スターチス
夢小説設定
ご利用の端末、あるいはブラウザ設定では夢小説機能をご利用になることができません。
古いスマートフォン端末や、一部ブラウザのプライベートブラウジング機能をご利用の際は、機能に制限が掛かることがございます。
私の中のリヴァイ兵長といえば、クールで冷静沈着、何事にも物怖じせず、仲間想いで、感情を表に出さない硬い表情の裏に燃え滾る様な誰よりも熱い心を持ち、そして人類最強と崇められ誰にも負けない強い力を有する、極度の潔癖症と小柄という点を覗けば完璧超人だった。そんな肩書に加えて眉目秀麗な彼は当然、女性にモテていた。人類最強の兵士に愛されたい、そうでなくても、一度でもいいから関係を持ちたいと願う女性は数多くいた。
しかしそんな彼は、私を恋人として傍においてくれた。一夜だけの関係でも、都合のいい時に呼び出されるだけの冷めた関係でもなく、恋人として、だ。特に目立つわけでも優秀なわけでもない私よりも、彼の補佐であった細かな気遣いのできるペトラさんや、圧倒的な美しさを放っていたナナバさん、文武両道なハンジ分隊長など相応しい人はいくらでもいたのに。どうして彼が私を選んでくれたのかは、未だに分からない。何せ当時の彼は年齢的にも立場的にも私にとっては雲の上の存在で、更に感情を表に出さない人だったから、傍にいても彼が何を考えていたのかや何を求めていたのかなんて全く分からなかった。夢だったんじゃないかと今でも思う。それでも、彼は確かに私の手を取ってくれた。
普通の恋人たちのように2人で過ごす時間はとても短かったけれど、その時間はあの殺伐とした世界で唯一の安らげる時間だった。普通の恋人のように甘い言葉をくれることはなかったけれど、触れる手はとても優しくてそこから愛を感じ取れた。愛する喜びも、愛される幸福も、経験したことのない快楽も、全て彼の手から与えられた。
「―――、い・・・」
彼は、私の現世の初恋でもある。記憶の中の優しい彼はまるで王子様のようだった。
・・・・・・それなのに。
「おい、オリヴィア!!」
軽く怒鳴るような声でぐるぐると巡っていた意識が戻ってくる。目の前には遠き日の恋人ではなく、今の恋人が不機嫌そうな顔で私をじっと見ていた。
「あ・・・ご、ごめん、ぼーっとしてた」
周囲を見渡せば、そこは付き合い始めて3カ月程になる彼の部屋だった。入社式を終えた翌日の土曜、今日は朝から彼の家に来ていたのだった。だけどどうしても私の頭の中は昨日、数百年か数千年ぶりに再会した彼の事でいっぱいだった。彼氏と一緒にいるのに元彼のことを考えるなんて、最低だ。
「なんか今日来てからずっとそんなだけど、何なんだよ」
「・・・ごめんね。なんか・・・ほら、昨日入社式だったじゃない?みんな賢そうだったし、明後日から仕事始まるかと思うと、ちょっと不安で」
そんな風に俯いていえば、頭上からはあ、と大きな溜息が落ちてきた。それにビクリと肩を跳ねさせれば突然強い力で腕を引かれて体勢が崩れた。気がつけばベッドに倒れていた私に、彼が覆いかぶさるような体勢をとる。彼は190センチに届くかと言うほどの長身で、更に趣味で格闘技をやっているらしくてガタイもいい。150センチ前半の私にとってみれば、小さめの“巨人”のようなものだ。
「え、ち、ちょっと」
「んまあーそれなら許してやるけどさ、ちょっと怒ったから、おしおきな」
そう言って私の身体を弄り、首に噛みついてきた彼。身体に走る痛みにこみ上げそうになる言葉をぐっと抑えた。
おしおき、って何よ。こういうときって普通優し言葉を掛けるのが“恋人らしい行動”なんじゃないの?自分の感情ばっかり押しつけて、ガキみたい。
“あの人は、こんな風に自分の感情に身を任せるようなこと、絶対しない”
いつものおまじないのような言葉に、急激に心が冷え渡るのを感じた。思い出したのは、昨日のあの人の愚行。あの人だって、自分の感情に身を任せてきたじゃない。なんだ、結局、王子様みたいな人なんていないんだ。
そんな風に思いながら、私の身体に喰らいつく“巨人”のような彼のうなじをそっと撫でた。そして彼の腕の中で、始まった苦痛の時間をやり過ごすため、ぎゅっと強く瞼を閉じた。
休日というのは、あっという間に過ぎ去っていく。嫌だ嫌だと思ってもすぐに月曜になり、初勤務の日を迎えた。起床して、洗面室の鏡に映る自分の姿を見て溜息を1つ溢した。
「うわ・・・やっば・・・・・・」
肌の色に近い淡いピンクのシンプルなネイルの施された指がたどるのは、首に残る痛々しい噛み痕。土曜に彼の家に行った時に付けられたものだ。今付き合っている彼はとても私のことを好きだと言ってくれるけれど、独占欲が強くて嫉妬深い。先日のようにご機嫌を損ねた後のセックスはひどく乱暴で、止めてと言っても止めてくれないし見える場所に痕を付けたりと散々だったりする。元々そういう行為があまり好きではない私にとってそれはただただ苦痛でしかない。
キスマークなんて可愛らしいもんではない、ただただひたすらに痛々しい傷跡は触れれば未だにピリピリとした痛みが走る。入社早々こんなもんを上司や同僚に見せるわけにはいかない。こんな位置に大きな絆創膏なんて貼ったら、ソレがありますって言っているようなものだし、しばらくは首元が隠れるハイネックでも着るしかなさそうだ(制服とかなくてよかった)。
ひりひりと痛む傷口のような痕。その横にある控えめの(というか普通の)赤い痕。これは、彼に付けられた痕では、ない。
「・・・気付いてなかったよね・・・これ」
彼はこの痕については特に何も言わなかった。まあ、普段からよく付けてきて反対側の同じような位置にも同じようなものがついているくらいだから、自分の付けたものだと勘違いでもしたんだろうけど。間抜けで助かった。浮気騒動になんてなったらあの男、きっと面倒臭いこと間違いない。
それにしても・・・本当に、リヴァイ兵長は一体どうしてこんなことを・・・いや、やめておこう。あまり考えたくない。とりあえず、あの人にはあまり近付かないようにしないと。
段々と降下していく気分をリフレッシュするように冷水を顔にかけて気を引き締め、準備を始めた。普段よりも落ち着いて見えるような化粧を丁寧に施し、髪は毛先だけ緩く巻いてから一つに纏める。
白のハイネックと細身のパンツそして落ち着いたジャケットを羽織る。それからシンプルなピアスと時計を身につけて母から入社祝いとして買ってもらったバッグを手に、鏡で何度も自分の姿をチェックする。
