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ピンと糊の効いた黒いスーツに袖を通し、鏡の前に立つ。スーツはクリーニングに出したしシャツはきちんとアイロンをかけた。服装、大丈夫。先週美容室に行きしっかりと生き返ってくれた髪は後頭部で黒のバレッタで一つに纏めた。髪型、大丈夫。鞄の中を覗く、筆記用具に新人用の書類と身分証明書、それからハンカチに小さめの化粧ポーチもしっかり入っている。忘れ物、無し。
「よし、完璧!」
オリヴィア・カーティス22歳。無事に学生生活を終え、今日からは社会人として新たな一歩を踏み出す。ふうー、と深い呼吸をして、鏡の中の自分を見て頬をベチンと叩き気合いを入れて玄関を出た。
必死に就職活動をして内定をもらった企業は、正直に言ってかなりの有名企業だ。特に成績が優秀だった訳ではないのだが、努力と運で勝ち取った内定だ。友人には羨ましがられ、先輩には吐くまで酒を飲まされ、親なんて半分涙目で喜んでくれた。
就職を機に1人暮らしを始めた新しい自宅を出て、電車と徒歩で30分ほどの時間を掛けて着いた首が痛くなるほどに高くて綺麗で立派なビル。ここにこれから毎日通うのだ。入社することがゴールではなく、スタートなのだ。これからきっと今までに無い経験をしていくのだろうと思うと鼓動が早まり自然と足が止まってしまう。
周囲を見れば、自分と同じような緊張した面持ちの若い人たちがポツポツといる。ギュッと右手を拳にして左胸の前に宛がう。これは昔からの癖、だ。もっと昔は違う意味で行っていた仕草だが、緊張した時や落ち着きたい時にすれば自然と自信が漲ってくるのだ。そうして気分を落ち着けて、オリヴィアはその大きなビルに足を踏み入れた。
中に入ると受付の綺麗なお姉さんに入社式の会場へと案内された。そこには自分と同じようにピシッとしたスーツに身を包んだ若者たちが既に数十人いた。きょろきょろと周囲を見渡しつつ、空いている席に着いた。オリヴィアが席についた後も続々と新入社員が入室してくる。席が隣になった優しそうな女の子と小声で話しているうちにあっという間に席が埋まっていき、決められた時間通りに入社式は始まった。
長い入社式が終了し、そのあとは今後実際に勤めることになる部署ごとに分かれて簡単な会社説明や自己紹介に移った。オリヴィアと同じ部署に勤めるらしい人は男2人と女2人の4人だった。軽く挨拶を交わしあい彼達と共に先輩の後に付いて移動した。
到着したその部屋には30人ほどの人達がいた。オリヴィアと似たような年代の人からお父さんのような年齢の人まで、様々な人がきびきびと働いている。その妙に張り詰めた空気に緊張していると、連れ添ってくれていた先輩が「新入社員さん連れてきました」と大きな声で言った。するとさっきまで仕事をしていた人たちの視線がこちらに集まった。自然と背筋が伸びる。
「とりあえず自己紹介か」
「・・・あれ、課長は?」
「あ、今ちょっと席はずしてますね。すぐ戻ってくるって言ってましたよ」
「じゃあもうちょい待ってからだな」
怖そうな人もいるが、思っていたよりもずっと柔らかな空気にほっとしていると先程オリヴィア達が入ってきたドアが開く。それと共に聞こえてくる声にドキンと心臓が高鳴る。それは、ずっとずっと昔に聞いた懐かしい声。恐る恐る後ろを振り返れば、そこには成人男性にしては随分小柄な眉間に皺を寄せる人物。オリヴィアの手から鞄が滑り落ち、ドサリ、という音が響いた。
「―――リヴァイ・・・へい、ちょう・・・・・・」
聞こえるか聞こえないかというような小さなオリヴィアの呟きに、当の本人は過敏に反応を示した。昔と変わらないその小さく端正な顔を上げて鋭い瞳がオリヴィアの視線と交差すれば、彼の瞳が大きく見開かれた。まるで時が止まったかのように身動きが取れなくなってしまった。それは目の前の彼も同じようで、しばらく2人の視線が絡まりあったままだった。突然会話を止めて身動きを取らなくなった男性に、彼と一緒に室内に入ってきた部下と思われる女性が不思議そうに声を掛けた。
「?リヴァイ課長、どうかされました?」
「・・・いや・・・・・・」
