CPあり小説
土曜日の午前十時前の電車は、平日の朝ほどの混雑はない。
駅のホームにたどり着いたタイミングが良かったのか、乗り込んだ車両が良かったのか、はたまたその両方か。七月初旬の生ぬるい空気をかき混ぜながらホームに滑り込んできた、若葉色のラインが特徴的な車両に那由多が乗り込むと、幸運なことにぽつぽつと空席があった。いくら空いていても座席とドア付近は大抵埋まっていることが多いこの路線にしては珍しい。周りに老人などがいないことを横目で確かめて、そのうちのひとつに腰を下ろす。
ぷしゅう、と間抜けな音を立ててドアが閉まり、すぐに小刻みな振動が開始される。対面に座る人間の俯いた頭越しに見える車窓に、灰色のビル群がずらずらと流れていく。いつもと代わり映えのない景色を那由多は何気なく眺める。
今日は久しぶりの完全オフの日だ。
最近、作詞や作曲、バンド練といったいつもの予定の中に、雑誌の特集のためのインタビューや撮影などのメディア露出の仕事が多く差し込まれるようになった。大体のものは里塚に丸投げしているが、特集内容がボーカルについてやバンド全員についてならば那由多も引き受けざるをえない。
本業である音楽活動の間に挟まるそれらの雑事にいい加減うんざりしていたところ、里塚に気分転換でもしてこいと勧められたのだ。もちろん那由多は、そんなことをしている暇があるなら少しでも新曲の練習なり作曲を進めるなりすると食い下がったのだが、里塚は首を縦に振らなかった。
「明後日は雑誌用の撮影とインタビューがある。そんな疲れた顔で写真を撮られるつもりか?」
昨夜、里塚から苦笑混じりに告げられた言葉を思い出し、那由多は眉間に皺を寄せた。
確かに最近、少し根を詰め過ぎていた自覚はある。空が白み始める時間にベッドに倒れ込み、数時間眠った後大学に行き、授業が終われば即スタジオに入り、真夜中を過ぎる頃までパソコンに向かい曲を作る。そんな生活を続けていたのは事実だ。鏡の前に立てば、目の下に隈を拵えた人相の悪い男が映り込むのにも気付いている。
「インタビューの内容は『この夏の思い出』だ。リフレッシュがてら、話のネタでも作ってきたらどうだ」
眼鏡のブリッジをクイと押し上げながら放たれた言葉に、那由多は舌打ち混じりに了承するほかなかった。
とは言え、了承したはいいが、別段したいこともない。音楽以外に興味を向けない那由多にとって、リフレッシュなどと言われても音楽以外にすることなど思いつかない。しかし家にいる気にもなれない。悩んだ末、そう言えば三、四駅ほど出たところに設備が良いカラオケ店があるという話を思い出して、そこに出掛けることにしたのだ。
天井から吹きつける冷房の風が銀色の前髪を小さくそよがせる。一定のリズムで繰り返される振動と低音が体の底を流れるようで心地良い。昨夜も遅くまで作曲をしていたためか、睡魔が漣のようにじわじわと押し寄せてくる。
こんなところで寝るわけにはいかない。黒いキャップとマスクで軽く変装しているとは言え、『GYROAXIAの旭那由多』だとバレたらいろいろな面倒事に繋がりかねない。理解しているが、それでも瞼の重さに逆らえない。
銀糸のような睫毛を揺らし、那由多は目を閉じた。
ガクリと身体が揺れ、水面へと浮かぶ泡沫のように意識が浮上する。靄がかかったように朧げな意識のまま、那由多は数回瞬きを繰り返した。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。チッ、と小さく舌打ちをこぼしつつ、現在地を確かめるべくドアの上の電子モニターを見やる。
と、そのとき、目の前に立っている乗客がよく見慣れた男であることに気付いた。
「あ、那由多くん起きたんだね」
