CPあり小説

 薄い膜のかかったようにぼやけた空から降りそそぐ日差しはのどかすぎるほどで、昼下がりの空気は微睡のように輪郭がない。零れそうになるあくびを噛みころしながら、那由多は法学部棟の廊下を一人歩いていた。
 次の三限目は臨時休講で、しかし四限目はまだ授業がある。この謂わゆる空きコマというものを那由多は嫌っていた。無為に大学に拘束されているような気になる。もちろん時間を無駄にするつもりはないしやるべき事をやるのは変わらないが、それでもギターも作曲ソフトも触れない大学という場所でできることには限りがある。
 昨夜も──いや、ほとんど今朝と言っていい時間まで新曲のアレンジを試していたから、睡眠時間は四時間を切っている。苛立ちと睡眠不足のせいで那由多の眉間の皺はいつにも増して深かった。
 のんきで騒がしい学生たちの群れをすり抜けつつ、四限目の授業の講義室へと向かう。その一般教養の授業が行われるのは、法学部棟から離れた場所にある、あまり使われない棟だ。静かなそこで少し仮眠をとり、夕方からのバンド練に備えておきたい。建物の外に出たとたんに注がれる穏やかな陽光すら目に沁みて、那由多は目を眇めた。
 木陰のベンチでギターの練習をしている帽子の男や、自販機の横に屯し談笑するグループを一瞥することも、それらの雑音を意識の俎上に載せることもなく、ただ前だけを見て真っ直ぐ歩いてゆく。キャンパス内に満ちる学生たちのはしゃいだ雰囲気を鋭く切り裂くかのように、彼の歩調は速かった。
 と、那由多はふと視線を宙に投げた。
 那由多の歩調と同じく、周囲の喧騒をものともしないまま真っ直ぐ放たれた矢のように鼓膜を射抜いた声があった。空気を震わす轟音などではなく軽やかで些細な声なのに、次の瞬間たちまち他の声のいっさいが消え失せて、自分の鼓動の音とその声だけが世界に残る。
 那由多は声の飛んできた方向へと目を凝らす。胸には僅かな諦念めいた予感を携えながら。
 ひとけのない教務課棟の裏手へ、植込みの木々にまぎれるように足早に駆け込むひとつの人影があった。その瑠璃色の癖毛は、声の正体が予想通りであることを告げていた。
 放っておくか、様子を見に行くべきか。那由多は少し逡巡し、結局、彼が消えた校舎の裏へと足を向けた。わざわざ確かめに行く自分自身にチッと舌打ちをこぼす。とは言え、どこか焦っている様子だったのも気にかかるし、ひとけも無ければベンチも自販機も無い場所にいったい何の用があるのかも引っかかる。
 校舎裏を覗き込むと、声の正体である七星蓮がしゃがみ込んでいた。背中を向けているから表情は窺えない。足でも痛めたか、と思ったそのとき、彼が「あっ」と声を上げた。
「だめだよ、そのままじゃ怪我しちゃう。こっちに来て」
 やけに切迫した真剣な声だった。何に話しかけているのか、しゃがむ彼の向こうを覗き込んだのと同時に「ニャア」と高い声が響いた。
「猫か」
 呟くと、蓮が驚いた様子で振り返った。丸く見開かれた目が無防備に那由多を見上げていた。
「那由多くん! ちょうどよかった」
 丸かった目が安心したようにほどける。那由多は無意識のうちに右手を握り締めていた。
「猫がどうした」
「うん、あの猫、後ろ足に蔦みたいなのが絡まってるんだ。どこかに引っ掛けると危ないし取ってあげたいんだけど、上手くいかなくて」
 確かに蓮の前にいるトラ猫の後ろ足には枯れた蔦が執拗に絡みついていた。蓮の言う通り、怪我に繋がりかねないだろう。
 那由多は蓮の隣にしゃがんだ。そして猫に向かって舌を鳴らしてみせる。ねずみか鳥の鳴き声かと思ったのか、猫はピクリと耳を動かし、那由多を見つめた。蓮が息を呑む気配が伝わってくる。
 猫はおずおずと近づいてきた。那由多が下から手を差し出すと、湿った小さな鼻を寄せてふんふんと匂いを嗅ぎはじめる。警戒心は薄そうだし、近くの家の飼い猫かもしれない。反対の手で耳の後ろの柔らかな毛を撫でると、硝子玉のような目を気持ち良さげに細めた。その隙を狙い、驚かせないようにそっと猫を抱き上げる。
「おい、七星」