派手すぎはもちろん駄目だけど地味すぎるのも考えものだ。こんなとき実家だったら父や母に確認してもらえるのに、とほんの少しホームシックのようなものを感じながらおまじないのように右手の拳を心臓に宛がう。大丈夫、大丈夫。いつも通り、硬くなりすぎず。逸る鼓動を抑えて玄関を出れば温かな太陽が新たな門出を祝福するかのようにきらめいていた。
入社して最初の一週間は、まさしく怒涛の一週間だった。ようやく週の終りの金曜日を迎えた時にはすっかり疲れ果てていた。
今まで大学で自由気ままにやってきた分その反動は大きかった。バイトで社会経験はある、とどこか鷹をくくっていたが、実際にはバイトと仕事では全然違う。今週はほとんど研修だったのにも関わらずこの疲れよう、実際に職務につき出したらどれほど大変なのかと今から気が重い。
リヴァイ兵長にはあまり近付かないようにしようだとか思っていたがそんなことにまで気を回している暇なんて全くなかったし、大体当の本人も相当忙しいらしく社内にいることも少なかったしいても最低限の挨拶しか交わさないし、なんというか・・・拍子抜けだ。だけどまあ、これでいいし、これからもこんなかんじでいこう。
まあとにかく、明日は休みだあと一日頑張ろう、あーパーっと飲みに行きたいなあ。
そんなことを考えながら出社すれば、ペトラさんが声を掛けてきた。
「ねぇカーティスさん、今夜暇じゃないかな?」
ペトラさんは優しく、芯が強く、周囲に気遣いができ、美人だ。昔となんら変わらない。フランクに話し掛けてくれるので先輩だけどとても話しやすい。私の指導係となってくれた彼女は丁寧で分かりやすく仕事を教えてくれるし、間違ったことはビシッと指摘してくれる。仕事ができるところも、昔と変わらない。
「今日ですか?特に用事はないですけど・・・」
「ほんと?実は今夜うちの若い人たちで飲みに行くんだけどよかったら一緒に行かないかな?
この一週間疲れたでしょ、ぱーっと飲んでお疲れ様しよ!今度部署全体で歓迎会はあるけど、おじさん達が多いとなかなか気も使っちゃうしちょっと早めの歓迎会みたいな。折角一緒の職場になれた縁だし、どうせなら仲良くなりたいしね。
あ、でも早く帰って休みたいんだったら全然断ってくれていいよ。本当にもしよかったら、だから」
「いえ、嬉しいです。いいんですか?」
「もちろん!じゃあ他の新人さん達にも声掛けてみてもらえるかな?急だから全員は無理だろうけど・・・幹事は私だし、気を遣わなくていいから!
・・・あ、お金は男の人が出してくれるから心配しないでね」
ペトラさんは声を顰めてそう言うと可憐にウインクした。そんな彼女に私は思わず面食らってしまった。可愛くウインクした仕草にではない。彼女の・・・男性に負けないくらいの技術と強さとまっすぐな意思を持っていた彼女の、現代女性らしい発言に、だ。
(いや、確かにそこはとても大切なポイントだしちょっと気になったけど、ペトラさんの口から聞くと少し衝撃的)
だけど、それも当然の事なのだろう。今は、あの時代とは違う。おまけにペトラさんは前世の記憶もない、本当に唯の現代人、なのだから。
同期の子たちを誘ってみれば、来ると答えたのは男の子1人だけだった。残りの人たちは用事があるらしい。まあ、当日の急な誘いなので仕方がないのだが・・・。
長い長い金曜日を乗り越え、同期や先輩たち10人程と近くの真新しい居酒屋に入った。予約していたらしい、大きな掘りごたつのある和風の個室に入り適当に席に着けば、店員さんがお冷とおしぼりとメニューを持ってきてくれた。それと一緒に一杯目の注文を終えた。しかし、人数分用意される筈のそれらが、1セットずつ余っている。
「?あれ、1個多くないですか?」
「ん?あぁ、これは・・・」
「悪い、遅れた」
私の問いにペトラさんが答えようとしていた時、ガラリと部屋の襖が開いた。そこにいたのはこの一週間まともに会話もせず、そして今後も極力しないようにしようと思っていた、リヴァイだった。
「っ」
リヴァイは襖をあけてすぐにオリヴィアの方に目をやり、彼の顔を見た瞬間思わず固まっていた彼女とばっちりと目が合った。その瞬間これでもかというほど露骨に目をそらしたオリヴィアをしばらく見つめていたリヴァイだったが、話しかけるペトラの声で彼女の方に視線を移した。
「リヴァイ課長お疲れ様です!大丈夫です、私達も今着いたところですよ」
「そうか、ならよかった」
「一応、飲み放題で予約してます。ここ、飲み放題メニューも結構豊富なんですよ。今ちょうど一杯目の注文終えたところで、一応課長の分も注文しておきました。生中で大丈夫でしたか?」
「ああ、助かる。いつも任せっぱなしで悪いな」
「っ!いいえ!と、とんでもないです!!」
ワントーン高くなったペトラさんの声を聞いて、俯きながらしまった、と思った。彼女のリヴァイへの妄信っぷりは前世の時と同じく凄まじい。そんな彼女に誘われたのだからこの事態は想定できたはずなのに、そんなこと全くこれっぽっちも考えていなかった。席は離れているが、気まずいものは気まずい。
どうしよう、どうしよう、とぐるぐると考えていれば隣に座る同期の男の子が小声で話しかけてきた。
「ペトラさんとリヴァイ課長って、仲よさそうだよな」
「えっ?あ、あぁ、うん、そうだね。ペトラさんはリヴァイ課長のことすごく尊敬してるよね」
「尊敬っていうか・・・付き合ってるんじゃないの?俺そうだと思ってたんだけど」
「え!?いやいや、それはないって。だって・・・」
だって、と言った私の口はそこでピタリと止まった。だって・・・ペトラさんは昔からリヴァイ兵長のことをとても尊敬していた。それは上司部下の尊敬で、そこに恋愛感情なんてものはないと、当時の彼女は言っていた。
そう、だけどそれは、当時の話だ。今の彼女がリヴァイ課長に尊敬を超えた感情を持っていたとしてもなんら不思議はない。前世で恋をしていたからって、今も恋に落ちるとは限らない。前世で恋していなかったからって、今も恋しないとは限らない。私だってそうなんだから、彼女だって分からない。
「あ、いや・・・なんでもない。も、もしかしたらそうかもね」
「ペトラさん、すっげー可愛いのになあ・・・でもリヴァイ課長じゃ敵わないなあ・・・。イケメンだしクールだし出世街道まっしぐらだし超モテそう。・・・・・・でもここだけの話、俺あの人、ちょっと苦手なんだよなぁ。というか嫌われてる気がする。すっげー睨まれるし」
「あー・・・(たぶん本人的には睨んでるつもりはないんだろうけど・・・)確かに近寄りがたい雰囲気はあるかもね・・・」