おはようございます、と帽子のすきまから覗く瑠璃色の髪を揺らしながら彼は呑気に微笑む。
「…………なんでお前がいる、七星」
苦虫を噛み潰したような顔で那由多は呟いた。
「えっと、電車に乗ったら那由多くんが寝てるのを見つけて、誰かと一緒にいる様子もないしもし何かあったらいけないから、そばにいたほうがいいかなって思って……」
余計なお世話だ、という喉奥まで出かかった言葉は、けれど音にはできなかった。
彼の言う通りだ。今回ばかりは睡魔に抗えなかった自分の落ち度であることは自覚している。那由多は舌打ちをこぼした。
見下ろす彼が眉尻を下げつつこくりと首を傾ける。
「ごめん、迷惑だったかな……」
しゅんと萎んでいく声に眉根を寄せつつ、返事をせずに尋ねる。
「……どこに行くつもりなんだ」
「え? えっと、海に行きたくて」
「はぁ?」
遊んでいる暇がお前にあるのか、という非難を込めて七星を睨みつける。そんな那由多の意図に気付いているのかいないのか、彼はふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「今度の新曲は夏がテーマなんだけど、そのミュージックビデオを撮るのにちょうどいい場所を探してて。昨日みんなで良さそうな場所をいくつかピックアップしたから、そのうちの一つの砂浜に下見に行くつもりなんだ」
ぴーぴーとよく喋る彼の口調は楽しげに弾んでいて、まるで歌でも歌っているかのようだ。
「ほら、ここなんだけど、すごく綺麗でしょ? ちょっと人が多そうなのが心配だけど」
眼前に差し出されたスマホの画面に目をやる。やたら彩度が高く加工された海の画像の下には、その砂浜までの経路が細かく書かれていた。それに目を通した那由多は、眉を顰めて怪訝な表情になる。
「おい、この駅はもう通り過ぎてるぞ」
「えっ、そうなの?」
七星は猫のようなつり目を丸く見開いた。それから慌てた様子でスマホの画面とドアの上のモニターを見比べる。
「ほんとだ、どうしよう……」
しょんぼりと肩を落としながら彼が呟く。尻尾が生えていたならきっとダランと垂れ下がっているだろう。そんなことを考えてしまうほどに消沈した様子に、かすかに胸の奥が針で刺されたような心地になる。
頼んでいないとは言え、自分を気遣ってそばにいたために乗り過ごしてしまったのだ。このまま捨て置いたのでは多少寝覚めが悪い。
それにこの波間に漂うクラゲのようなふわふわした男をそのままにしておけば、たちまち都会の荒波に呑まれてしまい二度と彼が拠点とする下北沢へ帰れなくなるかもしれない。荒唐無稽な話のように思えるが、あり得ないとも言い切れないのが七星という男だ。
「……とりあえず次で降りるぞ」
間もなく次の駅に到着することを告げるアナウンスを聞きつつ、那由多はぶっきらぼうに告げた。
電車から降りると、涼しい車内から一変して、ホームにはべっとりと肌に貼り付くような蒸し暑い空気が停滞していた。今日は真っ青な空が広がる晴天だ。最高気温もここのところ一番の暑さを記録するだろう、と天気予報が告げていたのを思い出す。
「あの、那由多くんはどこに行くの?」
ひょこひょこと後ろをついて歩いていた七星が尋ねる。振り返らないまま、那由多は呟くように答えた。
「お前ひとりで海まで行けるのかよ」
随分素っ気ない言葉であることは自覚している。それでも、七星はその意図を汲んだらしく嬉しそうに声を弾ませた。
「もしかして一緒に来てくれるの? ありがとう!」
「うるせえ、喚くな、さっさと歩け」
「でも那由多くん、僕乗り過ごしちゃったから戻らないといけないけど……」
七星が不思議そうに首を傾ける。確かに七星が案ずる通り、今向かっているホームは引き返すための電車のものではない。
