[重舳]SS
もう、10年ほども前の話になる。当時の船中の四功のひとりがめでたく妻を娶ることとなり、婚礼の儀とは別に水軍内でも祝賀の宴がひらかれる次第となった。その日は締まりのない笑顔で浮かれる新郎を小突きながら、皆仕事もそこそこに宴会の準備に勤しんでいた。
「重……?」
夜はうまい飯が食えると見習い水夫の子どもらが浜辺ではしゃいでいる。しかしその中に舳丸の、自らの弟分の姿が見えない。こういう日は大人たちも大目に見るのを知っている重なら、すでに手伝いのさぼりを決め込んで海に潜っているものと思っていたのだが、いったいどこへいったものか。
「おおい、舳丸! ちょっと来てくれ!」
蜉蝣に呼ばれ、舳丸は急いでそちらへ向かう。祝いの席に欠かせない貝類の水揚げの手が足りないとのことだった。
「すまないがお前もいって、水練の連中を手伝ってやってくれないか」
「はい」
「そうだ、重のやつも連れていけばいい。あいつ喜ぶだろうから」
「それが、さっきから重が見当たらないんです」
「なに?」
まさか重に限ってありえないとは思うが、何かあってからでは遅い。貝はいいから、先に重を探してくれと頼まれた。
「重」
姿が見えないとはいえ、この海岸で行くところなどたかが知れている。せいぜい、蔵か、櫓か。はたまた腹でも壊して厠にでもいるのだろうか。泣くわ風邪はひくわ、手のかかる子どもなのである。しかしすぐに、その心配は無用だということがわかった。
「……こんなところにいたのか」
伸ばしかけだが一生懸命に括った、少しくせのある髪。蔵の裏でうずくまり、自らの両腕に顔をうずめている。自らもその横に腰を下ろした。
「蜉蝣の兄貴が心配していた」
やはり腹でも痛いのか。返事もよこさぬ弟分をのぞき込めば、右手に小さな網を握りしめている。
「蛤じゃないか。お前、気が利くな」
蛤の対の殻は唯一無二であり、それゆえ婚礼の席では縁起がよいとされている。齢7つにしてそんなことも知っているとは、ずいぶん風流だなと舳丸はのんきなことを思った。これは義丸の兄貴も顔負けの誑しになるかもしれない。
「……みよしまるのあにき」
「! しげ、」
おもむろに上げられた重の顔を見て、舳丸は驚いてしまった。涙でぐちゃぐちゃだったのである。
「あにき、舳丸のあにきも、いつか、おむこにいっちゃうの」
丸い、大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。ああ、そんなことを気にかけていたのか。自らの小袖を引っ張り、びしょびしょの重の顔を拭ってやる。
「重。お嫁をもらうことは、なにも今生の別れじゃない。兄貴は所帯をもっても、おれたちの兄貴であることに変わりないよ」
重はふるふると顔を左右にふる。
「おれ、知ってるよ。およめをもらうと、次にややこができるんだ。舳丸の兄貴にややができたら、おれのことなんてどうでもよくなっちゃうんだ」
何たる想像力。舳丸ですらそこまで考えたことはなかった。一瞬、返すことばを失ってしまう。
「……重が嫌がるなら、おれは所帯をもたないよ」
気休めのようなことを言ってしまったが、実際、自分が妻を娶る姿など想像もできない。これで泣き止んだかと思われたが、重は小首をかしげて顔をしかめた。まだ不満があるらしい。
「それじゃ、兄貴がふしあわせだ」
唇を尖らせ、名案がないものかと真剣に悩みだす。やさしい子なのだな。そんな難しいこと、6つも年上の自分でさえ考えが及ばない。さてどんな折衷案をひねり出すかと思えば。
「決めた。おれが兄貴のおよめになればいいんだ」
これ以上の案はないだろうと得意げに目を輝かせる。ああ、どこからその間違いを訂正してやればよいやら。口下手の舳丸は、教えるということが苦手だ。泳ぎ方ひとつだってまともに教えられない。重の恵まれた才能に、日々大いに助けられている。
「……それはだめだ」
「どうして。兄貴は、おれがおよめになるのいや?」
せっかく泣き止んだところだったのに、またうっかり泣かせてしまっては元も子もない。
「重、お前は兄貴みたく、お前がお嫁をもらうんだ」
「じゃあいいよ。舳丸の兄貴がおれのおよめさんになって!」
*
「……ことだまって、こわいな」
「何か言いました、兄貴?」
「いや、気にするな」
あのとき、満面の笑みで抱きついてきた重をまた否定するのは酷で、まぁいいかとうなずいてしまったのだった。いずれ大人になればこんな口約束は忘れてしまうし、何より決定的な間違いにも気づくだろう。その妥協がいけなかった。あのとききっちり教えておくべきであった。あのときの可愛さはいったいどこへいってしまったのか、自らを敷布に組み敷く、すっかり大きくなってしまった弟分を見上げる。明るい色の、大きな瞳は変わらない。しかしその奥に宿る情欲は、あの頃の彼にはなかったものだ。
「……お前、おれのお嫁になるんじゃなかったのか」
