「やけど」セイギ×零 セイギside
「あっち…」
頼んだホットコーヒーが、思ったより熱い。
…火傷してしまっただろうか。
『セイギさん…?あっ、ダメですっ冷やさなきゃ…!』
脳裏を過るのは、愛しき恋人の声。
俺をキッチンに連れていって、火傷した箇所をほぼ無理矢理水で冷やしてくれた恋人。
──どこに行けば、君に出逢えますか。
ユ「久しぶり、セイギ」
高校の同級生だった、いつかの戦友。そして今の親友。
そんな彼と、今日は久々に再会するのだ。
ユ「セイギは今、何してるんだっけ?」
ユウキはエスプレッソを頼むと、開口いちばんにそれを切り出した。
「その辺のレストランの厨房で色々やってるよ…お前は?」
ユ「美容師やってる。といっても、腕前はまだまだだけどね」
店員が、「エスプレッソお待たせしました」と丁寧にテーブルに置いた。ユウキは「どうも」と微笑む。
ユ「お兄さんは?」
「…どうしたんだろうな、もう何年も会ってねぇよ」
俺はコーヒーを啜る。
ユ「…あれ、火傷?」
「ん?…あぁ、さっきこのコーヒーが熱くて」
ユ「冷やさなきゃダメでしょ…もう」
冷やしたって、あいつがいなければ意味が無い。
ユ「そういえば、あの子は?」
「…あの子って?」
ユウキは1口エスプレッソを飲み込んでから、真っ直ぐに俺を見て言った。
ユ「彼女さんだよ」
「…あー…零…の、ことか」
わかりやすく戸惑ってしまって、ユウキが「あっ」と声を出す。
ユ「ごめん、言いたくないなら──」
「いや、いいよ。…どっかに、行っちまったんだ…それだけ」
え、とユウキが目を見開く。
言った俺自身は、とてつもない罪悪感を抱いていた。
きっと、あいつがいなくなったのは俺のせい、なのだから。
「別れた訳じゃないし…略奪婚とかでもない…んだけど、3ヶ月ぐらい前…かな、朝目覚めたらもう、いなくって」
その日のことは、鮮明に覚えている。
「寝室にもいないし、リビングにもどこにもいなくてさ。ただ、リビングのテーブルに便箋とボールペンがあって、置き手紙っつーか…」
ユ「…なんて書いてあった?言える範囲でいいよ」
目が乾燥するほどに開いて、脳が可笑しくなりそうになるほど読みまくった手紙だ。内容を忘れたことは、1度もない。
「“あなたに相応しい恋人になれずごめんなさい。では。”」
小さく口を開き、呆然とするユウキ。
ユ「………零くんらしい、な…」
人一倍優しくて努力家な天才は、自分を追い詰めていたのだろう。
俺と零は、正反対と言っても過言ではないような性格だ。
俺は自分が良ければなんでも良くて、零は自分より他人を優先してしまう。
「あいつのことだから、…まだ一人で悩んでると思う」
ユ「…零のことを探したりはしなかったの?」
「探そうとは思ったけど、会えたところで零が逃げ出すことは目に見えてる。探す必要もねぇんだ」
でも、と何かを続けようとしたユウキは何も言わず黙った。
ユ「…俺のほうで、もしも何かわかったら連絡するよ」
「頼む、…ごめん、もう帰る」
ユ「うん、俺もごめん。払っておくよ、無理しないで」
そうやってまた、俺はひとの優しさに溺れる。
家につき、乱暴にドアを開ける。
もう当たり前となってしまったが、どこにも零はいない。
──零と出逢ったのは、近所の公園だった。
俺は容姿のせいで色んな人に怖がられてしまうことが多く、友達を作るとか友情とか、そういうものとは一切触れ合わない生活を続けていた。
その日は秋も深まってきた頃で、枯葉が舞っていた。
たまたま通りかかった公園のベンチに、零がいて。枯葉が流れるなか、そんなものも気にしていないような横顔だった。
気づけば零に近づいていて、その横顔を近くで見た俺は──
人生でいちばん最初に、ひとを好きになった。
俺は、彼に一目で恋に落ちてしまったのだ。
