甘噛み姫
「甘噛み姫」
but it did happen.
(だがそれは起こった。)
□「──え?」
彼は、持参した文庫本を読みながらまるで独り言のように言った。もしかしたら、本当に独り言だったのかもしれない。しかし、この楽屋にいるのは俺と彼だけだったし、彼は集中して本を読むタイプだから、読みながら独り言は言わない。彼は、俺に話しかけているのだ。
□「えっと、…ルートマイナス1?」
◯「そう。ルートマイナス1」
わかる?とページを捲りながら言った。
□「…覚えてないや」
7秒ほどして、彼は俯いたまま「そう」とだけ呟いた。
□「…どうしたの。しげちゃん、具合悪いの?元気ないよ」
◯「え?そんなことないよ」
しげはにっこりと微笑んだが、それはCG合成のようだった。どんな言葉をかけようかと考えていると、楽屋のドアが開かれてまっすーと手越が入ってきた。おはようを交わして、手越は俺の隣に腰かける。2人は、テゴマスとして雑誌の撮影があったらしい。
相変わらず、しげは文庫本を読み耽っている。俺と手越のうるさい会話なんて聞こえていないみたいだ。透明な耳栓をしているのだろう。
♡「んでねー、そのスタッフさんが〜」
手越は無垢な少年のように俺に話しかけ続けた。
♡「だったんだよ〜…って聞いてる?大丈夫?」
□「あぁ、聞いてるよっ」
俺の視線は、自然としげのほうに向く。しげと、その隣に座るまっすーと言うのが正しいのだろう。
♡「なになに、慶ちゃん嫉妬?」
□「ばか、お前」
こっそりと笑った手越の脇腹を軽く突く。
ちょうど、まっすーがしげに話しかけているところだった。
▽「シゲ大丈夫?顔色悪いよ」
◯「あー、…いや、まぁ」
▽「ほら、本読むのやめて」
◯「あっ、ちょっとまっす…」
まっすーはしげの読んでいた本を取り上げてスピンを挟むと、自分の肩にしげの肩を寄せた。されるがまま、しげはまっすーの肩に頭を預けると、そのまま眠りに落ちた。
♡「わーぉ、イチャついてる」
□「…しげだって疲れてんだよ」
♡「…はいはい」
まっすーはその体制のまま、ファッション誌を眺めていた。俺の視線には気づきやしない。
その日以降、しげは体調が優れないようで沈んだ表情をしていた。メディアでのステージは完璧にこなすが、ふとした時に苦しそうな表情を浮かべていることが多くあり、ネットでは「シゲ、なんか顔色悪くない?」「最近忙しいのかな…休んでほしい」と彼の体調を重んずる声が多く上がっていた。その逆で、「芸能生活長いんだから、自分の体調管理ぐらいちゃんとして」「プロ意識足りなすぎ」と彼を毛嫌いする声もあった。
今日は、2週間後に控えた歌番組のリハーサルだった。何度か歌ってきた新曲を口ずさみながら、動きを確認する。
▽「手越、さっきの手の位置高すぎかも」
♡「おっけ」
一通りやり終えて、お互いにアドバイスをし合いながら数箇所やり直していた時のこと。隣で黙って立っていた人影が揺れた。それはあまりにも一瞬で、──こういう時、人は「動きがスローモーションに見えた」というけれど、俺は動きがクイックモーションに見えた。ゆっくりと、次第に悲鳴が重なっていく。
▽「シゲ!」
まっすーが彼の名前を叫んだ。俺は咄嗟にしゃがんで、顔を覗き込む。
□「しげちゃん、聞こえる!?」
どうしたの、今誰か倒れて、NEWSの加藤さんです、救急車は。
◯「……小山、」
□「しげちゃん!」
◯「…おねが、…」
虚ろな瞳が、何かを訴えている。
◯「……おれをつれてかえって、…お茶かコーヒー、だして」
お茶かコーヒーっていう二択にすると、人は行かないって選択肢を選びにくいんだそうです。
俺はしげを見つめて、口元を緩めた。よかった、彼は救急車を呼ぶほど弱ってはいないし、帰らないほど大丈夫ではないらしい。
□「救急車は、いらないです」
♡「慶ちゃ…?」
□「俺が連れて帰ります。ごめんなさい」
「え、でも!倒れるなんてそんなっ」
大丈夫です、と言ったのは俺でもなくしげでもなく、──まっすーだった。力強い目付きは、偉いスタッフをも黙らせてしまった。
▽「小山に任せれば、加藤は大丈夫ですよ。…しばらく忙しくさせていただいてたから、あぁなっちゃっただけですし」
♡「本番は2週間後っすよね?それまでには治ります。治すように言っておきます」
あとは2人に任せよう。俺は「立てる?」としげに手を差し出した。どうやらふらふらとならば歩けるらしい。
この出来事は、メディアやネットには出回らなかった。しかし、この出来事は、俺たちの今後に大きく関わるものとなった。
□「──お茶にするよ。カフェインは身体の調子悪い時に飲むのは良くないから」
しげを自宅のソファに座らせて、俺はキッチンから声をかける。彼は「ん」と一音だけで返事をした。麦茶をガラス製のコップに注ぎ、それをしげのもとに運ぶ。
□「大丈夫?しげちゃん」
◯「…ん」
静かな空気に耐えられなくなって、俺はテレビをつけた。ニュース番組が流れていた。女性アナウンサーが今話題の水族館を紹介している。
「さて、ここで問題です。サメやイワシなど、たくさん水槽のなかにいますが、サメがイワシのような小魚を食べたり襲ったりしないのはどうしてでしょうか!スタジオの」
突然、画面が黒に包まれた。しげがテレビの画面を消したらしい。
◯「順番なんだって」
□「順番?」
何のことかと思ったが、今女性アナウンサーが言っていた問題の答えのようだった。
◯「水槽に魚を入れていく順番。強い魚、例えばサメとかから先に入れちゃうと全部食べられちゃうけど、一番弱いイワシみたいなのから順番に魚を入れて、最後にサメを放すと何もしないんだって」
□「アウェーだから?」
◯「そうらしいよ。もともとは彼らの縄張りだから大人しくしてるんだって」
□「へぇー、水槽の秩序がそうやって守られてるとはね」
魚が好きなしげのことだから、水族館にも行くのだろう。それで、たくさんの事実を知って、きっと、小説に活用するのだ。
□「…寝る?」
俺の質問には答えず、しげはしばらくしてから呟いた。
◯「オニアンコウっていう深海魚はさ、メスの方が大きいんだけど、小さいオスはメスを見つけるとメスの体に食いついて、寄生すんの」
先ほど倒れたとは思えない、活き活きとした声色だった。
□「それで?」
◯「メスの体に食いついたオスはメスに完全にくっついて生殖器以外の全ての機能を退化させるんだ」
□「どういうこと?」
◯「メスの体の一部になるんだよ」
□「ほんと?おもしろいね」
◯「でしょ。だから実質、オスは死んじゃうんだ。ただ生殖活動だけは続けていて。愛だよ、愛」
なぜ、今そんな話をしたのか。いや、水槽に魚を入れていく順番を話したから、それで思い出しただけかもしれない。しかし、それ以上の何かを、俺は感じていた。しげは、前の事柄に関連付けてこの話をした訳ではないはずだ。
□「…ねぇ、しげちゃ」
◯「あのさ」
力強い瞳。この大きな瞳に、羨望の眼差しを向けていたことは過去によくあった。
◯「NEWSのリーダーであるお前に、話したいことがある」
その発言にドキッとして、自分でもわかるような愛想笑いを浮かべてしまった。しげは俺とは対照的にふっと優しい笑みを浮かべた。彼の手が伸びてきて、俺の頬を撫でる。大きな瞳が俺をじっと見つめて、離さない。その黒目は不安そうに笑う俺を映し出して揺れていた。
◯「俺、“NEWS加藤シゲアキ”としての活動を、一旦休憩したい」
その意味がわからず、呆然とする。
◯「簡潔に言うと、一旦、俺だけNEWSとしての活動を休みたいんだ」
──ねぇ、昔、約束したじゃん。2人になっても、NEWS続けるって、言ったじゃん。
そんな嫌味丸出しの言葉は引っ込んで、代わりに涙が溢れた。どうしてそんなこと、と言いたかった俺の気持ちを理解したしげは、俺の頬から手を離した。
◯「小山も、手越も、まっすーも、…みんな好きだよ。いろんな問題起こして、それでもついてきてくれるファンのみんなのことも、好き。だけど、…こう、疲れちゃった」
□「……そっか」
きっと、その疲弊のせいで倒れたのだ。前科があるせいで、それを止める訳にはいかなかった。
その後、2日間に渡り4人と事務所とで話し合いをした。最終的に、また倒れられても困るから、少しの間しげは活動を休止することになった。しげは何度も「ごめん」と繰り返したが、涙は見せなかった。逆に、泣いたのは俺たち3人のほうだった。これまで、何人かメンバーが脱退していったが、泣くのはいつも残されたほうだった。
話し合いをした3日ほど後、事務所からメディアに向けて「NEWS 加藤シゲアキに関する大切なお知らせ」を発信した。ファンはもちろん、メディア関係者も驚きを隠せない様子だった。
『NEWS 加藤シゲアキに関する大切なお知らせ』
『NEWS及び加藤シゲアキの今後に活動につきまして、ファンの皆様に大切なお知らせがあります。』
『メンバーの加藤シゲアキですが、およそ1ヶ月前から体調不良が続いており、これ以上このまま活動を続けるのは難しいと判断し、NEWSとしての活動及び個人の活動を一旦休止し、治療に専念するという結果に至りました。』
『1週間後に控えた音楽番組をもちまして、加藤シゲアキは一旦活動を休止致します。』
『ファンの皆様、関係者各位には多大なるご迷惑とご心配をおかけすることになりますが、何卒応援をよろしくお願い致します。』
『以下、NEWSのメンバーから皆様へ』
『今回、4人で話し合いをして、加藤の体調を重んずるのが一番だと考え、この結果を下しました。受け止めきれない部分はまだ僕らにもありますが、本人はしっかりと体調を整えていち早くここに戻ってくると言っていますので、どうか信じて待っていてあげてください。小山慶一郎』
『はじめ、加藤本人からこの話をされた時、かなり驚きました。ですが、これからの人生をともにするメンバーの1人ですし、彼のことは彼がいちばんよくわかっていると思うので、しっかり体調不良を治してもらって、また4人でステージに立ちたいと思います。ぜひ見守ってやってください。増田貴久』
『これまで、僕らは問題を起こしてしまったり、ファンの皆さんには心配をかけてばかりですが、この件に関しては心配することはありません。きっとすぐ戻ってきてくれて、あのしゃがれ声でツッコミをいれてくれると思います。気長に待ちましょう。手越祐也』
