【IF】未来編
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しまった。
うっかりしていたのだ。まさかナルの家に忘れ物をするなんて……。
それも帽子とかハンカチならば「今度でいいや」で済むものを、よりにもよって携帯電話。
おかげで彼に連絡することもできず、仕方なく直接回収にやってきたというわけだ。
ピーンポーン。
インターフォンが間抜けな音を出す。しかし反応はない。無視だろうか
「ナルー?」
怪訝に思って声をかけつつ、再度インターフォンを鳴らす。しかし反応はない。数分待ってみても中から物音ひとつしない。
「……っかしいなぁ」
外にナルの車はあった。つまりもう仕事に行った、と言うわけではないだろう。
買い物……に自ら行くわけがない。書店なら自主的に行くかもしれないが、それなら車を使うはずだ。
あれが散歩なんてするはずはないし……。
「………」
……これは使いたくなかったんだけどなぁ……。
ごそごそと鞄を漁って、キーホルダーもついていないシンプルな鍵を取り出す。
実は先日ここに訪れたとき、荷物に紛れ込んでしまったらしいそれ。私も家に帰ってから気付いた……多分、ナルの家の鍵だろう。
今日こっそり返して知らん振りを決め込もうと持ってきたものである。
おそるおそる鍵穴に差し込む。ガチン。あれ? ……あ、逆か。鍵を差しなおせば今度はすんなりと入る。
そのまま捻ればカチャン、と確かな手ごたえと共に鍵の開く音。ドアをそっと引いてみれば簡単に開いてしまった。
……おいおい、チェーンとかかけてないのかよあんな美人が……無用心だな……。
「ストーカーとかに侵入されてもしらないぞ、と」
室内に入って後ろ手にドアを閉め、鍵をかけなおす。ついでにチェーンもかけておく。
……何してんだろう自分。これって不法侵入じゃんか。……ナルが居てもアレだが居なくても色々まずいだろう。それこそストーカーかっての。
そう思いつつも足を進める。靴を脱いで「ナルー?」と呼びかけるが返答はない。
「………いない、のかなぁ」
なんだか納得いかないが、それならそれで忘れ物を回収してとっとと退散しよう。
そう考えて寝室に向かう。なんだか悪い事をしているような気分でちょっとどきどきする……悪い意味で。
なんとなくこっそり、そろそろと歩いて寝室のドアにたどり着いた。気まずい思いもあってできるだけ音を立てないようにドアを開ける。
そっと身体を滑り込ませて視線で目的のブツを探る、以前に、ベッドに横たわるナルがいた。普通にいた。
「っ!? ……~~っ!?」
心臓口から飛び出すかと思った!!
なんだよ! 居るなら居るって言えよ!! てかなんで寝てんだよ! あんだけピンポン鳴らしたんだから起きるだろフツー! 起きてよ!!
大混乱の脳内が理不尽にもナルに怒りの矛先を向ける。ナルが起きて出てくれさえすれば、私はストーカーまがいの手法で侵入しなくて済んだのだ。どう考えても忘れ物をした私が百パーセント悪い。
どっきんどっきんと暴れる心臓を抑えてベッドで眠る男を睨む。まだ起きないかのか。……、いや……何かおかしい。
「……ナル……?」
なんで寝てるんだ、コイツ。
私は携帯のアラームを目覚まし代わりにしている。
私の携帯は案の定サイドテーブルにあるから、一時間ほど前にけたたましく鳴ったはずだ。
まさか、二度寝だろうか? いやまさか、そんな、ナルに限って……。いやしかし……うーん……。
よくよく考えてみれば、ここ最近彼はまた不摂生をしていた。
なんだか論文がうんちゃらと言って寝食をサボリ気味だったようだ。んー……。
よくわからないが、普段ちゃんと寝ていないヤツが熟睡しているのなら起こすのはしのびない。携帯だけ回収してさっさと出よう。
そうして再び抜き足差し足でドアへと足を向けた。が、すぐにそれを止める。
………なんか、息、荒くない?
振り返ってヤツの様子をじっと観察してみる。……やっぱり、浅く短い苦しそうな呼吸をしているようだ。
そっと近づいて顔を覗き込むと普段より血行がいいように見える。……部屋が薄暗いのでよくわからないが。
そっとナルの額に手を当ててみる。しっとりと汗ばんだ額は、自分の体温と比べるまでもなく熱かった。
風 邪 ひ い て る ん か い !!!!