オリヴィアは彼の一挙手一投足から目を離せずに固まっていた。彼と私は間違いなく初対面だ。しかし、私は彼を知っている。ずっとずっと、はるか遠い昔から。部下に声を掛けられた彼は気まずそうに目を逸らし話も戻そうとした様子だったが、何かを考えるように無言になった後、オリヴィアを再びその視線で射抜いた。
「・・・こいつ、顔色が悪いな」
「え?・・・あ、本当ですね。大丈夫?緊張しちゃったのかな。私、休憩室に連れていきますね」
「いや、俺が行く」
「え?いや、いいですよそんな!私が行きます!」
「お前は新人研修を頼む。俺みたいな愛想の無い男よりもお前の方が新人は安心するだろ。とにかく、こいつはおれが連れていく」
「そ、そうですか?でも・・・」
ちらりとこちらに心配そうな視線を向けた女の人の顔を見て、再びオリヴィアは目を見開いた。向日葵のような髪の美人な彼女は・・・間違いない、オリヴィアが昔憧れていた・・・
「ペ・・・」
「いくぞ、ついてこい」
小さく声を上げかけた時、腕を取られて半ば強引に部屋を連れ出された。前を歩く人物は、自分とそれほど変わらない身長で、皺ひとつない清潔なスーツを身につけ、綺麗にかられたツーブロックの黒い髪。そのどれもが懐かしかった。ただ、私の腕をとる掌には昔のような歪で硬すぎる肉刺は無く、何故だか酷く泣きたくなった。
夫婦仲の良い穏やかな性格の両親を持ち、平凡な家庭で、運動神経だけは良かったが後はごく平凡な成績を残してきた。人並な恋愛を経験して、友人たちもいて、おおよそ平凡な生活を送ってきたオリヴィアだが、たった一つだけ、普通の人とは違う点があった。
それは、“前世の記憶をもっている”ということ―――。
はるか昔、歴史で習うような時代に私は生きていた。今と同じ容姿と名前を持って。その時代には巨人と言う人類の天敵が世界のヒエラルキーの頂点に立っていた。そしてオリヴィアはその巨人と戦う兵士だった。圧倒的な力の差のある人類と巨人。それでも立ち向かわねばならなかった。兵士であったオリヴィアは王に心臓を捧げ、自分の自由などほとんどなく、自分の未来よりも人類栄光の未来だけを夢見て戦っていた。
そんな前世の記憶を持っているおかげで、両親からは未だに“あなたは小さい頃はよく不思議な話をしていた、お化けでも見えていたのかしらね”と言われる。今は存在しないどころか正式な歴史として語られている訳でもない、言わばお伽噺のような存在。そんなことを口走り、会ったことも無い人の名を親しげに語り、どこで覚えたのかも分からないようなことをべらべらと喋る。
しかし、それは決しておとぎ話でも、妄想でも、テレビで見たお話でも、お化けが見えていた訳でもない。私は確かにそれを知覚していた。知覚・・・というよりも実際にこの目で見ていたような記憶さえある。自分が今よりも大人だった記憶もある。酷く恐ろしい夢を見て眠れなかったこともある。だけど、そんなことを話すのも、知っているのも、自分だけだった。周囲にそんな人はいなかった。
それがおかしい事だと気付いたのは小学生の高学年の頃だっただろうか。私が必死にそのことを話せば話す程、周囲は私をおかしい子と言った。そうして“ああ、人と違うことを言えば頭のおかしい人だと思われるんだ。皆が知らないことを知っている私の方がおかしいんだ”と思うようになり、私は前世の記憶について口に出すことをやめた。それでも忘れようと思っても忘れられるものではなかったし、夢にも出てくる。周囲の子供達と話を合わせながら1人心の中で悶々と悩む日々を送っていた。それが何なのかが分からず、自分は本当に頭がおかしいのかと思っていた。
それが確かに前世の記憶であると確信したのは、12歳の時の事だ。中学に上がり、今までよりも多くの学友と過ごすことになったオリヴィアは、幻だと思いこませていた記憶の中で同期として共に戦ったエレン、ミカサ、アルミンと出会ったのだ。初めて彼らを見たときは本当に驚愕した。彼らもオリヴィアを見て驚いていたが、オリヴィアの驚きの方がすさまじかっただろう。彼らはこの時代でも幼馴染で生まれてきて、鮮明さは違うものの皆昔の記憶を持っていた。次第にそういう記憶を持っているのは自分たちしかいないこと、それは前世の記憶であることに気付いていったのだ。しかし、オリヴィアは違う。今まで自分と同じような記憶を持っている人物に出会ったことはなかった。周囲におかしいと言われて、自分がおかしいのだと信じ込んでしまっていた。記憶を共有する戦友と再会し、今まで幻だと思い込ませていた記憶は確かに私の記憶だったのだ。