『ファンの皆様及び関係者各位にはご迷惑とご心配をおかけしている所存ではありますが、僕は絶対にNEWSのもとへ戻ってきます。あと1週間、できる限り体調を整えていつも以上に一生懸命取り組もうと思いますので、応援のほど宜しく御願い致します。また、僕が休止している間のNEWSの応援も宜しく御願い致します。加藤シゲアキ』
残り1週間しかないと嘆くファンも多くいて、もっと早く話し合っておけばなぁなんて呑気に言っていたのはしげだった。しかし、それは嫌味のようには感じられなかった。
「──続いてはNEWSの皆さんでーす」
よろしくお願いします、と頭を下げながら笑う。これが、一旦、4人で活動する最後の番組だ。
「先週、驚きのお知らせがありましたが」
◯「あ、はい」
「加藤さんが体調不良のため、一旦活動を休止するという…」
こちらの表情を伺いながら、アナウンサーが訊いてきた。
◯「そうですね…あのファックスの通りなんですけど。体調不良が長らく続いてしまって、このままだと危ないと思いましてこの決断に」
「脱退、ではなく活動休止?」
◯「はい。時間がかかっても戻ってきます。早めに戻ってくるのが理想ではありますけど」
しげとアナウンサーだけでの会話のラリー。
「あのファックスを発信してみて、どうですか」
◯「そうですね〜…急な発表になってしまって申し訳ない気持ちが大きいです。それと、マスコミが報道するのは早いっすね」
しげはイミテーションの笑顔を浮かべた。
◯「飛行機と似てると思うんです、芸能界やマスコミは。空を飛んでるのを下から見るとすごくゆっくりに見えるけど、本当は時速千キロとか。きっと、そうでないと飽きられてしまうんです」
「さすがは作家さん。言うことが違いますね」
◯「はは。戻ってきた時に、その速さに追いつけるように頑張りたいです」
それではスタンバイお願いします、と隣のステージに移った。頑張ろうな、と4人でアイコンタクトをとる。しげは泣きそうにない、真っ直ぐな瞳を持っていた。
パフォーマンスを終えて、楽屋に戻った。
▽「おつかれ、シゲ」
◯「お疲れ様」
♡「この後は治療に専念だね」
◯「うん、ちゃんと治す」
俺は、しげに、何を言ってあげればいいのか。何も言えないまま、俺はしげに微笑んだ。彼もまた目を細めて、唇を動かした。
◯「“よろしくね”」
たぶん、そう言っていた。残された2人をよろしく頼む、ということだろうか。俺としげは、よく夫婦と称される。その片方がいなくなって、2人の子供を育ててやるのは大変だから──なんて考えは、馬鹿らしいけど。
□「またね」
◯「うん、また」
各自、次の仕事に向かったり直帰したりとタクシーに乗り込む。しげの後ろ姿を見つめて、残された俺たちを見て、…あぁ、これから少しの間は3人なんだと泣きそうになった。
しげが活動を休止してから、1週間が経った。連絡はなかなかとれていないが、たぶん上手くやれているのだろう。好きなように本を読んで、自分でオムライスでも作って食べて、好きな時間に寝て起きて。…まぁ、しげのことだから俺たちのことを気にして普通の生活をしているんだろうけどね。
今日、久々に会いに行こうかなぁ。連絡しないで行ったらびっくりするかなぁ…。
仕事を終えて、しげの家に向かった。俺たちはお互いの家をよく行き来する。間取りも完璧に覚えているぐらいだ。
玄関の前に立ち、チャイムを鳴らした。…出ない。寝ているのかもしれないと思い、もう一度チャイムを鳴らしたが、出ない。特別な用事があった訳ではないけれど、なんだか嫌な予感がしてドアノブに手をかけた。…開いた。しげにしては不用心すぎではないか。ごくりと唾を呑み、ドアを開けた。
□「しげちゃん…?」
薄暗くて、なぜかいつもより長く感じる廊下。キッチンのほうから、水が流れ続ける音がしている。料理をしている?だったらチャイムに返事をするだろうし、今頃玄関まで迎えに来てくれただろう。…じゃあ、どうして水の音がするのだ。しげがリストカットでもしていて、傷口に水を当てていたらどうしよう!そうすれば血の流れがはやくなって、死に至るのが早まるのだ!
□「しげ、しげちゃん!」
キッチンに飛び込んだ。シンクを見れば、蛇口から水が流れたまま。しかし、そこに手首はない。慌てて蛇口から出続ける水を止めた。
□「しげちゃん!」
ただ、シンクの下に、彼はいた。シンク下の棚にもたれ掛かるようにして、目を瞑ったまま、動かない。
何度も名前を呼び、彼の肩を掴んで、身体を揺さぶった。ガクガクと身体が揺れるだけで、本当に目を覚まさない。死んでいたらどうしようと焦燥感が芽生え、口元に耳を当てた。一定のテンポで呼吸をしている。彼の首に指を添えた。一定のテンポで心拍が動いている。…よかった、死んではいない。
□「しげ、しげちゃん…ねぇ、しげちゃん!」
◯「…ん、……?」
薄く目が開かれた。
□「しげちゃん!!」
◯「…うる、さい」
□「…は?」
心配して損した、とは思わなかったものの、どうしてそんなことを言うのだとぎゅっと胸が締め付けられた。
◯「…あたま、…いたくて」
あぁ、だからか──。頭痛で意識を失って、このまま…。じゃあナイスタイミングじゃないか、俺。俺がいなかったら、しげは頭痛が治らないままだったし水道代がとんでもないことになっていたはずだ。
□「…ちょっと動くね」
◯「あ、…こやまさ、」
そっとしげを抱き上げた。しげは俺の首に腕を回した。寝室に向かい、ゆっくりとベッドの上に下ろす。
□「頭痛薬とか持ってる?」
◯「…なかった」
□「んー、そっか」
◯「…水、飲んで、そっから、記憶ない」
□「水飲んでから意識なくなっちゃったんだね」
ベッドに横になるしげと、ベッドに座る俺。
□「とりあえず寝ちゃいな?あ、何かしてほしいことある?」
◯「…ある」
しげは俺の服の裾を引っ張った。
◯「…隣にいて」
しげは、体調を悪くすると甘えん坊になる。ちなみに体調が良くなるとそのことはほぼ忘れてしまうらしい。今日もまた、甘えたがりな様子だ。俺はにやけを抑えながらベッドに潜り込んだ。すると、しげは俺に抱きついて胸に頭を押し付けてきた。
◯「…光入ると、頭痛くなるから」
□「そっかそっか。…おやすみ」
◯「おやすみ」
しげは、変わってしまった。…気がする。思えば、体調を崩し始めた1ヶ月ほど前から、変わってしまったのだろう。ずっと気分が落ち込んでいるみたいにテンションが低くて、暗くて、俯いていて、顔色も悪くて…。どうしてか、わからない。ただ体調が悪くて本調子が出ないだけかもしれないけれど、それにしては暗すぎる。いつものしげではない気がしていた。前までしげは、朝こそテンションは低いが、俺たちの明るいテンションに合わせてはしゃいでくれたし、しょうもない会話も笑って参加してくれた。それが、今はない。ローテンションのまま、笑いもしない。どうしたのと聞けば笑顔を浮かべるが、それだけだった。
どうして話してくれないんだろう。俺たち、恋人同士だよね?
◯「…こやまさん、」
□「へっ、あ、何っ?大丈夫…!?ごめん起こしちゃ」
◯「だぁいじょうぶ」
へらりと笑ったしげの笑顔は本物だった。
◯「…ありがとう、こやまさん」
□「え、…?」
普段、自分から挨拶をしないしげが、ありがとう?驚きのあまり反応できないでいると、しげはまた、ふふっと笑った。
◯「こやまさんのお陰で、俺、ここまで生きてこれたと思ってる。俺はこやまさんの幸せを祈ってるよ」
しげは1度ベッドから降りた。座禅を組んで顔を左に向け、首の後ろから回した右手でその顔を掴み、左手は正面に伸ばして少し丸めた手のひらを上にしたなんとも奇妙なポーズをとる。
◯「これが祈りのポーズなんだ」
□「これが祈りでしょ」
僕が合掌すると、しげは「それは祈りなんかじゃない。祈ってる風だよ」と一蹴した。
しげが俺の名前を呟いた。俺はたまらなくなって、彼をぎゅっと抱きしめた。
◯「…?っふふ、苦しいな」
□「しげちゃん、俺は怖くてたまんないんだ」
◯「え?」
しげがようやく抱きしめ返してくれた。
□「しげちゃんが、しげちゃんじゃなくなってる気がして」
もっと、明るくて優しい人だったはずなのに。しげちゃんは、暗く沈んだ世界で生きているような気がしてならない。
◯「ほんと心配性だよね。…大丈夫だよ」
□「っ、そんな」
◯「体調が良くないだけ。そんなに気にしないでよ」
□「違う!もっと、深くて大きいところがっ」
しげの指が伸びてきて、俺の唇に触れた。
◯「…こやまさん、逃げるな」
下唇が、しげの指によって、弾かれる。喉の奥がぎゅっと締まって、声が出なくなった。出そうとしても、掠れた息が漏れるだけだった。
しげの力強い瞳に見つめられて、なおのこと声が出ない。
◯「思い出せないなんて言わせねぇよ」
両手で自分の口を覆った。信じなければならない、信じたくない出来事を、思い出した。吐き出しそうになって、慌ててそれを飲み込む。
唇を開くが、「ぁ、」とやはり掠れた声しか出ない。もはや声とも言いつかない。しげはため息をついて後頭部をガシガシと掻いた。
意識が、浮ついている。しげの顔が歪んでいる。それはきっと、事実を知ってしまったから。
◯「…ここがどこだか、わかる?」
□「えぁ、…ここ、…しげの家…」
◯「あー、まぁ、そうなんだけど」
そうじゃなくてさ、としげは言った。
◯「俺の家があるこの世界がどこなのか、って聞いてるんだ」
は、と素っ頓狂な声が漏れる。
□「え…いや、ここは日本でしょ、何が言いたいの、え?」
◯「目を覚ませ、って言えばわかるの?」
困惑しっぱなしの俺に、畳み掛けるような発言。
あぁ、そうか、俺は今、
◯「こやまさんは、夢を見てるんだよ」
優しい、やさしい、優しい声色だった。しげが変わってしまう前の、あのいつものしげだ。安心して泣きそうになる。
◯「こやまさんは、現実から逃げるために夢を見てるんだ」
□「現実から逃げるため…?」
◯「そう。俺が昏睡状態であるという現実」
頭が、真っ白になった。すべての点が線になって繋がってしまったから、もう、後戻りができないのだ。
しげが優しく微笑んで、過去の話を持ち出した。その話を聞いて相槌を打って思い出す度に、心做しか酷い頭痛が起きている気がした。どうやら、俺は夢のなかで彷徨っているらしい──。
