第二章
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あんた疲れてんのよ。ちょっと休みなさい。
と、妙に優しい綾子にソファに寝かされて、ブランケットまで掛けられる。
失礼なやっちゃな…と思って形ばかりと横になっていたつもりが、いつのまにか意識がぼんやりとしていた。
綾子とリンさんの声が遠い。
人の声が心地よく眠気を誘う。
…疲れてはいないけど、確かに寝不足ではあったかもしれない。
……疲れてはないけれど、確かに、気は張っていたのかも…しれなくもないかもしれない…
ふ、と「落ちた」
目を瞑っている感覚がある。けれど、周囲をなんとなく見ている感覚もある。
声も、聞こえてくる。それが夢なのか、現実なのかわからない。
まどろみの中に居る。あたたかくてやわらかいそこは無条件の安心をくれる。
それは、とても懐かしい、最初の記憶。
「谷山麻衣」の、母親の記憶。
素晴らしい人だったわけではない。悪い人ではなかった。
強い人でもなかった。尊敬、していたわけでもない。優しい、人では、あった。
多少なりとも「母親」を愛せたのは、あの記憶があったからかもしれない。
涙が目尻から、一粒こぼれた。
こどもなんて嫌いだ。
愚かで、なにもできなくて、なにも知らないで、親を、愛して、報われたくて、報われると、信じて、
「たすけたい」
これは、夢だ。
夢の中でくらい、偽善を呟いたっていいはずだ。
「あの子たちを、たすけたいの」
みんなが救われて幸せな終わりなんて、きっとない。
だから、これはただの寝言。
「大丈夫だよ」
優しい声に、目を向ける。
思ったより近くに彼がいた。綺麗に笑っている男の子。
ナルに良く似た人。姿も、その言葉の力も。
口元が緩む。なんだかとても、穏やかな気持だった。
「あなたが、大丈夫っていうと――…本当にそうだと、思えるよ」
すごいね、と笑いかけると、彼も笑った。
見る人を安心させるような笑顔だった。彼ならきっと、ナルと違って子供の相手もできるんだろう。
ドアが大きな音を立てて、びっくりして目を「開いた」。
寝ていたらしい。開いていたはずの目はバッチリ閉じられて、夢しか見えていなかった。
なにやらがやがやとしている。
「あ、」
そこに、さっきまで見ていた夢と"同じ"人がいた。
ソファに手をついてゆっくり身体を起こすと、ブランケットがするりと落ちる。
起き上がった私に気付いたのか、こちらを見るナル。
「おかえり、ナル」
眉間を寄せている彼は、やっぱり夢で見る人とは違う人だ。
夢の続きのほにゃほにゃした気分に、だいぶ緩んだ頭と表情筋で声をかけた。
…ちょっとぎょっとされた気がする。
「…のんきに昼寝か」
「くあ、…ん。ごめんごめん。ついうつらうつらと。ナル、戻ってくるの早かったね。明日になるかと思った」
「有能なもので」
小さくあくびをして謝る。
なんとはなしに掛けた言葉へ返された皮肉で、ナルの調べものが終わった事を知った。
終わってなかったら「またすぐに出る」って言うだろうし。
話しているうちに、すっかり夢の残滓が抜け落ちた。頭がハッキリとしてくる。
「で、また怪我をしたって?」
「怪我って程のものはないよ。ちょっと井戸に落ちたけど、意外なくらいには無傷」
「へえ」
ナルの視線が、腕に巻かれた包帯にわざとらしーく落とされた。
いや、だから、……大袈裟に目立つって言ったのに綾子め…!!
「この前といい、お前は僕がいないところでいったい何をやっているんだ?」
確かに…。
やらかすのはナルがいないときばかりな気もする。
「…ナルにくっついてたら怪我しないかな」
「お前がどんくさいんじゃ意味がないと思うがな」
「ぎゃふん」
「なあアレ、聞きようによっちゃ『僕のいないところで無茶するな』と『じゃあ側にいてね』に聞こえね?」
「あ、あはは…滝川さん、渋谷さんがえらい顔してはります…」
ぼーさんの脳内はお花畑のようだ。
可哀想だからジョンを巻き込むのはやめてあげてほしい。
あと真砂子、思いっきりプイッってしないで。
こういうとき、どういう顔をしたらいいかわからないの。
笑えばいいと思う?それものすごく嫌なヤツぅ!!
