CPなし小説
久しぶりに休日出勤のない土曜日だった。
昼前まで寝てすごし、空腹を感じたのでベッドから這い出して、窓から射しこむ陽光に目をしょぼつかせながら具なしのインスタントラーメンを作って食べ、あくび交じりに後片づけをして。さてこれからどうしようかと考えながらスマホを開いたところで、母親からメッセージが一件届いていたことに気が付いた。
きっといつもの近況確認だろうと思いつつ画面をタップしてチャットアプリを開くと、案の定元気にしているかだとかご飯はきちんと食べているかだとかといった、こちらを気遣うような文章が並んでいた。二、三週間に一度届くメッセージはいつも変わらない文面で、気恥ずかしいようなくすぐったさがこみ上げる。
苦笑交じりに読み進めていると、最後におまけのように付け足された文章が目に留まった。
『今日は万浬のバンドのお友達が泊まりに来てくれています。みんなはしゃいで大騒ぎです』
思わずぱちくりと目を瞬かせる。
万浬のバンドの友達。
五つ下の弟である万浬がバンドを始めたことは知っている。春過ぎに帰省したとき、本人から聞いた。彼が受験が終わるや否やどこからか父親のお古のドラムを引っ張り出して練習しだしたことも、良さげなバンドを探していることも知っていたから、やっと良いバンドを見つけたのかと安心していたのだ。
万浬の、バンドの友達。あの万浬の。
慌てて母親への返信を打ち込む。
『今から帰る。泊まるかもしれないから俺のぶんの晩飯も用意しといてくれると嬉しい』
送信ボタンをタップすると、スマホを放り出してすぐさま出掛ける準備に取り掛かる。部屋着から一応外行きの服に着替えて最低限の身だしなみを整えると、スマホと財布と車のキーだけを引っ掴んで部屋を後にした。
道中に見つけたアイスクリームショップでたくさんの味が詰め合わせになったバラエティーパックを土産に買って、家に着くころには二時を少し回っていた。
エンジンを止めると、とたんに染み入るような静寂が狭い車内を満たす。数年前に中古で購入したこの車は小さいくせにエンジン音ばかりがやたらと大きい。帰ってくるたびに妹が玄関で俺を出迎えながら「お兄ちゃんが帰って来たらすぐにわかるよ!」と誇らしげに笑うから、毎回微妙に切ないような嬉しいような複雑な気分にさせられる。
いつもなら勢揃いで出迎えてくれる弟妹たちも、今日ばかりは客人につきっきりだろうか。そんなことを考えながらなんとなく小声で「ただいま」と呟いて玄関を開ける。
けれど、予想に外れていつも通りのにぎやかな声が出迎えてくれた。
「おかえり兄ちゃん」
「おにーちゃんおかえり!」
耳に馴染んだ高い声に、思わずとろりと頬がゆるむ。
「うん、ただいま」
きゃいきゃいと歓声を上げながら飛びついてくる幼い弟と妹の小さな頭を撫でてやる。今年中学生になったばかりの弟も、飛びついてこそこないもののそわそわと浮ついた雰囲気をまとっているのが伝わってくる。可愛い弟妹たちに、溶けるように目尻が下がる。
「お土産にアイス買ってきたから、あとでおやつに食べような。冷凍庫に仕舞ってきてくれるか?」
そう言いながらカラフルな箱を妹に手渡すと、やったあと飛び跳ねた彼女は一目散にキッチンへと走る。弟二人も彼女の後を追ってバタバタと駆けて行った。にぎやかな三つの背中を、目を細めながら見送る。
そうして、残っているもう一人の弟とその友人へと視線を移した。
「久しぶり、万浬」
「もー、急に帰ってくるって言うから驚いたよ」
呆れたように唇を尖らせた万浬に苦笑を返す。それから、その隣に佇む青年に軽く会釈をする。ふわふわとした柔らかそうな癖っ毛が印象的なこの青年は、たしかボーカルだったはずだ。力強い眼差しと伸びやかな歌声でステージ上を楽しそうに跳ね回っていた姿が脳裏に蘇る。
「はじめまして。えっと、七星くんだよね」
そう言うと、彼は驚いたようにぱちぱちと瞬きを繰り返した。
「えっと、あ、はい。はじめまして」