──あの日。音楽番組のリハーサル中に俺が倒れたあの日。俺は、こやまの家に運ばれてなんかいなかった。何度呼んでも目が覚めることはなく、やってきた救急車に寄り緊急搬送された。その音楽番組に、俺は出ることが出来ずじまいだった。なぜなら、それまでに目覚めなかったのだ。
それどころではなく、俺はその後一切目覚めなかった。
医者曰く、倒れた際に頭を強く打ち付けたこととそれまで続いていた精神的なダメージがともにダブルパンチで俺を襲ったため、昏睡状態が長く続いているのかもしれないということだった。
こやまは誰が「そんなことないよ」と言っても、「しげちゃんが倒れたのは俺のせいだ」と言って聞かなかった。
俺が倒れて昏睡状態になってから、こやまは壊れたのだ。まだ、俺が倒れたことを自分のせいだと嘆くくらいならばよかった。しかし、それだけでは済まなかったらしく、こやまは「俺のせいだ」と嘆きながら自分の首を絞め、刃物を持って走り回り、食事もせず…。まっすーや手越が止めても言うことを聞かなかった。こやまは、本当に壊れたのだ。
こやまは仕事ができる状態ではなく、NEWSは活動を休止した。彼はマネージャーと共に精神科病院に通っていたが、通院だけではままならなくなり、入院をしてダメージを受けた心の治療に励んだ。
カウンセリングなどの心のケアを通して、壊れていたこやまの心は修復されていっていた。…その矢先。俺の容態が急変したらしい。それまでは昏睡状態なだけだったのだが、突然心拍数が低下し血圧も一気に下がったのだ。また、呼吸数も異常なまでに低くなり、死を彷徨っている状態になった。
そのせいで、こやまはまた壊れた。
死を彷徨う俺の病室に集まったこやま、まっすー、手越は俺を何度も名前を呼んだ。シゲ、シゲちゃん…。それでも届かない。声が枯れるほど名前を呼び続けたこやまは、最終的に堕ちた。
□「…死ぬなら死ねよ」
ある日、こやまは疲弊した表情を浮かべてそう言うとすっかり細くなった俺の手首を持ち上げて、そこに噛み付いた。甘噛みとは言えない強さ。
俺は手首を噛まれたことで、目醒めた。それは現実で目が覚めたということではなく、異世界で目が醒めたのだ。どういうことかと言うと、俗に言う「あの世」で目が醒めたのである。
「…お目覚めですか」
顔のわからない──ではないな。顔が思い出せない“ひと”に話しかけられた。
◯「……どちら様ですか」
「お目覚めですか」
◯「だからあなたはっ」
「お目覚めですか」
彼──なのか彼女なのか──は、機械的に同じ言葉を繰り返す。仕方なく、「はい」と応えてみた。
「あなたは死にました」
お目覚めですか、のあとにそれ?冗談も程々にしろよ、なんて感情を抱いて鼻で笑えば、「あなたは死にました」とまた繰り返された。証拠はあるのか。睨むように空間を見つめる。
「これを見てください」
突然、俺の目の前にテレビ画面のようなものが映し出された。…いや、テレビ画面というよりスクリーンだ。
「これがあなたです」
そのスクリーンには、病室で眠る俺が映されていた。目線カメラのような動きで俺に近づき、それはベッドサイドのモニターを捉える。緑色で43と表示されているのが見えた。
「この緑色の数値が、何を示しているか、ご存じですか」
◯「43ってやつですか?知らないですけど」
「脈拍です。1分間の、心拍数」
◯「心拍数が43って、…遅いんじゃ」
顔を歪める。人間は1分間にだいたい60から100ほどの心拍数を刻むはずだ。それが43だけとなると、かなり遅いのではないか。
もう一度スクリーンを見ると、その緑色の数値は低下してきていた。
俺の周りには医者やメンバー全員が群がっていて、懸命に俺の名前を呼んでいた。
「わかりますよね。あなたはこのまま死んだのです」
◯「…はぁ」
「そして小山さんは壊れました。後追い自殺をしようとさえ考えていたご様子です」
◯「は?」
「小山さんが壊れないためには、あなたの命が必要です」
◯「そんな、…俺は死んだんですよね?」
死にました、と彼は告げる。
◯「だったら!」
「ですが」
機械的な声は、ボリュームとしては全く大きくなかったのに、俺を静まらせるのには最適な音量だった。
「あなたは小山さんに手首を噛まれましたよね。あれを切欠に、あなたには生きられる余地が生まれました。このスクリーンが消えると、目の前に扉が現れます。その扉を抜けると、あなたが倒れる1ヶ月ほど前に戻ることができます」
◯「…まさか、戻ってこやまが壊れないようにするってこと…?」
「はい。小山さんに言い聞かせてやってほしいのです。逃げてはいけない、と」
つまり、俺は小山が壊れないようにするためにこの地に戻ってきたのだ。…そう、俺がいなくても大丈夫なように。
──しげちゃんの壮絶な話を聞いて、胸がぐちゃぐちゃになった。何を伝えるべきなのだろう。…今の自分が、しげちゃんが死んで壊れるとは思えない。
◯「こやま、目を覚ませ。ずっと眠ってるのなんてつまんないだろ」
□「…でも、…目が覚めたら、しげちゃんはいないんでしょ」
◯「あぁ、いないね」
□「じゃあ、ずっとこのままでいい」
◯「それじゃダメなんだよ、こやま」
だって、しげがいない世界で生きるなんてつまらない。だったら、このまま眠って──。
鈍い音がした。頭がぐらぐらと揺れる。…しげちゃんに、殴られた。これまで、たいした喧嘩もしたことがなかったのに、突然殴られてしまった。困惑で何を言葉を発することができなかった。
□「な、」
なんで、の3つの音さえ口にできない。
◯「俺は、こやまさんがしっかり生きるためにここにいるの。…こやまさんが目覚めないから、今、手越やまっすーは個々で活動を頑張ってるんだよ。…お前、リーダーだろ」
“NEWSのリーダーであるお前に、話したいことがある”。あの時、そう切り出したしげ。“リーダー”を強調したのは、これが伝えたかったからか?リーダーだというのに夢のなかを彷徨っているなんて、お前は何をしているのだと、伝えたかったのか?
◯「俺が死んだの、悲しい?」
□「あたりまえ、っ」
◯「喜びは有限。悲しみは無限。ただ出来事として受け入れる」
俺は心の中でしげが言った言葉を何度も繰り返した。
□「しげが生きている結果には、絶対ならないの?」
◯「…タイムパラドックスって知ってる?…時間軸を遡って過去の出来事を書き換えると、未来での出来事に矛盾点が出るの。俺は未来から来た訳じゃないけど、そんなもん。今、俺は世間一般論として“死んだ”ことになってるんだ」
□「君主論、…第25章、思い出してよ」
君主論とは、ニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作。
マキャヴェッリは第25章でこう述べている。
運命は変転する、と。
□「運命は、」
◯「運命とか、…綺麗事言ってんなよ」
歯ぎしりの音。
◯「逃げるなって、言っただろ」
□「…逃げない約束なんかしてないじゃんか」
◯「まだそんな子供みたいなこと言うの?」
□「しげが死んだ事実を知って、っそれで生きようなんてできっこないん」
◯「生きろ!」
しげの顔が歪む。…違う、これはしげのせいではない。俺が泣いているからだ。だけど、しげの身体が薄くなっているのを見てわかった。しげは“そろそろ”だ。
◯「俺は死んだ、それだけだ。…もう、過去は変えられない。わかるだろ、こやま」
いつものしゃがれ声が、いつにもましてハスキーだ。しかも、バラード曲を歌う俺の手みたいに声が震えていて、…あぁ、しげらしくないじゃないか。
□「わかった、わかったよ。でもひとつだけ聞かせて。…俺、覚えてないんだ。しげが、死んじゃった理由」
しげが倒れて昏睡状態に陥って、俺が壊れて、…しげはいつの間にか死んでいた。俺は、ずっとしげのそばにいたはずだったのに、しげの断末魔を一切覚えていなかった。毎日病室に通って、「おはよう」「早く起きて」などを何度もしげに伝え続けていたことや「俺のせいだ」と叫び続けていたこと以外は覚えていなかったのだ。
◯「それは、倒れたから…」
□「倒れただけで昏睡状態になる?頭を打ったらなるかもしれないけど…あんまり強く打ちつけたようには思えない」
◯「夢のなかではね」
□「え…?」
夢のなかで、しげは倒れてから俺に話しかけた。…だけど、俺が逃げてきた現実ではどうだったのだろう。
◯「現実では、倒れて頭を打って脳震盪を起こした。その後遺症で、俺は昏睡状態になったんだ」
□「…倒れた理由は?体調不良だとしても、倒れるほど体調が悪いなんて酷い話じゃない」
しげは目を伏せて考え込んだ。するするとは言えないらしい。…なんて綺麗なひとなんだろう。今更、故人を想ってうっとりとする。
◯「そう、だね…倒れた理由、言ってなかったか」
言い難いのだろう。それは、しげの苦笑気味の微笑でよくわかった。
◯「…俺さ、もともと死のうと思ってたんだよ」
□「……は?」
実は重い病気に罹ってたんだ、と言われる覚悟ばできているはずだった。だというのに、まさかそんな答え?戸惑いを隠せず、俺はぽかんと口を開けて固まってしまった。
しげはそんな俺を見てくすりと笑う。
◯「4人で、活動してさ…最初は9人だったのに、4人になっても頑張って“NEWS”を続けてきて、不祥事を起こしてしまったりしたけど、俺たちに着いてきてくれるファンの子たちもいて、…幸せだった。もっとたくさんのCDを出したい、4人での活動の幅を広げたい、俺はもっと素敵な物語を書いて一般の人をあっと言わせたい、俳優業も頑張りたいって、たくさんの夢があった。…でも」
しげは1度言葉を区切り、ふらりとベッドに腰掛けた。それまで床に座っていたから、尻が痛いのだろうか。…いや、もしかしたら、死んでるから痛みなんて感じないのかもしれない。
◯「それは、夢じゃなくて欲望になってしまった」
欲望。決して悪いものではないはずだが、どうしてこうも極悪人を連想してしまうのだろう。
しげは自分の両手を開いて見つめた。まるで、転んだ子供が汚れた両手を見るみたいに。子供のように泣きはしないが、その目は潤んでいるような気もした。
