[ジョーチェリ]泊まっていいの/合いかぎ
「……帰る」
「え、もう遅いぜ」
「だから帰ると言っているんだ」
薫はカウンターに手をつき、ふら、とその場に立ち上がった。袂から財布を取りだそうとしている。守銭奴眼鏡め、なんだかんだ律儀に払っていくつもりらしい。
頬は赤く、酒に強いとはいえ、多少は酔っている。時刻は真上を指しそうになっており、おれはてっきり、このままおれの部屋になだれ込んでもうひとびんあけるものとばかり思っていた。
「明日、休みだって言ってたろ。泊まっていけばいいじゃねえか」
なんとなく別れるのが惜しく、そう尋ねれば、薫は両目をふせたままかぶりを振った。なんとしても帰るらしい。ちぇ、と思っておれは小さく息をつく。
「じゃあ、送っていくから待ってろ」
「ばか、いい。おんな子どもじゃないんだ」
お前も疲れているだろう、じゃあな、と小さくつぶやき、薫は片手を挙げて店を出た。
「……」
残されたおれはしばし厨房に立ったまま逡巡していたが、意を決してエプロンをはぎ取った。
「おい! 薫」
夜目にもはっきりとわかる桜色を認め、呼び止める。薫は立ち止まって振り返った。
「……なんだ、忘れものでも、」
「ああ。キス、忘れてったろ」
「な、」
なにを、色情魔、と頬を染めながら、薫は回らないろれつで罵倒する。
「冗談だって。……おれが。もう少し薫といたいの。だから家まで、送ってっていいか」
薫は驚いたように両目を見開き、少し迷うようなそぶりを見せたが、小さくうなずいた。
それからたわいもない話やいつもの小突きあいをしながら、桜屋敷邸までの道をふたりで歩いた。その間、気づかれぬよう、それとなく薫の様子をうかがっていたのだが、別段ひどく酔っているわけでも、体調が悪いわけでもなさそうだった。なんだよ、だったらなんで帰っちゃうんだよ。とちょっとおもしろくない気でもいた。そうこうしているうちに達筆な、桜屋敷書庵の文字が見えてきてしまう。
玄関前で足をとめ、薫はふりかえっておれを見上げた。
「……じゃあ、」
「ん、」
カーラ、開けてくれ、と何やらかっこいい方法で開錠をする薫をぼんやりと見ながら、ずっとひっかかっていたことを言うべきか言うまいか、考えていた。
「……なあ、薫」
「……?」
家に入ってしまう前に、やはり呼び止めた。どうしても気になることがある。
「どうして、最近泊まっていかないんだ。前はよく上がり込んでたくせに。たまにはうちこいよ。……休みがあうときとかさ」
昔は、互いに休みであろうがなかろうが、泊まっていったこともあったのに。もっと気安い中だろう。一抹のさびしさをにじませて、譲歩する。
すると、薫は両眉を上げて、それからぽぽぽ、と頬を染めた。うつむき、口元に閉じた扇子を寄せて何やらぼそぼそつぶやいている。
「……? 薫?」
「……に」
「うん? なに?」
「……前のように! とはいかないだろう……」
おれには、まだ心の準備が、と真っ赤な顔でいわれ、ようやく合点がいった。
「かおるっ……!」
「っ!」
思わず腕をつかんでひきよせ、瘦身をぎゅっと抱きしめてしまう。
「……離せ」
「おまえ、だから、うちこなかったの」
「……」
無言の肯定だった。遠慮がちに、シャツの裾をしたからそっとつかまれる。
「そりゃ、そりゃおまえ、おれは今すぐ薫をうちに連れかえって、すみずみまでキスしてなめまわしたいよ。準備万端だよ」
「なっ……! 離せ、離せ変態ゴリラ!」
足払いをされ、抱きしめていた腕をそっとゆるめる。わずかに互いの間に距離ができ、薫は真っ赤な顔でこちらをにらんでいた。怒りでか羞恥でか、顔がぷるぷると震えていた。
「けど、薫とまだ話し合いもしてないのに、勝手にそんなことするわけないだろ。おまえの嫌がることは、しないよ」
薫は驚いたようにおれを見上げ、眉を下げた。
「っ……、いやとは、」
「え、いいの」
いいとも言っていない、くそごりら、とまた罵倒と肘鉄がとんでくる。いたいって、と笑えば、薫も安堵したように息をついた。
「薫が考えてくれてたの、うれしい。けど、おれに遠慮することねえんだって。薫さえよければ、いつも通りうちきて、酒飲んで、一緒に眠ろうぜ」
な、とウインクすれば、たらしゴリラめ、そうやっておんなをうまいことたらしこんできたんだな、とにらまれる。ばれたか、と頬をかいたが、こんなことを言って口説いたことは、これまで一度もなかった。