おどおどとぎこちなく会釈を返してきた彼は、歌っているときの堂々とした様子とはだいぶ違って見えた。人見知りする性格なのだろうか。ちらりと万浬を窺うと、笑いながら小さく頷いてきた。なるほど、この姿が本当の彼なのだろう。
「兄貴、蓮くんのこと知ってたの?」
不思議そうに首を傾げる万浬に、肩をすくめてみせる。
「そりゃ、まぁな」
「ふうん?」
あいまいに笑うと、万浬は片眉を上げつつもそれ以上食い下がることはなかった。
「そうだ、今からかくれんぼするつもりなんだけど、兄貴も一緒にやるでしょ?」
万浬の問いかけに答える前に、キッチンから帰ってきた妹が「おにーちゃんも蓮くんと遊ぼー!」と腰にまとわりついてきた。そのさらさらとした頭をぽんぽんと撫でてやりながら、大きく頷く。
「うん、もちろん」
その後じゃんけんの末、鬼は万浬に決まった。
木の幹に腕をくっつけていーち、にー、と数を数える声を背中に聞きながら、弟たちの様子を窺う。弟と妹はそれぞれお気に入りの隠れ場所へと一目散に駆けていったが、七星くんはさてどうしようかといった困り顔できょろきょろと辺りを見回していた。
「七星くん」
声をかけると、彼は驚いたように肩を跳ねさせた。まるで小動物のような動きだ。
「はっ、はい!」
振り向いた彼に向かって、手招きをしてみせる。
「こっち来て。いい隠れ場所があるんだ」
「すごい!秘密基地みたい!」
はしゃいだ声を上げる七星くんに、「そうでしょ」と微笑む。
牛舎の裏手側にあるこぢんまりとした納屋のすぐ脇に、空っぽの木箱を積んである場所がある。高さは大人の腰のあたりくらいで、一見すると大の大人が隠れるには狭そうなのだが、木箱の後ろにはちょうど良く深さニ十センチ弱の窪みがぽっかりと空いている。周りには背の高い草がうっそうと生い茂って目隠しの役割を果たしている。しゃがんで息を潜めていれば、身長百八十センチをゆうに超える俺でも難なく隠れることができる。
子どものころからお気に入りの隠れ場所に、七星くんと二人並んで身を潜める。
そっと隣を窺うと、七星くんはきらきらと瞳を輝かせながらきょろきょろとあちこち眺めていた。妙に幼く見えるその仕草に弟たちの姿が重なるようで、思わず頬がゆるんでしまう。
草の青臭さと、少しカビっぽい土の匂い。社会人になってからは久しく嗅いでいなかった懐かしい香りと、いつもより低い視点のせいで、なんだか昔の思い出が陽炎のようにゆらゆらと頭の中に蘇ってくる。今より一回りも二回りも小さい弟の姿が、幻となって目の奥に映る。
違う違う。思い出に浸っている場合じゃない。ふるふると頭を振ってセピア色の思い出たちを脳裏から追い払う。こんな思い出に浸るためだけに帰ってきたわけじゃないのだ。
こほん、と一度小さく咳払いをして、それから思い切って口を開く。
「あー、その……万浬のやつ、ちゃんと馴染めてる?」
尋ねる声は、少しだけうわずって掠れていた。もっとさらりとさりげなく訊くつもりだったのに。
わざわざ同じ場所に隠れたのは、──急な帰省を決めたのは、これを尋ねるためだった。
「え?」
唐突な問いかけに驚いたのか、目の前の彼は猫のようなつり目をぱちぱちと瞬かせている。
「あー、えっと、あいつ、バンドではどんな感じかな」
分かりやすく言葉を選び直しながら、再度口を開く。なんだか声にするととたんに気恥ずかしさがこみ上げてくるような気がして、ぽりぽりと頭をかいた。
「えっと、万浬はいつも頼りになります。航海と凛生がケンカしそうになったら止めてくれるし、結人が無駄遣いしそうになったときは注意してくれるし、みんなの意見がぶつかったときには上手くまとめてくれるし」
七星くんは、訥々と、けれど指折り数えるようにとても丁寧に話してくれる。他のバンドメンバーの名前とともに語られる弟の様子に、思わずほっと息がもれた。
「そっか……やっぱり仲良くできてるんだな」
唇からぽろりとこぼれた言葉に、七星くんが不思議そうに首を傾げた。苦笑しながらひらひらと片手を振ってみせる。
「ちょっと気になってたんだ。あいつ、なかなかに難しい性格してるだろ? バンド加入した当初とか、戸惑わなかった?」