 那由多は蓮のほうに猫を向けた。呆気に取られたように那由多を見つめていた蓮は「あ、今のうちだね!」と我に返って頷く。
「ごめんね、痛くしないからね」
 もたもたとおぼつかない手つきながらもなんとか蓮は蔦を足から外すことに成功したようだ。腕の中の猫を地面におろす。
 まるで礼でも言うかのように、猫はニャアと鳴いて蓮の足元に擦り寄った。人馴れしているようだしやはりどこぞの飼い猫なのだろう。喉さえ鳴らしそうな勢いで足に体を擦り付けている。
「わっ、すりすりしてくれてる……!」
 少しでも足を動かせば猫を踏んづけてしまいかねない、とでも思っているように蓮は地面に踏ん張りながら、おろおろと手を宙にさまよわせている。鈍臭い蓮が少し動いたところで、俊敏な猫はするりと身をかわすことができるだろう。那由多は呆れて目を細めつつ、けれど蓮らしいとも思った。
「触りてぇなら触ればいいだろ」
「えっでも、嫌がられないかな」
「それはソイツが決めることだ」
 言い放てば、蓮はこくりと頷き微笑んだ。
「そっか。そうだね」
 蓮はゆっくりとしゃがんで、小さな猫の額をそっと撫でる。頭上に差し出された白い手に鼻先を近づけた猫は、ちろりとその手を舐めた。
「わぁ、くすぐったい。ぽんちゃんの匂いがするのかな」
 嬉しげに笑う蓮を見下ろしていると、ふと何か胸の奥で微かに音がした、気がした。軋むような、絞るような、何とも形容しがたい不思議な音と感覚に、那由多は思わず舌打ちをこぼす。
 その音が聞こえたのか聞こえていないのか、蓮が無邪気に微笑んだまま那由多を振り返った。
「那由多くんも、ほら。猫、好きだもんね?」
 ちょいちょいと手招きをしつつ、少し足の位置をずらして自分の隣にスペースを作っている。
 何言ってんだお前、とか、うるせぇどうでもいい、とか、喉元まで出かかった言うべき言葉はしかし声にはならなかった。その上さっき胸の奥の軋みさえもすっと溶けるように消えていく。那由多は深いため息を吐き出した。まったく、認めたくはないがこの男の考えや言葉はいつもこちらのペースを乱してくる。
 ぎくしゃくと彼の十五センチ隣に座り、猫に手を伸ばす。背中を撫でて顎の下をくすぐると、澄んだ薄黄緑の瞳を細めた。にゃんこたろうよりも少し硬くさらさらした茶色い毛に指先が埋もれる。
「那由多くん、やっぱり猫に触るのがじょうずだね」
 のんきな声は昼下がりの緩やかな日差しに似ていた。横目で彼を見遣る。猫のような彼のつり目は、実際目の前のトラ猫と同じように細められていた。
 ふるりと尻尾を一度大きく揺らし、それを去り際の合図にするかのように猫はふと歩き出して、そばにあった垣根の隙間に体を滑り込ませていった。「またね」と蓮は猫の消えた場所へと手を振っている。
「おい、行くぞ」
 立ち上がり声をかけてから、しまった、と思った。
 べつにこの後一緒に行動する必要もなければ約束だってしていない。自然に口をついてこぼれた言葉は自分でもまったく予想外のものだった。
「うん」
 それでも、蓮もごく自然に返事をして立ち上がった。ぱんぱんと両膝を払い、そして那由多を見つめる。
 まるでそうするのが当然かのようなさらりとしたその態度に、わざわざさっきのは間違えただけだと言うのも馬鹿らしくなる。那由多はそのまま歩き出した。もちろん蓮もそのすぐ後をついていく。
 仮眠をとるのも、新曲のアレンジを考えるのも、べつにこの男が隣にいたとしてもできることだ。那由多の足取りはさっきと変わらず真っ直ぐと確かで、しかしほんの少しだけ悠然とした緩やかさを纏っていた。
「僕、次の時間は空きコマなんだけど、那由多くんも?」
「ああ」
「そっか。あっ、教務課棟の入り口のところの自販機にあるコーヒーがすごく美味しいんだって。このあいだ航海が言ってたんだけど、買ってく?」
「……どれだ」
「うん、えっとね……」
 違うリズムながらもどこか調和のとれた二つの足音は、のどかに輝く水色の空に吸い込まれていく。
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