カリスマ
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週の真ん中を過ぎた頃、ねえむは恋人から連絡を受けてカフェのテラス席で彼を待った。約束の時間に少し遅れてきた彼と目が合うことはなく、『他に好きな人がいる。婚約はなかったことにしてほしい。』手短かにそう言われて、婚約指輪はテーブルに置き去りにされた。君に返すから好きにしていい。そんな投げやりな言葉も添えられて。
「返す…って…」
2人の物だと思っていたのに、なんて今更。容れ物もないペアのリングを指先で摘んだまま、会計の済まされたカフェを出る。覚束ない足取りでたどり着いた橋の上で、堪えきれなくなって泣いた。過去を思い出してもこれからを考えても辛くなって、しばらく顔を上げられなかった。背中を通り過ぎる人々の視線が痛い。それでもそこから動けるほどダメージは回復していないのだ。
「アンタ、なにしてんの」
「……っ、はい…?」
急に声が掛かって、驚いて振り返る。つい、職務質問じゃありませんように、なんて考えてしまう。心配は肩透かしに終わり、振り向いた先には鮮やかなオレンジ色のジャケットを羽織った青年が立っていた。面識はない。首を傾げてねえむを覗き込む表情はあまりにもフラットで、悪意か善意か判断はつかなかった。青年は、道端で配られたであろうチラシの入ったポケットティッシュをねえむに手渡すと、彼女と同じように橋の欄干に肘を預けた。
「結構長いことココで泣いてない?そこの店で飯食って帰ってきてもまだいたから、気になって」
「…べつに…その、具合悪いとかじゃないんで…気にしないで下さい」
タチの悪いナンパか、宗教の勧誘か、どちらにせよ泣いている女性に声を掛けてくる顔見知りでもない男に関わるのはよそう。そう考えたねえむはなるべく青年を見ないように顔を背けた。
「とはいっても、往来だしさ。暗くなってきたし、危ないんじゃない」
「だいじょぶです。もう帰りますから」
そうは言っても、元婚約者との思い出が詰まってしまっている自宅に戻るのは億劫で、足はなかなか動かない。同棲していなかったのが幸いというのか、していなかったから隙を与えたのか。考えても今1人なのに変わりはない。
無言の時間を挟んで、ねえむの隣に佇んでいた青年から、また声が掛かる。
「それさ、どうするの?」
「え………」
「それ。指輪」
指さされた手元のペアリング。点き始めた街灯に照らされて反射したきらめき自体は、指に付けていた頃と何も変わらない。これをどうするのか。自分でもまだ決めていないのに、青年がなぜそんなことを聞くのかわからなかった。
「なんでそんなこと聞くんですか」
「いや。シチュエーション的になんとなく。別れ話で指輪どうしようか迷ってるのかなって」
「………まあ、わかりやすいですよね……いわゆる婚約破棄ってやつで…はは…」
笑ってくれと絞り出した嘲笑は、少し強くなった夜風に消えていった。青年は笑うでもなく、同じようなことを聞く。
「で、それ、捨てたりするの?川とかに」
「そう言われると…」
青年が気だるそうにえい、と投げるジェスチャーをするのを横目で見て少し恥ずかしくなった。ここで立ち止まったのは寄りかかれる欄干があったからで、なにも映画やドラマのように指輪を未練ごと投げ捨ててやろうだとか、そういう気持ちではなかった。しかし改めて指輪を川に捨てるのかと聞かれると、なんてお手本のような嘆き方をしていたんだろうと自分の姿を客観視してしまう。
「要らない?」
「…まぁ…」
「じゃあ、俺にちょうだい」
「えっ?」
思いもよらない提案が青年から飛び出して、ねえむは思わず彼の顔を見てしまった。
自分の真っ赤になった目鼻を見られることにもなったが、それ以上に驚いたせいだった。
「要らないって言ったよな。だったら、俺にちょうだい?」
「ちょ…」
おだやかに「ね?」と同意を求められ、指先から軽い力で擦り取られたペアリング。止める間もなく、青年はねえむの空いた手に自分の財布を握らせた。
「ちょっとココで待ってて。一応これ、預けとくから。待ってる間変な目に遭ったらこの番号に掛けて」
「ええっ?!コレ、さ、財布…!?嘘ちょっと待ってって!ねえ…うわ、もう…行っちゃった…」