その頃から曇りがかっていたような過去の記憶が段々と鮮明に思い出せるようになった。巨人という存在、それと戦う自分、大好きな家族や恋人、共に闘った仲間というよいうな断片的な記憶しかもっていなかったのに、細かなことまで思い出せるようになった。昔の記憶を共有する仲間に出会ったからか、第二次成長期で脳の機能が向上したからか、理由は分からない。ただ、それは私にとってはとてつもない恐怖だった。その記憶は今の平和な世の中からは想像もつかないほど、あまりにも残酷なものだったから。狭くて窮屈な世界、巨人に脅える日々、自分の身代りに喰い殺される家族、家族を失った孤独、厳しい訓練、恐怖と闘い敵を討つ覚悟、厳しい現実、強大な力の前に一瞬で儚く消えていく仲間達の努力と夢と夢、そして、自分自身の最期。痛くて、苦しくて、恐ろしい記憶。
そんな恐ろしい記憶の中で唯一光り輝いていたものは、支えてくれる恋人の存在だった。どうしても心が挫けてしまいそうな時も、恐怖に押しつぶされそうな不安な夜も、彼がそばにいてくれるだけで勇気をもらえた。立ち向かう勇気、見送る勇気、生き残る勇気を。彼はまさしく私の希望で、生きる理由だった。
そんな彼が、今、再び現世で、私の手を取っている。二度と会えないだろうと思っていた彼は確かに私の目の前に存在していて、声が聞けて、体温を感じることができる。
オリヴィアの腕を掴んだまま無言でスタスタと歩き続けていたリヴァイは、やがて仮眠室と書かれた部屋に入った。簡易的なベッドがいくつか並んでいてカーテンで仕切ることもできるようになっているようなその部屋には誰もいない。普段からそんなに利用する人間は少ない部屋だが、誰もいない事にほっとした。バタンと閉まった扉の音がやけに重く聞こえた。
こんな日が来るなんて、思わなかった。・・・いや、ずっと探し求めていたのだが。それでも30年弱も何の手がかりも得られずに、半ば諦めかけていた所にこれだ。ずっと探していた彼女を実際に目の前にすると妙な緊張を覚えた。握った手首が、あの時代よりも細くなっている事がやけにリヴァイの胸を熱くさせた。
「・・・ペトラは、昔の記憶を覚えていない」
「え?・・・あ、そ、うなんですか」
沈黙が心地悪くて何とか絞り出した言葉に、オリヴィアは困惑したように答える。そりゃそうだ。なんだって一言目にそんな言葉なんだよ。わざわざ連れ出しておいてそんなことしか言えねえのかよ。情けねえ。
リヴァイは一度深呼吸をすると、握った手首を離さないまま近くのベッドに腰を下ろしてオリヴィアと向き合った。オリヴィアは俯き加減で視線を左右にうようよと泳がせ、リヴァイに掴まれていない方の手でスーツのスカートをギュッと握っている。昔のままの栗色の髪は、昔よりも随分と長そうで、後頭部でまとめられている。化粧っけの無かった昔と違い、きちんと化粧を施した年頃の若い娘。決して濃い化粧ではないが、昔よりもずっと垢ぬけていて素直に綺麗だと思った。まるで別人のように感じたが、それでも表情や仕草は変わらなくて目の前の彼女がずっと探し続けていた人物に違いないと確信させる。
「お前は、覚えているんだな?・・・オリヴィア」
「・・・はい」
「俺の事は」
そう問えばオリヴィアはずっと俯いていた顔を上げて互いの視線が絡み合い、俺の心臓が大きく鳴る。それからその小ぶりで柔らかそうな桜色の唇がゆっくりと動き出し、リヴァイは思わずごくりと生唾を呑んだ。
「・・・・・・はい。全部、覚えています。リヴァイ兵ちょ―――っ!!」
どうにかこうにか抑えていた欲望は、オリヴィアが自分の名を口にした途端に、どうしても抑えきれなくなった。強い力で握った腕を引きその身体を自分の腕の中に閉じ込めた。加減も出来ずに力任せに抱きしめればオリヴィアは腕の中で苦しそうな声を上げた。
「く、苦し、です・・・っ兵長!」