「いいから黙ってついて来い」
肩越しに小さく振り返って、那由多は鋭く言いつけた。
「わあ、すごい!綺麗な海だね!」
隣を歩いていた七星が歓声を上げる。
電車を一回乗り継いでたどり着いた砂浜は、夏の昼間の日射しを浴びて白く輝いていた。それを洗うかのごとく静かに打ち寄せる波も、真っ青に晴れた空の色を映して透き通っている。入り組んだ入江のなかの狭い海だからか波はひどく穏やかだ。彼の言う通り、綺麗な海だ。
「東京にもこんなに静かな海があったんだね。那由多くん、よく知ってるね」
ずぶずぶと沈み込む砂浜に足を取られつつも、七星はにこにこと嬉しそうに那由多を振り返る。「おい、前見て歩け」と注意してから、那由多は少し逡巡したあと口を開いた。
「……べつに、昔来たことがあるだけだ」
ぼそり、と口の中で呟く。つられて蘇りそうになったセピア色の古い記憶は、意識的に脳裏から掻き消した。
彼は何か言うだろうか、と思って少し前を歩く男を見やる。しかし彼は一言「そうなんだ」と言っただけだった。
単に人の話を聞いていないだけなのか、それとも。那由多はふらふらと危なっかしい足取りで歩く彼を見つめる。けれど、転ばないように足元の砂だけに気を取られている彼の表情からその答えを見つけ出すことはできなかった。
海辺と反対方向にある広場からうるさい蝉の声が響く。汗の粒が生え際をかき分けて首筋を滑っていく。潮の匂いを運ぶ風がシャツの袖を揺らして腕を撫でる。
帽子を脱いだ七星が、風に髪を揺らしながら目を細めた。べとついた蒸し暑い潮風だが、彼の青い髪をふわりと散らしている様はなぜか涼やかに見える。そう言えばこの男は港町の生まれだったな、とふと思い出した。
白い波が砕ける音が穏やかに耳をくすぐる。一定のリズムで繰り返される音に、不意に歌声が入り混じった。確かめるまでもなく、七星の歌声だ。
『今度の新曲』と言っていた曲だろうか、と思いつつ耳を傾けるが、どこかで聴いたことのあるメロディーであることに気付く。それは往年の女性アイドルの歌だった。ふたりで汽車に乗って海に訪れる、恋の歌。確か春の歌だったはずだから、海が舞台とは言え今の状況で歌うにはいささか不似合いな気もする。那由多は目を細めて七星を見やったが、けれど彼はそんな視線に気付くことなく楽しそうに口ずさみ続けている。
柔らかで叙情的な歌詞が、七星の透き通っていながらも芯のある歌声で紡がれていく。
スニーカーを僅かに濡らす波が、水面に反射する日射しのかけらが、空の低いところからぶわりと膨らんだ白い入道雲が、そのすべてが彼の歌声によって鮮やかな光を纏っていく。蝉の声も、波の音も、砂を踏む足音も、歌声に溶けてひとつのメロディーになっていく。
そうしてやがて、胸の奥で火の粉のように音が舞う。那由多はそっと瞼を閉じた。
まるで別の宇宙から響いてくるような、自分が求めているものとは全く異なるこの歌声。けして相容れることはない歌だが、だからこそ心を捉えて離さない。
きっと、電車を乗り過ごしたこの男をそのまま捨て置かずにわざわざ海に連れて来たのも、このためだったのだ。キャップから覗く前髪を潮風に揺らしつつ、那由多は思う。
この歌を聴くため。そして、それを薪として焼べて自分の音を掴むため。
七星が最後の一音を伸びやかに歌いきる。それから那由多を仰ぎ見て、照れたようにはにかんだ。
「えへへ、海を見たらなんだか歌いたくなっちゃって」
そう言いながら、彼はしゃがみ込んで足元に打ち寄せる波で遊び始めた。きっと照れ隠しだ。
「お前が急に歌いだすのは今に始まったことじゃねえだろうが」
ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせる七星の白い指を見ながら、那由多は呟いた。透明な泡が彼の指のまわりに浮かんでは消えていく。きっと夏の日射しに晒された生ぬるい水だろうが、それでも彼は楽しげだ。
