CPあり小説
数日ぶりに帰ってきた東京の街はやはりとても賑やかで、それが新宿ともなればなおさらだ。
キャリーケースの柄を握りしめる右手に力をこめながら、蓮は大きな駅の構内を行き交う人々を眺める。ざわざわとした話し声、幾つも重なる足音、ひっきりなしのアナウンス。バラバラと降りそそぐ音がまるで洪水のように波となって押し寄せてくる。いつ来てもこの場所は音で溢れているようだ。
LRフェスの2ndラウンドが終わり、フェスの無期限の延期が告げられてから、もう半月が経とうとしていた。運営の意向に背いて、参加バンドたちの独断でεpsilonΦをステージに上げたあのライブ。
フェスの無効化と延期が告げられたときこそ、ことの重大さがまざまざと身に染みて自分の決断に対する自信が揺らいだりもした。けれど、結人の「一人で抱え込むな」という言葉やArgonavisのメンバーみんなのあたたかな支えのおかげで、前を向くことができた。
その前進の証のひとつである函館でのライブから、今ちょうど帰ってきたところなのだ。
数ヶ月ぶりにArgonavisのメンバー五人でまわった函館の街はとても懐かしかった。何度もみんなで通ったラッキーピエロ、お世話になった音楽スタジオ、そしてもはやホームグラウンドと呼べるほど入り浸ったサブマリーナのお店。久しぶりに会ったマスターは相変わらず優しくて、心がぽかぽかとあたたかくなった。
それに久しぶりの函館でのライブはそこに住んでいた頃よりもずっと盛況で、LRフェスの知名度や影響力を再確認したし、そして何よりとても楽しかった。街を歩いているときに感じていたほんの少しさみしさに似た感傷と郷愁は、歌いはじめた途端にこの場所でライブができる喜びと熱狂へと変わり、あざやかな光となって胸を照らす。
函館は大切な場所だ。Argonavis結成の地であり、運命がはじまった大切なふるさと。
だけど、と蓮は新宿駅の構内をぐるりと見回した。
あのきらめくような港町とは似ても似つかないこの雑踏も、同じように懐かしいのはなぜだろう。「帰ってきた」と思ってしまうのは、なぜだろう。
目的地も、出かける理由もまったく違う人々が、それぞれの事情や理由でただひとつの場所に集まり、渾然一体とした喧騒を生み出す。なんだか不思議だな、と蓮はぼんやり考えた。それに、どこか似ている気がする。フェスで感じた、さまざまな色が混ざり合ってひとつの大きな渦となった、あの熱狂に。
つらつらと考え事をしながら歩いているうちに、いつのまにか改札を抜けて構内の端まで来てしまっていた。大きく開かれた出入り口から明るい陽が射しこんできている。天井から吊り下げられた表示を見ると、どうやらここは西口らしい。
と、そのとき、トレンチコートのポケットに入れていたスマートフォンがピコンと音を立てて振動した。きっとはぐれてしまったみんなからのメッセージだろう。蓮は人の邪魔にならないように通路の隅に移動する。それからスマートフォンを取り出して、画面にポップアップされたメッセージを見る。
『結人:ちゃんと新宿駅で降りられたか?』
『航海:乗り換え、間違えないようにね』
『凛生:乗る路線をきちんと確かめるんだぞ』
『万浬:気をつけて帰ってきてね!』
やっぱり、みんなに心配かけちゃったな。蓮はちいさく眉を下げた。
本当は、蓮も他の四人と一緒に羽田空港から下北沢にあるシェアハウスまで帰っていた。けれどみんなと渋谷駅で降りるはずが一人だけ上手く降りられず、そのままあれよあれよと新宿駅まで来てしまったのだ。
『うん、降りられたよ』