ふわりと鼻腔を擽る香りと、昔より筋肉が落ちて細く、しかし柔らかい身体。ずっと探し求めていた彼女に今確かに触れて声を聞いているということがひしひしと感じられて眩暈がするような激しい欲望がリヴァイを支配する。その欲望に抗うことなく、オリヴィアの甘い香りのする細く白い首筋に唇を這わせて優しい口付けを落とせば、抱きしめる身体がビクリと跳ねあがった。
「!?えっ!?ちょっと、や・・・っ!」
制止の声はかすれていて、リヴァイの身体を押し離すように入れられた腕の力は弱く簡単にねじ伏せられる。そんな小さな抵抗はむしろリヴァイを更に欲望に溺れさせた。その可愛い声をもっと聞きたい。今すぐに唇を奪い、組み敷き、鳴かせてやりたい。めちゃくちゃに抱いて、彼女の存在をもっと身体の芯から感じたい。
そんな衝動のままに首筋を吸い上げれば白い肌に映える紅い華が咲く。それを目に入れればゾクゾクと昇ってくる支配欲。続けざまに幾つか華を咲かせながら、彼女の後頭部に手を持っていきバレッタを外してキッチリと纏められた髪を解く。サラリと柔らかな髪は肩甲骨よりも少し下の辺りまで流れ、甘くて女らしい香りが強くなる。いい香りだ、たまんねえ。もはや理性は働かず本能のままに細い顎を持ち上げ、その柔らかそうな唇に吸いつこうと顔を近づけた。
「やめてってば!!!」
唇と唇が合わさるほんの直前、強い口調で叫ぶように拒絶の言葉が聞こえてリヴァイの動きがピタリと止まった。その言葉を放った彼女は鼻と鼻がくっつきそうな間近な距離で、鋭い瞳でリヴァイを睨みつけていた。
「離して下さい!!!」
涙なんて一つも浮かべず、頬を赤らめることも無く、ただただ拒絶の色を含んだ彼女の表情にリヴァイは困惑した。こんな強い口調での拒絶を向けられることなんて一度も無かった。というか彼女がこんな強い口調で物を言う場面を見たことがない。
あまりの衝撃に抱きしめる力が緩まり、その隙に腕の中からオリヴィアの身体がすり抜けた。腕を伸ばしても届かない位置まで離れたオリヴィアは冷たい視線でリヴァイをにらみ続けて警戒した体勢を取る。まるで対人格闘に挑むかのようなその姿勢は昔のままだ。
・・・何故だ、何故そこまで拒絶する必要がある。数十年待ち望んだ、自分の力では護り切れずに死に別れた恋人との再会に熱をもたない男がいてたまるか。こいつは嬉しくないっていうのか?いや、そんなはずがない。こいつは俺を愛していたはずだ。
「・・・やっぱり、全ては覚えてねえのか。俺とお前は・・・」
「いいえ、覚えてます。恋人・・・でした」
「・・・ならいいだろ。お前を抱きたい。今、すぐにだ」
「・・・いや、無理ですよ。私彼氏いるんで」
「あぁ!?」
オリヴィアの口から放たれた言葉にリヴァイは猛烈に怒りを感じた。しかし、何十年も彼女を見つけられなかった自分にも非はあるのだ。(それに、自分とてこの人生、女関係が皆無だったかと言えばそんなことはない・・・むしろ自暴自棄になって滅茶苦茶だった時代だってある)込みあがる怒りをぐっとこらえて感情が声に乗らないように冷静を装ってリヴァイはそれならと声を上げた。
「・・・分かった携帯出せ、今すぐ別れろ」
「はあ!?・・・なんでそんなこと」
「なんでじゃねえよ。そいつの存在が障害だって言うなら、そいつと別れりゃ問題なくなるだろ。お前が言いだしづらいってんなら俺が話付けてやってもいい」
そう、それなら問題ないはずだ。俺とオリヴィアは愛し合っているのだからそんな障害なら些細なものだ。俺とオリヴィアが再び同じ時代に同じ記憶を持ったまま生まれて再会した。その事実さえあれば、どんなものも越えられる。なぜならここに2人とも確かに存在して愛しあっているのだから。
しかし、オリヴィアは歪んだ顔を更に歪ませる。そんな顔は一度も見たことがない。そしてそんな表情からさらに紡がれる言葉にリヴァイは雷に打たれたような衝撃を受けるのだった。
「いやいや、何言ってんの?確かに昔は付き合ってたけど。そんな何百年も何千年も前の事なんて時効だし、言ったら元彼みたいなものでしょ?なんで元彼に今彼と別れろなんて言われなきゃいけないの?図々しいにもほどがある。そんな昔の女に再会して突然発情とか、猿かよ。本当、あんなに恰好良かったのに・・・綺麗な思い出だったのに・・・まじありえない。こんなことなら一生会いたくなかった。しかもこんな人が上司とか・・・最悪。」