私は、リヴァイ課長のことを好きなわけじゃない。別にペトラさんとリヴァイ課長が付き合っていたからって構わない。(“あの”ことで、少しだけ気まずくはあるけど)
でも・・・
「みんなグラス回ってますかー?」
同期の男の子と喋りながらそんなことを考えていれば、店員さんが一杯目のお酒を持ってきてくれた。各々の手にグラスが回ったことを確認して、ペトラさんの声が部屋に響く。
「みなさん、お疲れ様です!新人の2人も、急だったのに集まっていただいてありがとう!ぜひぜひ親睦を深めてくださいね!では、かんぱーい!!!」
オリヴィアはその声を合図に、グラスを先輩や同期達と合わせて思い切り仰いだ。一杯目に頼んだ周囲に合わせた苦手なビールが喉を通ると、見ていた先輩達が嬉しそうな声を上げた。とにかく、もう、あれだ。仕事は大変だし、彼氏はむかつくし、リヴァイ課長はきちゃうし・・・散々だ。
だから、今日は思い切り飲んでしまおう。
「リヴァイ課長、注ぎます!」
「リヴァイ課長、この間の件なんですけど!」
「リヴァイ課長、その時計どこのですか?すっげーカッコイイですね!」
皆が頬を赤らめて緩い表情に変化させた頃、リヴァイの周囲には部下たちが群がっていた。中心にいるリヴァイは面倒そうに眉を顰めながらも、注がれる酒を飲みそれらの質問に律儀に答えていたが、内心舌を打っていた。部下のそれらが鬱陶しいのではなく、彼の機嫌を損なわれる光景が視界の端にあるからである。
定期的に行われる部署の若い者たちだけで行われる飲み会に新人も誘うと言っていたペトラの言葉は聞いていたが、きっと来ないだろうと思っていた。当然と言えば当然なのだが、オリヴィアはこの間の“あれ”を酷く気にしているようだった。あからさまに避けられている訳ではないが、明らかに気まずそうな様子ありありと感じ取れる。だから、俺が参加する会社の飲み会になんてきっと来ないだろう、と。・・・まあ、様子を見るに、俺が来るということは知らなかったようだが。だが、これはチャンスだ、絶対に逃してはならない。
あの・・・冷静になってみれば確かに行き過ぎていたなと反省してしまう、あの出来事。しかしやっちまったものは取り消すことはできねぇ。あんなたった一度の過ちで、この三十年、いや、何百年何千年と待ち続けた女を諦めてたまるか。
いつこの部下たちの群れから抜け出せるかと思案しながら酒の注がれたグラスを傾けた時、室内に大きな声が響いた。
「えー!オリヴィアちゃん彼氏いんのー!?」
その声に、ビタリと手が止まった。
声は先ほどからオリヴィアや数人の部下と話していた、男の方の新入社員のものだ。あちらも新人たちを中心に盛り上がっていたことは、視界の端でしっかりと確認していた。
オリヴィアが異様なスピードで酒を仰いでいたことも、そのせいで情けなく緩んだ表情になっていることも、そんなオリヴィアに部下たちが面白がって次々に酒を進めることも、その男が異様に距離を詰めて座っていることも、その手がなぜか腰に回されていて表情に男の卑しい下心がこもっていることも、しっかりと確認していた。
ただ、話の内容だけは、雑多な声にまみれてこちらまでは届かなかった。聞こえてきた内容にイライラとしていたリヴァイの機嫌は最高潮に達し、チッと大きな舌打ちをして席を立ちあがった。
リヴァイ兵長は、リヴァイ課長になっても、相変わらず部下から物凄く慕われているようだ。昔よりも少しは柔らかくなった雰囲気と、酒の席と言うことが手伝い、部下たちも隠すことなくそれを表現している。
オリヴィアは彼とは離れた席で、同期の男と何人かの先輩たちと話に花を咲かせていた。乾杯でいきなり思い切りグラスを仰いだオリヴィアに、先輩たちは面白がって次々に酒を注いできた。あまり酒らしい酒は苦手なのだが、断るに断れないし、半ば自棄になっていたのもあり、まずいと言いながら次々にそれらを飲みほしていった。文句を言いながらも飲み続けてふらふらになっていく様が先輩たちにはとてもウケたらしく、場はグングンと盛り上がっていった。
20代ばかりの若い彼らの話題は、最初は仕事の軽い愚痴だったりアドバイスだったりを経て、自然と恋愛のそれに変化していった。
「ペトラさんって、リヴァイ課長と付き合ってるんでですよね!」
同期の男(ベロベロに酔ってだらしない顔だ)が図々しく言った言葉に、ペトラさんは思い切りむせかえった。
「な、な、な、なに言ってるのよ!そんなわけないでしょ!?」
ゴホゴホと咳をしながら否定するペトラさんの顔は真っ赤に染まっている。それは決してお酒のせい、だけではないだろう。
「いやいやー、怪しいですねぇ。秘密の関係、ってやつですかぁ?」
「だ、か、ら、違うって言ってんでしょ!」
「そんなこと言ってー仲良いじゃないですかー」
ペトラさんの否定の声を聞いて、どこかほっとしているような、だけどその否定の裏にある感情を探っている自分に気がついて、またグイっと一口お酒を口にした。あんなことを言っておいて、自分だって似たような感情を持ってしまっている。すっかり幻滅したつもりなのに、長い長い憧れの感情はなかなか消えてくれないようだった。
はぁ、と大きくため息をついた時、グイッと強い力で腰を引かれて体勢がフラリと揺れた。キツい酒の匂いが香る程の位置に、同期の男の顔がある。
「俺とオリヴィアさんみたいにー!」
ねー?と小首を傾げる男にえ?と返す。私たちを見ていた先輩たちがワッと更に盛り上がる。ひやかしのような声が上がるが、うまく頭が回らない。どうやら自分で思っていたよりも酔いが回っているようだった。
「ね、オリヴィアちゃん、俺と付き合ってよ」
「は?なんで?」
「いや、入社式の日から可愛いなーって思ってたんだ」
きゃあきゃあ、行け行け!と最高潮の盛り上がりを見せる先輩たちのことは、すでに視界には入っていなかった。
「・・・?いや、わたし、かれしいるから」
「えー!オリヴィアちゃん彼氏いんのー!?」
一際大きな声で叫んだ男はまじか・・・と言いながらガックリと頭を垂らした。そして今度はそれを聞いたペトラさん含む女の先輩達が質問を浴びせてくる。
「彼氏いるんだ?どんな人なの?」
「何歳?どれくらい付き合ってるの?」
もはやふわふわとする視界と頭で、特に何も考えることもなく質問に思ったそのままを返す。
「こないだ3ヶ月になりましたー。年は3歳年上でー、んー、巨人みたいな人ですねぇー」
「え、巨人?」
「なにそれ?大きいってこと?スポーツ選手とか?」
なんの違和感もなく、自然と口からこぼれた言葉に、先輩たちはきょとんとした表情を見せた。
「ちょーでかいですよ!190くらい?それにー、おもいっきり食いついてくるところも、巨人っぽいですー」
