CPあり小説
まぶたの向こうで、ちらちらと光が揺れる気配がする。頬を微かに風が撫でる感触がするから、おそらく風に吹かれた木々の木漏れ日のせいだろう。涼しい風に少しだけ癖のある銀髪をなびかせながら、那由多は静かに目を閉じていた。眠っているのではない。新曲作成のためのイメージを膨らませているのだ。
今、那由多がいる場所は、鴨川大学のキャンパスの片隅にある小さな裏庭。四方をぐるりと囲む生垣と青々とした木々のほかには東屋とも呼べないほどに簡易的な屋根と小さなベンチが二つあるだけで、いつ来てもほかに人影は見当たらない。那由多の所属する法学部の学部棟の裏手には他の学部棟へ行き来するのに便利な近道があるのだが、細くて目立たない道のため学生たちにはあまり知られていない。その近道の途中にこの裏庭はあった。
木々も生垣も手入れをされている様子はなくて無造作に枝を伸ばしているが、それが目隠しのようになっていてどこか隠れ家のような雰囲気がある。周囲の人の目を気にすることもなくただ音楽にだけ集中していられるこの場所を、那由多はなかなかに気に入っていた。
鳥の囀る声、風にそよぐ木々の葉の音、揺れる雑草がこすれる音。この小さな裏庭を満たしている音は、ただそれだけ。それらの微かな自然の音も目を閉じてじっと集中しているうちに溶けるように消えていく。そして無音になった世界に、まるで暗闇に火を灯すように自分の歌うべき音楽だけが浮かび上がってくる。その瞬間をつかまえるために、こうしてひとり自分だけの世界に没頭しているのだ。
と、唐突になにか音が聴こえた気がして、那由多はその燃えるような色の目を開いた。顔を上げて何かを探すような目つきで鋭くあたりを一瞥し、やがてその視線を裏庭への入り口である生垣の切れ目へと向ける。
その細い入り口からするり、と慣れた動作で裏庭へとやって来たのは、一匹の黒猫。ここへ来ると毎回必ず遭遇する、もはや顔なじみとも言える猫だ。
「待って、どこに行くの?」
それから、困惑したようにわたわたと猫の後を追って入って来た一人の青年。彼も、いつの間にか浅からぬ関係になった、もはや腐れ縁とも言える存在だ。
「……七星」
低く名前を呼ぶと、蓮は初めて彼の存在に気付いたように目を丸く見開いた。
「あっ、那由多くん!」
パッと顔を輝かせる蓮に那由多は思わず舌打ちをこぼす。とは言え、彼がそれを気にする様子はなく、にこにこと笑いながら那由多の座るベンチへと駆け寄って来る。
「こんにちは、那由多くん!」
「……お前、この場所知ってたのか」
那由多は目の前の蓮をまじまじと見つめた。
この寂れたような裏庭でだれか他の人間に会ったことは一度もない。いつ来ても先客はおらず、また誰かが後からやって来ることもなかったので、今、蓮がここにいることがなんだか不思議だった。
「ううん、初めて来たよ。さっき校舎の裏でこの猫を見つけて、この子が僕を見ながら鳴いたから呼ばれてるのかと思ってついて来たんだけど」
説明する蓮の足元で、その言葉を裏打ちするように猫がにゃあんと鳴く。そんな猫の頭をしゃがみ込んで撫でながら、蓮は物珍しそうにぐるりと裏庭を見回した。
「すごい、こんなところがあったんだね。那由多くんはどうやってこの場所を知ったの?」
那由多はう、と言葉を詰まらせた。まさか、自分も同じように先日猫を追いかけてきた結果ここに辿り着いたのだ、などと正直に話すわけにはいかない。
「……どうでもいいだろそんなこと」
苦し紛れに呟いてふいっと目を逸らす。