その口調は、昔のしおらしいものとはかけ離れた、まさしく現代の若者といったもの。そしてその瞳は、まるでそこいらを這いつくばる害虫を見るかのような、軽蔑の眼差しだった。そこに恋慕の情などは塵ほどもこもっていなかった。
「よし、完璧!」
オリヴィア・カーティス22歳。無事に学生生活を終え、今日からは社会人として新たな一歩を踏み出す。ふうー、と深い呼吸をして、鏡の中の自分を見て頬をベチンと叩き気合いを入れて玄関を出た。
必死に就職活動をして内定をもらった企業は、正直に言ってかなりの有名企業だ。特に成績が優秀だった訳ではないのだが、努力と運で勝ち取った内定だ。友人には羨ましがられ、先輩には吐くまで酒を飲まされ、親なんて半分涙目で喜んでくれた。
就職を機に1人暮らしを始めた新しい自宅を出て、電車と徒歩で30分ほどの時間を掛けて着いた首が痛くなるほどに高くて綺麗で立派なビル。ここにこれから毎日通うのだ。入社することがゴールではなく、スタートなのだ。これからきっと今までに無い経験をしていくのだろうと思うと鼓動が早まり自然と足が止まってしまう。
周囲を見れば、自分と同じような緊張した面持ちの若い人たちがポツポツといる。ギュッと右手を拳にして左胸の前に宛がう。これは昔からの癖、だ。もっと昔は違う意味で行っていた仕草だが、緊張した時や落ち着きたい時にすれば自然と自信が漲ってくるのだ。そうして気分を落ち着けて、オリヴィアはその大きなビルに足を踏み入れた。
中に入ると受付の綺麗なお姉さんに入社式の会場へと案内された。そこには自分と同じようにピシッとしたスーツに身を包んだ若者たちが既に数十人いた。きょろきょろと周囲を見渡しつつ、空いている席に着いた。オリヴィアが席についた後も続々と新入社員が入室してくる。席が隣になった優しそうな女の子と小声で話しているうちにあっという間に席が埋まっていき、決められた時間通りに入社式は始まった。
長い入社式が終了し、そのあとは今後実際に勤めることになる部署ごとに分かれて簡単な会社説明や自己紹介に移った。オリヴィアと同じ部署に勤めるらしい人は男2人と女2人の4人だった。軽く挨拶を交わしあい彼達と共に先輩の後に付いて移動した。
到着したその部屋には30人ほどの人達がいた。オリヴィアと似たような年代の人からお父さんのような年齢の人まで、様々な人がきびきびと働いている。その妙に張り詰めた空気に緊張していると、連れ添ってくれていた先輩が「新入社員さん連れてきました」と大きな声で言った。するとさっきまで仕事をしていた人たちの視線がこちらに集まった。自然と背筋が伸びる。
「とりあえず自己紹介か」
「・・・あれ、課長は?」
「あ、今ちょっと席はずしてますね。すぐ戻ってくるって言ってましたよ」
「じゃあもうちょい待ってからだな」
怖そうな人もいるが、思っていたよりもずっと柔らかな空気にほっとしていると先程オリヴィア達が入ってきたドアが開く。それと共に聞こえてくる声にドキンと心臓が高鳴る。それは、ずっとずっと昔に聞いた懐かしい声。恐る恐る後ろを振り返れば、そこには成人男性にしては随分小柄な眉間に皺を寄せる人物。オリヴィアの手から鞄が滑り落ち、ドサリ、という音が響いた。
「―――リヴァイ・・・へい、ちょう・・・・・・」
聞こえるか聞こえないかというような小さなオリヴィアの呟きに、当の本人は過敏に反応を示した。昔と変わらないその小さく端正な顔を上げて鋭い瞳がオリヴィアの視線と交差すれば、彼の瞳が大きく見開かれた。まるで時が止まったかのように身動きが取れなくなってしまった。それは目の前の彼も同じようで、しばらく2人の視線が絡まりあったままだった。突然会話を止めて身動きを取らなくなった男性に、彼と一緒に室内に入ってきた部下と思われる女性が不思議そうに声を掛けた。
「?リヴァイ課長、どうかされました?」
「・・・いや・・・・・・」
オリヴィアは彼の一挙手一投足から目を離せずに固まっていた。彼と私は間違いなく初対面だ。しかし、私は彼を知っている。ずっとずっと、はるか遠い昔から。部下に声を掛けられた彼は気まずそうに目を逸らし話も戻そうとした様子だったが、何かを考えるように無言になった後、オリヴィアを再びその視線で射抜いた。
「・・・こいつ、顔色が悪いな」
