切符代だと言って渡されたのは、それにしては高すぎる紙幣で驚いてそれを返そうとするも、リヴァイはすでに財布をしまいポケットにその両手を突っ込んで決して受け取ってくれなかった。それでもまだそれを受け取ろうとしないオリヴィアにリヴァイが呆れたような声を出した。
「うるせぇなぁ。男が出した金をつっ返すんじゃねぇよ」
「いや…だって私迷惑しかかけてないですし、それにたった一駅なのにこんなの貰えません」
「一駅?」
「…あ」
どうしても申し訳ない気持ちが消えなくて困惑しているあまりに、ついさっき言わないようにしようと決意した言葉をポロリと発してしまった。慌てて口を覆っても、出てきた言葉は帰ってこない。恐る恐る彼の顔を見てみればニヤリと嬉しそうに口の端を上げていた。
「そうか…なんなら歩いて家まで送ってやろうか?」
「い、いりません!」
なんで言っちゃうかなぁ、今言わないようにしようって思ったばっかりだっていうのに。なんて自分のことを責めていれば、それから、と彼は続けた。
「別に迷惑なんざ、思ってねぇよ」
「え?」
「お前のことで迷惑だなんて思うわけねぇだろ」
そんなことを言いながらぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、なんだか気恥ずかしくなり視線を下にやった。
「気をつけて帰れよ」
「…は、い。ありがとうございました」
「オリヴィア」
さようならと視線を合わせずに頭を下げれば、真面目な声で名前を呼ばれてリヴァイの顔を見ないことはできなかった。上げた視線の中にいた彼は声だけでなくその表情もひどく真面目なもので、そして頭を撫でていた手をスルリと頬まで下ろしてきた。優しくオリヴィアの頬を撫でながら真っ直ぐに見詰めてくる彼の瞳から視線を外すことができなかった。
「来週の金曜も予定空けとけ」
「、え?」
「必ずだ、いいな」
「や、ちょっと」
そう言うだけ言ってオリヴィアの返事も聞かないうちに、リヴァイは踵を返して歩き出してしまった。オリヴィアは彼の背中が視界から見えなくなるまで、その場から動くことができなかった。
なんとか電車に乗ってからも、頭の中を占めるのはリヴァイのことだった。
あの日あんな蛮行をしてしまうようなろくでなしに落ちてしまった彼は、以外にもあの状況で手を出さなかったと言う。最初その言葉を疑った私だったが、今ではそれはきっとそうなんだと思う。自分の服装には昨日のまま特に乱れはなかったし、二日酔いで多少頭痛と身体がだるかったりするがそれ以外に特に身体の方に違和感はない。それに酒の臭いと、飲み屋でついた煙草と油ものの臭いも未だに取れていない。生まれ変わっても潔癖症を拗らせている様子の彼がこんな女を抱けるとはとても思えない。
まあ、なんだかんだ言っているがあの日のことは、忘れることは出来ないけれど納得している。彼に再会した瞬間、私だってとても感動して泣きそうになった。彼の場合はそれがあの行動になってしまったのだと…納得はできないけど、普段の彼がそういうことをするような人間ではないのだろう。
ただ、それでも。ふとした瞬間に私のことをまるで大切な恋人のように接する彼の言動に気が引けた。結婚は…家を見る限りしていないのだろうけど、恋人はいないのだろうか。いや、いたとしてもいなかったとしても今は恋人じゃない私に、あんな風な態度は取ってほしくはない。それは、私が嫌だからということもあるけれど…でもそれ以上に、彼に幸せになってほしいという思いがあるから。今よりもずっとずっと残酷で厳しい世界の中でも、彼は特につらい経験をしていたはず。優しい恋人に癒されて満たされていて欲しいものだ…。そう、恋人に。恋人………
「…あ」
現在の恋人の存在を完全に忘れていた。