「190!?でか!!」
「カーティスさん小さいから身長差やばくない?」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。そんなことより、食いついてくるってどういうことよ!」
「なんかやらしいなぁ・・・」
「もうちょっと詳しく教えてよ、ほら、これ美味しいよー、飲んでー」
言われるがまま差し出されたグラスを唇にあてた。酔いで熱を持った唇に冷えたグラスが気持ちいい。そしてそれを傾けた、はずが、いつまでたってものどに流れてくるはずの液体が流れてこなかった。あれ?と思っていれば自分の手の中にあったはずのグラスがすっと持ち上げられた。
「おい、お前らいい加減にしとけ」
離れていくグラスに視線を辿らせると、そこには険しい顔をしたリヴァイがいた。ふわふわとした頭のままボケーっと彼を見れば、その眉間の皺が更に深まった。
リヴァイの言葉に先輩達はいたずらのばれた子供のようにしまったという顔をしてごめんなさーいと反省の全く見えない声で言って逃げるようにそっぽを向くと、また違う話題に花を咲かせ始めた。
そんな先輩たちの様子にため息をついた彼は、オリヴィアの同期の男とは反対の隣の席に腰を下ろした。(同期の男もすでに先輩たちと他の話題で盛り上がっているようだ)
「大丈夫かオリヴィア」
「んぅ・・・だいじょぶ、です・・・」
「・・・そうは見えねぇが」
項垂れながら言うオリヴィアを見てリヴァイが、あいつら飲ませすぎだ、と舌を打ちながら机の上で誰にも相手にされていなかったグラスを掴んでオリヴィアの口元に持っていった。
「にほんしゅ、おいしくないから・・・きらいです・・・」
「ちげえ、水だ」
「み・・・ず・・・?」
どう見ても日本酒のグラスには見えないそれを見て日本酒はいやだと首を振るオリヴィアに水だと言えば、素直に手を伸ばしてきた。覚束ない手で持つ水の入ったグラスはプルプルと震えていて、結局オリヴィアがそれを飲み終えるまでリヴァイの手がそれを支えていた。
「は、おいし・・・」
「そりゃよかったな。お前も、注がれたからってグイグイ飲むな。あんな飲み方してりゃあいつらが面白がるのも当然だ」
喉を通るひやりとした水と軽いお説教で、ほんの少しだけ意識がはっきりとしてきた。ふう、と息をつき、オリヴィアはリヴァイの顔をじっと見る。同じくこちらをじっと見つめているその顔は、昔と全く同じ端正なつくりだ。ただ、昔あったひどい隈と鋭すぎる眼光は幾分柔らかになっていて、随分若々しく見える。
「だって、へいちょ・・・が・・・」
「・・・・・・なんだよ」
「くるなんて・・・思って、なかった、から・・・若い人だけって、言ってたのに・・・」
「・・・どういう意味だ、こら・・・。社会じゃ30代前半なんてまだまだ若いんだよ」
「あ・・・いや、その・・・ご、ごめんなさ・・・」
低くなった声に思わず目を泳がせてあたふたとしていれば、ふっと息が漏れる音が耳に入る。それにつられてそちらに視線を戻して見れば、リヴァイは怒ったような様子は全く見れず、それどころか口元に拳をあてて目尻を下げ、穏やかな表情をオリヴィアに向けていた。見たことのないその表情に、オリヴィアの心臓がドキンと大きく跳ねあがった。
「あ・・・へ、ちょう・・・」
「・・・もう兵長じゃねぇよ」
「リヴァイ、課長・・・」
オリヴィアはこの時、この間の一件を思い返していた。
入社式の日、理性を失い私に襲いかかってきた彼に、私の中の綺麗な思い出と儚い初恋は泡のように消えていった。あのときの私の感情を占めたのは突然盛ってくる男に対する嫌悪感だけで、その感情のままに昔の恋人だとかこれからの上司だとかそんなことも忘れて暴言を投げつけた。前世では比較的大人しい方だった私はあんな乱暴な口を聞いたことはなかった。それは彼に対してだけではなくて皆にだ。そんな私が酷く乱暴な口を聞いたことが、彼には衝撃だったのだろう。目を大きく見開き驚いた顔を見せた後に目の廻りの影をまるで昔のように濃くして、小さく「悪い」と呟いた。
思えば、彼の口から謝罪の言葉を聞いたのは初めてのことだった。それだけじゃない、彼があんな風に衝動的に触れてくることも、私の嫌がる声を無視することも、それからあんな切羽詰まったような表情も、初めて見た彼の一面だった。そして、今、目の前で私に向けられる穏やかな顔もまた、初めて見るものだ。やっぱり、今と昔では、見た目は同じであっても確かに違う人間なんだと痛感する。
「・・・みんな、昔と変わらないようで、変わっているんですね」
「あ?」
「だって、見た目はそのまんまなのに、やっぱり時代と社会・・・それに生きてきた環境が変わると性格も変わるんですね・・・・・・ペトラさんも、リヴァイ課長も、昔とは違う・・・」
「お前がそれを言うのか?一番変わってんのはお前だろ・・・」
「・・・・・・いや、まあ・・・。でも私だっていつもあんなんじゃないですから!“あれ”はリヴァイ課長が悪いですもん・・・」
「・・・まぁ・・・悪かった・・・・・・。が、ありゃそういうレベルを超えてるだろ。えらくひねくれて育ったもんだな」
「筋力がなくなった分口が達者になったんですよ、生きるためにね」
ふふん、となぜか得意げな顔をするオリヴィアの頬をリヴァイはその指先でスルリと撫でると、まぁ悪くないが、と小さく呟いた。酔いで熱い頬に触れた彼のそれは、ひやりとしてとても心地よく感じ、オリヴィアはそっと瞼を落とした。
しかしそんな彼は、私を恋人として傍においてくれた。一夜だけの関係でも、都合のいい時に呼び出されるだけの冷めた関係でもなく、恋人として、だ。特に目立つわけでも優秀なわけでもない私よりも、彼の補佐であった細かな気遣いのできるペトラさんや、圧倒的な美しさを放っていたナナバさん、文武両道なハンジ分隊長など相応しい人はいくらでもいたのに。どうして彼が私を選んでくれたのかは、未だに分からない。何せ当時の彼は年齢的にも立場的にも私にとっては雲の上の存在で、更に感情を表に出さない人だったから、傍にいても彼が何を考えていたのかや何を求めていたのかなんて全く分からなかった。夢だったんじゃないかと今でも思う。それでも、彼は確かに私の手を取ってくれた。
普通の恋人たちのように2人で過ごす時間はとても短かったけれど、その時間はあの殺伐とした世界で唯一の安らげる時間だった。普通の恋人のように甘い言葉をくれることはなかったけれど、触れる手はとても優しくてそこから愛を感じ取れた。愛する喜びも、愛される幸福も、経験したことのない快楽も、全て彼の手から与えられた。