まさか自分が──しかも男に──一目惚れ、するなんて。
○「…?」
俺の視線に気づいた零が、ゆるりと首を傾けた。
普通なら、みんな驚いて顔を顰めるのに。零はふわりと微笑んだ。
○「隣、来ますか?」
断ろうとしても、その顔の美しさに身動きも取れない。
○「…どうかしました?」
「…、名前…」
○「…なまえ?」
「名前、教えてくれないか」
零は同じように、またふわりと微笑んだ。
○「零です。宇海零。…あなたは?」
初めてだった。何がって、すべてにおいて。
零とは、その日以降毎日のように会った。
零が塾講師であること、そこで数学を教えてること、そして話しているうちに、零は死ぬほど優しい人であることもわかった。
──俺が、零を抱きたいとさえ思っていたことも。
「…俺たち、会うの、もうやめないか」
○「え、」
零のただでさえ大きい目が見開かれた。
○「なんでですか…?俺何かしましたっけ、」
「いや…お前をといると調子狂うんだよ」
○「どういうことで、すか、だって、俺、」
これ以上、好きにさせないでくれ。
涙で濡れた瞳で上目遣いなんて、もっと惚れてしまう。
「…好き、なんだ」
零の顔も、見れない。俺は俯いて、小さな声で言った。
○「…好き…って」
「…零を抱きたい。キスがしたい。好きだ」
きっと、零はこんな俺を嫌うだろう。
零は優しいから、気持ちだけ受け止めて、二度とここには来なくなるだろう。
「…俺気持ち悪いな、ごめん」
立ち上がり帰ろうとすると、腕を掴まれた。
○「待って…」
顔を真っ赤にした零が、俺のことを見ていた。
○「…キス、したいんですか」
「は?っ!?」
立ち上がった零に、唇を奪われた。
もう、これで、俺のモノにできるの、だろうか。
唇の間を割って、舌を絡めた。
○「は……ッん…、せ…ぇぎさ…ぁ…ッ」
唇を離すと、零はずるずると蹲っていった。
「あ、…零」
○「…きもちぃ、です、セイギさん…との、キス」
「え…?」
○「もっと、キスしたいし、抱き合いたいです…その」
ふらふらしながら立ち上がり、零はふにゃりと微笑んだ。
○「すきです」
零は、俺の恋人になった。
半同棲生活も当たり前になるほど、俺たちは近しい存在になった。
「…零」
○「なんですか?」
同じベッドで寝るようになって2週間が経過した。
しかし、抱き合ったりキスすることはあっても、身体を重ねるまでには至らなかった。
「キスして」
○「え…俺から、ですか…!?」
「嫌ならいいけど」
零からキスをしてくれたのは、告白してくれたあの日だけ。
たまには、と思ったのだが。
零は「じゃ、じゃあ目瞑ってくださいっ」と言って、俺が目を閉ざしたのを見届けると口付けてきた。
味わうようなキスは、次第に深くなっていく。
○「ぅん…ッあ……せ、いぎ、さ、んっ」
「…やべ、止まんないわ…零、」
○「んっ、あッ…、らめ、ひっ…!」
──嫌われたくない。
その気持ちを抱きながら、俺は零を抱いた。
事後、俺たちは見つめあって照れくささから笑った。
鼻と鼻をくっつけたキスをして、またぎゅっと抱き合って、眠った。
翌朝には、零は暖かく美味な朝食を用意してくれて、それを食べたあとで、また軽いキスをして。
火傷をしても、傷ついても。
零がいれば、何も怖くなんてなかったのに。
そして、ユウキに話したところへ戻る。
零は突然現れ、突然いなくなった。
もう二度と、キスもセックスもできない。
そんなことより、二度とあの温もりを感じられないことが憎くてたまらなかった。
もし今、零の身に何かあったら。
それ以前に、零が蒸発する前に何か異変があったなら。
零は、俺を必要としていたのだろうか。
「…チッ」
舌がザラザラしている。
あのホットコーヒーで、舌をも火傷したのだろうか。