なるほど季節の変わり目の不摂生がたたったわけね! ああ納得ですよ!
うーん、どうしよう。とりあえずリンさんに連絡……。
鞄に放り込んだばかりの携帯を取り出すためにナルの額から手を離そうとした、そのとき。
「ん……」
ナルが小さく呻く。むずがる子供のようなそれに、私はびしりと動きを止めて固まった。
お、起こした? 起こしちゃった?
焦って硬直している私の手を、ナルが鈍い動作でつかまえる。力はあまり、入っていない。
ゆるゆると目を開き、私を視認したナルは、これまたゆっくりと口を開いてどこか幼い仕草で私を呼んだ。
「………ま、い…?」
掠れた声と舌ったらずな発音。色白の肌は紅潮して、熱で潤んだ瞳が眠そうに私を見ている。
私の手を握る手は熱くて、力なく、その手のひらはじっとりと汗に濡れて。
キュン死ぬかと思いました。
なにこの可愛いの。いつもこんなだったらいいのに。ああもう、可愛いは正義……!!
ちょっと吹っ飛んでいた私の思考は、ナルが激しく咳き込んだことによって引き戻された。
慌ててナルの上体を起こし、呼吸しやすい体勢をとらせてやる。
背中をさすってやれば咳も落ち着いたらしく、またベッドに潜り込んだ。……ちょっと待て。
ナルはシーツを被って寝ている。今は秋口だ。……そりゃ風邪も引くっちゅーねん!
私は家捜しを決行した。
引っ張り出した厚手の布団やら毛布やらをベランダで叩いて埃を落とし、寝室に引きずり込んで、被っているシーツの上にかけてやる。……普通ならこの時期に毛布までかけたら暑いだろうけれど、風邪っぴきにはちょうどいいだろう。あったかくした方が免疫力が上がるというし。
埃が立ったか風邪のせいかわからないが──もしかしたら両方かもしれない──またもや咳き込んだナルに水を持ってきて渡してやる。
布団に埋まってヒュー、ヒューと苦しげに息をするナルを見て、今日は事務所開けないのかな。とのんきな事を考える。
とりあえずリンさんに来てもらって……。私は大学行かなきゃだしな。
携帯のアドレス帳を開いてリンさんの番号を探していると、操作している手とは逆の手、左手が掴まれた。布団から生えたナルの手だ。
はて、なんの用だ。文句か? と様子を見ていると、彼はそのまま私の左手を引いて自分の頬にぺたりとくっつけた。……熱で思考がおかしくなってるのかな。
「……冷たくて……きもちいい……」
細められた目と、ほっとしたような低い声と。自己管理のできない赤ちゃんめ。私はすっかり呆れてそれを眺めた。
アドレス帳から目的の番号を引き出して発信する。数回のコールのあと、相手の応答があった。すぐ気づいてくれてありがたい。そう、私は大学生なのだから、学生の本分ってモンがね、あるわけで。
「もしもし~、ゆっこ? 麻衣でーす。今日出れなくなったので諸々なんかいい感じによろしくで~す!」
抑えた音量で一方的にまくし立てて電話を切る。素早く携帯をサイレントに設定。アラームも全部切った。片手で説明は明日、と端的なメールを打って送信した。すまんゆっこ。あとは頼む。
ゆっこは大学でできた友達だ。多分文句を言いつつもいいようにしてくれるだろう。
乗りかかった船だ。こうなったら今日一日、つきっきりで看病してあげよーじゃないの。
……決して可愛らしさに敗北したわけではない。決して。
そうと決まればまずは買い物だ。この家にはあるべきものがなさ過ぎる。
ナルの手をそっと解いて布団の中にしまう。
「ちょっと行ってくるから、大人しく寝てなね」
ナルがこくっと頷いた(か、可愛い……!!)のを見届けて、再び鍵を拝借し買い物に出発した。
歩きながらリンさんに連絡を入れる。私が看病をする旨を告げるとなんだか微笑ましげな声で了解の返事をくれた。え、何……?
ついでに必要とあらばリンさん宅のキッチンの使用も許してくれるらしい。……鍋の一つもないのだ。ナルの家は。生活、とは?