「え?・・・あ、本当ですね。大丈夫?緊張しちゃったのかな。私、休憩室に連れていきますね」
「いや、俺が行く」
「え?いや、いいですよそんな!私が行きます!」
「お前は新人研修を頼む。俺みたいな愛想の無い男よりもお前の方が新人は安心するだろ。とにかく、こいつはおれが連れていく」
「そ、そうですか?でも・・・」
ちらりとこちらに心配そうな視線を向けた女の人の顔を見て、再びオリヴィアは目を見開いた。向日葵のような髪の美人な彼女は・・・間違いない、オリヴィアが昔憧れていた・・・
「ペ・・・」
「いくぞ、ついてこい」
小さく声を上げかけた時、腕を取られて半ば強引に部屋を連れ出された。前を歩く人物は、自分とそれほど変わらない身長で、皺ひとつない清潔なスーツを身につけ、綺麗にかられたツーブロックの黒い髪。そのどれもが懐かしかった。ただ、私の腕をとる掌には昔のような歪で硬すぎる肉刺は無く、何故だか酷く泣きたくなった。
夫婦仲の良い穏やかな性格の両親を持ち、平凡な家庭で、運動神経だけは良かったが後はごく平凡な成績を残してきた。人並な恋愛を経験して、友人たちもいて、おおよそ平凡な生活を送ってきたオリヴィアだが、たった一つだけ、普通の人とは違う点があった。
それは、“前世の記憶をもっている”ということ―――。
はるか昔、歴史で習うような時代に私は生きていた。今と同じ容姿と名前を持って。その時代には巨人と言う人類の天敵が世界のヒエラルキーの頂点に立っていた。そしてオリヴィアはその巨人と戦う兵士だった。圧倒的な力の差のある人類と巨人。それでも立ち向かわねばならなかった。兵士であったオリヴィアは王に心臓を捧げ、自分の自由などほとんどなく、自分の未来よりも人類栄光の未来だけを夢見て戦っていた。
そんな前世の記憶を持っているおかげで、両親からは未だに“あなたは小さい頃はよく不思議な話をしていた、お化けでも見えていたのかしらね”と言われる。今は存在しないどころか正式な歴史として語られている訳でもない、言わばお伽噺のような存在。そんなことを口走り、会ったことも無い人の名を親しげに語り、どこで覚えたのかも分からないようなことをべらべらと喋る。
しかし、それは決しておとぎ話でも、妄想でも、テレビで見たお話でも、お化けが見えていた訳でもない。私は確かにそれを知覚していた。知覚・・・というよりも実際にこの目で見ていたような記憶さえある。自分が今よりも大人だった記憶もある。酷く恐ろしい夢を見て眠れなかったこともある。だけど、そんなことを話すのも、知っているのも、自分だけだった。周囲にそんな人はいなかった。
それがおかしい事だと気付いたのは小学生の高学年の頃だっただろうか。私が必死にそのことを話せば話す程、周囲は私をおかしい子と言った。そうして“ああ、人と違うことを言えば頭のおかしい人だと思われるんだ。皆が知らないことを知っている私の方がおかしいんだ”と思うようになり、私は前世の記憶について口に出すことをやめた。それでも忘れようと思っても忘れられるものではなかったし、夢にも出てくる。周囲の子供達と話を合わせながら1人心の中で悶々と悩む日々を送っていた。それが何なのかが分からず、自分は本当に頭がおかしいのかと思っていた。
それが確かに前世の記憶であると確信したのは、12歳の時の事だ。中学に上がり、今までよりも多くの学友と過ごすことになったオリヴィアは、幻だと思いこませていた記憶の中で同期として共に戦ったエレン、ミカサ、アルミンと出会ったのだ。初めて彼らを見たときは本当に驚愕した。彼らもオリヴィアを見て驚いていたが、オリヴィアの驚きの方がすさまじかっただろう。彼らはこの時代でも幼馴染で生まれてきて、鮮明さは違うものの皆昔の記憶を持っていた。次第にそういう記憶を持っているのは自分たちしかいないこと、それは前世の記憶であることに気付いていったのだ。しかし、オリヴィアは違う。今まで自分と同じような記憶を持っている人物に出会ったことはなかった。周囲におかしいと言われて、自分がおかしいのだと信じ込んでしまっていた。記憶を共有する戦友と再会し、今まで幻だと思い込ませていた記憶は確かに私の記憶だったのだ。