『今から乗り換えです、頑張る』
メッセージへの返事を打ち込み送信して、少し考えたあとこの前結人にプレゼントしてもらったぽんちゃんによく似た犬のスタンプをひとつ送る。
さて、下北沢に帰るための路線はどこだったっけ。案内板がどこかにないか探しに行こうとした、そのとき。
ふいに誰かに腕を掴まれた。
蓮は驚いて振り返る。
「おい、どこに行く気だ」
そこにいたのは、いつにもまして不機嫌そうな顔をした那由多だった。
「えっ、那由多くん?」
目をまん丸にする蓮に、那由多が舌打ちをこぼす。彼の鋭い眼差しには苛立ちだけでなくどこか焦燥のようなものも滲んでいる。
「だから、どこに行こうとしてんだ」
腕を掴む彼の手にいっそう力がこもる。いっそ痛いくらいだ。蓮はちいさく首を傾げた。
「どこって、家に帰ろうと思って……那由多くん、どうしたの?」
「家? 函館のか?」
「ううん、下北沢だよ。函館でのライブから帰ってきたところなんだけど……」
困惑しつつ説明する。
すると那由多はあっけにとられたように僅かに目を見開いて、それから深いため息を吐き出した。彼の赤い瞳が動揺するみたいにゆらゆらと揺れる。
その顔に、蓮はふとひらめいた。
「もしかして、僕がどこか遠くに行くと思ったの?」
函館から帰ってきたばかりだから大きなキャリーケースを引っ張っていて、それでターミナル駅をうろついているのだから、彼が勘違いをするのも当然だ。そう思って尋ねると、那由多は気まずげに目を逸らして舌打ちをした。どうやら予想は当たっていたようだ。
けれど、なぜ自分がどこか遠くに行くと彼が苛立つのだろう。
内心首を傾げていると、その間にも那由多はくるりと踵を返してどこかに行ってしまおうとしていた。蓮は慌てて彼の手を掴む。
「待って那由多くん! 少し話がしたいんだけど、いいかな?」
「で、なんだ話って」
蓮が手渡したブラックコーヒーの缶を開けながら、那由多が尋ねる。
西口から数分歩いたところにあるビルの脇の、小さく開けた広場に二人は来ていた。駅の喧騒から少し離れた広場は、都会のど真ん中にあるのにそうとは思えないような落ち着いた雰囲気が漂っている。
蓮も那由多の隣に腰掛けた。正方形の木製のベンチはひんやりとしていて、ちらちらと揺れる木漏れ日が心地よい。蓮は買ったばかりの微糖コーヒーを両手で包み込んだ。
「うん。あのね、今日函館から東京に戻ってきたんだけど、こうして新宿の街を歩いているとどうしてか『帰ってきた』って思うんだ」
濃い焦茶色の缶のあたたかさを手のひらに感じつつ、蓮は続ける。
「僕にとってのふるさとはやっぱり函館だし、函館でも『帰ってきた』って思ったんだけどね。でも、この東京の街のことも、どうしてか懐かしく感じるんだ」
高いビルとビルのあいだの、ほんの少し灰色がかった空を見上げる。北海道の、指先が触れそうなほど近くに感じる空とは違う、遥か遠くに霞んだ空。薄くちぎった綿のような雲がゆっくりと形を変えながら流れてゆく。
海のそばの道を歩いているときに聴く波音の代わりのように、空気を隔てた場所から雑踏のざわめきが響いてくる。濃密な人の営みの気配。
全然似ていない二つの街なのに、やっぱりなんだか懐かしい。蓮は手のなかの缶を握りしめた。
ちらりと隣の那由多を見る。彼はいつものように不機嫌そうな、少しつまらなさそうな顔をしていた。
「ごめんね、突然変な話して」
苦笑しつつ謝る。
那由多が、はあ、と浅いため息を吐き出した。
「……お前にとって、ここも帰る場所になったってことだろ」
