幸せの虜
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「……ああ、すまない。邪魔だったか?」
ある日、私がいつも通り出勤するとそこには我愛羅様が1人、腕を組んで壁を見上げていた。
「っ……い、いえ! とんでもございません。失礼致しました」
初めて交わす会話に心の臓が張り裂けそうになりがらも深く頭を下げ、背を向けた。
我愛羅様が見ていたのは当宿の見るだけで幸福を運ぶと名高い絵画。それを目当てに宿泊に来る人もいるくらいの代物だ。
────まさか我愛羅様、この時間にわざわざあれを見にいらした?
一度外へ出て勝手口の方から従業員用の部屋へ入り、いまだにうるさい心臓を落ち着かせようと深呼吸をする。
最初の頃は私もわざわざこの勝手口からここへ来ていたけれど皆、私達が出勤する朝早くはあの通路にお客さんがいることはほとんどないし、あそこから行った方が休憩所も近いもの、と言って出入りしているのを知ってから私もよく使うようになった。
店主もそこは目を瞑ってくれていたし、現にわたしは今までお客さんと鉢合わせたことは一度もない。
それなのにまさか初めて鉢合わせる相手があのお方なんて。気まずさでいても立ってもいられない。
これならまだ普通にお客さんと鉢合わせた方が、ここまで気まずくならずに済んだはずだ。
とは言ってもああやって出て行ってしまったことに少しの後悔が押し寄せる。失礼な行動をとってしまった、と。
向こうはきっと私のことを初めて視界に入れてくれたというのに、目も合わせず逃げるようにここへ来てしまった。
絶対、第一印象は最悪だ。
もし面と向かって話せる機会があったなら、その時にはとびっきりのおしゃれをして、かわいく振る舞って……。なんて夢はもう崩れ落ちてしまった。
掃除をするために古びたよれよれの服を着て、動きやすいからと薄汚れた靴を履き、邪魔だからと髪は適当に束ねている。そんな状態だ。
もちろん張り切った化粧なんてしているはずがない。掃除をしていれば汗をかいてどうせ落ちてしまうからと何もせずにいた。
そんな最悪の状態で彼と出会ってしまったことが本当に恨めしい。
泣きたくなるような気分で仕事の準備をし、皆と掃除に取りかかる。
仕事中もいつもみたいにいられなくて皆に心配された。
でも言えるはずがない。あんなことがあったなんて。
皆よりいつも早めに出勤する私だけが我愛羅様と鉢合わせたようで、幸いにも誰もそのことを話題には上げなかった。
けれど掃除が終わりに近づいた頃────。1人が窓の向こうを見下ろして呟いた。
「あら? 我愛羅様だわ」
その一言でまた肝が冷える。それでも気にしていないようにできるだけいつも通り振る舞い、場を乗り切ろうとした。……にも関わらず────。
「あっ! 入って来る」
「ウソォ」
「ほんとほんと! 何しに来たのかしら」
「あの絵でも見に来たんじゃないのォ? うちにはそれくらいしかないんだし」
皆が呑気に話しているそばで私だけが本当に息を止めてしまうかと思った。そんな私へ追い打ちをかけるようにまた1人が声を上げる。
「我愛羅様が来たってことは何かご案内でもしないといけないのかなぁ」
「あ~そうかも」
「店主に任せなよ、そんなこと」
「さっき客の会計全部済ませてから、木ノ葉に出張だとかなんとか言って出ちゃったよ。明日はここが休みだからって」
「ええっ。じゃあ何、あたしらのうち誰かが行くってこと?」
「まぁそうなるわな」
「えぇ~! あたしやだよぉ」
「我愛羅様もさ? ババアにおもてなしされたくないと思うんだよね」
「あ! 確かに!」
「アサギちゃん、あなたできそう?」
「えっわ、私?」
────まずいことになった。ここにきてまさか意識半分で聞いていた会話が私に振られるなんて。
全員が祈るような目で私を見つめていた。
「で、できるかな……」
「できるわよォ!! アサギちゃん、良い子だもの!」
「そうそう、風影様と直々にお話できる機会なんて滅多にないんだし!」
「ここはあたしらに任せてさ~。行ってきなよ」
とてもじゃないけど断れる雰囲気じゃない。
渋々皆に送り出されながら1階の受付がある場所へと向かった。
朝、ああやって逃げてしまったのにまた顔を合わせなければいけないなんて。
気まずさと気恥ずかしさから胸元が針を刺したように痛む。
階段を下りて見えた先────静まり返る受付には、赤い髪の後姿が佇んでいた。
その背に声をかける勇気が出ない。いっそこのまま逃げ出してしまいたい気持ちにさえなった。
「……!」
けれど振り向いた彼と目が合ってしまう。
「あ……の……」
なんて声をかければ良いのかわからず、ただ視線を彷徨わせながら口ごもることしかできない。そんな私に彼は意外にもふんわりとした笑みを浮かべ、心地よい声で話した。
「ちょうどよかった。お前を探していたんだ」
「…………私、を?」
思ってもみない言葉に目を見開く。頷いた我愛羅様はポケットから何かを取り出した。
「大事な物だろう」
そう言いながら差し出したのは私が仕事用に使っている手帳だった。
手帳には仕事で覚えるべきことや出勤日、掃除する予定の部屋などが記してある。確かに私にとって、とても大事な物だった。
でもどうしても我愛羅様の手にある物が自分の物だと信じがたく、すぐに自分の腰周りを触って確認する。
────無い。
どこを触っても見つからなくて、恐る恐る礼を言いながら手帳を受け取った。
きっと朝、急いで勝手口へ向かった時に落としてしまったんだ。
なんにせよ、我愛羅様が中身を見ていないことを祈ろう……。
手帳を受け取ると我愛羅様は私の頭に手を置き、子どもにやるように何度か優しく撫でてから背を向けた。
今、何を────。
まさか風影様直々にそんなことをしてもらえるなんて、信じられない。そのまま去って行こうとする背に、思わず声をかけてしまった。
「あっ、あの……!」
我愛羅様はゆったりと振り向いて私の言葉を待ってくださる。
「あの……本当に、本当にありがとうございます」
「いや、いい。気にするな」
もう帰ってしまうのかと急に寂しさを覚えた。
その思いが通じた────なんて図々しいのは承知。でも我愛羅様は立ち去り際にまた振り向いて私へ言葉を送ってくださった。
「お前は絵が達者だ。ここにある、あの〝幸福の絵画〟とやらを越える物がきっと描ける」
────手帳の中身、見て……!?
それがとても恥ずかしくもあったけれど、でもそれ以上に褒められたことがたまらなく嬉しい。もっと高みを目指せばあの絵よりも上を目指せると言ってくれたことが、本当に幸せでたまらなかった。
ただ、中身を見られたということは遠回しに私の気持ちを伝えてしまったことになる。それが我愛羅様の迷惑になっていないかだけが心配だった。
けれど我愛羅様……安心なさってください。そもそも気持ちを伝えるつもりもなかった私はそれ以上を望む気なんてありません。……この上ない幸せをいただいたのですから。
ああ、あの絵の力は本当なのかもしれない。
────幸福を運ぶ絵画。
あの絵よりも良い物が描ける、と我愛羅様直々に賛美をもらった私は今、この世で一番幸福を感じているに違いない────。
ー完ー
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