というか、
「みんな戻ってきたの?いいの?ナル」
「ああ、今夜中にカタをつける。その為に人手がいるからな」
「短期決戦だね。なんかわかったんだ?」
「当然」
でかけていた間の映像を確認しながらあっさりと答える。
ついで、映像の感想。
「まったく、これだけの人間がいてこのザマとはね」
辛辣ぅ!!
「なによ!見てもいないクセに!あいつハンパじゃないんだから!」
もちろん、「このザマ」であった綾子がつっかかる。
でも、見てもいないクセにって映像確認してるナルに言うのはなんだか変な感じだ。
確かに直には見ていないんだが…
「そんなの、ポルターガイストの様子を見れば一目瞭然だ」
むしろわかってなかったの?バカじゃね?
くらいのノリで返されていた。ナルさんパネェっす。超、通常運行っす。
「原因はわかっている。その原因の解消に必要な情報も揃えた。あとは実行に移すだけだ」
「はあ!?」
「…ナルちゃんよ、俺たちにもわかるよーに説明してくんね?」
大人だね、ぼーさん。
綾子、あんたも「はあ?」の一言に省略しないで、見本になるつもりで丁寧に言ってみたらいいんじゃないかな。
『行間が読めないのでわかりやすく説明してください。つかまわりくどいです』って。
そしてめんどくさそうな顔をしたナルが私を見る。はて?
「……原さん、やつらの様子は?」
「…居間にいますわ。まだ、ホテルの方には行ってない……」
ぱ、と真砂子に水を向けて、必要な情報だけ手に入れると再びモニタに顔を向けた。
つまり、自分からしてやる話は終わりだと。ほう。わがまま坊ちゃんか。そうか。
「ねえ、アタシたち、身の安全を考えるべきじゃない?」
「……ヘタしたら、こっちまで地縛霊にされそうだしなぁ」
「…綾子、」
「………なによ」
弱気な発言をする綾子とぼーさん。
名前を呼ぶと、綾子は気まずそうに返事をした。
ことさらに生真面目な顔で、私は言う。
「そのセリフ、すんごく聞き覚えあるんだけど」
「「へ?」」
「そうだなぁ、確かナルのことを逃げ帰っただの、布団被って泣いてるだのと言ったときだったかな?あ、これはぼーさんか」
「!ちょ…!!」
「おまっ…!!」
「ほう」
思い当たったらしい二人は焦りを顔に浮かべた。
そしてナルの声に室温が下がる。超常現象超常現象。
…つららって、あれ、ものによっては刺さるらしいね。
今のナルはまさにそんな感じ。冷たくって刺さりそう。笑える。
「構いませんよ、『逃げ帰って』くださっても。その程度の霊能者なら必要ありません」
「だーってよ。良かったね、信頼されてるじゃん」
「ど・こ・が・よっ!!」
涙目の綾子である。
「逃げ帰らない程度の実力があるなら、手伝ってほしいってことでしょ?」
「どんだけ好意的に見りゃそーなんだよ」
「好意的にとれる好意は好意ととることにしてんの」
「能天気」
「ね?こういう本心はどうしたって好意的にはとれないんだから。やーいツンデレ」
とんできた氷の流れ弾を叩き落として、適当に屈辱的であろう言葉を投げておいた。
怒るだろう、と思ったら本人は眉を顰めていた。…意味がわからなかったらしい。
後で調べてアホなスラングだと知ったらイラッとしそうだ。
「ま、じゃあ麻衣に免じてそーゆーことにしとこーか。ほんとに勝算はあんだろーな」
「ばっか、ぼーさん。ナルだよ?根拠が薄いと発言すらパスするナルが、今夜中にカタつけるとか言い切ったんだよ?」
「悪い、ナル、おにーさん超納得した」
「アタシも」
「すんません、ボクもです…」
「………」
リンさん、パソコンに向かっていようと貴方の肩が震えたのを見過ごしてませんよ、私は。
******************
居間には、ナルと真砂子、神父姿のジョン、それから私。
ぼーさんと綾子は外にいる。もちろん、除霊スタイルで。
廊下の壁には綾子の護符。
「はじめよう」
ナルの合図で、ジョンのお祓いが始まった。
全部は、当然ながらナルの指示だった。
例外といえば私と真砂子が居間にいることくらい。特に私。
ナルのとった作戦はこうだ。
原因を引きずり出すために、まずはまわりの有象無象を散らす。
そのために家中に護符を張り、鬼門だけを解放することで擬似的に霊道を作る。
その出口でぼーさんと綾子が出てきた霊を追っ払う。
ジョンは根城の居間から霊たちを追い出す。
追い込み漁の逆パターンのような作戦だ。
そして、肝心の原因…女の霊を、誰が除霊するのか。
ぼーさんの疑問に、まさか…というみんなの視線に、ナルはドヤ顔を以って応えた。
ろうろうと、ジョンの聖書(多分)の朗読が響く。
英語じゃないあたり、不思議かもしれない。でも、そんなこといったら発祥は英語の国ですらないか。
えーと…ユダヤ人が元だから…ヘブライ語?