「ここ、風が気持ちよくて素敵な場所だね。僕も一緒にここにいていいかな」
「……勝手にしろ」
「うん、ありがとう」
嬉しそうに微笑んだ蓮は、すとんと那由多の隣に腰を下ろした。続いて猫までもがピョンとベンチに飛び乗って、蓮の膝の上で丸くなった。よほど懐いているのだろう、クルクルと喉まで鳴らしている。そういえば前に蓮が家に来た時のにゃんこたろうも、蓮が歌いはじめるまでは少しも警戒した様子を見せなかったな、と那由多は少し前の記憶を思い起こす。
じっと見つめる那由多の視線には気づかないまま、蓮は膝の上の猫を撫でながら鼻歌を歌っている。今までに聴いたことのないメロディーだから、アルゴナビスの新曲なのかもしれない。
猫の小さな頭を撫でながら歌う蓮はひどく楽しそうだ。かすかに体を左右に揺らす彼の歌は、次第に鼻歌から歌詞の乗った歌へと変わっていく。楽しそうに弾んでいて、けれど柔らかな透明感をも持ち合わせている蓮の歌は、否が応でも聴き入ってしまう。
蓮の歌声が明瞭な輪郭を帯びていくにつれ、ぶわ、と世界の光量が増していく。降り注ぐ太陽の光の粒のひとつひとつさえも見える気がするほどに。
特別変わったところなんか一つもない凡庸な空が抜けるように青く澄みわたり、さらさらと頭上で揺れる木々の緑がいっそう瑞々しさを増し、足元に心許なく茂るただの雑草でさえ伸びやかな生命力にみちるような。そうやって、世界を鮮やかに照らしだしてしまうような歌声なのだ、蓮の歌は。
いつもそうだ。
蓮の歌を聴くといつも、もう一つの新しい世界の片鱗を目の当たりにした心地になる。夜更けに家まで押しかけて来た蓮に歌わせたときから――いや、きっと、ライブの前座で歌っているのを初めて聴いたときから。
だからこそ、相対する己の歌の核がより一層明確になる。
相容れないからこそ、己の歌うべき歌が確固たるものになるのだ。
「おい」
那由多が呼びかけると、蓮はこてんと首を傾けた。
「どうしたの? あ、もしかしてうるさかったかな……」
まだ何も言っていないのにしゅんと眉を下げる彼に、那由多は思わず舌打ちをこぼす。
「そうじゃねぇ。……その曲、新曲か」
尋ねると、途端に蓮はその大きな瞳をきらきらと輝かせた。
「うん! 昨日やっと歌詞が完成したばかりで、あっ、今回は僕も作詞を手伝ったんだよ!」
饒舌に語り始めた彼の声は弾んでいて、もし尻尾が生えていたらぶんぶんとせわしなく振っているだろう、などと詮の無いことが脳裏を掠める。大きな声に驚いたのかぴくりと耳を揺らした猫の頭を、「あ、びっくりさせちゃったかな。ごめんね」と蓮が優しく撫でる。いつものことながら落ち着きのないその姿は、ステージ上で見せる挑むような目や力強い歌声とはまるで別人だ。
那由多はベンチから腰を上げた。そして少しだけ振り返り、蓮を見遣りながら告げる。
「俺は――GYROAXIAは最高の音楽を作る」
それは宣誓だった。これまでにもう何度も蓮に告げてきた、俺はもっと上に行くという宣言。
一瞬虚を衝かれたようにぽかんとした表情を見せた蓮は、けれどすぐに真っ直ぐ那由多を見返した。
「うん。僕たちも、GYROAXIAに負けないくらい良い曲を作るよ」
覚悟の光を宿した強い眼差しで、蓮は応える。それはステージの上で歌うときの彼と同じ、凛と伸びやかな声だった。
那由多は満足そうにフンと鼻を鳴らし、そのまま振り返ることなく歩きだす。
きっとこれから、アイツとは何度もこの庭で鉢合わせることになるのだろう。そういう諦念とも期待ともつかない予感が、ほのかな蝋燭の灯のように胸の中でちらちらと揺れる。
