夢の国
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※リクルーティングでホテルハイタワーでの約束をした人は回避推奨。優しくて憎めない彼らが大好きな人も見ないのが正解。かっこいいセリフとか台無しにしてるからほんと用心してくださいお頼み申す。
昼の喧騒はどこかへ過ぎ去り、
静まり返る真夜中の
アメリカンウォーターフロント。
照明も少なになった港町には
少々湿り気を帯びた海風が吹き抜けている。
警告に耳を貸さない愚かな
人間どものために、今日も1人
延々とホテルハイタワーの
最上階から落下し続ける
ハリソン・ハイタワーⅢ世の
悲痛な叫び声をBGMにして、
エイトフットのジョーは不意に口を開いた。
「666年後の10月31日、夜12時に
ホテルハイタワーの頂上で…」
Mr.Vの言葉を頭の中で反芻すると
自然と口が端から吊り上がっていってしまう。
その言葉の裏側を知っているからだ。
「…なんて、真実だと思うか?」
気怠げに柵にもたれて、傍の女に
一瞥をくれてやる。ジョーの視線を受けた
女は、怯んだように少しだけ足を後ろへ運んだ。
後ずさりにも満たないほどわずかに。
「…思いません、今は」
“今は”と、わざわざ付け加えた
彼女の憎らしいほどの純粋さに笑みが深まる。
昼まではきっと、ただの大人のおふざけだと
信じ切っていたことが窺える物言いだ。
自分に腕を引かれ、現実の世界から
姿をくらますことになった今になって
はじめて、彼女は悪党とはなんたるかを
知る羽目になってしまったのだ。
不幸な者を見れば面白おかしい感情が
湧いてくるのは、ヴィランならばごく普通のこと。
抑えることもせず、ジョーは高らかに
笑い声をあげた。
「っだよなぁ!そもそもあんな約束自体、
テイを成してねえもんなあ!」
急に声のボリュームを上げて笑い出す
ジョーに、心臓が飛び上がりそうになりながらも、
彼女は、ねえむはなんとか
俯いたままでジョーの姿を視界に入れた。
病人のように顔色の悪い彼は、陽の当たる
昼のアメリカンウォーターフロントより、
月の下で淡い光に照らされているほうが
生き生きとしている。
そう感じるのは、彼の濁った瞳に昼よりも
底の見えない悪意を感じるからかもしれない。
海辺の冷たい風が服の装飾と
特徴的な巻き髪を揺らした。
「混乱してるとこ悪いが、
これがオレらのオシゴトなんでね。
あんな茶番も…ま〜そこそこ楽しんでるが…
収穫ゼロがマジなら、それこそ
アースラ様に大目玉食らっちまう」
「でも…私は選ばれてないのに…」
彼女の言う選ばれていない、というのは
リクルーティング中の選出についての話だ。
数ある勧誘の機会に選ばれていった人数は
相当なものだろう。
その中に彼女は含まれていなかった。
それなのに何故、ヴィランズである
彼とこうして対峙しなければならないのか。
そういう疑問である。
「あ?そりゃあ、あれはショーで、
見世物だから、としか言えねえわな。
誰が本命をぽんぽん他のヴィランズの
前へ差し出すかってーの」
ジョーたちリクルーターにしてみれば、
あの場で自分たちの世界へ
引き抜きたい逸材を、他の同業者に
見せるなど馬鹿馬鹿しい話だった。
あいつらだってどうせこうやって
お前みたいな奴らを招いてるはずだぜ、と
馴染みの面々を思い出す横顔は
楽しげに見える。
世界中に愛されて腑抜けたネズミの国。
平和主義のお気楽な場所での口約束など
彼ら悪党が守る義理はさらさらない、
とでも言いたげだ。
「…で?オレにゃ長話の趣味はねえ。
巻いていこうぜ。
お前は、来るのか?来ねえのか。
リクルーター直々の勧誘だぞ」
「そんなこと言われても…!」
ヴィランズの世界というのは
