CPなし小説
ペン先に連なる言葉たちを見下ろして、航海は深いため息を吐き出した。
ここ数日、どうにも作詞がうまく進まない。ノートに言葉を書きつけてみても、まるでレプリカの宝石を身に着けているかのようにしっくりこなくて、落ち着かない気分になるのだ。
がしがしと頭を掻きながら、テーブルの上に投げだしていたスマホを手繰り寄せる。慣れた手つきで操作して、もう何度もなんども繰り返し聴いた音源をまた再生する。淀みなく流れだしたピアノの音色は、文句のつけようなんてないくらいに軽やかで澄みわたっている。アルゴナビスの曲として、そして蓮が歌う歌として相応しいとしか言いようがない。またため息がこぼれ落ちた。
書けない原因は分かっている。
今作っている新曲のテーマは「アルゴナビスらしい曲」。ここ最近、挑戦的だったり実験的だったり、そういった新しい試みを取り入れた曲を続けて発表してきたから、ここらで一度原点に立ち返ってみよう。それが、先週行われたミーティングでのメンバーの総意だった。
もちろん航海もその意見には賛成だ。上京してきてからの日も浅くまだ充分な知名度があるとは言えないので、名刺代わりになるような曲を作っておきたいという気持ちもある。
それに、シェアハウスでの共同生活によって随分と互いについて知ることができたし、それによってメンバー同士の繋がりの色合いも変わった。今ならきっと、函館にいたときとは違った「アルゴナビスらしい曲」が作れるのかもしれない。そんな、胸が沸き立つような期待と予感があるのも、嘘じゃない。
けれど、そう思うほどにペンは鈍る。
より深く知り、確固たるものを持つからこそ、それを自分が表現できるのかという不安が鈍色の雲のように重く胸に垂れ込めるのだ。それでもなんとかノートに言葉を書きつけてみるものの、「アルゴナビスらしさ」を殊更に意識して書いた歌詞はなんだか小さくまとまったつまらないものになってしまう。自分が思うアルゴナビスとは全く逆のものになってしまうのだ。まるで堂々巡り、出口のない迷路に迷い込んでしまったみたいだ。
『お前は難しく考えすぎだ。もっとシンプルに考えてみろよ』
流れるようなピアノの旋律の中に、昨日桔梗から言われた言葉が浮かび上がってくる。
考え過ぎだなんて言われても、考えないと歌詞は浮かばないのだから仕方ない。記憶の中の、何もかもを見透かしたように笑うお綺麗な顔に悪態を吐く。もちろんそれがただの八つ当たりだということは分かっているけれど。
曲を止める。途端に静寂がリビングルームを満たした。ひとりきりのシェアハウスはひどく静かで、窓の外で吹く木枯らしの音さえもはっきりと聞こえてくる。
と、そのとき、玄関のドアが開く音がした。
続いて聞こえてきた、控えめでどこかのんびりとした足音。帰ってきたのはおそらく蓮だろう。足音にすら四人の個性が表れていると知ったのも、シェアハウスで一緒に暮らし始めてからだ。
「ただいま」
リビングへと入って来た蓮は赤い鼻をしていた。幼い子どものようで、思わず頬が緩む。
「おかえり。外、寒かったでしょ。ココアでも淹れようか」
「うん。ありがとう、航海」
広げていたノートを閉じて、ラグから腰を上げる。長い時間座りっぱなしだったから腰がごきりと不気味な悲鳴を上げた。
蓮の白いマグカップにはスプーン2杯、自分の紫色のには3杯の粉を入れて、ポットのお湯を注ぐ。ふわりと立ちのぼる白い湯気と甘い香りに、沈んでいた心が少しだけ浮上する。やっぱり、物を考えるには糖分というエネルギーが必要なのだ。二つのカップをよくかき混ぜながら航海は思う。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
「うん、ありがとう」
ソファーに座る蓮にマグカップを手渡して、航海もその隣に腰掛ける。ふうふうと息を吹いて、ゆっくりマグカップに口をつける。熱い液体がとろとろと喉を落ちていく。思ったよりも甘くない。粉の分量を間違えただろうか。ちらりと隣を見ると、蓮はふわふわと顔を綻ばせながらココアをすすっていた。