小さく口元を緩める那由多の頭上で、眩いばかりの真昼の太陽が白い光を放ってきらきらと輝いていた。
今、那由多がいる場所は、鴨川大学のキャンパスの片隅にある小さな裏庭。四方をぐるりと囲む生垣と青々とした木々のほかには東屋とも呼べないほどに簡易的な屋根と小さなベンチが二つあるだけで、いつ来てもほかに人影は見当たらない。那由多の所属する法学部の学部棟の裏手には他の学部棟へ行き来するのに便利な近道があるのだが、細くて目立たない道のため学生たちにはあまり知られていない。その近道の途中にこの裏庭はあった。
木々も生垣も手入れをされている様子はなくて無造作に枝を伸ばしているが、それが目隠しのようになっていてどこか隠れ家のような雰囲気がある。周囲の人の目を気にすることもなくただ音楽にだけ集中していられるこの場所を、那由多はなかなかに気に入っていた。
鳥の囀る声、風にそよぐ木々の葉の音、揺れる雑草がこすれる音。この小さな裏庭を満たしている音は、ただそれだけ。それらの微かな自然の音も目を閉じてじっと集中しているうちに溶けるように消えていく。そして無音になった世界に、まるで暗闇に火を灯すように自分の歌うべき音楽だけが浮かび上がってくる。その瞬間をつかまえるために、こうしてひとり自分だけの世界に没頭しているのだ。
と、唐突になにか音が聴こえた気がして、那由多はその燃えるような色の目を開いた。顔を上げて何かを探すような目つきで鋭くあたりを一瞥し、やがてその視線を裏庭への入り口である生垣の切れ目へと向ける。
その細い入り口からするり、と慣れた動作で裏庭へとやって来たのは、一匹の黒猫。ここへ来ると毎回必ず遭遇する、もはや顔なじみとも言える猫だ。
「待って、どこに行くの?」
それから、困惑したようにわたわたと猫の後を追って入って来た一人の青年。彼も、いつの間にか浅からぬ関係になった、もはや腐れ縁とも言える存在だ。
「……七星」
低く名前を呼ぶと、蓮は初めて彼の存在に気付いたように目を丸く見開いた。
「あっ、那由多くん!」
パッと顔を輝かせる蓮に那由多は思わず舌打ちをこぼす。とは言え、彼がそれを気にする様子はなく、にこにこと笑いながら那由多の座るベンチへと駆け寄って来る。
「こんにちは、那由多くん!」
「……お前、この場所知ってたのか」
那由多は目の前の蓮をまじまじと見つめた。
この寂れたような裏庭でだれか他の人間に会ったことは一度もない。いつ来ても先客はおらず、また誰かが後からやって来ることもなかったので、今、蓮がここにいることがなんだか不思議だった。
「ううん、初めて来たよ。さっき校舎の裏でこの猫を見つけて、この子が僕を見ながら鳴いたから呼ばれてるのかと思ってついて来たんだけど」
説明する蓮の足元で、その言葉を裏打ちするように猫がにゃあんと鳴く。そんな猫の頭をしゃがみ込んで撫でながら、蓮は物珍しそうにぐるりと裏庭を見回した。
「すごい、こんなところがあったんだね。那由多くんはどうやってこの場所を知ったの?」
那由多はう、と言葉を詰まらせた。まさか、自分も同じように先日猫を追いかけてきた結果ここに辿り着いたのだ、などと正直に話すわけにはいかない。
「……どうでもいいだろそんなこと」
苦し紛れに呟いてふいっと目を逸らす。
「ここ、風が気持ちよくて素敵な場所だね。僕も一緒にここにいていいかな」
「……勝手にしろ」
「うん、ありがとう」