まさしく妖しく美しい誘惑だった。
しかし、得体の知れない恐怖もまた
大いにある。
誘いを断ることの恐怖も同じ程度。
「勧誘ってのも適当にやるモンじゃねえ。
選ばれたことにも理由があると考えな」
「わ、私が、悪党向きって言いたいんですか!?」
「ああ。そうだ」
肯定を受けたねえむは、顔を
こわばらせた。自分の中に悪に通ずる
部分があるなどとは考えたこともなかったからだ。
しかし、ジョーにしてみれば
まったくの逆である。
初めから悪意の塊ならば、放っておいても
勝手に悪の道に踏み入れる。
それこそヴィラン、素質さえあれば
マスターヴィランとなり得る逸材だろう。
ただ、彼らリクルーターが探しているのは
自分と同じかそれ以下の所謂手下の悪党だ。
そういう手合いには、悪意など後から
握らせた方が早いのだ。
そこそこ純粋。そのくらいの方が、悪に
染まれば抜け出せない。
仄暗い情を知ればそちらへ肩入れせざるをえない。
そんな人間は、悪党に仕立て上げるには
持ってこいの存在といえる。
ジョーの考えなど、ねえむが
知る由もないことだが。
「……」
ねえむはジョーの様子を
窺いながら、思案していた。
ショーの最中、観客の輪の中央へ連れていかれた
者たちに羨望を向けなかったわけではない。
しかし、あのショーと違って、今は
気軽にイエスなどとのたまえる雰囲気では
ないのも確かだった。
明るい雰囲気の勧誘とは全く異なる、
有無を言わさぬような圧力さえ感じる声色。
その威圧の前に立たされて尚、
ねえむにはこの世に
心残りが山ほどある。
家族のこと、友人のこと、
貯蓄や趣味に至るまで、ただの人間が
捨て去るには大きなものばかりだ。
そうして迷う彼女の心を
察したように、ジョーは
ため息を吐き、面倒くさそうに
ねえむの腕を取った。
「な、んですか…?」
身構えるねえむの顔を覗き込む。
睨みつけるような目つきは
彼の生来のものか、煮え切らない
彼女に苛立っているのか。
「言い訳が必要か?」
「言い訳?」
一体、何への?そう思った時には
もう遅い。
「人生全部を見限る、言い訳だよ!」
「うわっ!!」
波の音が耳に入り込む。ジョーに
腕を思い切り引かれて、コロンビア号の
脇から水の中へ真っ逆さまに落ちていく。
終わりのないような真っ暗な水の中、
やけに楽しげに指に力を込めるジョーから
逃れようとして、ねえむの
顔には恐怖が滲んでいた。
身にまとう衣服が水を吸い、浮力を奪う。
目を開いているはずなのに、どちらを向けば
水面なのか、それすらももうわからない。
「さて、まだ戻れるかもなー。どうする?」
「……!!………ッ!」
夜の冷たい海の中、戻りたいと
口を開けるはずもない。
彼女はただの人間なのだ。
エラ呼吸も出来なければろくに水圧にも
耐えられない。脆く柔らかな女。
ねえむは、ただ泡を水の中に
吐き出すことしかできなかった。
「…ああ、そういや、何でお前を選んだかって
まだ言ってなかったか」
細かい泡が四肢を包んでいくのがわかる。
その中でジョーの声が響く。
水中でクリアに聞こえる音声は
まるで魔法か、夢のようだ。
「オレとおんなじ、社畜面だったからだよ」
十八番のタコギャグでも放ったように
得意げな顔をして、また自分で笑ってみせる。
もちろんジョーの顔など暗闇で見えなかったが、
彼の笑顔は、昼間見た彼のそれと同じ
もののような気がした。
「あっちで一緒に、アースラ様に
こき使われようぜ。ねえむ」
口説き文句にしてはなんて恐ろしい。
体が沈み行く中で、ねえむはようやく
この勧誘に選択肢など存在していなかった
ことに気がついた。
それでも、ねえむが生きる世界を
捨てようか迷ったことも事実。
ジョーが彼女のもがく