「何言ってるんですか。兄貴がおれのお嫁になる約束だったでしょう」
まさかおぼえているとは思わなんだな。
「重……?」
夜はうまい飯が食えると見習い水夫の子どもらが浜辺ではしゃいでいる。しかしその中に舳丸の、自らの弟分の姿が見えない。こういう日は大人たちも大目に見るのを知っている重なら、すでに手伝いのさぼりを決め込んで海に潜っているものと思っていたのだが、いったいどこへいったものか。
「おおい、舳丸! ちょっと来てくれ!」
蜉蝣に呼ばれ、舳丸は急いでそちらへ向かう。祝いの席に欠かせない貝類の水揚げの手が足りないとのことだった。
「すまないがお前もいって、水練の連中を手伝ってやってくれないか」
「はい」
「そうだ、重のやつも連れていけばいい。あいつ喜ぶだろうから」
「それが、さっきから重が見当たらないんです」
「なに?」
まさか重に限ってありえないとは思うが、何かあってからでは遅い。貝はいいから、先に重を探してくれと頼まれた。
「重」
姿が見えないとはいえ、この海岸で行くところなどたかが知れている。せいぜい、蔵か、櫓か。はたまた腹でも壊して厠にでもいるのだろうか。泣くわ風邪はひくわ、手のかかる子どもなのである。しかしすぐに、その心配は無用だということがわかった。
「……こんなところにいたのか」
伸ばしかけだが一生懸命に括った、少しくせのある髪。蔵の裏でうずくまり、自らの両腕に顔をうずめている。自らもその横に腰を下ろした。
「蜉蝣の兄貴が心配していた」
やはり腹でも痛いのか。返事もよこさぬ弟分をのぞき込めば、右手に小さな網を握りしめている。
「蛤じゃないか。お前、気が利くな」
蛤の対の殻は唯一無二であり、それゆえ婚礼の席では縁起がよいとされている。齢7つにしてそんなことも知っているとは、ずいぶん風流だなと舳丸はのんきなことを思った。これは義丸の兄貴も顔負けの誑しになるかもしれない。
「……みよしまるのあにき」
「! しげ、」
おもむろに上げられた重の顔を見て、舳丸は驚いてしまった。涙でぐちゃぐちゃだったのである。
「あにき、舳丸のあにきも、いつか、おむこにいっちゃうの」
丸い、大きな瞳からぼろぼろと大粒の涙がこぼれ落ちる。ああ、そんなことを気にかけていたのか。自らの小袖を引っ張り、びしょびしょの重の顔を拭ってやる。
「重。お嫁をもらうことは、なにも今生の別れじゃない。兄貴は所帯をもっても、おれたちの兄貴であることに変わりないよ」
重はふるふると顔を左右にふる。
「おれ、知ってるよ。およめをもらうと、次にややこができるんだ。舳丸の兄貴にややができたら、おれのことなんてどうでもよくなっちゃうんだ」
何たる想像力。舳丸ですらそこまで考えたことはなかった。一瞬、返すことばを失ってしまう。
「……重が嫌がるなら、おれは所帯をもたないよ」
気休めのようなことを言ってしまったが、実際、自分が妻を娶る姿など想像もできない。これで泣き止んだかと思われたが、重は小首をかしげて顔をしかめた。まだ不満があるらしい。
「それじゃ、兄貴がふしあわせだ」
唇を尖らせ、名案がないものかと真剣に悩みだす。やさしい子なのだな。そんな難しいこと、6つも年上の自分でさえ考えが及ばない。さてどんな折衷案をひねり出すかと思えば。
「決めた。おれが兄貴のおよめになればいいんだ」
これ以上の案はないだろうと得意げに目を輝かせる。ああ、どこからその間違いを訂正してやればよいやら。口下手の舳丸は、教えるということが苦手だ。泳ぎ方ひとつだってまともに教えられない。重の恵まれた才能に、日々大いに助けられている。
「……それはだめだ」
「どうして。兄貴は、おれがおよめになるのいや?」
せっかく泣き止んだところだったのに、またうっかり泣かせてしまっては元も子もない。
「重、お前は兄貴みたく、お前がお嫁をもらうんだ」
「じゃあいいよ。舳丸の兄貴がおれのおよめさんになって!」
*
「……ことだまって、こわいな」
「何か言いました、兄貴?」
「いや、気にするな」
あのとき、満面の笑みで抱きついてきた重をまた否定するのは酷で、まぁいいかとうなずいてしまったのだった。いずれ大人になればこんな口約束は忘れてしまうし、何より決定的な間違いにも気づくだろう。その妥協がいけなかった。あのとききっちり教えておくべきであった。あのときの可愛さはいったいどこへいってしまったのか、自らを敷布に組み敷く、すっかり大きくなってしまった弟分を見上げる。明るい色の、大きな瞳は変わらない。しかしその奥に宿る情欲は、あの頃の彼にはなかったものだ。
「……お前、おれのお嫁になるんじゃなかったのか」
「何言ってるんですか。兄貴がおれのお嫁になる約束だったでしょう」
まさかおぼえているとは思わなんだな。
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