そう考えると、バベルの塔って確かキリスト教だったよなぁ。
神様が人間への罰に言語をバラバラにして意思疎通を阻害したとかなんとかってやつ。
だんだん冷えていくリビングでぼんやり考えていると、私の腕を掴んでいた真砂子の手に少し力が入った。
見ると、顔色が悪い。
ナルは、真砂子に霊たちが作戦通り散ったか確認してほしいと言っていた。
が、「できますか?」の一言をつけるのを忘れなかった。
家に入ったときからキツそうだったのに、その大元だろうものを引っ張り出す渦中ではどれほどのものか。
一人になんて到底しておけなくて、おかげさまで私までリビングにいる。
真砂子がナルに頷いたのが、霊媒師としてのプライドなのか好きな男の子の前で情けないことは言えなかったのか、それはわからない。
どちらの理由でも、この子は今からやっぱりやめる、なんて言わないのだろうから。
掴まれていた腕を解いて、華奢な背中に手を回した。
抱き込むようにしてぽんぽんと撫でてやる。
「ねぇ真砂子。霊を見るって、辛いことなの?普段は大丈夫なの?」
「…あたくし、もともと浮遊霊を見るのは苦手ですの。ですから、普段から見境なく見てるわけではありませんのよ。それなりに、修練も積んでいますもの」
小さく話しかけると、思ったより口数多く返って来た。来たものの、やはり顔色はよくない。
さっきまで私の腕を握っていた手で、そっと私の服の裾を掴んだ。
「たくさんの強い感情をダイレクトに感じると、今回みたいに気分が悪くなることはよくあります。でも、今はそういうことではなくて…」
真砂子は言葉を探すように一度沈黙して、私と視線を合わせる。
大きな目にじっと見つめられる。
「…霊を祓うには、除霊と浄霊がありますの。ご存知?」
「ま、言われてみれば二つニュアンスがあるね。字はわかるけど、違いまでは」
「…浄霊は、霊に語りかけてこの世の未練を解いてやることですの。でも、これは霊と交流できなくては…霊媒でなくてはできない……」
なるほど。読んで字の如くってことね。
浄霊は浄化する…成仏させるってことなんだろう。
真砂子は、目を伏せて続きを語る。
「ナルは、霊媒じゃないのですもの。…除霊をするつもりなのですわ」
悲しげに呟かれた「除霊」の言葉に、なんとなく意味を察した。
穏便じゃない手段なのだろう。「除く」というからには。
「悪い人間が…いたとしますでしょ?説得して、改心させるのが浄霊。有無を言わさず殺してしまうのが除霊ですの」
「そっか」
そう、真砂子は悼ましげに、痛ましげに呟いたから、
「じゃあね、真砂子。大丈夫だよ。きっと、大丈夫」
私の「大丈夫」に、夢に見たあの子みたいな力があればいい。
そう思って、真砂子に笑いかけた。
「ただ殺すなら情報はいらない。ナルは無駄なことなんかしない。きっと、説得するための材料を集めてきたんだよ」
「…ナルは、霊と交流はできません。浄霊は…」
「真砂子がいる。真砂子が、霊の思いをナルに伝えたでしょう?」
真砂子が、女の未練を明らかにした。子供たちの心を代弁した。
だからこそナルは、原因を断定できた。
原因は、「自分の娘を求める母親の霊」だ。
「私、専門用語には詳しくないけど、国語は好きだよ」
「…え?」
「霊媒って、きっと人と霊を繋ぐ役割のことだよね。媒介の媒。とりもつこと、仲立ちすること。誰にでもできることじゃない。そうでしょう?真砂子」
「…そう、ですわ。あたくしは、霊媒ですのよ」
見えるから、それだけでできることじゃない。そう思った。
死んだ人の未練を解くなんて、そう簡単なことじゃない。ましてや、人生経験が十年ちょっとしかない子供が。
き、といつもの気の強そうな顔で前を向く真砂子。
手が、襟元できつく握り締められている。
その背中を、ぽんぽん、と叩いてやった。