鞄の中をあさり携帯を取り出せば、それは着信を知らせるランプが灯っていた。中身を確認すれば、着信が5件にメッセージが9件。どれも同一人物からのもので、オリヴィアは深いため息を吐き出した。
重たい瞼を開けて身体を起こせば、身体はだるいしひどい頭痛がした。酷く頭がぼーっとしていて、今現在が朝なのか夜なのかすらも分からない。
霞む目を擦り、周囲を見渡す。カーテンから日光が零れているということは、朝…もしくは昼、ということだろう。だけど、そのカーテンは見覚えのある赤いものではなく、シンプルで遮光性十分な黒いものだ。
と、いうか。
「………?」
グルリと自分のいる周囲を見渡した。ベッドとチェストなどの最低限の家具に、生活感のない清潔なその空間は誰がどう見ても素敵な寝室だと言うだろう。
ただし、ここは私の家ではない。家賃重視の私のワンルームの部屋にこんな立派な寝室はない。じゃあ彼氏の家かと言えば、そうでもない。彼の部屋は軽くゴミや衣類が散乱していてもっと汚い。地元の友人の部屋でもなければ、大学の先輩の部屋でもない。というかそもそもこんな部屋には全く見覚えはない。
ここは、いったいどこだ?何故私はこんな場所にいる?昨日は一体何をしていた…?昨日…そう、昨日は、会社の先輩たちと飲みにいった。来ないと思っていたリヴァイも来たので動揺して思い切り酒を飲みまくったらどんどんと飲まされて、それで…それから…ど、どうなったんだっけ?同期の男や先輩たちと喋っていたのは覚えている…。記憶の隅でリヴァイと少しだけ喋ったような気もする。
だけどそのあと、どうしてもあの居酒屋を出た記憶も、どうやって家に帰ったのかという記憶も、どうしてこんな場所にいるのかという記憶もない。記憶はないけれど、こういう流れはよくドラマや漫画なんかである…所謂“ヤッてしまった”というやつ、だろうか。お酒はよく飲みに行くし、記憶がプッツンしたことも正直あるけれど、こんな事態は初めてのことだ。
いやでも、相手は一体誰?昨日同期の男が結構ベタベタと絡んできたのは覚えている。綺麗な部屋だがホテルではなさそうだし、彼の部屋、だろうか?…せめてそう思いたいオリヴィアの頭に浮かんでいたのは、しかし別の男だった。この、異様なまでに生活感の無い清潔すぎる部屋。同期の男はデスク周りも結構汚いし、こんな綺麗な部屋に住んでいるイメージはない。
そしてこんなきれいすぎる部屋に住んでいそうな人物に、オリヴィアは一人だけ心当たりがあった。二日酔いだけではない頭痛がオリヴィアを襲ってきたころ、ガチャリとドアが開く音がした。
「…起きたか」
そう言いながら寝室に入ってきたのは、まさしく今しがた心の中に浮かんでいた人物だった。
「へい…ちょう」
酷く掠れた声を絞りだせば、リヴァイはその眉間にしわを寄せた。スタスタとベッドの脇まで来ると、ひでえ声だな、と言いながらミネラルウォーターのペットボトルを差し出してきた。オリヴィアは差し出されたそれを思い切り無視して頭を抱えると、小さくうなり声を上げながら髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜた。
「うあー…さいっあく、ありえない…」
全く記憶がないけれど、おそらく私は彼と一夜を過ごしてしまったのだろう。つまりそれは身体を重ねたということだ。…本当に、全く記憶がないけれど。最悪だ、大失態だ。今までだって飲みすぎて記憶がなくなる、なんてことは何度かあったけど、ここまでやらかしてしまったことは初めてだ。なぜ、よりによって、今、彼となんだ。
あの日あんなことをしてきたような男だ、きっとこちらがべろんべろんに酔っていたところで躊躇するどころかこれ幸いにと襲ってきたに違いない。なんてひどい男だろう。