嬉しそうに微笑んだ蓮は、すとんと那由多の隣に腰を下ろした。続いて猫までもがピョンとベンチに飛び乗って、蓮の膝の上で丸くなった。よほど懐いているのだろう、クルクルと喉まで鳴らしている。そういえば前に蓮が家に来た時のにゃんこたろうも、蓮が歌いはじめるまでは少しも警戒した様子を見せなかったな、と那由多は少し前の記憶を思い起こす。
じっと見つめる那由多の視線には気づかないまま、蓮は膝の上の猫を撫でながら鼻歌を歌っている。今までに聴いたことのないメロディーだから、アルゴナビスの新曲なのかもしれない。
猫の小さな頭を撫でながら歌う蓮はひどく楽しそうだ。かすかに体を左右に揺らす彼の歌は、次第に鼻歌から歌詞の乗った歌へと変わっていく。楽しそうに弾んでいて、けれど柔らかな透明感をも持ち合わせている蓮の歌は、否が応でも聴き入ってしまう。
蓮の歌声が明瞭な輪郭を帯びていくにつれ、ぶわ、と世界の光量が増していく。降り注ぐ太陽の光の粒のひとつひとつさえも見える気がするほどに。
特別変わったところなんか一つもない凡庸な空が抜けるように青く澄みわたり、さらさらと頭上で揺れる木々の緑がいっそう瑞々しさを増し、足元に心許なく茂るただの雑草でさえ伸びやかな生命力にみちるような。そうやって、世界を鮮やかに照らしだしてしまうような歌声なのだ、蓮の歌は。
いつもそうだ。
蓮の歌を聴くといつも、もう一つの新しい世界の片鱗を目の当たりにした心地になる。夜更けに家まで押しかけて来た蓮に歌わせたときから――いや、きっと、ライブの前座で歌っているのを初めて聴いたときから。
だからこそ、相対する己の歌の核がより一層明確になる。
相容れないからこそ、己の歌うべき歌が確固たるものになるのだ。
「おい」
那由多が呼びかけると、蓮はこてんと首を傾けた。
「どうしたの? あ、もしかしてうるさかったかな……」
まだ何も言っていないのにしゅんと眉を下げる彼に、那由多は思わず舌打ちをこぼす。
「そうじゃねぇ。……その曲、新曲か」
尋ねると、途端に蓮はその大きな瞳をきらきらと輝かせた。
「うん! 昨日やっと歌詞が完成したばかりで、あっ、今回は僕も作詞を手伝ったんだよ!」
饒舌に語り始めた彼の声は弾んでいて、もし尻尾が生えていたらぶんぶんとせわしなく振っているだろう、などと詮の無いことが脳裏を掠める。大きな声に驚いたのかぴくりと耳を揺らした猫の頭を、「あ、びっくりさせちゃったかな。ごめんね」と蓮が優しく撫でる。いつものことながら落ち着きのないその姿は、ステージ上で見せる挑むような目や力強い歌声とはまるで別人だ。
那由多はベンチから腰を上げた。そして少しだけ振り返り、蓮を見遣りながら告げる。
「俺は――GYROAXIAは最高の音楽を作る」
それは宣誓だった。これまでにもう何度も蓮に告げてきた、俺はもっと上に行くという宣言。
一瞬虚を衝かれたようにぽかんとした表情を見せた蓮は、けれどすぐに真っ直ぐ那由多を見返した。
「うん。僕たちも、GYROAXIAに負けないくらい良い曲を作るよ」
覚悟の光を宿した強い眼差しで、蓮は応える。それはステージの上で歌うときの彼と同じ、凛と伸びやかな声だった。
那由多は満足そうにフンと鼻を鳴らし、そのまま振り返ることなく歩きだす。
きっとこれから、アイツとは何度もこの庭で鉢合わせることになるのだろう。そういう諦念とも期待ともつかない予感が、ほのかな蝋燭の灯のように胸の中でちらちらと揺れる。
小さく口元を緩める那由多の頭上で、眩いばかりの真昼の太陽が白い光を放ってきらきらと輝いていた。