その頃から曇りがかっていたような過去の記憶が段々と鮮明に思い出せるようになった。巨人という存在、それと戦う自分、大好きな家族や恋人、共に闘った仲間というよいうな断片的な記憶しかもっていなかったのに、細かなことまで思い出せるようになった。昔の記憶を共有する仲間に出会ったからか、第二次成長期で脳の機能が向上したからか、理由は分からない。ただ、それは私にとってはとてつもない恐怖だった。その記憶は今の平和な世の中からは想像もつかないほど、あまりにも残酷なものだったから。狭くて窮屈な世界、巨人に脅える日々、自分の身代りに喰い殺される家族、家族を失った孤独、厳しい訓練、恐怖と闘い敵を討つ覚悟、厳しい現実、強大な力の前に一瞬で儚く消えていく仲間達の努力と夢と夢、そして、自分自身の最期。痛くて、苦しくて、恐ろしい記憶。
そんな恐ろしい記憶の中で唯一光り輝いていたものは、支えてくれる恋人の存在だった。どうしても心が挫けてしまいそうな時も、恐怖に押しつぶされそうな不安な夜も、彼がそばにいてくれるだけで勇気をもらえた。立ち向かう勇気、見送る勇気、生き残る勇気を。彼はまさしく私の希望で、生きる理由だった。
そんな彼が、今、再び現世で、私の手を取っている。二度と会えないだろうと思っていた彼は確かに私の目の前に存在していて、声が聞けて、体温を感じることができる。
オリヴィアの腕を掴んだまま無言でスタスタと歩き続けていたリヴァイは、やがて仮眠室と書かれた部屋に入った。簡易的なベッドがいくつか並んでいてカーテンで仕切ることもできるようになっているようなその部屋には誰もいない。普段からそんなに利用する人間は少ない部屋だが、誰もいない事にほっとした。バタンと閉まった扉の音がやけに重く聞こえた。
こんな日が来るなんて、思わなかった。・・・いや、ずっと探し求めていたのだが。それでも30年弱も何の手がかりも得られずに、半ば諦めかけていた所にこれだ。ずっと探していた彼女を実際に目の前にすると妙な緊張を覚えた。握った手首が、あの時代よりも細くなっている事がやけにリヴァイの胸を熱くさせた。
「・・・ペトラは、昔の記憶を覚えていない」
「え?・・・あ、そ、うなんですか」
沈黙が心地悪くて何とか絞り出した言葉に、オリヴィアは困惑したように答える。そりゃそうだ。なんだって一言目にそんな言葉なんだよ。わざわざ連れ出しておいてそんなことしか言えねえのかよ。情けねえ。
リヴァイは一度深呼吸をすると、握った手首を離さないまま近くのベッドに腰を下ろしてオリヴィアと向き合った。オリヴィアは俯き加減で視線を左右にうようよと泳がせ、リヴァイに掴まれていない方の手でスーツのスカートをギュッと握っている。昔のままの栗色の髪は、昔よりも随分と長そうで、後頭部でまとめられている。化粧っけの無かった昔と違い、きちんと化粧を施した年頃の若い娘。決して濃い化粧ではないが、昔よりもずっと垢ぬけていて素直に綺麗だと思った。まるで別人のように感じたが、それでも表情や仕草は変わらなくて目の前の彼女がずっと探し続けていた人物に違いないと確信させる。
「お前は、覚えているんだな?・・・オリヴィア」
「・・・はい」
「俺の事は」
そう問えばオリヴィアはずっと俯いていた顔を上げて互いの視線が絡み合い、俺の心臓が大きく鳴る。それからその小ぶりで柔らかそうな桜色の唇がゆっくりと動き出し、リヴァイは思わずごくりと生唾を呑んだ。
「・・・・・・はい。全部、覚えています。リヴァイ兵ちょ―――っ!!」
どうにかこうにか抑えていた欲望は、オリヴィアが自分の名を口にした途端に、どうしても抑えきれなくなった。強い力で握った腕を引きその身体を自分の腕の中に閉じ込めた。加減も出来ずに力任せに抱きしめればオリヴィアは腕の中で苦しそうな声を上げた。
「く、苦し、です・・・っ兵長!」
ふわりと鼻腔を擽る香りと、昔より筋肉が落ちて細く、しかし柔らかい身体。ずっと探し求めていた彼女に今確かに触れて声を聞いているということがひしひしと感じられて眩暈がするような激しい欲望がリヴァイを支配する。その欲望に抗うことなく、オリヴィアの甘い香りのする細く白い首筋に唇を這わせて優しい口付けを落とせば、抱きしめる身体がビクリと跳ねあがった。
「!?えっ!?ちょっと、や・・・っ!」