ぶっきらぼうな声でぼそりと那由多が呟く。蓮ははっと彼を振り返った。
「帰る場所……」
「まだここで何も成せてねぇだろうが。ここでやるべきことが、お前にもまだあるんじゃねーのかよ」
ちらりと蓮を見やる那由多の紅い瞳の中で、鮮烈な炎が燃え滾る。大きく揺らめくその炎に、心臓を掴まれたような心地になる。
蓮はしっかりと頷いた。
「うん。僕、まだこの街で歌いたい歌がある」
たくさんの人がいるこの街──たくさんの人がそれぞれの事情や理由を抱えながら、それぞれの生活の音を奏でるこの街で。
たくさんの人と出逢えた、この東京という街で。
まだまだ歌いたい歌がたくさんある。
「そっか。僕、東京の街のことも好きになってたんだね」
言葉にすると、その気持ちはいっそう素直にすとんと胸におさまった。
那由多がフンとちいさく鼻を鳴らす。蓮はふふ、と微笑んだ。
「那由多くん、ありがとう。那由多くんと話していると、いつも自分の気持ちがはっきりするんだ」
LRフェスの2ndラウンドでのεpsilonΦの欠場措置についてモヤモヤしていたときもそうだった。那由多と話すことで、彼の言葉を聞くことで、自分の気持ちや自分がどうしたいかを確かめることができた。
GYROAXIAの札幌での最後のライブに行ったときも、那由多の言葉によって、Argonavisも東京に行くという目標を口にすることができた。
それに、思えばバンドに入ることを決めたきっかけのひとつも彼だった。大きなきっかけはもちろん結人と航海の勧誘だけれど、二人の待つサブマリーナに行くかどうか決めあぐねているとき、GYROAXIAの歌を聴いたことで背中を押され、走りだすことができたのだ。
まるで心の中の靄を振り払うかのように、彼の言葉は胸の奥底にある本当の気持ちを鮮やかに照らし出してくれる。
「知らねェよ」
コーヒーに口をつけながら那由多がぼそりと呟く。そっけない言葉だけれど、あんまり尖った感じはしなかった。蓮はちいさく口許を緩める。
「ねぇ、那由多くん。どうしてさっき僕のことを引き止めようとしたの?」
思い切って、気になっていたことを尋ねてみる。
けほっ、とコーヒーを飲んでいた那由多が咳込んだ。
「わ、大丈夫?」
口許を手の甲で拭いながら、那由多はじろりと紅い瞳を蓮へと向ける。それからさっきとは違う特大の深いため息を吐き出した。苛立ちのなかにほんの少し困惑と気まずさが混ざったような彼の様子に、蓮はおろおろとしてしまう。
「えっと、もしかして訊いちゃダメだったかな……」
「…………俺は、世界を奪う。世界に俺の歌を響かせる。そのために歌っている」
長い沈黙のあと、那由多はぽつりと言葉をこぼした。それはいつもよりもどこか静謐で、噛みしめるような響きがあった。蓮はそっと那由多の横顔を見守る。銀色の髪に木漏れ日が落ちて、ちらちらと輝いた。
那由多がふと宙を見上げた。瞳に陽光が反射し、まるで燃えているかのようにぎらりと揺れる。
「お前が歌ってる世界で、俺は俺の歌を響かせてやる」
それは、強く、紅蓮に燃える眼差しだった。
「うん。僕も、那由多くんの歌がある世界で、僕の、僕たちの音楽をやりたい。歌い続けたい。だから、東京にいる」
「……フン」
相変わらずの、ぶっきらぼうな相槌。だけど、その口許はほんの少しだけ緩んでいるようだ。つられるように、蓮もそっと顔を綻ばせる。
穏やかに射す陽光は少しずつオレンジ色をおびて、夕暮れの色合いに染まりつつあった。やがて瑠璃色の夜がきて、そして鮮烈な朝焼けが訪れる。
東京の街に来てよかった。帰って来られて、よかった。