「僕ってわかりやすいのかな?」
「はあ?」
あまりに唐突過ぎる問いに顔をしかめる。けれど彼は意にも介さない様子で「えっとね」と話を続けた。
「いつも僕が歌いたいって思ってるとき、Argonavisのみんなが『今歌いたいんだろ』とか『歌い足りないって思ってるでしょ』って気づいてくれるんだ。それに最近ではジャイロの皆さんも気づいてくれるようになって」
おそらくメンバーの声真似だろう、ところどころ口調や声音を変えながら、訥々と彼は語る。
それを那由多は軽く一笑に付した。彼が不思議そうな顔で那由多を見上げる。その丸い瞳に向かって言い放つ。
「お前、歌いたくねえなんて思ったことあんのかよ」
歌いたいんだろうと問えばいつだって、歌いたいと返ってくる。
そんな男だからこそ、今、隣にいるのだ。
ぱちぱちと数回瞬きを繰り返した七星が、ふわりと綻ぶように微笑んだ。
「うん、そうだね。僕、いつだって歌いたかった」
そう告げる声そのものがまるで歌のようだった。この男は、いつだって歌っている。
那由多はフンと鼻を鳴らした。その意を汲んだかのように、七星が「えへへ」と笑う。
真上に昇った太陽が白く鮮烈な光を降らす。眩しそうに目を細めながら、七星が膝に手をついて立ち上がった。そして正面から真っ直ぐに那由多を見る。
「ねえ、今度は那由多くんも一緒に歌いませんか?」
強い光を宿し、彼の菫色が煌めいた。まるで断られるなんて微塵も思っていないような目だ。
瞳の奥に火を燃え滾らせながら、那由多も彼を見据える。
「上等だ」
七星の手から帽子を奪い、海を映したような髪の上に乱暴に被せる。わっ、と驚いた声を上げて慌てる姿に、なんだか胸がすくような気持ちになった。薄い唇が小さく笑みのかたちを刻む。
そして奏でられはじめた一つの歌。二つの声によって紡がれるその歌は烈しく鮮やかな光を纏い、やがて一陣の潮風となった。
*
シェアハウスのリビングのソファに座った蓮は、傍に置いたリュックから今しがた買ってきたばかりの雑誌を取り出した。表紙に踊る『GYROAXIA特集』の文字にわくわくと胸が高鳴る。
「あれ、蓮くんそれ何の雑誌?」
牛乳の入った硝子コップを片手にリビングへやってきた万浬が、首を傾けながら蓮の隣に腰掛けた。蓮は彼に向かって雑誌の表紙を掲げてみせる。
「音楽雑誌だよ。GYROAXIAのインタビューが載ってるんだ」
「ふぅん、最近メディア露出増えてるもんね〜」
まあ俺達もこの前新曲の夏歌についてのインタビュー受けたけどね!となぜか張り合う万浬に、蓮は「そうだね」とくすくす笑う。
パラパラとページを捲っていき、ひときわ目を惹く銀髪を探し出す。挑むように烈しい視線でこちらを睨みつける姿が相変わらずで、思わず笑みがこぼれた。衣装だろう、かすかに赤みがかった黒色の光沢のあるシャツと、その胸元で煌めきを放つシルバーネックレスがよく似合っている。
一通り写真を堪能した後、インタビューの本文に目を通していく。いつも通り、質問への回答の文章は簡潔だ。
「うわ、やっぱりインタビュアーさんの質問の方がよっぽど文章量あるじゃん」
横から覗き込んだ万浬が呟く。
「うん、伝えたいことが纏まっててかっこいい」
「……まあ、そういう捉え方もできるかな……って、ええっ?」
素っ頓狂な声を上げた万浬に、蓮は「どうかした?」と首を傾げる。万浬が「ほら、ここ」とページのとある箇所を指差した。
「『この夏の思い出は?』って質問の答え、すっごく意外じゃない? 那由多くんってこんなことするんだね〜」
目を丸くする万浬が指差していた箇所に、蓮も視線を向ける。