「……でもほんとだぜ。おれたちは恋人だけど、そのまえに、だちだろ」
「……ん、」
じゃあな、今日はよく休めよ、と手をふれば、薫はもう一度うなずいた。戸を閉める直前、虎次郎、と呼ばれる。
「ありがとう、な」
よせよ、なんとかしてお前を連れこもうとこっちは必死なんだから、と茶化せば、ぴしゃり、と無情にも戸が閉まった。はは、台無し、と一人笑い、踵を返す。
かっこつけすぎたかな、とも思う。たしかに、生殺しはつらい。おれの服を着て、おれのベッドで眠る薫に、そうだ、目の前にごちそうがあるのに、理性を総動員しなければならないのだから。けれど。ろくに話し合いもせぬままうやむやになって、互いによそよそしくなるのだけはいやだった。薫への長く重い片想いをこじらせてしまった自覚はある。けれど、それと同じくらい、否、もしかしたらそれ以上に、友として、薫を愛しているつもりだった。ただ、好きだった。
「複雑なんだよなあ、おれたち」
ありふれた恋愛ではないように思う。おとこ同士だから、というよりも、やはり幼馴染で、腐れ縁で、じつは親友だ。だから、そこに含まれる感情はひとことで言い表しにくい。
『こじろう』
『ん』
『恋人になっても、』
あのとき。おれの告白を受け入れたあの日。薫は途中までいいかけて、なんでもない、とやめてしまった。おれにはその先がわかってしまった。恋人になって、キスをして、セックスをするようになっても。万一。考えたくはないが、万が一、この関係がやっぱりだめだとなったとしても。それでも、一生、友ではいてくれるかと。そう言いたかったのだろう。一度関係がこじれてしまえば、はいまた元どおり、なんてそんな簡単でないことはわかっている。けれども、子どもじみた発想だとわかってはいても、願わずにいられない。
痛いほどに気持ちがわかった。おれだって同じだから。
「……こええよな、薫」
強引さが信条なんて、我ながら笑わせる。こればかりは、イタリアにまでいって磨いた料理の腕も、鍛えた胸筋も腹筋も、役に立ってはくれないのだった。
「え、もう遅いぜ」
「だから帰ると言っているんだ」
薫はカウンターに手をつき、ふら、とその場に立ち上がった。袂から財布を取りだそうとしている。守銭奴眼鏡め、なんだかんだ律儀に払っていくつもりらしい。
頬は赤く、酒に強いとはいえ、多少は酔っている。時刻は真上を指しそうになっており、おれはてっきり、このままおれの部屋になだれ込んでもうひとびんあけるものとばかり思っていた。
「明日、休みだって言ってたろ。泊まっていけばいいじゃねえか」
なんとなく別れるのが惜しく、そう尋ねれば、薫は両目をふせたままかぶりを振った。なんとしても帰るらしい。ちぇ、と思っておれは小さく息をつく。
「じゃあ、送っていくから待ってろ」
「ばか、いい。おんな子どもじゃないんだ」
お前も疲れているだろう、じゃあな、と小さくつぶやき、薫は片手を挙げて店を出た。
「……」
残されたおれはしばし厨房に立ったまま逡巡していたが、意を決してエプロンをはぎ取った。
「おい! 薫」
夜目にもはっきりとわかる桜色を認め、呼び止める。薫は立ち止まって振り返った。
「……なんだ、忘れものでも、」
「ああ。キス、忘れてったろ」
「な、」
なにを、色情魔、と頬を染めながら、薫は回らないろれつで罵倒する。
「冗談だって。……おれが。もう少し薫といたいの。だから家まで、送ってっていいか」
薫は驚いたように両目を見開き、少し迷うようなそぶりを見せたが、小さくうなずいた。
それからたわいもない話やいつもの小突きあいをしながら、桜屋敷邸までの道をふたりで歩いた。その間、気づかれぬよう、それとなく薫の様子をうかがっていたのだが、別段ひどく酔っているわけでも、体調が悪いわけでもなさそうだった。なんだよ、だったらなんで帰っちゃうんだよ。とちょっとおもしろくない気でもいた。そうこうしているうちに達筆な、桜屋敷書庵の文字が見えてきてしまう。
玄関前で足をとめ、薫はふりかえっておれを見上げた。
「……じゃあ、」
「ん、」
カーラ、開けてくれ、と何やらかっこいい方法で開錠をする薫をぼんやりと見ながら、ずっとひっかかっていたことを言うべきか言うまいか、考えていた。
「……なあ、薫」