◯「ひとは、欲望に塗れて生きている。こやまさんだって、もっとNEWSを盛り上げたいと思ってるでしょ?…問題を起こしちゃって、信用ならないって思われてしまったけど、それでも褒められたいし好感度を上げたいと思ってたでしょ」
□「まぁ、そりゃね」
◯「ひとの欲なんて、所詮そんなもの。叶うか叶わないかわからない、だけど物凄い努力を重ねれば叶うこと」
□「…物凄い努力」
俺は、“物凄い努力”をしてきたのだろうか。
◯「俺もね、物凄い努力を重ねれば叶う欲望を見つけたんだ。…だけど、俺にはそれを叶える力がなかった」
□「…どういうこと」
◯「……努力のしようがない欲望だった。というか、俺が努力しても無理な欲。手越なんかは叶えられたんだろうね」
手越は叶えられて、しげには叶えられなかった欲望?2人は同い年で似たもの同士で、…だけどどこか離れている。2人が同じことを望んだなら、お互いの利益は同じようにかさましされるのか?それとも、手越だけ若しくはしげだけが得をするのだろうか。
◯「もっと言えば、俺の欲望に気づいてくれなかった相手の努力も足りなかった」
泣きそうに微笑んだ彼を見て、苦しくなる。…俺は、どうすれば。…どうしてあげられたんだ。
◯「こやまさん、…もっともっと、愛して欲しかったよ」
しげは、愛してもらう努力を続けていた。しかし、欲望に対するその努力に気づけなかった俺が何の努力もしなかったから、しげは欲望のなかで喚き叫びながら壊れたのだ。自分の愛する相手が自分に対して何もしてくれないなんて、どんな悲話だ。しげは、そんな俺に傷つけられて精神を病ませて、──死を決意していた。
◯「俺は、こやまさんに直接“愛して”って言えるほど強くもなかったし、何も言わずに愛されるのを待つだけのほど弱くもなかった」
だったら、もう消えようと思ったんだ。
吐き出された言葉ひとつひとつが胸に刺さって、そのまま溶ける。それはまるで毒の作用。解毒はできないみたい。
□「……やっぱ、…しげちゃんは、俺のせいで」
◯「違うよ。俺、自殺してないじゃん」
□「…あ。…あ、でもっ、…倒れたのは」
◯「あれ、わざとなんだ」
頭が真っ白になった、というか。わざと、とは。なんだそれ。
◯「もともと、倒れようと思ってた。そしたら、…心配してくれるだろうって…愛してくれるだろうって!」
しげの策略通り、俺はすぐしげに駆け寄った。「大丈夫か」と焦燥の混じる声で聞いて…しげが目覚めなくて、泣くように何度も声をかけ続けた。
◯「…やっぱり、こやまは俺を心配してくれた。毎日のように声をかけてくれて、愛してくれた」
□「…うん」
◯「きっと、それで充分になっちゃったんだ」
□「…うん」
◯「こやまさんが愛してくれて、嬉しくて、…もういいやって。もう満足だ、って」
□「…」
呆れたのか、悔やんでるのか、なんだ。自分の感情さえ行方不明で、何も考えられない。
□「そんな…、……それで、…それだけで、死んだの」
◯「死ぬ気はなかったんだけどね。思ったより強く頭打っちゃって」
あまり気にしていない様子で、しげはへらへらと笑った。
物凄い痛みを感じて死んだはずだというのに、どうしてこうも笑っていられるのだ。
□「後悔とかしてないの?死ぬ気はなかったんでしょ!?」
◯「してないよ。…だって、こやまさんはあの時、これまででいちばんってくらいの愛をくれたから」
もっと、前々から愛してあげればよかった。…そうすれば、しげは死のうとも思わなかったのに!逆に、しげが倒れてからは中途半端に愛しておけばよかったんだ!そうすれば、しげはもっと愛して欲しいと願ってまだ生きようと思ったはずなのに!
◯「こやまも、…後悔しないで」
しげの手が伸びてきて、俺の頬を撫でた。
◯「俺がいなくても大丈夫なんだよ。俺が死んだって、世界は廻っていく。手越とまっすーと協力して、NEWSを盛り上げていってよ。お前は、NEWSのリーダーだから」
□「そんな、しげ、2人になってもNEWS続けるって言ったじゃん!そんなの、…そんなの無責任だ!!」
◯「……本当に、そうかな」
叫んだ俺に対して、冷静沈着なしげ。
◯「…俺が勝手に死ぬのは、無責任かな。俺以外に責任ある人、いるんじゃないかな」
喉の奥がきゅっと締まる感覚。俺はしげを見つめたまま、動くことができなかった。
◯「ねぇ、こやま」
しげはこのまま死んでいくのか。
◯「これまで、たくさん、ありがとうね」
□「待ってよ、」
◯「こやまに助けられて、愛されて、幸せだったよ」
□「しげ!」
◯「だから!…こやまさん、も、…幸せになってね」
端整な顔立ちが近づいてきて、耳元で揺れた。…あぁ、そんな甘い声で囁かないでくれよ。もう、戻れなくなってしまう。そんな甘ったるい台詞を聞いたら、2人寄り添って甘い甘いキスをしてしまいたくなる。
◯「──大好きだよ」
もう、いなくなってしまうの?
◯「最後にさ、聞かせて?」
□「…なにを」
◯「“愛”って、どこにあると思う?」
□「……は?…え、…心臓、のあたり?」
それは愛ではなく心か?言い直そうとしたが、しげは「そっかぁ」と言うとしばらく黙り込んだ。
◯「…あのね」
□「…ん?」
◯「俺が生きていく方法も、あるよ」
□「え…!?」
◯「でも」
しげは声を振り絞るように言った。
◯「…リスクが、ある」
危険を冒してでも守りたい誰かが、俺にはいた。だから、リスクがどうのこうのだなんてどうでもよかった。
◯「方法は簡単。俺の心臓に手を当てて、で、前噛んだ俺の手首をまな同じように甘噛みすればいい。…甘噛みだよ。強く噛んだらそこで終わり」
しげの顔が微かに歪んだ。
◯「甘噛みのタイミングが難しいんだ。鼓動が、どっくん、ってなった瞬間に噛まなきゃいけない。鼓動と噛むタイミングが全く一緒じゃなきゃいけないんだ」
□「…他には?」
◯「あと、噛む強さが前と違うとダメ。この2つ」
□「しげ、俺のこと馬鹿にしてる?」
自分の手首をさするしげに対して、俺は鼻で笑った。
□「そんなの簡単だ。大丈夫」
◯「…もし、失敗したら…どうなると思ってる?」
失敗なんて考えてもいない、と言ったら、しげは怒るのだろうか。ただ彼の瞳を見つめてみた。しげは怖々と微笑む。
◯「俺は疎か、お前も死ぬぞ」
瞳の奥の光が揺れていて、しげもできることなら生きていたいんだなぁと呑気に思った。俺がこんなに能天気でいられるのは、リスクに怯えていないからだ。大丈夫。2人ぶんの命を背負う覚悟はある。すべての責任を負う覚悟が、俺にはある。
◯「それに、…俺は1部の記憶を失うかもしれない。お前のことだけ、忘れるかもしれないよ」
□「いいよ。失敗なんか、しないから」
◯「………信じるよ。…じゃあ、約束。失敗したら」
へら、としげは笑って──俺の唇に己のものを重ねた。
◯「金輪際、キスしないから」
やっと恋人らしいことを…。俺はにやけを抑えられずに頷いた。
◯「…怖いから、失敗した時のために言っておく」
やけに、自分の心臓の音が大きく聞こえる。失敗しないとは思っていても、やはり緊張しているのだ。
◯「こやまのことが大好きなこと、また会えるまで忘れないで」
□「うん」
◯「それから」
俺はしげの胸に手を伸ばした。そのまま、心臓の音を感じられる位置に手を動かす。
◯「こやまと、…親友の域を超えて恋人になって、…こやまに対して大きい感情が湧いて、本当に幸せだった。もし生きていられることになったら、また愛してね」
□「…大きい感情って?」
◯「──ルートマイナス1」
しげは、しげの胸に触れる俺の手を掴んだ。
◯「ルートマイナス1だよ。これに限る」
夢のなかでも言われた気がする。ルートマイナス1の答え、なんだったか忘れてしまって、考えもしなかった。
□「しげ、ルートマイナス1って」
◯「あと15秒。タイミング見つけて噛んで」
□「ちょっ」
◯「好きにしていいから」
どっくん、どっくん、どっくん、どっくん。…あ、重なる。
──俺はしげの手首に噛みついた。
「呼吸が安定してきました!」
「心拍数も上がってきたぞ!」
ふと、目が覚めた。硬くて冷たいソファの上。…病院?
▽「あ、小山起きた?」
□「あれ…しげは…」
▽「今ね、容態が安定してきて…治療してる。きっとすぐ良くなるって」
□「…ほんと?…よかっ、た」
ほらね、しげ、失敗しなかったでしょ。
♡「慶ちゃん魘されてたね」
□「…あ、夢、見てた」
▽「へぇ、どんな?」
どんな、夢だろう。言葉にするのは難しくて、うーんと考え込む。
□「……ルートマイナス1の、勉強」
♡「うわ、ルートとか無理。素因数分解とかでしょ?」
▽「ルートのマイナスって何?」
□「そうだ、調べなきゃ」
3人で俺の携帯を覗き込んだ。俺は検索アプリを開いて、「ルートマイナス1」と打ち込む。その間も、治療室では難しい単語が飛び交い続けている。
検索結果に、俺は息を呑んだ。はっきり言葉にしなかったのは、きっと羞恥からなのだろう。途端に愛おしくてたまらなくなってしまった。
Life isn't always what one likes. Is it?
(人生は思うようにはいかないものさ。そうだろう?)
その小一時間後、しげの意識は回復した。回復力も凄まじく、また、突然容態が良くなったため医師たちは混乱していた。しかし、そんなことを考えている隙間はなく、俺たちは治療室に飛び込んでいった。
◯「…ありが、と」
▽「シゲ、わかる?俺たちのこと」
◯「…まっすー、てごし」
舌足らずな声が聞こえる。“…俺は1部の記憶を失うかもしれない。お前のことだけ、忘れるかもしれないよ”と言われたことを思い出して、苦しそうな表情のしげを見つめて呼吸を止めた。
◯「…もうすぐで、思い出せそう」
□「ヒント。…俺たち、お互い大きな感情を抱いてて…本当に幸せだったんだよ。でね、その大きな感情ってのは」
ルートマイナス1、と噛み締めるように答える。すると、しげの大きな瞳が突然潤み出して、手が伸びてきた。
◯「…こやまさ、…っ」
その手を掬う。手首の、ざらりとした感触──噛み跡だ。
◯「…ありがと、…もっと、もっと、あいして」
□「もちろんだよ」
手越とまっすーの安心したような微笑み。
ありがとうはこっちの台詞だ。俺からもありがとう。これからは、もっと大きな“ルートマイナス1”を、しげに届けるよ。
──ルートマイナス1は、“ i ”である。
but it did happen.