制止の声はかすれていて、リヴァイの身体を押し離すように入れられた腕の力は弱く簡単にねじ伏せられる。そんな小さな抵抗はむしろリヴァイを更に欲望に溺れさせた。その可愛い声をもっと聞きたい。今すぐに唇を奪い、組み敷き、鳴かせてやりたい。めちゃくちゃに抱いて、彼女の存在をもっと身体の芯から感じたい。
そんな衝動のままに首筋を吸い上げれば白い肌に映える紅い華が咲く。それを目に入れればゾクゾクと昇ってくる支配欲。続けざまに幾つか華を咲かせながら、彼女の後頭部に手を持っていきバレッタを外してキッチリと纏められた髪を解く。サラリと柔らかな髪は肩甲骨よりも少し下の辺りまで流れ、甘くて女らしい香りが強くなる。いい香りだ、たまんねえ。もはや理性は働かず本能のままに細い顎を持ち上げ、その柔らかそうな唇に吸いつこうと顔を近づけた。
「やめてってば!!!」
唇と唇が合わさるほんの直前、強い口調で叫ぶように拒絶の言葉が聞こえてリヴァイの動きがピタリと止まった。その言葉を放った彼女は鼻と鼻がくっつきそうな間近な距離で、鋭い瞳でリヴァイを睨みつけていた。
「離して下さい!!!」
涙なんて一つも浮かべず、頬を赤らめることも無く、ただただ拒絶の色を含んだ彼女の表情にリヴァイは困惑した。こんな強い口調での拒絶を向けられることなんて一度も無かった。というか彼女がこんな強い口調で物を言う場面を見たことがない。
あまりの衝撃に抱きしめる力が緩まり、その隙に腕の中からオリヴィアの身体がすり抜けた。腕を伸ばしても届かない位置まで離れたオリヴィアは冷たい視線でリヴァイをにらみ続けて警戒した体勢を取る。まるで対人格闘に挑むかのようなその姿勢は昔のままだ。
・・・何故だ、何故そこまで拒絶する必要がある。数十年待ち望んだ、自分の力では護り切れずに死に別れた恋人との再会に熱をもたない男がいてたまるか。こいつは嬉しくないっていうのか?いや、そんなはずがない。こいつは俺を愛していたはずだ。
「・・・やっぱり、全ては覚えてねえのか。俺とお前は・・・」
「いいえ、覚えてます。恋人・・・でした」
「・・・ならいいだろ。お前を抱きたい。今、すぐにだ」
「・・・いや、無理ですよ。私彼氏いるんで」
「あぁ!?」
オリヴィアの口から放たれた言葉にリヴァイは猛烈に怒りを感じた。しかし、何十年も彼女を見つけられなかった自分にも非はあるのだ。(それに、自分とてこの人生、女関係が皆無だったかと言えばそんなことはない・・・むしろ自暴自棄になって滅茶苦茶だった時代だってある)込みあがる怒りをぐっとこらえて感情が声に乗らないように冷静を装ってリヴァイはそれならと声を上げた。
「・・・分かった携帯出せ、今すぐ別れろ」
「はあ!?・・・なんでそんなこと」
「なんでじゃねえよ。そいつの存在が障害だって言うなら、そいつと別れりゃ問題なくなるだろ。お前が言いだしづらいってんなら俺が話付けてやってもいい」
そう、それなら問題ないはずだ。俺とオリヴィアは愛し合っているのだからそんな障害なら些細なものだ。俺とオリヴィアが再び同じ時代に同じ記憶を持ったまま生まれて再会した。その事実さえあれば、どんなものも越えられる。なぜならここに2人とも確かに存在して愛しあっているのだから。
しかし、オリヴィアは歪んだ顔を更に歪ませる。そんな顔は一度も見たことがない。そしてそんな表情からさらに紡がれる言葉にリヴァイは雷に打たれたような衝撃を受けるのだった。
「いやいや、何言ってんの?確かに昔は付き合ってたけど。そんな何百年も何千年も前の事なんて時効だし、言ったら元彼みたいなものでしょ?なんで元彼に今彼と別れろなんて言われなきゃいけないの?図々しいにもほどがある。そんな昔の女に再会して突然発情とか、猿かよ。本当、あんなに恰好良かったのに・・・綺麗な思い出だったのに・・・まじありえない。こんなことなら一生会いたくなかった。しかもこんな人が上司とか・・・最悪。」
その口調は、昔のしおらしいものとはかけ離れた、まさしく現代の若者といったもの。そしてその瞳は、まるでそこいらを這いつくばる害虫を見るかのような、軽蔑の眼差しだった。そこに恋慕の情などは塵ほどもこもっていなかった。
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