「……?」
家に入ってしまう前に、やはり呼び止めた。どうしても気になることがある。
「どうして、最近泊まっていかないんだ。前はよく上がり込んでたくせに。たまにはうちこいよ。……休みがあうときとかさ」
昔は、互いに休みであろうがなかろうが、泊まっていったこともあったのに。もっと気安い中だろう。一抹のさびしさをにじませて、譲歩する。
すると、薫は両眉を上げて、それからぽぽぽ、と頬を染めた。うつむき、口元に閉じた扇子を寄せて何やらぼそぼそつぶやいている。
「……? 薫?」
「……に」
「うん? なに?」
「……前のように! とはいかないだろう……」
おれには、まだ心の準備が、と真っ赤な顔でいわれ、ようやく合点がいった。
「かおるっ……!」
「っ!」
思わず腕をつかんでひきよせ、瘦身をぎゅっと抱きしめてしまう。
「……離せ」
「おまえ、だから、うちこなかったの」
「……」
無言の肯定だった。遠慮がちに、シャツの裾をしたからそっとつかまれる。
「そりゃ、そりゃおまえ、おれは今すぐ薫をうちに連れかえって、すみずみまでキスしてなめまわしたいよ。準備万端だよ」
「なっ……! 離せ、離せ変態ゴリラ!」
足払いをされ、抱きしめていた腕をそっとゆるめる。わずかに互いの間に距離ができ、薫は真っ赤な顔でこちらをにらんでいた。怒りでか羞恥でか、顔がぷるぷると震えていた。
「けど、薫とまだ話し合いもしてないのに、勝手にそんなことするわけないだろ。おまえの嫌がることは、しないよ」
薫は驚いたようにおれを見上げ、眉を下げた。
「っ……、いやとは、」
「え、いいの」
いいとも言っていない、くそごりら、とまた罵倒と肘鉄がとんでくる。いたいって、と笑えば、薫も安堵したように息をついた。
「薫が考えてくれてたの、うれしい。けど、おれに遠慮することねえんだって。薫さえよければ、いつも通りうちきて、酒飲んで、一緒に眠ろうぜ」
な、とウインクすれば、たらしゴリラめ、そうやっておんなをうまいことたらしこんできたんだな、とにらまれる。ばれたか、と頬をかいたが、こんなことを言って口説いたことは、これまで一度もなかった。
「……でもほんとだぜ。おれたちは恋人だけど、そのまえに、だちだろ」
「……ん、」
じゃあな、今日はよく休めよ、と手をふれば、薫はもう一度うなずいた。戸を閉める直前、虎次郎、と呼ばれる。
「ありがとう、な」
よせよ、なんとかしてお前を連れこもうとこっちは必死なんだから、と茶化せば、ぴしゃり、と無情にも戸が閉まった。はは、台無し、と一人笑い、踵を返す。
かっこつけすぎたかな、とも思う。たしかに、生殺しはつらい。おれの服を着て、おれのベッドで眠る薫に、そうだ、目の前にごちそうがあるのに、理性を総動員しなければならないのだから。けれど。ろくに話し合いもせぬままうやむやになって、互いによそよそしくなるのだけはいやだった。薫への長く重い片想いをこじらせてしまった自覚はある。けれど、それと同じくらい、否、もしかしたらそれ以上に、友として、薫を愛しているつもりだった。ただ、好きだった。
「複雑なんだよなあ、おれたち」
ありふれた恋愛ではないように思う。おとこ同士だから、というよりも、やはり幼馴染で、腐れ縁で、じつは親友だ。だから、そこに含まれる感情はひとことで言い表しにくい。
『こじろう』
『ん』
『恋人になっても、』
あのとき。おれの告白を受け入れたあの日。薫は途中までいいかけて、なんでもない、とやめてしまった。おれにはその先がわかってしまった。恋人になって、キスをして、セックスをするようになっても。万一。考えたくはないが、万が一、この関係がやっぱりだめだとなったとしても。それでも、一生、友ではいてくれるかと。そう言いたかったのだろう。一度関係がこじれてしまえば、はいまた元どおり、なんてそんな簡単でないことはわかっている。けれども、子どもじみた発想だとわかってはいても、願わずにいられない。
痛いほどに気持ちがわかった。おれだって同じだから。
「……こええよな、薫」
強引さが信条なんて、我ながら笑わせる。こればかりは、イタリアにまでいって磨いた料理の腕も、鍛えた胸筋も腹筋も、役に立ってはくれないのだった。
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