(だがそれは起こった。)
□「──え?」
彼は、持参した文庫本を読みながらまるで独り言のように言った。もしかしたら、本当に独り言だったのかもしれない。しかし、この楽屋にいるのは俺と彼だけだったし、彼は集中して本を読むタイプだから、読みながら独り言は言わない。彼は、俺に話しかけているのだ。
□「えっと、…ルートマイナス1?」
◯「そう。ルートマイナス1」
わかる?とページを捲りながら言った。
□「…覚えてないや」
7秒ほどして、彼は俯いたまま「そう」とだけ呟いた。
□「…どうしたの。しげちゃん、具合悪いの?元気ないよ」
◯「え?そんなことないよ」
しげはにっこりと微笑んだが、それはCG合成のようだった。どんな言葉をかけようかと考えていると、楽屋のドアが開かれてまっすーと手越が入ってきた。おはようを交わして、手越は俺の隣に腰かける。2人は、テゴマスとして雑誌の撮影があったらしい。
相変わらず、しげは文庫本を読み耽っている。俺と手越のうるさい会話なんて聞こえていないみたいだ。透明な耳栓をしているのだろう。
♡「んでねー、そのスタッフさんが〜」
手越は無垢な少年のように俺に話しかけ続けた。
♡「だったんだよ〜…って聞いてる?大丈夫?」
□「あぁ、聞いてるよっ」
俺の視線は、自然としげのほうに向く。しげと、その隣に座るまっすーと言うのが正しいのだろう。
♡「なになに、慶ちゃん嫉妬?」
□「ばか、お前」
こっそりと笑った手越の脇腹を軽く突く。
ちょうど、まっすーがしげに話しかけているところだった。
▽「シゲ大丈夫?顔色悪いよ」
◯「あー、…いや、まぁ」
▽「ほら、本読むのやめて」
◯「あっ、ちょっとまっす…」
まっすーはしげの読んでいた本を取り上げてスピンを挟むと、自分の肩にしげの肩を寄せた。されるがまま、しげはまっすーの肩に頭を預けると、そのまま眠りに落ちた。
♡「わーぉ、イチャついてる」
□「…しげだって疲れてんだよ」
♡「…はいはい」
まっすーはその体制のまま、ファッション誌を眺めていた。俺の視線には気づきやしない。
その日以降、しげは体調が優れないようで沈んだ表情をしていた。メディアでのステージは完璧にこなすが、ふとした時に苦しそうな表情を浮かべていることが多くあり、ネットでは「シゲ、なんか顔色悪くない?」「最近忙しいのかな…休んでほしい」と彼の体調を重んずる声が多く上がっていた。その逆で、「芸能生活長いんだから、自分の体調管理ぐらいちゃんとして」「プロ意識足りなすぎ」と彼を毛嫌いする声もあった。
今日は、2週間後に控えた歌番組のリハーサルだった。何度か歌ってきた新曲を口ずさみながら、動きを確認する。
▽「手越、さっきの手の位置高すぎかも」
♡「おっけ」
一通りやり終えて、お互いにアドバイスをし合いながら数箇所やり直していた時のこと。隣で黙って立っていた人影が揺れた。それはあまりにも一瞬で、──こういう時、人は「動きがスローモーションに見えた」というけれど、俺は動きがクイックモーションに見えた。ゆっくりと、次第に悲鳴が重なっていく。
▽「シゲ!」
まっすーが彼の名前を叫んだ。俺は咄嗟にしゃがんで、顔を覗き込む。
□「しげちゃん、聞こえる!?」
どうしたの、今誰か倒れて、NEWSの加藤さんです、救急車は。
◯「……小山、」
□「しげちゃん!」
◯「…おねが、…」
虚ろな瞳が、何かを訴えている。
◯「……おれをつれてかえって、…お茶かコーヒー、だして」
お茶かコーヒーっていう二択にすると、人は行かないって選択肢を選びにくいんだそうです。
俺はしげを見つめて、口元を緩めた。よかった、彼は救急車を呼ぶほど弱ってはいないし、帰らないほど大丈夫ではないらしい。
□「救急車は、いらないです」
♡「慶ちゃ…?」
□「俺が連れて帰ります。ごめんなさい」
「え、でも!倒れるなんてそんなっ」
大丈夫です、と言ったのは俺でもなくしげでもなく、──まっすーだった。力強い目付きは、偉いスタッフをも黙らせてしまった。
▽「小山に任せれば、加藤は大丈夫ですよ。…しばらく忙しくさせていただいてたから、あぁなっちゃっただけですし」
♡「本番は2週間後っすよね?それまでには治ります。治すように言っておきます」
あとは2人に任せよう。俺は「立てる?」としげに手を差し出した。どうやらふらふらとならば歩けるらしい。
この出来事は、メディアやネットには出回らなかった。しかし、この出来事は、俺たちの今後に大きく関わるものとなった。
□「──お茶にするよ。カフェインは身体の調子悪い時に飲むのは良くないから」
しげを自宅のソファに座らせて、俺はキッチンから声をかける。彼は「ん」と一音だけで返事をした。麦茶をガラス製のコップに注ぎ、それをしげのもとに運ぶ。
□「大丈夫?しげちゃん」
◯「…ん」
静かな空気に耐えられなくなって、俺はテレビをつけた。ニュース番組が流れていた。女性アナウンサーが今話題の水族館を紹介している。
「さて、ここで問題です。サメやイワシなど、たくさん水槽のなかにいますが、サメがイワシのような小魚を食べたり襲ったりしないのはどうしてでしょうか!スタジオの」
突然、画面が黒に包まれた。しげがテレビの画面を消したらしい。
◯「順番なんだって」
□「順番?」
何のことかと思ったが、今女性アナウンサーが言っていた問題の答えのようだった。
◯「水槽に魚を入れていく順番。強い魚、例えばサメとかから先に入れちゃうと全部食べられちゃうけど、一番弱いイワシみたいなのから順番に魚を入れて、最後にサメを放すと何もしないんだって」
□「アウェーだから?」
◯「そうらしいよ。もともとは彼らの縄張りだから大人しくしてるんだって」
□「へぇー、水槽の秩序がそうやって守られてるとはね」
魚が好きなしげのことだから、水族館にも行くのだろう。それで、たくさんの事実を知って、きっと、小説に活用するのだ。
□「…寝る?」
俺の質問には答えず、しげはしばらくしてから呟いた。
◯「オニアンコウっていう深海魚はさ、メスの方が大きいんだけど、小さいオスはメスを見つけるとメスの体に食いついて、寄生すんの」
先ほど倒れたとは思えない、活き活きとした声色だった。
□「それで?」
◯「メスの体に食いついたオスはメスに完全にくっついて生殖器以外の全ての機能を退化させるんだ」
□「どういうこと?」
◯「メスの体の一部になるんだよ」
□「ほんと?おもしろいね」
◯「でしょ。だから実質、オスは死んじゃうんだ。ただ生殖活動だけは続けていて。愛だよ、愛」
なぜ、今そんな話をしたのか。いや、水槽に魚を入れていく順番を話したから、それで思い出しただけかもしれない。しかし、それ以上の何かを、俺は感じていた。しげは、前の事柄に関連付けてこの話をした訳ではないはずだ。
□「…ねぇ、しげちゃ」
◯「あのさ」
力強い瞳。この大きな瞳に、羨望の眼差しを向けていたことは過去によくあった。
◯「NEWSのリーダーであるお前に、話したいことがある」
その発言にドキッとして、自分でもわかるような愛想笑いを浮かべてしまった。しげは俺とは対照的にふっと優しい笑みを浮かべた。彼の手が伸びてきて、俺の頬を撫でる。大きな瞳が俺をじっと見つめて、離さない。その黒目は不安そうに笑う俺を映し出して揺れていた。
◯「俺、“NEWS加藤シゲアキ”としての活動を、一旦休憩したい」
その意味がわからず、呆然とする。
◯「簡潔に言うと、一旦、俺だけNEWSとしての活動を休みたいんだ」
──ねぇ、昔、約束したじゃん。2人になっても、NEWS続けるって、言ったじゃん。
そんな嫌味丸出しの言葉は引っ込んで、代わりに涙が溢れた。どうしてそんなこと、と言いたかった俺の気持ちを理解したしげは、俺の頬から手を離した。
◯「小山も、手越も、まっすーも、…みんな好きだよ。いろんな問題起こして、それでもついてきてくれるファンのみんなのことも、好き。だけど、…こう、疲れちゃった」
□「……そっか」
きっと、その疲弊のせいで倒れたのだ。前科があるせいで、それを止める訳にはいかなかった。
その後、2日間に渡り4人と事務所とで話し合いをした。最終的に、また倒れられても困るから、少しの間しげは活動を休止することになった。しげは何度も「ごめん」と繰り返したが、涙は見せなかった。逆に、泣いたのは俺たち3人のほうだった。これまで、何人かメンバーが脱退していったが、泣くのはいつも残されたほうだった。
話し合いをした3日ほど後、事務所からメディアに向けて「NEWS 加藤シゲアキに関する大切なお知らせ」を発信した。ファンはもちろん、メディア関係者も驚きを隠せない様子だった。
『NEWS 加藤シゲアキに関する大切なお知らせ』
『NEWS及び加藤シゲアキの今後に活動につきまして、ファンの皆様に大切なお知らせがあります。』
『メンバーの加藤シゲアキですが、およそ1ヶ月前から体調不良が続いており、これ以上このまま活動を続けるのは難しいと判断し、NEWSとしての活動及び個人の活動を一旦休止し、治療に専念するという結果に至りました。』
『1週間後に控えた音楽番組をもちまして、加藤シゲアキは一旦活動を休止致します。』
『ファンの皆様、関係者各位には多大なるご迷惑とご心配をおかけすることになりますが、何卒応援をよろしくお願い致します。』
『以下、NEWSのメンバーから皆様へ』
『今回、4人で話し合いをして、加藤の体調を重んずるのが一番だと考え、この結果を下しました。受け止めきれない部分はまだ僕らにもありますが、本人はしっかりと体調を整えていち早くここに戻ってくると言っていますので、どうか信じて待っていてあげてください。小山慶一郎』
『はじめ、加藤本人からこの話をされた時、かなり驚きました。ですが、これからの人生をともにするメンバーの1人ですし、彼のことは彼がいちばんよくわかっていると思うので、しっかり体調不良を治してもらって、また4人でステージに立ちたいと思います。ぜひ見守ってやってください。増田貴久』
『これまで、僕らは問題を起こしてしまったり、ファンの皆さんには心配をかけてばかりですが、この件に関しては心配することはありません。きっとすぐ戻ってきてくれて、あのしゃがれ声でツッコミをいれてくれると思います。気長に待ちましょう。手越祐也』