軽い調子で問いかけると、彼は「そんなこと……」と呟いたきり俯いてしまった。思い当たる節があるのだろうか。考え込むみたいに俯いてじっと黙りこくる彼は、きっと嘘のつけない性格なのだろうな、と思う。
「あいつは、器用なんだか不器用なんだか分からないヤツだからなぁ」
笑いながらこぼすと、七星くんが俯いていた顔を上げた。その紫がかった瞳を、そっと見つめる。
「例えばお土産のお菓子を分けるとき、あいつは『先に選んでいいよ』なんて言わない。一番人気がなさそうな、みんなが選ばない味を一番に取って、『俺これ好きなんだ』って笑うんだ。本当はべつに、その味が好きなわけでもないのに」
そういう、ひどく分かりにくくて複雑な性質を持っているのだ、あの弟は。昔も今も何ひとつ変わらないあいつのそんな性質を思い浮かべると、いつも胸の奥がちりちりと燻る火で焦がされるようにむずがゆくなる。
七星くんは、俺の言葉を咀嚼するようにじっと俺の目を見ていた。深度のある瞳だな、とふと思う。引き込まれそうなほど深く広い夜空のような静謐さが瞳に滲んでいる。聡明な人間の目だ。
「……わかります」
こくり、と噛みしめるように七星くんが頷く。
「万浬は、すごく優しいです」
実直な声で告げられたシンプルな言葉に、思わず頬がゆるんだ。けれど、必要以上に飾り立てられていない言葉だからこそ、それはきっと彼の本心なのだろうと信じることができる。
涼しい風が草の香りを運んで通りすぎていく。すぐ隣でふわふわと跳ねるように揺れる深い青色の髪はうちの弟たちの誰とも違っていて、それがひどく新鮮だった。
遠くから万浬の声が聞こえる。声のしたほうを指さすと、七星くんもこくりと頷いた。二人でじっと息を潜め、耳を澄ませる。
「はい、みーつけた」
「えー、来るのはやいよー」
「そりゃあ勝負だからね、やるからには全力だよ」
草の壁の向こうからさざめきのように聞こえてきた声に、二人でくすくすと笑みをこぼす。
「……万浬は自分のことをドライな性格だと思ってるみたいだけど、実際は全然そんなことないしむしろ熱いヤツなんだよな」
わかるだろう? と言うように横目で七星くんを見やれば、彼は目を細めながらまたこくりと頷いた。
「前に暑苦しいのは嫌いって言ってたけど、そんなことないって思います」
「あいつ、そんなこと言ってたのか」
驚きと呆れで思わず声が大きくなってしまった。慌てて口を手で覆う。
草の壁の向こうに万浬の足音が近づいてきていないことを確かめてから、口を開く。
「熱くなけりゃ、家のことだって簡単に諦められてただろうに」
軽く笑い飛ばそうとして、けれどそれは失敗に終わった。わずかに歪んだだけの唇と少しだけ掠れてしまった声に、隣に座るこの子は気づいたかもしれない。
正直なところ、俺はこの酪農場の再建は無理だと思っていた。
たしかにこの場所は大切で、失くしたくないかけがえのないものだ。けれど、俺が大きくなるにつれて、夜中に両親が暗い顔でぼそぼそと何か話し合っているのに気づくようになった。牛乳やバターなどの商品が売れ残るようになったのも、当たり前のように気づいていた。
高校生くらいになると酪農業自体が先細り傾向にあることも知ったし、うちのような小さな酪農場はどこも苦しい状態が続いていることだって知った。行く先の暗さを知るたびに、もうどうしようもないのだという思いがじわりじわりと両足を絡めとっていくようだった。一縷の光に手を伸ばし続けるよりも手放して諦めたほうが賢明なことは、あまりにも明白だった。
ふう、とわずかに息を吐き出す。
「俺は、家がこうなったのは仕方ないことなんだって諦めちゃってね。家を継がないで、地元の一般企業に就職して」
スニーカーのつま先についた土を指で払い落とす。少し湿った土の感触の懐かしさに、ふと胸が詰まる、気がした。弱々しく奥歯を噛みしめる。
「でも、万浬は違った。万浬は頭が良いんだから進学して好きなこと勉強しろって勧めたんだけど、結局家のためにって商学部に入って。バンドだって、家の再建のために始めて」
話しながら、つきり、とかすかながらも鋭い痛みが胸を刺すのを感じた。膝を抱えていた両手をきゅ、と握りしめる。