そこに書かれていたのは、たった一言。
その『海に行って歌った』というぶっきらぼうな短い一文に、蓮は潮風に吹かれたみたいにふわりと微笑んだ。
駅のホームにたどり着いたタイミングが良かったのか、乗り込んだ車両が良かったのか、はたまたその両方か。七月初旬の生ぬるい空気をかき混ぜながらホームに滑り込んできた、若葉色のラインが特徴的な車両に那由多が乗り込むと、幸運なことにぽつぽつと空席があった。いくら空いていても座席とドア付近は大抵埋まっていることが多いこの路線にしては珍しい。周りに老人などがいないことを横目で確かめて、そのうちのひとつに腰を下ろす。
ぷしゅう、と間抜けな音を立ててドアが閉まり、すぐに小刻みな振動が開始される。対面に座る人間の俯いた頭越しに見える車窓に、灰色のビル群がずらずらと流れていく。いつもと代わり映えのない景色を那由多は何気なく眺める。
今日は久しぶりの完全オフの日だ。
最近、作詞や作曲、バンド練といったいつもの予定の中に、雑誌の特集のためのインタビューや撮影などのメディア露出の仕事が多く差し込まれるようになった。大体のものは里塚に丸投げしているが、特集内容がボーカルについてやバンド全員についてならば那由多も引き受けざるをえない。
本業である音楽活動の間に挟まるそれらの雑事にいい加減うんざりしていたところ、里塚に気分転換でもしてこいと勧められたのだ。もちろん那由多は、そんなことをしている暇があるなら少しでも新曲の練習なり作曲を進めるなりすると食い下がったのだが、里塚は首を縦に振らなかった。
「明後日は雑誌用の撮影とインタビューがある。そんな疲れた顔で写真を撮られるつもりか?」
昨夜、里塚から苦笑混じりに告げられた言葉を思い出し、那由多は眉間に皺を寄せた。
確かに最近、少し根を詰め過ぎていた自覚はある。空が白み始める時間にベッドに倒れ込み、数時間眠った後大学に行き、授業が終われば即スタジオに入り、真夜中を過ぎる頃までパソコンに向かい曲を作る。そんな生活を続けていたのは事実だ。鏡の前に立てば、目の下に隈を拵えた人相の悪い男が映り込むのにも気付いている。
「インタビューの内容は『この夏の思い出』だ。リフレッシュがてら、話のネタでも作ってきたらどうだ」
眼鏡のブリッジをクイと押し上げながら放たれた言葉に、那由多は舌打ち混じりに了承するほかなかった。
とは言え、了承したはいいが、別段したいこともない。音楽以外に興味を向けない那由多にとって、リフレッシュなどと言われても音楽以外にすることなど思いつかない。しかし家にいる気にもなれない。悩んだ末、そう言えば三、四駅ほど出たところに設備が良いカラオケ店があるという話を思い出して、そこに出掛けることにしたのだ。
天井から吹きつける冷房の風が銀色の前髪を小さくそよがせる。一定のリズムで繰り返される振動と低音が体の底を流れるようで心地良い。昨夜も遅くまで作曲をしていたためか、睡魔が漣のようにじわじわと押し寄せてくる。
こんなところで寝るわけにはいかない。黒いキャップとマスクで軽く変装しているとは言え、『GYROAXIAの旭那由多』だとバレたらいろいろな面倒事に繋がりかねない。理解しているが、それでも瞼の重さに逆らえない。
銀糸のような睫毛を揺らし、那由多は目を閉じた。
ガクリと身体が揺れ、水面へと浮かぶ泡沫のように意識が浮上する。靄がかかったように朧げな意識のまま、那由多は数回瞬きを繰り返した。
いつの間にか寝てしまっていたらしい。チッ、と小さく舌打ちをこぼしつつ、現在地を確かめるべくドアの上の電子モニターを見やる。
と、そのとき、目の前に立っている乗客がよく見慣れた男であることに気付いた。
「あ、那由多くん起きたんだね」