『ファンの皆様及び関係者各位にはご迷惑とご心配をおかけしている所存ではありますが、僕は絶対にNEWSのもとへ戻ってきます。あと1週間、できる限り体調を整えていつも以上に一生懸命取り組もうと思いますので、応援のほど宜しく御願い致します。また、僕が休止している間のNEWSの応援も宜しく御願い致します。加藤シゲアキ』
残り1週間しかないと嘆くファンも多くいて、もっと早く話し合っておけばなぁなんて呑気に言っていたのはしげだった。しかし、それは嫌味のようには感じられなかった。
「──続いてはNEWSの皆さんでーす」
よろしくお願いします、と頭を下げながら笑う。これが、一旦、4人で活動する最後の番組だ。
「先週、驚きのお知らせがありましたが」
◯「あ、はい」
「加藤さんが体調不良のため、一旦活動を休止するという…」
こちらの表情を伺いながら、アナウンサーが訊いてきた。
◯「そうですね…あのファックスの通りなんですけど。体調不良が長らく続いてしまって、このままだと危ないと思いましてこの決断に」
「脱退、ではなく活動休止?」
◯「はい。時間がかかっても戻ってきます。早めに戻ってくるのが理想ではありますけど」
しげとアナウンサーだけでの会話のラリー。
「あのファックスを発信してみて、どうですか」
◯「そうですね〜…急な発表になってしまって申し訳ない気持ちが大きいです。それと、マスコミが報道するのは早いっすね」
しげはイミテーションの笑顔を浮かべた。
◯「飛行機と似てると思うんです、芸能界やマスコミは。空を飛んでるのを下から見るとすごくゆっくりに見えるけど、本当は時速千キロとか。きっと、そうでないと飽きられてしまうんです」
「さすがは作家さん。言うことが違いますね」
◯「はは。戻ってきた時に、その速さに追いつけるように頑張りたいです」
それではスタンバイお願いします、と隣のステージに移った。頑張ろうな、と4人でアイコンタクトをとる。しげは泣きそうにない、真っ直ぐな瞳を持っていた。
パフォーマンスを終えて、楽屋に戻った。
▽「おつかれ、シゲ」
◯「お疲れ様」
♡「この後は治療に専念だね」
◯「うん、ちゃんと治す」
俺は、しげに、何を言ってあげればいいのか。何も言えないまま、俺はしげに微笑んだ。彼もまた目を細めて、唇を動かした。
◯「“よろしくね”」
たぶん、そう言っていた。残された2人をよろしく頼む、ということだろうか。俺としげは、よく夫婦と称される。その片方がいなくなって、2人の子供を育ててやるのは大変だから──なんて考えは、馬鹿らしいけど。
□「またね」
◯「うん、また」
各自、次の仕事に向かったり直帰したりとタクシーに乗り込む。しげの後ろ姿を見つめて、残された俺たちを見て、…あぁ、これから少しの間は3人なんだと泣きそうになった。
しげが活動を休止してから、1週間が経った。連絡はなかなかとれていないが、たぶん上手くやれているのだろう。好きなように本を読んで、自分でオムライスでも作って食べて、好きな時間に寝て起きて。…まぁ、しげのことだから俺たちのことを気にして普通の生活をしているんだろうけどね。
今日、久々に会いに行こうかなぁ。連絡しないで行ったらびっくりするかなぁ…。
仕事を終えて、しげの家に向かった。俺たちはお互いの家をよく行き来する。間取りも完璧に覚えているぐらいだ。
玄関の前に立ち、チャイムを鳴らした。…出ない。寝ているのかもしれないと思い、もう一度チャイムを鳴らしたが、出ない。特別な用事があった訳ではないけれど、なんだか嫌な予感がしてドアノブに手をかけた。…開いた。しげにしては不用心すぎではないか。ごくりと唾を呑み、ドアを開けた。
□「しげちゃん…?」
薄暗くて、なぜかいつもより長く感じる廊下。キッチンのほうから、水が流れ続ける音がしている。料理をしている?だったらチャイムに返事をするだろうし、今頃玄関まで迎えに来てくれただろう。…じゃあ、どうして水の音がするのだ。しげがリストカットでもしていて、傷口に水を当てていたらどうしよう!そうすれば血の流れがはやくなって、死に至るのが早まるのだ!
□「しげ、しげちゃん!」
キッチンに飛び込んだ。シンクを見れば、蛇口から水が流れたまま。しかし、そこに手首はない。慌てて蛇口から出続ける水を止めた。
□「しげちゃん!」
ただ、シンクの下に、彼はいた。シンク下の棚にもたれ掛かるようにして、目を瞑ったまま、動かない。
何度も名前を呼び、彼の肩を掴んで、身体を揺さぶった。ガクガクと身体が揺れるだけで、本当に目を覚まさない。死んでいたらどうしようと焦燥感が芽生え、口元に耳を当てた。一定のテンポで呼吸をしている。彼の首に指を添えた。一定のテンポで心拍が動いている。…よかった、死んではいない。
□「しげ、しげちゃん…ねぇ、しげちゃん!」
◯「…ん、……?」
薄く目が開かれた。
□「しげちゃん!!」
◯「…うる、さい」
□「…は?」
心配して損した、とは思わなかったものの、どうしてそんなことを言うのだとぎゅっと胸が締め付けられた。
◯「…あたま、…いたくて」
あぁ、だからか──。頭痛で意識を失って、このまま…。じゃあナイスタイミングじゃないか、俺。俺がいなかったら、しげは頭痛が治らないままだったし水道代がとんでもないことになっていたはずだ。
□「…ちょっと動くね」
◯「あ、…こやまさ、」
そっとしげを抱き上げた。しげは俺の首に腕を回した。寝室に向かい、ゆっくりとベッドの上に下ろす。
□「頭痛薬とか持ってる?」
◯「…なかった」
□「んー、そっか」
◯「…水、飲んで、そっから、記憶ない」
□「水飲んでから意識なくなっちゃったんだね」
ベッドに横になるしげと、ベッドに座る俺。
□「とりあえず寝ちゃいな?あ、何かしてほしいことある?」
◯「…ある」
しげは俺の服の裾を引っ張った。
◯「…隣にいて」
しげは、体調を悪くすると甘えん坊になる。ちなみに体調が良くなるとそのことはほぼ忘れてしまうらしい。今日もまた、甘えたがりな様子だ。俺はにやけを抑えながらベッドに潜り込んだ。すると、しげは俺に抱きついて胸に頭を押し付けてきた。
◯「…光入ると、頭痛くなるから」
□「そっかそっか。…おやすみ」
◯「おやすみ」
しげは、変わってしまった。…気がする。思えば、体調を崩し始めた1ヶ月ほど前から、変わってしまったのだろう。ずっと気分が落ち込んでいるみたいにテンションが低くて、暗くて、俯いていて、顔色も悪くて…。どうしてか、わからない。ただ体調が悪くて本調子が出ないだけかもしれないけれど、それにしては暗すぎる。いつものしげではない気がしていた。前までしげは、朝こそテンションは低いが、俺たちの明るいテンションに合わせてはしゃいでくれたし、しょうもない会話も笑って参加してくれた。それが、今はない。ローテンションのまま、笑いもしない。どうしたのと聞けば笑顔を浮かべるが、それだけだった。
どうして話してくれないんだろう。俺たち、恋人同士だよね?
◯「…こやまさん、」
□「へっ、あ、何っ?大丈夫…!?ごめん起こしちゃ」
◯「だぁいじょうぶ」
へらりと笑ったしげの笑顔は本物だった。
◯「…ありがとう、こやまさん」
□「え、…?」
普段、自分から挨拶をしないしげが、ありがとう?驚きのあまり反応できないでいると、しげはまた、ふふっと笑った。
◯「こやまさんのお陰で、俺、ここまで生きてこれたと思ってる。俺はこやまさんの幸せを祈ってるよ」
しげは1度ベッドから降りた。座禅を組んで顔を左に向け、首の後ろから回した右手でその顔を掴み、左手は正面に伸ばして少し丸めた手のひらを上にしたなんとも奇妙なポーズをとる。
◯「これが祈りのポーズなんだ」
□「これが祈りでしょ」
僕が合掌すると、しげは「それは祈りなんかじゃない。祈ってる風だよ」と一蹴した。
しげが俺の名前を呟いた。俺はたまらなくなって、彼をぎゅっと抱きしめた。
◯「…?っふふ、苦しいな」
□「しげちゃん、俺は怖くてたまんないんだ」
◯「え?」
しげがようやく抱きしめ返してくれた。
□「しげちゃんが、しげちゃんじゃなくなってる気がして」
もっと、明るくて優しい人だったはずなのに。しげちゃんは、暗く沈んだ世界で生きているような気がしてならない。
◯「ほんと心配性だよね。…大丈夫だよ」
□「っ、そんな」
◯「体調が良くないだけ。そんなに気にしないでよ」
□「違う!もっと、深くて大きいところがっ」
しげの指が伸びてきて、俺の唇に触れた。
◯「…こやまさん、逃げるな」
下唇が、しげの指によって、弾かれる。喉の奥がぎゅっと締まって、声が出なくなった。出そうとしても、掠れた息が漏れるだけだった。
しげの力強い瞳に見つめられて、なおのこと声が出ない。
◯「思い出せないなんて言わせねぇよ」
両手で自分の口を覆った。信じなければならない、信じたくない出来事を、思い出した。吐き出しそうになって、慌ててそれを飲み込む。
唇を開くが、「ぁ、」とやはり掠れた声しか出ない。もはや声とも言いつかない。しげはため息をついて後頭部をガシガシと掻いた。
意識が、浮ついている。しげの顔が歪んでいる。それはきっと、事実を知ってしまったから。
◯「…ここがどこだか、わかる?」
□「えぁ、…ここ、…しげの家…」
◯「あー、まぁ、そうなんだけど」
そうじゃなくてさ、としげは言った。
◯「俺の家があるこの世界がどこなのか、って聞いてるんだ」
は、と素っ頓狂な声が漏れる。
□「え…いや、ここは日本でしょ、何が言いたいの、え?」
◯「目を覚ませ、って言えばわかるの?」
困惑しっぱなしの俺に、畳み掛けるような発言。
あぁ、そうか、俺は今、
◯「こやまさんは、夢を見てるんだよ」
優しい、やさしい、優しい声色だった。しげが変わってしまう前の、あのいつものしげだ。安心して泣きそうになる。
◯「こやまさんは、現実から逃げるために夢を見てるんだ」
□「現実から逃げるため…?」
◯「そう。俺が昏睡状態であるという現実」
頭が、真っ白になった。すべての点が線になって繋がってしまったから、もう、後戻りができないのだ。
しげが優しく微笑んで、過去の話を持ち出した。その話を聞いて相槌を打って思い出す度に、心做しか酷い頭痛が起きている気がした。どうやら、俺は夢のなかで彷徨っているらしい──。
