[重舳]SS

 昼間は無造作に括られている赤毛が、褥に散らばっている。乱れた夜着の間から覗く肌はしっとりと汗ばみ、重の手に吸いつくようだった。
『しげ、』
 いつもの優しい声色で呼ばれ、たまらなくなる。
「あにき、本当にいいの」
 月明かりの下、重には確かに舳丸がうなずくのが見えた。
『お前の好きなようにすればいい』
 うれしい。兄貴と、ずっとこうしたかった。



 ずっとこうしたかった?
 さっきまですぐそばにあったはずのぬくもりはない。なぜか持ち上げられている自らの片腕はむなしく宙を切った。またか。
「……ゆめ」
 ぬくもりどころか、濡れて冷えきった下帯の不愉快な感覚に、重は顔をしかめる。



 こんな夜更けに起きている者は当然いない。聞こえるのは寄せては返す波の音ばかりだ。こんなときに限って雲一つない夜空で、お月さんにまで笑われているような心持ちがした。たらいに水を汲み、重はざぶざぶと汚れた下帯をもみ洗う。
「……情けね」
 誰もいないのをいいことに、重はひとりごちる。夢精もみっともないが、問題は夢の内容にあった。淫夢の相手は、いつも決まって尊敬すべき兄貴分なのである。重はときどき義丸に連れられて色街にも行くのだが、そこで酌してくれる姐さんたちは出てこない。代わりに夢の中で重を受け入れるのは。
『しげ』
 うっかりまた熱を帯びてしまいそうになり、重はぶんぶんと頭を左右に振ってよこしまな想像をふりはらう。ちくしょう。なんだって、舳丸なんだ。憧れて、追いかけて。誰よりも大切な人。その兄貴に対してこんな無礼があるだろうか。今日にいたってはとうとう夢精までしてしまった。明日、合わせる顔がないじゃないか。
「っ……」
 たらいに張った水にぽた、としずくが落ちる。考えていたら悲しくなってしまって、涙まで出てきてしまった。情けない、恥ずかしい。兄貴に申し訳ない。
「重……? 泣いているのか?」
「!」
 よりによって、重がいま最も会いたくない人物に目撃されてしまった。
「あ、あにき……」
 心配そうに、しかし遠慮がちに舳丸が寄ってくる。重は顔を背け、急いで涙を拭った。
「目が覚めて、厠に。そうしたら、お前の鼻をすする音が聞こえて」
「……へへ、褌汚しちまいまして。17にもなって情けねぇな」
 重は笑ってごまかしたが、舳丸は笑わない。
「……だからって、泣くことないだろう」
 夜着の袖を引っ張り、舳丸は重の両目を拭った。男同士なのだから、重としてはちょっとからかわれるくらいの方がましだ。しかし舳丸は、年頃の生理現象云々より重が泣いていることの方が気がかりらしい。
「……」
 昔から、寡黙な人だった。泳ぎについても最低限のことだけ教え、あとは重の好きにさせていた。決して冷たいというわけではなく、叱られた重が柄にもなく落ち込んでいれば誰より先に察してそばにいてくれる。舳丸と背中を合わせていると、重はそれだけで心地がよかった。なでてほしくてぐりぐり頭をすり寄せれば困ったように笑う顔が重はとてもすきだった。そしていまも。かけることばが見つからず、心配そうに重を見つめている。立ち去るという選択肢はないらしい。
「兄貴」
「ん」
「大丈夫ですから。そんな顔しないで」
 本当はあんまり大丈夫じゃないのだけど。きれいになった下帯をぎゅ、とかたく絞り、重は立ち上がった。たらいの水を捨て、一枚だけの洗濯物を両手で広げながら歩き出す。舳丸も黙ったままついてきた。
「……干す場所はあるか」
「うん、恥ずかしいから部屋にでも干しとくよ」
「そうか」
 二人して館に戻る。舳丸は無言だった。間切や航だったら笑い話で済んだのになぁ。思い切って、きいてみようか。
「……兄貴も、こういうこと、あった?」
 切れ長の双眸が数度瞬く。とくに表情は変わらず、舳丸はこくりとうなずいた。
「お前くらいの頃はたびたび悩まされたよ」
 6年ほど前の兄貴の姿を急いで思い出す。あの頃の舳丸が、こうして下帯を洗うこともあったのか。もうひとつ気になることがある。
「じゃあさ、いまは。兄貴、一人でしたりするの」
 途端、舳丸は頬を染めた。夢精は照れないのに自慰は恥ずかしいのか。重には舳丸の羞恥の基準がわからない。しかし舳丸は正直にうなずいてくれる。
「兄は、義兄みたくあんまり色街いかないですよね」
「……その手の方面はあまり得意じゃないんだ」
 頬を染めたまま、困ったように言う兄貴分を、重は可愛いと思ってしまった。舳丸の、そういう飾らないところがすきだった。
「へぇ、もったいない」
「どうして」
「兄貴、こんなにいい男なのに」
 舳丸は控えめに噴き出す。ひどいじゃないか、と重は憤慨した。こちらは真剣に言っているのに。
「なんで笑うんですか」
「いや、すまない。……お前のほうが、男前だよ、」
 く、と舳丸は腹を抱えてまだ笑っている。照れのつぼも、笑いのつぼも、よくわからない人だ、と重は首をかしげた。そうこうしているうちに舳丸の部屋の前まできてしまう。
「おやすみ、重」
「おやすみなさい」
 たん、と襖が閉じるのを見送り、洗ったばかりの下帯をひらひらさせながらまた歩き出す。目覚めは最悪だったが、おかげであの人から貴重な話が聞けた気がする。ああいうところがすきだなぁ、としみじみ思った。だからって、夢の中で組み敷いていい道理はないのだけど。自室の襖を開ければ、さっきまで自らが寝ていた布団が目に入り、現実に引き戻される。あの舳丸も、溜まるのだ。
「……どんな顔、するのかな」
 ごめんなさい、兄貴。と重は思う。おれはちっとも男前なんかじゃないよ。
 部屋の隅に縄を引っ張り、湿った下帯を干す。暗闇に浮かぶ白布がなんとも間抜けだった。
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