CPなし小説
月の見えない夜だった。
窓の向こうの空は深い藍色に沈んでいて、だからといって星がきれいに見えるわけでもなかった。ベッドから見える東京の空はちょっとだけ明るすぎる。
いつもなら十時になったら望む望まないにかかわらずすぐにやって来る睡魔は、今日はなかなか来てくれない。ベッドのヘッドボードに置いた時計はもうすぐ日付が変わると知らせているのに。投げ出していた脚をきゅ、と引き寄せて抱えこむ。
なんでこんなに眠れないんだろう。やけに冴えた頭で考えてみる。いや、ほんとうは考えなくたってわかっている。なんとなく胸に漂っている、灰色の雨雲のようなもやもやのせいだ。なんだかよくわからない、言いようのない気持ち。輪郭のつかめないそのもどかしい気持ちから沁みだすつめたさのせいで、布団をかぶってもまぶたを閉じてもなかなか眠れない。
明日も一限から授業があるのに。憂鬱な気分になる。こういうときはいつも小さな声で歌って眠気が訪れるまでの時間をやりすごしていたけれど、みんなとシェアハウスしている今はきっと迷惑をかけてしまうからそんなことできないし。思わずちいさなため息がこぼれた。
そのとき、コンコン、と控えめな音がドアを叩いた。
「蓮、起きてる?」
吐息のような、それでもはっきりとした声が呼ぶ。
「うん、起きてるよ」
体を起こして声を返すと、そっとドアが開いた。ノートを抱えた航海が、しずかに部屋に入ってくる。
「歌詞を考えてたんだけど、すこし行き詰っちゃって」
はにかむように笑った航海が「となり、いい?」と尋ねて、「うん、いいよ」とうなずく。ふたりぶんの重みに耐えかねるみたいに、ベッドがギシリと鳴った。
「綺麗で、心が落ち着くような言葉がほしいんだ。たとえば、銀色の星が小さく瞬く夜空をイメージしたみたいな」
ノートを広げながら航海が言う。開かれたページはまっさらだった。
「うまくできるかわからないよ」
「いいよ。蓮の言葉がききたいんだ。ほら、綺麗で、安心する情景を思い浮かべて」
そう言った航海の声は、やわらかな、春の夜の風のようだった。つられるように、言われるがままに頭の中にしずかな夜空をイメージする。深い海のような色の空、砂粒のように輝く星々、しんとした澄んだ空気。思い浮かべたそれをひとつずつ言葉にして、航海につたえていく。となりでじっときいてくれる航海はときどき「うん」とちいさくうなずいてくれて、その響きがあまりにやさしいから、なんだかゆっくりと体から力がぬけてしまう。
頭の中にしずかできらきらした景色がひろがっていくにつれて、心が穏やかに凪いでいく。灰色の雨雲はいつのまにか消えていた。胸の中に浮かび上がるのは、雨があがったばかりみたいな清々しい満点の星空。その星のひとつになるように、深い藍色に落ちていく感覚。
「蓮、眠い?」
ていねいに確かめるみたいに、航海が尋ねる。うなずこうとした頭はかくんと落ちた。となりでふふ、とかすかに笑う気配がした。
「ありがとう、付き合ってくれて」
ぱた、と静かにノートを閉じながら航海が言う。
「それじゃ、おやすみ」
「うん、おやすみ」
返した言葉はほとんど夢うつつで、たぶんまともに言葉になっていなかったけれど、それでも航海は受け取った証のようにうなずいてくれた。
ドアが閉じられても、藍色の夜空は消えなかった。もういちど、空へ落ちるようにベッドへ横になる。さらりとしたシーツが気持ちよくて、澄んだ夜の空気に似合っていた。
航海がひろげてくれたしずかな夜空のふちをうつらうつらと漂いながら、ふわふわした頭の隅っこで考える。航海は歌詞を考えたいからと言っていたけれど、きっとこの部屋をおとずれた理由はもっとほかのところにあったはずだ。だって、彼の手元に広げられたノートはきれいな白色をしていた。
ふふ、とちいさな笑みが口もとに浮かぶ。そっと目を閉じる。航海がひろげてくれた綺麗でおだやかな星空へ、ゆっくりゆっくりと落ちていく。きっともう、ぐっすり眠れる。
彼が眠れない僕のためにこの部屋にきてくれたことを、ほんとうは知っていた。