「―――、い・・・」
彼は、私の現世の初恋でもある。記憶の中の優しい彼はまるで王子様のようだった。
・・・・・・それなのに。
「おい、オリヴィア!!」
軽く怒鳴るような声でぐるぐると巡っていた意識が戻ってくる。目の前には遠き日の恋人ではなく、今の恋人が不機嫌そうな顔で私をじっと見ていた。
「あ・・・ご、ごめん、ぼーっとしてた」
周囲を見渡せば、そこは付き合い始めて3カ月程になる彼の部屋だった。入社式を終えた翌日の土曜、今日は朝から彼の家に来ていたのだった。だけどどうしても私の頭の中は昨日、数百年か数千年ぶりに再会した彼の事でいっぱいだった。彼氏と一緒にいるのに元彼のことを考えるなんて、最低だ。
「なんか今日来てからずっとそんなだけど、何なんだよ」
「・・・ごめんね。なんか・・・ほら、昨日入社式だったじゃない?みんな賢そうだったし、明後日から仕事始まるかと思うと、ちょっと不安で」
そんな風に俯いていえば、頭上からはあ、と大きな溜息が落ちてきた。それにビクリと肩を跳ねさせれば突然強い力で腕を引かれて体勢が崩れた。気がつけばベッドに倒れていた私に、彼が覆いかぶさるような体勢をとる。彼は190センチに届くかと言うほどの長身で、更に趣味で格闘技をやっているらしくてガタイもいい。150センチ前半の私にとってみれば、小さめの“巨人”のようなものだ。
「え、ち、ちょっと」
「んまあーそれなら許してやるけどさ、ちょっと怒ったから、おしおきな」
そう言って私の身体を弄り、首に噛みついてきた彼。身体に走る痛みにこみ上げそうになる言葉をぐっと抑えた。
おしおき、って何よ。こういうときって普通優し言葉を掛けるのが“恋人らしい行動”なんじゃないの?自分の感情ばっかり押しつけて、ガキみたい。
“あの人は、こんな風に自分の感情に身を任せるようなこと、絶対しない”
いつものおまじないのような言葉に、急激に心が冷え渡るのを感じた。思い出したのは、昨日のあの人の愚行。あの人だって、自分の感情に身を任せてきたじゃない。なんだ、結局、王子様みたいな人なんていないんだ。
そんな風に思いながら、私の身体に喰らいつく“巨人”のような彼のうなじをそっと撫でた。そして彼の腕の中で、始まった苦痛の時間をやり過ごすため、ぎゅっと強く瞼を閉じた。
休日というのは、あっという間に過ぎ去っていく。嫌だ嫌だと思ってもすぐに月曜になり、初勤務の日を迎えた。起床して、洗面室の鏡に映る自分の姿を見て溜息を1つ溢した。
「うわ・・・やっば・・・・・・」
肌の色に近い淡いピンクのシンプルなネイルの施された指がたどるのは、首に残る痛々しい噛み痕。土曜に彼の家に行った時に付けられたものだ。今付き合っている彼はとても私のことを好きだと言ってくれるけれど、独占欲が強くて嫉妬深い。先日のようにご機嫌を損ねた後のセックスはひどく乱暴で、止めてと言っても止めてくれないし見える場所に痕を付けたりと散々だったりする。元々そういう行為があまり好きではない私にとってそれはただただ苦痛でしかない。
キスマークなんて可愛らしいもんではない、ただただひたすらに痛々しい傷跡は触れれば未だにピリピリとした痛みが走る。入社早々こんなもんを上司や同僚に見せるわけにはいかない。こんな位置に大きな絆創膏なんて貼ったら、ソレがありますって言っているようなものだし、しばらくは首元が隠れるハイネックでも着るしかなさそうだ(制服とかなくてよかった)。
ひりひりと痛む傷口のような痕。その横にある控えめの(というか普通の)赤い痕。これは、彼に付けられた痕では、ない。
「・・・気付いてなかったよね・・・これ」
彼はこの痕については特に何も言わなかった。まあ、普段からよく付けてきて反対側の同じような位置にも同じようなものがついているくらいだから、自分の付けたものだと勘違いでもしたんだろうけど。間抜けで助かった。浮気騒動になんてなったらあの男、きっと面倒臭いこと間違いない。
それにしても・・・本当に、リヴァイ兵長は一体どうしてこんなことを・・・いや、やめておこう。あまり考えたくない。とりあえず、あの人にはあまり近付かないようにしないと。
段々と降下していく気分をリフレッシュするように冷水を顔にかけて気を引き締め、準備を始めた。普段よりも落ち着いて見えるような化粧を丁寧に施し、髪は毛先だけ緩く巻いてから一つに纏める。
白のハイネックと細身のパンツそして落ち着いたジャケットを羽織る。それからシンプルなピアスと時計を身につけて母から入社祝いとして買ってもらったバッグを手に、鏡で何度も自分の姿をチェックする。
派手すぎはもちろん駄目だけど地味すぎるのも考えものだ。こんなとき実家だったら父や母に確認してもらえるのに、とほんの少しホームシックのようなものを感じながらおまじないのように右手の拳を心臓に宛がう。大丈夫、大丈夫。いつも通り、硬くなりすぎず。逸る鼓動を抑えて玄関を出れば温かな太陽が新たな門出を祝福するかのようにきらめいていた。
入社して最初の一週間は、まさしく怒涛の一週間だった。ようやく週の終りの金曜日を迎えた時にはすっかり疲れ果てていた。
今まで大学で自由気ままにやってきた分その反動は大きかった。バイトで社会経験はある、とどこか鷹をくくっていたが、実際にはバイトと仕事では全然違う。今週はほとんど研修だったのにも関わらずこの疲れよう、実際に職務につき出したらどれほど大変なのかと今から気が重い。
リヴァイ兵長にはあまり近付かないようにしようだとか思っていたがそんなことにまで気を回している暇なんて全くなかったし、大体当の本人も相当忙しいらしく社内にいることも少なかったしいても最低限の挨拶しか交わさないし、なんというか・・・拍子抜けだ。だけどまあ、これでいいし、これからもこんなかんじでいこう。
まあとにかく、明日は休みだあと一日頑張ろう、あーパーっと飲みに行きたいなあ。
そんなことを考えながら出社すれば、ペトラさんが声を掛けてきた。
「ねぇカーティスさん、今夜暇じゃないかな?」
ペトラさんは優しく、芯が強く、周囲に気遣いができ、美人だ。昔となんら変わらない。フランクに話し掛けてくれるので先輩だけどとても話しやすい。私の指導係となってくれた彼女は丁寧で分かりやすく仕事を教えてくれるし、間違ったことはビシッと指摘してくれる。仕事ができるところも、昔と変わらない。
「今日ですか?特に用事はないですけど・・・」
「ほんと?実は今夜うちの若い人たちで飲みに行くんだけどよかったら一緒に行かないかな?