火傷をしたと言えば、零は「冷やしに行きますよっ」と焦って俺の手を引っ張っていくだろう。
「…めんっどくせぇ」
今日は、何をする気にもならない。
俺はソファに横になり、そのまま目を閉じた。
目が覚めたのは、ユウキからの電話で、だった。
「…どうした?」
『零…が…』
「零…!?」
がばっと飛び起きた。
『…零の居場所が、わかったんだ』
声にもならない声が漏れる。
それはどこだ、教えてくれないか、と言うこともできず、漏れるのは喉の奥からの息だけだった。
『住所、教えるよ。メモして。もし、またわからないことがあったら俺に聞いてくれていいから。じゃあいくよ、まず郵便番号は──』
ユウキに教えられた住所を頼りに、俺は零に会いに行った。
もしかしたら、親戚の家なんかに居候しているのかもしれないし、カプセルホテルで寝泊まりをしているのかもしれない。
だけど、その考えは違った。
そこに辿り着くと、俺の考えが甘すぎたことを思い知らされた。
「…もしもし、ユウキか」
『うん。何、ついた?』
ユウキは至って通常通りの声色で、零がここにいることなんて普通だと思っているようだった。
「…零は、本当にここにいるのかよ」
『そうだよ。──零は今、入院してるんだ』
返す言葉が、見つからなかった。
目の前にある、大きな白い建物は、病院以外の何物でもなかった。
『0915号室にいる、とも俺は言ったよね?そこに行けばいいの。じゃあ頑張って』
「は?え、ちょっ…!」
──それでも、やるしかない。やらないなんてないから。
ゆっくり逃げていく老婆。泣き出す子供。そんなもの、どうだっていい。俺が求めるのは、零だけだ。
零がいる病室へ、脚を向けた。
ユウキに教えられた「0915号室」のドアの横には、ネームプレートが掲げられていた。
しっかり、そこには「宇海零」の文字。丸めた右手の甲で、ドアを2回ノックする。
「はい」と懐かしい声が聞こえた。
ドアをスライドさせると、零がベッドで横になっていた。
○「…え、」
零はゆっくり起き上がった。
○「せ…セイギさん…?」
「久しぶりだな、零」
俺たちは、ぎこちない挨拶を交わした。
そして、俺はなぜ急にいなくなったのかを問う。
○「…見ての通りです。入院を余儀なくされました」
なんで、と掠れた声が漏れる。
「なんで俺に言わなかったんだよ」
○「…セイギさん、根に持ってしまうかと思いまして」
「ふざけんな」
○「わっ…」
パイプ椅子に座っていたところを立ち上がり、華奢すぎる身体を抱きしめた。
「心配した…!火傷しても、お前がいなきゃ冷やそうとも思えないしっ…ずっと…寂しかった。お前のせいだ、責任取れよ馬鹿野郎…」
○「ご、め、なさ…!」
「…そんなに、俺が頼りない?どうして言ってくれなかった?」
○「っ…心配かけたくなくて…!病気だなんて言ったら、セイギさんは俺のために尽くして、自分のこと、何も考えなくなっちゃうから…!」
零の瞳からぽろぽろと涙が溢れ出して、俺の服を濡らした。
「零…、泣くな、泣くなって」
○「っ…迷惑かけるの、嫌だったから…言えなかったんです…!」
零は、酷く優しいから。
わかっていたはずの答えから、どうしても逃れたかった。
それはきっと、俺が優しいひとになれないから。
「…何の病気か、言えるか?」
○「…言ってもわかんないですよ?……耳の病気で、メニエール病っていうんです」
「めに…?」
○「ほら、わかってない」
くしゃり、と零がかわいい笑顔を見せた。
○「難聴の病気ですよ、でも治療すれば良くなりますし…死ぬ訳じゃないですから」
「死ぬ死なないの問題じゃないだろ…!」
○「…たとえ死ぬとしても、セイギさんが俺を愛してくれているなら、それでいいです」
命より、愛がほしいのか。
