[重舳]SS

「……それだけはだめだ、重」
 今にも泣きだしそうな顔ですがりつく弟分を振り切り、部屋を出たのが半刻前。浜辺の岩によじ登って座り、舳丸は一人夜の潮風に当たっていた。
 『お慕いしていました、兄貴のこと。がきの頃から、ずっと』。
 ついこの間まで自分の後をついてまわっていた子どもが、いつしか背丈も体格も自分を追い越すようになり。まだ未熟とはいえ水練としての腕は他の追随を許さぬほどになった。それは結構なことだ。兄貴として誇らしく思う。しかし、どこかで決定的に育て方を間違えてしまったらしい、と舳丸は自らの膝の間に視線を落とした。


       *


「どうした。しけた面して。女にでも振られたか」
 きき慣れた声が背後から聞こえ、舳丸が予想した通りの人物が隣に腰を下ろす。こぼれんばかりの豊かな巻き毛が風に揺れた。
「……兄貴と一緒にしないでください」
「言うね、お前も」
 酒くさいですよ、と舳丸が顔をしかめれば、水軍一の鉤役は「鬼蜘蛛丸と酒盛りしてたの」とうれしそうに笑った。その相棒はどうやら酔いつぶれて寝てしまったらしい。
「それともなにか、お前が振ったほうか」
「……」
 お見通し、といった様子で、義丸はにやりと笑う。人の心を読むのに長けたこの人にはみな、かなわない。裏を返せば繊細なのだろう。
「お前だってうすうす気づいてたんだろう」
「……あいつは、勘違いをしているだけです」
 もの言いたげな鉤役をさえぎるように、舳丸はつづけた。
「重には母親がいません。おれがその代わりをしてきたようなものです。ろくに親の愛情も受けぬまま年頃になって、親や兄への愛情と、恋情を錯覚してしまったのでしょう」
「目を背けるなよ舳丸」
「!」
「そうじゃないことくらい、お前もわかっているくせに」
 つくづくいやなお人だ、と舳丸は思う。相手が乙女子なら、こんな意地の悪いことは言わないのだろう。
「それなのに、お前は拒絶したわけだ」
「当然です。だって、こんなの重にとってよくない」
「どうして」
「重はいつか堅気の嫁を娶って、たくさん子をもうけるはずです。いっときでも俺と念者になることで、重の将来になにかあったら、おれは兄貴として失格だ」
「さっきから主語が重ばっかりだな」
「……なにが言いたいんです」
 思わず舳丸は兄貴分をにらみつけた。いつになく口数が多くなってしまう。対して、二つ上の兄貴はひどく落ち着いていた。
「重の将来云々の前に、肝心のお前はどうしたいの」
「……」
「お前は、重のことをどう思っているの」
 重は舳丸を慕っているといった。兄貴としてだけではなく、早い話が閨をともにしたいと、そういう意味で慕っているのだと告げられた。真っ直ぐな瞳はうるみ、自身の兄貴分の肩をわしづかみにする両手は震えていた。舳丸としても技術面ではまだ負けてやる気はさらさらないが、単純に才能や力だけならすでにあやしい。あの腕に、自分は。
「重に抱かれるのはいやかってきいてるんだよ」
「っ……よしてください兄貴。そんなこと想像できません」
 露骨にいわれ、舳丸は頬が熱くなるのが自分でもわかった。
「初心なやつ」
「……だいたいどうしておれなんだ。色街できれいな姐さんたちを見たことないはずがないのに」
「そういうことじゃないんだよ。わかってないねお前」
「……」
「ほしいものをほしいっていうのは、そんなに悪いことか、舳丸」
 義丸は凛々しい眉を下げて笑う。どこか自嘲気味であった。
「……おれも人のこと言えないけどな」
 いまはすっかり夢の中にいるであろう幼馴染の姿を思い浮かべているのだろう。
「お前は贅沢だよ。あんなに全身で好きだ好きだーって言われて。重なりによく考えた上でのことだと思うぜ」
「……わかっています」
「じゃあ、きちんとこたえてやらなきゃ、卑怯だろ。こうあるべきだ、なんて逃げるんじゃなくてよ」
 さておれは山立様を布団に寝かしつけてくるかね、と義丸は立ち上がった。砂浜に足を下ろし、ぼきぼきと骨をならしながら館へ戻っていく。
「……兄貴、」
「うん、」
「ありがとうございます」
 義兄は軽く手を挙げてこたえた。いまも寝こけているであろうあの人の大切な人は、少々鈍感なところが玉に瑕だ。対して、重は。
 『お慕いしております』。
 震えている、けれどしっかりした声色が、こだまして耳から離れない。義丸の言うとおり、甘えているのは舳丸のほうだったのかもしれない。

 お前ほど真っ直ぐに伝えられる自信はないけれど。ちゃんとおれも返したら、そうしたら臆病な自分の手を、また引いてくれるだろうか。手を引いていたつもりが、いつだって引かれていたのはおれのほうだったのだ、と舳丸はため息をついた。
1/3ページ
スキ