「あ、そうだ」
とつぜん何かを思い出したように目を大きくした蓮は、持っていたマグカップをテーブルに置いてなにやらごそごそとリュックを漁りはじめる。どうしたのだろうと思いつつ見守っていると、彼は二枚の小さな紙きれを取り出した。
「これ、さっき商店街でもらったんだ」
「……プラネタリウムのチケット?」
手渡されたそれを見て、航海は首を傾げる。蓮が「うん」と頷いた。
「この前ライブをしたライブハウスの人が、余ってるからもしよかったらって言ってくれたんだ」
「ふうん」
チケットに書かれているプログラムには『神話から紐解く星のひみつ』とある。航海の思考を読んだみたいに、蓮が「僕たちにぴったりだよね」と笑った。
「ねえ、もしよかったら僕たちで行かない?」
幼い子どもがお菓子をねだるみたいな、おずおずと窺うような視線で蓮が言う。
確かにプログラムの内容には興味を惹かれるし、もしかしたら何か作詞のヒントになるようなものを得られるかもしれない。なにより、少し低い位置から覗きこむように見上げてくるアメジスト色を見てしまえば、断ることなんてできないのだ。
航海は苦笑交じりに頷いた。
「うん、いいよ。今週の土曜日でいい?」
「うん! 楽しみ!」
蓮もぱっと顔を輝かせた。
*
へたくそな口笛のような音を立てながら木枯らしが通り過ぎていく。灰色に淀んだ空には薄い雲が広がっていて、けれど雨にはならないらしい。引き延ばされたみたいな雲の向こうで、白く霞んだ太陽が心許なく浮かんでいる。
「プラネタリウム、楽しかったね!」
ミルクティー色の空の下で、蓮がくるりと振り返る。白いマフラーが彼の背中で揺れてはためいた。
「アルゴ船に乗ってたっていうヘラクレスの話もたくさんあったね。まさか蟹座にあんな神話があるなんて思わなかった」
きらきらと瞳を輝かせている蓮に、航海も頷き返す。
「そうだね。僕も結構星には詳しいつもりだったけど、それでも知らない話がたくさんあったよ」
けれど、と航海は胸の中で呟く。新しい発見もあったし、知らなかったことも知れた。けれど、そのなかに何か作詞のヒントになりそうなものがないかと探してみても、まるで見つからない。
暗闇の中、投影機によって映し出された小さな光たち。人間の指ひとつで簡単に消えてしまうその星たちが、今日はなんだかとても儚く思えてしまったのだ。
美しい星を模して作られた、虚像の儚い光。それは、今ノートに書きつけている言葉たちとなにが違うだろう。
おかしいな、プラネタリウムは昔から好きだったのに。
俯く航海の頬を冷たい風が撫でていく。スニーカーを履いた足元で、枯れ葉がくるくると間抜けに弧を描いた。
「……作詞のヒントにはならなかった?」
はっと顔を上げる。蓮は少しだけ眉を下げて笑っていた。
「……気づいてたんだね、最近行き詰ってること」
「今日のこと誘ったときも、テーブルの上に作詞のノートがあったから」
「それで誘ってくれたの?」
「ううん。ただ僕が航海とプラネタリウムに来たかったからだよ」
「そっか」
航海はぽりぽりと小さく頬をかいた。
「ちょっと座って話そうか」
そばにある広場の隅に置かれたベンチを示すと、蓮も「うん」と微笑んだ。
航海はミルクティーのボトル、蓮はコーヒーの缶を手の中におさめながら、揃って木のベンチに腰掛ける。尖らせすぎた鉛筆のような木の枝が頭上で乾いた音を立てている。
「ごめんね、心配かけてたかな」
航海がそう切り出すと、蓮はきょとんと首を傾げた。苦笑しつつ「作詞のこと」と付け足す。
「うーん、根を詰めすぎたり無理したりしてたら心配だけど。でも、歌詞のことは心配してないよ」
くるくると手の中の黒い缶をもてあそびながら、蓮は呟く。
「でも、今回のは本当に全然書けてないんだよ。歌詞ノートだって、書いては消しての繰り返しでただぐちゃぐちゃになるだけだし」