ちなみにナルとリンさんは隣同士に住んでいる。お互いの合鍵を持っているらしく、ナルの家を探すように言われた。なんか、さすが……。保護者歴の長さを目の当たりにした気分だ。
そんなわけで食材も買って戻ることにした。最初に買う予定だったものと合わせると結構な量になる。
とりあえず、一番重いのはスポーツドリンク(2ℓ)だろうか。これだけならどうってことはないけれども。
氷はあったからいいとして。薬の類も買っておく。体温計。冷却シートは私が苦手なので買わない。代わりに保冷枕を買った。
食材は野菜類。米は買わない。さすがに持てない。ついで必要そうな雑貨も買っていく。
みっちみちになったエコバックを肩にかける。クソ重い。ビニール袋だけだったら手が死んでいただろう。いっそ旅行鞄でも持ってくればよかった。重。
歩ききっっっついわ。せめて台車をくれ。
買い物袋がここまで重いなんてほとんどない。こんなに一気に大量に買うようなことは……友達が遊びに来るときくらいかもしれない。これでも苦学生、節約家なもので。
ナルの家について静かに荷物を下ろし、真っ先に保冷枕を冷凍庫に放り込む。
様子を見に行くとナルは眠っているようだった。カーテンと窓を開けて換気をする。
買ってきたピッチャーにスポーツドリンクを移して、水と氷で薄めてやる。これまた買ってきたトレーにコップと体温計も一緒にのせて寝室に運び込むと、ベッドのナルと目が合った。
「あれ、起きてたの?」
「……いま」
「そう」
コップに飲み物を注いで渡すと、おっくうそうに身体を起こしたナルは素直にそれを受け取った。
好きな時に自分で注げるようにサイドテーブルにトレーを置いておこう。こぼしてもいいように拭くものも用意しなくては。
「具合はどう?」
「……頭がいたい」
「他には?」
「…………からだが重い」
「そりゃそーでしょうよ。どう見ても熱があるもの」
体温計を渡す。耳に入れて一瞬で計れるアレだ。
ピ、と検温終了の合図を出した体温計を覗き込む。
「………38.9℃」
……高すぎる。医者に連れてったほうがいいのだろうか。
だがいつぞや病院の受付でリンさんが支払っていた札束が頭をよぎる。
…………今日熱が下がらなかったら連れていこう。
いや、決してお金を優先したわけじゃないのだ。
私は車の免許もないし、こんな弱ってるナルに無理させて連れて行った病院で「風邪ですね」って解熱剤出されたらムカつくじゃないですか!
しかも診断がそれでもお金はゲホンゴホン! ……この辺はリンさんに相談するしかない。
とりあえずは市販薬で様子を見てもいいだろう。症状が緩和されれば多少は移動も楽になるだろうし、自前の免疫も働きやすくなるかもしれないし。不摂生で落ちまくりであろう免疫力さん、頑張ってくれ。
体力の回復のためにも、食後指定の薬のためにも、まずは何か胃に入れないとならないだろう。
「ナル、気持ち悪いとかは?」
「……別に」
「なにか食べれそう?」
「…………いらない……」
「わかった」
ひとつ頷いて立ち上がる。本人が食べたくないなら無理はさせない。
な~んて甘っちょろいことを言うわけがない。食欲はないんだろうけど無理にでも食べさせる。
もし気持ち悪くなって吐くにしたって、胃液だけ吐くよりは何か飲食した方がすんなり吐けて楽なはずだ。
キッチンで買ってきた梨を剥く。案の定包丁の一つもない家なものだから、ドラッグストアで吊り下げられていた安物の果物ナイフがこの家の刃物一号だ。今後ともよろしくな。
手で剥けるみかん類があれば良かったんだけれども時期的に難しかった。デコポンとかがあればよかったのに。ご相伴に預かれたのに。
グレープフルーツはあったが買わなかった。そのまま食べるには苦くて苦手で。自分が好きではないものを人に買ってきて食わせるのは気が引ける。ヨーグルトに入れて食べると美味しいけど、ヨーグルトを買う余力はなかった。エコバックと私の筋力の余力である。それより何より、風邪薬と食い合わせたらいけないと聞きかじったことがあったので。
さくっと剥いてひと口大に刻んだ梨をこれまた一応買ってきた蓋つき保存容器に入れる。……皿がない家なんて初めて見たっつの!