暗くなってきたし危ないなんて自分で言った割には1人にしていくのか!そう思いはしたが、青年の姿はもう随分向こうだ。文句を言う先をなくして、財布に挟まれた電話番号を手で弄る。ずっと伏せていた欄干に今度は背中を預けて、オレンジ色のジャケットが人混みに紛れていくのを見送った。こんなに長い時間、橋に突っ立って過ごしたことはない。
しばらく、1人で何をするでもなく青年を待っていたねえむだったが、耐え切れず独り言にしては大きな声を上げた。
「…1時間はかかりすぎでしょ!」
どこへ何をしにいったか知らないけれど、待たせるなら待たせるでいつ頃戻るとか連絡の一本も…そう考えたところで、ねえむは彼に自分の番号は知らせていないことに気付いた。
(どうしよう…掛けようかな…でも)
繋がらなかった時のことを思うと、気が進まない。使われていませんなんてメッセージがもし流れたら、自分は落胆するんだろうか。初めての場所に踏み入れる子供のような不安を押さえつけて、ねえむは端末の画面をタップする。呼び出し音が鳴って多少安心した。
「はい。誰?」
淡白な声質は、青年のもので間違いない。これだけ人を待たせて、焦りの一つもない様子だ。余裕そうな態度につい声を荒げた。
「だ、誰って…!さっき橋で会った…」
「ああ。そういえば名前なんていうの?聞いてなかった」
「え、…ドン ねえむ、ですけど」
名乗ってから、馬鹿正直に名乗らなければよかったと後悔した。まだ相手が善人かどうかもわからないのに。いや、そもそも他人の婚約指輪をどこかへ持ち去る時点で良い者ではなさそうではある。
「ねえむね。それでなんだっけ」
「えぇと、どこまで行ってるのかと思って」
「ん?もう着くよ」
「そうですか…」
通話が切れるのが少し心細くなり、何か話題を探そうとする。しかし共通項もなければ会ってから1時間とちょっとだ。切れてしまうかも、画面に目線を落としたところへ声が聞こえた。
「ねえむ」
「あ」
どうして、見ず知らずの人間が戻ってきただけで安堵してしまったのかよくわからない。とりあえずは、指輪を持ち逃げされた訳ではなかったからだということにして自分を納得させた。
「ただいま」
「え、…お、おかえりなさい?」
もう古い友人かのように接してくる不思議な距離感に、戸惑いを隠せない。この青年の持っている独特な雰囲気にすぐに飲まれてしまいそうになる。通話の画面をお互いに切って、また隣り合わせる。今度はねえむから切り出した。
「…あなたは?名前」
「俺?伊藤ふみや。…ああ、財布見なかったんだ」
見ればわかるのに、と息だけで笑う。意外にもその表情に少し幼さが見えたような気がした。ねえむも財布の中に免許証などがあれば身元の確認は出来そうだと考えてはいたが、初対面の人間を探ることに抵抗を感じて行動には移せなかったようだ。ふみやと名乗った青年は、ねえむの様子になぜか満足そうだった。
「見てません。一応、ひとのだし」
「律儀だね。あ、そうだ。ハイこれ」
「え…指輪…?」
ふみやがポケットから取り出したのは、また指輪。指輪には変わりないが、ねえむの手元から持っていった物とはデザインの異なるカジュアルなものだった。
「そう。指輪」
「ど、どういうこと?」
眉間に皺を寄せて訝しげなねえむに、ふみやは淡々と説明する。
「アンタはあの婚約指輪が要らなかった。俺はそこの露店でアンタに似合いそうな指輪を見つけた。だから婚約指輪を換金して、その指輪を買ってきた」
「露店!?」
「うん。いかにもな安物だけど、今はこのくらい軽い方が気持ちが楽でいいんじゃないかなって。約束事なんて込められた指輪じゃあ、重たかったろ」
図星。重たかった。打ち捨てられた2人分の約束事を独りで抱えるなんて、付けていられないほどだったから涙が出たのだ。端的に婚約破棄とだけ聞いて、そんな風に察せるものだろうか。
「はい、手だして」
「あ」
右手を取られ、薬指に嵌められた指輪は測ったようにぴったりで彼のことがちょっと恐ろしくなった。もちろん、先に婚約指輪を売りにいったのだから号数はわかっていたのだろう。それにしても怖くなるほど指に馴染んだ。
「うん。似合う。軽くなった?」
「…うん」
ねえむは、素性の知れないふみやの行動原理も真意もわからないまま。それなのに心を開き掛けている自分を、遠くから見ているような感覚になっていた。
「そう。よかったね」
「ありがと…うっ!」
