CPなし小説
「すごい、こんなところにピアノがあるんだね」
きらきらと瞳を輝かせる蓮に、凛生はそっとわずかに頬を緩めた。声を弾ませて一目散に古いピアノに駆け寄っていく蓮の様子はまるで仔犬のようだ。
大学の、あまり使われない校舎の片隅に忘れ去られたようにぽつんと存在している談話室。どこか埃っぽい匂いのするそこには、今は凛生と蓮の二人だけしかいない。
木曜日の三限目。週も半ばを過ぎた日の昼下がりはいつも、気の抜けたような緩やかな時間が流れる。取っている授業が急に休講になった凛生は、ぽっかりとあいた空白の時間を埋める術を持たずに暇を持て余していた。とりあえず学内のマルシェにでも行こうかとキャンパスをぶらついていたとき、ちょうど蓮と鉢合わせたのだ。
この時間はいつも結人とカラオケに出掛けているはずの蓮が大学内にいることを不思議に思ったが、聞けば、あいにく結人は次の授業でグループ発表があるとかでその準備に追われているのだという。
「結人、大変そうだし仕方ないよね」と話す蓮の瞳には、隠しきれない熱がうっすらと滲んでいた。凛生は思わず苦笑をもらす。彼の歌バカとさえ称されるほどに熱く滾る歌への情熱は、これまでの付き合いのなかでよく理解しているつもりだ。
「歌いたいんだろう。いい場所を知っているんだ」
そう告げると、案の定蓮はその菫色の瞳をきらきらと輝かせた。
そうして蓮を連れてきたのは、この静かな談話室。
「ここの校舎はあまり来ないから、談話室があるなんて知らなかった」
物珍しそうな、どこか感心したみたいな声で彼が呟く。
「ここは、俺が五陵に勧誘された場所だ」
「えっ、そうなの?」
目を丸くして振り返った彼に、こくりと頷いてみせる。
「ああ。ここでピアノを弾いていたとき、突然五陵が声をかけてきた。これは運命に違いない、俺達とバンドを組まないか、ってな」
「結人らしいね」
くすくすと笑いながら蓮がそっとピアノに触れた。やわらかく、大事なものに触れるみたいな繊細な指先の動きに、なぜか胸の奥がこそばゆくなった気がした。凛生はこほん、小さく咳ばらいをして、それからピアノの前に置かれた木の椅子を引き出し腰掛ける。
目の前の、うっすらと白く埃をかぶった鍵盤に指を置く。ポーン……と響いた音は相変わらずわずかに調律が乱れていて、けれどまあ歌えないほどではない。指ならしに適当なメロディーを奏でてみても、大きく支障が出そうな箇所は見当たらなかった。
「さあ、何から歌うか?」
ピアノの脇に立つ蓮へと問いかけるような視線を向ける。
少し考え込むように目を伏せた彼は、それでもすぐに顔を上げて口を開いた。
「じゃあ、『星がはじまる』」
「任せろ」
蓮と目を合わせ、呼吸を合わせて、歌い出した彼に合わせて鍵盤の上に指をはしらせる。弾むように、流れるように。リズミカルに奏でる音に、洞々たる広大な宇宙でちらちらと光を放つ無数の星々をイメージする。そんなかすかな輝きたちを繋いで織ってひとつの波にした凛生の音にのって、蓮の青く透き通った歌が響く。
ライブだと歌う後ろ姿を見ていることが多いから、こうしてすぐ隣から歌声が響いていることが新鮮だった。時折タイミングを計るために目を合わせると、蓮は毎回顔いっぱいで楽しさを表現するようににっこりと笑う。まるで星の瞬きのようだと思った。つられるように、凛生も微笑みをこぼす。
まばゆい一筋の星の光をなぞるように、ふたりは音に歌を重ねてゆく。
「やっぱり凛生の作る曲はすごいね」
歌い終わり、最後の一音が宙に溶けて消えたあと、蓮が噛みしめるように呟いた。凛生はピアノから手を下ろしながら小さく肩をすくめてみせる。
「そうか?」
「うん。それに凛生のピアノの音もすごい。自分の中の本気を引き出してくれるみたい。すごく、熱くなれる音だ」
真っ直ぐな瞳で告げられた言葉。思わず一瞬、息がとまる。
凛生はすぐ隣に立つ蓮を見上げた。じっとこちらを見つめる菫色に瞳には相変わらず澄みわたった光が宿っている。
そうだ。彼はいつも、本当に心にある言葉しか声にしない。歌も、思いも、彼の唇から紡がれる音はいつも彼の本心に他ならない。
ふ、と小さな吐息がもれた。ちりちりと胸の端が焦げつくような感覚を覚えつつ、凛生はゆっくりと口を開く。
「──曲を作るとき、いつも考えてるんだ。的場ならどんな言葉を書くのか、七星ならどんなふうに歌うか、ってな」
「うん」
「だから、俺の作る曲が熱いなら、それはお前たちがくれた熱だ」
瞳を見つめながら告げて、それから小さく微笑んでみせる。
「ありがとう、凛生」
同じように、蓮も嬉しそうに少しくすぐったそうにはにかんだ。
「まだまだ歌えるな。次は何がいい?」
尋ねてみたものの、返ってくるであろう答えは分かっていた。
「『ゴールライン』がいい!」
「だろうと思ったよ」
力強く返された予想どおりの答えに、凛生は満足そうに大きく頷いた。
いちばん始めの一フレーズを、蓮は高らかに歌い上げる。その瞬間、あの日七星に渡された的場の歌詞ノートと、そこに書き連ねられた文字を読んだときに感じた焦げつくような熱がまざまざと脳裏に蘇ってくる。あのときはまだ小さくて燻るようだった火種は、今ではもう胸を焦がすほど鮮烈で眩いものになってしまった。
伸びやかに楽しそうに響く蓮の歌声とともにピアノを弾きながら、凛生は悟る。
この場所に彼を連れて来たのは、彼の「歌いたい」に応えたいなんていうのはきっと建前に過ぎず、本当は自分がこの場所で彼と歌いたかったからなのだろう。
今度はアルゴナビスのメンバー全員を連れて来ようか。きっと、今以上に熱い音を響かせられるはずだ。
胸に芽生えた企みに、凛生はそっと口元を緩めた。