──あの日。音楽番組のリハーサル中に俺が倒れたあの日。俺は、こやまの家に運ばれてなんかいなかった。何度呼んでも目が覚めることはなく、やってきた救急車に寄り緊急搬送された。その音楽番組に、俺は出ることが出来ずじまいだった。なぜなら、それまでに目覚めなかったのだ。
それどころではなく、俺はその後一切目覚めなかった。
医者曰く、倒れた際に頭を強く打ち付けたこととそれまで続いていた精神的なダメージがともにダブルパンチで俺を襲ったため、昏睡状態が長く続いているのかもしれないということだった。
こやまは誰が「そんなことないよ」と言っても、「しげちゃんが倒れたのは俺のせいだ」と言って聞かなかった。
俺が倒れて昏睡状態になってから、こやまは壊れたのだ。まだ、俺が倒れたことを自分のせいだと嘆くくらいならばよかった。しかし、それだけでは済まなかったらしく、こやまは「俺のせいだ」と嘆きながら自分の首を絞め、刃物を持って走り回り、食事もせず…。まっすーや手越が止めても言うことを聞かなかった。こやまは、本当に壊れたのだ。
こやまは仕事ができる状態ではなく、NEWSは活動を休止した。彼はマネージャーと共に精神科病院に通っていたが、通院だけではままならなくなり、入院をしてダメージを受けた心の治療に励んだ。
カウンセリングなどの心のケアを通して、壊れていたこやまの心は修復されていっていた。…その矢先。俺の容態が急変したらしい。それまでは昏睡状態なだけだったのだが、突然心拍数が低下し血圧も一気に下がったのだ。また、呼吸数も異常なまでに低くなり、死を彷徨っている状態になった。
そのせいで、こやまはまた壊れた。
死を彷徨う俺の病室に集まったこやま、まっすー、手越は俺を何度も名前を呼んだ。シゲ、シゲちゃん…。それでも届かない。声が枯れるほど名前を呼び続けたこやまは、最終的に堕ちた。
□「…死ぬなら死ねよ」
ある日、こやまは疲弊した表情を浮かべてそう言うとすっかり細くなった俺の手首を持ち上げて、そこに噛み付いた。甘噛みとは言えない強さ。
俺は手首を噛まれたことで、目醒めた。それは現実で目が覚めたということではなく、異世界で目が醒めたのだ。どういうことかと言うと、俗に言う「あの世」で目が醒めたのである。
「…お目覚めですか」
顔のわからない──ではないな。顔が思い出せない“ひと”に話しかけられた。
◯「……どちら様ですか」
「お目覚めですか」
◯「だからあなたはっ」
「お目覚めですか」
彼──なのか彼女なのか──は、機械的に同じ言葉を繰り返す。仕方なく、「はい」と応えてみた。
「あなたは死にました」
お目覚めですか、のあとにそれ?冗談も程々にしろよ、なんて感情を抱いて鼻で笑えば、「あなたは死にました」とまた繰り返された。証拠はあるのか。睨むように空間を見つめる。
「これを見てください」
突然、俺の目の前にテレビ画面のようなものが映し出された。…いや、テレビ画面というよりスクリーンだ。
「これがあなたです」
そのスクリーンには、病室で眠る俺が映されていた。目線カメラのような動きで俺に近づき、それはベッドサイドのモニターを捉える。緑色で43と表示されているのが見えた。
「この緑色の数値が、何を示しているか、ご存じですか」
◯「43ってやつですか?知らないですけど」
「脈拍です。1分間の、心拍数」
◯「心拍数が43って、…遅いんじゃ」
顔を歪める。人間は1分間にだいたい60から100ほどの心拍数を刻むはずだ。それが43だけとなると、かなり遅いのではないか。
もう一度スクリーンを見ると、その緑色の数値は低下してきていた。
俺の周りには医者やメンバー全員が群がっていて、懸命に俺の名前を呼んでいた。
「わかりますよね。あなたはこのまま死んだのです」
◯「…はぁ」
「そして小山さんは壊れました。後追い自殺をしようとさえ考えていたご様子です」
◯「は?」
「小山さんが壊れないためには、あなたの命が必要です」
◯「そんな、…俺は死んだんですよね?」
死にました、と彼は告げる。
◯「だったら!」
「ですが」
機械的な声は、ボリュームとしては全く大きくなかったのに、俺を静まらせるのには最適な音量だった。
「あなたは小山さんに手首を噛まれましたよね。あれを切欠に、あなたには生きられる余地が生まれました。このスクリーンが消えると、目の前に扉が現れます。その扉を抜けると、あなたが倒れる1ヶ月ほど前に戻ることができます」
◯「…まさか、戻ってこやまが壊れないようにするってこと…?」
「はい。小山さんに言い聞かせてやってほしいのです。逃げてはいけない、と」
つまり、俺は小山が壊れないようにするためにこの地に戻ってきたのだ。…そう、俺がいなくても大丈夫なように。
──しげちゃんの壮絶な話を聞いて、胸がぐちゃぐちゃになった。何を伝えるべきなのだろう。…今の自分が、しげちゃんが死んで壊れるとは思えない。
◯「こやま、目を覚ませ。ずっと眠ってるのなんてつまんないだろ」
□「…でも、…目が覚めたら、しげちゃんはいないんでしょ」
◯「あぁ、いないね」
□「じゃあ、ずっとこのままでいい」
◯「それじゃダメなんだよ、こやま」
だって、しげがいない世界で生きるなんてつまらない。だったら、このまま眠って──。
鈍い音がした。頭がぐらぐらと揺れる。…しげちゃんに、殴られた。これまで、たいした喧嘩もしたことがなかったのに、突然殴られてしまった。困惑で何を言葉を発することができなかった。
□「な、」
なんで、の3つの音さえ口にできない。
◯「俺は、こやまさんがしっかり生きるためにここにいるの。…こやまさんが目覚めないから、今、手越やまっすーは個々で活動を頑張ってるんだよ。…お前、リーダーだろ」
“NEWSのリーダーであるお前に、話したいことがある”。あの時、そう切り出したしげ。“リーダー”を強調したのは、これが伝えたかったからか?リーダーだというのに夢のなかを彷徨っているなんて、お前は何をしているのだと、伝えたかったのか?
◯「俺が死んだの、悲しい?」
□「あたりまえ、っ」
◯「喜びは有限。悲しみは無限。ただ出来事として受け入れる」
俺は心の中でしげが言った言葉を何度も繰り返した。
□「しげが生きている結果には、絶対ならないの?」
◯「…タイムパラドックスって知ってる?…時間軸を遡って過去の出来事を書き換えると、未来での出来事に矛盾点が出るの。俺は未来から来た訳じゃないけど、そんなもん。今、俺は世間一般論として“死んだ”ことになってるんだ」
□「君主論、…第25章、思い出してよ」
君主論とは、ニッコロ・マキャヴェッリによる、イタリア語で書かれた政治学の著作。
マキャヴェッリは第25章でこう述べている。
運命は変転する、と。
□「運命は、」
◯「運命とか、…綺麗事言ってんなよ」
歯ぎしりの音。
◯「逃げるなって、言っただろ」
□「…逃げない約束なんかしてないじゃんか」
◯「まだそんな子供みたいなこと言うの?」
□「しげが死んだ事実を知って、っそれで生きようなんてできっこないん」
◯「生きろ!」
しげの顔が歪む。…違う、これはしげのせいではない。俺が泣いているからだ。だけど、しげの身体が薄くなっているのを見てわかった。しげは“そろそろ”だ。
◯「俺は死んだ、それだけだ。…もう、過去は変えられない。わかるだろ、こやま」
いつものしゃがれ声が、いつにもましてハスキーだ。しかも、バラード曲を歌う俺の手みたいに声が震えていて、…あぁ、しげらしくないじゃないか。
□「わかった、わかったよ。でもひとつだけ聞かせて。…俺、覚えてないんだ。しげが、死んじゃった理由」
しげが倒れて昏睡状態に陥って、俺が壊れて、…しげはいつの間にか死んでいた。俺は、ずっとしげのそばにいたはずだったのに、しげの断末魔を一切覚えていなかった。毎日病室に通って、「おはよう」「早く起きて」などを何度もしげに伝え続けていたことや「俺のせいだ」と叫び続けていたこと以外は覚えていなかったのだ。
◯「それは、倒れたから…」
□「倒れただけで昏睡状態になる?頭を打ったらなるかもしれないけど…あんまり強く打ちつけたようには思えない」
◯「夢のなかではね」
□「え…?」
夢のなかで、しげは倒れてから俺に話しかけた。…だけど、俺が逃げてきた現実ではどうだったのだろう。
◯「現実では、倒れて頭を打って脳震盪を起こした。その後遺症で、俺は昏睡状態になったんだ」
□「…倒れた理由は?体調不良だとしても、倒れるほど体調が悪いなんて酷い話じゃない」
しげは目を伏せて考え込んだ。するするとは言えないらしい。…なんて綺麗なひとなんだろう。今更、故人を想ってうっとりとする。
◯「そう、だね…倒れた理由、言ってなかったか」
言い難いのだろう。それは、しげの苦笑気味の微笑でよくわかった。
◯「…俺さ、もともと死のうと思ってたんだよ」
□「……は?」
実は重い病気に罹ってたんだ、と言われる覚悟ばできているはずだった。だというのに、まさかそんな答え?戸惑いを隠せず、俺はぽかんと口を開けて固まってしまった。
しげはそんな俺を見てくすりと笑う。
◯「4人で、活動してさ…最初は9人だったのに、4人になっても頑張って“NEWS”を続けてきて、不祥事を起こしてしまったりしたけど、俺たちに着いてきてくれるファンの子たちもいて、…幸せだった。もっとたくさんのCDを出したい、4人での活動の幅を広げたい、俺はもっと素敵な物語を書いて一般の人をあっと言わせたい、俳優業も頑張りたいって、たくさんの夢があった。…でも」
しげは1度言葉を区切り、ふらりとベッドに腰掛けた。それまで床に座っていたから、尻が痛いのだろうか。…いや、もしかしたら、死んでるから痛みなんて感じないのかもしれない。
◯「それは、夢じゃなくて欲望になってしまった」
欲望。決して悪いものではないはずだが、どうしてこうも極悪人を連想してしまうのだろう。
しげは自分の両手を開いて見つめた。まるで、転んだ子供が汚れた両手を見るみたいに。子供のように泣きはしないが、その目は潤んでいるような気もした。
◯「ひとは、欲望に塗れて生きている。こやまさんだって、もっとNEWSを盛り上げたいと思ってるでしょ?…問題を起こしちゃって、信用ならないって思われてしまったけど、それでも褒められたいし好感度を上げたいと思ってたでしょ」