両腕を搦め捕ったことは
彼女が現実を捨てる免罪符たりえるのだ。
ハロウィーンの魔法が解けるまで、
あと1ヶ月あまりの出来事だった。
--------------------------------------
確かに、彼らはとても綺麗な言い訳を
残して消えた。人間たちにとっては
現実の世界にこそ希望があり、自分たちの
世界にはそんなものはないのだと。
それは、そうなのかもしれない。
だからこそ、あんなにも美しく嘘がつけるのだ。
真実を孕んだ嘘ほど、見分けがつかないものだから。
「皆には、とっても綺麗な嘘をつくんですね」
海底を慣れない尾ひれでなぞりながら、
相変わらず顔色の悪い8本脚の後ろを泳ぐ。
ねえむが太陽を直接
その目にしなくなって数ヶ月。
彼女の脚は尾ひれとなり、海の住人に
相応しい姿となっていた。
魔法というのは、かくも万能なものかと
感心する反面、人間としての人生を対価にした
と考えれば順当だとも思う。
彼女の言う嘘、というのは、ジョーが
ハロウィンの締めに人間たちへ放った
一連の言葉を指していた。
リクルーティングを信じる人間たちへ向けた、
ヴィランズからの情け余りある
贈り物のような言葉。
ねえむからしてみればそれは
真っ赤な嘘もいいところなのだ。
ジョーはねえむの刺々しい雰囲気を
含んだ物言いに、興味なさげに目をしばたいた。
寝不足なのだろう。いつものことだ。
「たりめーだろ。無理にこっちに
押しかけられちゃあたまらねえからな。
飛ぶ鳥と一緒で潜るタコも後を濁さねえのよ」
「ジョー先輩のギャグって
結構無理やりですよね…」
「あ"ぁ!?じゃあオレより面白いこと
言ってみやがれ、見習いが!」
今にも墨を吐き出しそうにブチ切れながら、
自分を先輩と呼ぶねえむに向き直る。
ジョーは彼女が仕事さえこなせば
上下関係に厳しいつもりはない。
日本的なその呼び名は、ハロウィンの
勧誘からヴィラン見習いとして
この世界へ来た彼女なりの、適切な
距離感の測り方らしかった。
「フン!人の姿が名残惜しいって素直に
言えなそうだから、アースラ様に
掛け合ったのは私も一役買ってるんですよ!
そんなこと言われたくありません!」
「覚えてねーなあそんな昔のこと!
頼んでもいねえし」
適切な距離と言っても、それは揚げ足を取らない
ことや、余計な無駄口を叩かないという約束を
表すものではない。
ただ、自分の面倒を見ているジョーに対しての
ほんの少しの敬意なのだろう。
先輩に対する接し方としては、いささか生意気
と言わざるを得ない。
しかし、勧誘の仕方があの顛末なの
だから、多少の無礼も働かないと
やっていられないというのがねえむの
思うところでもあった。
「また〜!私の人生台無しにしてるん
ですから、責任取ってくださいよ!?」
「取〜ってるだろうが〜!
お前ごときがヴィランになれるように?
こうやって?8本脚で手取り足取りしてよ!」
「私勝手に連れてこられただけですから。
面倒見てもらうのは当たり前じゃないですか?」
自らヴィランズの世界へ来ることを
選択したのではなく、ジョーの強引な
勧誘という名の誘拐のせいだと
ねえむが主張しているのは
ここへ来たときからずっとだ。
心の片隅にあった憧れは、彼女の
胸にしまわれたまま。
「テメ〜なぁ…それとも何か?
責任ってえと、嫁にでも貰ってくれって
言ってんですか?」
「はあ?!そんなこと
言ってないじゃないですか!!」
「ワハハハ!!茹でダコ面して
否定しても説得力ないわー。
なるほどな〜
あ〜なるほどなるほど」
「納得しないでください!!違いますから!!」
「喧しいね…自分たちの立場がわかってんのかい?
ええ?お前たち!」
「「ハイッ!失礼しました!!