この一週間疲れたでしょ、ぱーっと飲んでお疲れ様しよ!今度部署全体で歓迎会はあるけど、おじさん達が多いとなかなか気も使っちゃうしちょっと早めの歓迎会みたいな。折角一緒の職場になれた縁だし、どうせなら仲良くなりたいしね。
あ、でも早く帰って休みたいんだったら全然断ってくれていいよ。本当にもしよかったら、だから」
「いえ、嬉しいです。いいんですか?」
「もちろん!じゃあ他の新人さん達にも声掛けてみてもらえるかな?急だから全員は無理だろうけど・・・幹事は私だし、気を遣わなくていいから!
・・・あ、お金は男の人が出してくれるから心配しないでね」
ペトラさんは声を顰めてそう言うと可憐にウインクした。そんな彼女に私は思わず面食らってしまった。可愛くウインクした仕草にではない。彼女の・・・男性に負けないくらいの技術と強さとまっすぐな意思を持っていた彼女の、現代女性らしい発言に、だ。
(いや、確かにそこはとても大切なポイントだしちょっと気になったけど、ペトラさんの口から聞くと少し衝撃的)
だけど、それも当然の事なのだろう。今は、あの時代とは違う。おまけにペトラさんは前世の記憶もない、本当に唯の現代人、なのだから。
同期の子たちを誘ってみれば、来ると答えたのは男の子1人だけだった。残りの人たちは用事があるらしい。まあ、当日の急な誘いなので仕方がないのだが・・・。
長い長い金曜日を乗り越え、同期や先輩たち10人程と近くの真新しい居酒屋に入った。予約していたらしい、大きな掘りごたつのある和風の個室に入り適当に席に着けば、店員さんがお冷とおしぼりとメニューを持ってきてくれた。それと一緒に一杯目の注文を終えた。しかし、人数分用意される筈のそれらが、1セットずつ余っている。
「?あれ、1個多くないですか?」
「ん?あぁ、これは・・・」
「悪い、遅れた」
私の問いにペトラさんが答えようとしていた時、ガラリと部屋の襖が開いた。そこにいたのはこの一週間まともに会話もせず、そして今後も極力しないようにしようと思っていた、リヴァイだった。
「っ」
リヴァイは襖をあけてすぐにオリヴィアの方に目をやり、彼の顔を見た瞬間思わず固まっていた彼女とばっちりと目が合った。その瞬間これでもかというほど露骨に目をそらしたオリヴィアをしばらく見つめていたリヴァイだったが、話しかけるペトラの声で彼女の方に視線を移した。
「リヴァイ課長お疲れ様です!大丈夫です、私達も今着いたところですよ」
「そうか、ならよかった」
「一応、飲み放題で予約してます。ここ、飲み放題メニューも結構豊富なんですよ。今ちょうど一杯目の注文終えたところで、一応課長の分も注文しておきました。生中で大丈夫でしたか?」
「ああ、助かる。いつも任せっぱなしで悪いな」
「っ!いいえ!と、とんでもないです!!」
ワントーン高くなったペトラさんの声を聞いて、俯きながらしまった、と思った。彼女のリヴァイへの妄信っぷりは前世の時と同じく凄まじい。そんな彼女に誘われたのだからこの事態は想定できたはずなのに、そんなこと全くこれっぽっちも考えていなかった。席は離れているが、気まずいものは気まずい。
どうしよう、どうしよう、とぐるぐると考えていれば隣に座る同期の男の子が小声で話しかけてきた。
「ペトラさんとリヴァイ課長って、仲よさそうだよな」
「えっ?あ、あぁ、うん、そうだね。ペトラさんはリヴァイ課長のことすごく尊敬してるよね」
「尊敬っていうか・・・付き合ってるんじゃないの?俺そうだと思ってたんだけど」
「え!?いやいや、それはないって。だって・・・」
だって、と言った私の口はそこでピタリと止まった。だって・・・ペトラさんは昔からリヴァイ兵長のことをとても尊敬していた。それは上司部下の尊敬で、そこに恋愛感情なんてものはないと、当時の彼女は言っていた。
そう、だけどそれは、当時の話だ。今の彼女がリヴァイ課長に尊敬を超えた感情を持っていたとしてもなんら不思議はない。前世で恋をしていたからって、今も恋に落ちるとは限らない。前世で恋していなかったからって、今も恋しないとは限らない。私だってそうなんだから、彼女だって分からない。
「あ、いや・・・なんでもない。も、もしかしたらそうかもね」
「ペトラさん、すっげー可愛いのになあ・・・でもリヴァイ課長じゃ敵わないなあ・・・。イケメンだしクールだし出世街道まっしぐらだし超モテそう。・・・・・・でもここだけの話、俺あの人、ちょっと苦手なんだよなぁ。というか嫌われてる気がする。すっげー睨まれるし」
「あー・・・(たぶん本人的には睨んでるつもりはないんだろうけど・・・)確かに近寄りがたい雰囲気はあるかもね・・・」
私は、リヴァイ課長のことを好きなわけじゃない。別にペトラさんとリヴァイ課長が付き合っていたからって構わない。(“あの”ことで、少しだけ気まずくはあるけど)
でも・・・
「みんなグラス回ってますかー?」
同期の男の子と喋りながらそんなことを考えていれば、店員さんが一杯目のお酒を持ってきてくれた。各々の手にグラスが回ったことを確認して、ペトラさんの声が部屋に響く。
「みなさん、お疲れ様です!新人の2人も、急だったのに集まっていただいてありがとう!ぜひぜひ親睦を深めてくださいね!では、かんぱーい!!!」
オリヴィアはその声を合図に、グラスを先輩や同期達と合わせて思い切り仰いだ。一杯目に頼んだ周囲に合わせた苦手なビールが喉を通ると、見ていた先輩達が嬉しそうな声を上げた。とにかく、もう、あれだ。仕事は大変だし、彼氏はむかつくし、リヴァイ課長はきちゃうし・・・散々だ。