万浬は、この場所を諦めるつもりなんて毛頭なかったのだ。
商学部に入って、朝早くから夜遅くまでバイトに励んで、大金を稼ぐためにバンドに入って。それは全部、この家を、この酪農場を建て直すためだった。
俺よりも小さな体で、俺よりも大きなものを背負おうとしている万浬。背負うことばかりに必死で、背負われることに慣れていない万浬。
少しもどかしくて、だけどひどく眩しい弟。
風にそよいだ青い草が、Tシャツから覗く腕を撫でるようにくすぐる。土と草の匂いが入り混じった、昔と変わらない懐かしい風が二人の髪をふわりと揺らす。
「だからね」
俺は俯いていた顔を上げて、七星くんの目を見た。
「俺は、すごく嬉しいんだ。あいつが今、自分のためにバンドをしてることが」
かすかに見開かれた菫色に、そっと微笑んでみせる。
「あいつと、──万浬と一緒にバンドしてくれてありがとう」
それは心の底からの言葉だった。
分かりにくい万浬の優しさにきちんと気づいてくれている。奥に隠された熱さを認めてくれている。そして、一緒にいてくれる。
そういう人があいつのそばにいてくれたら、と。
ずっとずっと、そう思っていたから。
きらきらと降り注ぐ透明な夏の日差しのなかで、七星くんがしずかに目を伏せた。なにか考え込むみたいな、告げるべき言葉を探しているみたいな、真剣で誠実な瞳。
やがてその瞳が、つい、とこちらを向いた。まっすぐな視線が正面から俺を見る。
「万浬、この前僕が泊まりに来たとき、寝る前に教えてくれたんです。俺が大学に入れたのは兄貴がお金を工面してくれたからだって。だから俺がアルゴナビスと出逢えたのも、兄貴のおかげなんだ、って」
ふわり、と綻ぶように七星くんが笑う。
「だから、こちらこそありがとうございます」
透明に光る矢がやわらかく胸を刺すようだった。胸の奥に、心臓に、まっすぐに届くような声。
思わず息が詰まる。
……万浬のヤツ、そんなこと思ってたのか。
ツン、と鼻の奥が熱くなるのを感じて、慌てて鼻をすする。それでも胸の奥から沁み出すようにあふれてくるあたたかさを堪えられなくて、視界がじわりと滲んでしまう。緩くなってしまった涙腺に、もう年かな、なんて詮の無いことを考えて苦笑した。
「君みたいな……君たちみたいな仲間と出逢えて、万浬は幸せ者だな」
噛みしめるようにそっと告げる。滲んで揺れるきらきらした視界のなかで、七星くんはまたくすぐったそうに眉を下げて微笑んだ。
「あれっ、蓮くんと兄貴?」
唐突に頭の上から降ってきた声に顔を上げると、驚いたように間を見開いた万浬が木箱の向こうからこちらを覗きこんでいた。
「二人で隠れてたの?」
「うん。たくさん話ができて、楽しかったよ」
ひょいと立ち上がって草をかき分けながら、七星くんがにこにこと屈託なく笑う。
「えーっ、それってどんな話? まさか陰口じゃないよね?」
怪訝そうに眉をひそめてこちらを見る万浬に、口の端を持ち上げながらひらひらと手を振ってみせる。
「それはどうかな。いろいろ昔話もしたし、バンドでの様子もあんなことやらこんなことまでたくさん聞いたぞ」
にやにや笑いながらわざとからかう。そうしないと、気恥ずかしくて真正面から弟の顔が見られないのだ。
「えっ、何それ、蓮くんに変なこと話してないよね!?」
慌てて詰め寄ってくる万浬をからかいつつ制していると、横で見ていた七星くんがふふっと微笑んだ。
「万浬のお兄さんは、万浬のことがとても大事なんだね」
まるで雨上がりの澄んだ青空に指をさすみたいに、とても大切でとっておきのことのように七星くんが言う。太陽の光が溶けこんできらきらした紫色の瞳がやわらかく細められる。
その瞬間、二人の形勢がいっきに逆転した。
「え~兄貴なに話してたの、蓮くんとどんな話してたのかなぁ~」
さっきまでの焦った表情から一変してにやにやと楽しそうに顔を覗きこんでくる万浬に、今度は俺が顔をしかめる番だった。けれど不機嫌そうに眉を寄せてみたところで、きっと俺の頬は真っ赤に染まっているだろうから怖くもなんともないだろう。万浬のにやにや笑いは深まるいっぽうだ。
