愛すべき者は手放さないで
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「子どもが……生まれた……!?」
「えぇ。びっくりでしょう。とってもかわいい子で────」
頭が真っ白になった。
けれどすぐ思い直す。先生みたいな素晴らしい人が、独り身なはずがないと。
もちろん先生が幸せでいてくれれば私だってそれで満足だし、それが一番だ。
でもその思いとは裏腹に、私にもチャンスがあってもいいだろう、と怒りが湧いてきたりもした。
いや、あれは怒りと言っていいのか。悲しみ、落胆からくる投げやりな気持ちかもしれない。
先生の話に一生懸命相槌を打ったような気がするのは覚えているけれど、どんな内容を話していたのかは全く耳に入らず、ただ口が勝手に嫌味を吐き出していた。
「そう、ですね。きっと奥さんにも、先生にも似たかわいい子でしょう。今度お顔を見てみたい」
必死に本心を押し込めながらはにかんだ私を見た先生はなぜか一度ぽかんとしたあと、納得したように言った。
「いえいえ、僕の子じゃないですよ。僕は子どもはおろか、結婚すらまだですし……。うちの同僚の娘です。最近職場に顔を出さないと思ったら生まれてるんですから、そりゃあもうびっくりで」
「え……? 先生の、子ではなくて?」
「そうですそうです。なんだか、話をややこしくしてしまってすみません」
イルカ先生は主語が足らなかった、と照れくさそうに笑う。
────死ぬほど、びっくりした……。いや、死んでたまるかって話だけど。
そう思ったのと同時にとてつもない嬉しさも湧き上がる。
先生は、独身だ。あとは恋人の有無を聞けば、私にもチャンスがあるか見極められる。
「そうだったんですね……! あ、そうだ。先生ご結婚がまだってことは、恋人はいらっしゃるんですか?」
今が聞くべき時だと思った。すごく緊張する質問だけど、ここさえ乗り越えればなんとかなる。
できるだけ自然に、次の質問も用意しながら答えを待つ。
「いやいや、いないですよ」
期待通りの返事。舞い上がってしまいそうなほどの嬉しさを噛み締めて、私は口を開こうとした。
「そう言うアサギさんは?」
けれどそれより先に飛び込んで来たのは意外にもイルカ先生からの質問だった。
「……って、これ僕から聞いちゃいけないですよね。すみません、話の流れでつい────」
あまりに唐突な質問に反応が遅れてしまうと、イルカ先生は慌ててそう言った。
確かに彼からすれば教師という立場上、これ以上踏み込んでしまうのはやばいのかもしれない。でも逆を言えばその危険を冒してまで私に聞いてくれたのだから、誤解を招いてしまう前に答えるべきだと思った。
「私もいないですよ」
危うく『あなた以外に考えられません』と勢いで言ってしまいそうになり、なんとかその言葉を呑み込んだ。
そっと見上げたイルカ先生は誤魔化すように首の後ろを右手で撫でながら小さな声で零した。
「好きな人……とかは?」
人々の喧騒が遠ざかる。
────言わなきゃ。後悔する。
心の中の私が大きな声で叫んだ。
脳裏に浮かぶのはこれまでの素直な思いが伝えられないままいなくなってしまった両親の顔だった。
────もう、あんな後悔はしたくない。
言えばよかったとどれだけ後悔しても、消えてしまったものは元に戻らない。
戻ることがない。
彼の存在だってそうだ。
もし仮にタキが卒業するまで先生がこの学校にいてくれたとしても、私が想いを告げないことを選べば彼はきっと他の人を選ぶだろう。
それ以前にずっと学校にいるとも限らない。
何よりも彼は〝忍〟なのだから。
いつ命の灯がかき消されてしまってもおかしくはないのだ。私は両親の死を通して、そこは痛いほどわかっている。
だからこそ、もしこの恋が実らなかったとしても伝えるべきだと確信していた。
私はあなたに恋しています。あなたを心から愛しています────と。
そう伝えることで相手が私に好意が無かったとしても、きっとどこかで思い出してくれる。
誰かに一途想われて嬉しくない人なんてそういないだろうし、何よりあの人がそんなひねくれた人なわけがないことを私が一番よくわかっているから。
一呼吸置いて、私は口を開きその眼を見据える。
「……います。今、目の前に」
これでどんな結果になろうと、後悔することはない。
一瞬驚いた顔をした先生は柔らかく微笑むと頷いて控えめに手を差し出した。
再び戻りつつある喧騒から隠れるように、私もそっと手を伸ばす────。
ー完ー
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