遠く聴こえるざわめきに耳を傾けながら、蓮は純粋な気持ちでそう思った。
キャリーケースの柄を握りしめる右手に力をこめながら、蓮は大きな駅の構内を行き交う人々を眺める。ざわざわとした話し声、幾つも重なる足音、ひっきりなしのアナウンス。バラバラと降りそそぐ音がまるで洪水のように波となって押し寄せてくる。いつ来てもこの場所は音で溢れているようだ。
LRフェスの2ndラウンドが終わり、フェスの無期限の延期が告げられてから、もう半月が経とうとしていた。運営の意向に背いて、参加バンドたちの独断でεpsilonΦをステージに上げたあのライブ。
フェスの無効化と延期が告げられたときこそ、ことの重大さがまざまざと身に染みて自分の決断に対する自信が揺らいだりもした。けれど、結人の「一人で抱え込むな」という言葉やArgonavisのメンバーみんなのあたたかな支えのおかげで、前を向くことができた。
その前進の証のひとつである函館でのライブから、今ちょうど帰ってきたところなのだ。
数ヶ月ぶりにArgonavisのメンバー五人でまわった函館の街はとても懐かしかった。何度もみんなで通ったラッキーピエロ、お世話になった音楽スタジオ、そしてもはやホームグラウンドと呼べるほど入り浸ったサブマリーナのお店。久しぶりに会ったマスターは相変わらず優しくて、心がぽかぽかとあたたかくなった。
それに久しぶりの函館でのライブはそこに住んでいた頃よりもずっと盛況で、LRフェスの知名度や影響力を再確認したし、そして何よりとても楽しかった。街を歩いているときに感じていたほんの少しさみしさに似た感傷と郷愁は、歌いはじめた途端にこの場所でライブができる喜びと熱狂へと変わり、あざやかな光となって胸を照らす。
函館は大切な場所だ。Argonavis結成の地であり、運命がはじまった大切なふるさと。
だけど、と蓮は新宿駅の構内をぐるりと見回した。
あのきらめくような港町とは似ても似つかないこの雑踏も、同じように懐かしいのはなぜだろう。「帰ってきた」と思ってしまうのは、なぜだろう。
目的地も、出かける理由もまったく違う人々が、それぞれの事情や理由でただひとつの場所に集まり、渾然一体とした喧騒を生み出す。なんだか不思議だな、と蓮はぼんやり考えた。それに、どこか似ている気がする。フェスで感じた、さまざまな色が混ざり合ってひとつの大きな渦となった、あの熱狂に。
つらつらと考え事をしながら歩いているうちに、いつのまにか改札を抜けて構内の端まで来てしまっていた。大きく開かれた出入り口から明るい陽が射しこんできている。天井から吊り下げられた表示を見ると、どうやらここは西口らしい。
と、そのとき、トレンチコートのポケットに入れていたスマートフォンがピコンと音を立てて振動した。きっとはぐれてしまったみんなからのメッセージだろう。蓮は人の邪魔にならないように通路の隅に移動する。それからスマートフォンを取り出して、画面にポップアップされたメッセージを見る。
『結人:ちゃんと新宿駅で降りられたか?』
『航海:乗り換え、間違えないようにね』
『凛生:乗る路線をきちんと確かめるんだぞ』
『万浬:気をつけて帰ってきてね!』
やっぱり、みんなに心配かけちゃったな。蓮はちいさく眉を下げた。
本当は、蓮も他の四人と一緒に羽田空港から下北沢にあるシェアハウスまで帰っていた。けれどみんなと渋谷駅で降りるはずが一人だけ上手く降りられず、そのままあれよあれよと新宿駅まで来てしまったのだ。
『うん、降りられたよ』
『今から乗り換えです、頑張る』