うーうーとうなっていれば、オリヴィアのいるベッドにリヴァイが腰掛けてスプリングがギシっと鳴った。それに過敏に反応したオリヴィアはシーツを思い切り引っ張って身体を隠し、あからさまに彼から距離をとった。目を合わせないようにそっぽを向いていれば、はぁ、というため息が聞こえてきた。ため息をつきたいのはこっちの方だ。
「…一応、俺の名誉の為に言っておくが、手は出してねぇからな」
「………ええっ!?」
リヴァイの言葉に数秒遅れて反応を示したオリヴィアは、目をまん丸に見開いて俯いていた頭をぱっと持ちあげた。ばっちりと目のあったリヴァイは呆れたような表情でこちらを見ていた。
「…なんだその反応は。俺が酔って潰れてる女に手を出すような下衆だとでも思ってんのか」
「いや、その、まぁ…はい」
「本当に生意気な口を聞くようになりやがった。………人の気も知らねぇで…」
リヴァイに問われた言葉があまりに自分が思っていた通りのことだったので、思わず頷けば、今度はリヴァイが頭を抱えて悪態をついた。
実に不機嫌な様を見れば、もしかして本当に本当に何もなかったのだろうか。その後、彼がぽつりと小さな声で言った言葉はよく聞こえなかった。
「ほ、本当に、何もなかったんですか?」
「…なんだ、何かあったほうがよかったか」
「いや、それはないですけど」
今一度彼の言葉を確認して尋ねれば、彼はどこか楽しそうな表情でからかうような言葉を言ってきたので、オリヴィアはそれをきっぱりと否定した。
「チッ………とりあえずベッドから出ろ。そこにいられると抱きたくなる」
「………」
「………」
オリヴィアの言葉に大きく舌を打った後放たれたリヴァイの言葉を耳にしたオリヴィアは無言のまま驚くべき速さでベッドから出て立ち上がった。その際、確かに昨日のままの衣服に乱れがないこと、二日酔いの頭痛以外に特に身体に違和感を感じなかったことに、小さく安堵の息を吐いた。
自分から出ろと言ったくせに、オリヴィアの動きを見て酷く面白くなさそうな表情を浮かべたリヴァイに誘導されてまるでモデルルームのような寝室を出ると、これまたモデルルームのような綺麗なリビングに通された。新しい人生になって、変わる部分も変わらない部分もそれぞれにある。ただし、彼の潔癖症な性分は生まれ変わっても変わらなかったらしい。埃の一つもなさそうなそのリビングを見てオリヴィアはそう思った。
「…リヴァイ課長、ご迷惑をおかけして申し訳ありませんでした。あまり長居しても迷惑かと思いますので、これで失礼しま…」
「は?ふざけんな、座れ」
「………」
ぺこりと頭を下げながら告げた言葉に、リヴァイは怒ったような低い声を出して顎をしゃくった。不機嫌そうなその声を聞いてオリヴィアは仕方なく、彼の指したソファに腰を下ろした。
気まずいしさっさと帰りたいと思ったのだが、彼の言葉に素直に従った。入社式の日のことは絶対的に彼の方が悪かったと思うけど、それと今とは別問題。今、というか昨日明らかに彼に迷惑をかけたのはオリヴィアの方だ。そう思うと彼の言葉に反抗するのは、さすがに少し気が引けた。
大きなテレビが目の前にある、家の安っぽいものとは質の違うソファに座り落ち着かない様子で手を弄って待つこと数分、目の前のローテーブルにコトリ、と香ばしい香りを放つコーヒーが置かれた。それを持ってきた本人であるリヴァイは、オリヴィアと少しだけ離れた位置でソファに腰を下ろし、きちんとカップの持ち手を手にしてブラックのそれを飲んでいた。
「あ、りがとう、ございます」