わきに置いてあったリュックから、使い古したノートを取り出す。ふいにインスピレーションが湧いたり言葉が降ってきたりしたときのためにいつも持ち歩いているそれは、今日はべつに持ってくる必要がなかったかもしれない。
パラパラと適当にページをめくっていると、蓮がひょいと覗き込んできた。
「ほら、真っ黒でしょ」
いちばん新しいページを開いて、笑ってみせる。びゅうと音を立てて通りすぎた風が二人の髪をふわりと揺らした。
「僕は航海の歌詞ノート、好きだよ」
言葉と二重線と書き損じの跡が溢れたページを、蓮がそっと指で撫でた。
「こんなにぐちゃぐちゃなのに?」
「うん。だってそれは、航海がそれだけアルゴナビスのことを考えてくれてるってことでしょう」
ひどく柔らかな眼差しで、蓮は告げる。
航海は思わず瞬きを繰り返した。思っても見なかった言葉に、まじまじと彼を見つめる。
「……そうなのかな。いつも自分の思うことしか書いてないような気がするけど」
それでも彼の言葉を受け止めきれなくて、航海は小さく目を伏せた。
現国の成績はそんなに良くないし、物語の作者が何を考えて書いたのかも分からない。いつだって、自分の思いしか書けない。そんな自分に、夜空に瞬く数多のきらめきをそのままのかたちで綺麗に写し取ることなんてできるのだろうか。
「うん。航海はいつも、何度もなんども歌詞を書いたり消したりして、自分の思いをもっと僕たちにぴったりの言葉で表せないかって考え続けてくれる。そうやってたくさん磨いてくれるから、航海の書く歌詞はどれもつるつるしてて優しいんだ」
言いながら、蓮はなにかを掬うみたいに、もしくは落ちてきたものを受け止めるみたいに両手を丸めてぴたりと合わせる。その両手におさまる、丸くてつるつるしていて優しいものが、自分の書く歌詞であるらしい。
普段の蓮は自分の中にある思いを言葉として構築して伝えることがあまり得意ではない。そんな彼が、今は訥々とながらもはっきりと淀みなく話してくれている。それが紛れもない本心であり、いつもそう思ってくれていることの証拠のようで、胸の奥がくすぐったくなる。航海は手の中のペットボトルをきゅ、と握りしめた。
「そうやって自分の思いを一生懸命僕の手になじむようにしてくれてるのを知ってるから、僕は航海の書く歌詞を僕自身の気持ちだと思うし、航海の書いた歌詞を歌うのが好きだよ」
まるで歌を歌うみたいな、なめらかな声だった。
「……僕は、アルゴナビスらしい歌詞を書けてるのかな」
思わずひらいた唇から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちる。
蓮は屈託なくにっこりと笑た。
「そうやってたくさん僕たちのことを考えて書いてくれている航海の歌詞が、僕たちらしくないはずがないよ」
柔らかく細められたアメジストが、まっすぐな光を宿してきらめいた。
その光がそっと優しく胸を射る。喉につかえていたものがすうっと溶かされていく。
そうか。そんなに単純なことだったのか。
灰色の薄い雲の切れ間から、白い陽光が梯子となって降りそそぐ。
たぶん、桔梗が言っていたのもそういうことだったのだろう。やれやれ、とでも言いたげに小さく笑う彼の顔を思い浮かべる。確かに、とてもシンプルなことこそが答えだったようだ。
「ありがとう、蓮」
航海は穏やかに微笑んだ。
「ううん。あ、飲み物冷めちゃうね」
照れくさそうにはにかんだ蓮が、そばに置いてあった缶コーヒーを手に取る。隣で鳴ったプシュッという小気味よい音につられるように、航海もペットボトルのキャップを開ける。少しだけぬるくなっていたけれど、喉をすべっていくミルクティーはあの日飲んだココアよりも甘かった。
「ねえ、蓮。プラネタリウム、楽しかったね」
ひどく素直な気持ちで、航海はそう告げることができた。
プラネタリウムの小さな光は、ただの作られた虚像なんかじゃない。藍色の夜空にきらめくほんとうの星と、なにひとつ変わらない。