「俺が零を愛してるってことは、俺が零の命を大切にしてるってことだ」
○「え…?」
「零がもし死んでも、その先も俺は零を愛してるってことだよ」
言わせんな、と笑って鼻と鼻をくっつけた。
それから毎日、俺は零の病室に通い続けた。
働いていたレストランはやめた。
生活ができるぐらいの、それぐらいの金はあった。
俺が顔を出す時に、零はいつも笑っていて病気の辛さを見せたりなんかしなかった。
零のことだから、きっと我慢しているのだろうし俺が帰ったあとで症状に傷ついているなんてこともあるのだろうとは、思っていた、が。
ある日、いつも通り病室へ向かうと、病室から焦った声が聞こえた。
「大丈夫ですよ、宇海さん」と優しく声をかける男がいる。
それに対して一切答えない零。代わりに、荒い呼吸。
ガラッとドアを勢いよくスライドさせた。
「零…?」
○「っぐ、ぁ、せ、ぎさ、こないで、っごほ、」
顔面蒼白とは、まさにこのことだと。
□「…あなたは」
○「っぐふ、…こないでッ、は、ぅ゙…!」
吐瀉物が吐き出された。
零が抱えている白い器には、零が吐いたと思われる吐瀉物が溜まっていた。
○「がえ゙っで、みら゙れだぐない゙、っう、ぇ…」
零は繰り返し嘔吐をする。
□「あの、すみません…宇海さんがこう仰ってますから…」
「零が苦しんでるのに、逃げてられるかよ」
俺はベッドまで走り、零の背をさすった。
○「ぅ゙、っ…ぶ、ふぅ…っ!せ、ぎさ…ご、っんなさ、ぐぁ…ぅ、ぅ…、」
それから、零は何度吐いたのだろう。
零はすべて出し切ると、酸っぱさを払うためにうがいをして、ゆっくり横になった。
○「はぁ……はぁ、…」
□「お身体拭きましょう。汗で風邪を引かれてしまっては困りますから」
○「…すみません、ふぅ…っ」
医者──小山先生と言うらしい──が、零の身体を拭いた。
□「まだ嘔吐感はありますか」
○「…はい」
□「異常に暑いだとか寒いだとか…どうですか」
○「…大丈夫です」
□「では、1度ゆっくりお休みください。…えっと」
医者が俺のほうを見て、にっこり微笑んだ。
□「宇海さんのそばに、いてあげてください」
何かありましたらナースコールお願いします、と医者は忙しげに病室を後にした。
○「……せいぎさん、汚いところ、見せてしまって、すみません」
「…零、無理して自分を綺麗に見せなくていいよ。苦しいなら苦しいで、俺を頼ってくれていいから」
○「…こわいんです。…セイギさんに、依存して、しまうのが」
零は天井をぼんやり見つめながら言う。
○「すきだから…きずつけたくありません。…もう寝ますね。帰ってくれて、いいですから。おやすみなさ、」
零の少し汗ばんだ額にキスを落とす。
「おやすみ」
○「…っ……おやすみなさい…」
そっと目を閉じて眠りに落ちようとしているが、零は顔を赤くしてしまっている。
しかし、優しく頭を撫でているとすぅすぅとかわいい寝息をたてて眠りに落ちた。
俺はしばらく零の寝顔を眺めていたが、何も力になれないことに気づいて病院を後にした。
力に、なれない。大切な恋人が、苦しんでいるのに。
俺がホットコーヒーで火傷して熱さに舌打ちをしている間にも、零はずっとずっと、苦しんでいた。立てないほどの目眩に見舞われて、酷い吐き気に苦しみ嘔吐を繰り返して、ただただ、苦しみ続けていた。
俺には、零の辛さはわからない。
嘔吐感の辛さはまだわかったとしても、立てないほどの目眩に襲われたことなどなかった。どこへ行くにも這わねばならないほど、なんて。
零に、会いたい。辛さを半分に分け合いたい。
俺は翌日、零の病室へまた脚を運んだ。
○「…せーぎさん?」
「おぉ、そうだ。大丈夫か?」
○「んー…平気だと思います。あの、お願いがあるんですけど」
「あぁ。なんでも聞く」