アースラ様ッッ!!」」
現実だった場所を捨てた事実。
アースラの下で怯えながら仕事をこなす毎日。
絶望といえばそうなのかもしれない。
他の人間には、人生に満足したら迎えに
行ってやるなんて言ったくせに、
自分の業績のために満足とは
程遠い人生を中断させられたのだから。
「…私、早く独り立ちして、ジョー先輩の
鼻をあかしてさしあげることを
目標にするとします。
それはもう優秀すぎて、連れてくるん
じゃなかったってくらい」
「ここの最敬礼の毎日に音をあげんのが
先だろうが。どうせオレに泣きつくハメになるさ」
ねえむとしては
一刻も早く、彼の後ろを泳ぐのではなく
並んで砂埃を上げたいというものだ。
end
昼の喧騒はどこかへ過ぎ去り、
静まり返る真夜中の
アメリカンウォーターフロント。
照明も少なになった港町には
少々湿り気を帯びた海風が吹き抜けている。
警告に耳を貸さない愚かな
人間どものために、今日も1人
延々とホテルハイタワーの
最上階から落下し続ける
ハリソン・ハイタワーⅢ世の
悲痛な叫び声をBGMにして、
エイトフットのジョーは不意に口を開いた。
「666年後の10月31日、夜12時に
ホテルハイタワーの頂上で…」
Mr.Vの言葉を頭の中で反芻すると
自然と口が端から吊り上がっていってしまう。
その言葉の裏側を知っているからだ。
「…なんて、真実だと思うか?」
気怠げに柵にもたれて、傍の女に
一瞥をくれてやる。ジョーの視線を受けた
女は、怯んだように少しだけ足を後ろへ運んだ。
後ずさりにも満たないほどわずかに。
「…思いません、今は」
“今は”と、わざわざ付け加えた
彼女の憎らしいほどの純粋さに笑みが深まる。
昼まではきっと、ただの大人のおふざけだと
信じ切っていたことが窺える物言いだ。
自分に腕を引かれ、現実の世界から
姿をくらますことになった今になって
はじめて、彼女は悪党とはなんたるかを
知る羽目になってしまったのだ。
不幸な者を見れば面白おかしい感情が
湧いてくるのは、ヴィランならばごく普通のこと。
抑えることもせず、ジョーは高らかに
笑い声をあげた。
「っだよなぁ!そもそもあんな約束自体、
テイを成してねえもんなあ!」
急に声のボリュームを上げて笑い出す
ジョーに、心臓が飛び上がりそうになりながらも、
彼女は、ねえむはなんとか
俯いたままでジョーの姿を視界に入れた。
病人のように顔色の悪い彼は、陽の当たる
昼のアメリカンウォーターフロントより、
月の下で淡い光に照らされているほうが
生き生きとしている。
そう感じるのは、彼の濁った瞳に昼よりも
底の見えない悪意を感じるからかもしれない。
海辺の冷たい風が服の装飾と
特徴的な巻き髪を揺らした。
「混乱してるとこ悪いが、
これがオレらのオシゴトなんでね。
あんな茶番も…ま〜そこそこ楽しんでるが…
収穫ゼロがマジなら、それこそ
アースラ様に大目玉食らっちまう」
「でも…私は選ばれてないのに…」
彼女の言う選ばれていない、というのは
リクルーティング中の選出についての話だ。
数ある勧誘の機会に選ばれていった人数は
相当なものだろう。
その中に彼女は含まれていなかった。
それなのに何故、ヴィランズである
彼とこうして対峙しなければならないのか。
そういう疑問である。
「あ?そりゃあ、あれはショーで、
見世物だから、としか言えねえわな。
誰が本命をぽんぽん他のヴィランズの
前へ差し出すかってーの」
ジョーたちリクルーターにしてみれば、
あの場で自分たちの世界へ
引き抜きたい逸材を、他の同業者に
見せるなど馬鹿馬鹿しい話だった。
あいつらだってどうせこうやって
お前みたいな奴らを招いてるはずだぜ、と
馴染みの面々を思い出す横顔は
楽しげに見える。
世界中に愛されて腑抜けたネズミの国。
平和主義のお気楽な場所での口約束など
彼ら悪党が守る義理はさらさらない、
とでも言いたげだ。
「…で?オレにゃ長話の趣味はねえ。
巻いていこうぜ。
お前は、来るのか?来ねえのか。
リクルーター直々の勧誘だぞ」
「そんなこと言われても…!」
ヴィランズの世界というのは
まさしく妖しく美しい誘惑だった。