おはようございます、と帽子のすきまから覗く瑠璃色の髪を揺らしながら彼は呑気に微笑む。
「…………なんでお前がいる、七星」
苦虫を噛み潰したような顔で那由多は呟いた。
「えっと、電車に乗ったら那由多くんが寝てるのを見つけて、誰かと一緒にいる様子もないしもし何かあったらいけないから、そばにいたほうがいいかなって思って……」
余計なお世話だ、という喉奥まで出かかった言葉は、けれど音にはできなかった。
彼の言う通りだ。今回ばかりは睡魔に抗えなかった自分の落ち度であることは自覚している。那由多は舌打ちをこぼした。
見下ろす彼が眉尻を下げつつこくりと首を傾ける。
「ごめん、迷惑だったかな……」
しゅんと萎んでいく声に眉根を寄せつつ、返事をせずに尋ねる。
「……どこに行くつもりなんだ」
「え? えっと、海に行きたくて」
「はぁ?」
遊んでいる暇がお前にあるのか、という非難を込めて七星を睨みつける。そんな那由多の意図に気付いているのかいないのか、彼はふにゃりと気の抜けた笑みを浮かべた。
「今度の新曲は夏がテーマなんだけど、そのミュージックビデオを撮るのにちょうどいい場所を探してて。昨日みんなで良さそうな場所をいくつかピックアップしたから、そのうちの一つの砂浜に下見に行くつもりなんだ」
ぴーぴーとよく喋る彼の口調は楽しげに弾んでいて、まるで歌でも歌っているかのようだ。
「ほら、ここなんだけど、すごく綺麗でしょ? ちょっと人が多そうなのが心配だけど」
眼前に差し出されたスマホの画面に目をやる。やたら彩度が高く加工された海の画像の下には、その砂浜までの経路が細かく書かれていた。それに目を通した那由多は、眉を顰めて怪訝な表情になる。
「おい、この駅はもう通り過ぎてるぞ」
「えっ、そうなの?」
七星は猫のようなつり目を丸く見開いた。それから慌てた様子でスマホの画面とドアの上のモニターを見比べる。
「ほんとだ、どうしよう……」
しょんぼりと肩を落としながら彼が呟く。尻尾が生えていたならきっとダランと垂れ下がっているだろう。そんなことを考えてしまうほどに消沈した様子に、かすかに胸の奥が針で刺されたような心地になる。
頼んでいないとは言え、自分を気遣ってそばにいたために乗り過ごしてしまったのだ。このまま捨て置いたのでは多少寝覚めが悪い。
それにこの波間に漂うクラゲのようなふわふわした男をそのままにしておけば、たちまち都会の荒波に呑まれてしまい二度と彼が拠点とする下北沢へ帰れなくなるかもしれない。荒唐無稽な話のように思えるが、あり得ないとも言い切れないのが七星という男だ。
「……とりあえず次で降りるぞ」
間もなく次の駅に到着することを告げるアナウンスを聞きつつ、那由多はぶっきらぼうに告げた。
電車から降りると、涼しい車内から一変して、ホームにはべっとりと肌に貼り付くような蒸し暑い空気が停滞していた。今日は真っ青な空が広がる晴天だ。最高気温もここのところ一番の暑さを記録するだろう、と天気予報が告げていたのを思い出す。
「あの、那由多くんはどこに行くの?」
ひょこひょこと後ろをついて歩いていた七星が尋ねる。振り返らないまま、那由多は呟くように答えた。
「お前ひとりで海まで行けるのかよ」
随分素っ気ない言葉であることは自覚している。それでも、七星はその意図を汲んだらしく嬉しそうに声を弾ませた。
「もしかして一緒に来てくれるの? ありがとう!」
「うるせえ、喚くな、さっさと歩け」
「でも那由多くん、僕乗り過ごしちゃったから戻らないといけないけど……」
七星が不思議そうに首を傾ける。確かに七星が案ずる通り、今向かっているホームは引き返すための電車のものではない。
「いいから黙ってついて来い」
肩越しに小さく振り返って、那由多は鋭く言いつけた。