□「まぁ、そりゃね」
◯「ひとの欲なんて、所詮そんなもの。叶うか叶わないかわからない、だけど物凄い努力を重ねれば叶うこと」
□「…物凄い努力」
俺は、“物凄い努力”をしてきたのだろうか。
◯「俺もね、物凄い努力を重ねれば叶う欲望を見つけたんだ。…だけど、俺にはそれを叶える力がなかった」
□「…どういうこと」
◯「……努力のしようがない欲望だった。というか、俺が努力しても無理な欲。手越なんかは叶えられたんだろうね」
手越は叶えられて、しげには叶えられなかった欲望?2人は同い年で似たもの同士で、…だけどどこか離れている。2人が同じことを望んだなら、お互いの利益は同じようにかさましされるのか?それとも、手越だけ若しくはしげだけが得をするのだろうか。
◯「もっと言えば、俺の欲望に気づいてくれなかった相手の努力も足りなかった」
泣きそうに微笑んだ彼を見て、苦しくなる。…俺は、どうすれば。…どうしてあげられたんだ。
◯「こやまさん、…もっともっと、愛して欲しかったよ」
しげは、愛してもらう努力を続けていた。しかし、欲望に対するその努力に気づけなかった俺が何の努力もしなかったから、しげは欲望のなかで喚き叫びながら壊れたのだ。自分の愛する相手が自分に対して何もしてくれないなんて、どんな悲話だ。しげは、そんな俺に傷つけられて精神を病ませて、──死を決意していた。
◯「俺は、こやまさんに直接“愛して”って言えるほど強くもなかったし、何も言わずに愛されるのを待つだけのほど弱くもなかった」
だったら、もう消えようと思ったんだ。
吐き出された言葉ひとつひとつが胸に刺さって、そのまま溶ける。それはまるで毒の作用。解毒はできないみたい。
□「……やっぱ、…しげちゃんは、俺のせいで」
◯「違うよ。俺、自殺してないじゃん」
□「…あ。…あ、でもっ、…倒れたのは」
◯「あれ、わざとなんだ」
頭が真っ白になった、というか。わざと、とは。なんだそれ。
◯「もともと、倒れようと思ってた。そしたら、…心配してくれるだろうって…愛してくれるだろうって!」
しげの策略通り、俺はすぐしげに駆け寄った。「大丈夫か」と焦燥の混じる声で聞いて…しげが目覚めなくて、泣くように何度も声をかけ続けた。
◯「…やっぱり、こやまは俺を心配してくれた。毎日のように声をかけてくれて、愛してくれた」
□「…うん」
◯「きっと、それで充分になっちゃったんだ」
□「…うん」
◯「こやまさんが愛してくれて、嬉しくて、…もういいやって。もう満足だ、って」
□「…」
呆れたのか、悔やんでるのか、なんだ。自分の感情さえ行方不明で、何も考えられない。
□「そんな…、……それで、…それだけで、死んだの」
◯「死ぬ気はなかったんだけどね。思ったより強く頭打っちゃって」
あまり気にしていない様子で、しげはへらへらと笑った。
物凄い痛みを感じて死んだはずだというのに、どうしてこうも笑っていられるのだ。
□「後悔とかしてないの?死ぬ気はなかったんでしょ!?」
◯「してないよ。…だって、こやまさんはあの時、これまででいちばんってくらいの愛をくれたから」
もっと、前々から愛してあげればよかった。…そうすれば、しげは死のうとも思わなかったのに!逆に、しげが倒れてからは中途半端に愛しておけばよかったんだ!そうすれば、しげはもっと愛して欲しいと願ってまだ生きようと思ったはずなのに!
◯「こやまも、…後悔しないで」
しげの手が伸びてきて、俺の頬を撫でた。
◯「俺がいなくても大丈夫なんだよ。俺が死んだって、世界は廻っていく。手越とまっすーと協力して、NEWSを盛り上げていってよ。お前は、NEWSのリーダーだから」
□「そんな、しげ、2人になってもNEWS続けるって言ったじゃん!そんなの、…そんなの無責任だ!!」
◯「……本当に、そうかな」
叫んだ俺に対して、冷静沈着なしげ。
◯「…俺が勝手に死ぬのは、無責任かな。俺以外に責任ある人、いるんじゃないかな」
喉の奥がきゅっと締まる感覚。俺はしげを見つめたまま、動くことができなかった。
◯「ねぇ、こやま」
しげはこのまま死んでいくのか。
◯「これまで、たくさん、ありがとうね」
□「待ってよ、」
◯「こやまに助けられて、愛されて、幸せだったよ」
□「しげ!」
◯「だから!…こやまさん、も、…幸せになってね」
端整な顔立ちが近づいてきて、耳元で揺れた。…あぁ、そんな甘い声で囁かないでくれよ。もう、戻れなくなってしまう。そんな甘ったるい台詞を聞いたら、2人寄り添って甘い甘いキスをしてしまいたくなる。
◯「──大好きだよ」
もう、いなくなってしまうの?
◯「最後にさ、聞かせて?」
□「…なにを」
◯「“愛”って、どこにあると思う?」
□「……は?…え、…心臓、のあたり?」
それは愛ではなく心か?言い直そうとしたが、しげは「そっかぁ」と言うとしばらく黙り込んだ。
◯「…あのね」
□「…ん?」
◯「俺が生きていく方法も、あるよ」
□「え…!?」
◯「でも」
しげは声を振り絞るように言った。
◯「…リスクが、ある」
危険を冒してでも守りたい誰かが、俺にはいた。だから、リスクがどうのこうのだなんてどうでもよかった。
◯「方法は簡単。俺の心臓に手を当てて、で、前噛んだ俺の手首をまな同じように甘噛みすればいい。…甘噛みだよ。強く噛んだらそこで終わり」
しげの顔が微かに歪んだ。
◯「甘噛みのタイミングが難しいんだ。鼓動が、どっくん、ってなった瞬間に噛まなきゃいけない。鼓動と噛むタイミングが全く一緒じゃなきゃいけないんだ」
□「…他には?」
◯「あと、噛む強さが前と違うとダメ。この2つ」
□「しげ、俺のこと馬鹿にしてる?」
自分の手首をさするしげに対して、俺は鼻で笑った。
□「そんなの簡単だ。大丈夫」
◯「…もし、失敗したら…どうなると思ってる?」
失敗なんて考えてもいない、と言ったら、しげは怒るのだろうか。ただ彼の瞳を見つめてみた。しげは怖々と微笑む。
◯「俺は疎か、お前も死ぬぞ」
瞳の奥の光が揺れていて、しげもできることなら生きていたいんだなぁと呑気に思った。俺がこんなに能天気でいられるのは、リスクに怯えていないからだ。大丈夫。2人ぶんの命を背負う覚悟はある。すべての責任を負う覚悟が、俺にはある。
◯「それに、…俺は1部の記憶を失うかもしれない。お前のことだけ、忘れるかもしれないよ」
□「いいよ。失敗なんか、しないから」
◯「………信じるよ。…じゃあ、約束。失敗したら」
へら、としげは笑って──俺の唇に己のものを重ねた。
◯「金輪際、キスしないから」
やっと恋人らしいことを…。俺はにやけを抑えられずに頷いた。
◯「…怖いから、失敗した時のために言っておく」
やけに、自分の心臓の音が大きく聞こえる。失敗しないとは思っていても、やはり緊張しているのだ。
◯「こやまのことが大好きなこと、また会えるまで忘れないで」
□「うん」
◯「それから」
俺はしげの胸に手を伸ばした。そのまま、心臓の音を感じられる位置に手を動かす。
◯「こやまと、…親友の域を超えて恋人になって、…こやまに対して大きい感情が湧いて、本当に幸せだった。もし生きていられることになったら、また愛してね」
□「…大きい感情って?」
◯「──ルートマイナス1」
しげは、しげの胸に触れる俺の手を掴んだ。
◯「ルートマイナス1だよ。これに限る」
夢のなかでも言われた気がする。ルートマイナス1の答え、なんだったか忘れてしまって、考えもしなかった。
□「しげ、ルートマイナス1って」
◯「あと15秒。タイミング見つけて噛んで」
□「ちょっ」
◯「好きにしていいから」
どっくん、どっくん、どっくん、どっくん。…あ、重なる。
──俺はしげの手首に噛みついた。
「呼吸が安定してきました!」
「心拍数も上がってきたぞ!」
ふと、目が覚めた。硬くて冷たいソファの上。…病院?
▽「あ、小山起きた?」
□「あれ…しげは…」
▽「今ね、容態が安定してきて…治療してる。きっとすぐ良くなるって」
□「…ほんと?…よかっ、た」
ほらね、しげ、失敗しなかったでしょ。
♡「慶ちゃん魘されてたね」
□「…あ、夢、見てた」
▽「へぇ、どんな?」
どんな、夢だろう。言葉にするのは難しくて、うーんと考え込む。
□「……ルートマイナス1の、勉強」
♡「うわ、ルートとか無理。素因数分解とかでしょ?」
▽「ルートのマイナスって何?」
□「そうだ、調べなきゃ」
3人で俺の携帯を覗き込んだ。俺は検索アプリを開いて、「ルートマイナス1」と打ち込む。その間も、治療室では難しい単語が飛び交い続けている。
検索結果に、俺は息を呑んだ。はっきり言葉にしなかったのは、きっと羞恥からなのだろう。途端に愛おしくてたまらなくなってしまった。
Life isn't always what one likes. Is it?
(人生は思うようにはいかないものさ。そうだろう?)
その小一時間後、しげの意識は回復した。回復力も凄まじく、また、突然容態が良くなったため医師たちは混乱していた。しかし、そんなことを考えている隙間はなく、俺たちは治療室に飛び込んでいった。
◯「…ありが、と」
▽「シゲ、わかる?俺たちのこと」
◯「…まっすー、てごし」
舌足らずな声が聞こえる。“…俺は1部の記憶を失うかもしれない。お前のことだけ、忘れるかもしれないよ”と言われたことを思い出して、苦しそうな表情のしげを見つめて呼吸を止めた。
◯「…もうすぐで、思い出せそう」
□「ヒント。…俺たち、お互い大きな感情を抱いてて…本当に幸せだったんだよ。でね、その大きな感情ってのは」
ルートマイナス1、と噛み締めるように答える。すると、しげの大きな瞳が突然潤み出して、手が伸びてきた。
◯「…こやまさ、…っ」
その手を掬う。手首の、ざらりとした感触──噛み跡だ。
◯「…ありがと、…もっと、もっと、あいして」
□「もちろんだよ」
手越とまっすーの安心したような微笑み。
ありがとうはこっちの台詞だ。俺からもありがとう。これからは、もっと大きな“ルートマイナス1”を、しげに届けるよ。
──ルートマイナス1は、“ i ”である。
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