添えられていた手にハッとして、ねえむは慌てて手を引っ込める。顔の熱をごまかすために、売り払った婚約指輪についてふみやを問いただすことにした。
「ちょっと待って!さすがに露店の指輪より高い金額になってるはずでしょ。実はいくらだったの?」
いつの間にか敬語も忘れていたが、そもそもふみやからは敬語も無かったので問題はなさそうだ。元婚約者から手切れ金とばかりに残されたペアリング。慰謝料がわりにもならないだろうけれど、小市民なりに金額に興味もあった。
「なんだバレたか。おかげさまでこうなった」
露店の指輪が出てきたのとは反対のポケットに手を入れたふみやが、札の束で扇子をつくる。ねえむに向かって、7人の福沢諭吉が顔を見せた。その横で8人の野口英世が。ということはあの英世が今彼女の右手にあるリング代金の釣り銭なのだろう。ねえむが思っていたより相当安物だったことに苦笑いする。
「うわ結構な…持ち逃げする気?」
「要らなかったんだろ?」
「それにしたって私の物だったんだから」
既に換金してきた金を取り立てようとは思っていなかったが、奔放に振る舞うふみやに少しわがままを言ってみたくなったらしかった。うーん、と眠たそうな目をぼんやりと上へ向けて考えたふみやは、思いついたようにねえむの赤い目に視線を合わせた。
「じゃ、スイーツバイキングでも行く?」
「バイキング…なんでそのチョイスなの」
「俺が甘いものが好きで、食べたいから」
自由すぎる。吹き出したねえむは、今日1番の笑い声を上げた。
「俺が食べたいからって…あはは…!」
「へえ。ねえむ、笑ったほうがいいよ。カワイイ」
「……!それはどうも…」
女の扱いに手慣れていそうなふみやの物言いに振り回されたくはないと、極力冷静を装う。気を取り直して、彼が所望する場所へ出向くことにした。
「よし!じゃあスイーツバイキング行こ!私もストレス発散になるし」
「うん。おすすめの店あるよ」
「ほんとに好きなんだ。甘党?」
「めちゃくちゃ甘党」
そうして、入った店舗でもりもりとスイーツを平らげる彼の姿に散々驚いたあと、余った時間で流れに任せたお喋りを続けた。
「19歳!?未成年じゃん」
「そうだけど」
「私…歳下に泣いてるとこ宥められて婚約指輪売り飛ばされて、それをスイーツバイキングでチャラにされようとしてるの!?!嫌だ恥ずかしい!!」
歳上でもされたら嫌だけど!と訂正する。その横で何杯目かわからないパフェをつついていたふみやが、ふとねえむに向き直って宣う。
「泣くほど本気で恋愛してたんだから、恥ずかしくはないんじゃない。俺はねえむみたいな人は好きだよ」
「…ふみや君……」
またそうやって人を絆そうとする。ねえむは騙されませんと言いたげに目を細くして、ふみやにスプーンの先を向けた。マナーが悪いのは百も承知だ。
「私が恥ずかしかったのは今のこの状況であって過去の恋愛じゃないし、さすがにここは奢らないからね」
「…まあまあまあ」
「何が?」
「まあまあまあ」
「だから何のまあまあなの、もがッ」
ふみやから差し出されたマカロンに物理的に口を塞がれたが、その後も攻防を続けて何とか換金した余りでの会計となった。ねえむは金に関してはふみや相手に油断すまいと誓う。
…誓いはしたが…「離れがあるから」なんて口車にのせられ新居の手配まで取り付けられ、ねえむはまんまと彼とそのお仲間の元へ引っ越すことになるのだ。
「じゃあ、この残りの金は初期費用ってことで」
「えっ!?」
「え?何?」
実は初めからこうなるように、この男に図られていたんじゃないか?ふみやと過ごせば過ごすほどそう思うねえむだった。
---------おまけ
「いやー、ほんとは換金した後普通に帰ろうかと思った」
「うわ最悪。でも財布置いてってたでしょ?」
「中身何も入ってないもん」
「うーわ、最悪」
「でも結局ねえむから電話きたし気になったから、戻っちゃった」
「ふみや君、キミはさあ…そういうところがさあ…なんかこう人たらしっぽいよね…」
「いやいや!テラくんにもバーで奢らせるようなやつだよ!ほんっと無いよ伊藤ふみや〜!!」
「大瀬さんの財布から現金を抜き取っていた時もありましたよね…ふみやさん…」
「おっと?私が予想してた最悪の上をいくねえ、ふみや君」
「そう?どうも」
「褒 め て な い!!」
end