零の願いは、すぐに叶うようなもので。
むしろ、「こんなことでいいのか」と聞いてしまった。
○「いいんです」
零は「屋上へ連れて行ってほしい」と言ったのだ。
今日は昨日よりずっとずっと晴れてるから、と。
○「セイギさん」
「ん?」
○「俺、もう退院します。…というか、自宅療養にするんです。だから、あの、…またセイギさんと一緒にいられる…」
俺は、唖然としてしまった。
○「…セイギさん?」
「零…!!!」
○「おわっ、ちょっ、んふふ」
零の身体を抱きしめて、溢れそうな涙を食い止めた。
○「もう、セイギさん?ちゃんとしてくださ…ぃ…ッん…ふぁ、」
唇を押し付けて、口内を犯していく。
零が俺の胸を弱々しく押した。
○「ふ、ぁ、…ッせいぎさ…こういうのはお家帰ってから…!」
「…ありがとう」
○「…は?」
零が死ぬほど素っ頓狂な声を出した。
「…生きててくれてありがとう。生きている零が、本当に好きだ」
そりゃ、死んでるお前が好きなんて可笑しいもんな。
そういうことでは、ないけれど。
○「…俺は、どんなセイギさんも大好きです」
翌日、零は退院することになった。
少量の荷物を持って、零は病院から出てきた。
「荷物貸せよ、持つ」
○「これぐらい自分で、」
「負担かけたくねぇから」
零の荷物を受け取る。地味に重い。俺たちはそのまま、病院を後にした。
手を繋ぐ訳でもなく、何かを話す訳でもなく、俺たちは帰路へ向かう。
○「──セイギさんは今、…なんて言うかな、…時が止まってません?」
あ?とガラの悪い声が漏れた。
零はクスクスと小さく笑う。
○「きっと、俺がいなくなってから…無気力になってしまって、火傷を治そうとも思えなくて、今日が晴れだとか雨だとか、何時だとか…そういうことが、もうどうでも良くなってしまってる」
それが嘘じゃないから、何も返せない。
○「つまり──あなたは俺に依存してる」
『怖いんです』『セイギさんに依存してしまうのが』
俺が零に依存していることをわかっていたから、零は俺に依存してしまうことに対して怯えていたのだ。
○「そんなことしてたら、ダメ…じゃないですか。俺がいなくても、セイギさんは生きていかなくてはならない。俺が死んだから後追い自殺なんてダサくて仕方ないですよ。でも、セイギさんは本当に優しいですからね、先に死んで上からセイギさんを見守ろうとする人が出てしまうんですよ──?」
──セイギ、なぁ、起きろって!セイギ!
──お前が死ぬなんて可笑しいよ、寝てるな馬鹿野郎!
○「──俺みたいなやつが、そういうクズなんですけど。あぁ、目眩がしてきた」
ふわり、と零の身体が舞って。トラックにぶつかって、紅に目が眩んだ。
…俺は、忘れていた。思い出したくなかった。
零が、あの日、死んだことを。
退院と称して病院を後にして。歩いていると零が立ち止まった。
目眩の発作が起きたらしいが、俺には「目にゴミが入った」と言い再び歩き出した。
その時、やってきた銀色の塊──トラックに激突し、死んだ。
○『やーっと思い出した?セイギさん』
「ぜろ…?」
なんだか意識がふわふわしている。
○『…俺が死んだあとね、セイギさん、警察とかに話聞かせてくれって言われてたんだけど、全然話せる状況になくて。精神科に入院するほどだったんですよ』
「それは俺のせいじゃないだろっ」
○『…そう、ですね。俺のせいかもしれないです。ですが、俺はセイギさんを追い詰めようとして死んだ訳でもない…違います?』
零の優しい声が、ねっとりと耳にまとわりつく。
○『入院中、セイギさんは発作的に錯乱して自殺未遂。それで、生と死を彷徨っているところなんです。俺は、生かしてあげるために夢を見せてあげてた』
ユウキとカフェにいた時点で、俺は夢を見ていた…?