メッセージへの返事を打ち込み送信して、少し考えたあとこの前結人にプレゼントしてもらったぽんちゃんによく似た犬のスタンプをひとつ送る。
さて、下北沢に帰るための路線はどこだったっけ。案内板がどこかにないか探しに行こうとした、そのとき。
ふいに誰かに腕を掴まれた。
蓮は驚いて振り返る。
「おい、どこに行く気だ」
そこにいたのは、いつにもまして不機嫌そうな顔をした那由多だった。
「えっ、那由多くん?」
目をまん丸にする蓮に、那由多が舌打ちをこぼす。彼の鋭い眼差しには苛立ちだけでなくどこか焦燥のようなものも滲んでいる。
「だから、どこに行こうとしてんだ」
腕を掴む彼の手にいっそう力がこもる。いっそ痛いくらいだ。蓮はちいさく首を傾げた。
「どこって、家に帰ろうと思って……那由多くん、どうしたの?」
「家? 函館のか?」
「ううん、下北沢だよ。函館でのライブから帰ってきたところなんだけど……」
困惑しつつ説明する。
すると那由多はあっけにとられたように僅かに目を見開いて、それから深いため息を吐き出した。彼の赤い瞳が動揺するみたいにゆらゆらと揺れる。
その顔に、蓮はふとひらめいた。
「もしかして、僕がどこか遠くに行くと思ったの?」
函館から帰ってきたばかりだから大きなキャリーケースを引っ張っていて、それでターミナル駅をうろついているのだから、彼が勘違いをするのも当然だ。そう思って尋ねると、那由多は気まずげに目を逸らして舌打ちをした。どうやら予想は当たっていたようだ。
けれど、なぜ自分がどこか遠くに行くと彼が苛立つのだろう。
内心首を傾げていると、その間にも那由多はくるりと踵を返してどこかに行ってしまおうとしていた。蓮は慌てて彼の手を掴む。
「待って那由多くん! 少し話がしたいんだけど、いいかな?」
「で、なんだ話って」
蓮が手渡したブラックコーヒーの缶を開けながら、那由多が尋ねる。
西口から数分歩いたところにあるビルの脇の、小さく開けた広場に二人は来ていた。駅の喧騒から少し離れた広場は、都会のど真ん中にあるのにそうとは思えないような落ち着いた雰囲気が漂っている。
蓮も那由多の隣に腰掛けた。正方形の木製のベンチはひんやりとしていて、ちらちらと揺れる木漏れ日が心地よい。蓮は買ったばかりの微糖コーヒーを両手で包み込んだ。
「うん。あのね、今日函館から東京に戻ってきたんだけど、こうして新宿の街を歩いているとどうしてか『帰ってきた』って思うんだ」
濃い焦茶色の缶のあたたかさを手のひらに感じつつ、蓮は続ける。
「僕にとってのふるさとはやっぱり函館だし、函館でも『帰ってきた』って思ったんだけどね。でも、この東京の街のことも、どうしてか懐かしく感じるんだ」
高いビルとビルのあいだの、ほんの少し灰色がかった空を見上げる。北海道の、指先が触れそうなほど近くに感じる空とは違う、遥か遠くに霞んだ空。薄くちぎった綿のような雲がゆっくりと形を変えながら流れてゆく。
海のそばの道を歩いているときに聴く波音の代わりのように、空気を隔てた場所から雑踏のざわめきが響いてくる。濃密な人の営みの気配。
全然似ていない二つの街なのに、やっぱりなんだか懐かしい。蓮は手のなかの缶を握りしめた。
ちらりと隣の那由多を見る。彼はいつものように不機嫌そうな、少しつまらなさそうな顔をしていた。
「ごめんね、突然変な話して」
苦笑しつつ謝る。
那由多が、はあ、と浅いため息を吐き出した。
「……お前にとって、ここも帰る場所になったってことだろ」
ぶっきらぼうな声でぼそりと那由多が呟く。蓮ははっと彼を振り返った。
「帰る場所……」