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ジョンの言葉とともに、冷気が強くなるようだった。
ドライアイスが気化して……穴の中から漏れてきているかのように。
「原さん、どうです」
ナルの語調も強い。
思いのほか、しっかりとした様子で真砂子はそれに応えた。
「ずいぶん、数が減りました。居間の外に逃げてゆきます……戻ってきては、いないようですわ」
悲しげに目を伏せた真砂子の背中を支えることしかできない。
あまりよくわからないが、子供たちの様子はいいものじゃないのだろう。
ぼーさんの除霊のときにモニタ越しに見た霊たち。
真砂子に苦しい、もうやめたいと訴えた子供たち。
自分の意思ではなく、この世に留められている…昇ることのできない魂。
ふと、思い出すことがあった。
死者を現世に縛り付ける未練の鎖は、なにも死者自身だけのものではないと。
愛した人を、親を、兄弟を、友を……子を、亡くして、嘆く人々の未練の鎖でも、あるのだと。
いかないで、と引き止める声に振り向いた死者は、道を見失って迷ってしまうのだと。
子供は、親を食らって生まれる。
骨を食み、肉を裂き、生まれた後は血を飲んで育つ。
出産経験のない私にはわからない。
『思春期の頃』。そんなものは、知れば知るほど寄生虫のようにしか思えなかった。
自分の胎に何かが棲みつくことはグロテスクだと思ったし、そうして生まれ育った自分にも吐き気を覚えた。
でも、違うのだろう。
愛せるとか、愛せないとかじゃない。
きっと、子供は、我が子は、親にとって分身なんだ。
それは、良くも悪くも。
愛するにしろ、嫌悪するにしろ、所有するにしろ、放棄するにしろ。
母親にとって子供を失うのは、まさに「身を切られるような」ことなのかもしれない。
それが、誰にとってどんな意味を持つのかは…また違ってくるのだろうけれども
水を打ったような静寂が広がった。
否、ジョンの声はやんでいない。
それは静かな、静かな、絶望だった。
井戸であった穴から、ゆらりと立ちのぼった冷気は女の形を象った。
輪郭ははっきりしていないはずなのに、印象ばかりがはっきりしている。
結い上げてほつれた髪、ほどけた帯揚げと帯締め、憔悴したような、否…鬼気迫る、その気配。
その女は、夢に見たままの……母親の姿だった。
「……―――富子さんはいません!もう、この世のどこを探してもおりませんのよ!」
「真砂子…」
真砂子が叫んだ。
悲痛な声だった。
「その子たちは富子さんではありません。どうぞ、もう、自由にしてあげて!」
語りかける真砂子の、言っていることは正論だった。
本当のことだ。そして、正しい。
傷ついた人は、真実よりも、自分に優しい夢を見ていたいものだ。
そこに真実を突きつけるものは、敵にしかなりえない。
死んでも未だ娘を求め続けるこの女は、きっと本当のことなど求めていない。
ただ、娘のことしか考えていない。邪魔するものは全てが女の怨敵なのだろう。
「みんな、本当のお母さんのもとに帰りたいのですわ!おねが……!!」
だから、この必死の説得も―――…狂った女には、自分から子供を奪い取る敵の言葉にしか聞こえない。
真砂子が息を呑む。
女の足元に、蠢くものを見つけた。
手、であった。小さい子供の手。無数の、腕が穴から這い出ていた。
「グロテスクなことしてくれちゃって、まぁ…」
真砂子を抱きしめる。
手は、こちらに向かって伸ばされている。
アレが女が集めた子供たちなのか、女自身の一部なのかわからないが…まあ、掴まれていいことは起こらなそうだ。
息を吸い込んで、くゆるように不安定な手を、女を睨む。
怯んだら負けだと思う。
怖くない、わけではない。でも、無条件に怯えてやる道理もない。