だから、今日は思い切り飲んでしまおう。
「リヴァイ課長、注ぎます!」
「リヴァイ課長、この間の件なんですけど!」
「リヴァイ課長、その時計どこのですか?すっげーカッコイイですね!」
皆が頬を赤らめて緩い表情に変化させた頃、リヴァイの周囲には部下たちが群がっていた。中心にいるリヴァイは面倒そうに眉を顰めながらも、注がれる酒を飲みそれらの質問に律儀に答えていたが、内心舌を打っていた。部下のそれらが鬱陶しいのではなく、彼の機嫌を損なわれる光景が視界の端にあるからである。
定期的に行われる部署の若い者たちだけで行われる飲み会に新人も誘うと言っていたペトラの言葉は聞いていたが、きっと来ないだろうと思っていた。当然と言えば当然なのだが、オリヴィアはこの間の“あれ”を酷く気にしているようだった。あからさまに避けられている訳ではないが、明らかに気まずそうな様子ありありと感じ取れる。だから、俺が参加する会社の飲み会になんてきっと来ないだろう、と。・・・まあ、様子を見るに、俺が来るということは知らなかったようだが。だが、これはチャンスだ、絶対に逃してはならない。
あの・・・冷静になってみれば確かに行き過ぎていたなと反省してしまう、あの出来事。しかしやっちまったものは取り消すことはできねぇ。あんなたった一度の過ちで、この三十年、いや、何百年何千年と待ち続けた女を諦めてたまるか。
いつこの部下たちの群れから抜け出せるかと思案しながら酒の注がれたグラスを傾けた時、室内に大きな声が響いた。
「えー!オリヴィアちゃん彼氏いんのー!?」
その声に、ビタリと手が止まった。
声は先ほどからオリヴィアや数人の部下と話していた、男の方の新入社員のものだ。あちらも新人たちを中心に盛り上がっていたことは、視界の端でしっかりと確認していた。
オリヴィアが異様なスピードで酒を仰いでいたことも、そのせいで情けなく緩んだ表情になっていることも、そんなオリヴィアに部下たちが面白がって次々に酒を進めることも、その男が異様に距離を詰めて座っていることも、その手がなぜか腰に回されていて表情に男の卑しい下心がこもっていることも、しっかりと確認していた。
ただ、話の内容だけは、雑多な声にまみれてこちらまでは届かなかった。聞こえてきた内容にイライラとしていたリヴァイの機嫌は最高潮に達し、チッと大きな舌打ちをして席を立ちあがった。
リヴァイ兵長は、リヴァイ課長になっても、相変わらず部下から物凄く慕われているようだ。昔よりも少しは柔らかくなった雰囲気と、酒の席と言うことが手伝い、部下たちも隠すことなくそれを表現している。
オリヴィアは彼とは離れた席で、同期の男と何人かの先輩たちと話に花を咲かせていた。乾杯でいきなり思い切りグラスを仰いだオリヴィアに、先輩たちは面白がって次々に酒を注いできた。あまり酒らしい酒は苦手なのだが、断るに断れないし、半ば自棄になっていたのもあり、まずいと言いながら次々にそれらを飲みほしていった。文句を言いながらも飲み続けてふらふらになっていく様が先輩たちにはとてもウケたらしく、場はグングンと盛り上がっていった。
20代ばかりの若い彼らの話題は、最初は仕事の軽い愚痴だったりアドバイスだったりを経て、自然と恋愛のそれに変化していった。
「ペトラさんって、リヴァイ課長と付き合ってるんでですよね!」
同期の男(ベロベロに酔ってだらしない顔だ)が図々しく言った言葉に、ペトラさんは思い切りむせかえった。
「な、な、な、なに言ってるのよ!そんなわけないでしょ!?」
ゴホゴホと咳をしながら否定するペトラさんの顔は真っ赤に染まっている。それは決してお酒のせい、だけではないだろう。
「いやいやー、怪しいですねぇ。秘密の関係、ってやつですかぁ?」
「だ、か、ら、違うって言ってんでしょ!」
「そんなこと言ってー仲良いじゃないですかー」
ペトラさんの否定の声を聞いて、どこかほっとしているような、だけどその否定の裏にある感情を探っている自分に気がついて、またグイっと一口お酒を口にした。あんなことを言っておいて、自分だって似たような感情を持ってしまっている。すっかり幻滅したつもりなのに、長い長い憧れの感情はなかなか消えてくれないようだった。
はぁ、と大きくため息をついた時、グイッと強い力で腰を引かれて体勢がフラリと揺れた。キツい酒の匂いが香る程の位置に、同期の男の顔がある。
「俺とオリヴィアさんみたいにー!」
ねー?と小首を傾げる男にえ?と返す。私たちを見ていた先輩たちがワッと更に盛り上がる。ひやかしのような声が上がるが、うまく頭が回らない。どうやら自分で思っていたよりも酔いが回っているようだった。
「ね、オリヴィアちゃん、俺と付き合ってよ」
「は?なんで?」
「いや、入社式の日から可愛いなーって思ってたんだ」
きゃあきゃあ、行け行け!と最高潮の盛り上がりを見せる先輩たちのことは、すでに視界には入っていなかった。
「・・・?いや、わたし、かれしいるから」
「えー!オリヴィアちゃん彼氏いんのー!?」
一際大きな声で叫んだ男はまじか・・・と言いながらガックリと頭を垂らした。そして今度はそれを聞いたペトラさん含む女の先輩達が質問を浴びせてくる。
「彼氏いるんだ?どんな人なの?」
「何歳?どれくらい付き合ってるの?」
もはやふわふわとする視界と頭で、特に何も考えることもなく質問に思ったそのままを返す。
「こないだ3ヶ月になりましたー。年は3歳年上でー、んー、巨人みたいな人ですねぇー」
「え、巨人?」
「なにそれ?大きいってこと?スポーツ選手とか?」