「まだここで何も成せてねぇだろうが。ここでやるべきことが、お前にもまだあるんじゃねーのかよ」
ちらりと蓮を見やる那由多の紅い瞳の中で、鮮烈な炎が燃え滾る。大きく揺らめくその炎に、心臓を掴まれたような心地になる。
蓮はしっかりと頷いた。
「うん。僕、まだこの街で歌いたい歌がある」
たくさんの人がいるこの街──たくさんの人がそれぞれの事情や理由を抱えながら、それぞれの生活の音を奏でるこの街で。
たくさんの人と出逢えた、この東京という街で。
まだまだ歌いたい歌がたくさんある。
「そっか。僕、東京の街のことも好きになってたんだね」
言葉にすると、その気持ちはいっそう素直にすとんと胸におさまった。
那由多がフンとちいさく鼻を鳴らす。蓮はふふ、と微笑んだ。
「那由多くん、ありがとう。那由多くんと話していると、いつも自分の気持ちがはっきりするんだ」
LRフェスの2ndラウンドでのεpsilonΦの欠場措置についてモヤモヤしていたときもそうだった。那由多と話すことで、彼の言葉を聞くことで、自分の気持ちや自分がどうしたいかを確かめることができた。
GYROAXIAの札幌での最後のライブに行ったときも、那由多の言葉によって、Argonavisも東京に行くという目標を口にすることができた。
それに、思えばバンドに入ることを決めたきっかけのひとつも彼だった。大きなきっかけはもちろん結人と航海の勧誘だけれど、二人の待つサブマリーナに行くかどうか決めあぐねているとき、GYROAXIAの歌を聴いたことで背中を押され、走りだすことができたのだ。
まるで心の中の靄を振り払うかのように、彼の言葉は胸の奥底にある本当の気持ちを鮮やかに照らし出してくれる。
「知らねェよ」
コーヒーに口をつけながら那由多がぼそりと呟く。そっけない言葉だけれど、あんまり尖った感じはしなかった。蓮はちいさく口許を緩める。
「ねぇ、那由多くん。どうしてさっき僕のことを引き止めようとしたの?」
思い切って、気になっていたことを尋ねてみる。
けほっ、とコーヒーを飲んでいた那由多が咳込んだ。
「わ、大丈夫?」
口許を手の甲で拭いながら、那由多はじろりと紅い瞳を蓮へと向ける。それからさっきとは違う特大の深いため息を吐き出した。苛立ちのなかにほんの少し困惑と気まずさが混ざったような彼の様子に、蓮はおろおろとしてしまう。
「えっと、もしかして訊いちゃダメだったかな……」
「…………俺は、世界を奪う。世界に俺の歌を響かせる。そのために歌っている」
長い沈黙のあと、那由多はぽつりと言葉をこぼした。それはいつもよりもどこか静謐で、噛みしめるような響きがあった。蓮はそっと那由多の横顔を見守る。銀色の髪に木漏れ日が落ちて、ちらちらと輝いた。
那由多がふと宙を見上げた。瞳に陽光が反射し、まるで燃えているかのようにぎらりと揺れる。
「お前が歌ってる世界で、俺は俺の歌を響かせてやる」
それは、強く、紅蓮に燃える眼差しだった。
「うん。僕も、那由多くんの歌がある世界で、僕の、僕たちの音楽をやりたい。歌い続けたい。だから、東京にいる」
「……フン」
相変わらずの、ぶっきらぼうな相槌。だけど、その口許はほんの少しだけ緩んでいるようだ。つられるように、蓮もそっと顔を綻ばせる。
穏やかに射す陽光は少しずつオレンジ色をおびて、夕暮れの色合いに染まりつつあった。やがて瑠璃色の夜がきて、そして鮮烈な朝焼けが訪れる。
東京の街に来てよかった。帰って来られて、よかった。
遠く聴こえるざわめきに耳を傾けながら、蓮は純粋な気持ちでそう思った。