CPあり小説

新しい靴をおろした日は、地面から三ミリ浮かび上がっている気がする。
大学の広い構内を歩きながら、蓮はちらりと足元を見下ろした。黒いスラックスの先で交互に前後する、ぴかぴかと光を反射させる茶色いローファー。つい昨日、結人に選んでもらったものだ。
春物の服を買うために、いつものように結人に服を選んでもらっていたとき、「靴も新しいのを買ってみたらどうだ?」と言って彼が持ってきたのが、この靴だ。
小さな房がふたつ付いた、なんだかとてもオシャレな革靴。光沢のある深い茶色が大人びて見える。
「僕、革靴なんて大学の入学式くらいでしか履いたことない」
不安を滲ませながら蓮はぽつりと呟く。結人がはは、と軽やかに笑った。
「蓮はいつもスニーカーだもんな。ライブの衣装だとブーツが多いし」
でも、と彼は人差し指を立ててみせた。
「だからこそだよ。足元が変われば、全体の雰囲気も変わる。簡単にイメチェンできるんだぜ」
「そうなの?」
「ああ。それに、この靴はそんなに硬くないから履きやすいと思うし、フォーマルすぎないデザインだからどんな服装にも合わせやすいぞ。ちょっと挑戦してみないか?」
「……僕にはちょっとオシャレすぎないかな?」
おずおずと言うと、結人は屈託ない笑顔を見せた。
「大丈夫だって。絶対似合うから」
そんな結人の太鼓判を信じて買ったこの靴。
たしかに彼の言う通り、スニーカーから革靴に変えただけで服装全体の印象まで変わった気がする。歩くたびにタッセルというらしいこの小さな房がかすかに揺れるのが、なんだかくすぐったいような気持ちになる。
結人の選んでくれる服はどれも、自分も母親も選ばないようなものばかりだ。それなのに着てみるととてもしっくりと馴染んで、ファッションに疎い自分でさえオシャレだとわかる。わずかに弾むような足取りで、蓮は大講義室へと急いだ。
年度初めのオリエンテーションは同学部の同学年がみんな招集される。重いドアを押し上げて入った大講義室は、すでに学生たちでいっぱいだった。いつもの講義のときならまず緩く跳ねる銀髪を探すのだけれど、今日は学籍番号順に座らないといけないから、まっすぐ自分の席へと向かう。講義室の真ん中あたりの席に着き、苗字が「あ」の人たちが座る左前方の席を見やる。たくさんの頭越しに、窓から射す春の陽光が彼の髪をきらきらと輝かせているのを見つけて、蓮はちいさく口許を緩めた。
滞りなく進んだオリエンテーションは一時間ほどで終わり、学生たちは連れ立ってぞろぞろと講義室から出て行く。ざわざわとした喧騒のなか、蓮はくるりとあたりを見回して彼の姿を探す。けれど、すでに講義室出て行ってしまったようだ。しゅんとしつつ、自分の荷物をまとめる。
すると、ふいに「七星」と声をかけられた。驚いて、声のしたほうへと顔を向ける。そこには同じ英語のクラスの男子学生が立っていた。
「七星って旭と仲良いよな? これ、旭が忘れてったから届けてやってくれない?」
「えっ、うん」
受け取ったそれは、さっき配られたばかりの履修登録に関する注意事項が書かれたレジュメだった。これがないと、きっと彼は困ってしまうだろう。
「ありがとう、届けてくるね」
蓮は慌てて自分の荷物をまとめると、講義室を飛び出した。
思い思いにうごめく人の波をかき分けつつ、急いで走る。今日はまだ授業はないので、那由多はきっと校舎内に留まることなくさっさと帰っただろう。そう考えて校舎を出て、蓮はきょろきょろと辺りを見回した。すると三十メートルくらい先に、きらきらとした銀髪を見つけ出した。蓮はパッと顔を輝かせる。
「那由多くーん!」
小さく見える彼の背中に向かって呼びかけたが、彼は振り返ることなくさっさと歩いて行ってしまう。慌てて蓮はまた駆けだした。
と、ふいにズキン、と右足首に鋭い痛みがはしった。「痛っ」と思わず顔をしかめて足を止める。その間も、足首はズキズキと脈打つような痛みを伝えている。しゃがみ込み、靴下をずらして見てみると、皮が剥けて薄く血が滲んでいた。どうやら靴擦れのようだ。
痛いけれど、彼にレジュメを届けなければ。右足を庇いつつ立ち上がろうとした、のだが。
「おい、何してんだ」
いつのまにかすぐそばまで来ていた那由多が蓮を見下ろしていた。
「那由多くん。よかった、これ、さっき忘れてったレジュメだって」
手に持っていた紙を差し出す。それを受け取った那由多は、けれどまだ蓮の前に立っている。
「それでお前は何してんだ」
「え? えっと、靴擦れしちゃったみたいで」
足元を見下ろしながら蓮は苦笑した。那由多がチッと舌打ちをこぼした。
「お前、いつもはスニーカーだろ。慣れない靴なんざ履くからそうなるんだろ」
「うん……でも、結人が『春はやっぱり革靴だ!』って。それに、僕も新しい靴に挑戦してみたいと思ったんだ」
かすかに眉を寄せる那由多に、蓮はにっこりと微笑む。
「ほら、オシャレだよね。最初は僕には大人っぽすぎるかなって思ったんだけど、でも気に入ってるんだ」
足を少し前に出して、靴を示してみせる。春の穏やかな陽光を受けて、ローファーは蓮の足元でつるりと鮮やかな光を反射させている。
「知らねェよ」
いつものごとく素っ気なく言い放つ那由多だが、けれどその右手は肩に引っ掛けたバッグをごそごそと漁っている。何をしているんだろう、と蓮はきょとんと首を傾げた。
バッグから何かを掴み取ったらしい那由多が、「おい」と蓮に呼びかける。そして、目を瞬かせる蓮の顔の前に、ずいっと手を差し出してきた。慌てて両手を出す。
手に落とされたそれは、一枚の絆創膏だった。
蓮はパッと顔を上げて那由多を見上げる。
「そんなんじゃ歩けねェだろうが」
舌打ちまじりに、不機嫌そうに那由多が呟いた。けれど、蓮は気づいている。引っ込められた彼の手が、気まずそうに、気恥ずかしそうにもぞもぞと指先を擦り合わせていることに。
「ありがとう、那由多くん」
花が綻ぶように、蓮はふわりとはにかんだ。
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