しかし、得体の知れない恐怖もまた
大いにある。
誘いを断ることの恐怖も同じ程度。
「勧誘ってのも適当にやるモンじゃねえ。
選ばれたことにも理由があると考えな」
「わ、私が、悪党向きって言いたいんですか!?」
「ああ。そうだ」
肯定を受けたねえむは、顔を
こわばらせた。自分の中に悪に通ずる
部分があるなどとは考えたこともなかったからだ。
しかし、ジョーにしてみれば
まったくの逆である。
初めから悪意の塊ならば、放っておいても
勝手に悪の道に踏み入れる。
それこそヴィラン、素質さえあれば
マスターヴィランとなり得る逸材だろう。
ただ、彼らリクルーターが探しているのは
自分と同じかそれ以下の所謂手下の悪党だ。
そういう手合いには、悪意など後から
握らせた方が早いのだ。
そこそこ純粋。そのくらいの方が、悪に
染まれば抜け出せない。
仄暗い情を知ればそちらへ肩入れせざるをえない。
そんな人間は、悪党に仕立て上げるには
持ってこいの存在といえる。
ジョーの考えなど、ねえむが
知る由もないことだが。
「……」
ねえむはジョーの様子を
窺いながら、思案していた。
ショーの最中、観客の輪の中央へ連れていかれた
者たちに羨望を向けなかったわけではない。
しかし、あのショーと違って、今は
気軽にイエスなどとのたまえる雰囲気では
ないのも確かだった。
明るい雰囲気の勧誘とは全く異なる、
有無を言わさぬような圧力さえ感じる声色。
その威圧の前に立たされて尚、
ねえむにはこの世に
心残りが山ほどある。
家族のこと、友人のこと、
貯蓄や趣味に至るまで、ただの人間が
捨て去るには大きなものばかりだ。
そうして迷う彼女の心を
察したように、ジョーは
ため息を吐き、面倒くさそうに
ねえむの腕を取った。
「な、んですか…?」
身構えるねえむの顔を覗き込む。
睨みつけるような目つきは
彼の生来のものか、煮え切らない
彼女に苛立っているのか。
「言い訳が必要か?」
「言い訳?」
一体、何への?そう思った時には
もう遅い。
「人生全部を見限る、言い訳だよ!」
「うわっ!!」
波の音が耳に入り込む。ジョーに
腕を思い切り引かれて、コロンビア号の
脇から水の中へ真っ逆さまに落ちていく。
終わりのないような真っ暗な水の中、
やけに楽しげに指に力を込めるジョーから
逃れようとして、ねえむの
顔には恐怖が滲んでいた。
身にまとう衣服が水を吸い、浮力を奪う。
目を開いているはずなのに、どちらを向けば
水面なのか、それすらももうわからない。
「さて、まだ戻れるかもなー。どうする?」
「……!!………ッ!」
夜の冷たい海の中、戻りたいと
口を開けるはずもない。
彼女はただの人間なのだ。
エラ呼吸も出来なければろくに水圧にも
耐えられない。脆く柔らかな女。
ねえむは、ただ泡を水の中に
吐き出すことしかできなかった。
「…ああ、そういや、何でお前を選んだかって
まだ言ってなかったか」
細かい泡が四肢を包んでいくのがわかる。
その中でジョーの声が響く。
水中でクリアに聞こえる音声は
まるで魔法か、夢のようだ。
「オレとおんなじ、社畜面だったからだよ」
十八番のタコギャグでも放ったように
得意げな顔をして、また自分で笑ってみせる。
もちろんジョーの顔など暗闇で見えなかったが、
彼の笑顔は、昼間見た彼のそれと同じ
もののような気がした。
「あっちで一緒に、アースラ様に
こき使われようぜ。ねえむ」
口説き文句にしてはなんて恐ろしい。
体が沈み行く中で、ねえむはようやく
この勧誘に選択肢など存在していなかった
ことに気がついた。
それでも、ねえむが生きる世界を
捨てようか迷ったことも事実。
ジョーが彼女のもがく
両腕を搦め捕ったことは
彼女が現実を捨てる免罪符たりえるのだ。
ハロウィーンの魔法が解けるまで、
あと1ヶ月あまりの出来事だった。
--------------------------------------
確かに、彼らはとても綺麗な言い訳を
残して消えた。人間たちにとっては
現実の世界にこそ希望があり、自分たちの
世界にはそんなものはないのだと。