だって、そこに星を見ようとするなら、それが星になるのだから。
ここ数日、どうにも作詞がうまく進まない。ノートに言葉を書きつけてみても、まるでレプリカの宝石を身に着けているかのようにしっくりこなくて、落ち着かない気分になるのだ。
がしがしと頭を掻きながら、テーブルの上に投げだしていたスマホを手繰り寄せる。慣れた手つきで操作して、もう何度もなんども繰り返し聴いた音源をまた再生する。淀みなく流れだしたピアノの音色は、文句のつけようなんてないくらいに軽やかで澄みわたっている。アルゴナビスの曲として、そして蓮が歌う歌として相応しいとしか言いようがない。またため息がこぼれ落ちた。
書けない原因は分かっている。
今作っている新曲のテーマは「アルゴナビスらしい曲」。ここ最近、挑戦的だったり実験的だったり、そういった新しい試みを取り入れた曲を続けて発表してきたから、ここらで一度原点に立ち返ってみよう。それが、先週行われたミーティングでのメンバーの総意だった。
もちろん航海もその意見には賛成だ。上京してきてからの日も浅くまだ充分な知名度があるとは言えないので、名刺代わりになるような曲を作っておきたいという気持ちもある。
それに、シェアハウスでの共同生活によって随分と互いについて知ることができたし、それによってメンバー同士の繋がりの色合いも変わった。今ならきっと、函館にいたときとは違った「アルゴナビスらしい曲」が作れるのかもしれない。そんな、胸が沸き立つような期待と予感があるのも、嘘じゃない。
けれど、そう思うほどにペンは鈍る。
より深く知り、確固たるものを持つからこそ、それを自分が表現できるのかという不安が鈍色の雲のように重く胸に垂れ込めるのだ。それでもなんとかノートに言葉を書きつけてみるものの、「アルゴナビスらしさ」を殊更に意識して書いた歌詞はなんだか小さくまとまったつまらないものになってしまう。自分が思うアルゴナビスとは全く逆のものになってしまうのだ。まるで堂々巡り、出口のない迷路に迷い込んでしまったみたいだ。
『お前は難しく考えすぎだ。もっとシンプルに考えてみろよ』
流れるようなピアノの旋律の中に、昨日桔梗から言われた言葉が浮かび上がってくる。
考え過ぎだなんて言われても、考えないと歌詞は浮かばないのだから仕方ない。記憶の中の、何もかもを見透かしたように笑うお綺麗な顔に悪態を吐く。もちろんそれがただの八つ当たりだということは分かっているけれど。
曲を止める。途端に静寂がリビングルームを満たした。ひとりきりのシェアハウスはひどく静かで、窓の外で吹く木枯らしの音さえもはっきりと聞こえてくる。
と、そのとき、玄関のドアが開く音がした。
続いて聞こえてきた、控えめでどこかのんびりとした足音。帰ってきたのはおそらく蓮だろう。足音にすら四人の個性が表れていると知ったのも、シェアハウスで一緒に暮らし始めてからだ。
「ただいま」
リビングへと入って来た蓮は赤い鼻をしていた。幼い子どものようで、思わず頬が緩む。
「おかえり。外、寒かったでしょ。ココアでも淹れようか」
「うん。ありがとう、航海」
広げていたノートを閉じて、ラグから腰を上げる。長い時間座りっぱなしだったから腰がごきりと不気味な悲鳴を上げた。
蓮の白いマグカップにはスプーン2杯、自分の紫色のには3杯の粉を入れて、ポットのお湯を注ぐ。ふわりと立ちのぼる白い湯気と甘い香りに、沈んでいた心が少しだけ浮上する。やっぱり、物を考えるには糖分というエネルギーが必要なのだ。二つのカップをよくかき混ぜながら航海は思う。
「はい、どうぞ。熱いから気をつけて」
「うん、ありがとう」
ソファーに座る蓮にマグカップを手渡して、航海もその隣に腰掛ける。ふうふうと息を吹いて、ゆっくりマグカップに口をつける。熱い液体がとろとろと喉を落ちていく。思ったよりも甘くない。粉の分量を間違えただろうか。ちらりと隣を見ると、蓮はふわふわと顔を綻ばせながらココアをすすっていた。