差し出されたそれにお礼を言い、胸に広がるもやもやとした違和感を消し去るようにオリヴィアはコーヒーと一緒に目の前に置かれたスティックシュガーとフレッシュをその中に投下してくるくると混ぜた。その動作をリヴァイはじっと見続けていた。オリヴィアはその視線を感じながらも目線を合わせることができず、何の話題も思い浮かばずにただただコーヒーを飲むしかできない。そんな沈黙を破ったのは以外にもリヴァイの方だった。
「ずっとこの辺りに住んでんのか」
「え…あ、そう、ですね。今は会社から30分くらいのところに住んでますし、実家は隣の市です」
「あ?なんだ、一人暮らしでもしてんのか?」
「はい、就職を機になので本当に最近ですけど」
「おい、ちゃんとしたセキュリティあることだろうな。今は昔よりは治安はいいが、それにしたって変な奴はゴロゴロいるんだぞ」
「いやいや、大丈夫ですって。筋肉は落ちてますけど戦い方は覚えてますから、大抵の人は余裕で撃退できますよ。現代人は戦い方なんて知らないひょろひょろですし」
「…いや、そんな身体じゃいくら戦い方を覚えていようが抑えつけられたら終わりだ。しっかり警戒しておけ。何かあれば俺に言えよ」
「…んー、まあ、ありがとうございますと言っておきます」
なんというか…居た堪れない時間だ。彼と何を話せばいいのか分からないし、緊張が抜けないでいたそんな時、リヴァイがコーヒーカップに手を伸ばしてそれを掴んだ。その仕種につい、声が漏れた。
「あ」
「…あ?」
彼はカップの持ち手ではなくてカップ自体を上から掴むような独特な持ち方をしていた。それは、間違いなく遠い昔、自由の翼を背負っていた頃の彼と同じ仕種だった。
「そのカップの持ち方、今もしてるんですか」
「あー…直したんだが、家だとたまにこうなっちまう」
「え、直したんですか?」
「いや、昔は気にしてなかったんだがさすがに社会人になったらな。取引先でこんな茶の飲み方したら大目玉だろ」
彼の言ったその言葉に、オリヴィアは目を大きく見開いた。だって、彼の今の言葉は自分の知っている彼とはあまりにかけ離れたようなものだったから。
彼が…エルヴィン団長はもちろんのこと、他兵団のピクシス指令、更にはあのザックレー総統にまでため口で、粗暴な態度を示していて、マナーのマの字も知らないような、あの彼が、人の目を気にして仕種を改めるだなんて!
いや、というかよく考えれば、取引先ではきっと敬語を使っているんだろう。彼が敬語を使っているところなんて全く想像がつかない、けれどうちの会社で課長という地位に就いているのだから当然敬語を使わない訳がない。昔とは、時代が違うのだから。
そんなことを考え出せばなんだかとてもおかしくなってきて、ついつい噴き出してしまった。そんな突然笑い出したオリヴィアにリヴァイは当然、なんだ、と不機嫌そうな声をあげた。
「だ、だって、リヴァイ兵長が…あのリヴァイ兵長がっ!ふ、あははっ」
最終的にはお腹を抱えて笑うオリヴィアにリヴァイは更に不機嫌そうにするが、それでもそれを止めることはできなかった。
一通り笑い終えた時には、オリヴィアにあった緊張感ももやもやとした違和感もすっかりどこかへ飛んで行ってしまった。その後は驚くほどに自然と会話がポンポンと続いていった。
今までの人生こと、今と時代の衝撃的な科学の発展、逆に昔の方が良かった点、未だにやってしまう昔の習慣。次から次へと話は出てきた。
「リヴァイ課長は、よく喋るようになったんですね。昔はあんなに無口だったのに」
「は?何言ってやがる、俺はあの時代だって結構喋ってた。特に変わりない」
「嘘ばっかり…」
「それよりお前だ、オリヴィア。お前こそ昔は全然喋らなかったろうが」
「んー、まあ、それは確かにそうかもしれないですけど…。でも昔だって他の人とはそこそこ喋ってましたよ」
「なんだよ、俺の前でだけ喋れなかったってのか?」