食器棚は(おそらく備え付けのものが)あったのに中身は空だった。生活感とかそういう問題じゃないよコレ。
足りなすぎるナルの生活に内心で文句を垂れつつ梨を持って寝室の扉を開く。
ナルはちゃんと大人しくめ、ベッドの上で壁に寄りかかっている。めくれた布団と中途半端に引き上げられた毛布。その手には本。オイコラ。
だがページは一向に進む様子がない。多分、内容が頭に入っていないのだろう。
熱は上がりきってしまえば気分は大分楽になるけれど、思考はぼんやりとおぼつかなくなるものだ。ナルもそういう状態なのだろう。
無言で近づいて本を奪う。奪われた本を目で追うナルの反応は、やはりちょっとぼんやりとしている。いつもの鋭い視線はどこへやら、だ。
本の代わりに梨入りの器を渡すと受け取りもせず、視線が不満げなものに変わる。
「……いらない」
「ダメ。食べる」
「食べたくない」
「一口食べて。どうしても無理だったら止めてもいいから。はい、あーん」
ピックに刺した梨を口元まで運んでやる。
抗議の視線をくれるナルとの無言の攻防の末、頑として退かない私に諦めたのかナルは口を開けて梨を受け入れた。
咀嚼、嚥下を見守って、にっこり笑う。
「はい、あーん」
「…………」
ちょっと睨まれた。そんな潤んだ瞳で見つめられても恐くないやい。ナルは仕方なさそうな顔でしぶしぶ口を開いて梨を食べる。
それを繰り返して器の半分ほど食べさせたところで本人が 「もういい」と言ったので今度は大人しく手を引いた。……思いのほかちゃんと食べたな。
器をトレーに置いて解熱鎮痛剤を手渡せば、こちらは自主的に飲み込んだ。飯も自主的に食べてくれ。
呆れつつ、今度はクローゼットをごそごそ漁る。ナルの怪訝そうな視線は気にしない。文句を言う元気もない病人は大人しく寝ていればいいと思う。
適当な着替えを何着か引っ張り出して、ナルにニッコニコの笑顔を向けた。
「さ、汗が冷えない内に着替えちゃおう」
熱が出る、体温が上がる、体温を調節しようと汗が出る。
これは当たり前のサイクルだ。実際さっき触れたナルの手は汗ばんでいたし。
拭いたほうがいいだろうから、ちゃんと簡易蒸しタオルも作ってきた。濡らして絞ってレンジでチン。
広げてちょうどいい具合に冷ました蒸しタオルでひん剥いたナルの汗を拭う。思考は大分戻ってきたらしいナルに抵抗されたが、熱で調子が出ないらしいのをいいことに無理やりやった。これに懲りたら風邪なんかひかないように気を付けてほしい。
乾いた服を着せてもういいよ、と背中を叩けば、ナルは疲れた様子で体の力を抜いていた。ちょっと調子に乗ってやりすぎたかもしれない。ゴメンネ。何もズボンまで剥ぎ取ったわけじゃないのに。
下は自分で拭きたいだろうなという配慮の元、タオルをナルに渡した私は一旦部屋を出た。
キッチンに出したものを片付けたり、買ってきたものを勝手に配置したりと雑事を片付け、もうそろそろいいだろうと寝室を覗けば下も着替え終わったらしいナルは今度はちゃんと横になっていた。……まぁ、本没収したしね。
サイドテーブルに配置したピッチャーの中身もちゃんと減っている。しめしめ。
ひょい、と覗き込むともう眠っているらしいナルは、朝来たときよりは幾分か落ち着いた呼吸をしている。
この分ならきっと、目が覚めたときには熱も下がっているだろう。……下がってるといいなぁ。
ピッチャーの中身を補充し、冷凍庫で冷やした保冷枕にタオルを巻いて枕の横に置いておく。あとは好きに手なり顔なり冷やしてほしい。
汗で額に張り付く髪を指先で払い、そのまま額に触れてみる。少しは下がっただろうか……まだまだ熱いけど。
長い睫毛が彼の目元に影を作る。あどけない寝顔。まったく、常日頃のふてぶてしさはどこにいったのやら。
熱を持つ頬に手を添える。起こさないようにそっと。
「早く治しなよ、お馬鹿」
◆
ゆっくりと意識が浮上した。心地よい感覚に身を任せてうとうととまどろむ。
ふと、人の気配がして目を開ける。足音だ。だんだんこちらに近づいて来る。
扉を開いて入ってきたのは、慣れ親しんだ小柄な姿。
「ずいぶん良く寝てたね」