○『セイギさん…ごめんなさい。追い詰めて、殺そうとした訳じゃないんです…俺は、後追い自殺をしてもらうことを望んでなんかいません…!俺はセイギさんに生きてもらうために、こうして夢を見せていた訳ですから…』
「…零…キスしたい」
○『…え…や、無理ですよ、俺は死んでる。でもセイギさんはまだ“死にかけ”の状態にあるんですから、』
「零、目瞑ってろ。キスしてやるから」
○『は?だからキスなんかできないんですよ…!?』
…ここにいる。そうだろ?
俺は零がいると思われる、ドアのそばに立ち唇を近づけた。
ふに、と柔らかな感触。
○『…ッなんで』
「零は謙虚だ。俺の近くなんかにいる訳ない。ドアのそばで、俺が生きていく道を選んで歩き出すのを見届ける…そうだろ?」
真っ白な世界に、透徹した零が出てきた。
「…零。お前が心配しなくても、俺は生きていくし生きてるよ」
○『違いますよ…セイギさんは…死んでないのに生きてないんです』
いつも、零の言葉は、身に染みて響いてくる。
○『…セイギさんは、何万回転んだって、もう1回踏ん張って…歩き出せる。そうでしょう?』
「…“零がもし死んでも、その先も俺は零を愛してる”」
○『ふふっ、知ってます。だから、セイギさんは生きていく…』
零がドアを開けた。
○『…聞こえますか。お兄さんやユウキさんが呼んでますよ、セイギさんを』
「そうだなぁ」
○『セイギさん、ここを出たらセイギさんにしか見えない紐があるんです。そこを辿っていけば、セイギさんは…俺がいなくても…生きて、いけます』
きっと零は、泣いている。
だけど、俺が生きていくには、その涙を拭うことは許されない。
○『…セイギさんなら、たとえそれが見えなくても生きていけます。この先は果てしない闇ですけど、セイギさんは敗北を知ったってどん底にいたって、何回でもやり直せますから。…だから、』
ふわふわしていた意識は、いつしかくっきりとしていて。
俺は、生きなければならない。
○『セイギさん』
俺がドアの前に立つと、零が俺を呼んだ。
後ろに立っている零は、俺の首筋に唇を押し付ける。
○『…だいすきです』
「言われなくてもわかってる。愛してるから」
零がまた、「セイギさん」と名前を呼んだ。
この声に、振り向いてはいけない。
○『──生きろ』
零に背中を押されて、1歩を踏み出した。
ドアがぎぃっと閉じる音。俺はただ真っ直ぐ、前を歩いた。
○ ● ○ ●
さ「セイギ!起きろ、セイギ!」
「…っ?」
ユ「セイギ、大丈夫か?俺たちがわかる?」
…零、俺は今…生きてるよ。
「…ぁ…だいじょうぶ…ユウキ、」
さ「はぁ…!お前迷惑ばっかりかけてんじゃねぇよ!」
「…ごめんって…もう……おれ…ちゃんと、いきるから」
きっと俺は生きていく。
しょうもない火傷だって、ちゃんと冷やす努力もする。
生きていく。何があっても。
──なぁ、零はここにいるのか。
こんな荒んだ野原みたいなところに?この小さなコンクリートのなかに?
「…零、久しぶりだな。元気か?俺は最近リハビリに励んでるところだよ」
墓に語りかけるなんて、ドラマか映画の主人公だけかと思っていたけど。
「…なんか駄洒落みたいになるけど、零と出逢ってから、0からでも何万回でも立ち上がって闘えるってわかったんだ」
お墓参りを終わらせたと思われる赤髪と金髪の男2人組に怪訝そうな顔をされたが、俺は零だけを想っていた。
「──0からだって終わりじゃない。俺は、自分の命が燃え尽きるまで生きていく」
ゆっくり立ち上がると、膝が音を立てた。
俺は硬いコンクリートの天辺に人差し指を置き、ぐるりと0を描くように1周させた。
「生きろ」
右手の人差し指と親指を使いL字を作り、胸に当てる。
「生きろ」、生きる。