「そりゃあ、尊敬する上司で大好きな人でしたから緊張しますよ」
「まるで今は違うみてえな言い方じゃねぇか」
「ふふっ」
「おい、否定しろ」
「いやあ、私リヴァイ課長と違って嘘つくのって苦手なんです」
「てめぇ…」
ギロリと昔のような鋭い眼光で睨んできたリヴァイに、怒らないでくださいよう、と笑って誤魔化せば、リヴァイはつられたように呆れたような笑い顔に変化させた。
きっと恋人だった昔だってこんなにスムーズな会話はしたことがないだろう。今彼に言った通り、私は彼の前ではずっと緊張しっぱなしだったし、彼も今よりずっと無口だったからだと思う。
彼への恋心が消えたからと言ってその彼に対する尊敬が消えてしまったわけではない。今でも彼のことを尊敬する気持ちは消すことができない。それでも、これだけフレンドリーな接し方ができるようになったのは、今の私の性格なのか、この間の彼の失態のおかげなのか分からない。だけど、不思議と穏やかな気持ちだった。
昔の私が今のこの光景を見れば歓喜するのかそれとも羞恥するのかどっちだろう、と思ったところで、ふと今も昔も変わらずに友人な彼らのことを思い出した。
「あ、そうだ!!今度ミカサ達と会いませんか?ミカサとエレンとアルミンもまた生まれ変わって?っていうのかな…まぁとにかく3人ともいて、みんな記憶もあります!なんかエレンだけは少し曖昧なかんじみたいだけど、リヴァイ兵長のことは話してたことあります!きっとみんなすっごく喜びますよ!!」
「そうか、あいつら…エレンも……。
ああ、そうだな今度飯でも行こう」
彼らの名前を口に出せば、リヴァイは驚いたように目を大きく開いた後にふっと穏やかな表情を見せた。
エレンは言わずもがな、ミカサとアルミンもリヴァイ班だったということもあるくらいなので、自分よりもよっぽど過去のリヴァイと接する時間は長かったと思う。きっとリヴァイにとっても特別な部下だろうし、彼らもリヴァイのことを尊敬していたのを知っている。ミカサは裁判の時のエレンのこともあり最初は毛嫌いしていたけれど、次第にそれも薄れていっていた、と、思う…多分。
彼はあまり表情に変化が見られない。だけどそれは“他の人と比べたら”という話だ。“昔の彼と比べたら”今の彼はとても表情豊かになった。今だって、彼らの名前を呼んでこんなに穏やかな表情が見られるだなんて思いもしなかった。
彼の表情を見てつられて穏やかな気持ちになりながら、オリヴィアは3人に予定を聞いておきます、と言った。
それからしばらく話をし、コーヒーを飲み干しさらにおかわりで淹れてもらった紅茶を飲みほした頃にようやくオリヴィアは彼のマンションを出た。
「ついたぞ」
ほんの数分歩いたところで、彼がそう言った。最初駅まで送ると言ってくれた彼にいいですと断ろうと思ったのだが、よく考えれば一体ここがどこなのか分からなかったので、その言葉に甘えておくことにしたのだった。実際に駅まで来てみれば彼の立派なマンションは最寄駅と目の鼻の先だったのでそんなことはことは本当に必要がなかったのだけれど。
しかし、オリヴィアは驚きのあまりそれに返事を返すことができなかった。着いた駅の名は自宅の最寄り駅の隣の駅名だったから。こんなご近所さんだったなんて全く予想していなかったことだ。この偶然は、とりあえず目の前の彼には言わないでおこう。言えば…少し面倒なことになるような気がするから。そんなことを決心していれば、手の中に何かを半ば無理矢理握らされた。握らされたそれは、紙幣だった。
「…え、なんですか、これ」
「切符代だ」
「は?…いやいやいや、いいですよ、こんなの!」