それは、そうなのかもしれない。
だからこそ、あんなにも美しく嘘がつけるのだ。
真実を孕んだ嘘ほど、見分けがつかないものだから。
「皆には、とっても綺麗な嘘をつくんですね」
海底を慣れない尾ひれでなぞりながら、
相変わらず顔色の悪い8本脚の後ろを泳ぐ。
ねえむが太陽を直接
その目にしなくなって数ヶ月。
彼女の脚は尾ひれとなり、海の住人に
相応しい姿となっていた。
魔法というのは、かくも万能なものかと
感心する反面、人間としての人生を対価にした
と考えれば順当だとも思う。
彼女の言う嘘、というのは、ジョーが
ハロウィンの締めに人間たちへ放った
一連の言葉を指していた。
リクルーティングを信じる人間たちへ向けた、
ヴィランズからの情け余りある
贈り物のような言葉。
ねえむからしてみればそれは
真っ赤な嘘もいいところなのだ。
ジョーはねえむの刺々しい雰囲気を
含んだ物言いに、興味なさげに目をしばたいた。
寝不足なのだろう。いつものことだ。
「たりめーだろ。無理にこっちに
押しかけられちゃあたまらねえからな。
飛ぶ鳥と一緒で潜るタコも後を濁さねえのよ」
「ジョー先輩のギャグって
結構無理やりですよね…」
「あ"ぁ!?じゃあオレより面白いこと
言ってみやがれ、見習いが!」
今にも墨を吐き出しそうにブチ切れながら、
自分を先輩と呼ぶねえむに向き直る。
ジョーは彼女が仕事さえこなせば
上下関係に厳しいつもりはない。
日本的なその呼び名は、ハロウィンの
勧誘からヴィラン見習いとして
この世界へ来た彼女なりの、適切な
距離感の測り方らしかった。
「フン!人の姿が名残惜しいって素直に
言えなそうだから、アースラ様に
掛け合ったのは私も一役買ってるんですよ!
そんなこと言われたくありません!」
「覚えてねーなあそんな昔のこと!
頼んでもいねえし」
適切な距離と言っても、それは揚げ足を取らない
ことや、余計な無駄口を叩かないという約束を
表すものではない。
ただ、自分の面倒を見ているジョーに対しての
ほんの少しの敬意なのだろう。
先輩に対する接し方としては、いささか生意気
と言わざるを得ない。
しかし、勧誘の仕方があの顛末なの
だから、多少の無礼も働かないと
やっていられないというのがねえむの
思うところでもあった。
「また〜!私の人生台無しにしてるん
ですから、責任取ってくださいよ!?」
「取〜ってるだろうが〜!
お前ごときがヴィランになれるように?
こうやって?8本脚で手取り足取りしてよ!」
「私勝手に連れてこられただけですから。
面倒見てもらうのは当たり前じゃないですか?」
自らヴィランズの世界へ来ることを
選択したのではなく、ジョーの強引な
勧誘という名の誘拐のせいだと
ねえむが主張しているのは
ここへ来たときからずっとだ。
心の片隅にあった憧れは、彼女の
胸にしまわれたまま。
「テメ〜なぁ…それとも何か?
責任ってえと、嫁にでも貰ってくれって
言ってんですか?」
「はあ?!そんなこと
言ってないじゃないですか!!」
「ワハハハ!!茹でダコ面して
否定しても説得力ないわー。
なるほどな〜
あ〜なるほどなるほど」
「納得しないでください!!違いますから!!」
「喧しいね…自分たちの立場がわかってんのかい?
ええ?お前たち!」
「「ハイッ!失礼しました!!
アースラ様ッッ!!」」
現実だった場所を捨てた事実。
アースラの下で怯えながら仕事をこなす毎日。
絶望といえばそうなのかもしれない。
他の人間には、人生に満足したら迎えに
行ってやるなんて言ったくせに、
自分の業績のために満足とは
程遠い人生を中断させられたのだから。
「…私、早く独り立ちして、ジョー先輩の
鼻をあかしてさしあげることを
目標にするとします。
それはもう優秀すぎて、連れてくるん
じゃなかったってくらい」
「ここの最敬礼の毎日に音をあげんのが
先だろうが。どうせオレに泣きつくハメになるさ」
ねえむとしては
一刻も早く、彼の後ろを泳ぐのではなく
並んで砂埃を上げたいというものだ。
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