「わあ、すごい!綺麗な海だね!」
隣を歩いていた七星が歓声を上げる。
電車を一回乗り継いでたどり着いた砂浜は、夏の昼間の日射しを浴びて白く輝いていた。それを洗うかのごとく静かに打ち寄せる波も、真っ青に晴れた空の色を映して透き通っている。入り組んだ入江のなかの狭い海だからか波はひどく穏やかだ。彼の言う通り、綺麗な海だ。
「東京にもこんなに静かな海があったんだね。那由多くん、よく知ってるね」
ずぶずぶと沈み込む砂浜に足を取られつつも、七星はにこにこと嬉しそうに那由多を振り返る。「おい、前見て歩け」と注意してから、那由多は少し逡巡したあと口を開いた。
「……べつに、昔来たことがあるだけだ」
ぼそり、と口の中で呟く。つられて蘇りそうになったセピア色の古い記憶は、意識的に脳裏から掻き消した。
彼は何か言うだろうか、と思って少し前を歩く男を見やる。しかし彼は一言「そうなんだ」と言っただけだった。
単に人の話を聞いていないだけなのか、それとも。那由多はふらふらと危なっかしい足取りで歩く彼を見つめる。けれど、転ばないように足元の砂だけに気を取られている彼の表情からその答えを見つけ出すことはできなかった。
海辺と反対方向にある広場からうるさい蝉の声が響く。汗の粒が生え際をかき分けて首筋を滑っていく。潮の匂いを運ぶ風がシャツの袖を揺らして腕を撫でる。
帽子を脱いだ七星が、風に髪を揺らしながら目を細めた。べとついた蒸し暑い潮風だが、彼の青い髪をふわりと散らしている様はなぜか涼やかに見える。そう言えばこの男は港町の生まれだったな、とふと思い出した。
白い波が砕ける音が穏やかに耳をくすぐる。一定のリズムで繰り返される音に、不意に歌声が入り混じった。確かめるまでもなく、七星の歌声だ。
『今度の新曲』と言っていた曲だろうか、と思いつつ耳を傾けるが、どこかで聴いたことのあるメロディーであることに気付く。それは往年の女性アイドルの歌だった。ふたりで汽車に乗って海に訪れる、恋の歌。確か春の歌だったはずだから、海が舞台とは言え今の状況で歌うにはいささか不似合いな気もする。那由多は目を細めて七星を見やったが、けれど彼はそんな視線に気付くことなく楽しそうに口ずさみ続けている。
柔らかで叙情的な歌詞が、七星の透き通っていながらも芯のある歌声で紡がれていく。
スニーカーを僅かに濡らす波が、水面に反射する日射しのかけらが、空の低いところからぶわりと膨らんだ白い入道雲が、そのすべてが彼の歌声によって鮮やかな光を纏っていく。蝉の声も、波の音も、砂を踏む足音も、歌声に溶けてひとつのメロディーになっていく。
そうしてやがて、胸の奥で火の粉のように音が舞う。那由多はそっと瞼を閉じた。
まるで別の宇宙から響いてくるような、自分が求めているものとは全く異なるこの歌声。けして相容れることはない歌だが、だからこそ心を捉えて離さない。
きっと、電車を乗り過ごしたこの男をそのまま捨て置かずにわざわざ海に連れて来たのも、このためだったのだ。キャップから覗く前髪を潮風に揺らしつつ、那由多は思う。
この歌を聴くため。そして、それを薪として焼べて自分の音を掴むため。
七星が最後の一音を伸びやかに歌いきる。それから那由多を仰ぎ見て、照れたようにはにかんだ。
「えへへ、海を見たらなんだか歌いたくなっちゃって」
そう言いながら、彼はしゃがみ込んで足元に打ち寄せる波で遊び始めた。きっと照れ隠しだ。
「お前が急に歌いだすのは今に始まったことじゃねえだろうが」
ぱしゃぱしゃと水を跳ねさせる七星の白い指を見ながら、那由多は呟いた。透明な泡が彼の指のまわりに浮かんでは消えていく。きっと夏の日射しに晒された生ぬるい水だろうが、それでも彼は楽しげだ。
「僕ってわかりやすいのかな?」