切符代だと言って渡されたのは、それにしては高すぎる紙幣で驚いてそれを返そうとするも、リヴァイはすでに財布をしまいポケットにその両手を突っ込んで決して受け取ってくれなかった。それでもまだそれを受け取ろうとしないオリヴィアにリヴァイが呆れたような声を出した。
「うるせぇなぁ。男が出した金をつっ返すんじゃねぇよ」
「いや…だって私迷惑しかかけてないですし、それにたった一駅なのにこんなの貰えません」
「一駅?」
「…あ」
どうしても申し訳ない気持ちが消えなくて困惑しているあまりに、ついさっき言わないようにしようと決意した言葉をポロリと発してしまった。慌てて口を覆っても、出てきた言葉は帰ってこない。恐る恐る彼の顔を見てみればニヤリと嬉しそうに口の端を上げていた。
「そうか…なんなら歩いて家まで送ってやろうか?」
「い、いりません!」
なんで言っちゃうかなぁ、今言わないようにしようって思ったばっかりだっていうのに。なんて自分のことを責めていれば、それから、と彼は続けた。
「別に迷惑なんざ、思ってねぇよ」
「え?」
「お前のことで迷惑だなんて思うわけねぇだろ」
そんなことを言いながらぐしゃぐしゃと頭を撫でられて、なんだか気恥ずかしくなり視線を下にやった。
「気をつけて帰れよ」
「…は、い。ありがとうございました」
「オリヴィア」
さようならと視線を合わせずに頭を下げれば、真面目な声で名前を呼ばれてリヴァイの顔を見ないことはできなかった。上げた視線の中にいた彼は声だけでなくその表情もひどく真面目なもので、そして頭を撫でていた手をスルリと頬まで下ろしてきた。優しくオリヴィアの頬を撫でながら真っ直ぐに見詰めてくる彼の瞳から視線を外すことができなかった。
「来週の金曜も予定空けとけ」
「、え?」
「必ずだ、いいな」
「や、ちょっと」
そう言うだけ言ってオリヴィアの返事も聞かないうちに、リヴァイは踵を返して歩き出してしまった。オリヴィアは彼の背中が視界から見えなくなるまで、その場から動くことができなかった。
なんとか電車に乗ってからも、頭の中を占めるのはリヴァイのことだった。
あの日あんな蛮行をしてしまうようなろくでなしに落ちてしまった彼は、以外にもあの状況で手を出さなかったと言う。最初その言葉を疑った私だったが、今ではそれはきっとそうなんだと思う。自分の服装には昨日のまま特に乱れはなかったし、二日酔いで多少頭痛と身体がだるかったりするがそれ以外に特に身体の方に違和感はない。それに酒の臭いと、飲み屋でついた煙草と油ものの臭いも未だに取れていない。生まれ変わっても潔癖症を拗らせている様子の彼がこんな女を抱けるとはとても思えない。
まあ、なんだかんだ言っているがあの日のことは、忘れることは出来ないけれど納得している。彼に再会した瞬間、私だってとても感動して泣きそうになった。彼の場合はそれがあの行動になってしまったのだと…納得はできないけど、普段の彼がそういうことをするような人間ではないのだろう。
ただ、それでも。ふとした瞬間に私のことをまるで大切な恋人のように接する彼の言動に気が引けた。結婚は…家を見る限りしていないのだろうけど、恋人はいないのだろうか。いや、いたとしてもいなかったとしても今は恋人じゃない私に、あんな風な態度は取ってほしくはない。それは、私が嫌だからということもあるけれど…でもそれ以上に、彼に幸せになってほしいという思いがあるから。今よりもずっとずっと残酷で厳しい世界の中でも、彼は特につらい経験をしていたはず。優しい恋人に癒されて満たされていて欲しいものだ…。そう、恋人に。恋人………
「…あ」
現在の恋人の存在を完全に忘れていた。
鞄の中をあさり携帯を取り出せば、それは着信を知らせるランプが灯っていた。中身を確認すれば、着信が5件にメッセージが9件。どれも同一人物からのもので、オリヴィアは深いため息を吐き出した。