僕を見るとすこし笑って、優しげな声でそう言った。
彼女がこんな風に話すのは珍しい気がする。そうしていると随分大人しげに見えるのに。
僕が黙っていると彼女はベッドサイドまで寄って来て、僕の額にひんやりとした手を当てた。
「んー……大分下がったんじゃない?」
……ああ、そういえば熱を出したのだった。ぼんやりと、世話をやかれた覚えがある。
渡された体温計で熱を測れば小さな画面に36.8℃の文字が残った。それを確認した彼女が小さく歓声を上げる。
「わ、かなり下がったね。もう微熱くらいじゃん。また汗かいたっしょ? 着替え……」
「自分でやる」
「わかってるって」
麻衣は苦笑して僕にタオルと着替えをよこした。……こいつはいつの間に人の家を掌握したんだ。
とにかくべた付く服を脱いで汗を拭く。濡らして固く絞られたタオルが熱で火照った肌に心地いい。
用意された服に着替えれば、だいぶさっぱりした。
着替え終わるのを見計らったようにドアがノックされて、返事をすればトレーを持った麻衣が入ってくる。
「具合はどう? 食べれるようなら、これ」
そう言って起きあがっている僕にトレーを渡した。トレーには見慣れない、大きめの椀が乗っている。
椀の中には野菜と米をやわらかく煮たような料理。椀のサイズのわりに少なめに盛ってある。
「おじや。多少無理してでも完食してね」
……ミルク粥みたいなものだろうか。
湯気をたてるそれをぼうっと眺める。中々食べようとしない僕に痺れを切らしたのか、麻衣が椀を取り上げた。
何事かと思い顔を上げると椀を左手に、レンゲを右手に持った麻衣がにこり、とわざとらしく笑う。
「はい、あーーん」
レンゲでおじやをすくって僕の口元に運ぶ。弾んだ声色と悪戯っぽい目の輝きからふざけているというのはわかる。あるいは僕をからかおうとしているのかもしれない。どちらにしても病人相手に非常識なことだ。
これで僕が困ったり、ため息をついたり、冷たく馬鹿にしてみせれば、彼女は軽口を叩きながらもすぐにこの馬鹿らしい行為をやめるだろう。
……だが、思惑通りになってやるのもおもしろくない。どうせなら意表をついてやろうと口を開け、レンゲを受け入れる。ほんのりと塩の効いたやわらかい味がじんわりと広がった。
まさか僕が甘受するとは思ってもみなかったらしい麻衣は驚いているようだ。おじやをゆっくりと咀嚼して、飲み込む。麻衣を見れば、まだ目を丸くしていた。自分の口元を示して口を開けてみる。
「食べさせて、くれるんだろう」
きょとん、とした麻衣がおかしくて口元がつりあがる。間抜けな顔をしていた麻衣は頬を紅潮させて、おじやの椀を僕に押し付けてきた。
実はこういうスキンシップが苦手なのは麻衣も同じ……むしろ麻衣の方が弱い。冗談なら大丈夫でも本当にされたら恥ずかしくて仕方がないらしい。
「なんだ、食べさせてくれるんじゃなかったのか」
「……そこまで元気になったなら自分で食べてよね!」
赤くなった頬を隠すようにそっぽを向いてしまう。言うまでも無く隠せてはいない。本人も隠せてるとは思っていないようだ。
あまり言って本気で機嫌を損ねても拙いので大人しく渡された椀に取り掛かる。
残り数口、となったところで視線に気づいて顔を上げると、麻衣がこちらを見ていた。
僕が手を止めたことに気付いた麻衣は何故か少し焦った様子で「あ、いや、その、」と言い訳じみた声を出す。無言で促せば頬を掻いて、言いにくそうに口をもごもごさせてはにかんだ。
「や、元気になったみたいで……良かったなぁ、って」
……これだから。
何とも言えない気持ちがひどくもどかしい。全く、熱がぶり返しそうだ。
とりあえず、
「……ありがとう」
今日のことも、他のことにも。
言葉に出来ない感情はとりあえずそのままに、今は君に感謝を。
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あとがき
再掲希望の方から喜びのコメントいただいたので更に追加です。
でも前回のあれだけでよかったようなコメントだったので、もしかしたら蛇足でしたかしら……
表現と文章はちょいちょい修正済み