「あ、そうだ」
とつぜん何かを思い出したように目を大きくした蓮は、持っていたマグカップをテーブルに置いてなにやらごそごそとリュックを漁りはじめる。どうしたのだろうと思いつつ見守っていると、彼は二枚の小さな紙きれを取り出した。
「これ、さっき商店街でもらったんだ」
「……プラネタリウムのチケット?」
手渡されたそれを見て、航海は首を傾げる。蓮が「うん」と頷いた。
「この前ライブをしたライブハウスの人が、余ってるからもしよかったらって言ってくれたんだ」
「ふうん」
チケットに書かれているプログラムには『神話から紐解く星のひみつ』とある。航海の思考を読んだみたいに、蓮が「僕たちにぴったりだよね」と笑った。
「ねえ、もしよかったら僕たちで行かない?」
幼い子どもがお菓子をねだるみたいな、おずおずと窺うような視線で蓮が言う。
確かにプログラムの内容には興味を惹かれるし、もしかしたら何か作詞のヒントになるようなものを得られるかもしれない。なにより、少し低い位置から覗きこむように見上げてくるアメジスト色を見てしまえば、断ることなんてできないのだ。
航海は苦笑交じりに頷いた。
「うん、いいよ。今週の土曜日でいい?」
「うん! 楽しみ!」
蓮もぱっと顔を輝かせた。
*
へたくそな口笛のような音を立てながら木枯らしが通り過ぎていく。灰色に淀んだ空には薄い雲が広がっていて、けれど雨にはならないらしい。引き延ばされたみたいな雲の向こうで、白く霞んだ太陽が心許なく浮かんでいる。
「プラネタリウム、楽しかったね!」
ミルクティー色の空の下で、蓮がくるりと振り返る。白いマフラーが彼の背中で揺れてはためいた。
「アルゴ船に乗ってたっていうヘラクレスの話もたくさんあったね。まさか蟹座にあんな神話があるなんて思わなかった」
きらきらと瞳を輝かせている蓮に、航海も頷き返す。
「そうだね。僕も結構星には詳しいつもりだったけど、それでも知らない話がたくさんあったよ」
けれど、と航海は胸の中で呟く。新しい発見もあったし、知らなかったことも知れた。けれど、そのなかに何か作詞のヒントになりそうなものがないかと探してみても、まるで見つからない。
暗闇の中、投影機によって映し出された小さな光たち。人間の指ひとつで簡単に消えてしまうその星たちが、今日はなんだかとても儚く思えてしまったのだ。
美しい星を模して作られた、虚像の儚い光。それは、今ノートに書きつけている言葉たちとなにが違うだろう。
おかしいな、プラネタリウムは昔から好きだったのに。
俯く航海の頬を冷たい風が撫でていく。スニーカーを履いた足元で、枯れ葉がくるくると間抜けに弧を描いた。
「……作詞のヒントにはならなかった?」
はっと顔を上げる。蓮は少しだけ眉を下げて笑っていた。
「……気づいてたんだね、最近行き詰ってること」
「今日のこと誘ったときも、テーブルの上に作詞のノートがあったから」
「それで誘ってくれたの?」
「ううん。ただ僕が航海とプラネタリウムに来たかったからだよ」
「そっか」
航海はぽりぽりと小さく頬をかいた。
「ちょっと座って話そうか」
そばにある広場の隅に置かれたベンチを示すと、蓮も「うん」と微笑んだ。
航海はミルクティーのボトル、蓮はコーヒーの缶を手の中におさめながら、揃って木のベンチに腰掛ける。尖らせすぎた鉛筆のような木の枝が頭上で乾いた音を立てている。
「ごめんね、心配かけてたかな」
航海がそう切り出すと、蓮はきょとんと首を傾げた。苦笑しつつ「作詞のこと」と付け足す。
「うーん、根を詰めすぎたり無理したりしてたら心配だけど。でも、歌詞のことは心配してないよ」
くるくると手の中の黒い缶をもてあそびながら、蓮は呟く。
「でも、今回のは本当に全然書けてないんだよ。歌詞ノートだって、書いては消しての繰り返しでただぐちゃぐちゃになるだけだし」