「はあ?」
あまりに唐突過ぎる問いに顔をしかめる。けれど彼は意にも介さない様子で「えっとね」と話を続けた。
「いつも僕が歌いたいって思ってるとき、Argonavisのみんなが『今歌いたいんだろ』とか『歌い足りないって思ってるでしょ』って気づいてくれるんだ。それに最近ではジャイロの皆さんも気づいてくれるようになって」
おそらくメンバーの声真似だろう、ところどころ口調や声音を変えながら、訥々と彼は語る。
それを那由多は軽く一笑に付した。彼が不思議そうな顔で那由多を見上げる。その丸い瞳に向かって言い放つ。
「お前、歌いたくねえなんて思ったことあんのかよ」
歌いたいんだろうと問えばいつだって、歌いたいと返ってくる。
そんな男だからこそ、今、隣にいるのだ。
ぱちぱちと数回瞬きを繰り返した七星が、ふわりと綻ぶように微笑んだ。
「うん、そうだね。僕、いつだって歌いたかった」
そう告げる声そのものがまるで歌のようだった。この男は、いつだって歌っている。
那由多はフンと鼻を鳴らした。その意を汲んだかのように、七星が「えへへ」と笑う。
真上に昇った太陽が白く鮮烈な光を降らす。眩しそうに目を細めながら、七星が膝に手をついて立ち上がった。そして正面から真っ直ぐに那由多を見る。
「ねえ、今度は那由多くんも一緒に歌いませんか?」
強い光を宿し、彼の菫色が煌めいた。まるで断られるなんて微塵も思っていないような目だ。
瞳の奥に火を燃え滾らせながら、那由多も彼を見据える。
「上等だ」
七星の手から帽子を奪い、海を映したような髪の上に乱暴に被せる。わっ、と驚いた声を上げて慌てる姿に、なんだか胸がすくような気持ちになった。薄い唇が小さく笑みのかたちを刻む。
そして奏でられはじめた一つの歌。二つの声によって紡がれるその歌は烈しく鮮やかな光を纏い、やがて一陣の潮風となった。
*
シェアハウスのリビングのソファに座った蓮は、傍に置いたリュックから今しがた買ってきたばかりの雑誌を取り出した。表紙に踊る『GYROAXIA特集』の文字にわくわくと胸が高鳴る。
「あれ、蓮くんそれ何の雑誌?」
牛乳の入った硝子コップを片手にリビングへやってきた万浬が、首を傾けながら蓮の隣に腰掛けた。蓮は彼に向かって雑誌の表紙を掲げてみせる。
「音楽雑誌だよ。GYROAXIAのインタビューが載ってるんだ」
「ふぅん、最近メディア露出増えてるもんね〜」
まあ俺達もこの前新曲の夏歌についてのインタビュー受けたけどね!となぜか張り合う万浬に、蓮は「そうだね」とくすくす笑う。
パラパラとページを捲っていき、ひときわ目を惹く銀髪を探し出す。挑むように烈しい視線でこちらを睨みつける姿が相変わらずで、思わず笑みがこぼれた。衣装だろう、かすかに赤みがかった黒色の光沢のあるシャツと、その胸元で煌めきを放つシルバーネックレスがよく似合っている。
一通り写真を堪能した後、インタビューの本文に目を通していく。いつも通り、質問への回答の文章は簡潔だ。
「うわ、やっぱりインタビュアーさんの質問の方がよっぽど文章量あるじゃん」
横から覗き込んだ万浬が呟く。
「うん、伝えたいことが纏まっててかっこいい」
「……まあ、そういう捉え方もできるかな……って、ええっ?」
素っ頓狂な声を上げた万浬に、蓮は「どうかした?」と首を傾げる。万浬が「ほら、ここ」とページのとある箇所を指差した。
「『この夏の思い出は?』って質問の答え、すっごく意外じゃない? 那由多くんってこんなことするんだね〜」
目を丸くする万浬が指差していた箇所に、蓮も視線を向ける。
そこに書かれていたのは、たった一言。
その『海に行って歌った』というぶっきらぼうな短い一文に、蓮は潮風に吹かれたみたいにふわりと微笑んだ。