腕をつついてくる弟を「うるさいな、いいんだよそんなことは」とあしらっている最中も、七星くんは隣であいかわらずにこにこしている。仲良しだなぁ、とでも言いたげな、ご機嫌な表情だ。
この子には敵わないな。
無邪気な笑顔を見て、俺は眉を下げて笑みをこぼした。
その後みんなで家の中に戻り、冷凍庫にしまっていたアイスを引っ張り出しておやつの時間にする。
ポップなイラストに彩られた箱を開けると、ぶわりと立ちのぼる白いドライアイスの奥からこれまたカラフルなアイスたちが現れた。わあっと歓声を上げた弟たちの姿に思わず頬がゆるむ。どれにしようかなあ、と目を輝かせた妹たちは、けれどすぐに自分のお気に入りのフレーバーを取り出していく。
そうして箱の中に残った、三つのアイス。
「七星くん、どれがいい?」
箱を彼の方へ傾けながら促す。彼は小さく「うーん……」とうなってしばらく考えた後、どれにするか決まったようにこくりと頷いた。それから、箱の端っこにあった白いアイスを指さす。
「バニラ味、万浬好きだったよね?」
唐突な言葉に、万浬が面食らいながら「えっ、まあそうだけど……」と頷く。七星くんはにっこりと微笑んだ。
「じゃあ、これは万浬が食べて。僕はこっちのレモンにするね」
何でもないことのようにさらりと告げながら、彼はバニラのアイスをそっと差し出す。
その白いアイスは、万浬のために買ったものだ。いつも、弟たちが好きなものを食べられるようにと、自分は余りがちで人気のないものを選んでしまう万浬のために。
「……うん。ありがと、蓮くん」
ぽりぽりと頬をかきながら、くすぐったそうに万浬が笑う。
隣で見ている俺も、つい口元がゆるむ。あたたかな感情が胸の中いっぱいにじわりと広がって、あふれて、満ちていく。
「よかったな、万浬」
思わずこぼすと、万浬が照れたようにコツンと腕を殴ってきた。
*
初めて訪れたそのライブカフェは、画面越しに見たのよりもずっと広くて落ち着いた雰囲気だった。その広い空間の端々までいっぱいに満ちる音は、ひどく楽しそうで嬉しそうに弾んでいる。
うっすらと汗をかいたウーロン茶のグラスに口をつけながら、きらきらと眩い照明が照らすステージに目をやる。
にこにこと楽しそうに歌い、演奏する青年たち。ときおり、ステージの前方にいる五稜くんや的場くんが振り返り、後方の桔梗くんが目配せをし、中心で歌う七星くんが駆け寄る先には、力いっぱいにドラムを叩く万浬がいる。彼らからの視線に気づくと、万浬は少し照れたように、けれどとても嬉しそうに笑顔を弾けさせる。
万浬がそこにいると確かめるように。自分がここにいると確かめるように。そうして五人で音を重ねていく姿は、ひどく輝いて見えた。思わずそっと目を細める。
さっき挨拶しにきてくれたとき、リーダーの五稜くんは「はじめまして!」と言ってくれたけれど、実ははじめましてではない。この前一緒にかくれんぼをした七星くんはもちろん、他のメンバーのことも俺は知っていた。
俺は、もう何度もこうして五人が演奏している姿を見ている。もう何度も、彼らがライブしている姿を見ているのだ。
恥ずかしいとか集中できなくなるとか、万浬はそんな理由を並べて俺たち家族をライブに来させないようにしていたけれど、本当の理由はおおかた「家族から金は取れないから」といったところだろう。頼るのが苦手な、水臭いやつなのだ。
シャンシャンッ、とハリのあるシンバルの音が響き渡る。ステージに目を向ければ、四人に見守られながら子どもの頃のようなまっさらな笑顔でスティックを振り回す万浬の姿が目に入った。ステージの底に響く力強いドラムの音は他の楽器を支え、そして他の楽器に支えられている。音楽のことは詳しくないから分からないけれど、彼らの演奏を聴いているとなんだかそんな感じがした。
もうきっと大丈夫だ。何が起ころうと、あの四人がいるならきっと万浬は大丈夫だ。
あたたかで透明に澄み切った安心感を胸に滲ませながら、俺はそっと目を閉じて彼らの奏でる音楽へと身をゆだねた。