わきに置いてあったリュックから、使い古したノートを取り出す。ふいにインスピレーションが湧いたり言葉が降ってきたりしたときのためにいつも持ち歩いているそれは、今日はべつに持ってくる必要がなかったかもしれない。
パラパラと適当にページをめくっていると、蓮がひょいと覗き込んできた。
「ほら、真っ黒でしょ」
いちばん新しいページを開いて、笑ってみせる。びゅうと音を立てて通りすぎた風が二人の髪をふわりと揺らした。
「僕は航海の歌詞ノート、好きだよ」
言葉と二重線と書き損じの跡が溢れたページを、蓮がそっと指で撫でた。
「こんなにぐちゃぐちゃなのに?」
「うん。だってそれは、航海がそれだけアルゴナビスのことを考えてくれてるってことでしょう」
ひどく柔らかな眼差しで、蓮は告げる。
航海は思わず瞬きを繰り返した。思っても見なかった言葉に、まじまじと彼を見つめる。
「……そうなのかな。いつも自分の思うことしか書いてないような気がするけど」
それでも彼の言葉を受け止めきれなくて、航海は小さく目を伏せた。
現国の成績はそんなに良くないし、物語の作者が何を考えて書いたのかも分からない。いつだって、自分の思いしか書けない。そんな自分に、夜空に瞬く数多のきらめきをそのままのかたちで綺麗に写し取ることなんてできるのだろうか。
「うん。航海はいつも、何度もなんども歌詞を書いたり消したりして、自分の思いをもっと僕たちにぴったりの言葉で表せないかって考え続けてくれる。そうやってたくさん磨いてくれるから、航海の書く歌詞はどれもつるつるしてて優しいんだ」
言いながら、蓮はなにかを掬うみたいに、もしくは落ちてきたものを受け止めるみたいに両手を丸めてぴたりと合わせる。その両手におさまる、丸くてつるつるしていて優しいものが、自分の書く歌詞であるらしい。
普段の蓮は自分の中にある思いを言葉として構築して伝えることがあまり得意ではない。そんな彼が、今は訥々とながらもはっきりと淀みなく話してくれている。それが紛れもない本心であり、いつもそう思ってくれていることの証拠のようで、胸の奥がくすぐったくなる。航海は手の中のペットボトルをきゅ、と握りしめた。
「そうやって自分の思いを一生懸命僕の手になじむようにしてくれてるのを知ってるから、僕は航海の書く歌詞を僕自身の気持ちだと思うし、航海の書いた歌詞を歌うのが好きだよ」
まるで歌を歌うみたいな、なめらかな声だった。
「……僕は、アルゴナビスらしい歌詞を書けてるのかな」
思わずひらいた唇から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちる。
蓮は屈託なくにっこりと笑た。
「そうやってたくさん僕たちのことを考えて書いてくれている航海の歌詞が、僕たちらしくないはずがないよ」
柔らかく細められたアメジストが、まっすぐな光を宿してきらめいた。
その光がそっと優しく胸を射る。喉につかえていたものがすうっと溶かされていく。
そうか。そんなに単純なことだったのか。
灰色の薄い雲の切れ間から、白い陽光が梯子となって降りそそぐ。
たぶん、桔梗が言っていたのもそういうことだったのだろう。やれやれ、とでも言いたげに小さく笑う彼の顔を思い浮かべる。確かに、とてもシンプルなことこそが答えだったようだ。
「ありがとう、蓮」
航海は穏やかに微笑んだ。
「ううん。あ、飲み物冷めちゃうね」
照れくさそうにはにかんだ蓮が、そばに置いてあった缶コーヒーを手に取る。隣で鳴ったプシュッという小気味よい音につられるように、航海もペットボトルのキャップを開ける。少しだけぬるくなっていたけれど、喉をすべっていくミルクティーはあの日飲んだココアよりも甘かった。
「ねえ、蓮。プラネタリウム、楽しかったね」
ひどく素直な気持ちで、航海はそう告げることができた。
プラネタリウムの小さな光は、ただの作られた虚像なんかじゃない。藍色の夜空にきらめくほんとうの星と、なにひとつ変わらない。
だって、そこに星を見ようとするなら、それが星になるのだから。