なんの違和感もなく、自然と口からこぼれた言葉に、先輩たちはきょとんとした表情を見せた。
「ちょーでかいですよ!190くらい?それにー、おもいっきり食いついてくるところも、巨人っぽいですー」
「190!?でか!!」
「カーティスさん小さいから身長差やばくない?」
「ちょちょちょ、ちょっと待って。そんなことより、食いついてくるってどういうことよ!」
「なんかやらしいなぁ・・・」
「もうちょっと詳しく教えてよ、ほら、これ美味しいよー、飲んでー」
言われるがまま差し出されたグラスを唇にあてた。酔いで熱を持った唇に冷えたグラスが気持ちいい。そしてそれを傾けた、はずが、いつまでたってものどに流れてくるはずの液体が流れてこなかった。あれ?と思っていれば自分の手の中にあったはずのグラスがすっと持ち上げられた。
「おい、お前らいい加減にしとけ」
離れていくグラスに視線を辿らせると、そこには険しい顔をしたリヴァイがいた。ふわふわとした頭のままボケーっと彼を見れば、その眉間の皺が更に深まった。
リヴァイの言葉に先輩達はいたずらのばれた子供のようにしまったという顔をしてごめんなさーいと反省の全く見えない声で言って逃げるようにそっぽを向くと、また違う話題に花を咲かせ始めた。
そんな先輩たちの様子にため息をついた彼は、オリヴィアの同期の男とは反対の隣の席に腰を下ろした。(同期の男もすでに先輩たちと他の話題で盛り上がっているようだ)
「大丈夫かオリヴィア」
「んぅ・・・だいじょぶ、です・・・」
「・・・そうは見えねぇが」
項垂れながら言うオリヴィアを見てリヴァイが、あいつら飲ませすぎだ、と舌を打ちながら机の上で誰にも相手にされていなかったグラスを掴んでオリヴィアの口元に持っていった。
「にほんしゅ、おいしくないから・・・きらいです・・・」
「ちげえ、水だ」
「み・・・ず・・・?」
どう見ても日本酒のグラスには見えないそれを見て日本酒はいやだと首を振るオリヴィアに水だと言えば、素直に手を伸ばしてきた。覚束ない手で持つ水の入ったグラスはプルプルと震えていて、結局オリヴィアがそれを飲み終えるまでリヴァイの手がそれを支えていた。
「は、おいし・・・」
「そりゃよかったな。お前も、注がれたからってグイグイ飲むな。あんな飲み方してりゃあいつらが面白がるのも当然だ」
喉を通るひやりとした水と軽いお説教で、ほんの少しだけ意識がはっきりとしてきた。ふう、と息をつき、オリヴィアはリヴァイの顔をじっと見る。同じくこちらをじっと見つめているその顔は、昔と全く同じ端正なつくりだ。ただ、昔あったひどい隈と鋭すぎる眼光は幾分柔らかになっていて、随分若々しく見える。
「だって、へいちょ・・・が・・・」
「・・・・・・なんだよ」
「くるなんて・・・思って、なかった、から・・・若い人だけって、言ってたのに・・・」
「・・・どういう意味だ、こら・・・。社会じゃ30代前半なんてまだまだ若いんだよ」
「あ・・・いや、その・・・ご、ごめんなさ・・・」
低くなった声に思わず目を泳がせてあたふたとしていれば、ふっと息が漏れる音が耳に入る。それにつられてそちらに視線を戻して見れば、リヴァイは怒ったような様子は全く見れず、それどころか口元に拳をあてて目尻を下げ、穏やかな表情をオリヴィアに向けていた。見たことのないその表情に、オリヴィアの心臓がドキンと大きく跳ねあがった。
「あ・・・へ、ちょう・・・」
「・・・もう兵長じゃねぇよ」
「リヴァイ、課長・・・」
オリヴィアはこの時、この間の一件を思い返していた。
入社式の日、理性を失い私に襲いかかってきた彼に、私の中の綺麗な思い出と儚い初恋は泡のように消えていった。あのときの私の感情を占めたのは突然盛ってくる男に対する嫌悪感だけで、その感情のままに昔の恋人だとかこれからの上司だとかそんなことも忘れて暴言を投げつけた。前世では比較的大人しい方だった私はあんな乱暴な口を聞いたことはなかった。それは彼に対してだけではなくて皆にだ。そんな私が酷く乱暴な口を聞いたことが、彼には衝撃だったのだろう。目を大きく見開き驚いた顔を見せた後に目の廻りの影をまるで昔のように濃くして、小さく「悪い」と呟いた。
思えば、彼の口から謝罪の言葉を聞いたのは初めてのことだった。それだけじゃない、彼があんな風に衝動的に触れてくることも、私の嫌がる声を無視することも、それからあんな切羽詰まったような表情も、初めて見た彼の一面だった。そして、今、目の前で私に向けられる穏やかな顔もまた、初めて見るものだ。やっぱり、今と昔では、見た目は同じであっても確かに違う人間なんだと痛感する。
「・・・みんな、昔と変わらないようで、変わっているんですね」
「あ?」
「だって、見た目はそのまんまなのに、やっぱり時代と社会・・・それに生きてきた環境が変わると性格も変わるんですね・・・・・・ペトラさんも、リヴァイ課長も、昔とは違う・・・」
「お前がそれを言うのか?一番変わってんのはお前だろ・・・」
「・・・・・・いや、まあ・・・。でも私だっていつもあんなんじゃないですから!“あれ”はリヴァイ課長が悪いですもん・・・」
「・・・まぁ・・・悪かった・・・・・・。が、ありゃそういうレベルを超えてるだろ。えらくひねくれて育ったもんだな」
「筋力がなくなった分口が達者になったんですよ、生きるためにね」
ふふん、となぜか得意げな顔をするオリヴィアの頬をリヴァイはその指先でスルリと撫でると、まぁ悪くないが、と小さく呟いた。酔いで熱い頬に触れた彼のそれは、ひやりとしてとても心地よく感じ、オリヴィアはそっと瞼を落とした。