妙に冷静な頭の一部で苦笑した。
人間、守るものがあると臆病になるって言うよなぁ。
腕の中に守らなければいけないものがあると、恐怖感が増すと聞いたことがある。
私より、多くのものを感じ取っているんだろう。
震える真砂子を、強く抱え込んだ。
人間、死んだら終わりだと思っている。
幽霊になろうと、生まれ変わろうと、一度終わらせた人生の『続き』を生きることはできない。
死んで本懐を遂げられるならそれでいいだろう。
でも、自殺しておいて未練がましく化けて出るようなヤツに、負ける気は毛頭ない。
白い手が、床を這う。
「麻衣さん、真砂子さん、下がって!…っぐ、」
「ジョンっ!」
「ブラウンさん!!」
私たちの前に立ちふさがったジョンが、壁に叩きつけられた。
慌てて真砂子を連れて駆け寄る。けほ、と息を吐いたが無事のようだ。
女は、ゆっくりと顔を上げた。
とても静かな狂気と憎悪が、暗い、暗い瞳に込められている。
この世の全てを恨み憎むようなその目を、女はゆっくりとナルに向けた。
ナルは、微動だにしていなかった。
この状況で…そう、私たちが被害にあっているこの状況で。
……釈然としないものを感じなくもないぞコノヤロー。
カツ、とフローリングに硬質な靴音を立てて、ナルが一歩を踏み出した。
腕の中で、真砂子が固唾を呑んで、それを見つめる。
視線の先で、ナルが右腕を掲げた。
手の中には、小さな板。
女が反応する。
「お前の子供は、ここにいる」
耳の奥で、幼い手まり歌がリフレインした。
「集めた子供ともども、連れて行くがいい」
ナルの手から、板が放られた。
女はそれから目を離さなかった。
今までの、禍々しい怨念は、いつの間にか感じなくなっていた。
女が、腕を広げる。
何度も迎え入れたのだろう。
何度も求めて…そして遂には腕の中に戻らなかったそれ。
腕の中に馴染んで、ぴったりと収まったのは、在りし日の女の娘、そのものだった。
遊んでいた子供を迎え入れるように、きつく胸に抱きしめて。
愛しくてたまらない、というよりは何故か、もっと静かで、穏やかな何かに見えた。
「…麻衣、見て」
真砂子に安堵を滲ませた声を掛けられてはっとした。
考えているようで考えていないような、見ているようで見ていないような…要するにぼーっとしていた。
改めて、目の前の光景を見る。
光に色を付けるとしたら、橙色。
柔らかさと、暖かさの代表のような色が合うと思う。
女の、突き刺すようなキツイ印象は消えていた。
もう、どこにでもいる『母親』でしかない。
ふと、ナルを見上げる。
いつも通りの仏頂面で、そのやけに暖かい光景を眺めるナル。
「ね、ナルが今こっちむいたら、ものすごく神々しいね」
「!………っ、麻衣、あなたって人は…」
ものすごい後光だと思うんだ。いや、今でも充分だけど。
呆れた顔をしようとしても、笑いの衝動でうまくできないらしい真砂子ににっこりと笑った。
よかった、辛そうな顔はもうしていない。
『富子』を抱きしめる『母親』に、たなびくような霞が寄り添う。
母親を求めて彷徨っていた子供たちが、惹かれるように集まってきていた。
悪意や、気味の悪さはもう感じない。
霞の中に、たくさんの幼い笑顔が見えた気がした。
霊たちは光の中にゆっくりととけて、光とともに消えていく。
最後まで母子の隣に残っていた小さな霞が、思い出したように部屋をぐるりと回って、母子とともに消えていった。
うっすらと冷気の残った部屋に、夏の朝日が差し込んだ。
じーわじーわと蝉の鳴く声が耳に届き始める。
風穴から出てきたときみたい。じんわりと身体に熱が戻って、夏の日差しすら暖かく感じる。
もっとわかりやすく言えば、バイトで作業していた業務用冷凍室から出てきた時の感じ。
ああ、生きてるわ。